【カラーガード大好き】マイレージジャンキー 時々 「鉄」

【カラーガード大好き】マイレージジャンキー 時々 「鉄」

2006/11/21
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前回はスペインに出かけようと思った心象風景を延々とご説明してしまいましたが、今回は、いつもの私のブログらしく、事実を画像を使って淡々と説明していこうと思います。英国航空のファーストクラスをレポートします。



前回は寝台を作る前の状態での画像をご紹介しましたけれども、今回は寝台を組み立てた状態の画像です。14系のB寝台と底面積は余り変わりはありません。この時の機材はボーイング747-400だったのですが、JLの新しいFクラス(ニューソロ)ではAコンパートメントで12席のFクラスを設定しますが、BAでは14席用意していました。微妙に占有面積は狭いのです。でも快適でした。少なくともJLの古いFクラス(スカイスリーパー)よりは断然良かったのでした。



機内での配り物です。 昔の日記でJLのFクラスの配り物をご紹介しましたが 、JLの場合は凄く豪華なのですが、女性用のものに偏っています。まあ、おみやげにどうぞ、という気分なのかも知れませんけど。BAの場合はポーチの形状は似ていますが内容は相当違いました。後ほどご紹介します。



ポーチのファスナーのタグです。皮製でした。FIRSTの文字が嬉しいです。ミーハーな私でした。





内容はこんなものでした。歯ブラシと耳栓とアイマスク…。だちゃいです。これだけかよ~、と言う感じですよね。靴下が入っているのは中々なのですが…。



次は便所です。



744のAコンパートメントの便所には何故か窓があります。この辺は 日本航空のFクラスに乗った時 と同様でした。







窓から強烈な太陽光線がさしているので露出はめちゃめちゃですけど、お花です。便所にお花が飾られているのはどの会社も同じですが、薔薇と言うのが英国航空らしいです。TGだったらオーキッドだし…。



手を拭くのは当然使い捨てのガーゼです。TGではビジネスクラスでも使い捨ての布タオルでした。 昨年TGに乗った時 には、お土産に持って帰ろうかと思っていました。



これは飛行機では初めてでした。便所に飾られている絵です。まあ、気が付かなかっただけの可能性はありますけど…。電車に乗った時には同じようなシーンを見たことがあります。 JR九州の看板特急の一つの「ゆふいんの森」号の便所には絵が飾られていました。

続いて飯のご紹介に入ります。



最初に出てくるのはこのカナッペセットです。



アイスクリームに見えますけど、フォアグラムースです。何故か味噌味を付けていました。大変申し訳ないのですが、美味しくありませんでした。



サラダ…。可も不可もありませんでした。近所のパスタ屋で出てくるサラダと変わりありません。いかにも日本野菜という味わいでした。



これが一食目のメインです。貝のグリルをチョイスしました。



最後にデザートです。その名もチョコレート弁当です。弁当箱にチョコレートソースを引いて、その上にアイスクリームが載せられていました。全然美味しくありませんでした。

もともと英国料理は不味いというのがヨーロッパの相場です。不味いと言うよりも、テーブルソルトとペパーで個人で味付けを整える文化なんだよ、なんと言う方もいらっしゃいましたが、ざっくり言ってローストビーフ以外は美味しくないと言う印象を持っていましたが、図らずも裏付けられてしまいました。ファーストでこれでは…。乗る機会は中々ありませんが、Yクラスはどんな飯を食っているのでしょうか…。 アシアナ 暫定レポートに頂いたコメント の中でと言うのを頂いております。英国料理と言うよりは英国航空の問題かも知れませんね。

NRT→LHRはちょっと長めの飛行なので二食目が出ます。





サラダです。海老のグリルが付いているので、一食目よりはましでした。



二食目はステーキにしてみました。まあまあかなあ。ソースにもう少し工夫が欲しい感じもしましたけど、まあ、こんなものでしょう。Fクラスに限らず、大抵の機内食は一食目には気合が入るのですけど、二食目は気合が抜けます。ま、こんなものでしょう。昨年の終わりごろ、JLのFクラスにJFK→NRTで出てきた機内食は、一食目は素晴らしい仕上がりでしたが(はっきり言って成田以上と感じました)、二食目は大したことはありませんでした。







ロンドンに到着した後に、手ごわいヒースローのイミグレを「最初から乗り継ぎ航空券を見せる攻撃」であっさりかわし、100ポンド以上もするホテルに泊まって夜を明かしてからマドリードに向うのですが、ロンドン以降は次回にレポートします。

ここでがらりと話題が変わるのですが、前回の日記に、 MoToDAMMさん から、 気になるコメント を頂きました。



そして1.ですが…これも日本から北朝鮮に渡った在日朝鮮人(数万人くらいでしたっけ?)の行く末が不明な点を考えると納得がいきます(実は北朝鮮に渡った在日朝鮮人の方々の行く末が、今の私の関心事なんですよ)


このストーリーは知らない方もいらっしゃるのでご紹介しておきたいのです。戦前に我が国の一部であった朝鮮半島はサンフランシスコ講和条約の発効をもって正式に我が国の一部ではなくなりました。「朝鮮半島出身の日本市民」は非常に微妙な地位に立たされることになりました。昭和20年代30年代には朝鮮半島出身者に対する待遇も非常に厳しいものがあり、多くの方々は恵まれた境遇にはありませんでした。

このような社会情勢を背景に、朝鮮戦争直後の労働力不足に悩む北朝鮮政府は在日朝鮮人を受入れると発表し、日朝赤十字社の事業として1959年以降10万弱の人々が朝鮮半島に渡ったのです。そのうち数千名は日本人配偶者でした。

当時は朝鮮戦争直後であり南北とも極貧の状態でした。特に南の荒廃は酷く(朴正煕政権による高度成長はまだまだ先の話です)、北は元々工業地帯でしかもソビエト連邦の援助を受けそれなりに発展し始めていたのです。また、日韓国交回復もまだだったのです。こういう事情で北にたくさんの人々が渡りました。そして…。北朝鮮に渡った人々には厳しい厳しい待遇が待ち構えていたのでした。

このような帰国運動が生じた背景には、北の宣伝活動もありましたが、当時の日本のマスコミの北朝鮮礼賛も凄まじいものがありました。

こんなことが大昔に起きていたのです。北に渡った日本人妻の問題も、拉致問題が大きく取り扱われる中で忘れられていきました。北に渡った人々の多くは、資本主義の走狗の敵対階層に分類され…、前回ご紹介した餓死戦略の対象になったのかも知れません。

北朝鮮ネタを引きずってしまいました。すみません。それでは、続きは次回に。

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Last updated  2006/11/21 10:54:59 PM
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