【カラーガード大好き】マイレージジャンキー 時々 「鉄」

【カラーガード大好き】マイレージジャンキー 時々 「鉄」

2006/11/14
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日記

朝鮮戦争には色々な呼び方があります。それぞれの当事者の立場を表していて面白いのですが、



  北朝鮮 祖国解放戦争
  中国 抗美援朝
  日本 朝鮮戦争


とまあこんな感じです。アメリカにとっては普通の戦争、韓国にとっては共産主義の大国中国が朝鮮半島に介入した動乱、北朝鮮にとっては防衛戦争(ただし後半だけです、前半は南の軍事的占領を狙った統一戦争でした)、中国にとっては隣国を支援してアメリカ帝国主義に抵抗した戦争、そして日本にとっては特需をもたらした外国の戦争でした。

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朝鮮戦争は1951年6月25日午前4時、労農赤軍自動車化狙撃師団(ロシア語の語彙の問題から機械化歩兵師団を何故かこう呼びます)を基幹に据えた朝鮮人民軍が一斉に38度線を越え南下を開始し、共産主義の軍隊の得意技の突破作戦で脆弱な韓国陸軍の防衛線を一挙に破り、3日でソウルを陥落させ、怒涛の南進を始めました。北の主力はT-34/85でした。この時点で世界最強のソビエト製の戦車です。南側の防衛線は次々に蹂躙されていきました。

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開戦時に朝鮮半島に米軍は殆ど居ませんでした。この戦争に開始の経緯に関しては萩原遼さんの著作が良いです。元赤旗の平壌特派員という経歴の評論家で現役の日本共産党員みたいです。アフィリにはしませんけど『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文春文庫)なんか泣けます。ほんと。開戦の経緯に関しては事実上のデビュー作の『朝鮮戦争~金日成とマッカーサーの陰謀~』(文春文庫)がお勧めです。

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大韓民国陸軍は釜山へ後退し、釜山の西側の大河の洛東江で抵抗します。こんなことをやっているうちに、国連の安全保障理事会で北朝鮮弾劾決議が通過し、国連軍が編成されました。当時拒否権を持っていたソ連は安全保障理事会をボイコットしていて反対できませんでした。中国の代表は国民政府でしたので、当然賛成に回りました。

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国連軍は洛東江でしぶとく抵抗を続けました。朝鮮人民軍は洛東江渡河作戦をなんども敢行しますが悉く失敗に終わりました。金日成は芸の無い突撃命令を下すのみであったようです。朝鮮人民軍は装備を失い、兵力を減らしていきます。このような状況下、9月にはマッカーサーは仁川上陸作戦を実行し、一気に戦局を逆転させます。補給線が延びきっていた朝鮮人民軍は壊滅的な打撃を被り、バラバラに北に向って逃亡を始めます。国連軍は人民軍を追って怒涛の北上を開始し、平壌を占領し、更には鴨緑江(朝鮮戦争に絡めて使うときには、朝鮮語読みのアムノッカンではなく、中国語読みのヤールージャンと読んでいただきたい)にまで達します。オセロのように戦局がくるくる変わりました。今度は南側による統一が目前に見えました。

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もう一回戦局が大逆転します。中華人民解放義勇軍(志願軍)が参戦し、百万の兵力が一斉に南下を始めます。文字通りの人海戦術であったと言われています。犠牲を省みずに国連軍の戦線に圧力をかけ、戦線を一気に南に引き下げていきます。圧倒的な兵力差により国連軍は再び大後退を強いられました。共産主義者は12月に平壌を奪還し、翌51年1月にはソウルを再び占領します。国連軍は体制を立て直し3月にはソウルを取戻しますが、この辺から戦線は膠着しました。韓国の首都ソウルの支配者は、韓国政府→人民軍→国連軍→人民解放軍→国連軍と僅か半年9ヶ月で4回も変わりました。離散家族が当然のように生じました。

この後に53年夏の休戦まで延々と膠着した戦線で犠牲が増えていきました。有利な停戦条件を勝ち取るために双方とも降りられなくなって延々と戦闘が続くと言う展開です。前半戦のように戦局の逆転は起きずに犠牲だけが増えていきました。長い政治的な戦争に入ったのです。捕虜問題などで停戦交渉が暗礁に乗り上げると、再び前線が活気付くというような感じでなかなか決着がつきませんでした。

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国連軍側の調印者はクラーク国連軍司令官だけでした。当時の李承晩大統領(後に学生革命で国を追われハワイで客死します)は調印を拒否したのです。

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北側の調印者は中華人民解放義勇軍(志願軍)司令官の彭徳懐と金日成でした。朝鮮戦争後半の実質的な北側指揮官は彭徳懐だったのです。金日成は彭徳懐に頭が上がらなかったと言われています。多分本当です。中国人は傲慢ですから。

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そんな歴史的な現場を見せてもらって、結構感慨深いなあ、とか思ったものです。やはり、南北朝鮮は東西ドイツと違ってそう簡単にことは済まないでしょうねえ、と思うのです。東西ドイツは内戦を戦いませんでしたが、南北朝鮮は2年以上に亘る熱い内戦を戦い、数百万の死者を出したのです。また、中朝が時々使う「血を分けた同盟」というのもそれなりの説得力をもちます。朝鮮戦争で朝鮮人民軍の死者は50万程度ですが、中華人民解放義勇軍(志願軍)の死者は100万近い水準と言われています。

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この停戦協定調印会場でガイドの軍人さんとお別れしました。シャッターは国家敢行委員会のガイドが切ったのですが、またしても足切れです。なんとかならんのか…。

この次に、開城近郊の王建陵というお墓に連れて行ってもらいました。別にお願いした訳ではないのですけど。

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酷い絵です。

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2000年当時のデジカメの性能では何故か露出が上手く調整されない時がありました。露出不足ですね。

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これは入口なんですけど、この王建陵というのは、高麗の建国者のお墓です。

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朝鮮半島の統一国家と言うと、李氏朝鮮が新しくて存続期間も長いので一番すっきりします。李氏朝鮮の首都は言うまでもなく現在のソウルです。

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北朝鮮的にはソウルが首都の国が正当というのは余り好ましくないのです。

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そこで開城が首都であった、その前の統一王朝であった高麗を正当に持ってきたがるのです。こんな理由で北朝鮮には高麗航空とか高麗ホテルというような高麗を冠したものが散乱している訳です。

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そんな事情でちょっとキッチュな感じがするところではありますが…。

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それなりに風情はありますよね。

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高麗時代は918年~1392年まででした。流石にそんなに昔の建物とは思えないのですが…。

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一部、どう見てもせいぜい築10年というものもありますなあ…。

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再建物とおぼしき立派な建物がたくさんありました。偽ものと思うと全然ありがたみを感じません。申し訳ないのですが。

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とこんな感じでちょっと退屈な王建陵見物を終えました。

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この日の昼食は開城で頂きました。朝鮮人参はこの開城周辺が本場でして、この日のメニューは人参を使った宮廷料理の韓定食(ハンジョンシク)でした。北では何と言うのか聞いて置けばよかったです。絶対韓定食とは言わないと思います。

以上で開城周辺のレポートはお終いです。この後には再び平壌に戻り、北朝鮮の戦争博物館、その名も祖国解放戦争勝利記念館を訪れます。勝利とは恐れ入ります。あれが勝利ねえ…。宜しければ次回もお付き合いください。

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Last updated  2006/11/14 07:08:35 AM
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