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2022年のカタールワールドカップに向けて発表されたこのモデルのコンセプトはORIGAMI。一目見た時から日本っぽくありながら、和を強調しすぎないかっこいいデザインだなと一目惚れ。最初から良い印象を待つユニフォームは珍しいのですが、カタールワールドカップで日本代表がドイツやスペインを破る大活躍を見せたことで、よりかっこ良さが増しました。私がカタールに到着したのはグループリーグ第1戦のドイツ戦の直後だったので、このユニフォームを着てドーハの街中を歩くと、日本すげーな!と声をかけまくられ、誇らしかったのを覚えています。adidas2022-23 Japan#Japan #jfa #daihyo#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.11.21
東京2020オリンピックという国を挙げての大イベントに向けて発表されたこのユニフォームのコンセプトは「日本晴れ」だそうです。雲ひとつない晴天のことを「日本晴れ」というのかと思っていたのですが、なぜかこのユニフォームにはたくさんの雲がデザインされています。個人的には、2019年12月に韓国の釜山で行われたE-1選手権が思い出されます。いつかACLに出場するジェフに連れて行ってもらおうと、それまであえて行くことを避けていた韓国でしたが、そろそろ我慢ができなくなり、日本代表となでしこジャパンを応援しにこのユニフォームを着て初訪韓したのでした。その後2020年に入ると新型コロナウイルス感染症が世界的大流行し、スポーツの大会は軒並み中止、もしくは延期になりました。東京2020オリンピックは、1年遅れて2021年に開催されました。カシマスタジアムでの男子サッカー準々決勝のチケットが当選していたのですが、無観客試合となったので観に行けませんでした。結果的に日本 vs ニュージーランドの試合になったので、余計に心残りです。adidas2020-21 Japan#Japan #jfa #daihyo#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.11.08
2018年ロシアワールドカップの時の日本代表ユニフォーム。アディダスによるとそのコンセプトは、戦国武将が鎧下に使った藍染めの着物の生地の色、「勝色(かちいろ)」とのこと。開幕2ヶ月前にハリルホジッチ監督を電撃解任し、急遽、西野体制で臨んだロシアワールドカップ。準備期間のあまりの短さに、どうなることやらと思いましたが、グループリーグを1勝1分1敗で通過し、ラウンド16では優勝候補のベルギーから一旦は2点のリードを奪うなどの躍進を見せてくれた日本代表でした。個人的にも開幕2ヶ月前に突然現地観戦したくなって、リセールのチケットをなんとか確保し、有効期限が切れていたパスポートを更新して、臨んだロシアワールドカップでした。(2018.6.23 エカテリンブルク市内散策)「ロストフの悲劇」は帰国後のテレビ観戦でしたが、「15分間のパス回し」はこの目で見てました。笑2006年のドイツワールドカップ以来の12年ぶりの海外旅行だったということもあり、ロシアでは楽しい思い出をたくさん作ることができました。そしてその勢いで、翌2019年にはアラブ首長国連邦(UAE)で開催されたアジアカップも現地観戦!(2019.1.9 いざアブダビ!)初めての中東でのサッカー観戦は戸惑うことも多かったのですが、イスラム文化の美しさに触れたり、砂漠やオアシスなどこれまで見たこともない景色を見ることができたり、とても刺激的な旅でした。そんな訳で個人的にもいろんな思い出が詰まっているこのユニフォームです。adidas2018-19 Japan#Japan #jfa #daihyo#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.11.01
2017年6月7日のキリンチャレンジカップ2017、シリア戦のみで着用された限定ユニフォーム。フランスワールドカップ最終予選のプレーオフを突破し、念願のワールドカップ初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」からの20年周年を記念して1試合限定で着用されました。でも炎のデザインは、予選時のものより、本大会時のモデルに近い気が・・・。2万枚限定発売だったのですが、だいぶ経ってから幕張のアウトレットで安く売っていたので購入しました。adidas2017 JapanFIFA World Cup Qualifier 20th Anniversary Memorial Shirt#Japan #jfa #daihyo#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.10.30
ザッケローニ監督との幸せな4年間(ブラジルワールドカップの結果は除く)が終わると、日本代表の指揮官はメキシコ人のアギーレへと変わりました。しかし、1年も経たずにボスニア・ヘルツェゴヴィナ出身ののハリルホジッチへと政権交代。やはりこのユニフォームで思い出すのは、ハリルホジッチ体制で臨んだロシアワールドカップアジア最終予選です。初戦を落としたチームが予選を通過した前例がなかったアジア最終予選で、日本はその初戦のUAE戦、しかもホームゲームを落とすという最悪のスタートを切ったのでした。結果的に6大会連続出場を果たしたとはいえ、初戦敗戦の衝撃は忘れようにも忘れられません。さて、このユニフォームは日本代表のオフィシャルパートナー、キリンの懸賞で当選した香川真司のサイン入りです。以前、同じく懸賞で三都主アレサンドロのサイン入りユニフォームが当たったことがあるのですが、スタジアムで何回か着て、洗濯していたら、白ペンで書かれていたサインがほぼ消えてしまったことがありました。なので、このユニフォームは1度も着用せずに、大事にしまっています。そういえば、香川がマンチェスターユナイテッドにいた2013年、都内で開催されたファン向けのイベントに参加したことがあって、すぐ前の席の方がサイン入りのマンUのユニフォームを当て、香川本人から手渡されてて、いいなぁと思ったのを覚えています。adidas2016-17 JapanAutographed by KAGAWA Shinji, a formar Japan international.#Japan #jfa #daihyo#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.10.15
2014年ブラジルワールドカップに向けた日本代表のユニフォームのセカンドモデルは、なんと蛍光イエロー。アディダスは当時、「開催国ブラジルのカラーであるイエローを全面にあしらうことで、開催国ブラジルの人々にも日本代表を応援してほしいとの思いを表現」したと説明していました。でも残念ながらブラジルワールドカップでは、この蛍光イエローのユニフォームが着用される機会はありませんでした。また、ブラジル代表をイメージしているのであれば蛍光色である必要はないわけで、ちょうどその頃、バルセロナも蛍光イエローのユニフォームを発表してましたから、流行りのカラーだったのかなとも思っています。いずれにせよ、1stモデルと同様にかっこいいので、その後長い間、個人的にフットサルでこのユニフォームを愛用させてもらっていました。adidas2014-15 Japan 2nd#Japan #jfa #daihyo#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.10.08
イマイチなデザインが3代続いた日本代表のユニフォーム、2014年ブラジルワールドカップに向けた新ユニフォームの発表にも正直期待してませんでしたが、いきなりかっこいいのが来ました!ライジングサンがテーマかと思いきや、背中の蛍光色のラインが円陣を組んだ時に大きな輪になるという「円陣」がテーマだそうです。2011年にカタールで開催されたアジアカップで優勝、親善試合ながら韓国に圧勝し、アウェイでフランスやベルギーを破るなどの結果を残してきたザッケローニ監督。ブラジルワールドカップに向けてザッケローニ監督が日本代表を率いた2010年から2014年までの間は、サポーターにもメディアにも支持され続けた日本代表の歴史の中でも稀に見る幸せな4年間だったのではないかと思っています。だからこそなんですけど、ブラジルワールドカップでのグループリーグ敗退は残念で仕方ありませんでした。ワールドカップで結果が出せないと、そこまでの4年間の道のりも評価に値しないものとされてしまうのは今でも違和感を感じざるを得ません。とにかくこのユニフォームはかっこいいです!adidas2014-15 Japan#Japan #jfa #daihyo#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.09.28
前年2011年の女子ワールドカップで優勝し、王者として2012年ロンドンオリンピックに臨んだなでしこジャパン。決勝は前年のワールドカップと同じアメリカとの対戦になり、惜しくも敗れてしまったものの銀メダルという快挙を果たしたのでした。それまで男子日本代表と同じモデルのユニフォームを着用していたなでしこジャパンですが、このモデルのひとつ前の2010年から、基本部分は同じながら男子ユニフォームの赤色の部分をピンクに変えたモデルを着用するようになりました。オリンピック用のユニフォームは、アディダスの象徴のスリーストライプが外され、胸のJFAのバッジが日の丸に代えられているのが特徴です。また、この時期のなでしこジャパンの通常モデルのユニフォームにはワールドカップ王者のバッジが付いてましたが、オリンピック用には付いていません。実は私、なでしこジャパンが優勝した2011年ワールドカップはほとんど見ておらず、その後、世の中がなでしこフィーバーに沸き、知人からなでしこリーグを観に行こうと誘われても断っていたくらいに冷めてました。そんな私が初めて女子サッカーをちゃんと見たのが、この2012年ロンドンオリンピックでした。ノックアウトステージ初戦を有利な対戦カードにするために、グループリーグ最終戦でわざと引き分けを狙った佐々木則夫監督の戦い方は物議を醸しましたが、さすが王者、男子と違って余裕あるなと感心したのを覚えています。adidas2012 Nadeshiko Japan, Japan women's national team, for London Olympics 2012#Japan #jfa #daihyo#Nadeshiko#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.09.26
2010-11の"よだれ掛け"よりはマシですが、なんだか体操服みたいなデザインのユニフォームです。テーマの「結束の一本線」もよく分からないし。さいたまスタジアム2002にブラジルワールドカップ予選を観に行ったのですが、浦和美園駅からの路上でこのユニフォームのニセモノを売ってる露店がいくつも出ていて、活況を呈してしたのを記憶しています。adidas2012-13 Japan#Japan #jfa #daihyo#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.09.06
前にも書きましたが、日本代表の新しいユニフォームが発表されると、大抵の場合は違和感があってカッコ悪いと感じてしまうのですが、そのユニフォームを着用した大会でいい成績を収めると、なんだかかっこよく見えてくるものです。ベスト16に進出した2010年南アフリカワールドカップで着用されたこのモデルも、その論理でいくとかっこよくなるはずなのですが、やっぱりヘンです。「革命に導く羽」というテーマに沿った羽の透かしはかっこいいのに、その上の赤い部分がよだれ掛けに見えてどうしても慣れません。1998年から3大会連続で現地観戦していたのに、南アフリカには行けなかったので思い入れがないだけかもしれませんが。adidas2010-11 Japan#Japan #jfa #daihyo#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.09.05
大抵、日本代表ユニフォームは新しいモデルが発表されると違和感があり、なんだかかっこ悪いという印象を持ってしまうんですが、大きな大会で良い成績を収めたり、好きな選手がそのユニフォームを着て活躍したりするとだんだん見慣れてきて、かっこよく思えてくるものです。でもこのモデルは大きな大会とも、個人的に好きな選手とも縁のなかったモデルでした。というのも、それまでワールドカップの2年後に開催されていたアジアカップが、夏季オリンピックやEUROとの開催時期の重複を避けるためにワールドカップの1年後に開催されるようになり、アジアカップはこのモデルの発表前の2007年に開催され、その時は前年の2006年ドイツワールドカップと同じモデルのユニフォームが着用されました。また、2008年に開催された北京オリンピックでも、オリンピック憲章の商標やエンブレムの仕様規定の適用が厳しくなったため、このモデルを基調にしながらも、adidasの象徴であるスリーストライプスが取り除かれ、JFAのエンブレムが日の丸ワッペンに変更された五輪モデルのユニフォームが採用されました。さらに、2007年11月にオシム監督が脳梗塞に倒れ、後任に岡田監督が就任してからは、巻以外のジェフの選手は次第に代表に呼ばれなくなってきてしまっていました。そんなわけで、個人的には歴代の日本代表のユニフォームの中でも正直に言って印象の薄いモデルです。サインは、ジェフ千葉の練習場のユナイテッドパークで、森本 貴幸からいただきました。まだ中学生だった2004年にJリーグデビュー、2006年にはイタリアのセリエA、カターニアに移籍するなど「怪物くん」の異名を取った森本でしたが、先ほど調べてみたら、日本代表デビューは2009年10月のキリンチャレンジカップ2009でした。ちょっと意外。adidas2008-09 JapanAutographed by MORIMOTO Takayuki, a former Japan international, played for JEF United from Aug. 2013 to 2015.#Japan #jfa #daihyo#jefunited #JLeague#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.02.18
2006年のドイツワールドカップ後、日本代表は当時ジェフ千葉の監督だったオシムを監督に迎えます。その就任の経緯に、いまだにいろいろな思いを持つ人も多いかと思いますが、オファーを受け入れたのはオシム監督自身だということは忘れてはいけないことだと思っています。2010年の南アフリカワールドカップに向けて発進したオシムジャパンですが、2007年11月にオシム監督が脳梗塞で倒れ、その完成形を観ることは叶いませんでした。ジェフ千葉からも多くの代表選手が選出されていたオシムジャパンですが、私は一度もスタジアムで生観戦しないままでした。当時の気持ちはよく覚えてないのですが、やはり何気に監督就任の経緯が引っかかってたんでしょうか?オシムの日本代表監督時代のトピックスの一つに、佐藤 勇人・寿人兄弟の同時出場があります。2006年8月16日に新潟で行われたアジアカップ予選のイエメン戦で、日本サッカー史上初となる双子選手の国際Aマッチ同時出場が実現しています。サインは寿人が15年ぶりにジェフに復帰した2019シーズンに、ジェフ千葉の練習場、ユナイテッドパークで2人からいただきました。佐藤 勇人佐藤 寿人adidas2006-07 JapanAutographed by SATO Yuto & Hisato, the formar Japan international twins.Yuto played for JEF United from 2000 to 2007 & 2010 to 2019, & Hisato did from 2000 to 2003 & 2019 to 2020.#Japan #jfa #daihyo#jefunited #JLeague#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.01.26
2002年から2モデル連続で圧着プリントになっていたJFA(日本サッカー協会)のバッジ(エンブレム)やadidasのスリーストライプスが、このモデルでは刺繍に戻りました。レプリカモデルに耐久性が確保されたのは嬉しい限りです。女子日本代表の「なでしこジャパン」という愛称が定着しつつあったこともあり、この頃からJFAが男子日本代表のことを「SAMURAI BLUE」と呼び始めたのではないかと思います。でもこれまで、日本サポーターが自分たちの代表のことを「SAMURAI BLUE」と言っているのを聞いたことはなく、私も言ったことがありません。もっぱらJFA関係者の専門用語なのではないかと思ってしまうくらいに定着してない感が半端ないです。たまに外国で「SAMURAI BLUE!」と声をかけられることはありますが。その「SAMURAI BLUE」にちなんだのか、このモデルは日本刀の刃文をイメージさせるデザインになっています。個人的には歴代の日本代表のユニフォームの中でもかっこいいデザインだと思っています。このモデルで思い出すのは、なんと言っても2006年のドイツワールドカップ!ジェフからも巻誠一郎がサプライズ選出されて、マスコミを賑わしました。ジェフサポーターも巻の選出に躍りまくり、私もその勢いでドイツまで行ってしまったクチです。現地で観戦した日本の試合は、緒戦のオーストラリア戦(1ー3で逆転負け。泣)だけだったので、残念ながらワールドカップでの巻のプレーを見ることはできませんでしたが。サインは、ジェフの練習場があったフットパーク姉崎で、巻からいただいたものです。ドイツ大会で付けていた「11」を添えてもらっています。現地観戦の思い出とジェフのレジェンドである巻誠一郎へのリスペクトの詰まった大切なユニフォームです。ちなみにドイツ大会後、観戦記をブログに書き始めたのですが、16年以上経った今もまだ書き終えていません。(2007.09.29〜 ドイツW杯旅行記)書き上がる日は来るのでしょうか?苦笑adidas2006-07 JapanAutographed by MAKI Seiichiro, a formar Japan international, played for JEF United from 2003 to Jul. 2010.#Japan #jfa #daihyo#jefunited #JLeague#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2024.01.15
このモデルでまず思い出すのは、2004年7月末から中国で開催されたアジアカップです。特に準々決勝のヨルダンとのPK戦はもはや伝説。職場での飲み会が終わってから駆け込んだ六本木のパブで、モニターに釘づけになりながら一喜一憂していたのを覚えています。もう一つ思い出すのは、同年8月のアテネオリンピック。阿部ちゃんことジェフのキャプテン阿部勇樹が主力として出場していたので、こちらもテレビの前で熱く応援していました。でもアテナオリンピックに関していえば、本大会よりもアジア最終予選の方が印象に残っています。選手の体調不良などのアクシデントが続出したUAEラウンドでしたが、阿部ちゃんと大久保嘉人は怪我のため幸か不幸か参加できず。続く日本ラウンドで、コンディションの良い阿部ちゃんと大久保が大活躍し、日本はアトランタ、シドニーに続く3大会連続出場を決めたのでした。日本ラウンドは、この頃の勤務先の近くのテレビ朝日社屋内に設置された特設パブリックビューイング会場に通って応援していました。このユニフォームは、某大手スポーツショップのプレゼント企画に当選していただいたのですが、実は三都主アレサンドロのサイン入りでした。ところが、日本代表の応援で数回着用していたら、白い油性ペンで書かれていた三都主のサインは、悲しいことに洗濯でほとんど消えてしまいました。よく見ると、まだ三都主のサインの跡を若干確認できます。その後、ジェフの練習場があったフットパーク姉崎で阿部ちゃんからいただいたのが、黒い油性ペンで書かれているサインです。すっかり浦和の人になってしまった阿部ちゃんですが、いつかジェフで監督を、などと密かに思っています。それにしても阿部ちゃんはいくつになっても「阿部ちゃん」ですね。笑adidas2004-05 JapanAutographed by ABE Yuki, a formar Japan international, played for JEF United from 1998 to 2006.#Japan #jfa #daihyo#jefunited #JLeague#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2023.12.29
2002年日韓ワールドカップの日本代表ユニフォームは、東アジアの夏特有の高温多湿対策でオーセンティックモデルはメッシュ地のインナーが一体となった二重構造になっていましたが、その他にも大きく改善(改悪?)されたのがユニフォームの軽量化でした。軽量化の一つが、これまで刺繍されていたJFA(日本サッカー協会)のバッジ(エンブレム)やadidasのスリーストライプスの圧着プリント化です。圧着プリントだと雨や汗を吸って重くなることはないので、選手のプレーの質の向上には貢献していたのではないかと思います。でも、選手用のオーセンティックモデルだけでなく、サポーター用に大量生産されるレプリカモデルも圧着プリントにしたのはいかがなものだったのか。圧着プリントのバッジやスリーストライプスは、何回か洗濯を繰り返すと剥がれ落ちてしまう耐久性の悪さでした。私自身、このモデルのユニフォームを試合観戦やフットサルで着て、その都度洗濯していたら、バッジやスリーストライプスがぼろぼろに剥がれ落ち、ほぼ無地にさせてしまった経験があります。実はこの2002モデルの日本代表ユニフォームは、海外市場向けにイギリスでも製造されていたようです。おそらく日本代表ユニフォームが海外向けに製造・販売されたのはこれが初めてなのではないかと思います。当時、青山にあったインポートユニフォームを取り扱っていた店でそのイギリス製ユニフォームが日本製の1.5倍くらいの価格で売られていたのを見かけた記憶があります。その時は日本代表も海外で発売されるくらいに認知されてきたのかと感慨深いだけだったのですが、前段の圧着プリントのユニフォームをダメにしてしまった頃から、自分自身の保存用にこの海外向けユニフォームを探すようになりました。というのはイギリス製ユニフォームは、日本製のものと異なり、バッジやスリーストライプスが刺繍になっていて、耐久性に優れていたからです。日韓ワールドカップから約1年半後の2023年12月、ロンドンに行く機会があり、スポーツ店やサッカーシャツの古着を扱っているお店を見て回ったことがありますが、見つけることはできませんでした。冷静に考えればイギリスで製造されていたとはいえ、当時はたかがワールドカップに2回出場しただけ、開催国だから作ってみましたくらいなものなので、流通枚数は非常に少なかったのでしょう。そうこうしているうちに十数年が経ってしまったのですが、ネットオークションで偶然見つけ、手に入れることができました。サインは、日韓大会のヒーローのひとり、稲本潤一のもの。今年(2023年)、関東サッカーリーグ1部の南葛SCの試合後のファンサービスでいただきました。(2023.10.04 稲本潤一選手のサイン!〜南葛SC vs 流通経済大学ドラゴンズ龍ケ崎)日韓大会では3試合をスタジアムで観ることができたのですが、そのうち1つが横浜国際総合競技場で行われた日本のグループリーグ第2戦のロシア戦でした。稲本の2試合連続になるゴールで1ー0で勝利したこの試合は、FIFAワールドカップにおける日本の初勝利になりました。この歴史的な勝利に立ち会えたことは私の自慢です。なので、このユニフォームに稲本からサインをいただいたときはもう嬉しくて。我が家の家宝です。adidas2002-03 Japan made in UKAutographed by INAMOTO Junichi, a formar Japan international.#Japan #jfa #daihyo#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2023.12.18
鈴木隆行がジェフに在籍していた2015シーズン、大事に保管していた2002-03日本代表の2ndモデルユニフォームへ大きくサインをお願いしたところ、端っこに小さくちょこちょこっと書かれてしまい非常に残念な気持ちになりました。(2023.12.06 2002-03 日本代表 2nd(鈴木隆行サイン入り))たまたま機嫌が悪かったのか?と違う日に再び鈴木隆行に挑戦してみたのが、こちらの子供用ユニフォームです。「真ん中に大きく11番でサインください」とお願いしたのですが、再び小さくちょこちょこと書かれてしまい、この時は11番すら添えてもらえませんでした。印象の悪さだけが増してしまい、その時はサインをもらわなければよかったとさえ思ってしまいました。でも、もう一度言いますが、ロシアワールドカップの帰りにドバイでばったり出くわした時の鈴木隆行は笑顔で接してくれて、とてもいい人でした。adidas2002-03 Japan for kidsAutographed by SUZUKI Takayuki, a formar Japan international, played for JEF United from Oct. to Dec. in 1998 & 2015.#Japan #jfa #daihyo#jefunited #JLeague#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2023.12.07
日本中の大きな期待とともに開幕した2002年日韓ワールドカップ。日本の初戦は、埼玉スタジアム2002で行われたベルギー戦でした。当然日本代表はホーム用の青いユニフォームを着用すると思っていたのですが、ワールドカップの着用ユニフォームはFIFAが試合ごとに決めているらしく、自国開催の初戦ではこのセカンドユニフォームが着用されたのでした。そして、この試合で日本サポーターにとって日韓大会の最も印象的なシーンと言っても過言でないゴールが生まれました。小野伸二からのロングパスをつま先で押し込んだ鈴木隆行のあのゴールです。この試合の同点弾となっただけでなく、その後の日本代表の快進撃の狼煙をあげるものになりました。このセカンドユニフォームを見ると、この鈴木のつま先ゴールを思い出少し方も多いのでは?鈴木隆行は、翌シーズンからJリーグが2部制となることが決まっていた1998シーズンの10月、鹿島アントラーズから不調にあえぐジェフに期限付移籍で加入してきました。得点力を期待されていた当時22歳の鈴木でしたが、7試合に出場してゴールは0という結果でリーグ戦を終了しています。しかし、リーグ戦終了後に行われたJ1参入決定戦でやってくれました!市原臨海競技場で行われたアビスパ福岡との第2戦で先制ゴール!ジェフのJ1残留のヒーローとなったのでした。鈴木とジェフとの関係は、この時は約2ヶ月で終わってしまいましたが、2015シーズンに再びジェフに戻ってきて、そのシーズン終了後に現役を引退しています。日韓大会の時の背番号11を添えて書いてもらったこのサインは、2015シーズンにジェフの練習場、ユナイテッドパークでもらったものです。真ん中に大きくサインください!とお願いしたのに、端っこにちょこちょこっと書かれてしまいました。機嫌悪そうだし、愛想もなかったし、正直に言って印象悪っ!と感じてしまったのを覚えています。でも、ロシアワールドカップの帰りに寄ったアラブ首長国連邦、ドバイのショッピングモールでばったり出くわした時は、笑顔で気さくに話をしてくれて、なんていい人なんだろうと思いました。(2018.6.29「ドバイ市内散策(ドバイ・モール)」)印象が180度違った鈴木さんでした。adidas2002-03 Japan 2ndAutographed by SUZUKI Takayuki, a formar Japan international, played for JEF United from Oct. to Dec. in 1998 & 2015.#Japan #jfa #daihyo#jefunited #JLeague#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2023.12.06
史上初めてアジアで開催されることになった2002年日韓ワールドカップ。スポーツメーカー各社は東アジアの夏特有の高温多湿対策を試行錯誤したようで、adidasとNikeはオーセンティックモデルにメッシュ地のインナーが一体化した二重構造を採用しました。この日本代表のオーセンティックモデルもその二重構造になっているですが、これが非常に着にくい。乾いていればまだ良いですが、濡れてしまうとどこから頭を出せばいいのか、腕はどこに通して良いのか分からなくなるというややこしい代物でした。当時はゴール後にシャツを脱ぐ行為が警告の対象ではなかったので、汗をかいたシャツを脱いで喜びを爆発させてしまったらもう最後です。実際に私は日韓大会のカシマでのイタリア vs クロアチアで、ゴール後にシャツを脱いでしまったクロアチアの選手がシャツを着直せず、試合がなかなか再開できなくなった現場を目撃しています。笑そんなことがあってかどうかは知りませんが、ブラジル代表のある選手(リバウドだったか?)は、あえてインナーの付いていないレプリカモデルを着用していたように記憶しています。さて、このサインは2008シーズンの6月から12月まで期限付き移籍でジェフ千葉でプレーしていた戸田和幸から姉崎の練習場でいただきました。戸田といえば日韓大会本番で、髪を真っ赤に染めたモヒカンスタイルで全4試合にフル出場し、アグレッシブなプレーとともに強烈なインパクトを残しました。しかし、日本代表のデビューは2001年のコンフェデレーションズカップ、そして日韓大会のラウンド16のトルコ戦が代表最後の試合なので、意外にも日本代表として活動したのは1年間だけだったんですね。記録よりも記憶に残る選手ですね。サインをいただいた時のこともバッチリ記憶に残っています。日韓大会時の戸田の背番号が21番だったので、「サインに21番って書いてもらえますか?」とお願いしたところ、「もう21番は書かないと決めているので」と断られてしまいました。でも全く嫌な感じをさせない断り方で、そのこだわりが逆にカッコ良くて、ますますファンになってしまったのを覚えています。adidas2002-03 JapanAutographed by TODA Kazuyuki, a formar Japan international, played for JEF United from Jun. to Dec. in 2008.#Japan #jfa #daihyo#jefunited #JLeague#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2023.11.20
1999年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)ではFIFA主催大会で初の準決勝、2000年にはシドニーオリンピックでベスト8とアジアカップ優勝、翌年に日韓ワールドカップを控えた2001年はトルシエジャパンへの期待がものすごく高まっていたとともに、指揮官のエキセントリックな言動がマスコミをにぎわせていたのを覚えています。2001年で思い出すのは、ワールドカップのプレ大会として日韓で開催されたコンフェデレーションズカップです。翌年のワールドカップでは、日本人はお祭り好きなので、チケットを手に入れられるかどうか不安で、せめてコンフェデだけでもと横浜国際で行われる決勝戦のチケットを確保しました。この大会で日本代表はあれよあれよと勝ち進み、決勝戦のカードはまさかの日本 vs フランスでした(0-1でフランスが優勝)。でもこの大会は、生観戦した決勝戦より、テレビで観ていた準決勝の日本 vs オーストラリアの方が印象に残っています。大雨の中でフリーキックを決めた中田ヒデが、よっしゃー!ってやったやつです。実はこのユニフォームは、子供用です。ちょうどこの頃、阿部勇樹がトルシエジャパンの代表候補に選ばれていました。そこで、このユニフォームの背中にガムテープで「ABE」の文字を作り、息子に着せて、なぜか長野県松本のアルウィンで行われたジェフのホームゲームのFC東京戦に連れていったことは、懐かしい思い出です。adidas2001 Japan for kids#Japan #jfa #daihyo#jefunited #JLeague#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2023.11.08
ワールドカップ初出場となったフランスワールドカップの日本代表のユニフォームサプライヤーはasicsでしたが、その後は今に至るまでadidasの提供が続いています。その最初となったのが、このユニフォーム。コンセプトは「機能美」だそうです。このユニフォームでまず思い出すのは、2000年のシドニーオリンピックです。フランスワールドカップで現地観戦の味をしめた私は、現地0泊のいわゆる弾丸ツアーでグループリーグ第3戦、日本 vs ブラジルを観にオーストラリアへ飛びました。試合前夜に関空から出発し、当日朝に試合開催地のブリスベン着、試合後はスタジアムからそのまま空港へ直行して当日夜には帰国、というハードスケジュールでした。観光は午前中の数時間、街をぶらぶらしただけで、記憶に残っているのはAAA(トリプルエー)というビールが美味しかったことくらい。しかもこの試合は、シドニーオリンピックなのに試合開催地はシドニーではないというオリンピックのサッカーあるあるの地方開催。現地ブリスベンは、本当にオリンピックやってるの?というくらい落ち着きよう。スタジアムは日本のサポーターばかり。たまに黄色いブラジルのユニフォームを見かけて声をかけてみても、100%現地オーストラリアの方でした。ワールドカップのような盛り上がりを期待していた私は、すっかり肩すかしをくらったのでした。また、ブリスベンのスタジアムはサッカー専用スタジアムどころか陸上競技場ですらない、クリケット場。Aリーグが発足するのは4年後の2004年で、当時のオーストラリアではサッカーは超マイナースポーツだったらしいです。大きな円形のスタジアムの中央に無理やり作られていたサッカーのピッチは客席から遠く、スタンドの勾配も緩かったので非常に見づらかったのを覚えています。そんなこんなでサッカーはオリンピックで見るものではないと思った次第です。試合も0ー1で負け、現地観戦の印象もあまり良くなかったせいか、現地に着ていったユニフォームは、2002年の日韓ワールドカップの時にロシアサポーターとユニフォーム交換をして手放してしまいました。なので、このユニフォームは後日買い直したもの。サインは2003シーズンから2年間、ジェフに在籍していた元日本代表の望月重良からいただきました。望月は、シドニーオリンピックと同じ2000年にレバノンで開催されたアジアカップで、サウジアラビアとの決勝戦で日本を優勝に導く決勝ゴールをあげています。こちらはさすがにテレビ観戦でしたが、日本がアジアの頂点に立つ瞬間をリアルタイムで観たのは初めてだった(1992年の広島大会の時はサッカーに興味すらなかった)ので、テレビの前で盛り上がったのを覚えています。adidas2000 Japan Autographed by MOCHIZUKI Shigeyoshi, a formar Japan international, played for JEF United from 2003 to 2004.#Japan #jfa #daihyo#jefunited #JLeague#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#adidas
2023.11.02
Jリーグ開幕でサッカーに興味を持ち始めた私が初めて日本代表の試合をテレビで観たのは、1993年に行われたアメリカワールドカップアジア地区最終予選。それまでワールドカップ予選やオリンピック予選で一度も勝利したことがなかった(と言われても正直ピンときてませんでしたが)韓国戦の勝利に歓喜し、後に「ドーハの悲劇」と語り継がれることになるイラク戦であと一歩のところで突き落とされ、アジアの厳しさ、そしてサッカーの面白さを知ったのでした。ドーハの悲劇後の日本は、28年ぶり(と言われてもこれもピンときてませんでしたが)のオリンピックとなる1996年のアトランタオリンピックに出場し、さらに2002年ワールドカップの日韓共催が決定したことで、1998年フランスワールドカップへの出場の期待が否が応でも高まっていました。私が日本代表の試合を初めて生観戦したのは、その真っ只中の1997年6月22日、国立競技場で行われたフランスワールドカップアジア地区一次予選のマカオ戦(カズのダブルハットトリックや中田の2ゴールを含む10-0で日本の勝ち)。当時の職場が新宿で、仕事帰りにふらっと国立競技場に寄ってみたら、当日券が買えたので観てみたという感じでした。それに味をしめて、3日後の6月25日に同じく国立競技場で開催されたネパール戦も当日券で観戦しています(カズの2ゴールを含む3-0で日本の勝ち)。さすがに最終予選になるとそんな簡単にはチケットが手に入らず、ネット販売などなかった時代、始発でぴあの店頭に並んで取れたのは最終予選の第1戦、9月7日の国立競技場でのウズベキスタン戦のみでした(中西永輔がA代表デビュー!カズの4ゴールを含む6-3で日本の勝ち)。この最終予選観戦に当たり、初めて日本代表のユニフォームが欲しくなり、買おうか迷いました。街のスポーツショップに1〜2枚しか置かれていなかったadidasの代表ユニフォーム。確か11,000円だったかと思います。迷っているうちに売り切れてしまい、買えずじまいでした。その後、ジェットコースターのように波乱に満ちた日本の最終予選は、ジョホールバルの歓喜として語り継がれているイランとのプレーオフを制し、悲願のワールドカップ初出場の切符を掴んで終わりました。そして私はフランスへ飛ぶことを決意します。せっかく現地で応援するならと初めて買った日本代表のユニフォームが、このasicsのユニフォームでした。このユニフォームも発売開始からほんの数日で店頭からなくなってしまった記憶があります。私も何店舗ものスポーツショップに在庫の問合せをして、やっと手に入れたのでした。でも、なにせ初めてのワールドカップでしたので、現地フランスに着いてもはしゃぎ方が分かりませんでした。今なら世界中のサッカーファンとの交流を楽しむために、試合のない日でもユニフォームを着て出歩いていますが、当時は日本の試合のある日にしか着ていませんでした。今思えば、もったいない話です。サインは元祖ミスタージェフ、中西永輔さんからいただいたもので、フランスワールドカップの時の背番号19番を添えて書いてもらいました。フランスワールドカップにおける日本代表で、当時ジェフに所属していたのは永輔一人だけ(城は前年に横浜マリノスへ移籍。)。永輔を応援しにフランスに行ったと言っても過言ではないです。しかし、日本代表が史上初めてワールドカップの舞台に立った1998年6月14日、トゥールーズのスタジアムには文字が流れるだけの電光掲示板しかなく、ネットも携帯電話も普及していなかった当時、スタジアムにいた私にはスタメンが誰だか選手入場まで確認のしようがありませんでした。不安と期待が入り混じる中、ピッチに現れた日本代表に背番号19番を見つけた時、嬉しかったのと同時に、めちゃくちゃ誇らしかったのを覚えています。asics1998-1999 Japan Autographed by NAKANISHI Eisuke, a formar Japan international, played for JEF United from 1992 to 2003.#Japan #jfa #daihyo#jefunited #JLeague#footballjersey#footballshirt#soccerjersey#soccershirt#asics
2023.10.18
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