【カラーガード大好き】マイレージジャンキー 時々 「鉄」

【カラーガード大好き】マイレージジャンキー 時々 「鉄」

2005/09/13
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タガビーチを後にして、今度はブロードウェイを北上いたします。島の中ほどに帝国海軍の通信所跡が見えてまいります。

日記

日記

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頑丈に出来ているコンクリートの建物で戦後60年になるのにびくともしていない感じでした。台風の時の避難所として今でも使われているそうな…。

日記

建物の北側には夥しい弾痕がございます。トーチカとしても使われたのでしょうね。本当は中に入っていろいろ見たかったのですが、観光ツアーですので無理やり切り上げさせられます。また来ようっと。

次はNKK神社でございます。

日記

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鳥居が二つ残るだけですが、昔はここが神社だったそうな…。ちなみにNKKとは日本鋼管株式会社のことで現在のJFEスチールの前身です。

ウソです。本当は南洋興発株式会社のことだそうです。海の満鉄と言われた国策会社で南洋諸島を開拓したそうな…。

日記

神社の北側には牧場が広がっておりました。某音響メーカーの経営する牧場だそうです。続きは次回に。





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Last updated  2005/09/13 12:09:00 AM
コメント(12) | コメントを書く


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父の終戦  
maman.m  さん
滅多に戦争中のことを語らず、友との家でのお酒の席でも、歌好きだったのに、決して「同期の桜」などでは唱和しなかった父は、終戦を「南の島で迎えた」と言っていました。
どこの島だったのか、私がオトナになる前に亡くなってしまったため、何も聞けていません。
ただ、砂浜で気まぐれのような機銃掃射を受けた時に一斉に伏せて、飛行機が去ったあとにホッとして隣の友に「良かったなぁ、やられなくて」と声をかけたのに、その友は二度と起き上がらなかったと、珍しくヤケクソのように話してくれたことがありました。
確か、加藤大介とかいう昔の俳優が出ていた「南の島に雪が降る」という幻燈映画(!)を家で上映した時だったと思います。
どこの島だったのか、最近になってから、非常に気になっています。 (2005/09/13 07:18:24 AM)

戦争の話  
あやのjp  さん
こんにちわ、はじめまして。

私の祖父はギリギリ戦争に行ってしまった世代です。
私は父から、彼が小さかったとき、
疎開先での話や

祖母から、戦争が終わってすぐのことなど
色々な話を聞きました。

だんだんそういったことを体験者として語れる人が
居なくなってきますね。

この写真で、色々と考えました。 (2005/09/13 09:38:19 AM)

Re:60年目のテニアン(9) 旧大日本帝国関係(09/13)  
小学生の頃、用務員(今はそういう人いるのかしら?)のおばさんが、全校生徒を前に話したことを今も覚えています。
『私の夫は南の島で亡くなりました。後で同じ隊だった人が来て様子を聞かせてくれました。倒れて「水をくれ」「水をくれ」と言っていたが、自分のことで精一杯でそのまま置いてくるしかなかった、ということでした。皆さんにはこんな悲しい思いをしてほしくありません』 (2005/09/13 11:39:55 AM)

Re:60年目のテニアン(9) 旧大日本帝国関係(09/13)  
すばらしい写真を・・・・
どうもありがとう・・・・
また行ってみよう・・・・
テニアン・・・・・
いつの日か・・・・
山ちゃん秋空発信 (2005/09/13 12:47:45 PM)

戦争時代  
私は幸い戦争に出ることもなく、戦後の苦しい時代を味わうことなく育ちました
そのことは幸せに感じます
でも、やはり味わってないため忘れてしまうんですよね
戦争があったという事実を・・・
決して忘れてはいけないことですが、話をしてくれる人も段々減っていることも事実なのですよね
幸い私の祖父がまだまだ健康でいるので、聞こうと思えば聞けるのですが、なかなか聞きづらいのです

今度聞いてみようかな?
この写真を見て思いました (2005/09/13 05:08:35 PM)

Re:父の終戦(09/13)  
notoshun  さん
maman.mさんへ

……。戦場の兵隊さんも大変だったのです。でも、この島の可能性は低いのです。わが軍の生存者が余りに少ないのです……。犠牲者に合掌…。

日本軍が本格的な抵抗戦術を編み出すのは昭和20年4月の硫黄島の栗林中将からです。

海岸での抵抗線は米軍の艦砲射撃と空襲で完全に破壊されてしまう。従って米軍に抵抗し本土防衛体制確立の時間を稼ぐには、内陸防御と坑道戦術であるという結論に至ります。

この戦術を確立した以降の日本軍は、最終的には島を失いますが、米軍に対し甚大な損害を与えます。民間人の死傷者が余りに多いので後世批判を浴びますが、沖縄の八代大佐も米軍に甚大な被害を与えることに成功しました。

この戦術は、ベトナム解放同盟(ベトコン)に引き継がれて行きます。彼らも徹底した坑道戦術で米軍に大きな被害を与えました。

しかし、こちら側も猛烈な人的な損害を出します。硫黄島では2万柱、沖縄本島では十万以上の死者を出すことになります(沖縄本島の人口の20%以上でしょうね)。この戦術の応用発展形で米軍に勝利したベトナムは人口の25%を失います…。

アメリカ民主主義(とそれを支える報道の自由)は良いなと思うのは、こんな損害を絶対許容しないことです。死傷者が余りに多ければ、必ず議会で戦闘の必要性・戦術の妥当性が徹底的に検証されます。

そんなバランスをとる機構を現代日本は持っています(イラクで自衛隊員が100名死んだらどんな騒ぎになるでしょう)。こういう仕組みを大事にしなきゃ行けないな、と思いながら、週末は投票してきました。

我ながらコメントが重いなあ…。失礼しました。 (2005/09/13 11:21:12 PM)

Re:戦争の話(09/13)  
notoshun  さん
あやのjpさんへ

戦争の時代から60年ですよね。私の祖父も戦争に行った世代なのです。多分同じような世代なのでしょうね。

私も祖父祖母父母の話を聞いてうーん酷いと思っていたのですが、身近に戦争を感じたのはカンボジアに初めて行った時です。

言葉にならんです。最近は観光のジャマということでカンボジア政府も悲惨な戦争遺跡を続々撤去しているようですが…。

とにかく国中経験者です。タクシーの運転手からホテルのフロントから飛行機のスチュワーデスから…。会話はいつも同じ始まりです。「プノンペン陥落の時どこにいた」、「国内の収容所に居たのか、タイ国境の難民キャンプに居たのか」…。

アジアの戦火が収まって漸く20年ですね。今の繁栄が長続きすることを願ってます。
(2005/09/13 11:27:54 PM)

Re:戦争の話(09/13)  
notoshun  さん
あやのjpさんへ

戦争の時代から60年ですよね。私の祖父も戦争に行った世代なのです。多分同じような世代なのでしょうね。

私も祖父祖母父母の話を聞いてうーん酷いと思っていたのですが、身近に戦争を感じたのはカンボジアに初めて行った時です。

言葉にならんです。最近は観光のジャマということでカンボジア政府も悲惨な戦争遺跡を続々撤去しているようですが…。

とにかく国中経験者です。タクシーの運転手からホテルのフロントから飛行機のスチュワーデスから…。会話はいつも同じ始まりです。「プノンペン陥落の時どこにいた」、「国内の収容所に居たのか、タイ国境の難民キャンプに居たのか」…。

アジアの戦火が収まって漸く20年ですね。今の繁栄が長続きすることを願ってます。
(2005/09/13 11:28:25 PM)

Re[1]:60年目のテニアン(9) 旧大日本帝国関係(09/13)  
notoshun  さん
ヘリオトロープの小部屋さんへ

日本軍は補給を軽視して来たせいで、戦死率も凄いのですが戦病死率がやたらと高いのでした。その上、戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」とされ降伏を禁じられていました。その結果、無茶なことがアジア太平洋全域で生じてしまいました。

国民の命を守るために、戦争に巻き込まれることが今後無いとは言えませんが、前車の轍は避けて欲しいと思います。水が無くて死ぬなんて…、これは戦争のやり方の間違いによる死ではないのかな、と感じてしまうのです。当時の同盟国のドイツでも降伏が認められたのではないかなあ。 (2005/09/13 11:33:35 PM)

Re[1]:60年目のテニアン(9) 旧大日本帝国関係(09/13)  
notoshun  さん
山ちゃん5963さんへ

コメントありがとうございました。テニアンでも清水の作品がありました。残念ながら保存状態はあまりよくないのですが、次々回くらいにご紹介させていただきます。

戦後60年放置されて、ノーメンテで厳しい日差しとスコールに晒されつつも、主要構造物はしっかりしていました。立派な作品でした。
(2005/09/13 11:35:08 PM)

Re:戦争時代(09/13)  
notoshun  さん
マロ-アサヒさんへ

あの戦争は何だったのだろうかという疑問と、あの戦争を戦った人々はどんな気持ちで戦ったのかという疑問をいつも感じてしまいます。

知覧の特攻隊員の手記を読むと、大体の人が祖国というか家族を守るために犠牲になるという非常に純粋な気持ちで自殺攻撃に出撃しています。

参加者は大体そんな気持ちだったのかなあ、そして、敗戦・価値観の180度の転換・戦前の全否定…。戦争に参加した世代の戦後のメンタリティはどんなものだったのか、祖父祖母が生きているうちに聞いておきたかった…。

私の父は国民学校、母は小学校の世代ですので、話を聞いても子供の視点なんです。当たり前ですが。結局説教臭くなって「疎開中は物を食えなかったのに…、好き嫌いなんて許さん」とかそんな話になってしまうのですよね。

でも、話を聞けるうちに聞いておきます。 (2005/09/13 11:41:22 PM)

お返事を書いていたら…  
notoshun  さん
ブログ一回分くらいになってしまいました。長すぎですね。 (2005/09/13 11:42:23 PM)

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