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「目に見える救いと目に見えない救い」 2013年12月27日
インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network
Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま
した。2013年10月3日放映「 三つの選択
」
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「目に見える救いと目に見えない救い」
甲斐慎一郎
ルカ二章25~35節
「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、
安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たか
らです」(29~32節)。
これは、顔も知らないマリヤの腕に抱かれていた幼子イエスを、
救い主キリストであると見抜いた老聖徒シメオンの言葉です。
もしシメオンが、幼子とその両親であるヨセフとマリヤの表面の
姿だけを見ていたならば、決して救い主キリストであると見抜くこ
とはできなかったでしょう。彼は、外面に現れた目に見える救いで
はなく、内面に隠れている目に見えない救いを見ていたのです。
そこで聖書全体から、目に見える救いと目に見えない救いについ
て、三つに分けて学んでみましょう。
一、物質的な救い(目に見える救い)と霊的な救い(目に見
えない救い)
キリストの周囲には、物質的な救い(水やパンの供給)や肉体的
な救い(病のいやし)を求めて大ぜいの人たちが群がっていました。
これを見てキリストは、人々の要求に応えて、このような目に見え
る救い(物質的または肉体的な救い)を彼らに与えられました。
しかしキリストが本当に彼らに与えたかったのは、「霊的な誕生」
(ヨハネ3章5節)や「生ける水」(同4章14節)、また「いのち
のパン」(同6章35節)や「霊的な開眼」(同9章37、38節)とい
う目に見えない霊的な救いでした。なぜなら目に見える物質的また
は肉体的な救いというものは、その人の当面の問題を解決しても、
その人自身の根本的な問題は、目に見えない霊的な救いが与えられ
なければ、何の解決もないからです。
二、外面的な救い(目に見える救い)と内面的な救い(目に
見えない救い)
キリスト教も宗教である以上、様々な宗教儀式や宗教行事という
ものがあります。またキリスト教倫理は、キリスト者の言葉や行動、
また奉仕や働き、そして信仰生活や教会生活の規準になっています。
これらは、いわば目に見える外面的な救いです。
しかし、この目に見える外面的な救いは、外側の行為の罪が赦さ
れ、内側の心の中の罪がきよめられ、「内なる人は日々新たにされ
てい」る(第二コリント4章16節)という目に見えない内面的な救
いが伴ってこそ価値があるものです。
もし私たちが目に見える外面的な救いのみを求めるなら、私たち
は偽善者です(マタイ23章28節)。また目に見える外面的な救い
のために、目に見えない内面的な救いをなおざりにするなら、私た
ちは、本末転倒の誤りに陥っているのです(同23章26節)。
三、奉仕や働きの成功による救い(目に見える救い)と、神
との正しい関係による救い(目に見えない救い)
キリストは、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、
喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされてい
ることを喜びなさい」(ルカ10章20節)と言われました。これは
「伝道が成功したことを喜んではならず、神ご自身と正しい関係に
あることを喜ぶべきである」(オズワルド・チェンバーズ)という
意味です。それでは、神との正しい関係にあるためには、どうすれ
ばよいのでしょうか。「救いおよび聖化によって神との正しい関係
に入れられ」ることです(オズワルド・チェンバーズ)。
私たちは、キリストが私たちの罪のために死んでくださったこと
を信じるなら、罪を赦されて救いを受け、また「御子イエスの血は
すべての罪から私たちをきよめ」てくださる(第一ヨハネ1章7節)
と信じるなら、罪がきよめられ、神との正しい関係に入れられます。
奉仕や働きが成功することは、目に見える救いであるのに対して、
神との正しい関係にあることは、目に見えない救いです。神との正
しい関係にあるなら、奉仕や働きも成功しますが、奉仕や働きの成
功のみに心を奪われて、神との正しい関係になければ、すべてを失
ってしまうことになるのです。
次は2014年1月1日(水)「平安と将来と希望を与える神の計画(1)」です
甲斐慎一郎の著書 → 説教集