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サッカー記事 サウジ戦と、私のサウジでの受注 ーーー 記事 ーーーセルジオ越後氏「本田なぜ使った?」「チャレンジなかった」SOCCER KING 2018 FIFAワールドカップ ロシア アジア最終予選が5日に行われ、日本代表はサウジアラビア代表に1-0で敗れた。 試合後、『サッカーキング』ではサッカー解説者のセルジオ越後に話を聞き、試合と今回の予選を振り返ってもらった。 ーーー ◇ ーーー「相手は勝利が必要だったとはいえ、日本はW杯が決まっているのに、あそこまでディフェンシブでよかったのか。前半から何かをチャレンジすることもできなかった。カウンターを狙うだけなら、先行されると厳しくなる。そうなったら決まって吉田(麻也)を上げてのパワープレーしかない。得点した相手の19番(アルムワッラド)は、後半に出て、かき回して結果を残すというのが一つのパターンだったが、そういった第2案のようなものが無いね。予選を通して、日本は日替わりヒーローに助けられたが、それは場当たり的でもあるということだよ」「45分しか使わないという本田(圭佑)をなぜ呼んで、しかも使った? 香川(真司)は結局起用できずにドイツへ戻った。何のためにスタッフが欧州やメキシコに行って、状態を確認しているというのか。ハリルホジッチは日本の世論をよく知っているから、誰を呼んだら喜んでもらえるのか、わかっているから呼んでいるのではと思ってしまうね」「今日の本田を見て、メディアは『ひどい45分間だった』と批判するべきだ。それでもベンチに下がった本田を度々映したりする。ちゃんと良ければ褒め、悪ければ批判するということをメディアができないことが問題だ」「10月に日本で2試合行われるが、きっと満員になるだろうね。なぜなら、それはみんな“アイドル”を見に行くから。お金を払って、素晴らしいプレー、いい試合を見に行くということではない。他の国だったら、ハイチと試合をしたって、お客さんは埋まらないよ。そうなるべくして、今があるということを改めて全員が感じないといけない。それではサッカーが強くなり、文化になるということにはならない」「4年間のスケジュールにも疑問がある。マニュアル化されてしまっていることが心配だ。前回のブラジルW杯は“失敗”と言える結果だったのに、強化スケジュールは同じで進めている。監督が変わったというだけだ。失敗したものをマニュアル化してはいけない。あとは、W杯が決まってから本大会までの9カ月間をどう強化するか、という話に毎回なるが、それまでの3年間の積み重ねは無かったの? ぶつ切りで毎大会を考えてはダメだということだ」「『予選を通じて貢献した』という選手は吉田くらいだ。原口(元気)も最初はよかったが失速した。久保(裕也)もしかりだ。長谷部(誠)もケガでいない時期があったしね。吉田は『まずクラブで高いパフォーマンスをすること』と言っていたが、選手よりも監督が先頭に立って言って、それを選考で示さなければいけない。選手たちはクラブに戻って、良いパフォーマンスを見せて、活躍をしてほしい。あとは12月の組み合わせ抽選で大部分が決まるから、そこを楽しみにしておこうよ」 ーーー 私の意見 ーーー上記、セルジオ越後氏のコメント中、太字(ボールド)部分は、私が同感する箇所上記以外の私の意見は下記● 前回のオーストラリア戦の感想で書いたことだが本田はともとスピードが無い上に、今は劣化しているもし彼を使うとしても、大迫が出ない場合の代役としてワントップ(CF)で、ポストプレーをやってもらうそれしか無いのに、なぜ、ウィングで使った?● 吉田はまたポカをした● しかし、吉田のイエローカードは、山口のバックパスミスが原因● 原口は、唯ひとり、健闘したと思う● 岡崎は、大迫の代わりにワントップで起用されたが彼も、その任にあらずポストプレーは出来ない岡崎は、以前の鋭さが亡くなりつつある● とにかく、セルジオ越後氏が言う通りハリルの選手起用と戦術は、中途半端で、せっかくの試合を台無しにしたまあ、長谷部と大迫が欠場したので仕方が無い部分があるがそれは、使える選手層の薄さ、とも言える● と同時に、日本の実力もさほどでは無いと言うこともハッキリした ーーー 私のサウジでのビジネス経験 ーーー今回の会場であるジッダは、サウジアラビアの第二の都市また、聖地メッカへの玄関口とも言える商業都市私が中東でプラントプロジェクトの受注活動をしていた時のサウジアラビアの西海岸での根拠地東海岸沿いのプロジェクトの根拠地は、アルコバールだった今回、日本のサッカー界は、地名を「ジッダ」と呼んでいるが昔の我々は「ジェッダ」と呼んでいたこのジェッダで、私は、あるプラント設備の契約を日本のある重工メーカーとの共同体勢で受注した契約金額は、数十億円サウジアラビアでは、この西プロジェクトの他に2件、合計3件東海岸沿いの工業団地で、ある日本のポンプメーカーを呼び込んで入札資格を与え、やはり数十億円の契約を受注したさらに、同じ工業団地の入札で、前例の無い事だが、メーカー名義では無く、私の所属していた商社の名義で入札資格を獲得あるメーカーを起用して、あるプラントを受注これは前回の受注で、当社が信頼を受けたものこれらサウジでの3件の受注の他カタールで一件(カタールでの日本企業として初の受注)クェートで一件(世界最大の火力発電所)受注している私としては、遙か昔のことなので忘れてはいけないと思って書いておくこのジェッダ(に限らないが)の気候はものすごい灼熱の温度と100%近い湿気である日本チームが、後半、バテたのも無理は無いそれでも、暑さはこの西海岸より剥がし海岸の方が強かった東海岸では例えば車のボンネットで目玉焼きが出来るレベルしばらく駐車していた車のステアリングは、熱くなっていてすぐにはつかめない当時はエアコンがついてないタクシーが多かったがタクシーに乗ると厚くてもウィンドーを閉めた逆のようだがウィンド-を開けたままにすると吹き込む熱風でやけどをしそうに熱かったから
2017.09.06
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過去ログ 処刑されたサウジアラビアの王女この過去ログは、なぜか?アクセスの多い私の過去ログの1つご希望に応じて(笑)復刻してみよう ―――― 過去ログ ――――私は中東で暮らした数年があって、その当時はあまり好きになれなかった地域と人達だったが、もうあまり海外に出なくなった現在は、なんだか懐かしくなる。このごろはドバイが、一般人が観光で訪問する金満の夢の都として評判だが、当時のドバイは商人の街だったから他の湾岸アラブ諸国よりは開けた意識の国だったが、それでもまだまだアラブの特質が顕著だった。それに較べて、スンニ派の中でも厳しいワハブ宗の国、サウジアラビアは、言わばまだ中世の国であり、絶対禁酒の国でもあり、外国人にはもっとも厳しい環境の国だった。そんなサウジの想い出のひとつを書こう。 □□□□□□□□【復刻日記】■ サウジアラビアの王女が男装しての恋の逃避行に失敗、処刑された広場を見下ろすホテルに宿泊したこと1977年、サウジアラビアのある王女が処刑された。彼女は自分自身が王室の人間であり、また既婚者であるにもかかわらず、身分のちがう平民の男と恋に落ちて不倫関係となり、その上、男装して男と共に海外に逃亡しようとしたが発覚して処刑された。罪名は姦通罪だったと思う。なんでも処刑場に連れ出された二人は、すでに鎮静剤を大量に打たれて意識朦朧としていたという。王女は銃殺、男は斬首された。通常、アラブでのでの姦通罪の処刑は石打ち刑である。息が絶えるまで民衆に投石されるのだが、一方の罪人が王女だから、王室からの温情の特別処置だと思う。 ―――― ◇ ――――私はこの王女が処刑された街、ジェッダに何度も長期出張していたが、タクシーなどで事務所から宿舎へ帰る途中に砂地の広場があってその広場を取り巻くようにカフェテラスが並んでいる。この広場は「首切り広場」と呼ばれていて、週末には処刑が行われる場所でもある。中東では処刑も娯楽の一種である部分がある。日本でも江戸時代の処刑場では、竹矢来の外は野次馬で一杯だったと言うことだ。ある出張でジェッダに入った時にはまともなホテルに空き室がなかった。仕方がないのでこの首切り広場に面したホテルに宿泊した。 ―――― ◇ ――――もともと昔の中東はどの大都市でもヒルトンぐらいしか外国人が宿泊できるまともなホテルが無く、しかしそこはいつも満員でなかなか宿泊できなくて、大変な苦労をした。その代わり、いったん宿泊してしまえば、少なくとも予約できた数日間は、何しろヒルトンだから豪華だった。少し時代が経ってヒルトン以外に、シェラトン・インターコンチ・その他有名ホテルが建設された昔ながらの現地のホテルは設備その他にあまりにもひどいので選択肢となり得ず外国人のビジネスマンはみな一流ホテルに宿泊していた。この中東経験のおかげで、私は、一流ホテルの宿泊歴だけは、たいていの日本人よりは上だろうと思う。 ―――― ◇ ――――私がこの時、やむなく宿泊した首切り広場に面したこのホテルは典型的なアラブの商人宿で、窓は小さいものが高い所にあるだけで、建物の外は強烈な陽光だが、ホテルの室内は薄暗い。監獄といってもいいような室内である。家具もベニヤ板の安っぽい洋服ダンスが一棹あるだけ。中には針金のハンガーが二・三個ぶら下がっているだけ。それに紅海沿岸は湿気もすごいから、室内はひどくかび臭い上に、あまりシャワーを浴びないアラブ人の汗だらけの、すえたような、苦いような体臭が鼻をつく。しかし、私は、こんなホテルには慣れていたから、ベッドにドンと身体を投げ出したが、その瞬間、おどろいた。ベッドの底が抜けて、身体が沈み込んだ。みなの汗がベッドのスプリングを錆びさせて、ついに底が抜けたらしい。部屋の隅にもう一つある粗末なベッドで寝ることにした。しばらくしてきしむドアを開いて、床が砂だらけのベランダに出てみたら首切り広場が真下に見える。処刑は金曜日に行われると言うから今日は静かなようだ。その内にはてな?と思った。上にのべた王女の処刑の現場をカメラで撮影した英国人の記者がいた。カメラと言っても、簡易なコダックカメラだがかれは秘密裏にそのフィルムを英国に持ち帰り、その写真が英国の雑誌や新聞に掲載された。これに激怒したサウジアラビア政府は、英国政府に国交断絶の可能性を示唆し、大問題に発展した私も、英国の雑誌でこの写真を見たが、さすがに、斬首の場面は無かったこの英国人ジャーナリストが秘かに撮影したのは、この首切り広場廻りのホテルの一つのはずだいや、ひょっとしたらこのホテルかも知れないと思った。広場を見下ろす角度といい、広場からの距離といい、他に条件が合うホテルは無さそうであった ―――― ◇ ――――もうひとつ、中東での王女の悲劇の物語がある。場所はサウジアラビアではなくて、対岸の小島のバハレーンである。女性はバハレーンの首長の親戚の王女。男性は米海兵隊員。ショッピング・モールでお互いに一目惚れで恋愛関係に入ったと言うことだが、そんなことが果たしてあり得るのかな?私は個人的には疑問なんだが、事実とされている。バハレーンは小さな島国なのでバスに乗った経験はないが、サウジアラビアではバスの中が二つに区切られていて男女は七歳以下でも席を同じゅう出来ない。だいたい女性は黒いベールで顔を隠していて、見せてもいけないし見てもいけない。われわれはカラス天狗と呼んでいた黒いマスクをかぶっている時もある。ただ、サウジの美女を近くで拝める秘密の場所がある。一流店の化粧品売り場だ。そこでは上流階級のお嬢様・奥様達がベチャベチャ、ピーチクパーチクとおしゃべりし、化粧品を試し塗りしながら鏡をのぞき込んでいる。日頃のたしなみの黒いベールで顔を隠すこともせずに・・・。彼女たちはさすが美女を集めたハーレムのDNAが生きてて、すごい美女ぞろいだ。黒髪に黒い瞳だから、イタリアの清純な女優さんと言ったおもむきだ。イタリアと言ってもゲルマンの血が混じる北イタリアではなくて、アラブの血が混じるいシチリア島で見た美女たちによく似ている。バハレーンの海兵隊員もきっと化粧品売り場で彼女を見そめたのだろう。イスラム法ではイスラムの女性と異教徒の男性の結婚は禁止されているから、私がイスラムに転向したら理論的にはこの美女達の一人との結婚も可能となる・・・チラッとこういう考えが頭に浮かんだこともあったが、サウジ美女を抱いてしまっては、イスラムに改宗するまえに首をちょん切られたかも知れない。首まで地面に埋められて、石を投げられて惨死したかもしれない。やはり私の人生はこれでよかったのだ・・・。
2017.02.18
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なんとはなく、私の中東ビジネスの話を書き出したが前記事の、韓国経済の記事の主文にぶら下がる感じのコメントとして書いたのでジャンルが違うと言うことでそれらをまとめて、ここに、別記事としたただしいろいろ思いだしてかなり、書き加えた ―――― 記事 書き直し ――――(前略)たしかに、FXは、投資と言うより、投機に近い言わば、丁半バクチ(笑)株式投資と比較すると単一通貨(例えば、円ドル)だけを追えば、シンプル株式相場は、ありとあらゆる銘柄を勉強しなければなりませんまあ、一部銘柄でもいいですが― ― ― ―私は、中東プラントを担当していた頃自分で受注したプラントの外貨予約も、自分でやっていました為替リスクは、受注した営業部のリスクなので● 輸出は、【受注から、船積までの期間】は、為替リスクなんです【受注した時に入札価格の構成要素とした為替レート】は、受注した時には、すでに実勢レートが変わってしまっているのです応札した時期は、未だ受注していないので、先物為替予約は不可能です受注が決定した時初めて、為替予約が可能にはなるのですもし、契約金額が100億円だとして為替差損で、もし、10%の損が出れば10億円の赤字ですせっかく、血の汗を流して(笑)受注にこぎ着けたのに前門の虎後門の狼(笑)ここが、恐ろしいところです(笑)実に、為替予約は、商社マンを殺しかねないのです― ― ― ―小さな金額のコモディティーなら、会社としての包括的な為替予約で簡単にカバーできるのですがプラント契約ともなると、少なくとも、何十億円という規模ですから、とても、そういうことは、不可能なのです個別の為替予約をしなければならないのですまた、単品商売なら、納期が速いでしょうから受注時期と納品時期が、それほど離れないということは、見積時の為替レートでほぼ、大丈夫と言う事になりますしかし、プラント案件では資格検査があって入札があってその後に、長い、ネゴ(交渉)があるのですそれは・ コマーシャル面・ 技術面双方でのネゴです長いときには、数ヶ月に及びますその間にも、為替レートは、どんどん、変わって要ってしまう(笑)恐ろしい話です受注が確定していない時期に、為替予約など出来ません実態のない、数十億円~数千億円相当の為替予約など不可能ですもし、それをやったら、それは為替の投機ですしまた、船済み時期も、この段階では未定ですから、決済時期も未定です先物の時期も決められません----さらに、船積みをして初めて、売り上げ計上が可能になりますプラントともなると、一度の船積みで完了というケースはありませんpartial shipment 分割船済みになりますその時、船積みした部分の売り上げが計上されますその売り上げは、予約したレートで計上されますもし、予約レートが入札レートより悪いと上に述べたように、巨額のプラント契約金額分の差損が出てしまうだから、なんとかして、よりよいレートを予約したい契約時に計算した利益は、あくまで、仮定のものでそれは、予約レート次第で、変わります黒字にも赤字にもレートが悪い時は、レートが黒字になるまで、ジッと我慢、と言うより、日々地獄の、塗炭の苦しみ(笑)幸い、私は、私自身が受注したプラントは、すべて、大幅黒字でしたこれは、奇跡的かも知れないし、幸運でしたメーカーさんも、大もうけしたはずで(少なくとも何十億円から、何千億円の契約金額ですから)工場も、大ブームに沸いたそうです私は、大型受注続きで、社内で、アラビアのロレンスと言われましたが金銭面では、なんの恩恵も受けませんでしたが(笑)― ― ― ―以前、ブースカさんから「商社マンなど、口先だけで利益をかすめる、悪辣な商人」「特に、おまえ」と、罵倒されましたが(笑)上に述べたように、実は、大変な、リスクも、個人で背負い込んでビジネスをやっているのです何千億円の案件も、結局、担当の個人の責任で進めるのです上司がやってくれるわけではありません(笑)それに、巨大な重工メーカーも商社の先導とバックアップがなければ海外の数あるプラント案件に、自ら取り組むことは出来ません商社がお膳立てをするのです私の中東ビジネスなど、今から見れば古いスタイルなのでしょうが未踏である当時の中東地域に単身乗り込み現地の情報を集め分析しプラント案件の情報があればその内容を重工メーカーと面談しコンソーシアムを組む(簡単に組んでくれません)(こちらの情報と現地パートナーの実力などに説得力が無ければ)(なにしろ、巨額の入札案件ですから)・ 入札スペック・技術情報の入手・ 資格検査に合格する・ 工作ルートの確保・ その他もろもろ(笑)ここに書けないこともいっぱいあり上で述べた、為替予約を含め私は、それを、ほぼ、ひとりでやっていたのです私からみれば、図面を引いて、計算をしていればいいエンジニアの方が、よっぽど楽なように見え出来るなら、代わってもらいたいぐらいでした(笑)― ― ― ―今の中東ビジネスは日本人も多くなり各社、ほとんどの国に事務所を置いているだろうしすでに、いろいろプロジェクトも受注したし経験も積み、整備された市場になっているはず中東の金満の野蛮人達も(笑)文明人に変貌しているようですし昔、私が、バハレーンやカタールに、入っていた頃など他の日本商社は、いなかったから好きなように動けたもっとも、当時は、外国人が泊まれるホテルは、ヒルトンだけそのヒルトンに、外国人が、押しかけるものだからなかなか予約が取れなかった仕方がないので、アラブ商人が泊まる臭くてかび臭い安宿に良く泊まったもの出て来るステーキと称するものもどうやら、ラクダのステーキらしかったし(笑)テレックスも、なかなか打ってくれないものだから自分で、夜中に、屋根裏のテレックス室で長い長いテレックスを打ったがそのホテルのテレックスがアメリカ製のテレックスじゃなくてシーメンス製のもので苦労したものだだんだん、グチになってきています(笑)― ― ― ―昔話ついでに私が、中東プラントビジネスをはじめた頃は中東のビジネスは私の商社では、いや、他社も、繊維などの単品商売が主で機械部門も、自動車関係が中心プラントの実績は無かったと言うより、日本全体が、そうだったそういう分野は受注実績が未だ無く一部の物好きがやっている、と言う認識だったとはいえ、その頃は中東でのプラント案件がゴロゴロ出て来た時期でいやでも、その契約金額の巨大さに目が行く私個人も、インドネシアの経済的破綻で東南アジアでのプラント案件が枯渇しかけてやむなく、未知の中東に目を付けたしかし、中東など、特に湾岸産油国あたりはアラビアのロレンスなどで読むだけの、白人の墓場と言われていた場所で、さすがの私も(笑)訪問することすら不気味だった初めて中東入りしたのはアブダビ隣のバハレーンにプラント案件があるという噂で、その実態調査に向かったのだがバハレーンは、その頃は、商売的には不毛地帯(笑)どの総合商社も事務所が無く、私は、やむなく、プラント案件を狙っているというアブダビ店に入ってみたその頃のアブダビ空港は、もちろん今の絢爛豪華なアブダビ空港ではなく、先代のバラックに近い駅舎と行った風情の空港だった深夜にパリ乗り継ぎで入ったのでが、日本からは、合計、三十数時間かかった(笑)入国審査も質素な部屋で、私のパスポートをチェックした男は、私にレシートを渡し、私のパスポートを、傍のオフィスキャビネットにポイと投げ入れただけこれが、入国審査だった(笑)その時、列の私の後ろだった英国人らしい男が、私に「You will never see it again」と、ささやいて、ウィンクするのだつまり、私のパスポートは、そのまま行方不明になって返ってこない(笑)もちろん、冗談なのだが、それも、まんざら、ウソとも思えないような、簡単さ(笑)タクシーに乗って、街頭も無い、真っ暗闇の中を、アブダビの街に向かう運転手は、例の白い頭巾をかぶった髭ずらであるカーラジオから流れるのは、アラブ特有の勇壮な(野蛮な?)(笑)剣舞の舞の様なアラブ音楽暗闇の中を化なり疾走して、ようやく、行く手に、アブダビの街の灯りが見えてきたその頃のアブダビには、そろそろ、ビルが林立し初めてはいたものの、未だ、高層建築の類のものはなかったその中で、不夜城のように輝くのは、私が宿泊する予定のヒルトンホテルだったアブダビで、外国人が泊まれるレベルの唯一のホテル
2015.06.22
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世はゴールデンウィーク私も怠けて,過去ログをアップ中東ついでにサウジでの話 ―――― 過去ログ ――――1977年、サウジアラビアのある王女が しょけいされた。彼女は既婚者である上に平民の男と恋に落ち、男装して海外に逃亡しようとしたが発覚してしょけいされた。罪名は姦通罪だったと思う。なんでも処刑場に連れ出された二人はすでに鎮静剤を大量に打たれて意識朦朧としていたという。王女は、銃殺、男は斬首通常、アラブでの姦通罪はは石打刑である。息が絶えるまで民衆に投石されるのだが、一方の罪人が王女だから、温情の特別処置だと思う。この処刑現場を,たまたま、ホテルから写真撮影した英国人記者がいて、この写真は,後で英国の雑誌に掲載されサウジが大使を召還する国際事件になった ―――― ◇ ――――私はこの王女が処刑された街、ジェッダに何度も長期出張していたが、タクシーなどで事務所から宿舎へ帰る途中に砂地の広場があってその広場を取り巻くようにカフェテラスが並んでいる。この広場は首切り広場と呼ばれていて、処刑が行われる場所でもある。中東では処刑も娯楽の一種である部分がある。日本でも江戸時代の処刑場では、竹矢来の外は野次馬で一杯だったと言うことだ。ある出張でジェッダに入った時にはまともなホテルに空き室がなかった。仕方がないのでこの首切り広場に面したホテルに宿泊した。 ―――― ◇ ――――もともと昔の中東はどの大都市でもヒルトンぐらいしか外国人が宿泊できるまともなホテルが無く、しかしそこはいつも満員でなかなか宿泊できなくて、大変な苦労をした。その代わりいったん宿泊してしまえば、何しろヒルトンだからなんでも豪華版。だが、また、すぐに追いだされるのだが少し時代が経ってヒルトン以外にシェラトン・インターコンチ・その他有名ホテルが増えたが、まだ現地のホテルとはあまりにも格差があって、ビジネスマンはみな一流ホテルに宿泊していた。おかげで私も一流ホテルの宿泊歴だけは、たいていの人よりは上だろうと思う。 ―――― ◇ ――――ただこのホテルは典型的なアラブの商人宿で、窓は小さいものが高い所にあるだけで、建物の外は強烈な陽光だが、ホテルの室内は薄暗い。監獄といってもいいような室内ではある。家具もベニヤ板の安っぽい洋服ダンスがあるだけ。中には針金のハンガーが二・三個ぶら下がっている。それに紅海沿岸は湿気もすごいから、ひどくかび臭い上に、あまりシャワーを浴びないアラブ人の汗だらけのすえたような、苦いような体臭が鼻をつく。しかし、こんなホテルには慣れている私だから、ベッドにドンと身体を投げ出したが、おどろいた。ベッドの底が抜けて、身体が沈み込んだ。みなの汗がベッドのスプリングを錆びさせて、ついに底が抜けたらしい。部屋の隅にもう一つある粗末なベッドで寝ることにした。しばらくしてベランダに出てみたら首切り広場が真下に見える。処刑は金曜日に行われると言うから今日は静かなようだ。その内にはてな?と思った。例の英国人ジャーナリストが ● と・う・さ・つ したのはこの首切り広場廻りのホテルの一つのはずだが、ひょっとしたらこのホテルかも知れないと思った。 ―――― ◇ ――――もうひとつ王女の恋物語がある。場所はサウジアラビアではなくて、対岸の小島のバハレーンである。女性はバハレーンの首長の親戚の王女。男性は米海兵隊員。ショッピング・モールでお互いに一目惚れで恋愛関係に入ったと言うことだが、そんなことが果たしてあり得るのかな?私は個人的には疑問なんだが。バハレーンは小さな島国なのでバスに乗った経験はないが、サウジアラビアではバスの中が二つに区切られていて男女は七歳以下でも席を同じゅう出来ない。だいたい女性は黒いベールで顔を隠していて、見せてもいけないし見てもいけない。われわれはカラス天狗と呼んでいたが黒いマスクをかぶっている時もある。ただ、サウジの美女を近くで拝める秘密の場所がある。一流店の化粧品売り場だ。そこでは上流階級のお嬢様・奥様達がベチャベチャ、ピーチクパーチクとおしゃべりし、化粧品を試し塗りしながら鏡をのぞき込んでいる。日頃のたしなみの黒いベールで顔を隠すこともせずに・・・。彼女たちはさすが美女を集めたハーレムのDNAが生きてて美女ぞろいだ。黒髪に黒い瞳だから、イタリアの清純な女優さんと言ったおもむきだ。イタリアと言ってもゲルマンの血が混じる北イタリアではなくて、アラブの血が混じるいシチリア島で見た美女たちによく似ている。バハレーンの海兵隊員もきっと化粧品売り場で彼女を見そめたのだろう。イスラム法ではイスラムの女性と異教徒の男性の結婚は禁止されているから、私がイスラムに転向したら理論的にはこの美女達の一人との結婚も可能となる・・・。チラッとこういう考えが頭に浮かんだこともあったが、イスラムに改宗するまえに首をちょん切られたかも知れない。(そういう実例があった)首まで地面に埋められて、石を投げられて惨死したかもしれない。やはり私の人生はこれでよかったのだ・・・。
2013.04.29
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昨日は夜、誘われて飲みに出て、朝まで飲んでいた(もう、こういうことはやめよう)(と、何回も後悔しているのだが)(笑)その余波で、先頃まで寝ていただから、時間が無い(笑)だから、過去ログを引っ張り出すことにした連日書いている、サウジアラビア関連の過去ログである過去ログサウジアラビアの王女が男装しての恋の逃避行に失敗、処刑された広場を見下ろすホテルに宿泊したこと
2011.10.01
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このシリーズにコメントをいただいたので、今日は、そのコメントと私のレスもエントリーとしてしまうと言う新手法?でやってみよう ―――― コメント 1 ――――Rinnさんそうか、街灯なしでたまにラクダが侵入って、恐いですねえ。自車のライト以外まっくらな道って、そういえば経験ないみたい。。男性の二大悩み事。頭髪と精力について、alexさんでも若い頃でも気にしたことあるのですねえ。^^万国共通なのは精力の方でしょうが、スッポンがよいという認識も共通でしょうか?…しっかし、そんな大物釣っちゃったら、当時なら逆にどうしようもなかったのでは?手軽な発散場所あったのですか?(よけいなお世話でしょうが。。 爆!)~~~~~~~~~私のレスーーーそうです真っ暗で、鼻をつままれてもわからない・・・というやつですね鼻以外をつままれたら・・・?ポチッと・・・そ~ゆ~ことじゃなかった <(_ _)> <(_ _)>手軽な発散場所?中東に限っては、そういうお手軽な場所はありませんあったとしても、私達、モスレムでない人間が入れない男性相手なら、お手軽ですが(オイオイ) ―――― コメント 2tak-shonaiさん ずいぶんワイルドな経験をなさってますねぇ!昨日、インターネット接続の不自由なところ (E-mobile のカバーエリアのはずなのに) から帰ってきて、楽しみに読んでおります。(2010/08/20 11:17:58 AM)~~~~~~~~~私のレス自分では、普通だと今まで思っていたのですが、そう言われれば、ワイルドな生活を送ってきたのかな?先日、若い頃にアジアを放浪した者同士のブログを除いたら、クモが怖いという話題でしたので、思わず笑ってしまいました私からすれば、中国・ネパール・インドなどを、ろくな金も持たず(笑)(そこが商社マンの出張とは違うところ)、得体の知れない!草をふかしたり、風の中の木の葉のように(笑)放浪する経験もワイルドだな~と、大変に尊敬していたのですが、クモが怖い?(笑)私の子供時代など、昆虫を友として生きたようなワイルド(笑)な生活だったし、夕方にはクモが網の巣を張るのを楽しみにながめたりしていたもので、おもわず「アジア放浪をした人達がクモが怖いなんておかしいんじゃないの?」と突っ込んだのですが、「それは別」と冷たい反応でした(笑)泥まみれ、汗まみれ、垢だらけ?で、ノミや南京虫を飼育しながら(笑)僻地を放浪した人達が、たかがクモを怖がって、放浪なんて本当に出来たの?と私は思ったのですが、若い人は(中年ですが)もう年代が違っているのでしょうか?インドネシアなどでは、宿舎の天井に「トッケー」というヤモリが一杯張り付いていて電灯に誘われてくる虫を食べているのですが、たまにそのトッケーがパタッと頭に落ちてくるんです異性と(だと思うんですが)(笑)セックスの享楽にふけりすぎて、指の吸盤の力が抜けて落ちるそうです(笑)あの最中でも、男性は理性を失いませんが、女性は忘我の境地だそうですから、落ちるのはメスのトッケーでしょう・・・と思うと、可愛くなるが(笑)これがいやなら、インドネシア・マレーシア・シンガポールには住めませんねそう言えば、米国に住んでいた時、隣の家の奥さんが夜、飛び込んできて「家にネズミがいる なんとかしてくれ」と哀願するので、新聞紙を丸めてネズミを叩いて失神させ、外の雪の中に捨てました私からすれば、その奥さんの方が、普段、よほど怖かったのですが(笑)ネズミとゴキブリを怖がる人も多いですねやはり怖かった前妻も(笑)ゴキブリが現れると「日本のゴキブリは巨大だ!」と震えて、その時だけは、この女も、女らしいなと・・・(笑)こ~ゆ~話をワイルドだとおもしろがっていただけるのなら、今後は、こ~ゆ~路線で行きましょう毎日がワイルドでしたから ―――― コメント 3 ――――ばあチャルさん 男の仕事にはかなわないなーと思います。亡父は中東の仕事もしていました。日本にいて時々出張するだけなのですが、思い出といったら6畳敷きの絨毯をおみやげに背負って帰ってきて大熱を出して寝込み、「ばっかみたい」と思ったとか、得体の知れないトルコ石をわたしが貰ったり、そんなことばかり。儲からなかったはききましたが(笑)現場を行ったりきたりしたでしょうにそんな話は何も知ろうとしませんでしたよ。40年も前の話ですが。~~~~~~~~~私のレスそうですかお父様も、私とほぼ同業でしたかただし、先輩でしょう私は、出張でも長期出張で、中東にずっと張り付き・ビジネス放浪?の日々を送っていました当時は中東産油国の市場は、何十億円・何百億円・何千億円という規模のプロジェクトがゴロゴロ転がっていましたので、そ~ゆ~プロジェクトを追って、オオカミのように(笑)、野良猫のように(笑)、産油国各国を駆け回っていたのです私が受注した中東プロジェクトは合計5件ほど合計、数千億円になりました大変、もうかりました会社が(笑)メーカーの方は、工場がなになにプロジェクトブームと、大変な盛況だったそうです私は、成果を部長や本部長に横取りされただけで、大した出世は出来ませんでしたが、出世する才能はまた別物なのでつい、グチが(笑)でも、後悔はまったくしていません趣味の「冒険・探検」と「仕事」が一緒だったのだから、楽しい人生を送ることが出来て残念ながら、絨毯は買わなかったあのとき買っておけば(笑)中東に住み着けば、一夫多妻だし・・・(それも怖い)前妻に金の首飾りを買ったのと、私にアラビアンナイトに出てくるようなランプのような水差しを買っただけです私も、こんな仕事の話しは、誰にも話したことがありません本邦初公開です(笑)男は、仕事の話しを家族に話そうという発想がないようですね話しても、どこまでわかってくれるか?(失礼)という先入観があって男女機会均等法と言っても、こ~ゆ~仕事は女性には無理でしょうね美人ならなおさら(オイオイ) ―――― コメント 4 ――――朱鷺子さんすご~~~~~~~~い!!よく生きて帰ってこられましたね!!!(こればっかり・・・・・)~~~~~~~~~私のレスほんとに、こればっかりですね(笑)しかし、ありがとうございますこのシリーズ、続きはまた明日
2010.08.19
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Rinnさんからこ~ゆ~コメントをいただいた~~~~~~~~~『月の砂漠をはるばると』みたいなロマンティックなものではないのですね。^^;延々と同じ砂漠の風景で、熱風の中を進むって、嫌でもスピード出しそう。。それにものすごく温度差があるのでしょう?夜、走ることもあるのでしょうか?ニュースでラマダンの話題をやってました。外国人(異教徒)は強制されないでしょうが、そういう時期は街の食堂は昼間営業するのかな~?ほんとうに日中水も飲まないと、渇いてしまうでしょうに。なんて心配になりますねえ。(笑~~~~~~~~~「月の沙漠」なら、砂漠の夜間走行である確かに、炎熱の砂漠だから、昼間より夜間の方が温度が低いだが、夜間の方が安全だとは限らない第一、砂漠の中に通っている道路には、ストリートライトが無い頼りは、車の前照灯だけであるこれが第一、危険であるその上、砂漠特有の危険もある野生、または放牧のラクダが夜間の砂漠にはいるこれに誤って激突すると、ラクダに乗りかかられて、ラクダの体重で車がペシャンコになるもちろん乗客は死ぬラクダは、実は巨大な生き物なのである夜間にかかわらず、見通しがいいはずの砂漠道で、交通事故が多発する日揮の交通事故関連の別の新聞記事でも、産油国の物流が増大して、交通量が増え、交通事故が多発しているとある見通しがよくても、単調な砂漠を長時間走行していると、集中力が途切れる高速のままで、減速することもないだから事故が多発する砂漠の道路を走行していると、道ばたに、車の死骸が転々と放置されている車の死骸とは、もちろん、事故車であるそれが、どうも、決まって、日本車である文字通り、ティッシュペーパーを丸めたように、クシャクシャにつぶれている車でも、鋼板の厚さが、それぞれ違う例えば、ベンツ・ボルボという車種は、頑丈に出来ていて、少々ぶつかってもビクともしないロンドンでの私の上司がベンツで事故を起こしたが、スピンしただけで、自身は傷一つ無かった私は、この上司が大嫌いだったので、・・・と思っていたのだが、無事だった(笑)ポーランドで、事故にあったことがあるポーランド国産の車に「ポロネーズ」という車がある今は、外国との合弁で、現代的な車に生まれ変わっているようだが、私がいたころには、西側の車より20年は遅れている車だった鋼板が厚くて、デザインが直線ばかりで、重くて、「タンク(戦車)」という愛称?だったこの車に乗って、友人が運転していたのだが、ガス林スタンドに立ち寄って、高速道路に入ったとたんに、トラックに追突された後方不注意であるガ~~~ン!!!というショックと音響と共に、激しくスピンしたが、車体は少しへこみが出来ただけで、無事私たちも無事だったこれがもし、日本車だったら、私も、ここでブログなど書いていないはずである天国から皆さんを優しく見守っているはずである(笑)日本車は、燃費を稼ぐために、零戦の伝統を引いていて(笑)、装甲が薄いのであるだから、丸めたティッシュペーパーになってしまうのである~~~~~~~~~それから、炎熱の地では、少し駐車していると、ハンドルが熱くて握れなくなるだから、新聞紙をかぶせたりするボンネットで、目玉焼きが出来るというのは本当であるただ、実行したことはない~~~~~~~~~私の海外経験は、戦時中のベトナムから始まって、次はインドネシアだったインドネシアで石油掘削をしていた米国の石油掘削リグに掘削し機材を売る石油基地その合弁会社の日本人担当者として赴任したある日、スマトラの石油輸出基地へ出張したジャカルタから、スマトラの空港に到着したら、豪雨と雷鳴がひらめいていたその空港から100キロほど離れた、石油輸出基地へは、エアバスと呼ばれた超小型機に乗る実際に小型バスのような車体をしている機体であるとても飛行可能と思えないような天候なのに、悪いことに(笑)、エアバスは飛び立った機内には、折りたたみ式の(笑)ボロボロの座席が10ほどあるその座席を引きおこして座ろうとしたら、足下の部分に穴が開いていて、下界が見える(笑)結局、散々天候に翻弄されて、目的地に何とか到着したが、心臓に悪いフライトだった以降、悪天候の時には、車で、陸路、基地に、向かったこの道路が問題なのであるこの道路は、石油掘削の現場から、石油輸出基地まで、パイプラインが引かれているのだが、そのパイプラインに沿って作られた道路であるスマトラのジャングルを切り開いて通したパイプラインと道路である悪天候だと、この道路がスリップするこの道路は、ところどころ、深い渓谷に沿って走っていて、スリップすれば、千尋の谷底である現に、谷底で、静かに眠っている(笑)横転したトラックが見えたこともあるここは俗に「オイルロード」と呼ばれる恐怖の、特に天候が悪い場合、道路であるただ、こんな道路にも、三十分に一軒ぐらい、道路脇に藁葺きの小屋があって、ジュースや椰子の実などを売る雑貨店がある車を止めて、店でジュースを飲むとホッとする太古の森の中の現代文明である(笑)石油輸出基地には、何度か滞在した石油ビジネス以外にも、送電線プロジェクトを計画していたから、その調査であるただし、その地域は swampy 湿地で、それも極端な湿地で、昼間駐車していたトラックが、翌朝は消えていたという土地であるつまり、湿地に飲み込まれたのであるだから、送電線と言っても、電柱を立てるのが大変であるそんなことは、どうでもいいか(笑)その地の宿舎で昼寝をしていた時のことであるふと昼寝から目を覚ましてみると、頭にアリが一杯である頭に塗っていた大島椿の椿油がアリの大好物で、大宴会の最中だったらしい(笑)私は、その頃、頭髪が薄くなるのではないか?と言う強迫観念にとらわれて(おかげさまで頭髪は今も無事だが)(笑)頭髪にいいという伝統の(笑)椿油を塗っていた時期なのである同じ宿舎の同僚も頭髪に不安を抱いている人間だったが(笑)、彼はジョンソンのベビーオイルを愛用していて、アリにはたかられなかったベビーオイルは、鉱物オイルなので、アリにとっては猫またぎなのであるそんなことは、どうでもいいか(笑)その基地での、ある休日、同僚と「スッポン釣り」に出かけたスマトラにも川が流れているその川の一つに、化け物のように大きなスッポンが住んでいるというのである以前に、そのスッポンをつり上げたら、何十人文もあったというのであるスッポンが、ある効用を持っているというのは男性なら皆知っている話しである私は、そんな効用は不要な年代だったが、好奇心のために釣りに加わった用意するのは、ロープと太い針金で作った手のひらほどの大きさのある釣り針と、エサになるニワトリのモモ肉である釣果のために、大きなバケツも車でジャングルの中を約1時間腐食葉で黒い川に架かった橋の上から糸?(笑)を下ろす30分ほどして、大きな引きがあったスッポンがかかって、頭が川面に出てきた頭だけでも、小さな鍋ほどある大きさである急いで河原に降りて、綱引きであるところが、水中にいるのに、スッポンの方が強いのである二人がかりでも引き寄せられない川面に出した鼻面から、「フー フー」という荒い息を吐きならが抵抗する結局、糸ならぬロープを切られて、釣果なしの帰宅となった「せっかくの効用が・・・」効用は不要だったのでは?(笑)~~~~~~~~~話しが飛んでいるが、たまにはこ~ゆ~のもいいかラマダンについても書こうーー 続く ーー
2010.08.19
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中東で道路を車で走行する場合、普通ならカーエアコンが効いているしかし、タクシーを利用した場合、エアコンは保証の限りではない中東と行っても、金満産油国と、石油のでない貧窮国に分かれる産油国は、サウディアラビア・クエート・アブダビ・カタールなどであるその他の国は、貿易で栄えているドバイを除いて、比較的貧しいUAEの中でも、アブダビ・ドバイ以外の国、例えば、シャルジャーやウム・アル・クワインなどは、日本で言うなら小さな町のような規模であるさらに、産油国ではないから、オイル・マネーとは無縁であるUAEと言う連邦からの補助金はあるだろうけれど、基本的に shabby な小さな町であるそこでは、タクシーも、エアコン無しだから、炎熱下、客は窓を開け放して走るだろうと思われるだろうが、反対である窓はキッチリ閉める窓を開けたまま走ると、熱風が直接顔に当たり、熱いだから、窓を閉めるという事になるもちろん、これでは暑いのだが、熱いよりはまし・・・ということになる思い出したが、ウム・アル・クワインでは、王様とあったことがあるーー 続く ーー
2010.08.18
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こ~ゆ~ニュースがある~~~~~~~~~UAEで日本人4人死亡=日揮社員、交通事故に遭う-プラント建設事業で駐在 【カイロ時事】アラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビ西方で11日午後11時45分(日本時間12日午前4時45分)ごろ、エンジニアリング大手「日揮」(横浜市)と同社子会社の日本人男性社員計4人が交通事故に遭い、死亡した。~~~~~~~~~「日揮」は TEC や千代田化工とならぶ、大手のエンジニアリング会社である主に中東での、石油関連および水処理プラントの建設に携わるだから、私とは、言わば戦友とでもいうべきか?その社員が酷熱の道路で交通事故死したこのニュースを読んで、中東ビジネスに携わっていた時代のことを思い出した最初の赴任地、ベトナムでも、軍用高速道路を走行していた時は、毎日、死を覚悟していたただ、あのときは、戦時中という特殊条件下であったベトナム戦争 死の軍用ハイウェイを走る 【復刻日記】 私のビジネスに於ける主戦場だった昔の中東でも、交通量はベトナムほどではないが、舗装状態がよくない砂漠の中の道路を高速走行するものだから、かなり危険だった私の中東経験は、もうかなり昔の話しだが、書いてみる~~~~~~~~~中東での生活というものは、松本清張ではないが、「点」と「線」である極度の高温で人間が生活出来る限界線の世界昔は白人の墓場と呼ばれていた地域である今でこそ、潤沢なオイルマネーのおかげで、産油国では水と電気が available となり、エアコンと水(海水淡水化工場で生産される真水)の使用があたりまえになって来たが、本来はオアシス以外、人が住める地域ではない今では人口が膨張した都市だが、それでも街を少し出ると、そこは高熱の広漠たる砂漠が広がっているばかりである10分も歩けば熱中症という世界であるだから、現実の生活圏は、都市部だけとなるこれが「点」であるそうして、そういう「点」をつなぐ道路が「線」である人は、この「点」と「線」以外には、原則として出ることがない例外として、砂漠での生活もあるにはある砂漠の遊牧民のベドウィン彼らは酷熱の砂漠をラクダなどの遊牧で移動する今は、都市部でビジネスを営んでアラブ商人になっている彼らも、ときどき、四輪駆動の車を駆って砂漠に向かう「しばらく都市部で暮らしていると、たまらなく砂漠で寝たくなる」そう言って彼らは二・三日、砂漠でのキャンプに出かけるのであるそうして、その砂漠で彼らは伝統のスポーツである鷹狩りに興じる中東での生活は、ホテルでの生活(または独身寮での生活)、ビジネスパートナーのオフィスでの生活が中心となるただ、夜はさすがに気温が下がるので、バザール(市場)に出かけることも出来るしかし、どこまでも、男ばかりの世界である他の都市(つまり国)への移動は、砂漠の中の道(一応高速道路という事になっているが)での移動となるーー 続く ーー
2010.08.14
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私が読書を出来たのはアラブの国 【復刻日記】このところ、ハイテンションの日記ばかりだとbonbon さんにいわれたので、テンションを下げるために【復刻日記】とする2004年私が楽天をスタートしたばかりの頃の記事である ―――― ◇ ――――【復刻日記】私は前に本は買う主義だと書いた。一応そう書いたが、ずっとそうであったと言うことでもない。会社員時代は時間が無くて、買った本がなかなか読めなかった。仕事が激務で・・・とネット上でもいままでさんざんいいわけをしてきたが、事実そうではあったのだが、それでも、放課後?に同僚と夜の街にくりだして酒を飲んでいた時間というものが厳然としてあったわけで、この享楽の時間を読書にあてていればよかったのだが、人間どうしても楽しい方に行ってしまう。午前様になって帰ってきて、「歓楽尽きて哀感多し・・・」などと、つぶやきながら水道の水を飲んでバタンキューと寝るわけだが、この水道の蛇口からベッドへの直線的なフローチャートの軌道の途中に、もし読書机があればいいのだけれど、なかなかそうはいかない。せいぜいテレビをパチッとつけてみて今日のプロ野球ナイターの結果などを確認してからベッドに倒れ込む。「日本人は安全と水はただだと思っている」とベンダサンが嘆いていたが、私は安全と水に加えて時間まで「無制限」だと思っていた。しかし、ことここまで老いさらばえてみると、当たり前のことだが時間とて無制限ではなかった。それどころか、もう人生の残された時間というものの底が見えているのである。これではいけない。これまでにたまった大量の本を読んでしまってから、しずしずと棺桶に入るという手はずにしなければいけない。さすがに棺桶に本は投げ込まないで欲しい。安眠したいのである。 ―――― ◇ ――――そんな自堕落な生活の中で、長期の海外出張、それも特に中東地域への出張は読書の好機だった。中東では娯楽が無く外出することがほとんどなく、読書ぐらいしかすることがなかったからだ。中東では、特にイスラム教の中でも教義がきびしいスンニー派のワハブ宗の総本山、サウディ・アラビアやそれに準じるクェート・UAE(アラブ首長国連邦)などでは娯楽というものがない。無いと言い切るとちょっと事実ではないかも知れないけれど、われわれから見ればほとんど無いに等しい。第一娯楽設備というものが皆無なのだ。映画館にして映画は偶像崇拝だということで無いんだから始末が悪い。酒だって厳禁。UAEなんかではホテルではOKだし、外人にはライセンス制で月々何本という酒の配給制でコントロールしている。しかし公衆の面前での飲酒は厳しく禁止されていて、違反すれば投獄と言うことになる。一般に夜の街で酒が飲めないと何をしてもそれほど面白いものでもない。ただし、今思い出したのだが、とても理解できないことがあった。アブダビの石油省の建物が二階建てのけっこう粗末なものだったころだ。くどいようだが、どうしてあんなことがあり得たのか全く今でも見当がつかないのだが、この石油省(産油国の花形のお役所だ)の二階にあやしげなナイトクラブがあったのだ。薄暗いクラブの中で主に香港か韓国あたりの出身らしい女性が肌もあらわな服で客の相手をするのだ。もちろん酒はある。ウィスキーからブランデーまでたっぷりある。こんな禁酒国の中にそれも石油省の真上でナイトクラブである。私にも女性が来て話かけるものだからむげに断れなくて?一杯おごった。しかしそうしていても、この世紀の矛盾?にどうしても納得がいかず、しばらくして退出した。そこにはそれからは、日本から客が来たときに一度連れて行っただけだが、日本からの客には面白くもなかっただろうと思う。昼間なら海水浴というものがある。ぬるま湯の様なまな暖かい海水で塩分が死海ほどではないけれど非常に濃いから身体は浮く。間違ってもおぼれ死んだりはしない。たまに白人の女性が泳ぎに来ると岸に黒山の人だかりができる。現地人もいるが主にインド・パキスタンからの出稼ぎの単純労働者たちだ。彼らだってイスラムである。パキスタン人はもちろんだが、インド人だってパキスタンに移動しないでそのままイスラム系インド人として暮らしている人口がかなりになる。イスラムの社会では女性が人前で肌を見せることはしない。ましてや水着になって海水浴などをしない。ましてや珍しい雪のように肌の白い白人女性だ。ましてや彼らは独身か、結婚していても単身赴任?の身の上。工事現場の宿舎や、家賃倹約の目的でひとつのフラットに十人近くもの人間がギッシリ住んでいる状態だから女性を見るだけで目の色が変わる。ましてや・・・。それからゴルフもあるにはある。アブダビなんかでは専用のゴルフ場ではなかった。兼用だった。では、何と兼用だったかというと、競馬ならぬ競駱駝、ラクダ競争のスタジアムである。ラクダがパカパカ競争するわけで、ほぼ競馬と同じように走る。そんなところだから、それに中東だからフェアウェイといっても草は生えていない。砂地か粘土である。カチカチに乾燥している上にラクダの大きなひずめの後が自然のディボットを作っていて、この中にボールが転げ込むと打ち出すのに苦労する。こんなフェアウェイだからキ==ンと会心の当たりをしても、ランが問題になる。固くてラクダの足跡いっぱいの地面をキンコンカンと転げ回る。パチンコを見ているみたいなものだ。やっとグリーンに来てもグリーンではない。・・・と言うのもおかしな言い方になるが、芝生ではないと言うことだ。そのかわりに砂が敷いてあってアスファルトが薄く撒いてある。これで質感はほぼ芝生・・・・と思いこむより無い。ただし酷熱の地、かって白人の墓場・オマーン土候国とよばれたUAEだ。暑いの何のって!!60度ぐらいにはざらになる。日本から来た私の部下は大張り切りでスタートしたが5ホール目で日射病、いまでいう熱中症になって、ゴルフに熱中できないまま救急車に運ばれてゴルフ場を去ることになった。あと、現地の人達は四輪駆動の車に乗って砂漠に寝に行く。本当に寝に行くのだ。いまは街の住宅に定住したがもとはといえばベドウィンといって砂漠の遊牧民。ラクダを追って生活していたわけだからいくら豪邸でも居心地が悪いという。もう「もう、たまらなく砂漠に直に寝たくなるんだ」といって私の取引先の一人は、私との約束をキャンセルして砂漠に走っていってしまった。砂を噛むような思いだった。あと、いろいろあるじゃないか?、現地の人は鷹狩りをする。砂漠にもそれなりに動物がいるらしくて高価な鷹を連れてジープで砂漠へ走る。けっきょくわれわれには楽しみがなんにもないわけで、それで読書となる。では指もつかれたので今日はこれぐらいにしよう。今日は「今日の俳句」も無しになる。
2009.02.05
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以前の日記にちょっと手を加えてリライトした。20年以上前の事を書いている。今は様変わりだろうと思う。■ 白人の墓場 アラビア半島イラクの対岸のアラビア半島にあるアラビア湾沿岸のUAE(アラブ首長国連邦)諸国・クエート、それに半島の大部分を占めるサウジアラビアなどは、昔は白人の墓場と呼ばれた場所である。それでも今は、オイルマネーのおかげで、冷房もあるし、海水の淡水化工場から水も来る。その水で草木を育てているから、以前はあり得なかった大雨などが、ときどき降るようになって気候が少し変わってきたようだ。ロータリーにある花壇などには、小鳥が来て鳴いていたりする。しかしここは、基本的に高温と湿気の世界。暑さのピークの季節では輻射熱もあって温度は60度近く、湿度は常時100%なんかになる。季節といっても hot・hotter・hottest の三つの季節しかない地域だ。ある時、日本からの出張者が、「ちょっと散歩してきます」とオフィスを出て行ったが、まもなく顔面蒼白でヨロヨロと帰ってきた。近くのスーク(市場)へ行っただけなのに・・・である。やはり出張者がゴルフ上へ行き、たった5ホール目で倒れて救急車が来た。共に日射病。このゴルフ場とは、ラクダレースのレース場にあるもので、もちろんグリーンなどない。UAEからエジプトのカイロに出張することがあった。おかげでピラミッドを見ることが出来、大きな感動を得た。そのカイロからUAEに帰ってきた時、飛行機の出口に並んで扉が開くのを待っていた。扉が開いた瞬間、手の平に異変が起きた。瞬間に手の平がニチャッとしたのだ。何が起こったのかその時はよくわからなかったが、今まで着ないで乾燥していた手の平が、UAEの100%の湿気で瞬時にベタベタになったのだ。これにはおどろいた。同じ中東のアラブ世界でも、これほどちがうのだ。車のボンネットで簡単に目玉焼きが出来る。・・・とよく言われるが、試した馬鹿はいない。うっかり車のボディーに直接さわると飛び上がるほど暑い。フロントウィンドーに覆いをかけておかないと、いざ車を使おうという時に熱くてハンドルが持てない。今は冷房のタクシーが多いかも知れないけれど昔はほとんど無かった。田舎に行ってボロタクシーに乗ると大変だった。窓から熱風が吹き込んで来て顔が痛いほど熱い。暑いのをがまんして、窓を閉めてゆでだこのようになりながらがまんする。それでも窓を開けるよりはましだからだUAEの中で一番大きな国であるアブダビの首都はやはりアブダビという。隣はドバイで、近くの半島はカタールで、対岸の島はバハレーンである。そこから車で二時間ほどの場所にアル・アインという町がある。アル(AL)というアラビア語の定冠詞は、スペイン語に入ってエル(EL)になった。アルコール、アルミなどのアルは、このアルである。アインというのは泉という意味。つまりアル・アインはオアシスの街だ。泉町という感じだ。しかし、中東でオアシスというのは特別の場所だ。唯一そこで人間がまともに生きて行くことができる場所だからだ。水があって一応畑も耕せるし、ヤシの木からナツメヤシの実も採れる。この町というか村というか、この場所に住む人々は海岸に面した新興都市である首都のアブダビに住む人々とはちがって,、かなり昔のアラブそのままの見かけの人々が多い。顔は渋を塗った銅の様に日焼けして、ひからびて、しわは深い。日本の漁師顔を極端にしたようなものだ。歯は何本も抜けている。今まで裸足で歩いていたから、足はかかとなどがカチカチ二硬くて、ひび割れていて、靴など要らない状態だ。足=靴 状態なのだから、靴の上に靴は履けない。だから彼らはほとんどサンダル履きである。アブダビのあるお客さんと話していておどろいたことがある。彼はその温厚な落ち着いた立ち振る舞いもあって、当然私より年上だと思っていたのだが、聞いてみると年令は私よりはるかに若いのだ。この激しい気候の中で肉体的には早く年をとってしまっている。今は舗装道路も完備して、車で片道二時間ほどで行き来できるアブダビとアル・アインの間だが、彼の昔話を聞くとラクダで2・3日はかかったという。運悪く、途中で砂嵐などに遭った場合は何日もラクダと共に砂の中で過ごしたという。ラクダの鼻の穴はこんな場合に備えて自由に閉じることができる。アラブ人のあの頭巾も砂嵐の時に顔を隠すためにあるのかも知れない。砂嵐というのが北の方から拭いてくる季節がある。黄色い砂を含んだ季節風だ。空も何もどんよりとした黄色にけむり、昼間でも車がライトをつけて走る。数日続く。本多勝一氏の「アラビア遊牧民」を数十年前に読んだことがあるが、ラクダにはその年令別で呼び分ける名前が数十あると書いてあった。日本の出世魚の呼び名など、せいぜい四つぐらいだろう。それに日本人は魚の名前を非常に多く知っているが、欧米人など(専門家の魚屋はのぞいて)5つも知っていればいい方だと思う。マグロ・イワシ・サバ・タラ・サメ・・このへん止まりなのではないだろうか?(サメとフカはどう違うのだろうか? いつもこの疑問が気にかかる)魚と言えば、とてもおかしい想い出がある。このアル・アインの田舎道を歩いてオマーンへ行ったとこのことだ。オマーンという国は先頃サッカーで日本と対戦したのでおなじみだと思う。この国は古い国でシバの女王がいた国とも言われる。ポール・ニザンの「アデンにて」という本があるが、このアデンがある国だ。首都はマスカットでマスカット種の葡萄はここが原産だという。ところでオマーンはアブダビから相当離れたところにある国だ。車で数時間かかる。それなのに歩いていけるというのは不思議だと思うはず。実はこのアル・アインのとなりにオマーンの飛び地があるのだ。同じ一つのオアシスの中にオマーンの飛び地があるのだ。昔はオアシスしか価値が無かったから、オアシスだけが領地として認識されていたのだと思う。途中の茫漠たる砂漠など領地にしても意味がなかった。ただし今は石油などが出て、砂漠も重要になった。アラブ諸国の国境線はなにしろ砂漠だからハッキリしない。目印になるオアシスなどから線を引いた国境線が多い。オマーンとサウディ・アラビアなどもこの近辺で国境線争いで小規模だが戦火を交えている。ところで、オアシスの田舎道とは牧歌的だ。道は田んぼのあぜ道程度だ。その道の脇にオアシスの水を導いた泥で固めた水路があって、まあ言ってみればドブ程度だが、その中を透明な水がチョロチョロと流れている。その脇にはヤシの木が並木道としてパラパラと植わっている。民家は泥の壁で囲まれている。そんな道を歩いてオマーンに行く途中、あるオッサンとすれちがった。ちょっと汚い目のターバンを巻いていて、何か大事そうに濡れた新聞紙を手に持っている。チラッとみると中身は小振りなアジ程度の大きさの魚が数匹だ。このオアシスの池で取れたものだろうか?一度、バハレーンのオアシスで大きな深い池を見たことがある。子供たちが飛び込んで泳いでいたし、魚もいるらしかった。オマーンに行ったら、飛び地は本当に小さな村だった。小さな小屋の郵便局でオマーンの切手を買って、アブダビ側に帰ってきたら、また例の魚のオッサンとすれちがった。オッサンは歩きながら、今度は何か落ち着かぬ様子でブツブツ口の中でいいながら地面をきょろきょろ見ている。何をしているのだろうと思ったがそのまま行き過ぎた。しばらくした道に、一匹の魚が落ちているのを見つけた。ちょっと砂にまみれているが銀色に光っている。「ハハーン これだ!」と思った。オッサンは自宅?に帰って新聞紙を開いてみたところ、魚の数が一匹少なかったのだと思う。あわてて落とした魚を探しに来たのだ。オアシスでは魚は貴重品なのだろう。教えてやろうと思ったが、オッサンがすぐには見つかりそうになかったのでそのまま歩いた。おかしい気持ちもしたが、オッサンを可愛くも感じた。
2008.01.08
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禁止用語にじゃまされてアップできないので【復刻日記】にしようとしたら、これも禁止用語を含んだ日記だったらしい。楽天は独自の禁止用語を設定して検閲しているらしくい。しかし、そもそも禁止用語がどれなのかも教えてくれないのだ。バカらしくて、もう楽天はやめてやろうかとも思うが、他のブログでの状況はどうなのだろうか?~~~~~~~~~私は中東で暮らした数年があって、その当時はあまり好きになれなかった地域と人達だったが、もうあまり海外に出なくなった現在は、なんだか懐かしくなる。このごろはドバイが、一般人が観光で訪問する金満の夢の都として評判だが、当時のドバイは商人の街だったから他の湾岸アラブ諸国よりは開けた意識の国だったが、それでもまだまだアラブの特質が顕著だった。それに較べて、スンニ派の中でも厳しいワハブ宗の国、サウジアラビアは、絶対禁酒の国でもあり、外国人にはもっとも厳しい環境の国だった。そんなサウジの想い出のひとつを書こう。 □□□□□□□□【復刻日記】■ サウジアラビアの王女が男装しての恋の逃避行に失敗、処刑された広場を見下ろすホテルに宿泊したこと977年、サウジアラビアのある王女が処刑された。彼女は自分自身が王室の人間であること、および既婚者であるにもかかわらず、身分のちがう平民の男と恋に落ちて不倫関係となり、その上、男装して海外に逃亡しようとしたが発覚して処刑された。罪名は姦通罪だったと思う。なんでも処刑場に連れ出された二人は、すでに鎮静剤を大量に打たれて意識朦朧としていたという。王女は銃殺、男は斬首された。通常、アラブでのでの姦通罪の処刑は石打ち刑である。息が絶えるまで民衆に投石されるのだが、一方の罪人が王女だから、王室からの温情の特別処置だと思う。 ―――― ◇ ――――私はこの王女が処刑された街、ジェッダに何度も長期出張していたが、タクシーなどで事務所から宿舎へ帰る途中に砂地の広場があってその広場を取り巻くようにカフェテラスが並んでいる。この広場は「首切り広場」と呼ばれていて、処刑が行われる場所でもある。中東では処刑も娯楽の一種である部分がある。日本でも江戸時代の処刑場では、竹矢来の外は野次馬で一杯だったと言うことだ。ある出張でジェッダに入った時にはまともなホテルに空き室がなかった。仕方がないのでこの首切り広場に面したホテルに宿泊した。 ―――― ◇ ――――もともと昔の中東はどの大都市でもヒルトンぐらいしか外国人が宿泊できるまともなホテルが無く、しかしそこはいつも満員でなかなか宿泊できなくて、大変な苦労をした。その代わり、いったん宿泊してしまえば、少なくとも予約できた数日間は、何しろヒルトンだから豪華だった。少し時代が経ってヒルトン以外に、シェラトン・インターコンチ・その他有名ホテルが建設されたが、現地のホテルとは設備その他にあまりにも格差があって、ビジネスマンはみな一流ホテルに宿泊していた。おかげで私も一流ホテルの宿泊歴だけは、たいていの人よりは上だろうと思う。 ―――― ◇ ――――ただこのホテルは典型的なアラブの商人宿で、窓は小さいものが高い所にあるだけで、建物の外は強烈な陽光だが、ホテルの室内は薄暗い。監獄といってもいいような室内ではある。家具もベニヤ板の安っぽい洋服ダンスがあるだけ。中には針金のハンガーが二・三個ぶら下がっている。それに紅海沿岸は湿気もすごいから、ひどくかび臭い上に、あまりシャワーを浴びないアラブ人の汗だらけの、すえたような、苦いような体臭が鼻をつく。しかし、こんなホテルには慣れていたから、ベッドにドンと身体を投げ出したが、おどろいた。ベッドの底が抜けて、身体が沈み込んだ。みなの汗がベッドのスプリングを錆びさせて、ついに底が抜けたらしい。部屋の隅にもう一つある粗末なベッドで寝ることにした。しばらくしてベランダに出てみたら首切り広場が真下に見える。処刑は金曜日に行われると言うから今日は静かなようだ。その内にはてな?と思った。上にのべた王女の処刑の現場をカメラで撮影した英国人の記者がいた。かれは秘密裏にそのフィルムを英国に持ち帰り、その写真が雑誌や新聞に掲載された。この結果、サウジアラビア政府は英国政府に国交断絶の可能性を示唆し、大問題になった事件があった。この英国人ジャーナリストが秘かに撮影したのは、この首切り広場廻りのホテルの一つのはずだが、ひょっとしたらこのホテルかも知れないと思った。広場を見下ろす角度といい、広場からの距離といい、他に条件が合うホテルがなさそうである。 ―――― ◇ ――――もうひとつ王女の恋物語がある。場所はサウジアラビアではなくて、対岸の小島のバハレーンである。女性はバハレーンの首長の親戚の王女。男性は米海兵隊員。ショッピング・モールでお互いに一目惚れで恋愛関係に入ったと言うことだが、そんなことが果たしてあり得るのかな?私は個人的には疑問なんだが、事実とされている。バハレーンは小さな島国なのでバスに乗った経験はないが、サウジアラビアではバスの中が二つに区切られていて男女は七歳以下でも席を同じゅう出来ない。だいたい女性は黒いベールで顔を隠していて、見せてもいけないし見てもいけない。われわれはカラス天狗と呼んでいたが黒いマスクをかぶっている時もある。ただ、サウジの美女を近くで拝める秘密の場所がある。一流店の化粧品売り場だ。そこでは上流階級のお嬢様・奥様達がベチャベチャ、ピーチクパーチクとおしゃべりし、化粧品を試し塗りしながら鏡をのぞき込んでいる。日頃のたしなみの黒いベールで顔を隠すこともせずに・・・。彼女たちはさすが美女を集めたハーレムのDNAが生きてて美女ぞろいだ。黒髪に黒い瞳だから、イタリアの清純な女優さんと言ったおもむきだ。イタリアと言ってもゲルマンの血が混じる北イタリアではなくて、アラブの血が混じるいシチリア島で見た美女たちによく似ている。バハレーンの海兵隊員もきっと化粧品売り場で彼女を見そめたのだろう。イスラム法ではイスラムの女性と異教徒の男性の結婚は禁止されているから、私がイスラムに転向したら理論的にはこの美女達の一人との結婚も可能となる・・・。チラッとこういう考えが頭に浮かんだこともあったが、イスラムに改宗するまえに首をちょん切られたかも知れない。首まで地面に埋められて、石を投げられて惨死したかもしれない。やはり私の人生はこれでよかったのだ・・・。
2008.01.07
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ついでにまた、【復刻日記】である。自分で読み直すために【復刻日記】にしているのである。 ~~~~~~~~1977年、サウジアラビアのある王女が処刑された。彼女は既婚者である上に平民の男と恋に落ち、男装して海外に逃亡しようとしたが発覚して処刑された。罪名は姦通罪だったと思う。なんでも処刑場に連れ出された二人はすでに鎮静剤を大量に打たれて意識朦朧としていたという。王女は銃殺、男は斬首された。通常、アラブでの姦通罪での処刑は石打刑である。息が絶えるまで民衆に投石されるのだが、一方の罪人が王女だから、温情の特別処置だと思う。 ―――― ◇ ――――私はこの王女が処刑された街、ジェッダに何度も長期出張していたが、タクシーなどで事務所から宿舎へ帰る途中に砂地の広場があってその広場を取り巻くようにカフェテラスが並んでいる。この広場は首切り広場と呼ばれていて、処刑が行われる場所でもある。中東では処刑も娯楽の一種である部分がある。日本でも江戸時代の処刑場では、竹矢来の外は野次馬で一杯だったと言うことだ。ある出張でジェッダに入った時にはまともなホテルに空き室がなかった。仕方がないのでこの首切り広場に面したホテルに宿泊した。 ―――― ◇ ――――もともと昔の中東はどの大都市でもヒルトンぐらいしか外国人が宿泊できるまともなホテルが無く、しかしそこはいつも満員でなかなか宿泊できなくて、大変な苦労をした。その代わりいったん宿泊してしまえば、何しろヒルトンだからなんでも豪華版。少し時代が経ってヒルトン以外にシェラトン・インターコンチ・その他有名ホテルが増えたが、まだ現地のホテルとはあまりにも格差があって、ビジネスマンはみな一流ホテルに宿泊していた。おかげで私も一流ホテルの宿泊歴だけは、たいていの人よりは上だろうと思う。 ―――― ◇ ――――ただこのホテルは典型的なアラブの商人宿で、窓は小さいものが高い所にあるだけで、建物の外は強烈な陽光だが、ホテルの室内は薄暗い。監獄といってもいいような室内ではある。家具もベニヤ板の安っぽい洋服ダンスがあるだけ。中には針金のハンガーが二・三個ぶら下がっている。それに紅海沿岸は湿気もすごいから、ひどくかび臭い上に、あまりシャワーを浴びないアラブ人の汗だらけのすえたような、苦いような体臭が鼻をつく。しかし、こんなホテルには慣れている私だから、ベッドにドンと身体を投げ出したが、おどろいた。ベッドの底が抜けて、身体が沈み込んだ。みなの汗がベッドのスプリングを錆びさせて、ついに底が抜けたらしい。部屋の隅にもう一つある粗末なベッドで寝ることにした。しばらくしてベランダに出てみたら首切り広場が真下に見える。処刑は金曜日に行われると言うから今日は静かなようだ。その内にはてな?と思った。例の英国人ジャーナリストが盗撮したのはこの首切り広場廻りのホテルの一つのはずだが、ひょっとしたらこのホテルかも知れないと思った。 ―――― ◇ ――――もうひとつ王女の恋物語がある。場所はサウジアラビアではなくて、対岸の小島のバハレーンである。女性はバハレーンの首長の親戚の王女。男性は米海兵隊員。ショッピング・モールでお互いに一目惚れで恋愛関係に入ったと言うことだが、そんなことが果たしてあり得るのかな?私は個人的には疑問なんだが。バハレーンは小さな島国なのでバスに乗った経験はないが、サウジアラビアではバスの中が二つに区切られていて男女は七歳以下でも席を同じゅう出来ない。だいたい女性は黒いベールで顔を隠していて、見せてもいけないし見てもいけない。われわれはカラス天狗と呼んでいたが黒いマスクをかぶっている時もある。ただ、サウジの美女を近くで拝める秘密の場所がある。一流店の化粧品売り場だ。そこでは上流階級のお嬢様・奥様達がベチャベチャ、ピーチクパーチクとおしゃべりし、化粧品を試し塗りしながら鏡をのぞき込んでいる。日頃のたしなみの黒いベールで顔を隠すこともせずに・・・。彼女たちはさすが美女を集めたハーレムのDNAが生きてて美女ぞろいだ。黒髪に黒い瞳だから、イタリアの清純な女優さんと言ったおもむきだ。イタリアと言ってもゲルマンの血が混じる北イタリアではなくて、アラブの血が混じるいシチリア島で見た美女たちによく似ている。バハレーンの海兵隊員もきっと化粧品売り場で彼女を見そめたのだろう。イスラム法ではイスラムの女性と異教徒の男性の結婚は禁止されているから、私がイスラムに転向したら理論的にはこの美女達の一人との結婚も可能となる・・・。チラッとこういう考えが頭に浮かんだこともあったが、イスラムに改宗するまえに首をちょん切られたかも知れない。首まで地面に埋められて、石を投げられて惨死したかもしれない。やはり私の人生はこれでよかったのだ・・・。
2006.02.06
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【復刻日記】昨日の王女の処刑物語の日記は本当はもっと長かったのだが、私なりの編集過程でまちがって短くなったまま書き込んでしまった。そういうわけなので今日は昨日の続きと言うことで、同じ話題から初めてみる。 ―――― ◇ ――――サウジアラビアの今の王朝の創始者、サウド王(3代前だったかな?)は、百人以上の子供を産んだ。もちろん同一の母親ではない。イスラム法では4人まで妻帯が許されるし、入場制限無しの後宮というものもある。その結果、サウジアラビアのいわゆる王子・王女達は数百人いると言われて久しいから、今ごろは千人を超えているかも知れない。この数多くの王子達が権力争いをするのだから、サウジという国も将来はなかなか大変だと思う。私もサウジアラビアのペルシャ湾側の対岸の島国、バハレーンのホテルのバーであるサウジアラビアの王子と仲良くなった。サウジアラビアは完全禁酒国だがバハレーンは歴史的に英国海軍の基地であった歴史があり、欧州文化との接触の歴史があるのでイスラムのタブーにも比較的寛容な土地で、ホテルでなら酒がでる。その若い王子は気がいい男で、サウジに来たら俺の家に来いとしきりに誘ってくれた。護衛らしき大男が二人ほどいた。 ―――― ◇ ――――しかし数は多くとも、直系・本家ではなくても、とにかく王女は王女である。しかも既婚の王女が平民の男と恋に落ちた。平民といえどもある国への大使の甥で名門の人間といえるのだが。致命的なのは、彼女が国外逃亡しようとして空港で逮捕されてしまったことだ。この事件は後ほど英国のテレビドラマにされた。もうひとつ、この処刑の現場にある英国人のジャーナリストがいた。昨日の日記で書いたことだが、首切り広場を囲む数軒のホテルのどれかの窓からぐうぜんこの処刑の瞬間を見つけて、とっさに自分のコダックカメラでこの場面を撮影、英国に持ち帰ってから雑誌に投稿した。私もこの写真を見たがプロのフォート・ジャーナリストでは無いから、カメラもいわゆる○○チョン・カメラでとったものだから、鮮明ではないがその場の雰囲気は見て取れる。ただし処刑の瞬間のものではなかった。それを掲載すると今度はその雑誌がサウジ政府から厳重な抗議を受けるからだろうが。この二つの事件はのちのち大きな話題になり、英国とサウジアラビアの関係が一時極度に険悪となった。大使を召還するしないの大事になった。 ―――― ◇ ――――サウジアラビアというのはアフリカ大陸とユーラシア大陸の間にある幅広い大きな半島、アラビア半島にある。この処刑が行われた都市ジェッダは、サウジアラビアの西側、紅海沿岸の最大の商業都市である。その紅海をはさんで対岸はアフリカ大陸である。サウジアラビアは産油国の中でも産油量の最も大きな金持の国だ。金満の国と言ってもいい。豪壮な住宅はある。しかし、水電気という基本的な生活工業設備、いわゆるインフラが、以前は不足していた。だから、超大型の発電所プロジェクト、海水淡水化プロジェクトがゴロゴロしていた。サウジアラビアに限らず、中東の産油国は同じ様な状況だった。だからプラント・プロジェクト本部に所属していた私は、サウジアラビアをはじめ中東産油国に何度も長期出張を繰り返して、受注して大喜びをしたり、受注を逃がして失望したり、そんな生活を繰り返していた。
2005.08.26
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今日は急用で日記を書けないので【復刻日記】としたい。 ~~~~~~~~【復刻日記】1977年、サウジアラビアのある王女が処刑された。彼女は既婚者である上に平民の男と恋に落ち、男装して海外に逃亡しようとしたが発覚して処刑された。罪名は姦通罪だったか、王族の人間が平民と結婚しようとした罪だったのか?どちらかだったと思う。なんでも処刑場に連れ出された二人はすでに鎮静剤を大量に打たれて意識朦朧としていたという。王女は銃殺、男は斬首された。通常、アラブでの姦通罪での処刑は石打刑である。息が絶えるまで民衆に投石されるのだが、一方の罪人が王女だから、これでも温情の特別処置だと思う。 ―――― ◇ ――――私はこの王女が処刑された街、ジェッダに何度も長期出張していたが、タクシーなどで事務所から宿舎へ帰る途中に砂地の広場があってその広場を取り巻くようにカフェテラスが並んでいる。この広場は首切り広場と呼ばれていて、処刑が行われる場所でもある。中東では処刑も娯楽の一種である部分がある。日本でも江戸時代の処刑場では、竹矢来の外は野次馬で一杯だったと言うことだ。ある出張でジェッダに入った時には、ヒルトンなどのまともなホテルに空き室がなかった。仕方がないのでこの首切り広場に面したホテルに宿泊した。 ―――― ◇ ――――もともと昔の中東はどの大都市でも高級ホテルであるヒルトンぐらいしか外国人が宿泊できるまともなホテルが無く、しかしそこはいつも満員でなかなか宿泊できなくて、大変な苦労をした。その代わりいったん宿泊してしまえば、先の予約が一杯は言っているので短期間のステイしかできないが、何しろヒルトンだからなんでも豪華版。少し時代が経ってヒルトン以外にシェラトン・インターコンチ・その他野市流高級ホテルが増えたが、まだ現地のホテルとはあまりにも格差があって、ビジネスマンはみな一流ホテルに宿泊していた。おかげで私も一流ホテルの宿泊歴だけは、たいていの人よりは上だろうと思う。 ―――― ◇ ――――この時、私が泊まったホテルは典型的なアラブの商人宿で、窓は小さいものが高い所にあるだけで、建物の外は強烈な陽光だが、ホテルの室内は薄暗い。監獄といってもいいような室内ではある。家具もベニヤ板の安っぽい洋服ダンスがあるだけ。中には針金のハンガーが二・三個ぶら下がっている。それに紅海沿岸は湿気もすごいから、ひどくかび臭い上に、あまりシャワーを浴びないアラブ人の汗だらけのすえたような、苦いような体臭が鼻をつく。しかし、こんなホテルには慣れている私だから、ベッドにドンと身体を投げ出したが、おどろいた。ベッドの底が抜けて、身体が沈み込んだ。みなの汗がベッドのスプリングを錆びさせて、ついに底が抜けたらしい。部屋の隅にもう一つある粗末なベッドで寝ることにした。しばらくしてベランダに出てみたら首切り広場が真下に見える。処刑は金曜日に行われると言うから今日は静かなようだ。その内にはてな?と思った。例の英国人ジャーナリストが盗撮したのはこの首切り広場廻りのホテルの一つのはずだが、ひょっとしたらこのホテルかも知れないと思った。写真のアングルから判断して、その可能性が高い。 ―――― ◇ ――――もうひとつ王女の恋物語がある。場所はサウジアラビアではなくて、対岸の小島のバハレーンである。女性はバハレーンの首長の親戚の王女。男性は米海兵隊員。ショッピング・モールでお互いに一目惚れで恋愛関係に入ったと言うことだが、そんなことが果たしてあり得るのかな?私は個人的には疑問なんだが。バハレーンは小さな島国なのでバスに乗った経験はないが、サウジアラビアではバスの中が二つに区切られていて男女は七歳以下でも席を同じゅう出来ない。だいたい女性は黒いベールで顔を隠していて、見せてもいけないし見てもいけない。われわれはカラス天狗と呼んでいたが黒いマスクをかぶっている時もある。ただ、サウジの美女を近くで拝める秘密の場所がある。一流店の化粧品売り場だ。そこでは上流階級のお嬢様・奥様達がベチャベチャ、ピーチクパーチクとおしゃべりし、化粧品を試し塗りしながら鏡をのぞき込んでいる。日頃のたしなみの黒いベールで顔を隠すこともせずに・・・。彼女たちはさすが美女を集めたハーレムのDNAが生きてて美女ぞろいだ。黒髪に黒い瞳だから、イタリアの清純な女優さんと言ったおもむきだ。イタリアと言ってもゲルマンの血が混じる北イタリアではなくて、アラブの血が混じるいシチリア島で見た美女たちによく似ている。バハレーンの海兵隊員もきっと化粧品売り場で彼女を見そめたのだろう。イスラム法ではイスラムの女性と異教徒の男性の結婚は禁止されているから、私がイスラムに転向したら理論的にはこの美女達の一人との結婚も可能となる・・・。チラッとこういう考えが頭に浮かんだこともあったが、イスラムに改宗するまえに首をちょん切られたかも知れない。首まで地面に埋められて、石を投げられて惨死したかもしれない。やはり私の人生はこれでよかったのだ・・・。
2005.08.25
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Katiebooksさんの日記が面白いので、はじめから読んでみた。こういう日記があった。日本旅行ー私の好きな眺めのいいホテル ~~~~~~~~東京の空も、秋と冬はみごとに青い。私のEXワイフは欧州人、それも北の方の国だったので、日本で外出中に「日本の青い空はいいだろう 君の国では冬に青い空なんてあり得ないからな」とうっかり言ったら、なぜか、怒りだされたことを想い出す。ホテルと言えば、私は中東でビジネスをやっているときは、いつも一流ホテルに宿泊しました。シェラトン・インターコンチ・ヒルトン・マリオットetc etc.別に自慢というわけではなく、第一、会社の出張費で宿泊するわけだが、そもそもその当時の中東では、外国人が泊まれるホテルは一流ホテルしか無かったからだ。あとはアラブの安宿だが、ここは出来るなら止まりたくないところ。とは言っても、中東ブームの時代の初期は、その「外国人が泊まれる一流ホテル」はヒルトンだけで、(あとで他の一流ホテルも建設ラッシュになりましたが)、なかなか泊まれない。運良く予約がとれても数日。その数日が過ぎれば、予約が詰まっているので、追い出されます。しかたがないので、そんなときは灼熱の町を、タクシーでさまよいながらアラブの安宿を訪ねまわって、なんとか空き室を見つけて泊まる。そんなアラブの安宿は、焼けた屋外と反対に暗く湿っていて、カビの臭いと、風呂に入らないアラブ人の強烈な、苦いような体臭が鼻から刺すように入ってきて、しばらくは頭が痛くなりそう。部屋には、高いところに窓があって、バルコニーらしき所に出ようとすると、床が朽ちているので危ない。ベッドは客の汗でスプリングがいかれていて、中央部が凹んでいます。古いクーラーがあればラッキーですが、無ければ天井の扇風機がゆらゆら回っているだけ。ま、そんな安宿でも住めば都。だんだんなじんで、薄暗い食堂で、ラクダのステーキなど食べておりました。日本へスパイ活動の成果?を報告するためにテレックスを出してくれと頼むと、忙しいので今は出来ないという。天井部屋にテレックスがあるから、勝手に打てばいいと言う。しかたがないので、勝手が分からないシーメンス社製のテレックスマシーンの前に座って、ふんどしのような長い原稿(ポツポツと点字のような穴が開いた紙テープ)をつくり、いい加減な操作で送信する。それはそれで、のんきな所だったので・・・、懐かしい。
2005.08.15
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暑いときは、【復刻日記】で手抜きをしよう。みなさんも、更新が滞っている日記が多いようだし。 ~~~~~~~~【復刻日記】 今年の夏の暑さはすごい。あまりの暑さで、もう何もする元気が出てこない毎日だ。日記も復刻版ばかりでごまかしている。さすがに怠け者の私も、これではいけないと思い始めた。何かいい方法はないだろうか?それがあるのである。私には、しょうれいの地、中東の酷暑の中を生き延びたという貴重な経験があるのだ。あの暑さを思い出せば、これしきの暑さに負けるわけには行かないのだ。それにイラクで酷暑に呻吟しているはずの自衛隊のみなさんの苦労も思いやらなければいけない。・・・ということで、中東の暑さを思い出して書いてみよう。しかし、この暑さだから、短めの文章にしたい。(やはり暑さに負けているのだが)~~~~~~~~~中東の暑さはみなさんの想像以上である。イラクはまだそれほどでもないと思うのだが、少なくともアラビア半島のUAE(アラブ首長国連邦)やサウジアラビアの暑さと言ったら無い。ここは昔、白人の墓場と言われたほどの場所だ。気候は HOT HOTTER HOTTEST の三季節しかない。温度は60度以上になる。発表される温度はそれほどでなくても、実際に地上に立ったら、そこの温度は60度を越す。自動車のボンネットで軽く目玉焼きが出来る。駐車した車のハンドルを握ることが出来ない。タクシーにはクーラーが無いことが多かったが、だからといって窓を開けると熱風が入って来るから、窓は閉める。一度、UAEの中のアブダビから、エジプトのカイロに出張したことがあった。ピラミッドやスフィンクスを観て、夜のテントで半裸美女の!ベリーダンスを観てアブダビに帰った。その帰りの飛行機がアブダビ空港に着いて、ドアが開いた瞬間、驚いた。本当に一瞬で、手の平がベタッとなったのだ。つまりものすごい湿気が機内に入ってきたのだ。つまりそれほど、アブダビの湿気はすごい。一年中、ほとんど100%。車のフロント・ウインドーも湿気の多い日は、湿気で曇るからワーパーを動かす。東京からの出張者がゴルフをしたら、5ホールめで、熱中症で倒れて救急車のお世話になった。なおこのゴルフ場は、競馬場ならぬラクダのレース場兼用のもの。もちろんグリーンなど無いので、砂をアスファルトで固めたものがグリーンの代用になる。フェアウェイでもカチカチに干上がった地面にラクダの大きな蹄がディポットになっていて、ボールはパチンコの玉のようにカンカンと転がりまわる。めったにないが、停電になると困る。エレベーターもクーラーも止まるからだ。高層アパートの階段をやっと徒歩で登ってきたら、部屋は蒸し風呂以上。とても生きて行けない環境なんだけれど、外に出れば熱中症になるから仕方がない。ベッドのシーツをバスタブに浸して、それをかぶってベッドに横になるとかろうじてしのげる。それでも、シーツが一時間で乾くのでまたバスタブに浸す。(なお、このアブダビの想い出は、ずいぶん古い話なので、今ごろは、相当変わっているだろう事をお断りしておきます)~~~~~~~~~あれを思い出したら、怖いものはないはずなんだけれど、それでも暑いものは暑い。暑い想い出を思い出しただけ、損をした感じ。今晩は、美女の館にでも飲みに行こう。この暑さに耐える私へのごほうび。(正当化できんか?)
2005.08.05
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お約束通り?、これからは日記を書くのも、「当日の日記」とバックナンバーをコピーしての「復刻日記」との二本立てとするつもり。私自身としても、こういう機会に以前に書いた日記を読む機会になる。正直言って、過去の日記を読んで、この私がこんなことを書いていたのか!?と驚くこともあって、おもしろいのだ。それに人間は分子的に言うと、数十日のスパンで全身が入れ替わっているそうだ。つまり全身、別の人間に新調されているわけだ。それなのにその人の個性というものは、継続されて同一人である。これは不思議だな~。だから、私は私の過去の日記とか、その中の思想に責任を負うものではない! なんちゃって。 ■■■■■■■■【復刻日記】白人の墓場といわれた中東地域に自衛隊が派遣されるが、私の中東経験からして、中東の気候は極めて厳しいから自衛隊の隊員たちもそうとう苦労するだろうと思うこと私は仕事の関係で中東諸国にも、長い間、いたことがある。イラク・イラン・ヨルダン・シリア・レバノンなどの近東は行った事が無いが、他の中東諸国にはほとんど滞在していたことがある。自衛隊のイラク派遣が進んでいる。「一体何しに行くんだ」と揶揄する声が多いし、中にはイラクでの自衛隊を馬鹿にしてような意見もある。しかし中東での生活は厳しい。特に酷暑が厳しい。イラクはまだ行ったことがないが、近隣のUAE(アラブ首長国連邦)諸国・クエート・サウジアラビアなどは、昔は白人の墓場と呼ばれた場所。今は冷房もあるし、地下水をくみ上げたり、海水の淡水化工場から水も来る。その水で草木を育てているから以前無かった大雨などがときどき降るようになって、気候が少し変わってきたようだ。しかし基本的には高温と湿気の世界。暑さのピークの季節では輻射熱もあって温度は60度近く、湿度は常時100%なんかになる。季節といっても hot・hotter・hottest の三つの季節しかない地域だ。ある時、日本からの出張者が「ちょっと散歩してきます」とオフィスを出て行ったが、まもなく顔面蒼白でヨロヨロと帰ってきた。東京からの出張者がゴルフのたった5ホール目で倒れて救急車が来た。共に日射病。UAEからエジプトのカイロに出張することがあった。おかげでピラミッドを見ることが出来て大きな感動を得た。そのカイロからUAEに帰ってきた時、飛行機の出口に並んで扉が開くのを待っていた。扉が開いた瞬間、手の平に異変が起きた。瞬間に手の平がニチャッとしたのだ。何が起こったのかその時はよくわからなかったが、今まで機内で乾燥していた手の平が、UAEの100%の湿気で瞬時にベタベタになったのだ。(100%なんて、大げさだと思う人もいるかもしれないが、正真正銘の100%だ)これにはおどろいた。同じ中東のアラブ世界でもこれほどちがうのだ。車のボンネットで簡単に目玉焼きが出来る。うっかり車のボディーに直接さわると飛び上がるほど暑い。フロントウィンドーに覆いをかけておかないと、いざ車を使おうという時に熱くてハンドルが持てない。今は冷房のタクシーがあるようだけれど、昔は無かった。田舎に行ってボロタクシーに乗ると大変だった。窓から熱風が吹き込んで来て顔が痛いほど熱い。暑いのをがまんして、窓を閉めてゆでだこのようになりながらがまんする。それでも窓を開けるよりはましだからだUAEの中で一番大きな国であるアブダビの首都はやはりアブダビという。そこから車で二時間ほどの場所にアル・アインという町がある。アルというのはスペイン語に入ってエルという定冠詞になった。アルコール、アルミなどのアルは、このアルである。アインというのは泉という意味。つまりアル・アインはオアシスの街だ。泉町という感じだ。しかし、中東でオアシスというのは特別の場所だ。唯一そこで人間がまともに生きて行くことができる場所だからだ。水があって一応畑も耕せるし、ヤシの木からナツメヤシの実も採れる。この町というか村というか、この場所に住む人々は海岸に面した新興都市である首都のアブダビに住む人々とはちがってかなり昔のアラブそのままの見かけの人々が多い。顔は赤銅色に日焼けして、ひからびてしわは深い。日本の猟師顔を極端にしたようなものだ。歯は何本も抜けている。今まで裸足で歩いていたから、足はかかとなどがカチカチ二硬くて、ひび割れていて、靴など要らない状態だ。足=靴じょうたいなのだから、靴の上に靴は履けない。しかしまあ、彼らはほとんどサンダル履きだけれど。そこの住民であるお客さんと話していておどろいたことがある。彼はその温厚な立ち振る舞いもあって、当然私より年上だと思っていたのだが、聞いてみると年令は私よりはるかに若いのだ。この激しい気候の中で肉体的には早く年をとってしまっている。今は舗装道路も完備して、車で片道二時間ほどで行き来できるアブダビとアル・アインの間だが、彼の昔話を聞くとラクダで2・3日はかかったという。運悪く、途中で砂嵐などに遭った場合は何日もラクダと共に砂の中で過ごしたという。ラクダの鼻の穴はこんな場合に備えて自由に閉じることができる。アラブ人のあの頭巾も砂嵐の時に顔を隠すためにあるのかも知れない。砂嵐というのが北の方から拭いてくる季節がある。黄色い砂を含んだ季節風だ。空も何もどんよりとした黄色にけむり、昼間でも車がライトをつけて走る。数日続く。本多勝一氏の「アラビア遊牧民」を数十年前に読んだことがあるが、ラクダにはその年令別で呼び分ける名前が数十あると書いてあった。日本の出世魚の呼び名など、せいぜい四つぐらいだろう。それに日本人は魚の名前を非常に多く知っているが、欧米人など(専門家の魚屋はのぞいて)5つも知っていればいい方だと思う。マグロ・イワシ・サバ・タラ・サメ・・このへん止まりなのではないだろうか?(サメとフカはどう違うのだろうか? いつもこの疑問が気にかかる)魚と言えばおかしい想い出がある。このアル・アインの田舎道を歩いてオマーンへ行ったとこのことだ。オマーンという国は先頃サッカーで日本と対戦したのでおなじみだと思う。この国は古い国でシバの女王がいた国とも言われる。ポール・ニザンの「アデンにて」という本があるが、このアデンがある国だ。首都はマスカットでマスカット種の葡萄はここが原産だという。ところでオマーンはアブダビから相当離れたところにある国だ。車で数時間かかる。それなのに歩いていけるというのは不思議だと思うはず。実はこのアル・アインのとなりにオマーンの飛び地があるのだ。同じ一つのオアシスの中にオマーンの飛び地があるのだ。昔はオアシスしか価値が無かったからオアシスを区切っていたのだと思う。ただし今は石油などが出て、砂漠も重要になった。アラブ諸国の国境線はなにしろ砂漠だからハッキリしない。目印になるオアシスなどから線を引いた国境線が多い。オマーンとサウディ・アラビアなどもこの近辺で国境線争いで小規模だが戦火を交えている。ところで、オアシスの田舎道とは牧歌的だ。道は田んぼのあぜ道程度だ。その道の脇にオアシスの水を導いた泥で固めた水路があってその中を透明な水がチョロチョロと流れている。その脇にはヤシの木が並木道としてパラパラと植わっている。民家は泥の壁で囲まれている。そんな道を歩いてオマーンに行く途中、あるオッサンとすれちがった。ちょっと汚い目のターバンを巻いていて、何か大事そうに濡れた新聞紙を手に持っている。チラッとみると中身は小振りなアジ程度の大きさの魚が数匹だ。このオアシスの池で取れたものだろうか?一度、バハレーンのオアシスで大きな深い池を見たことがある。子供たちが飛び込んで泳いでいたし、魚もいるらしかった。オマーンに行ったら、飛び地は本当に小さな村だった。小さな小屋の郵便局でオマーンの切手を買って、アブダビ側に帰ってきたら、また例の魚のオッサンとすれちがった。オッサンは歩きながら、今度は何か落ち着かぬ様子でブツブツ口の中でいいながら地面をきょろきょろ見ている。何をしているのだろうと思ったがそのまま行き過ぎた。しばらくした道に一匹の魚を見つけた。ちょっと砂にまみれているが銀色に光っている。「ハハーン これだ!」と思った。オッサンは自宅?に帰って新聞紙を開いてみたところ、魚の数が一匹少なかったのだと思う。あわてて落とした魚を探しに来たのだ。オアシスでは魚は貴重品なのだろう。教えてやろうと思ったがオッサンがすぐには見つかりそうになかったのでそのまま歩いた。おかしい気持ちもしたが、オッサンを可愛くも感じた。 ―――― ◇ ――――こういう、のどかなところばかりでないのが中東。特にカンカンに熱くなる戦車の中の兵士は大変。それに高温は電子機器を狂わせるし、細かい砂漠の砂が入って来てメカが故障するし、これも難問。だから、経験の無い人にはわからないだろうけれど、自衛隊も酷暑の中、ごくろう様だと思う。あとで、本日の「当日日記」を書こう。
2005.05.23
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昨日の王女の処刑物語の日記は本当はもっと長かったのだが、私なりの編集過程でまちがって短くなったまま書き込んでしまった。そういうわけなので今日は昨日の続きと言うことで、同じ話題から初めてみる。 □□□□□□□ 【復刻日記】サウジアラビアの今の王朝の創始者、サウド王(3代前だったかな?)は、無類の絶倫で、百人以上の子供を産んだ。もちろん同一の母親ではない。イスラム法では4人まで妻帯が許されるし、その上に、人数制限無しの「ハーレム」というものもある。その結果、サウジアラビアのいわゆる王子・王女達は数百人いると言われて久しいから、今ごろは千人を超えているかも知れない。この数多くの王子達が権力争いをするのだから、サウジという国も将来はなかなか大変だと思う。私もサウジアラビアのペルシャ湾側の対岸の島国、バハレーンのホテルのバーであるサウジアラビアの王子と仲良くなった。サウジアラビアは完全禁酒国だがバハレーンは歴史的に英国海軍の基地であった歴史があり、欧州文化との接触の歴史があるのでイスラムのタブーにも比較的寛容な土地で、ホテルでなら酒がでる。その若い王子は気がいい男で、サウジに来たら俺の家に来いとしきりに誘ってくれた。護衛らしき大男が二人ほどいた。 ―――― ◇ ――――しかし数は多くとも、直系・本家ではなくても、とにかく王女は王女である。しかも既婚の王女が平民の男と恋に落ちた。平民といえどもある国への大使の甥で名門の人間といえるのだが。致命的なのは、彼女が男装して国外逃亡しようとして空港で逮捕されてしまったことだ。この事件は後ほど英国のテレビドラマにされた。もうひとつ、この処刑の現場にある英国人のジャーナリストがいた。昨日の日記で書いたことだが、首切り広場を囲むホテルのどれかの窓からぐうぜんこの処刑の瞬間を見つけて、とっさに自分のコダックカメラでこの場面を盗撮、英国に持ち帰ってから雑誌に投稿した。このホテルとは、多分、私が宿泊したホテルだろうと思う。私もこの写真を見たがプロのフォート・ジャーナリストでは無いから、カメラもいわゆる○○チョン・カメラでとったものだから、鮮明ではないがその場の雰囲気は見て取れる。ただし処刑の瞬間のものではなかった。それを掲載すると今度はその雑誌がサウジ政府から厳重な抗議を受けるからだろうが。この二つの事件はのちのち大きな話題になり、英国とサウジアラビアの関係が一時極度に険悪となった。大使を召還するしないの大事になった。 ―――― ◇ ――――サウジアラビアというのはアフリカ大陸とユーラシア大陸の間にある幅広い大きな半島、アラビア半島にある。この処刑が行われた都市ジェッダは、サウジアラビアの西側、紅海沿岸の最大の商業都市である。その紅海をはさんで対岸はアフリカ大陸である。サウジアラビアは産油国の中でも産油量の最も大きな金持の国だ。金満の国と言ってもいい。豪壮な住宅はある。しかし、水電気という基本的な生活工業設備、いわゆるインフラが、以前は不足していた。だから、超大型の発電所プロジェクト、海水淡水化プロジェクトがゴロゴロしていた。サウジアラビアに限らず、中東の産油国は同じ様な状況だった。
2005.04.05
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やはり復刻日記で手抜きをすると、軽い罪悪感がある。だからもう一つ復刻日記を重ねて恥の上塗りをしたい。 □□□□□□□ ≪復刻日記≫サウジアラビアの王女が男装しての恋の逃避行に失敗、処刑された広場を見下ろすホテルに宿泊したこと1977年、サウジアラビアのある王女が処刑された。彼女は既婚者である上に平民の男と恋に落ち、男装して海外に逃亡しようとしたが発覚して処刑された。罪名は姦通罪だったと思う。なんでも処刑場に連れ出された二人はすでに鎮静剤を大量に打たれて意識朦朧としていたという。王女は銃殺、男は斬首された。通常、アラブでの姦通罪での処刑は石打刑である。息が絶えるまで民衆に投石されるのだが、一方の罪人が王女だから、温情の特別処置だと思う。 ―――― ◇ ――――私はこの王女が処刑された街、サウジアラビアの西海岸の商都・ジェッダに何度も長期出張していたが、タクシーなどで事務所から宿舎へ帰る途中に砂地の広場があってその広場を取り巻くようにカフェテラスが並んでいる。この広場は首切り広場と呼ばれていて、処刑が行われる場所でもある。中東では処刑も娯楽の一種である部分がある。日本でも江戸時代の処刑場では、竹矢来の外は野次馬で一杯だったと言うことだ。ある出張でジェッダに入った時にはまともなホテルに空き室がなかった。仕方がないのでこの首切り広場に面したホテルに宿泊した。 ―――― ◇ ――――もともと昔の中東はどの大都市でもヒルトンぐらいしか外国人が宿泊できるまともなホテルが無く、しかしそこはいつも満員でなかなか宿泊できなくて、大変な苦労をした。その代わりいったん宿泊してしまえば、何しろヒルトンだからなんでも豪華版。少し時代が経ってヒルトン以外にシェラトン・インターコンチ・その他有名ホテルが増えたが、まだ現地のホテルとはあまりにも格差があって、ビジネスマンはみな一流ホテルに宿泊していた。おかげで私も一流ホテルの宿泊歴だけは、たいていの人よりは上だろうと思う。 ―――― ◇ ――――ただこの私が宿泊したホテル?は典型的なアラブの商人宿で、窓は小さいものが高い所にあるだけで、建物の外は強烈な陽光だが、ホテルの室内は薄暗い。監獄といってもいいような室内である。違いは出てゆく自由があることと、こちらが宿泊代を払うと言うことぐらい。家具もベニヤ板の安っぽい洋服ダンスがあるだけ。中には針金のハンガーが二・三個ぶら下がっている。それに紅海沿岸は湿気もすごいから(湿度100%)、ひどくかび臭い上に、シャワーを浴びないアラブ人の、汗だらけのすえたような、苦いような強烈な体臭が鼻をつく。しかし、こんなホテルには慣れている私だから、ベッドにドンと身体を投げ出したが、それでもおどろいた。ベッドの底が抜けて、身体が沈み込んだ。みなの汗がベッドのスプリングを錆びさせて、ついに底が抜けたらしい。部屋の隅にもう一つある粗末なベッドで寝ることにした。しばらくしてベランダに出てみたら首切り広場が真下に見える。処刑は金曜日に行われると言うから今日は静かなようだ。その内にはてな?と思った。例の英国人ジャーナリストが盗撮したのはこの首切り広場廻りのホテルの一つのはずだが、ひょっとしたらこのホテルかも知れないと思った。 ~~~~~~~ サウジアラビア王国のある王女が平民の男性と恋いにおちいった。平民との恋愛・結婚はサウジでは御法度である。二人は変装して国外に逃れようとした。王女も男装した。しかし、出国の際に見破られて逮捕された。そうして、公開処刑された。ふつう、イスラムでの姦通罪は、地面に埋められて、民衆から石を投げつけられて死ぬのだが、温情で首切りとなったようだ。 ~~~~~~~ ある英国のジャーナリストがこのサウジの王女の処刑の場面をたまたま宿泊先のホテルでバカチョン(今は差別語だが)カメラで撮影して、帰国した英国で雑誌で発表、英国とサウジが国交断絶寸前にまで至った事件がある。 ―――― ◇ ――――もうひとつ王女の恋物語がある。場所はサウジアラビアではなくて、対岸の小島のバハレーンである。女性はバハレーンの首長の親戚の王女。男性は米海兵隊員。ショッピング・モールでお互いに一目惚れで恋愛関係に入ったと言うことだが、そんなことが果たしてあり得るのかな?私は個人的には疑問なんだが。バハレーンは小さな島国なのでバスに乗った経験はないが、サウジアラビアではバスの中が二つに区切られていて男女は七歳以下でも席を同じゅう出来ない。だいたい女性は黒いベールで顔を隠していて、見せてもいけないし見てもいけない。われわれはカラス天狗と呼んでいたが黒いマスクをかぶっている時もある。ただ、サウジの美女を近くで拝める秘密の場所がある。一流店の化粧品売り場だ。そこでは上流階級のお嬢様・奥様達がベチャベチャ、ピーチクパーチクとおしゃべりし、化粧品を試し塗りしながら鏡をのぞき込んでいる。日頃のたしなみの黒いベールで顔を隠すこともせずに・・・。彼女たちはさすが美女を集めたハーレムのDNAが生きてて美女ぞろいだ。黒髪に黒い瞳だから、イタリアの清純な女優さんと言ったおもむきだ。イタリアと言ってもゲルマンの血が混じる北イタリアではなくて、アラブの血が混じるいシチリア島で見た美女たちによく似ている。バハレーンの海兵隊員もきっと化粧品売り場で彼女を見そめたのだろう。イスラム法ではイスラムの女性と異教徒の男性の結婚は禁止されているから、私がイスラムに転向したら理論的にはこの美女達の一人との結婚も可能となる・・・。チラッとこういう考えが頭に浮かんだこともあったが、イスラムに改宗するまえに首をちょん切られたかも知れない。首まで地面に埋められて、石を投げられて惨死したかもしれない。やはり私の人生はこれでよかったのだ・・・。
2005.04.04
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■ 昨晩のサッカー、バーレーン戦、ラッキーだったけれど、押していたから少なくとも負ける気はしなかった。しかし引き分けで勝ち点1では負けに近い。だから、とにかくオウン・ゴールでも勝ててよかった。しかし、日本のFWは無力だな~。高原なんて切れが全くなかった。鈴木もシュートを除いて、いいところがなかった。どうして大黒を出さないんだ、ジーコ!三都主(サントス)(ニックネームはアレックス)(私のHNは彼からいただいたもの)が復帰して、左からの攻撃力が効果的になった。三浦じゃだめだったんだ・・・。今は中村俊輔頼みの日本だな。中田英、昔の輝きと力強さは無い。それにしても・・・、ジーコの戦術(あるのか?)と選手起用は、切れが悪いというか、欲求不満のたまるものだ。毎度のことだけれど、評論家の松木安太郎氏。解説というものは、客観的な高度な技術論を提供するものだと思うけれど、この人にそれを望んでも無理。まあ、応援団長だと思えばいいのかな?半ば眠っている香取慎吾には何も期待していないが、私のきらいな川平磁英が相変わらず、「大丈夫ですっ!」と、うるさい。■ バーレーンは、私が最初に訪問・滞在したアラブの国だ、大昔の話だが。当時は、日本の会社など全くなく、日本人に出会うこともなかった。大きな国際級のホテルは一軒しかなくて、いつも外国人客で一杯。あぶれた時は現地人(アラブ)の泊まる商人宿に泊まった。あそこで出してくれたビフテキは絶対に「ラクダのステーキ」だったと確信している。東京へテレックスを打電したくても、フロントの人間がめんどくさがってなかなか打ってくれない。仕方がないので、天井の部屋に入って自分でテレックスを打電した。しかし、このテレックスが東京などで使用していた米国製のものでなく、ドイツのジーメンス製のもので使用法がちがっていて苦戦したものだ。現地では「バーレーン(英語読み)」ではなく、バハレインと発音する。アラビア湾(イランは昔からペルシャ湾と呼ぶ)のサウジアラビア沖に浮かぶ小島。今はサウジとコーズウェイという堤防のような砂州に道路が建設され、お互いに行き来が出来る。古代バビロニア、アッシリア時代には、ディルムーンという名のアフリカ・アラビア・インド間の貿易中継地として繁栄した。一説では、旧約聖書で言うところの「エデンの園」のモデルだったとも言われ、その時代の遺跡が残っている。私がその遺跡を訪れたら、近くに小さなしかし深い池があって、岩の上から子供たちが次々と飛び込んで泳ぎ回っていた。透き通った瑠璃色の水の中に魚が泳いでいるのにはびっくりした。BC3世紀~15世紀 真珠の産地として栄えたという。島の人々も昔はこうして海に潜って真珠を採っていたのだろう。 18世紀 アラビア半島から移住したハリーファ家がバーレーンの基礎を作る。 1971.8 英国より独立 。1972 憲法を起草する為の憲法会議が、選ばれた。首長は1973.5に憲法を発布 1973 国民議会選挙が行われ、12月に召集されたが、1975首長は国民議会を解散し政党活動も禁止した。 1999 イーサ首相が逝去し、ハマド皇太子が首長位を継承。現在二院制議会の設置・女性参政権を認めるなど民主化を推進している 一時は英国艦隊の基地であった影響か?周りのサウジ・クエートなどの傲慢不遜な人たちとちがって、穏やかで紳士的な人が多い印象がある。アラビアで石油が最初に発見された国でもある。しかし、今は石油はほとんど採掘されず、金融の国となっている。日本からも銀行などが数多く進出している。
2005.03.13
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今日は一日外出するので、復刻日記でお茶をにごすことにする。 ~~~~~~~~~時間も押し詰まってきて、今日の日記は何をテーマに書こうかと考えはじめていたが、また、図書館派か?購入派か?のテーマをまた思い出した。とにかくこれでスタートしてみよう。とちゅう寄り道や迷走、ダッチロールありということで・・・。 ―――― ◇ ――――私は前に本は買う主義だと書いた。一応そう書いたが、ずっとそうであったと言うことでもない。会社員時代は時間が無くて、買った本がなかなか読めなかった。仕事が激務で・・・とネット上でもいままでさんざんいいわけをしてきたが、事実そうではあったのだが、それでも、放課後?に同僚と夜の街にくりだして酒を飲んでいた時間というものが厳然としてあったわけで、この享楽の時間を読書にあてていればよかったのだが、人間どうしても楽しい方に行ってしまう。午前様になって帰ってきて、「歓楽尽きて哀感多し・・・」などと、つぶやきながら水道の水を飲んでバタンキューと寝るわけだが、この水道の蛇口からベッドへの直線的なフローチャートの軌道の途中に、もし読書机があればいいのだけれど、なかなかそうはいかない。せいぜいテレビをパチッとつけてみて今日のプロ野球ナイターの結果などを確認してからベッドに倒れ込む。「日本人は安全と水はただだと思っている」とベンダサンが嘆いていたが、私は安全と水に加えて時間まで「無制限」だと思っていた。しかし、ことここまで老いさらばえてみると、当たり前のことだが時間とて無制限ではなかった。それどころか、もう人生の残された時間というものの底が見えているのである。これではいけない。これまでにたまった大量の本を読んでしまってから、しずしずと棺桶に入るという手はずにしなければいけない。さすがに棺桶に本は投げ込まないで欲しい。安眠したいのである。 ―――― ◇ ――――そんな自堕落な生活の中で、長期の海外出張、それも特に中東地域への出張は読書の好機だった。中東では娯楽が無く外出することがほとんどなく、読書ぐらいしかすることがなかったからだ。中東では、特にイスラム教の中でも教義がきびしいスンニー派のワハブ宗の総本山、サウディ・アラビアやそれに準じるクェート・UAE(アラブ首長国連邦)などでは娯楽というものがない。無いと言い切るとちょっと事実ではないかも知れないけれど、われわれから見ればほとんど無いに等しい。第一娯楽設備というものが皆無なのだ。映画館にして映画は偶像崇拝だということで無いんだから始末が悪い。酒だって厳禁。UAEなんかではホテルではOKだし、定住外人にはライセンス制で月々何本という酒の配給制でコントロールしている。しかし公衆の面前での飲酒は厳しく禁止されていて、違反すれば投獄と言うことになる。一般に夜の街で酒が飲めないと何をしてもそれほど面白いものでもない。ただし、今思い出したのだが、とても理解できないことがあった。アブダビの石油省の建物が二階建てのけっこう粗末なものだったころだ。くどいようだが、どうしてあんなことがあり得たのか全く今でも見当がつかないのだが、この石油省(産油国の花形のお役所だ)の二階にあやしげなナイトクラブがあったのだ。薄暗いクラブの中で主に香港か韓国あたりの出身らしい女性が肌もあらわな服で客の相手をするのだ。もちろん酒はある。ウィスキーからブランデーまでたっぷりある。こんな禁酒国の中にそれも石油省の真上でナイトクラブである。私にも女性が来て話かけるものだからむげに断れなくて?一杯おごった。しかしそうしていても、この世紀の矛盾?にどうしても納得がいかず、しばらくして退出した。そこにはそれからは、日本から客が来たときに一度連れて行っただけだが、日本からの客には面白くもなかっただろうと思う。昼間なら海水浴というものがある。ぬるま湯の様なまな暖かい海水で塩分が死海ほどではないけれど非常に濃いから身体は浮く。間違ってもおぼれ死んだりはしない。たまに白人の女性が泳ぎに来ると岸に黒山の人だかりができる。現地人もいるが主にインド・パキスタンからの出稼ぎの単純労働者たちだ。彼らだってイスラムである。パキスタン人はもちろんだが、インド人だってパキスタンに移動しないでそのままイスラム系インド人として暮らしている人口がかなりになる。イスラムの社会では女性が人前で肌を見せることはしない。ましてや水着になって海水浴などをしない。ましてや珍しい雪のように肌の白い白人女性だ。ましてや彼らは独身か、結婚していても単身赴任?の身の上。工事現場の宿舎や、家賃倹約の目的でひとつのフラットに十人近くもの人間がギッシリ住んでいる状態だから女性を見るだけで目の色が変わる。ましてや・・・。それからゴルフもあるにはある。アブダビなんかでは専用のゴルフ場ではなかった。兼用だった。では、何と兼用だったかというと、競馬ならぬ競駱駝、ラクダ競争のスタジアムである。ラクダがパカパカ競争するわけで、ほぼ競馬と同じように走る。そんなところだから、それに中東だからフェアウェイといっても草は生えていない。砂地か粘土である。カチカチに乾燥している上にラクダの大きなひずめの後が自然のディボットを作っていて、この中にボールが転げ込むと打ち出すのに苦労する。こんなフェアウェイだからキ==ンと会心の当たりをしても、ランが問題になる。固くてラクダの足跡いっぱいの地面をキンコンカンと転げ回る。パチンコを見ているみたいなものだ。やっとグリーンに来てもグリーンではない。・・・と言うのもおかしな言い方になるが、芝生ではないと言うことだ。そのかわりに砂が敷いてあってアスファルトが薄く撒いてある。これで質感はほぼ芝生・・・・と思いこむより無い。ただし酷熱の地、かって白人の墓場・オマーン土候国とよばれたUAEだ。暑いの何のって!!60度ぐらいにはざらになる。日本から来た私の部下は大張り切りでスタートしたが5ホール目で日射病、いまでいう熱中症になって、ゴルフに熱中できないまま救急車に運ばれてゴルフ場を去ることになった。あと、現地の人達は四輪駆動の車に乗って砂漠に寝に行く。本当に寝に行くのだ。いまは街の住宅に定住したがもとはといえばベドウィンといって砂漠の遊牧民。ラクダを追って生活していたわけだからいくら豪邸でも居心地が悪いという。もう「もう、たまらなく砂漠に直に寝たくなるんだ」といって私の取引先の一人は、私との約束をキャンセルして砂漠に走っていってしまった。砂を噛むような思いだった。あと、いろいろあるじゃないか?、現地の人は鷹狩りをする。砂漠にもそれなりに動物がいるらしくて高価な鷹を連れてジープで砂漠へ走る。けっきょくわれわれには楽しみがなんにもないわけで、それで読書となる。では指もつかれたので今日はこれぐらいにしよう。今日は「今日の俳句」も無しになる。
2005.02.22
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復刻日記 「王女の処刑 PART 2 」昨日の王女の処刑物語の日記は本当はもっと長かったのだが、私なりの編集過程でまちがって短くなったまま書き込んでしまった。そういうわけなので今日は昨日の続きと言うことで、同じ話題から始めてみる。 ―――― ◇ ――――サウジアラビアの今の王朝の創始者、サウド王(3代前だったかな?)は、無類の絶倫で、百人以上の子供を産んだ。もちろん同一の母親ではない。イスラム法では4人まで妻帯が許されるし、入場制限無しの「ハーレム」というものもある。その結果、サウジアラビアのいわゆる王子・王女達は数百人いると言われて久しいから、今ごろは千人を超えているかも知れない。この数多くの王子達が権力争いをするのだから、サウジという国も将来はなかなか大変だと思う。私もサウジアラビアのペルシャ湾側の対岸の島国、バハレーンのホテルのバーであるサウジアラビアの王子と仲良くなった。サウジアラビアは完全禁酒国だがバハレーンは歴史的に英国海軍の基地であった歴史があり、欧州文化との接触の歴史があるのでイスラムのタブーにも比較的寛容な土地で、ホテルでなら酒がでる。その若い王子は気がいい男で、サウジに来たら俺の家に来いとしきりに誘ってくれた。護衛らしき大男が二人ほどいた。 ―――― ◇ ――――しかし数は多くとも、直系・本家ではなくても、とにかく王女は王女である。しかも既婚の王女が平民の男と恋に落ちた。平民といえどもある国への大使の甥で名門の人間といえるのだが。致命的なのは、彼女が男装して国外逃亡しようとして空港で逮捕されてしまったことだ。この事件は後ほど英国のテレビドラマにされた。もうひとつ、この処刑の現場にある英国人のジャーナリストがいた。昨日の日記で書いたことだが、首切り広場を囲む数軒のホテルのどれかの窓からぐうぜんこの処刑の瞬間を見つけて、とっさに自分のコダックカメラでこの場面を盗撮、英国に持ち帰ってから雑誌に投稿した。私もこの写真を見たがプロのフォート・ジャーナリストでは無いから、カメラもいわゆる○○チョン・カメラでとったものだから、鮮明ではないがその場の雰囲気は見て取れる。ただし処刑の瞬間のものではなかった。それを掲載すると今度はその雑誌がサウジ政府から厳重な抗議を受けるからだろうが。この二つの事件はのちのち大きな話題になり、英国とサウジアラビアの関係が一時極度に険悪となった。大使を召還するしないの大事になった。 ―――― ◇ ――――サウジアラビアというのはアフリカ大陸とユーラシア大陸の間にある幅広い大きな半島、アラビア半島にある。この処刑が行われた都市ジェッダは、サウジアラビアの西側、紅海沿岸の最大の商業都市である。その紅海をはさんで対岸はアフリカ大陸である。サウジアラビアは産油国の中でも産油量の最も大きな金持の国だ。金満の国と言ってもいい。豪壮な住宅はある。しかし、水電気という基本的な生活工業設備、いわゆるインフラが、以前は不足していた。だから、超大型の発電所プロジェクト、海水淡水化プロジェクトがゴロゴロしていた。サウジアラビアに限らず、中東の産油国は同じ様な状況だった。だからプラント・プロジェクト部に所属していた私は、サウジアラビアをはじめ中東産油国に何度も長期出張を繰り返して、受注して大喜びをしたり、受注を逃がして失望したり、そんな生活を繰り返していた。そんな話題をまた書くことにします。
2004.08.16
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復刻日記。二日続きとなります。【サウジアラビアの王女が男装しての恋の逃避行に失敗、処刑された広場を見下ろすホテルに宿泊したこと】1977年、サウジアラビアのある王女が処刑された。彼女は既婚者である上に平民の男と恋に落ち、男装して海外に逃亡しようとしたが発覚して処刑された。罪名は姦通罪だったと思う。なんでも処刑場に連れ出された二人はすでに鎮静剤を大量に打たれて意識朦朧としていたという。王女は銃殺、男は斬首された。通常、アラブでの姦通罪での処刑は石打刑である。息が絶えるまで民衆に投石されるのだが、一方の罪人が王女だから、温情の特別処置だと思う。 ―――― ◇ ――――私はこの王女が処刑された街、ジェッダに何度も長期出張していたが、タクシーなどで事務所から宿舎へ帰る途中に砂地の広場があってその広場を取り巻くようにカフェテラスが並んでいる。この広場は首切り広場と呼ばれていて、処刑が行われる場所でもある。中東では処刑も娯楽の一種である部分がある。日本でも江戸時代の処刑場では、竹矢来の外は野次馬で一杯だったと言うことだ。ある出張でジェッダに入った時にはまともなホテルに空き室がなかった。仕方がないのでこの首切り広場に面したホテルに宿泊した。 ―――― ◇ ――――もともと昔の中東はどの大都市でもヒルトンぐらいしか外国人が宿泊できるまともなホテルが無く、しかしそこはいつも満員でなかなか宿泊できなくて、大変な苦労をした。その代わりいったん宿泊してしまえば、何しろヒルトンだからなんでも豪華版。少し時代が経ってヒルトン以外にシェラトン・インターコンチ・その他有名ホテルが増えたが、まだ現地のホテルとはあまりにも格差があって、ビジネスマンはみな一流ホテルに宿泊していた。おかげで私も一流ホテルの宿泊歴だけは、たいていの人よりは上だろうと思う。 ―――― ◇ ――――ただこのホテルは典型的なアラブの商人宿で、窓は小さいものが高い所にあるだけで、建物の外は強烈な陽光だが、ホテルの室内は薄暗い。監獄といってもいいような室内ではある。家具もベニヤ板の安っぽい洋服ダンスがあるだけ。中には針金のハンガーが二・三個ぶら下がっている。それに紅海沿岸は湿気もすごいから、ひどくかび臭い上に、あまりシャワーを浴びないアラブ人の汗だらけのすえたような、苦いような体臭が鼻をつく。しかし、こんなホテルには慣れている私だから、ベッドにドンと身体を投げ出したが、おどろいた。ベッドの底が抜けて、身体が沈み込んだ。みなの汗がベッドのスプリングを錆びさせて、ついに底が抜けたらしい。部屋の隅にもう一つある粗末なベッドで寝ることにした。しばらくしてベランダに出てみたら首切り広場が真下に見える。処刑は金曜日に行われると言うから今日は静かなようだ。その内にはてな?と思った。例の英国人ジャーナリストが盗撮したのはこの首切り広場廻りのホテルの一つのはずだが、ひょっとしたらこのホテルかも知れないと思った。 ―――― ◇ ――――もうひとつ王女の恋物語がある。場所はサウジアラビアではなくて、対岸の小島のバハレーンである。女性はバハレーンの首長の親戚の王女。男性は米海兵隊員。ショッピング・モールでお互いに一目惚れで恋愛関係に入ったと言うことだが、そんなことが果たしてあり得るのかな?私は個人的には疑問なんだが。バハレーンは小さな島国なのでバスに乗った経験はないが、サウジアラビアではバスの中が二つに区切られていて男女は七歳以下でも席を同じゅう出来ない。だいたい女性は黒いベールで顔を隠していて、見せてもいけないし見てもいけない。われわれはカラス天狗と呼んでいたが黒いマスクをかぶっている時もある。ただ、サウジの美女を近くで拝める秘密の場所がある。一流店の化粧品売り場だ。そこでは上流階級のお嬢様・奥様達がベチャベチャ、ピーチクパーチクとおしゃべりし、化粧品を試し塗りしながら鏡をのぞき込んでいる。日頃のたしなみの黒いベールで顔を隠すこともせずに・・・。彼女たちはさすが美女を集めたハーレムのDNAが生きてて美女ぞろいだ。黒髪に黒い瞳だから、イタリアの清純な女優さんと言ったおもむきだ。イタリアと言ってもゲルマンの血が混じる北イタリアではなくて、アラブの血が混じるいシチリア島で見た美女たちによく似ている。バハレーンの海兵隊員もきっと化粧品売り場で彼女を見そめたのだろう。イスラム法ではイスラムの女性と異教徒の男性の結婚は禁止されているから、私がイスラムに転向したら理論的にはこの美女達の一人との結婚も可能となる・・・。チラッとこういう考えが頭に浮かんだこともあったが、イスラムに改宗するまえに首をちょん切られたかも知れない。首まで地面に埋められて、石を投げられて惨死したかもしれない。やはり私の人生はこれでよかったのだ・・・。
2004.08.15
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今年の夏の暑さはすごい。あまりの暑さで、もう何もする元気が出てこない毎日だ。日記も復刻版ばかりでごまかしている。さすがに怠け者の私も、これではいけないと思い始めた。何かいい方法はないだろうか?それがあるのである。私には、しょうれいの地、中東の酷暑の中を生き延びたという貴重な経験があるのだ。あの暑さを思い出せば、これしきの暑さに負けるわけには行かないのだ。それにイラクで酷暑に呻吟しているはずの自衛隊のみなさんの苦労も思いやらなければいけない。・・・ということで、中東の暑さを思い出して書いてみよう。しかし、暑いので短めの文章にしたい。(やはり暑さに負けているのだが) ~~~~~~~~~中東の暑さはみなさんの想像以上である。イラクはまだそれほどでもないと思うのだが、少なくともアラビア半島のUAE(アラブ首長国連邦)やサウジアラビアの暑さと言ったら無い。ここは昔、白人の墓場と言われたほどの場所だ。気候は HOT HOTTER HOTTEST の三季節しかない。温度は60度以上になる。発表される温度はそれほどでなくても、実際に地上に立ったら、そこの温度は60度を越す。自動車のボンネットで軽く目玉焼きが出来る。駐車した車のハンドルを握ることが出来ない。タクシーにはクーラーが無いことが多かったが、だからといって窓を開けると熱風が入って来るから、窓は閉める。一度、UAEの中のアブダビから、エジプトのカイロに出張したことがあった。ピラミッドやスフィンクスを観て、夜のテントで半裸美女の!ベリーダンスを観てアブダビに帰った。その帰りの飛行機がアブダビ空港に着いて、ドアが開いた瞬間、驚いた。本当に一瞬で、手の平がベタッとなったのだ。つまりものすごい湿気が機内に入ってきたのだ。つまりそれほど、アブダビの湿気はすごい。一年中、ほとんど100%。車のフロント・ウインドーも湿気の多い日は、湿気で曇るからワーパーを動かす。東京からの出張者がゴルフをしたら、5ホールめで、熱中症で倒れて救急車のお世話になった。なおこのゴルフ場は、競馬場ならぬラクダのレース場兼用のもの。もちろんグリーンなど無いので、砂をアスファルトで固めたものがグリーンの代用になる。フェアウェイでもカチカチに干上がった地面にラクダの大きな蹄がディポットになっていて、ボールはパチンコの玉のようにカンカンと転がりまわる。めったにないが、停電になると困る。エレベーターもクーラーも止まるからだ。高層アパートの階段をやっと徒歩で登ってきたら、部屋は蒸し風呂以上。とても生きて行けない環境なんだけれど、外に出れば熱中症になるから仕方がない。ベッドのシーツをバスタブに浸して、それをかぶってベッドに横になるとかろうじてしのげる。それでも、シーツが一時間で乾くのでまたバスタブに浸す。(なお、このアブダビの想い出は、ずいぶん古い話なので、今ごろは、相当変わっているだろう事をお断りしておきます) ~~~~~~~~~あれを思い出したら、怖いものはないはずなんだけれど、それでも暑いものは暑い。暑い想い出を思い出しただけ、損をした感じ。今晩は、美女の館にでも飲みに行こう。この暑さに耐える私へのごほうび。(正当化できんか?)
2004.07.21
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皮肉なことに、アラブ産油国というのは、アラブのなかでも遅れているというか、いまだに中世・・・という感じの国が多い。アラブのなかでも後進国と言っていい。もっともそれは文化や民度の面であって、オイルが生み出した巨万の富で、国としては金満、欧米の消費文明もドッと雪崩れ込んで、一見マンハッタンと変わらない光景になっている国も多い。経済面では劣っても、エジプト・シリア・レバノン・イラクなどは歴史や文化や民度的に言えば、産油国よりずっと高度なものがあると思う。言っては悪いが、サウジアラビア・UAE・クエート・カタールなどは土候国と呼ばれていた国々だ。アッラーの神の思し召しか?よりによって、最も恵まれないところに石油が出た。最初は、ペルシャ湾に浮かぶ小島の王国、バハレーン。ここで中東最初の石油が発見された。私にとってもバハレーンは始めて訪れた中東の国だ。バハレーンは古代、商業・貿易の航路の中継点として反映した国で、一説によるとイブとアダムが住んだ「エデンの園」であるとも言われている。確かに古代の遺跡がある。オアシスもある。欧米人にとっては、一時英国海軍の基地でもあった歴史的背景もあり、比較的西欧文明との接触もある国で、対岸のサウジのとちがって外国人に対しても穏やかな対応をする人々だ。 ~~~~~~~~~続く。
2004.06.10
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今は無き Pan American パンナム。末期に世界一周航路というのがあって、私が酷暑の中で呻吟していた中東地域にも回って来て、私をピック・アップしくれた。サウジなどの禁酒国からだと、乗客全員、もう待ちきれなくて離陸する前からスチュワーデスを捕まえて、ウィスキーなどを注文する。離陸すると乗客全員で「バンザーイ」と叫んで酒をがぶ飲みし始める。隣の席では国内ではあれほど外人に禁酒を強制していたオバキュー姿のアラブの馬鹿野郎どもが(これ・・・まずいかな?)、なんと同じように酒を飲み始める。しかも貴様達!今は聖なるラマダン期間中だろう?この期間中、例外としては旅行中とか病気の時は特例として日中でも食事を取っても差し支えないことにはなっているが、アルコールはいかんぞ!正義感の強い?私は、そんなオバキュウに「お前! 酒なんて飲んで恥ずかしくないのか!!」といさめたが、彼らは酔っぱらった振りをして飲み続ける。モスリムなんてこんなものですよ、みなさん。みんなそうだ!とは言わないが。大体、あるナンバーワン産油国の国王がアル中で、しょっちゅう欧州で治療を受けているんだから。その豪遊ぶりで話題を振りまいているが。それに、その禁酒国の金持の家に行くと、超大型のキャビネットがあって、世界の銘酒がずら~~~~~!っと並んでいる。それが彼らの自慢。こんな二重構造がアラブの問題点の本質で、今にアラブ各国には続いてイスラム原理主義者達による革命が起きて、石油が禁輸に近くなって、世界中がひっくり返るような大騒ぎになるはず。 ~~~~~~~~~アラブの二重構造と書きましたが、これはもっと正確に言うべきでした。アラブ産油国の二重構造とね。アラブ産油国は王族などが欧米に掘削・製油・輸送・販売をまかせ、その代わりに膨大な収入をほとんど独占しているのです。しかもその巨万の富を浪費している。一般庶民はあまりその恩恵に浴していない。もちろん、税金無しですし、福祉は恵まれている。しかし、自助努力でビジネスなどで成功しないと王族達の生活にはおよびもつかない。そんな不満が鬱積している。さらには金にまかせての王族のイスラムの教えに反する放埒な生活に対する反感も極まっている。その反動でイスラム原理主義を受け入れる素地があるのです。最も豊かな国サウジアラビアで最も先鋭な、反王室、反欧米の動きがあるのはそういう二重構造があるからなのです。ビン・ラーデンも自らはサウジの最大の財閥の一員でありながら、そんな矛盾に反発して、さらには王族を退廃に導く米国に対する反感で、テロリストになった。そんな背景があります。
2004.06.09
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5月29日にアルカイーダ系の武装組織が、サウジアラビアのホバルという街の外国人居住区を襲撃、この事件で米英イタリア人など外国人を含む民間人計22人が殺害された。私はこの街に限らずサウジアラビアの主要都市にかなりの長期間滞在したことがあるし、この襲撃された外国人居住区を訪れたこともあるので、今日はそのことを書いてみたい。はじめ、街の名前がホバルとよばれているので、どこの街だろうと思った。私はサウジはけっこう詳しいのだが、ホバルという名前の街は聞いたことがなかった。しばらくして、ホバルとは現地ではアル・コバール(AL KHOBAR)と呼ばれる街の事ではないかと思って、念のために在サウジアラビア日本大使館のHPをのぞいてみたら、下記の治安情報が掲載されていた。 ~~~~~~~~~サウジアラビア治安情報 サウジアラビア日本国大使館 : 第20号 04年5月29日(土) 注意レベル 中~至急 アル・コバールで銃撃戦~ 本日(29日)の朝、アル・コバールにあるペトロリウムセンター(ツインタワー 5階建て)において武装グループによる襲撃事件が発生した模様です。(詳細は不明) 更に、アル・コバール市内にあるオアシス・コンパウンド付近においても銃撃戦が発生し、現在、容疑者が逃走し市内において銃撃戦が行われている可能性があるとの情報もあります。 アル・コバールの方については、事件の概要が判明するまで、自宅等で待機し外出を控えることをお勧めします。 また、その他の地域の方については、同種の事件は5月1日にヤンブーにおいても発生していますので、十分ご注意して下さい。 断片的情報でありますが、取り急ぎお知らせします。 以 上 ~~~~~~~~~やはりそうだった。ホバルとはアル・コバールの事だった。なぜホバルと日本の新聞は呼称するのか?よくわからないが、現地の地図にも AL KHOBAR と表示されている。AL KHOBAR の KH は「コ」と「ホ」の中間的な、のどを鳴らして発音する口蓋音だから、AL を省略するとホバルとなるのかもしれない。いずれにしても、日本大使館も「アル・コバール」と表示しているし、現地でもそう発音されている。 ----------------「AL」とはアラビア語の定冠詞で、英語の「THE」にあたる。「AL」がムーア人と一緒にイベリア半島に上陸して、数百年の統治を通じてスペイン語の定冠詞「EL」となった。ついでだが「AL」は、その当時世界の先進国だったアラビアの科学・哲学と共にその名前を残している。alchemy (錬金術) al-kemiya より: alcohol アルコール al-kohl よりaldebaran アルデバラン星(おうし座の中の一等星) ad-debara:n より alfalfa アルファルファ al-fisfisah よりalgebra (代数) al-jabr よりalgorism アルゴリズム al-khuwa:rizmy (アラブの数学者フワーリズミーから取った) alkali アルカリ al-qily よりalmanac (年鑑、天文暦) al-mana:kh より altair アルタイル、牽牛星 at-ta:ir より(これはPCの歴史に詳しい人には重要な言葉)あとアルミもそうだと思う。 ----------------サウジの東部は世界最大の石油会社アラムコと共に育った石油産業の中心地である。その東部には重要な三都市がある。海港・商業都市のダンマン。ダーランには、アラムコが国営化されたサウジの国営石油会社「サウジ・アラムコ」の本社や国際飛行場がある。このアル・コバールは、サウジアラビア東部の石油化学工業地帯にある中心的商業都市。中心部には欧米の出資する石油系企業の事務所や、勤務する外国人の住居などが集中している。この三都市は近接している。 ~~~~~~~~~サンドイッチみたいにはさんでしまうけれど、VANさんの所に書いたもののコピペを。 ----------------小泉首相は今回、明らかに確信犯として、日朝国交回復へ舵を切ったね。拉致問題はある程度切り捨て覚悟で。だから拉致問題はこれ以上進展は少ないと見て、今回の成果の「目玉」ジェンキンス氏にこだわった。稚拙な準備・交渉だったけれど。 ----------------欧米では契約書に本当にあり得るあらゆるケースの条件すべてを書き込んで、書き込まれていない事項については双方とも権利がない。それに対して日本では契約書を交わすことが無く、状況の変化に応じて対症的な話し合いで解決しようとする。小泉首相は論理的な説明が不得意で、重要政策や案件に関しての説明責任を果たしたことはほとんど無い。けっこう寝技が得意な所など、実は非常に日本的な政治家ですね。 ----------------続きは夕方にでも書きます。怖い世界ですよ~。私は好きだけど。
2004.05.29
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誘拐された3人はどうも解放されるもようで、これほどいいニュースは近ごろ珍しい。しかし犯行グループはまだ自衛隊撤退を要求しているようだ。私は何度も書いているようにアラブと欧米との対立に巻き込まれることは極度に恐ろしいことで、イラク派兵の是非は軽々に判断できない重い問題だと考えている。しかし、それとは別に、私は自衛隊が恥ずかしいことをしているとは思わない。いわゆる護憲派の人達が口を極めてイラク派遣を攻撃するがそれほどひどいことをしているのだろうか?もし現地で思うような仕事ができれば、現地の人達の信頼を得て、感謝されることも可能性としてあると思う。非常な困難を伴うことだが、その可能性はある。もちろん旧フセイン派あたりは、体制を転覆させたいだけなのだから、住民のためになろうがなるまいが関係ない立場だから、なおも攻撃してくるだろうけれど。確かに米国への追従という流れの中でのイラク派兵であることは確かだが、その仕事の中身は「人道支援(水資源・病院建設)」である。軍隊ではあるが、治安維持のために行っているわけでは無い。日本側の宣伝・説明不足で、現地の人が誤解するのもやむを得ない部分があるのは残念だが、日本人ならその辺の実情は理解しているはずなのだが、それでも小泉非難一色の人々が多い。いずれにしても、もっとアル・ジャジーラあたりを使って自衛隊のタスクとサマワ住民の期待のコメントなどを丁寧に説明するべきだと思っていた。日本の政治家は国民に説明することがヘタだし、その努力をしようともしない。ましてや国際的な発言はほとんど無い。政治・外交は言論・発言が半分を占めるのではないか?これをいい機会に、小泉首相あたりがアル・ジャジーラで犯行グループへの返答も兼ねて、もう一度、ハッキリと自衛隊の仕事を説明してはどうだろう?小泉首相の発言も稚拙でとても国際的に見て雄弁とは言えないが。 ----------------一部のBBSではこの誘拐犯のメッセージが、「まるで私たち日本国民が政府に言いたいことを代弁してくれるような理知的な言葉で素晴らしい」などと書いてあった。卑劣極まる愉快犯の正体が判明してこそはじめて、この声明の意味が問われるはずなのに、この誘拐犯がどんな人物たちなのか? それもわからない内に、そんなことを言うのは先ず早計だろう。それに誘拐犯と日本の護憲平和主義者たちの考え方と同じだと言うのには驚いた。だから、一部に誘拐された3人の自作自演だとかという説がまことしやかに語られる訳だ。しかしこの誘拐犯たち、単に山賊かも知れない。政治的な宗教的な理屈は後付であって、日本政府には金銭を要求しているのかもしれない。私はどうも普通のテロリストと毛色の違う奴らだと感じる。水面下の交渉の様子はまだ見えないけれど。それにしてもどうして日本の護憲・平和主義者たちはそろいもそろって日本嫌いなのだろうか?無抵抗主義的平和憲法を日本に押しつけたGHQ(占領軍総司令部)の洗脳路線が未だに効果的なのか?モスクワのコミンテルン本部から秘密指令を受けて日本転覆を目指して密入国してきた共産党の幹部のオルグが効果的で、結果として日本の軍事力を無力化することが夢という、平和主義者たちを養成したのだろうか?腹立ち紛れに、こんなことまで書いてしまった。 ----------------サンデーモーニングで、田原総一郎に「もし息子さんがまたイラクに行くと言うと行かせますか?」と聞かれた父親が「本人が望むなら・・・」と答えていた。他の機会ではこの父親は「自衛隊!撤退しろ~!」と絶叫していた。今、そんなことを言えた義理か?もう救出しなくてもいいんじゃない?
2004.04.10
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昨日の王女の処刑物語の日記は本当はもっと長かったのだが、私なりの編集過程でまちがって短くなったまま書き込んでしまった。そういうわけなので今日は昨日の続きと言うことで、同じ話題から初めてみる。 ―――― ◇ ――――サウジアラビアの今の王朝の創始者、サウド王(3代前だったかな?)は、無類の絶倫で、百人以上の子供を産んだ。もちろん同一の母親ではない。イスラム法では4人まで妻帯が許されるし、入場制限無しの「ハーレム」というものもある。その結果、サウジアラビアのいわゆる王子・王女達は数百人いると言われて久しいから、今ごろは千人を超えているかも知れない。この数多くの王子達が権力争いをするのだから、サウジという国も将来はなかなか大変だと思う。私もサウジアラビアのペルシャ湾側の対岸の島国、バハレーンのホテルのバーであるサウジアラビアの王子と仲良くなった。サウジアラビアは完全禁酒国だがバハレーンは歴史的に英国海軍の基地であった歴史があり、欧州文化との接触の歴史があるのでイスラムのタブーにも比較的寛容な土地で、ホテルでなら酒がでる。その若い王子は気がいい男で、サウジに来たら俺の家に来いとしきりに誘ってくれた。護衛らしき大男が二人ほどいた。 ―――― ◇ ――――しかし数は多くとも、直系・本家ではなくても、とにかく王女は王女である。しかも既婚の王女が平民の男と恋に落ちた。平民といえどもある国への大使の甥で名門の人間といえるのだが。致命的なのは、彼女が男装して国外逃亡しようとして空港で逮捕されてしまったことだ。この事件は後ほど英国のテレビドラマにされた。もうひとつ、この処刑の現場にある英国人のジャーナリストがいた。昨日の日記で書いたことだが、首切り広場を囲む数軒のホテルのどれかの窓からぐうぜんこの処刑の瞬間を見つけて、とっさに自分のコダックカメラでこの場面を盗撮、英国に持ち帰ってから雑誌に投稿した。私もこの写真を見たがプロのフォート・ジャーナリストでは無いから、カメラもいわゆる○○チョン・カメラでとったものだから、鮮明ではないがその場の雰囲気は見て取れる。ただし処刑の瞬間のものではなかった。それを掲載すると今度はその雑誌がサウジ政府から厳重な抗議を受けるからだろうが。この二つの事件はのちのち大きな話題になり、英国とサウジアラビアの関係が一時極度に険悪となった。大使を召還するしないの大事になった。 ―――― ◇ ――――サウジアラビアというのはアフリカ大陸とユーラシア大陸の間にある幅広い大きな半島、アラビア半島にある。この処刑が行われた都市ジェッダは、サウジアラビアの西側、紅海沿岸の最大の商業都市である。その紅海をはさんで対岸はアフリカ大陸である。サウジアラビアは産油国の中でも産油量の最も大きな金持の国だ。金満の国と言ってもいい。豪壮な住宅はある。しかし、水電気という基本的な生活工業設備、いわゆるインフラが、以前は不足していた。だから、超大型の発電所プロジェクト、海水淡水化プロジェクトがゴロゴロしていた。サウジアラビアに限らず、中東の産油国は同じ様な状況だった。だからプラント・プロジェクト部に所属していた私は、サウジアラビアをはじめ中東産油国に何度も長期出張を繰り返して、受注して大喜びをしたり、受注を逃がして失望したり、そんな生活を繰り返していた。そんな話題をまた書くことにします。
2004.03.04
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1977年、サウジアラビアのある王女が処刑された。彼女は既婚者である上に平民の男と恋に落ち、男装して海外に逃亡しようとしたが発覚して処刑された。罪名は姦通罪だったと思う。なんでも処刑場に連れ出された二人はすでに鎮静剤を大量に打たれて意識朦朧としていたという。王女は銃殺、男は斬首された。通常、アラブでの姦通罪での処刑は石打刑である。息が絶えるまで民衆に投石されるのだが、一方の罪人が王女だから、温情の特別処置だと思う。 ―――― ◇ ――――私はこの王女が処刑された街、ジェッダに何度も長期出張していたが、タクシーなどで事務所から宿舎へ帰る途中に砂地の広場があってその広場を取り巻くようにカフェテラスが並んでいる。この広場は首切り広場と呼ばれていて、処刑が行われる場所でもある。中東では処刑も娯楽の一種である部分がある。日本でも江戸時代の処刑場では、竹矢来の外は野次馬で一杯だったと言うことだ。ある出張でジェッダに入った時にはまともなホテルに空き室がなかった。仕方がないのでこの首切り広場に面したホテルに宿泊した。 ―――― ◇ ――――もともと昔の中東はどの大都市でもヒルトンぐらいしか外国人が宿泊できるまともなホテルが無く、しかしそこはいつも満員でなかなか宿泊できなくて、大変な苦労をした。その代わりいったん宿泊してしまえば、何しろヒルトンだからなんでも豪華版。少し時代が経ってヒルトン以外にシェラトン・インターコンチ・その他有名ホテルが増えたが、まだ現地のホテルとはあまりにも格差があって、ビジネスマンはみな一流ホテルに宿泊していた。おかげで私も一流ホテルの宿泊歴だけは、たいていの人よりは上だろうと思う。 ―――― ◇ ――――ただこのホテルは典型的なアラブの商人宿で、窓は小さいものが高い所にあるだけで、建物の外は強烈な陽光だが、ホテルの室内は薄暗い。監獄といってもいいような室内ではある。家具もベニヤ板の安っぽい洋服ダンスがあるだけ。中には針金のハンガーが二・三個ぶら下がっている。それに紅海沿岸は湿気もすごいから、ひどくかび臭い上に、あまりシャワーを浴びないアラブ人の汗だらけのすえたような、苦いような体臭が鼻をつく。しかし、こんなホテルには慣れている私だから、ベッドにドンと身体を投げ出したが、おどろいた。ベッドの底が抜けて、身体が沈み込んだ。みなの汗がベッドのスプリングを錆びさせて、ついに底が抜けたらしい。部屋の隅にもう一つある粗末なベッドで寝ることにした。しばらくしてベランダに出てみたら首切り広場が真下に見える。処刑は金曜日に行われると言うから今日は静かなようだ。その内にはてな?と思った。例の英国人ジャーナリストが盗撮したのはこの首切り広場廻りのホテルの一つのはずだが、ひょっとしたらこのホテルかも知れないと思った。 ―――― ◇ ――――もうひとつ王女の恋物語がある。場所はサウジアラビアではなくて、対岸の小島のバハレーンである。女性はバハレーンの首長の親戚の王女。男性は米海兵隊員。ショッピング・モールでお互いに一目惚れで恋愛関係に入ったと言うことだが、そんなことが果たしてあり得るのかな?私は個人的には疑問なんだが。バハレーンは小さな島国なのでバスに乗った経験はないが、サウジアラビアではバスの中が二つに区切られていて男女は七歳以下でも席を同じゅう出来ない。だいたい女性は黒いベールで顔を隠していて、見せてもいけないし見てもいけない。われわれはカラス天狗と呼んでいたが黒いマスクをかぶっている時もある。ただ、サウジの美女を近くで拝める秘密の場所がある。一流店の化粧品売り場だ。そこでは上流階級のお嬢様・奥様達がベチャベチャ、ピーチクパーチクとおしゃべりし、化粧品を試し塗りしながら鏡をのぞき込んでいる。日頃のたしなみの黒いベールで顔を隠すこともせずに・・・。彼女たちはさすが美女を集めたハーレムのDNAが生きてて美女ぞろいだ。黒髪に黒い瞳だから、イタリアの清純な女優さんと言ったおもむきだ。イタリアと言ってもゲルマンの血が混じる北イタリアではなくて、アラブの血が混じるいシチリア島で見た美女たちによく似ている。バハレーンの海兵隊員もきっと化粧品売り場で彼女を見そめたのだろう。イスラム法ではイスラムの女性と異教徒の男性の結婚は禁止されているから、私がイスラムに転向したら理論的にはこの美女達の一人との結婚も可能となる・・・。チラッとこういう考えが頭に浮かんだこともあったが、イスラムに改宗するまえに首をちょん切られたかも知れない。首まで地面に埋められて、石を投げられて惨死したかもしれない。やはり私の人生はこれでよかったのだ・・・。
2004.03.03
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私は仕事の関係で中東諸国にも長い間いた。イラク・イラン・ヨルダン・シリア・レバノンなどの近東は行った事が無いが、他の中東諸国にはほとんど滞在していたことがある。自衛隊のイラク派遣が進んでいる。「一体何しに行くんだ」と揶揄する声が多いし、中にはイラクでの自衛隊を馬鹿にしてような意見もある。しかし中東での生活は厳しい。特に酷暑が厳しい。イラクはまだ行ったことがないが、近隣のUAE(アラブ首長国連邦)諸国・クエート・サウジアラビアなどは、昔は白人の墓場と呼ばれた場所。今は冷房もあるし、海水の淡水化工場から水も来る。その水で草木を育てているから以前無かった大雨などがときどき降るようになって気候が少し変わってきたようだ。しかし基本的には高温と湿気の世界。暑さのピークの季節では輻射熱もあって温度は60度近く、湿度は常時100%なんかになる。季節といっても hot・hotter・hottest の三つの季節しかない地域だ。ある時、日本からの出張者が「ちょっと散歩してきます」とオフィスを出て行ったが、まもなく顔面蒼白でヨロヨロと帰ってきた。東京からの出張者がゴルフのたった5ホール目で倒れて救急車が来た。共に日射病。UAEからエジプトのカイロに出張することがあった。おかげでピラミッドを見ることが出来て大きな感動を得た。そのカイロからUAEに帰ってきた時、飛行機の出口に並んで扉が開くのを待っていた。扉が開いた瞬間、手の平に異変が起きた。瞬間に手の平がニチャッとしたのだ。何が起こったのかその時はよくわからなかったが、今まで着ないで乾燥していた手の平が、UAEの100%の湿気で瞬時にベタベタになったのだ。これにはおどろいた。同じ中東のアラブ世界でもこれほどちがうのだ。車のボンネットで簡単に目玉焼きが出来る。うっかり車のボディーに直接さわると飛び上がるほど暑い。フロントウィンドーに覆いをかけておかないと、いざ車を使おうという時に熱くてハンドルが持てない。今は冷房のタクシーが多いかも知れないけれど昔はほとんど無かった。田舎に行ってボロタクシーに乗ると大変だった。窓から熱風が吹き込んで来て顔が痛いほど熱い。暑いのをがまんして、窓を閉めてゆでだこのようになりながらがまんする。それでも窓を開けるよりはましだからだUAEの中で一番大きな国であるアブダビの首都はやはりアブダビという。そこから車で二時間ほどの場所にアル・アインという町がある。アルというのはスペイン語に入ってエルという定冠詞になった。アルコール、アルミなどのアルは、このアルである。アインというのは泉という意味。つまりアル・アインはオアシスの街だ。泉町という感じだ。しかし、中東でオアシスというのは特別の場所だ。唯一そこで人間がまともに生きて行くことができる場所だからだ。水があって一応畑も耕せるし、ヤシの木からナツメヤシの実も採れる。この町というか村というか、この場所に住む人々は海岸に面した新興都市である首都のアブダビに住む人々とはちがってかなり昔のアラブそのままの見かけの人々が多い。顔は赤銅色に日焼けして、ひからびてしわは深い。日本の猟師顔を極端にしたようなものだ。歯は何本も抜けている。今まで裸足で歩いていたから、足はかかとなどがカチカチ二硬くて、ひび割れていて、靴など要らない状態だ。足=靴じょうたいなのだから、靴の上に靴は履けない。しかしまあ、彼らはほとんどサンダル履きだけれど。そこの住民であるお客さんと話していておどろいたことがある。彼はその温厚な立ち振る舞いもあって、当然私より年上だと思っていたのだが、聞いてみると年令は私よりはるかに若いのだ。この激しい気候の中で肉体的には早く年をとってしまっている。今は舗装道路も完備して、車で片道二時間ほどで行き来できるアブダビとアル・アインの間だが、彼の昔話を聞くとラクダで2・3日はかかったという。運悪く、途中で砂嵐などに遭った場合は何日もラクダと共に砂の中で過ごしたという。ラクダの鼻の穴はこんな場合に備えて自由に閉じることができる。アラブ人のあの頭巾も砂嵐の時に顔を隠すためにあるのかも知れない。砂嵐というのが北の方から拭いてくる季節がある。黄色い砂を含んだ季節風だ。空も何もどんよりとした黄色にけむり、昼間でも車がライトをつけて走る。数日続く。本多勝一氏の「アラビア遊牧民」を数十年前に読んだことがあるが、ラクダにはその年令別で呼び分ける名前が数十あると書いてあった。日本の出世魚の呼び名など、せいぜい四つぐらいだろう。それに日本人は魚の名前を非常に多く知っているが、欧米人など(専門家の魚屋はのぞいて)5つも知っていればいい方だと思う。マグロ・イワシ・サバ・タラ・サメ・・このへん止まりなのではないだろうか?(サメとフカはどう違うのだろうか? いつもこの疑問が気にかかる)魚と言えばおかしい想い出がある。このアル・アインの田舎道を歩いてオマーンへ行ったとこのことだ。オマーンという国は先頃サッカーで日本と対戦したのでおなじみだと思う。この国は古い国でシバの女王がいた国とも言われる。ポール・ニザンの「アデンにて」という本があるが、このアデンがある国だ。首都はマスカットでマスカット種の葡萄はここが原産だという。ところでオマーンはアブダビから相当離れたところにある国だ。車で数時間かかる。それなのに歩いていけるというのは不思議だと思うはず。実はこのアル・アインのとなりにオマーンの飛び地があるのだ。同じ一つのオアシスの中にオマーンの飛び地があるのだ。昔はオアシスしか価値が無かったからオアシスを区切っていたのだと思う。ただし今は石油などが出て、砂漠も重要になった。アラブ諸国の国境線はなにしろ砂漠だからハッキリしない。目印になるオアシスなどから線を引いた国境線が多い。オマーンとサウディ・アラビアなどもこの近辺で国境線争いで小規模だが戦火を交えている。ところで、オアシスの田舎道とは牧歌的だ。道は田んぼのあぜ道程度だ。その道の脇にオアシスの水を導いた泥で固めた水路があってその中を透明な水がチョロチョロと流れている。その脇にはヤシの木が並木道としてパラパラと植わっている。民家は泥の壁で囲まれている。そんな道を歩いてオマーンに行く途中、あるオッサンとすれちがった。ちょっと汚い目のターバンを巻いていて、何か大事そうに濡れた新聞紙を手に持っている。チラッとみると中身は小振りなアジ程度の大きさの魚が数匹だ。このオアシスの池で取れたものだろうか?一度、バハレーンのオアシスで大きな深い池を見たことがある。子供たちが飛び込んで泳いでいたし、魚もいるらしかった。オマーンに行ったら、飛び地は本当に小さな村だった。小さな小屋の郵便局でオマーンの切手を買って、アブダビ側に帰ってきたら、また例の魚のオッサンとすれちがった。オッサンは歩きながら、今度は何か落ち着かぬ様子でブツブツ口の中でいいながら地面をきょろきょろ見ている。何をしているのだろうと思ったがそのまま行き過ぎた。しばらくした道に一匹の魚を見つけた。ちょっと砂にまみれているが銀色に光っている。「ハハーン これだ!」と思った。オッサンは自宅?に帰って新聞紙を開いてみたところ、魚の数が一匹少なかったのだと思う。あわてて落とした魚を探しに来たのだ。オアシスでは魚は貴重品なのだろう。教えてやろうと思ったがオッサンがすぐには見つかりそうになかったのでそのまま歩いた。おかしい気持ちもしたが、オッサンを可愛くも感じた。 ―――― ◇ ――――こういうのどかなところばかりでないのが中東。特にカンカンに熱くなる戦車の中の兵士は大変。それに高温は電子機器を狂わせるし、細かい砂漠の砂が入って来てメカが故障するし、これも難問。だから、経験の無い人にはわからないだろうけれど、自衛隊も酷暑の中、ごくろう様だと思う。
2004.02.27
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時間も押し詰まってきて、今日の日記は何をテーマに書こうかと考えはじめていたが、また、図書館派か?購入派か?のテーマをまた思い出した。とにかくこれでスタートしてみよう。とちゅう寄り道や迷走、ダッチロールありということで・・・。 ―――― ◇ ――――私は前に本は買う主義だと書いた。一応そう書いたが、ずっとそうであったと言うことでもない。会社員時代は時間が無くて、買った本がなかなか読めなかった。仕事が激務で・・・とネット上でもいままでさんざんいいわけをしてきたが、事実そうではあったのだが、それでも、放課後?に同僚と夜の街にくりだして酒を飲んでいた時間というものが厳然としてあったわけで、この享楽の時間を読書にあてていればよかったのだが、人間どうしても楽しい方に行ってしまう。午前様になって帰ってきて、「歓楽尽きて哀感多し・・・」などと、つぶやきながら水道の水を飲んでバタンキューと寝るわけだが、この水道の蛇口からベッドへの直線的なフローチャートの軌道の途中に、もし読書机があればいいのだけれど、なかなかそうはいかない。せいぜいテレビをパチッとつけてみて今日のプロ野球ナイターの結果などを確認してからベッドに倒れ込む。「日本人は安全と水はただだと思っている」とベンダサンが嘆いていたが、私は安全と水に加えて時間まで「無制限」だと思っていた。しかし、ことここまで老いさらばえてみると、当たり前のことだが時間とて無制限ではなかった。それどころか、もう人生の残された時間というものの底が見えているのである。これではいけない。これまでにたまった大量の本を読んでしまってから、しずしずと棺桶に入るという手はずにしなければいけない。さすがに棺桶に本は投げ込まないで欲しい。安眠したいのである。 ―――― ◇ ――――そんな自堕落な生活の中で、長期の海外出張、それも特に中東地域への出張は読書の好機だった。中東では娯楽が無く外出することがほとんどなく、読書ぐらいしかすることがなかったからだ。中東では、特にイスラム教の中でも教義がきびしいスンニー派のワハブ宗の総本山、サウディ・アラビアやそれに準じるクェート・UAE(アラブ首長国連邦)などでは娯楽というものがない。無いと言い切るとちょっと事実ではないかも知れないけれど、われわれから見ればほとんど無いに等しい。第一娯楽設備というものが皆無なのだ。映画館にして映画は偶像崇拝だということで無いんだから始末が悪い。酒だって厳禁。UAEなんかではホテルではOKだし、外人にはライセンス制で月々何本という酒の配給制でコントロールしている。しかし公衆の面前での飲酒は厳しく禁止されていて、違反すれば投獄と言うことになる。一般に夜の街で酒が飲めないと何をしてもそれほど面白いものでもない。ただし、今思い出したのだが、とても理解できないことがあった。アブダビの石油省の建物が二階建てのけっこう粗末なものだったころだ。くどいようだが、どうしてあんなことがあり得たのか全く今でも見当がつかないのだが、この石油省(産油国の花形のお役所だ)の二階にあやしげなナイトクラブがあったのだ。薄暗いクラブの中で主に香港か韓国あたりの出身らしい女性が肌もあらわな服で客の相手をするのだ。もちろん酒はある。ウィスキーからブランデーまでたっぷりある。こんな禁酒国の中にそれも石油省の真上でナイトクラブである。私にも女性が来て話かけるものだからむげに断れなくて?一杯おごった。しかしそうしていても、この世紀の矛盾?にどうしても納得がいかず、しばらくして退出した。そこにはそれからは、日本から客が来たときに一度連れて行っただけだが、日本からの客には面白くもなかっただろうと思う。昼間なら海水浴というものがある。ぬるま湯の様なまな暖かい海水で塩分が死海ほどではないけれど非常に濃いから身体は浮く。間違ってもおぼれ死んだりはしない。たまに白人の女性が泳ぎに来ると岸に黒山の人だかりができる。現地人もいるが主にインド・パキスタンからの出稼ぎの単純労働者たちだ。彼らだってイスラムである。パキスタン人はもちろんだが、インド人だってパキスタンに移動しないでそのままイスラム系インド人として暮らしている人口がかなりになる。イスラムの社会では女性が人前で肌を見せることはしない。ましてや水着になって海水浴などをしない。ましてや珍しい雪のように肌の白い白人女性だ。ましてや彼らは独身か、結婚していても単身赴任?の身の上。工事現場の宿舎や、家賃倹約の目的でひとつのフラットに十人近くもの人間がギッシリ住んでいる状態だから女性を見るだけで目の色が変わる。ましてや・・・。それからゴルフもあるにはある。アブダビなんかでは専用のゴルフ場ではなかった。兼用だった。では、何と兼用だったかというと、競馬ならぬ競駱駝、ラクダ競争のスタジアムである。ラクダがパカパカ競争するわけで、ほぼ競馬と同じように走る。そんなところだから、それに中東だからフェアウェイといっても草は生えていない。砂地か粘土である。カチカチに乾燥している上にラクダの大きなひずめの後が自然のディボットを作っていて、この中にボールが転げ込むと打ち出すのに苦労する。こんなフェアウェイだからキ==ンと会心の当たりをしても、ランが問題になる。固くてラクダの足跡いっぱいの地面をキンコンカンと転げ回る。パチンコを見ているみたいなものだ。やっとグリーンに来てもグリーンではない。・・・と言うのもおかしな言い方になるが、芝生ではないと言うことだ。そのかわりに砂が敷いてあってアスファルトが薄く撒いてある。これで質感はほぼ芝生・・・・と思いこむより無い。ただし酷熱の地、かって白人の墓場・オマーン土候国とよばれたUAEだ。暑いの何のって!!60度ぐらいにはざらになる。日本から来た私の部下は大張り切りでスタートしたが5ホール目で日射病、いまでいう熱中症になって、ゴルフに熱中できないまま救急車に運ばれてゴルフ場を去ることになった。あと、現地の人達は四輪駆動の車に乗って砂漠に寝に行く。本当に寝に行くのだ。いまは街の住宅に定住したがもとはといえばベドウィンといって砂漠の遊牧民。ラクダを追って生活していたわけだからいくら豪邸でも居心地が悪いという。もう「もう、たまらなく砂漠に直に寝たくなるんだ」といって私の取引先の一人は、私との約束をキャンセルして砂漠に走っていってしまった。砂を噛むような思いだった。あと、いろいろあるじゃないか?、現地の人は鷹狩りをする。砂漠にもそれなりに動物がいるらしくて高価な鷹を連れてジープで砂漠へ走る。けっきょくわれわれには楽しみがなんにもないわけで、それで読書となる。では指もつかれたので今日はこれぐらいにしよう。今日は「今日の俳句」も無しになる。
2004.02.05
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