気のみ気のまま

気のみ気のまま

アマノガワ-2



リン

いつものように朝がやって来、
ユウジはいつものように目覚し時計を止めると、
いそいそと一階へと降りていった。

『あら?きょうも早いのね?』
母親が不思議そうに尋ねる。
『あ、うん。
今日も図書館で勉強してから課外行こうと思って。』
ユウジがそういうと、
母親は『ふぅん』と生返事をすると、
台所に戻っていった。

『ねぇ?』

ふと、母親が台所越しにユウジを呼んだ。

『なに?』

眠い目をこすりながら、
朝食を手に取り、返事。

・・・・・・・

一呼吸置いて、
母親は口を開いた。

『図書館に行く理由って・・・』

『女の子?』

っ!
おもわず、飲み込みかけたトーストが
喉につかえそうになった。

『や、やだぁ?!図星?!』
"図星"と言う単語が、
トシユキを再起させる。
『ち、違うよ!
図書館の方が学校から近いし、涼しいから。』
となりにあった牛乳を飲みながら
焦り交じりに弁解。
『ふぅん♪』
今度は"なに"か悟ったような様子で
母親は台所の奥へと下がっていった。

『違うからね!』


ユウジは今日も、
昨日と同じように
電車にのり、自転車に乗って、
彼女のいるあの建物へと急いだ。

ウィーン

川端康成。
"雪国"の作者、この人だ。
いま、なんとなく思い出した。

ユウジはいつもの席につくと、
もう、なにかプログラミングされているかのごとく
昨日と同じように数学の問題集を出して、
あたりを見回した。

"!"

今度は彼女の方も顔を上げていたらしく、
お互いの目が合った。
彼女はユウジの姿を確認するなり、
フフッ
と、微笑んだ。
『おはよう♪』
と言った感じだろうか?

そして、今日も昨日と同じように
ユウジもミクも数学の宿題を片付ける一方で、
双方、わかんないところがあれば
相手側に質問しに行く、といった形式がとられた。

そして、彼女がユウジの方にやってきたときは
また、押し殺し声回避措置がとられる。

『なんかさ、ここんところ暑いね?』
『うん。異常気象かな?』

だんだん、この『ノート会話』にもなれてきた自分が
ユウジは妙にうれしかった。

『エルニーニョ、だっけ?』
『うん。地理でやった。』
『人の名前かな?』
『そんな話を聞いたけど?』
云々(うんぬん)。

こんな取り止めのない会話だった。
そして、ワントピックスが一段落すると、
『じゃあ、そろそろ戻るね♪』
といって、彼女はもとの席に戻ってゆく。
あの"暖かい笑顔"を残して。

そして、昨日のように課外の時間が近づくと、
昨日と同じようにユウジが先に立ち上がり、
それがスイッチとなってミクも参考書を片付け始める。

そして、課外を受けに。

『おっはよ♪ ユウジ君?』
トシユキが、いつものようにユウジの下にやってきた。
『どうしたの?』
いやいやな顔をしながら、ユウジは返事をした。
トシユキが異常にテンションが高いときは、
大体、話題が決まっている。
つまり、"そういう"話だ。

『ねぇ、新崎さんと付き合ってんでしょ?!』
いつのまにか『付き合ってる』まで進んでいる。
『だ~~か~~ら~~、
別に、あの後、なんもない、っていってるでしょ。』
『そうには思えないんだけど?』
『何を根拠に?』
弁護士のごとく切り返した。
『いや、昨日のあの"二人の合図"は、なんだったかなぁ・・・と。』
『バカ。偶然そう見えただけだろ?』
『いやいや、そうかねぇ?』
そう言うと、トシユキは椅子にもたれかかって
腕を組んだ。
どっかの大学の教授みたいなカッコになった。
『そうには見えなかったがねぇ?』
トシユキはわざと重苦しい口調で言った。
『怒るよ?』
ユウジ、会心の反撃。
『あああ、そんなマジになんなよぉ?!
冗談だって、冗談!』
ユウジの勝利。
ユウジは普段から、
こうやって絡まれたときは(特にトシユキが多いが)
"いきなりマジ"になって、相手を驚かして
退却させる、と言う方法をとっていた。
というより、ホントに付き合ってなんかないのに、
これじゃなんかうそを隠してるみたいだ。


"まぁ、『なんもない』っていうのは
嘘・・・・・かな?"

先生が入ってくるなり、
騒がしかった教室は落ち着きを取り戻し、
ユウジもそれに乗じて静かになった。

・・・・・
このようにして、
僕は朝起きると、母親にいいわけをし、
(結局新崎さんと一緒に、ということは告げなかった。)
図書館で彼女と勉強しながら
ノートの隅っこで小さい会話をし、
課外を受けて帰ってくる、というのが
ひとつの習慣となった。

毎日、毎日、
この連続。
いや、この表現は違うか。
『この連続』というと、
なんとなく『マンネリ』『飽き』という言葉が連想されてしまう。
日本語とは不思議なものだ。
同じ意味・同じ言葉なのにもかかわらず、
その場その場でニュアンスが変わってくる。
『俳句』が日本で発達したのも、
きっとこう言った独特の文化があってこそ、だろう。

そしてこの日も、
ユウジはいつものように図書館でミクと勉強をしていた。

ユウジは(またこれもいつものように)腕が疲れたので
シャープペンシルを投げ、
あたりを見回した。
(いつのまにか、あたりを見回すのが癖になっていた。)

ウンウン、
新崎さん、ちゃんと勉強やってる。
感心、感心。

ただぼうっと、彼女のことをみていた。

ぼーっと彼女を見ているうちに、
今日に至るまでの、彼女との接触がどんどん思い返されてきた。
そう、最初は人口丘で。
2回目は、僕がノートを借りて。
そして、そこで嘘をついて、
それから、こうして夏休みも図書館に出るようになって・・・

そして、毎日毎日・・・・・

こうして振り返りながら彼女の熱心に勉強している姿を見ると、
なんとなく、ずいぶん前から彼女と
この"連続した日々"を送っていたような気がする。
物理的時間枠で考えれば、
僕がこの図書館で勉強にするようになった日は
課外の最初の日から一日前だから、
最終日である今日まで、6日間。
たった6日間。
でも、ユウジにはその6日間の前にも、
彼女とこうして勉強を教えあいながら
このすこし寒いくらいのこの環境でいっしょに勉強していたように感じられた。

"デジャヴュ"?

いや、少し違うか。

『あ、』
彼女がまた席を立ち上がった。
"連続"の続きた。

・・・・・・

『ああ、なるほど!』
うん、いつもどおりの、
少し子供っぽい、感心した声。
『ウン、ここがポイントだね。』
ちょっと会話な慣れした僕。

と、

カッカッカッ
(ここ何日で、
ユウジのノートには『会話専門ページ』が設立されていた。)

『今日で課外終わりでしょ?
里中君、これからもここに来るの?』

・・・・・・・

ユウジは少し考えてしまった。
そうか。
これ以上、一応、僕がこの図書館にきてまで
わざわざ勉強する理由は、
今日付けで無くなってしまったわけだ。
明日から、どうしよう、か?

『うーん・・・・・・
ちょっとまだ考えてる。』

『?』

どういうこと?
と、ミクは表情で問いかけた。

『うん、ここ涼しいからさ、
別にここで勉強、続けてもいいかな?と思って。』

『じゃあ、明日も来るの?』

『うーん・・・・・』

あたらしく開設された専門ページの、
まだ使っていない余白を見つめながら、
ユウジは考えていた。

"理由もないのに、ここに来たら変、か?"

そんなことを考えていると、
先に、彼女がノートに書き込んだ。

『いると結構助かるんですけど?』

"え?!"
不覚。
おもわず、胸キュン。
彼女は続けた。
『いろいろ、分からない問題とか、
ぶち当たっても里中君いると助かるから、さ♪』

・・・・・・

しばらく考えて、
ユウジは答えを記した。

『じゃあ、明日も来ることにするよ(^^)』

彼女の以前使った顔文字を付けて。

ユウジのこの返事を読むと、
ミクは
『じゃあ、明日もいろいろとお願いします♪』
と、いつものように押し殺した声で
言って、小さく、お辞儀をした。

小柄な彼女の体で織り成される小さなお辞儀は、
ほんとに微々たるものだった。
・・・・・・でも、すごく"暖かい"。
色で言うなら・・・・オレンジ色?

席に戻ってゆく彼女を見送った後、
ユウジはまた、ミクの記した会話を見ながら、いろいろなことを考え始めた。

『いると結構助かるんですけど?』

彼女らしいな、と思った。
『助かるんだけどなぁ・・・』とか、そんなんじゃなくって
形式ばった疑問形。
やはり、『男』である僕から一距離置くために、
彼女はこんな形式的な言葉を選んで使ったのだろうか?

でも、こういうところが、やっぱり"新崎ミク"らしさ、だ。
あの、小柄で、清閑で、私服より制服の似合う彼女に。

おっと、いいかげん勉強を始めなくては。
ユウジは浮遊していた自分の魂を体に戻すと、
投げ出したシャープペンシルを持って、
勉強に取り掛かり始めた。



『じゃあ、明日も来ることにするよ(^^)』


翌日、彼がこの言葉を書いたことを後悔することを、
知る由もないままに。

『あれ?今日も図書館?』
寝婿眼で降りてきたユウジに、母親は尋ねた。
ちょっとドキ、っとした。
なにか、悪いをしているをばれた、そんな感じ。
悪いことじゃないけど。

『うん、今日も行ってくるよ。
あっちの方が涼しいし。』
『ふぅーん・・・・』
・・・・なにか、『考え深げな目』で、母親はユウジのことを
見つめた。
『な、なに?』
『ううん、何でも♪』
そういうと、母親は微笑みながら、
台所の奥のほうへと引っ込んでいった。

ウン、たぶん感づかれてる。

・・・・

『!』
お、珍しく、今日はミクのほうが先にきていた。
ミクはユウジがやってきたことに気づくと、
他人には迷惑にならないよう、小さく、手を振った。
ユウジもソレに返して、小さく、胸元で手を振り返した。

・・・・・・・

聞こえるのは、いつもこの音。
シャープペンシルが『カッカッカッ』と、
机にあたる音、そして、だれかがノートをめくった音だけ。
最初の頃は、ユウジにとってこれらの音は騒音でしかなかったが、
何度も聞いているうちに、それらは心地よいBGMへと変化した。
なんだろう?これもミクのおかげか?

あ、やってきた。

『ウン、いつもどおりなんだけど・・』
相変わらず押し殺し、って、
もう言わなくても分かるか。
『ここ。どお?』
ユウジはミクから問題集を受け取ると、
少し、考えてみた。
『うーん・・・・・・』

"あ、あれ?"

『・・・・・どお?』
いつもより長くユウジが考えていたので、
ミクは確認ついでに聞いてみた。
『う、うーん・・・・』
そういうと、ユウジは頭を抱えてしまった。

"う、普通に分からない。"

普段、というより今まで、
一度も『どちらも分からない』ことはなかった。
ユウジがミクに聞くにせよ、その逆にせよ、必ず
受け手は送り手の分からない問題をすらすらと解いていった。

要するに、初めて、『二人して壁にぶつかった』わけだ。

『う、うーん・・・・』
まだ、ユウジが悩んでいた。
『あ、わかんない・・・かな?
解答もってこよっか?』
そういうなり、彼女は席に戻ろうとした、が、
『待って!』
図書館というこの場にしては、少し大きすぎる声だった。
ミクはビックリして、ユウジの方を振り返っている。
『え、ああ、えっと・・・・・』
ユウジは我に返ると、周りの視線を気にし、
すこし、恥ずかしそうに萎縮してしまった。

『ど、どうしたの?』
驚いた表情で、ユウジの元へ帰ってきた。
『え、あ、ウン、ゴメン・・・・』
うわぁ、しどろもどろだ・・・・

ユウジは続けた。
『ウン、なんかさ、『悔しく』ない?』
今度は、ノート上の会話で。
『?』
ミクも続け書き足す。
『こういうこと、初めてでしょ?
どっちも分かんなかったの。なんか、すぐに解答見ちゃうの、悔しい気がする。』
ユウジはそう、ノートに書き込んだ。

・・・・・

ミクはユウジのその文章を読むなり、
しばらく考え込んだ。

そして、なにか決心したような顔をして、
こう、書き加えた。
『うーん、なんか正直、『時間の無駄』な感じがする。』
ウン、彼女らしい意見だ。
しかし、ユウジはひるむことなく、
『じゃあさ、この問題だけ、解答見ないでやってみようよ。
これからもし、こういう事があったら、そのときは解法を見る。
これでいい?』
ユウジはすごい勢いで書いた。
ミクはそのユウジの勢いにしばらくぽかんとしていたが、
返事を書いた。

『うん、じゃあ、この問題だけ、がんばってみる!』

そうして、二人での『城崩し』が始まった。
兵力、2人。それなりの実力者だけど、
どちらも一人だったら落とすことの出来なかった強敵だ。
心してかからないと・・・

まず、ミクがスラスラっと図を書いてしまうと、
『ここの円の式がy=・・・・・』
と、まず、前提条件を書き加えた。
『うん、そうすると、ここが接線だから、この直線の式がy=・・・』
ユウジは、その条件を元に、
付け加えた。
『ウンウン、ここまでは分かった。
次に、この接線と平行な直線を引いて・・・・』
『ウン、僕もそこまで行った。
で、次にABCとDAPの角が等しいから・・・・』
『え?』
と、平行に直線の式を途中まで書いていたミクの手が
思わず止まった。
『ここ、一緒なの?』
彼女は不思議そうに尋ねる。
『う、うん。だって、こことここ、相似でしょ?』
シャープペンシルでさしながら言う。
『え?・・・・・
あ!そっか!』
ウン、いつもの、ミクの『ひらめき顔』。
電球がパッとついたみたいに表情が明るくなる。

『でも、ここでつっかえちゃったんだよなぁ・・・』
そう言うと、ユウジはシャープペンシルをポンと放った。
『ん?ここ分かったら、後はこの三角形とこの三角形も相似になるでしょ?』
『え?』
ユウジは思わず聞き返した。
『だって、・・・・・』
そういうと、ミクはてきぱきと、
図に解法を書き込んでいった。
『う、うーん・・・・・』
ユウジはしばらく、ミクの解法を見つめて、
『あ、なるほど!』
と、ミクと同じ音程で言った。
『あ・・・・』
思わず、ミクと同じ音程で言葉を放ったことに、
ユウジはちょっと不安を覚えた。
"やば、マネした、なんて思わなかったかな?"
恐る恐る、ミクの顔をのぞくと、
『?』
と言った感じで、微笑み返してくれた。
"良かった。別になんとも思ってないみたいだ・・・・"

こうして、一見難問と思われた不落の城は
ミクと僕のちょっとした知恵の寄せ集めで、
もろくも崩れ去ってしまった。
『三人寄れば文殊の知恵』?
"二人"で充分だった。

『うーん、なんかすごくすっきりした!』
そういって、ミクは背伸びをすると、
『じゃあ、たぶん、またわかんないもんだ出でてくるとおもうから、
また来るね!』
といって、自分の席へと帰っていった。
彼女の後姿を見送ったユウジも、
ものすごい充実感に浸っていた。
なんか、こういうの、初めて、だったから。
女の子と、一緒に問題解くなんて・・・・

ユウジが言いようのない充実感と
ちょっとした緊張感に浸かっていた、そのときだった。

『あ、・・・・・』

ユウジは思わず、声を出してしまった。

あ・・・・』
おもわず、声が漏れてしまった・・・・・・


"え?・・・・・・なん・・・で?"
ユウジはずっと、
外の一点の方向を見つめていた・・・


"え?え?"


"そんなの、ありかよ?"

と、
そんなユウジの元に、
ミクがいつものように、タタタッと小走りで
やってきた。
『ねぇ、里中君、また分かんなくなっちゃった・・・・』
ちょっと、照れ隠しの笑顔。

しかし・・・・・
『え、ああ、ウン・・・・』
ユウジは生返事をするだけで、
いつものように問題集をミクの手から借りようとしなかった。
ただ、下をうつむいちゃって・・・・
『里中・・・君?』
普段のユウジとは違う反応に、
ミクは心配の声をかける。
『ああ、ウン・・・・』
そう言った。

というより、『言葉がこぼれてきた』という程度の声だった。

そして、しばらく間を置いて、
『あ、新崎さん、ゴメン。』
と、うつむいたまま、重い口調で返事を返した。
『?』
『ゴメン、俺、用事できちまったから、もう帰るわ・・・』

"え?ついさっきまで『解法見るのが悔しい』、と言えるだけ時間があったのに?"
ミクはそういいそうになったが、
言葉を飲んだ。
『あ、そっか・・・・・
じゃあ、今日はこれでお終い、か。』
ミクも重い空気に飲まれて、
うつむいてしまった。
ユウジはただ何も言わず、
ミクに顔を見せないまま、
コクッと頷いた。

ユウジはそうするなり、
いそいそと周りの道具を片付け始めた。
-----------まるで、すぐそばにミクがいることに気づいてないかのように、
無機質に、機械的に・・・・

一通りぶちまけた参考書をすべてカバンにしまうと、
ユウジは立ち上がり、入り口の方へと向かおうした。

と、

『ま、待って!』
ミクが、普段よりも少し大きめの声で言った。
・・・・・押し殺してる、場合じゃなかった。
ユウジは、さっきつけた勢いをするすると弱め、
振り返ることなく、その場に立ち尽くしていた。
背を向けるユウジに、ミクが告げた。

『明日、は?
明日、もし来てくれるんだったら、ここの問題、教えてほしい!』

そういうと、ミクは胸元に抱えていた
数学の問題集を少し、上に掲げた。
しかし、ユウジは・・・・

『・・・・・』

そのまま、彼女の言葉に振り返ることすらなく、
また、さっきつけた勢いと同じ速度で
図書館の入り口を出て行ってしまった。

ハァ・・・ハァ・・・ハァ・・・
"用事?
なんてバレバレな理由を・・・・"
ユウジはすごい速度で、自転車をこいでいた。
ただどこに行くというあてもなく、
ただ、ただ・・・・・・

『クッ・・・・』
さすがにこの猛暑の中を全力疾走しただけに、
だんだんと、ユウジの顔にも疲労の色が見え始めた。
仕方なく、ユウジは近くにあったベンチに腰を下ろした。

大木から伸び出てる日陰の、いい場所だった。

と、
バックをベンチにもたれさせ、
額の汗を拭うと、
ふと、ユウジの目から、
無数の涙が出てきた・・・・・
『っっっっっ!』
声にならない声が、
ユウジの口から漏れ出てくる。

"織姫"だった。
ついさっき、ユウジが図書館の学習ブースから見えたのは。
しかし、それだけだったらまだいい、が・・・・

男と二人で、腕を組んで歩いていた・・・・・

かねてから噂は聞いていた。
『アイツは校内の男とデキてるらしい』『もう、キスまでしてしまった』などなど。
しかし、ユウジは断固としてそられ一連の噂を信用しなかった。
・・・・というより、ただ単に『拒否』していた。
信じたくなくて、でも、心の奥で納得してる自分がもどかしくて・・・

しかし、そんな『拒否の壁』は、
先ののわずか5秒のシーンによって、
見事に破壊されてしまった。
もう、納得するしかない。
これ以上の、状況証拠などありえやしない。

"どうしたらいいんだ?"

そんな衝動に駆られ、
ミクの質問を断ってまで、この場に来てしまった・・・
漂うがままに、この場へ来てしまった・・・

汗と混じる、ユウジの涙・・・
拭っても拭っても、汗の方はもう拭い終わったのだろうが、
もう片方の方が止まらなかった。
口に到達するたび、
しょっぱさを感じる。
涙も汗も、同じ濃度の生理食塩水。
しょっぱいことは自然の摂理、なのだけれど・・

ユウジは涙目のまま、
ここはどこか、急に知りたくなって
あたりを見回した。

よくわからないけれど、
どうやら公園らしい。
小さく、少しさびれた、
孤独な公園。
こんなにも外出日和、だというのに、
人っ子一人いなかった。
逆に、ユウジにとっては、それが好都合だったが。

『相手に好きな人がいるから、といって、
自分がフラれたことにはならない。』
以前、トシユキが言っていた言葉だった。
それはそうだろうな、と、
その場では軽く納得してしまったが
今、初めてその状況に置かれて
どれだけそのまま"叶い得ない恋"を続けることが辛いか、
理解した。

この先、僕はどうしたらいいんだ・・・?

失恋。
別に死ぬこともないから、次の"織姫"を探せばいい、という意見もあるだろうが、
ユウジにとっての遅ればせながらのこの"初体験"は、
もう、自分の死までを想起させるかのごとく、彼を苦しめた。

次の"織姫"・・・・・・

そうして、次に思いついた姿は、
ミク、だった。

そうして、彼女の姿と入れ替わりで出てきたのは、
彼女に対する罪悪感だった・・・
こちらの一方的な理由で、
あんなにも無下に、彼女の言葉を切り捨ててしまった。

『なんてバカなことを・・・・・・』

無意識のうちに、ぼそっ、っと
言葉が放たれた。

ジリリリリリリリリリ

リン

昨日と変わらないように、
ユウジはいつもより早めにセットしてある目覚し時計で目を覚ます。
『なんだよ、もう、起きなくってもいいのに・・・・』
悲しげな表情で一人、
朝の木漏れ日に照らされながら目覚し時計を見つめた。

『あら?きょうも図書館行くの?』
行間に『また彼女のところへ?』と言った表情である。
『ううん、今日はいいや。家にいるよ。』
ユウジはそう、ポツリと呟(つぶや)いた。
母親は、ユウジの意外な発言にちょっと驚き、
おそるおそる、聞いてみた。
『あ、あんた、まさか・・・・・・』
『バカ。後にも先にも、女の子なんていませんでしたよ。』

女の子、なんて・・・・・

ユウジは朝食を適当に取り終えると、
リビングのソファにゴロッと横になった。

そういえば、夏休みに入って、
こうして、朝からゆっくりしている日は初めてだ。
一日目は課外の日と間違えて、
二日目以降は・・・・
回顧している自分が嫌になって、
ユウジはソファに自分の顔をうずくめた。

・・・・・・・

ユウジの耳に入ってくるのは、
『今年最高の気温記録』とか、
『海難事故』といった、
『夏』定番のニュースだけであった。
ニュースだけが耳に入ってきていて、
それ以外、なにか強い力に押し付けられて
時間ごと、この世が止まっているかのように感じられた。

"虚無、っていうのかな?こういうのを。"

虚無。
なぜかこの言葉には、
異常なくらいに力がある。
この世のすべてを止めてしまい、
一瞬にして消し飛ばしてしまいそうな、
大きな力。

ユウジはなにもすることがないまま、
自分の部屋に舞い戻ってきてた。
自分の、普段寝ているベッドにうつぶせになる。

と、
右を見るなり、目に入ってきたのは、
いつも、図書館にもっていってたバックだった。
あの中に、
いつも撒き散らす数学の問題集と、
休憩の時間になると放ってしまうシャープペンシルと、
消しゴム・・・・・
彼女に預かってもらっていた消しゴムと、
そして、なにより・・・・・

"あのノートもあの中に入ってるんだよな・・・"
ユウジは自分に言い聞かせるように言った。
慰め、でもないけど、
なんとなく、ユウジは言葉にして発したい衝動に駆られたのだった。

ユウジは顔を正面の位置に戻した。
当然、目の前には暗闇が広がる。
なにもない、
ただっぴろい、暗闇・・・・・

ノートにはなにが書いてあった?
自分で解くときに使った筆算の数々。
休憩中、意味もなく書いた四重の円。
補助線が引いてある図形。
消すのが面倒で真っ黒になっている。



"ウサギ"
『なんかさ、ここんところ暑いね?』
『今日で課外終わりでしょ?
里中君、これからもここに来るの?』


"『いると結構助かるんですけど?』"


・・・・・異様なくらいに鮮明に覚えている。
一字一句、
まるで、目の前に広がる暗闇に、
街のネオンのごとく、光って浮き出るようだった。

そして、
文字のネオンがすべて消灯すると、
次に暗闇の中に現れたのは、
"彼女"自身だった。

静かな笑顔。
意外な私服。
嫌っていた押し殺し声。
彼女の無邪気に踊る文字。


"『明日、は?
明日、もし来てくれるんだったら、ここの問題、教えてほしい!』"


最後に、
ユウジの耳の奥で、響いた。

明日、つまり、今日。
今日、彼女はきっと僕のことを待って、
問題集を机の横において、
一人でいつものように、静かに問題を解いているはずだ。
来るはずもない僕を待ちつづけて・・・

"来るはずもない?"
これは僕の意思でどうにだってな未来事実だ。
いくらだって変えられる。
暗闇の向こうで、
時計をちらちら見ながら、一人さびしく問題を解いている
彼女の顔に、笑顔を取り戻させる事だってできるだろう。

ただ、体が動かない。
さっき仰向けになったまま、
金縛りにあったかのごとく、
体が動かなくなってしまった。

失恋、のせいか?
・・・・・・なんか違うような気がする。
確かに、一番最初に、あの図書館で
"織姫"の事実を突きつけられたあの瞬間は、
絶望感でどうすることもできなかった。

でも、今はあの時の絶望感とは違う気がする・・・・

もう、"変えられない"事実となった"織姫"は、
もう、僕の闇のどこを探してもいない。
今、闇の中で、
僕のことを、この場に縛りつづけているのは・・・・

ユウジはまた、
横を向いて、バックの方を見ようとした。
涙がベッドのシーツにすれるのがわかった。
"こんなにまで彼女の存在が大きくなっていたなんて・・・"

大きな力に押さえつけられたまま、
ユウジはただ、いつも図書館に持っていっている
あのバックを見つめながら、
乾いた目を擦っているのだった・・・・

『やっぱり、あの時とった態度に対して、
彼女に謝らなくちゃ・・・・・・』
ベッドにうずもれていたユウジは
考えに考え抜いて、
ついにそう、決心した。

『きっと、今でも図書館にいるはずだ!』

ユウジは心に固く決心をするなり、
ベッドからとび起きると、
いそいそと"いつもの"準備をした。

ドタドタドタ
急いで階段を降りて、
ユウジはいつものバックを持ったまま、
玄関へと向かう。

『ち、ちょっと?!
今日は図書館行かないんじゃなかったの?!』
母親が
勢いあるユウジに驚いた様子で言った。
『あ、えっと・・・・・
うん、忘れ物があったから、取りに行くよ。』

"わすれもの"があったから・・・・

そういうと、
ユウジは勢いよく玄関の扉を開けると、
家のそばに留めてあった自転車に乗って
最寄の駅へと飛ばしていった。

そして、電車に乗り、あの図書館へ・・・・

ハァ・・・・ハァ・・・
普段出る時間より遅かったからだろうか?
いつもよりまして異常に暑いように、
ユウジには感じ取れた。
しかし、ユウジは自転車の速度を緩めようとはしない。
疲れたから、どこかで休もう、ともしない・・・

ただ、ただ、前だけを見つめて・・・

キイッ
ユウジは勢いよくブレーキをかけると、
図書館の前に自転車を止めた。
果たして、彼女はまだいるのだろうか・・・?

ウィーン

コツ・・・コツ・・・
静かな清涼とした雰囲気の空間に、
ユウジの足音だけが響いている。
ユウジはいそいで、学習ブースの方へと向かった。

・・・・・・
"あれ・・・・・・?"
"あれ・・・・・?"
学習ブースで、
あたりを見回してみたが、
彼女らしい姿は見られなかった。
無論、彼女の特等席にも。
"やはり、僕があんな態度を取ったから・・・"
悔やまれる気持ちを背に、
まだ、どこかにいるかもしれないという
淡い期待を胸に、図書館の別のところも探してみた。

資料室・・・・

文庫本の本棚・・・・・

外の庭・・・・

あんなに広いはずの図書館であったが、
ユウジはなにも感じることなく、ただ必死に
彼女の姿を追い求めた。

・・・・・

『ク、クソッ・・・・・』
ユウジの必死もむなしく、
ついに、彼女の姿を見つけることが出来なかった。
ユウジは図書館の待合室みたいな空間で腰をおろすと、
両手を組んだ形で
頭を垂れてしまった。

"やっぱり、昨日、俺があんな事言ったから・・・"
再三後悔した。
なんで俺はあの時、
あんなにまで感情的な行動に出てしまったのだろう?
噂が目の前で本当になっただけ、
ただそれだけだったじゃないか。
自分だって、ある程度は納得してただろ?
それを・・・・・
彼女はなにも知らなかったに違いない。
それなのに、ただ、自分のエゴで・・・

"最悪、だ。"

なにも聞こえない、
閑々としすぎているこの空間が、
かえってユウジの気を滅入らせた。
まるで、この世界に、自分だけしかいない。
周りは、無機質な、人工的なものだけ。
"暖かいもの"なんてなにもない・・・・
そんな気分になった。

・・・・・・
ユウジは一通り心の整理がつくと、
席を立ち上がった。
"もう、ここに来ることはないだろうな・・・・"
そう、心の中で
図書館に手向けをし、
彼は図書館の自動ドアをくぐり抜けた。

図書館から
さっき止めた自転車まで、
たった数mであるはずなのに、
その距離さえ、動くことが辛い。
ユウジはまた、先の部屋とおなじ"なにか"に
大きな力で押し潰されそうになっていた。




と、そのときだった。




『さ、里中君・・・・』
ミクだ!
さっきまで追い求めていた彼女の影と
いま、目の前に立つ彼女の姿がぴったりと重なった。
間違いなく、彼女である。

『新崎・・・さん・・・・』
ユウジは自転車にかけていた足を地面につけなおすと、
また、一言、言葉を発した。
『新崎、さん、昨日は・・・』
ユウジがそこまで言いかけた、そのときだった。

『待って!』

彼女の言葉が、
ユウジの言葉をかき消した。
『待って・・・・』
そういうと、彼女は続けていった。
『ウン、ありがとう・・・・・・
もう、大丈夫だから・・・・』
そういうと、彼女はさびしそうに俯(うつむ)いた。
『え、あ、えっと、そっか・・・・
もう、大丈夫、なんだ・・・・』
彼女の『大丈夫』という言葉に、
いままでユウジが抱えていたとっかかりは
全部消えてしまう・・・・・・・



"かのように思われた。"
しかし、彼女の次の言葉で、
これらのとっかかりはすべて、むしろユウジの心に深く突き刺さることとなった・・・・・

『ウン、大丈夫・・・・
大丈夫だから・・・・・』

"私、帰るね・・・・"

『え?!』
思わず、ユウジが強い口調で聞き返した。
『え、だって、
昨日、問題、分からない、って・・・・』
『ウン・・・・
だけど、さ、
やっぱり、里中君の迷惑になるでしょ?』
"迷惑"?
彼女は僕に対して、初めてこの言葉を使った。
『迷惑?!一体どういうこと?!』

『もう、大丈夫だから!』

ミクらしくない、
最後を濁さない、
ハッキリと"断言"した言い方だった。
でも、それがかえって、
この予期しない言葉に力を持たせてしまった。

そう言い放つと、
自転車に乗り、
ユウジを背にして全速力で去っていってしまった。

真夏の昼下がり、
ここまで暖かく陽気な昼下がりに、
コントラストをつけるかのように、
ユウジが一人、ぽつんとたたずんでいた。

彼女はあのとき、言った。

"もう、大丈夫だから!"

ミクらしくない、
ハッキリと、語尾を濁さない言葉面で。
それがかえって、
ユウジの心をしめつけてしまった。

ユウジは図書館の庭のベンチに腰をかけると、
まるで木製のマリオネットのように、
その椅子に力なくもたれかかった。

『最悪、だ・・・・俺。』
ユウジは小さく呟いた。

この言葉を自分の彼女に対する"節目"として、
ユウジは重々しい自分のからだを持ち上げた。
"もう、こんなところに用なんてない。
早く帰らなきゃ・・・"
わざとらしく、言い訳を作った。
自分に対しての言い訳だけに、
その裏にある"本当の意味"が分かっているだけに、
余計つらい。

そして、虚しい。

ここまで体が重いことは初めてだ。
海で一日中泳ぎまわったときも、
こんな感じに体が重くなったものだが
あのときはまだ動く『力』みたいなのがあった。
今の僕には、それすらない。

ユウジは海以上の力で押さえつけられながら、
虚脱感の中、自転車を出そうとした。

と、

『あ・・・・・・』
カギがない。
どうやらさっき、図書館の中でミクをさがしていたときに
落としてしまったらしい。
『ッッッッッッッ!』
"泣きっ面に蜂"とは、よく言うものだ。
ユウジは、声にならない怒りの声で、
自分の怒りの感情を出来るだけ開放しようとした。
しかし、それ以上の"喪失感"が、その開放すら妨げる。

ここに突っ立っていても埒(らち)があかない。
ユウジは仕方なく、図書館に一度舞い戻り、
カギを探すことにした。


ウィーン
ここまで、川端康成を憎んだことは初めてだ。
"トンネルを抜けると、そこは雪国だった"
この夏、
迷い込んでしまった長い長いトンネル・・・
その終着点は、やはり、冷たくさびしい"雪景色"なのだろうか?

ユウジは
力のない歩きで、
自分の歩いたところを大まかに回った。

文庫本の本棚・・・・

資料室・・・・

そして、ユウジは
なにか空気の流れに流されるように、
学習ブースへと足を運んでいた。
なんとなく、胸の奥の方が詰まった感じがする。
あまり心地よくはない、いやな気分になる。

『あ、こんなところに・・・・』

ユウジのカギは、
皮肉にも彼女の特等席の近くにあった。
運命?
信じたくもない。
考えたくもない。

"くだらない"

ユウジは少し乱暴に、
じゅうたんの床に横になっていた自転車のカギを
掴むと、
かがんだ体を元に戻した。


そのとき、だった。


"ん?"
彼女の特等席に、
一冊のノートが置いてあることに気が付いた。
ユウジは初め、
出来るだけこの場所にいたくはないがために
そのノートを無視して、図書館を後にしようとしたが
"まぁ、別に時間がないわけでもないし・・・"
と、ノートを手に取ると
『遺失物預かり所』へと持っていこうとした。

"MIKU-NIIZAKI"
ノートの表紙の端にそう書かれているのを見て、
おもわず動いていた足を止めてしまった。

今考えれぱその可能性は非常に高かったのだろうが、
そのときのユウジには、
そのノートが彼女のものか、あるいは別の人のものか、という
差異の認識は、無意味なものであった。
ただ、"図書館にいた人Xの遺失物"という認識でしかなかった。

『新崎ミク』が『人X』になるくらい、
彼は考えることが出来なかったのだろう。

ユウジはその場で彼女のノートを開こうとした。

が、すぐにソレを閉じてしまった。
なぜ、自分がそんな行動に出たかは分からない。
でも、その場で開けちゃいけない。
そんな気がした。

ユウジはそのノートを
自分のバックの中に入れると、
その図書館を後にした。

そして、電車に乗って、自宅へ・・・・・

『ただいま』
と言っても、母親はもう
働きに出かけていて、家はひっそりとしていた。

ユウジは自分の部屋に入ると、
ベッドに力なく腰をかけると、
重い手つきでミクのノートを開いていった。


ユウジは、ミクのノートに手をかけると、
恐る恐る、最初の一ページ目を開いた。

最初のページが、
ユウジの部屋の蛍光灯に反射してユウジの瞳に映し出される。

そこには、数学の途中過程や
筆算・図がびっしりと書き込まれていた。
白い部分を探すのに時間がかかりそうなくらい、
びっしりと書かれていた。
『y=(x-2)(x-3)』『AB平行PQ』・・・・・・・
一つ一つが、まさしく彼女の筆跡で、そこに記されていた。
あの、小柄で清閑な姿に似合わない、
筆圧の強い、"子供"文字。
筆圧が強いから、だろうか?
一字一句一直線一点にいたるまで、
なにかものすごい勢いで、ユウジに襲い掛かってきた。

次のページを開いてみると、
そこもまた、前のページと同じような計算式が並んでいた。
右のページは、断念してしまったのだろうか?
大きく『×』と、上書きされていた。

彼女らしいな

と、おもわず微笑みがこぼれる。

次のページには、
先のページで失敗した問題の解法がかかれており、
最後、行き着いた解答には、
これでもか、というくらいに何重にもマルがつけられていた。
これも、彼女らしい。

分かったときは、あの、
冬のスープのように暖かい"笑顔"
彼女がこの問題を解いたときにも、きっと満円の笑みで
この解答に何度もマルをつけたに違いない。

ユウジはどんどん、ページをめくっていった。
そのたびに、時々、『×』→『幾重マル』の
パターンがでてきた。
その度に、ユウジの心の中には、
難問を攻め崩した彼女の笑顔が浮かんできては、
また、フェードアウトするように黒色に沈んでゆくのだった。

ここで気がついたのだが、
どうやら、彼女はずいぶん前からあの特等席を利用していたらしい。
なぜ分かったか、というと、

端っこについた『穴』だった。

彼女の特等席の
机の端っこに、
誰かがいたづらしたのであろう、
彫刻刀で彫られたかのように、一本、溝が掘られていた。
ユウジがミクに質問をしに言ったとき、
それについて、こんな会話が交わされた。

『ねぇ、ちょっと見て?』
もちろん、このころもノート上での会話だった。
『?』
ユウジがそう、書くと、
ミクはトントン、と、シャープペンシルで
机の端っこを叩いた。

そこには、その溝があった。

『ね?勉強してるときに、すごく邪魔になる。』
『なにでこんなことしたんだろうね?』
『ね?』
語尾を繰り返すのも、こうして考えてみると、
彼女の癖だったかもしれない。
『彫刻刀?』
『まさか!
こんなところに持ってくる?』
『あ、そうだよね・・・・・』

ここまで会話が進むと、次の言葉が
お互い出てこず、
ユウジが
『じゃあ、俺、もうそろそろ戻るわ。』
と、例の声で彼女に言った。

ユウジは端に空けられた穴を
指先の感覚で確かめ、
昔の図書館でのワンシーンに思いをはせていた。
『ッ!』
ふと、胸の奥の方が熱くなって
溢れ返りそうなったが、
なんとか体制派立て直すことが出来た。

ページをめくるごとに出てくる、
彼女の姿。

そして、ノートをめくっているうちに、
大きな転機にめぐり合う。

『今日も暑いね?』
『うん。すごい汗で自転車こいできた。』

『あ・・・・』
おもわず、口から一文字、
文字がこぼれでてきた。
ページの中半にして、
いままで一人でがんばっていた頭の中の彼女の風景に、
自分の姿が、
まるで切り取った写真をそこに貼り付けるかのように
バッと出て来た。

机の上の会話はまだ続いている。

『たしかに、
午前中、なんて考えられないくらい暑いね?』
『うん。
こんだけ冷房が効いてても、からだの中はまだ暑い気がする。』

本当は、初めて彼女に質問し、
初めて"彼女の特等席"の隣に、
彼女の隣に座ったがための緊張で、
自分でも感じ取れるくらい、体温が上昇しているためであった。

こういうように、
ユウジは昔から、『変なスリル』を楽しむタイプだった。

ちょっと考えられてしまえば、
『俺はアイツ好きだ』とも取られかねない言葉を、
あえて使ってみたり、言ってみたりして、
そのときの、誰も気がつかない"自分だけのスリル"を楽しむ、
そんなことをよくしていたのだった。

ノートの会話はここで途絶えている。
そこからはまた、彼女の子供文字の計算式が始まっていた。

こうして、
二つに影が増えた、図書館の中の風景は、
ユウジがノートをめくってくのに対応して、
色浮き上がってきては色あせていく、
そんな、踏み切りの点灯ランプのような堂堂巡りを
繰り返していった。

あの時迷っていた新崎ミク。

あの時笑っていた新崎ミク。

あの時感心していた新崎ミク。

あの時怒っていた新崎ミク。

自分の中にある、
自分の中に、あの『一日前の天の川』の日から
予想通りの彼女、意外な彼女含め、
ユウジのなかに蓄積されていった新崎ミクが、
ユウジがノートをめくっていくごとに、
放たれていった。

そして、このノートは最後のページを迎えた。
ここも、数学の計算式で完全に埋まっていのだが、
最後のページの、一番下の部分に、

『Go To the Next Note To Make My Future Best!』
(私の未来を最高のものに、次のノートへ!)

と書かれていた。

 ―――――――――――・・・・

気がつくと、
泣いていた。
勝手に涙がこぼれた。
こんな感覚、初めてだった。
最後に書かれた
『Next Note』は、
僕は見ることも開くことも出来ない。
彼女の未来も、
学校で見かける『表面上の』彼女だけで、
もう『意外な』とか、そういった彼女の未来派見ることが出来なくなってしまった。
そう、思った途端、だった。

涙が止まらない、ということなど
絶対にない、と思っていた。
雨だって、いつかは水分がすべて地面に落ちて
いつかは晴れ上がるのである。
しかし、ユウジにとって、
この涙は一生、流れていくような気がした。
自分の中の水分がなくなっても、
空気中の水分を利用してまで、
僕は泣きつづけるだろう。

彼女の、最後の真っ黒なページに、
ユウジの涙で透明の水玉が飾られた。

と、そのとき、だった・・・・

パタン

『?』
ユウジは涙目で回りがゆがんだ状態の視界の中で、
その音のなる方向に、目を向けた。

パタン
『!』
ユウジは、おもわず音のなったほうを振り向いた。
視界が、涙でいっぱいになっていて、
絵の具を全色パレットに移して、水でぐちゃぐちゃにしたみたいになっていた。

ユウジは自分の袖で涙を拭うと、
鼻をすすりながら、さっき、音のした方向へと、歩を進めた。

たしか、机の下のほう・・・・

『あ、あれ?』


小さい、背表紙が黄色のノートだった。
ホントに小さい。

『な、なんだろ?これ?』
涙のせいで、声にならにない独り言を言った。

『!』
おもわず、ノートを観察していた指が止まってしまった。


"My Diary ~Miku Niizaki"

ついさっきまで見ていたノートと、
まったく同じ筆跡の、
アノ"無邪気な"文字で書かれた、彼女の名前そのものだった。

『な、なんでまた、こんなものが・・?』
ユウジは鼻をすすりながら、
不思議そうにミクの日記を見回していた。

と、家の空調の拍子で、
一ページ、ペラッとめくれてしまった。

"7月18日 晴れ"
"今日も学校でした。いやぁ、疲れたぁ・・・"
"でも、もうすぐ夏休み!とは言っても、宿題が、なぁ・・・・"

なんの彩られもない、
学校で見ていた彼女を、そのまま文字で表記したような感じだった。
なにもかざりっけがないのに、清閑としてて・・・・

ユウジは、なにか不思議な衝動に駆られ、
ページをパラパラっとめくった。

"7月21日 晴れ"
"夏休み始まって一日目!だらけないようにしっかり!"
"と、予定通り図書館に行ったら、隣のクラスの里中君が来ました。"

『隣のクラス』・・・・・
今では、彼女の中では、僕の存在は
もはや隣のクラス、どころが『裏切りもの』と再設定されてしまったに違いない。
そうおもうと、ユウジの胸に、なにか棘の突き刺さるような感覚が走った。

日記はまだ続いていた。

"正直、『意外』!"
"里中君って、あんまり、図書館とかそういうところで勉強しないと思ってた。"
"まぁ、たしかに最高の環境、だよね?"

『あ・・・・』
自分の使った言葉だ。
最高の環境・・・・
あのとき、僕は暗に『新崎ミク』の存在があったからこそ、
この言葉を使ったのかもしれない。
また、あの"スリルゲーム"を、無意識のうちに楽しんでいたのかもしれない。

ユウジはミクの日記を持ったまま、
また、先のようにベッドに腰をかけると、
パラパラと、ページをめくっていった。

"7月22日 晴れ"
"今日から課外!ちょっと面倒だったです・・・"
"あ、あと、きょうも里中君が来てました。"
"問題分からなかったから聞いて、ちょっと時間あまったんで、"
"リンゴのウサギを書いてました。"

そこで日記が終わると、
その文章下に、大体同じ感じの、あの"リンゴのウサギ"が
書いてあった。
下には小さく、『こんな感じ?』と。

『ッ!』
もう、次のページを開けるのが嫌になりそうだった。
もう、彼女との思い出に触れているのが、つらい。
痛い。
不思議だ。
あんなにまで楽しかった思い出なのに、
今、回顧してみると、涙が出てくる。

ホントーに、人間は不思議だ。

閉じようか、と思った。
しかし、なんだか分からない、
得体の知れない"なにか"が、ユウジのことを必死にせきたてている。
先を読め、と。
その"なにか"は、午前中にユウジのことをベッドに締め付けていた
"なにか"とは、まるで違っていた。
同じように、圧倒的な力で押されているのだけれど、
こっちのはなぜか"暖かい"・・・・・・

"7月25日 "

ハハ、新崎さん、天気つけるの忘れてるよ。

"もう、里中君も自分の特等席を作ったらしく、"
"私はいっつもその席に聞きに行ってばかりでした・・・"
"迷惑、だよね?やっぱ。 今度は自分で解かなきゃ・・・"

ううん。
おもわず、笑みの中、ユウジは静かに首を振った。
日記の中のミクは、そんなユウジをかまうことなく、話を先に進める。

"うーん、なんていうかな?"
"最近、里中君の印象がだいぶ変わってきました。"
"最初は、『物静かで、勉強が出来て』って感じだったけど、"
"案外よく話すし、私の提案した(子供っぽくて失敗したと思った)ノートークにも乗っかってきてくれたし・・・"

そこで、この日の日記は終わりを告げた。
そうか。
彼女の中では、ノート上の会話のことを
『ノートーク』と名づけていたのか。
『ノート』と『トーク』を掛け合わせた、彼女独自の造語。

やはり、"意外"だった。

聞こえるのは、壁掛け時計の秒針が動く音と、
冷房のゴーゴーという低い音だけ。
さっきまであたりを騒がせていた、
ユウジの嗚咽の声は、いつのまにか静まっていた。
なんだろう?
彼女には、なにか、『力』があるような気がする。
それは声にしろ、姿にしろ、この文字にしろ、そうだった。
触れたものに元気を与える、そんな感じの力だった。

たとえて言うなら、オレンジ色。

日記はどんどん先に進んでいった。
一緒に難問を解法を見ずに切り崩したあのときのこと
しっかりと書かれていた。
彼女に言わせれば、

"やっぱり、すぐに解法見ちゃいけないな・・・"

彼女らしく、まっすぐに反省されていた。
また、その率直さにも、僕は惹かれていた。

さっきの計算ノートよりももっと強い力で、
この日記はミクとの思い出を思い出させていった。
さっき、ノートを見たときと同じ場面でさえ、
細かい彼女の台詞とか、自分がシャープペンシルを落としたこととかまで
思い出された。

日記はさらに進んでいった。
ユウジは一字一句、読みこぼさないように慎重に言葉を拾っていった。
途中途中、彼女のことが思い出され、切ない気持ちになって
また溢れ返りそうになったが、必死に持ちこたえた。

と、"あの日"の前の日記だった。

"7月29日 晴れ"
"もう、図書館で里中君と勉強するようになって9日。"
"っていうことは、あしたで丁度二桁なわけだ。"
"うーん・・・・・"
"なんだろう?"
"なんたろう?"

しばらく空白があった後、文章が再開した。



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