「後進に道を譲る」。
この言葉には、とても潔い響きがある。
それは後進に道を譲ることなく、自分の今ある座にしがみつく輩が多いことの裏返しかもしれない。その結果、どうなるか。本人、組織ともに衰退する例はあまたある。しかし、「潔さ」の裏に思わぬ「魔」が潜んでいることもあるようだ。
■1965年(昭和40年)11月6日、「親分」こと 鶴岡一人
が、南海ホークス監督の辞任を表明した。
20年間にわたる監督人生に、自らピリオドを打ったのだ。理由は諸説ある。(表明する)前日に日本シリーズで巨人に完敗したため引責、もしくはシーズン初めから決めていた既定路線、など。
真相はともかく、ヘッドコーチだった 蔭山和夫
が後任の監督に就いた。蔭山の動きは速かった。監督、コーチなどの契約制度の確立に関する要求を球団に突き付けた。 一方の鶴岡は、他の球団が放っておくはずもなく、すぐさまマスコミの寵児となった。そのあたりの様子は『野球百年』(時事通信社)に詳しい。以下に引用。
鶴岡辞職の報を聞いた東京オリオンズの社長永田が即日、
「鶴岡をウチに入団させる」
と名乗りをあげた。
すると産経オーナー水野が大阪入りして、産経監督になってもらいたいと膝詰め談判して、待遇の条件も示し、即断を迫った。
11月16日に至り、鶴岡は、
「あした、上京して東京へお世話になるか、産経へ身柄をあずけるかを発表します」
と語ったので、報道関係者が東京か、産経か、いずれかと最後の探りをいれはじめたところ、突然、まったく突然、翌17日午前4時、新監督蔭山が急病で死去したのであった。
■死因は心労だった(副腎クリーゼ)。新チーム編成にあたって精力的に走り回っていたが、プレッシャーからか、心は相当に病んでいたようだ。以下、wikipediaより引用。
「蔭山は、南海をこのまま放っておけば、近い将来黄金時代が永久に到来しない」という現実を痛感しており、その打開策を思案していたが、ノイローゼとなり、就任後はブランデーを呷り睡眠薬を服用しなければ寝付けない状態だった。急きょ倒れて病院に運ばれる際、『野村(克也)に何か伝えてくれ…』とかすれ声でつぶやいたのが、最期の言葉とされている」
■かくして「後進に道を譲った」はずの鶴岡は再び南海監督に復帰し、15日間にわたる鶴岡辞任を巡る騒動は終止符を打った。以後、鶴岡は3年間南海の監督を務めることになる。
道を譲る側に世間は注目しがちだが、前任者が大物であればあるほど「譲られる側」にも相当のプレッシャーが伴うもの。もし、この時、鶴岡が辞任していなかったら? もしくは蔭山が後任を引き受けていなかったら? 蔭山の人生は大きく違っていたかもしれないとボクは想像した。
「潔さ」の裏に潜む「魔」。蔭山和夫、享年38歳。
(写真)蔭山(左から2人目)の監督就任会見にて。右端が鶴岡。(『激動の昭和スポーツ史、プロ野球(下)』(ベースボールマガジン社)より。
(写真)蔭山が最期に、何かを伝えたかったとされる南海・野村克也。この年、史上2人目の三冠王を獲得した。引用は上記と同じ。
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