第7官界彷徨

第7官界彷徨

五味文彦先生の平家物語巻10・11


巻の九「小宰相」

 通盛(教盛の子)の侍、見田時員が、船にいた北の方に湊河での通盛の討ち死にを知らせます。
 北の方はそうは聞いても生きて帰られるかもしれないと待ちます。
 7日の暮れから13日の夜までは伏しておいででしたが、屋島に近づく14日、従っていた乳母が僅かにまどろんだ隙に、入水して果てます。

♪何地を西とは知らねども、月の入るさの山の端を、其方の空とやおぼしけん。
 しづかに念仏し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天の戸渡る梶の音、折から哀れやまさりけん。

 忍び声に念仏百返はかり唱へさせ給ひつつ、南無西方極楽世界の教主、弥陀如来、本願誤またず、あかで別れし妹背のなからひ、必ず一つ蓮にと、泣く泣く遥かにかきくどき、南無と唱ふる声ともに、海にぞ沈み給ひける♪

 夜半のことで船の中は静かで、だれも気がつかなかったのです。
 ほかの船の舵取りが見つけて声をあげ、急いで引き上げたものの息を吹き返すことはなかったのでした。

 この方は、上西門院の女房で、禁中一の美人と言われ名を小宰相と呼ばれている方でした。
 通盛の卿がまだ中宮の亮だった時に見初めたのです。小宰相にあてた恋文を腰にさしていたのを落としてしまい、この恋は人々の知るところとなります。
 3年もかかって、女院から賜ることができ、やっと妻にすることができた方。
 お互いに思いあって、都落ちにも連れてきて、戦いの西海の波の上、船の中まで離れずに来て、ついにともに亡くなってしまわれたのでした。

巻の十
「頚渡し」
 2月7日に一の谷で討たれた平氏の公達の首は、12日に都に運ばれます。
 平家にゆかりの人々は、嘆きつつその様子をうかがっています。
 中でも大覚寺に隠れておいでの小松三位中将惟盛さまの北の方は、一の谷で敗れた平家の中に、三位中将という公家が虜にされたと聞き、悶え焦がれておりますと、寺にやってきたある女房から、それは本三位中将の重衡さまのことですと聞かされ、それならば首の中にあるのかと、思い乱れるのでした。

 範頼と義経は、平家の人々の首をさらすように申し入れますが、公卿や大臣の首をさらすのは前例がないと、公卿たちの反対にあいます。
 しかし重ねて申し入れするので後白河法皇も力及ばず、とうとう大路に曝されます。

 惟盛から都に留まって北の方と六代を守ってほしいと頼まれた斎藤五、斎藤六の2人は、隠れてその様子を見に行きますが、惟盛の首はなく、小松どのの公達は屋島に逃れたと知るのです。

 病のため屋島にいた惟盛は、都の北の方と子どもたちへ3通の手紙を書きます。
 北の方と子どもたちの「早くお迎えにきてください」という返事を読んで、惟盛は恋しさのあまり、一度都に帰って妻や子どもたちと会ったのちに自害しようと思う、と語られるのでした。

2月24日
 「内裏女房」
 14日、生け捕りにされた重衡は、都大路を車の前後を開けさせられ人目にさらされつつ八条堀河に謹慎させられます。
 院からは蔵人の定長が使いに来て、
「もし、八島に帰りたいならば、三種の神器を返すように一門に手紙を書くように」と言います。

 かつては何ほどのものでもなかった定長にもおびえ、背くわけにもいかず、重衡は院宣とともに出す手紙を書きます。

 重衡に使えていた侍の知時は八条女院にも仕えていたのですが、重衡が捕らえられている邸へ行き、警護役の土肥実平に会い、
「大路を引き回される重衡殿を見ました。あまりにお痛わしいお姿でした。お許しを得て、今一度おそばに仕えてお慰めしたいのです」

 知時の頼みを土肥実平は受け入れます。
 知時が訪れると、重衡は夢を見ているような心地がして喜び、妻が、まだ内裏にいるのかと尋ね、手紙を託します。
 知時は、内裏へ参上し日が暮れてから、例の女房に文を渡します。

 手紙には、西国で生け捕られた様子や、今日、明日をも知れぬ身の行方など、細々と書かれ、奥に一首ありました。

  涙川浮名を流す身なりとも
    今一度(ひとたび)のあふせともがな

 女房も泣く、泣く、細々とした返事をしたためました。

 重衡は女房からの手紙を見て想いを募らせ土肥実平に頼みます。

「私には子どもが一人もないので思い残すことはありません。しかし契りを結んだ女房に今一度対面し、後世のことを言い置きたい」

 土肥実平は「問題ありません。早く早く」と許します。

 女房の車が着くと、重衡は駆け寄って、武士たちがいるからと降ろさせず、車に半身を入れて手を取り合い、頬を寄せ合って、再び会うことのない別れをするのでした。

 この美しい女房は、重衡が南都で殺されたあと、出家してその菩提を弔ったのでした。

「八島院宣」
 院宣の使者は、28日、讃岐の八島に着きます。
 平家の人々はそれを読みます。
 「重衡は東大寺消失の逆臣であるが、三種の神器を返せばその身柄を返す」と書いてあります。

「請文」
 重衡の手紙を見た二位の尼時子は、神器を返して重衡の命を救ってほしいと、宗盛に懇願します。
 しかし宗盛は、重衡と神器を交換するわけにはいかないと言います。
 重衡は清盛と時子の最愛の息子でした。

 時子は重ねて訴えます。
「夫清盛が亡くなってからは、1日も生きたいと思ったことはない。けれども天皇が西海の旅に出てからは、いつか都にお帰りになる日のためにと憂いつつ今まで生きてきました。
 もし、中将重衡がこの世にいないと分かったら、もう生きてはいけません。」
 と、泣き叫びます。

 人々が目を伏せるなか、知盛がいいます。
「三種の神器を返しても、重衡が生きて帰ってくることはない。それを書いてやればよいのです。」

 平家は返事を書きます。そこには平家の考えが示されていました。

 『すでに多くの平家の人々が死んでしまった。
 どうして重衡一人を助けることができようか。
 わが君は高倉院から譲位されて4年、この国の政を行ってきた。今は、東夷(頼朝)北荻(義仲)の入洛により、幼帝母后も嘆かれて西海にいるけれども、神器と玉体は一緒のものだ。
 もし、清盛から受けた忠節を覚えているのなら、後白河法皇自らが四国に赴くべきではないか。
 寿永3年2月28日・先の内大臣平の朝臣宗盛』

「戒文」
 重衡は関東に下されることになり、出家を願ったが許可されませんでした。

 それならば、長年関わりのある聖に、後生の相談をしたいと言い、黒谷の法然房に会います。 

 「私は南都を焼き、人を滅ぼしわが身を助かろうと大きな罪を犯してきました。出家もかなわない今、後生をどうしたらよいのでしょうか。」

 法然が
「ひたすら浄土宗の教えを深く信じ、どのようなときでも、いつ、どこででも、一切の所行において、ひたすら南無阿弥陀仏の称号を唱えれば、亡くなったあと、極楽浄土に往生することは、まちがいありません」

 そう告げると、重衡は喜び戒律を求めます。

 法然は重衡の額に剃刀をあて、剃る真似をして、十戒を授けました。重衡は涙を流し戒律を受けるのでした。

 重衡は、お布施として、預けておいた硯を知時に取りに行かせ、法然に献上しました。

「この硯を誰にも与えないで、常に上人の目の届く場所に置いてください。硯を見るたびに重衡からの贈り物だと思い出して、念仏を唱えてください。」

 法然はあわれさに言葉も出ず、硯を受け取り黒衣の袖に顔を押し当てて、黒谷へ帰りました。

 この硯は、重衡の父・平清盛が、宋朝の皇帝へ砂金を大量に献上した際、お返しに貰ったものでした。『日本和田の平大相国のもとへ』とあったそうです。硯は名を「松陰」というのでした。

3月3日
「海道下り」
 頼朝からの要請を受けて、捕われの身の重衡は梶原景時に守られて鎌倉に送られます。

♪逢坂山打ち越えて、勢多の唐橋駒もとどろと踏みならし、霞に曇る鏡山、比良の高嶺を北にして・・・・♪
 (今日の、びわこマラソンのとこやんけ♪)

 業平が唐衣きつつなれにし、と歌った駿河に来て池田の宿に泊まります。
 そこで長者の娘という一人の遊女のもてなしを受け、歌を詠み交わすのですが、それはかつて駿河の守だった宗盛が寵愛して都に呼び寄せたのち、故郷の母のためにと返した女房だったのでした。

 弥生も半ばを過ぎる頃、一行は鎌倉に到着します。

「千手」
 頼朝は重衡と会い、南都焼き討ちについて尋問します。
 重衡は、亡き清盛のせいでも自分のせいでもない、衆徒の悪行を止めさせるために行ったことが、思いがけず伽藍を焼いてしまったのだ。
 しかし、自分は弓を取る侍の身、敵に捕われたからには、早く首を取るように、と言います。

 頼朝も景時も、侍たちもそれを聞いて皆涙を流すのでした。
 重衡は流人の管理担当の狩野宗茂に預けられます。

 重衡が湯殿に案内されると、20歳ほどの色白の女房と、14,5歳の女童がきて世話をします。
 そして、頼朝から、何か要望があるか聞くように言われていると言います。重衡は、今となっては早く出家したいのみだと答えます。

 重衡は、宗茂に湯殿の女性は誰かと聞きますと、あれは手越の長者の娘で、名前は千手の前といい、この2,3年は頼朝に仕えている、と言います。

 その夜、雨が降って物寂しいなか、件の女房が琵琶や琴を持って来て、宗茂も参加して宴会を行います。

 千手の前が和漢朗詠集を朗詠しても、心が開かない重衡ですが、五常楽、唐の曲、などを演奏するうちに、重衡も項羽と虞美人の話などをして心を開いていくのでした。

 人々は、重衡の琵琶の撥音や朗詠の口ずさみに、重衡は牡丹の花に例えられる、有り難き人であると感動したのでした。
 のちに、重衡は南都で斬られたということを聞いた千手の前は尼となり、信濃の善光寺にて重衡の菩提を弔ったということです。

「横笛」
 小松の三位中将惟盛は、身柄は八島にあるけれど、心は都の妻子のもとに。その苦しさから生きていても仕方ないと、寿永3年3月15日の暁に、重景、石堂丸、武里という船に慣れた舎人とともに、八島を脱出します。

 阿波から紀伊路を通り、高野山に知人の聖を頼ります。
 それは、斉藤茂頼の子の斉藤滝口時頼と言い、かつては小松殿の侍だったのが、建礼門院の横笛という雑仕と愛したのです。

 横笛の身分が低いということで、父の反対にあった時頼は、この世に絶望して、19歳のとき嵯峨の往生院で出家。
 それを追った横笛が訪ねても会うことを拒み、自分の心が揺らぐのを恐れて高野山に上ります。

 悲観した横笛も出家して奈良の法華寺に入ったのですが、間もなく亡くなります。

 惟盛が高野山に聖となった滝口入道を訪ねると、都にいた時には、立て烏帽子に鬢をなで、華やかな男だったのに、まだ30にもならないのに、やせ衰えた老僧のようで、びっくりしたのでした。


3月10日
ここでおさらい。惟盛は、小松家の人で、時子の生んだ子じゃなくて継子。清盛の長男重盛の息子。
 主流は時子の子、清盛の3男宗盛になっていて、惟盛は五代でその息子は六代なんだけど、家風が微妙に違っている感じ。

 今週の平家物語は「高野の巻」から
 滝口入道は惟盛を見て驚き、ここまでどうして来たのかと聞きます。
 惟盛は答えます。
「都に残してきた妻子を忘れられないが、都に出て重衡のように生け捕りにされるのも嫌、頼盛のように大臣や二位の尼に二心あると疑われるのも心もとなくて、生きていても仕方ないと思い、さ迷い出てきました。」
 (頼盛は、頼朝の命を助けた池禅尼の子で、鎌倉と通じていると用心された。のちに頼朝により復権)

 入道は、夢幻のこの世よりも死後の長い闇こそ救われねば、と、一行を巡礼に連れ出し、高野山の奥の院に参ります。

「惟盛の出家」
 翌日、知覚上人に頼んで出家しようとする惟盛は、供の重景、石童丸に、自分は出家して果てるが、お前たちは都に上り、新しい主を見つけて生きながらえてくれ、と語ります。

 重景が涙を抑えて言います。
「私は2歳の時に平治の乱で父を悪源太に討たれなくしました。重盛さまは、あれは自分に代わって死んだものの子と、身近に置いて育ててくださいました。
 惟盛さまと共に元服し名前もつけていただきました。重盛さまがご臨終の時には、最後まで惟盛さまを頼むと言って逝かれました。最後までお供をするのが私の務め・・・・」

 そう言って自ら髪を切り、出家してしまいます。
 石童丸もあとに続き髪を切ります。

 高野山を発った一行は、王子王子を参りながら、熊野を目指して進みます。

「熊野参詣」
 岩田河に着き、この河を渡ったものは悪業が消えるとのことで、心頼もしく思える惟盛でした。

 惟盛は、本宮の前で経を読み、夜の間御山の様子をながめます。かつて父重盛がここに参り、命を召して後世を助けさせ給えと祈った日のことなども思いだされるのでした。

 翌日は舟に乗り、新宮に参りいくつもの社を拝みつつ那智のお山に参ります。
 多くの人々が群れなすこの場所で、惟盛を知る人たちもいるのでした。

 かつて青海波を舞われた折には、その花の御姿、風に翻る舞いの袖は、地を照らし天も輝くばかりであったという・・・その人が、今日はかくやつれ果てた御姿に、人々は皆、衣の袖をしぼって泣くのでした。

「惟盛の入水」
 3つのお山の参詣を終えた惟盛は、沖の小島に舟を寄せ、松の木を削り
「三位の中将惟盛法名浄円、年二七歳寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水す」
 と書き付けて、死に場所を求めてまた舟に乗ります。

 しかし、都の妻や子、この世への名残りは尽きず、なかなか死ねません。
 滝口入道は、迷う惟盛を気の毒に思うけれども、自分が心弱くなってはいけないと、多くの神仏が美しい音楽に乗り、極楽の東門を開いてお迎えにきています。
 あなたさまが紫雲に乗って極楽に上り、成仏なされば、やがて妻子をそこに導くこともできるのです。とさとします。

 その言葉に惟盛は、妄念を払い西に向かい手を合わせ、声高く念仏を唱えながら、海に飛び込みます。
 重景と石童丸もあとを追います。

 舎人の武里は、自分も共に入水しようと思いますが、入道に止められ、悲しく主人たちが浮かんでくるのを待ちましたが、浮かんで来なかったので、入道は高野に帰り、武里は泣く泣く八島に帰ります。

 八島で惟盛の弟の新三位の中将資盛に手紙を渡します。
 資盛は「入水するならなぜ私を誘ってくれなかったのかと泣きます。宗盛や二位の尼、そして私も、頼朝を頼って都に行ったとばかり思っていました。

 言葉はないのか」と聞きます。武里は
「清経が亡くなり、一の谷で師盛が、そして我が身がこのようなことになるのは、一門の方に心苦しい」と言っていたと告げます。
 これを聞き、宗盛も二位の尼も、悶え泣くのでした。

 寿永3年4月1日、元暦と改元されます。
 除目があって頼朝は義仲追討の賞により昇進。
 4月3日、崇徳院を神として祭る社が建てられます。

 そして5月4日、頼盛が鎌倉に下ります。
 頼盛は頼朝から
「母上の池殿がお渡りになったと思い、丁重に扱います」と誘われ、何度も誘われたので行くことにしたのです。

 頼盛の侍の宗清は、「平家一門が西海に漂っているのに自分は行けない」と同道を断ります。
 宗清は頼朝が鎌倉に流されるまで親切に世話をし、池殿に言われて鎌倉に送ったのです。
 鎌倉では歓待してくれるだろうが、それを受けるのは恥ずかしい、という思いでした。

 5月16日、頼盛が鎌倉に着くと、頼朝は宗清を探しますが、来なかったと聞いて落胆します。
 6月9日、大納言の位に復権した頼盛は、沢山の引き出物をもらい、都への帰途につきます。

東鑑には 5月19日 頼朝と頼盛が由比ガ浜に遊ぶ
     5月21日 所領と位を元に戻す
     6月1日  京に帰る頼盛に頼朝が選別を渡す
             と記されているそうです。

 6月18日、貞能の叔父の入道定次を中心に、平家に心を寄せる武士たちが近江で蜂起しますが、源氏に討たれて三日平氏と言われました。

「藤戸」
 惟盛の北の方は、夫の消息が途絶えたので、八島に人をやって尋ねたところ、7月の末に帰ってきて、惟盛が熊野で入水したことを知り悲嘆にくれます。

 これに向かい、乳母が言うには
「今更驚くことではありません。すでに覚悟されていたこと。生け捕りではなく高野山で髪を下したことを、嘆きの中の喜びとして心やすくお思いください。」
 北の方はそれを聞き、出家をして惟盛の後生を弔ったのでした。

 鎌倉の頼朝も維盛の入水を伝え聞き
「頼朝が死罪から流罪にされたのも、ひとえに、池の禅尼の使者として平重盛殿が尽力してくれたおかげだ。重盛殿の形見の御子息たちをおろそかにするつもりはないのに。」と悔やんだのでした。

2013年3月17日
 7月28日、後鳥羽天皇が即位し、安徳帝をいただく平家の人々は、都へ帰るよすがを失います。
 8月6日には除目が行われ、範頼が駿河の守に義経が左衛門の尉となり、九郎判官と呼ばれます。

 9月2日、範頼は平家追討の院宣を受けて西国に出立します。
 迎えうつ平家の大将軍には資盛。

 両軍は備前の国藤戸で向かい合います。
 舟のない源氏軍は、なすすべもなく徒に時間が経っていきますが、25日、源氏の佐々木盛綱は、地元の男に馬でも渡れる浅瀬の情報を聞いた後、その男を切り捨てます。

 26日、佐々木盛綱は範頼の指揮を待たずに浅瀬を渡ったため、源氏軍は勢いづき、平家軍は八島に退却します。

 能の「藤戸」では、この後日譚となり、浦の男の母親が出てきて、子を失った恨みを語る・・・のだそうです。
 能には、平家物語で救われないまま死んだ人をなぐさめる話が多いそうです。

「大嘗会の沙汰」
 28日、都ではまた除目が行われ、義経は五位の尉となり、昇殿を許されます。
 一方八島の平家の人々は、寒いわびしい日々を過ごします。
 都では後鳥羽天皇の御幸があり、「大嘗会」が行われ、義経が先陣を供奉します。

(この間の動きについて、東鏡?には
 5月、6月、頼朝は源氏一族の任官申請を院に出しているが、義経は、外されている。
 義経は8月6日に頼朝の申請を待たずに任官するも、自分が働きかけをしたわけではないという。
 義経は院より馬などを与えられ、近臣の道を歩く。
 頼朝は義経が院のもとで働くことに警戒する。
 そして、次の「逆櫓」では、義経が希望したことになっているが、九条兼実の玉葉記では、院は警護のために義経を手元に置きたかった、と書いてあるそうです。 

巻の十一
「逆櫓」
 元暦2年、正月10日、義経は院参して、平家追討を願い出る。
 2月義経は都を出て山陽道を西に向かう。
 船いくさに馴れない源氏の合議の折り、梶原景時は逃げるために後ろにも船頭を置いて逆にも漕げる方法を進めるが、前進あるのみの義経と意見が分かれ、険悪になる。

 大風の中、強攻策をとった義経は、2月16日の夜半2時頃攝津の渡辺を出て、明け方の6時には阿波に着いてしまう。

「勝浦合戦」
 夜明け、平家の赤旗を見た義経は、地元の大将近藤六親家を味方につけ、その地が「勝浦」というのを聞いて縁起が良いと喜びます。
 勢いづいた義経軍は、勝浦の合戦に勝利します。

「大坂越」
 義経は、親家から八島の平家の様子を聞き、平家に気がつかれないうちに、と、阿波と讃岐の間の大坂越という山を、夜をついて迫ります。

 その夜半に都の女房から平家の宗盛にあてた文を持った男をとらえた義経は、その中に
「九郎はすとどき男なれば、如何なる大風大波をも、嫌ひ侍はで、寄せ侍るらむ よくよく用心させ給へ」と書かれてあるのでした。

 義経は18日の寅の刻に讃岐の匹田という所に落ち着きます。 
 八島の平家軍は、伊予を攻めて勝利し、敵の首150人ほどを検分中。
 義経は少数であることを気取られないように八島を攻めます。
 運に見放されたのか、不意をつかれた平家軍は義経軍を大軍と思い込み、ばらばらになりながら海に逃れ八島から追われてしまうのでした。

3月24日
「つぐのぶ最期」
 平家と源氏が向かい合うなか、能登殿平教経が「船いくさのやり方はこうだ」と、源氏に向けて矢をさんざんに射掛けます。

 義経を守ろうとその前にいた何人かを射落とし、その中に佐藤つぐ信もいました。
 つぐ信の首を取ろうとした平家の菊王丸は、つぐ信の弟の忠信に殺されます。

 18歳の菊王丸を失ったショックで、教経は戦闘意欲を失います。

 つぐ信は義経に
「自分はもう死ぬけれど、義経さまが世に出るのを見ずに死ぬのは心残り。しかし殿の身代わりになって死んでゆくのは本望です」と言って死にます。

「那須与一」
 義経が八島の内裏を焼き払い、平家が海に逃げたことを知り、阿波、讃岐などから、源氏に加勢するものが出てきます。

 夕方になって両軍が兵を引きはじめるころ、その時、沖から立派に飾った小舟が漕ぎ出してきて、陸近くで船を横にしました。

 見ると、船の上で、柳の五衣に、紅の袴を着けた若い女房が、地を全部紅色に彩った扇に金箔で日輪を描いたものを、舷に沿って棚のように渡した左右の脇板に挟み、陸へ向かって、手招きを始めました。

 源義経は、弓の丈夫、那須与一を呼んでその扇を射させることにします。
 はじめ、与一は断りますが義経の怒りにふれ、見事にその扇を射落とします。

「弓渡し」
 平家の上総悪兵衛景清らが陸に上がって攻めますが源氏の騎馬武者に蹴散らされ、義経軍はその勢いで海に深く入って攻めたりしているうちに、義経の弓が海に流されてしまいます。
 義経はその弓を必死で拾ったりしました。

 源氏の兵は移動と戦闘が続き疲れ果てていました。
 このとき、平家は夜襲を相談しながら纏まらず、最後の勝てるチャンスを生かしきれなくて、運がつきてしまったのです。

☆様子を見ていた周辺の実力者たちの中から源氏に合流するものが相次ぎ、いよいよ壇ノ浦です。
 義経は小男だったので、身長に合った弓を恥じて回収したという説もあるらしい。

2013年3月31日
1年間聞いてきたNHKラジオの古典講読の時間も、今週で最終回でした。

「壇ノ浦」
 範頼は北九州の芦屋を平定し、義経は壇ノ浦に兵を集め、平家は孤立していきます。

 熊野別当湛増は平家の重臣でしたが、どちらにつくか迷い、田辺の新熊野に7日参詣して白旗につけとの託宣をもらいます。
 まだ決めかねて白い鶏と赤い鶏を権現の前で戦わせたところ、赤い鶏が一つも勝たずに逃げたので、源氏に付くことを決め、一門のもの2千余人を率いて源氏方につき、平家の人々をがっかりさせたのでした。

 源氏の数は圧倒的に増え、元暦2年3月24日の卯の刻に、豊前の門司の関、長門の国壇ノ浦、赤間が関にて、源平の矢合わせとなります。

 その日、梶原景時は、先陣を欲しがったのに認めてくれない義経を
「人の上に立つ器ではない」といい、義経は
「お前は日本一のばかものだ」
 と、刀の柄に手をかけ、同士戦の様相もあります。

 後に梶原は義経のことを頼朝に讒言するのです。

 源平両方が陣を合わせて向き合います。

♪陣の間、門司、赤間、壇ノ浦は、たぎりて落つる潮なれば、平家の船は、心ならず、潮に向かって押し落とさる。源氏の船は、おのずから、潮に追うてぞ出で来たる。♪

 平家は潮流にも見放されたのです。

「遠矢」
 新中納言知盛は、船のへさきに立って大音声で下知します。
 「世界中に名の知れた名将勇士でも、運命が尽きれば力が及ばない。
 戦は今日で最後だ。しかし名は惜しい。東国のものどもに弱気を見せず、命を惜しまずよく戦って果てよう!」

 上総悪七兵衛は、海戦は平家が慣れている。坂東武者なぞ取って海に漬けてやる。 

 越中の次郎兵衛は、出っ歯で色白の小男の義経を、脇にはさんで海に沈めてやる。などと、血気盛んなことを言います。

 下知ののち、知盛は小舟に乗り宗盛の前に行き、
「味方の兵は頼もしい。ただ、阿波民部重能が心変わりした様子なので、首を切ったほうがいい」と進言します。

 しかし、宗盛は、民部は長年平家に仕えてくれた者、心変わりの証拠はないと、とどめます。

 平家は1000艘を、3手に分けました。

 山賀秀遠が500艘で先陣。松浦党300艘が二陣。一門の公達200艘が3陣。

 山賀秀遠は、九州一の強弓、精兵でした。秀遠は、自分ほどではないにしても精兵500人を選りすぐり、船々の舳先に配置し、肩を並べて、一斉に500の矢を放ちました。

 源氏方は3000艘あり、数こそ多いのですが、ばらばらの矢。

 源義経は真っ先に進んで戦いましたが、楯でも、鎧でも、飛んでくる矢を防ぎきれず、散々に打ち負かされました。

 平家は、味方が勝っているとばかりに、しきりに鼓を打ちながら、わめき、叫んで攻めてきます。

 源氏では、小太郎・和田義盛が、船には乗らず、馬に乗り、鐙の先端でふんばって馬の上で立ち、平家陣へ、さんざんに矢を放ちました。

 中でも遠くまで飛んだと思える矢を指して、和田義盛は、「その矢を返したまえ」と、兆発。

 平家方に遠矢を射る者はいませんでしたが、伊予の国の住人の仁井紀四郎親清が、その矢を受け取り、射返しました。それも、3町あまり飛んで、和田義盛の後ろ1段にいた三浦石左近太郎の左手の肘に、深く突き刺さりました。
 三浦の者どもが寄り集まり、和田小太郎が、われ程の精兵はいないと言っていたのに、恥をかいた」と笑いました。

 ややあってから、義経の船に、白矢の大矢が一筋、当たりました。和田義盛の矢と同じように、「その矢を射返したまえ」と平家が兆発してきました。

 そんなこんなのドラマがいくつも続き、
 その後は、源平の強者どもは、互いに面も振らず、命を惜しまず、戦ったのです。

 元暦2年4月3日 
 義経は後白河院の御所に「3月24日に平家を滅ぼした」と連絡。

 25日、三種の神器(宝剣なし)が鳥羽に到着。
 26日、生け捕りになった平家の人々、鳥羽に着きそのまま京へ。都大路を晒されつつ渡る。

 5月6日、宗盛父子を伴って義経が鎌倉に下る話がある。
 5月7日、義経&宗盛父子、出発。
 5月23日、京を前にして宗盛父子が殺される。
 5月24日、宗盛父子の首が都に帰る。

 「巻の十二」
 一の谷の戦いで生け捕りにされ、鎌倉で源頼朝と面会し、伊豆の国に置かれていた重衡は、かつて多くの寺社を焼き払ったため、奈良の大衆は重衡を仏敵として恨んでおり、頼朝に重衡を渡せと言われ、奈良に送られます。

 壇ノ浦で生け捕りにされた、北の方の大納言佐殿(輔子さま)は、奈良近くの日野という場所で世を忍んで暮らしていました。重衡には子がなかったので、北の方に会いたいと申し出て、お互いに涙にくれた再会をはたし、重衡は奈良で切られます。大納言佐殿は出家しました。

 源氏の世になり、秩序も出来た頃、
 元暦2年(1185年)7月9日、大地震が発生、人々は不安に陥りました。

 梶原景時の讒言により、頼朝は、義経暗殺の刺客・土佐房昌俊を送ります。しかし、静御前らの活躍で暗殺は阻止され、土佐房は義経に切られました。

 頼朝は弟で義経にとっては兄の源範頼に義経追討を命じます。 頼朝に二心がないと起請文を書いた範頼も、頼朝に切られてしまいます。

 後白河法皇は、義経に院の庁の下文を出した数日後に、頼朝の要請により、義経追討の院宣を頼朝に出します。

 平時忠はじめ、都に残っていた平家一門が流罪に。
 頼朝の命令を受けた北条時政が軍を率いて上洛し、義経なきあとの都を守護し、平家の残党狩りを行います。
 文覚に預けられた六代御前は出家して、修行と供養の日々を送りますが、30歳を過ぎた時に、ついに、頼朝の命令で命を絶たれます。
 清盛が築き上げた平家一門は最後の継承者六代の死で、これで滅亡したのです。=

 壇ノ浦で平家が滅亡した知らせは、4月11日に鎌倉の頼朝の所に届いたそうですが、頼朝は無言だったそうです。(歴史書の何かに記載)

1年間聞き通して、平家物語を堪能しました。。
 昔の教科書「流布本」がやっと役立って嬉しい♪


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