2005年11月10日
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茶立虫
 いつ頃の「趣味」であつたか、茶立虫《ちやたてむし》について露伴氏の短い談話《はなし》が載つてゐた。「あるかと思へばあるやうで、ないかと思へばないやうな実に一種変つた虫だ」とあつた。
 茶立虫といへば、私にも追懐《おもひて》がないでもない。確かまだ齢《とし》も八つか九つかの頃であつた。母は弟を連れて泊り掛けで里見舞か何かに出かけていつた不在《るす》に、あやにくと父が風邪で臥《ふ》せつたことがあつた。私は言ひつけられたやうに台所の据火鉢《すゑひはち》に焚落《たきおと》しを一杯継ぎ足して、家伝の風薬《かさぐすり》(私の家《うち》は祖父《ぢち》の代まで医者を勤めてゐた)を煎《せん》じにかかると、火がまだ熾《おこ》りも切らぬのに、ことことと湯の沸《たき》るやうな、微《かす》かな音がする。そつと薬鑵《やくわん》に触つてみると、やつと生温《なまぬる》に胴が暖《あつた》まつたくらゐなので、不思議に思つて、うとうとと眠りかけた父を呼び覚して訊ねると、それは茶立虫の悪戯だといふ。どんな虫だと聞き直すと父は寝返りをうちながら、誰もつひそ見たことがない、おほかた埃《ほこり》のやうな目に見えぬ薄つぺらな者に相違あるまいといつた。
 薬は煎じ上つた。その後で垣根の零余子《むかこ》を拐《むし》つてきて、温火《とろぴ》にかけて炙《あふ》つてゐると、またしてもことことと音がする。可笑《をかし》な茶立虫だ、薬はもうすつかり煎じ上つたのに、さうとも知らず、まだ湯の沸るやうな真似をしてゐると、今度は一杯こつちから担いだやうな誇りを感じて、そつと父に耳打ちをすると父は寂しさうに笑つた。
 その後も幾度か茶立虫の音を聞いた。咳払《せきはら》ひをするか、足音を立てるかするとふつつりと鳴き止む。そつと忍んでじつと息を殺してゐると、またことことと鳴き始める。いかにも仄かな音で、閑寂そのものを聞くやうな心地がする。
 捜しても捜しても、どこにゐるやら判《わか》らぬやうな物蔭に芥子粒《けしつぶ》ほどな肉身《にくしん》を寄せて、虫はそれ相応に自我の生存を営んでゐる。自然が騒とつしても、すぐけし飛んでしまふやうな蜀弧な生涯ではあるが、しかし自然がどれほど大きい、強い、怖ろしいと言つたところで、虫に何の関係《かかはり》があらう、虫は生きるために生きてゐる。そして餌《ゑ竚ご》も拾へば、卵も産む。それで十分なのだ。私は蜂の雛を離れて黔、惴しない嬰にもをれば・亂かな寺方にも樹んだ・そして穂の日の、とりわけ静粛《ひつそり》とした午《ひる》過ぎなどになると、ふと茶立虫を想ひ出してどうかすると今もその音を偸《ぬす》み聴《き》きしてゐるやうな心地がする。が、他《ひと》に訊《き》いてみると、相もかはらず誰ひとりどんな虫だかつひそ聴いたこともないといふ。してみれば茶立虫は、私ひとりの耳に聞かれるある神秘なものの囁《ささや》きなので、その言葉をそのまま私の気持に取り入れることのできないのは、鈍い心の嘆きとしていつまでも私ひとりの有つべきものに相違ない……
                                  〔明治42年刊『泣董小品』〕





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最終更新日  2005年11月13日 01時55分44秒
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