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長年、パーキンソン病を患っていた母の病状が、先月下旬から急速に悪化し、いよいよ食事が摂れない状況になってきた。これは誰もが思うことのようだが、正直もっと親孝行をしておけばよかったと悔やまれる。
2005.10.14
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今月は自分が経営する会社の決算ということもあり、ここ数日、睡眠時間が3~4時間という毎日だ。しかし、朝のウォーキングは休むことなく、毎朝10キロをこなしている。さすがに今朝は、歩いていても鉛を背負っていると思うほど体が重く、歩き終えるまでいつもより15分も余計に時間がかかった。途中で何度も引き返そうかと考えたが、昔から自分には負けたくないという変なところで意地っ張りな性分なので、結局何とか最後まで歩き抜く。ところが、今日はいつもと違った不思議な体験をすることができた。それは、ちょうど折り返し地点で5分間の休憩をしている時だったのだが、鼻で大きく息を吸い、一旦腹に溜めて吐き出すという動作を続けていたら、口では言い表すことができないような痺れるような快感を感じたのである。まさに体がとろけてしまうというような感じで、天にも昇るというのはまさにこんな感じだろうと思うほどであった。以前、スポーツ誌に掲載されていたあるマラソンランナーの手記を読んだことを思い出す。そのランナーが「東京国際マラソン」に参加し、「心臓破りの坂」という急峻な坂道を走っている時、口から心臓が飛び出しそうになっていた苦しさが突然薄れ、体中から何ともいえない快感が湧き上がってきたそうだ。現在のスポーツ医学ではそのような現象を「ランニングハイ現象」と呼び、肉体や精神が限界に達すると、脳から特殊なホルモンが分泌され、そのホルモンが苦痛を感じる感覚を麻痺させて、逆に心地よい体感を得られるようになるらしい。数年前、ベストセラーとなった春山茂樹著「脳内革命」にも同様のことが書いてあったが、今日、僕が経験したのはまさに「ランニングハイ現象」だったのではないだろうか・・・比叡山の修行僧は生死を賭けた「荒行」を続けるうちに「極楽浄土」を体験するという。たぶんそれも、ある種の「ランニングハイ現象」と言えるのかも知れない。生命の不思議は未だほとんど解明されていない。人や動物を生かしている究極の根本は何か・・・無神論者の僕がこんなことを書くのも変だが、それは多分「神」つまり目に見えない「宇宙のエネルギー」ではないのだろうか・・何とも不思議な体験であった。
2005.09.27
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新聞配達がポストの新聞を投げ込む音で目が覚めたのが、早朝の4時。もう一度眠りに就こうと思ったのだが、ふと今日は休日だということを思い出す。そうだ!ここのところ毎朝続けているウォーキングの効果がどのくらいあるか試してみたくなり、いつもの倍の距離である20キロを歩いてみることにした。出発前の軽いウオーミングアップをしながら歩くコースを考え、4時30分出発。僕の場合一気に歩き通すのではなく、途中何ヶ所かで5分程度の休憩を挟むことにしている。その休憩場所は樹木が鬱蒼としている神社だ。大抵神社というところは静かな場所にあるので、息を整え心を落ち着かせるには最適なのである。まず自宅から2キロの距離に在る幕張の「子守神社」を目標にスタートし、検見川の「検見川神社」「稲毛浅間神社」「黒砂神社」で休憩をはさみ、最後は花見川サイクリングロード経由で自宅に戻ってきた。到着時間は8時45分きっかり・・・歩行時間は4時間15分であった。さすがに最後の3~4キロは歩行のペースも落ち、自宅の玄関に入るとドッカリ座り込んでしまった。狩猟期に入ると山を何時間も歩くが、これほどまでは疲れない。多分、獲物を探すのに神経が別の別の方向へ行っているから、疲れを感じないのだろう。それとアスファルトを歩くということは非常に脹脛の筋肉に負担がかかることがよく分かった。土の上をアスファルトの道を同じ距離歩いた場合を比較すと、硬いアスファルトのほうが倍近くの疲労度だと思う。シャワーを浴びてから母の病院検査のために付き添いをし、事務所に寄って一仕事してから、津田沼の「丸善」という書店へ行く。仕事関係の本を購入して、スポーツ・健康コーナーの書棚を見ると、ウォーキングに関する本が数冊並べられていた。その中でも興味を引いたのが「ナンバ歩行」という歩き方を解説した本で、しばし立ち読みをする。その「ナンバ歩行」というのは、昔の日本人独特の歩き方のようで、長い時間歩いても疲れにくいと書いてあった。20キロ程度の歩行でバテてしまった我が身には、研究の余地がありそうだ。次の目標は時間にして9時間、距離40キロを歩くことにしよう・・・
2005.09.21
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9月1日より開始した10キロの早朝ウォーキングも、今日で19日目。10キロ×19日だから今日で190キロ歩いたことになる。比叡山の修行僧が行う代表的な荒行「千日回峰」は、満行まで延べ4万キロ、つまり地球一周の距離を歩くそうだからすごいものだ・・毎日10キロのペースで4万キロを達成するためには、1日も休まずに11年かかる計算になる。そういえば小学校の頃、家から学校まで片道2キロあった。入学から卒業までの間「無遅刻無欠席」を達成したので卒業式の日に校長先生から表彰された記憶があるから、往復4キロとしてどれくらいの距離を歩いたのだろうか・・・ついついそんなことを考えてしまう。全てのスポーツがそうであるように、ウォーキングという簡単な歩行運動もその動きに体が慣れるまでは非常にキツイものがある。ウォーキングはジョギングとは異なり「有酸素運動」だから、激しい息切れの苦しさはないが、最初の1週間ほどは「ふくらはぎ」や「太もも」の筋肉がカチカチになり、5キロを過ぎる頃から急に足が重くなってくる。歩くペースは1秒で2歩が基本で、早歩きの感じを最初から最後まで貫くことが大切である。途中で階段や坂道なども織り交ぜ、とにかくリズミカルにペースを乱さないように歩かなければ、ウォーキングの意味がない。また、やり始めの頃は仕事中も疲労感に襲われ、昼食後、思わず居眠りをしてしまうほどの睡魔との闘いになる。しかし、それも1週間ほど過ぎると体が慣れてきて、何ともなくなってしまうのだから人間の体というものは大したものだとつくづく感心してしまう・・・ちょうど5キロの折り返し地点に公園があり、その公園で水分補給のため10分ほど休憩することに決めているのだが、毎朝同じ時間に50代後半の女性と顔を合わせ、1週間目くらいから挨拶を交わすようになった。その女性はいつも重そうな大きなリュックを背負って汗だくで歩いているので、今朝、挨拶を交わした際に「何が入っているんですか?」と訊ねてみると、その女性はちょっと照れたような表情でリュックの中身を見せてくれた。なんとその中身は5キロの鉄アレーが2本に、一杯に水を詰めた1.5リットルのペットボトルが2本も入っていた。驚いた僕は「どうしてそんな重い物を担いでいるの?」と思わず聞くと、20年くらい前に大きな病気をして体力が落ちてしまったので、失った体力を取り戻すために登山を始めたとのこと。最初はハイキング程度の軽登山だったが続けていくうちに山登りの面白さに目覚め、10年ほど前からは立山連峰や東北の峰々を登って、旦那さんの定年を機に海外の山にも挑戦しているとのことであった。そのために、山に行かないときはスタミナと足腰のバネを養うために、毎朝、鉄アレーとペットボトルの入ったリュックを背負って、5キロのウォーキング、50段近い神社の石段上り下りを往復20回やっていると話してくれた。別れ際、その女性は「私は地元の山岳会に所属しています。もしよかったら参加してみませんか?最近は会員の数が減ってきたので、こうして顔見知りになった方をお誘いしているんですよ。山は良いですよ」と言いながら、腰に巻いたポシェットの中から「入会案内」と書いた山岳会のチラシを1枚手渡してくれて、「それではまた・・・」と言いながら、軽やかに歩いていった。僕は思わずその女性の後姿を眺めながら「すげ~なぁ」と唸ってしまったのである。「弱い男に強い女」と叫ばれるようになって久しいが、まさに女性パワー恐るべし・・・である。思わず「あれじゃ旦那さんの体力が持たないだろうな・・・」と考えてしまったが、それは考え過ぎか・・・
2005.09.19
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以前書いた「狩猟入門者」のTKさんが久しぶりに訪ねてきた。どうやらこうやら狩猟者免状も交付され、猟銃の所持許可も11月15日までには何とか間に合いそうとのこと・・・めでたし目出度しである。そんなTKさんと約1時間ほど歓談したのだが、僕との初対面の直後から現在出版されている狩猟に関する本はほとんど読破され、知識のほうは下手をするとベテランハンター以上のものがあるように思われた。特に銃に関しては「弾道理論」まで話しが進み、短期間であっても熱心に勉強されたことを窺い知ることができた。そこまでの知識の構築に対しては本当に素晴らしいことであると感心するのだが、よくよく話しを聞いてみると、いままでほとんど運動らしい運動をしたことが無いそうである。そこで狩猟に向けての体力づくり必要性を説くと、早速、本やネットで体力強化の勉強を始めるとの返事・・・・「いやいや、そうではないんですよ・・頭で覚えるのではなく、体に覚えさせなければダメなんですよ。体力づくりは・・・」「とにかく歩けばいいんです」「坂道や階段を山に見立ててひたすら歩けば体力は自然と養われるんです・・・」「考えるより、まずは行動です・・」するとTKさんから「何キロくらい歩けばいいですかね。時間は?」という質問が返ってきた。その質問にちょっぴり呆れてしまった僕は「体力づくりは個人差があるから、一概に距離とか時間などは言えないんですよ。とにかく体力が無ければ野生の鳥獣が生息するような急峻な山道は歩けないし、まして銃や猟具を担いでの狩猟なんかとてもできないですから。だから、何も考えずに体を養って下さい。そうじゃないとすぐに狩猟に嫌気がさしてしまいますから・・」そう言うとTKさんは何となく不満そうな表情で「わかりました」と言って僕の事務所を後にしていった。最近、よく感じることなのであるが、仕事でも遊びでも頭に知識を蓄えただけで行動が伴わない「理論先行型人間」が多くなったと思う。とくに営業の世界では、営業研修を受けたり、営業に関するハウトゥー本を読んで頭の中だけは「ベテラン営業マン」になったような錯覚に陥っている営業マンがどれほど多いことか・・・僕の知る限りではそのような営業マンに大成した人は一人もいない。「トップセールス」と呼ばれる人ほど「行動的」で足を使い、ひとつでも多くの得意先を訪れようと努力する。逆に成績を上げられない営業マンは、いつまでも社内に居残り、パソコンの前に座っていることが「仕事」であると勘違いしている。僕がハウスメーカーに勤めていた頃、係りの人事権も与えられていたことから、部下で行動力の欠如した人間は次から次へとクビにした。その中には一流大学の出身者もいて、決して頭は悪くないが行動が伴なわず、営業マンとしての資質と使用価値が見出せないことから採用後わずか1年で辞表を書いてもらったこともあった。僕は何よりも「行動することの価値」を最重視している。遊びでも仕事でも頭で考える前に行動することのほうが重要だと思う。理論は後から自然と付いてくるものだ。TKさんが今の状態で山に入ったら、多分、30分も歩けないであろう・・たとえ歩けたとしても、獲物の動きに瞬時に反応し、急所に向けて引き金を引くことは無理だと思う。射撃場に通い、何千発、何万発も撃つことにより、自分の銃を体の一部として一体化させなければ獲物を性格に撃つことなどできない。すべてが行動による蓄積が結果として現れるのだ。今夜も取り止めのない文章に化してしまったが・・・
2005.09.17
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「狩猟解禁迫る!・・・」などと書けば如何にも大げさに聞こえるが、毎年、11月15日~2月15日までの3ヶ月間は全国一斉に狩猟期間になるので、別に驚くことではない。例年どうり、所属する「猟友会」へ、狩猟者免状、講習終了証明書、狩猟者手帳、鉄砲所持許可証、顔写真2枚を持参し、狩猟登録が完了した。僕は毎年他県へ狩猟登録を行うので、「登録証」が手元に届くのは、解禁日ギリギリの10月末ごろになる。それまでは準備期間として体力づくりを行わなければならない。猟のための体力づくりは大きく分けて、「持久力を養う」運動と「筋力を鍛える」運動を行う。運動メニューとしては毎朝5キロ以上の「ウォーキング」とダンベルを使った「腕力の強化」にスクワットによる脚部の鍛錬である。これらの運動を少なくても2ヶ月ほど前から始めないと、山に入ったときにどうしようもなくなる。とくに僕がやる猟は「グループ猟」なので、途中でバテてしまえば他のメンバーに迷惑をかけることになってしまう。今年は9月1日から体力づくりの運動を始めたのだが、「真向法」という新しい運動メニューが加わった。この真向法というのは要するに柔軟体操で、普段は萎縮している体の背面の筋肉を伸ばす運動だ。数年前に仲間が猟の途中で「太もも」の筋肉の肉離れを起こしてしまい、歩けなくなってしまったという事故があった。幸いに途中まで降りたところで畑仕事をしていた農家の人に出会い、農耕用トラクターの荷台に乗って山を下ることができたとのことであったが、普段、アスファルトの上ばかりを歩いている僕らにとって、慣れない山道の歩行はどのようなアクシデントが起きるか分からない。そのためにも今から体力と運動能力を鍛えておかなけらばならないのだ・・それにしても、若い頃はキックボクシングのジムへ通っていたから、足は180度開き、その間にベッタリと頭が着いたのだが、今では100度くらいしか足は開かず、手も届かなくなってしまった・・あ~・・・あの頃は若かったな~。
2005.09.16
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9月に入ってから、毎朝10キロのウォーキングに汗を流している。朝6時に出発し、途中2ヶ所の神社に立ち寄り「参拝」をしたりして、約1時間半の行程を楽しみながら歩いている。どちらかといえば「無神論者」に属している僕が神社で参拝などと言うと、僕を知っている人は腹を抱えて笑うと思うが、鳥居を潜り、神殿の前で手を合わせると体中の「気」が充実してくる感覚になり、パワーを授かったような気持ちになるから不思議である。「霊験」豊かな神社にはやはり目に見えない「何か」があるのだろうか・・・昨日は横浜で開催された「こころざしは時を超えて・・」という集会に参加した。この集会は、1989年11月に「オウム真理教」によって殺害された「坂本弁護士一家」の遺体発見から10年を区切りに「日弁連」主催により催された集会で、一般の参加者をはじめ、「地下鉄サリン事件」の遺族やマスコミ関係者など多くの人が会場に訪れた。前半は「バイオリン」による音楽の演奏や在りし日の坂本さん一家を写したスライド上映等、そして後半はテレビ等でお馴染みの「木村晋介弁護士」たちによる「弁護士活動妨害」「オウム事件被害者たちの10年」に関するお話しなどがあり、改めてあの事件は何だったのか・・ということを考えさせる非常に有意義な集会であった。スライド上映で、坂本先生とともに殺害された長男「龍彦ちゃん」の可愛い笑顔の写真が映されたときは、思わず涙が込み上げ、どうすることもできなかった。最初に講演した朝日新聞の「降幡賢一氏」の話では、あの事件は未だ真相の解明がなされておらず、先日、死刑が確定した「岡崎死刑囚」の自供のみに沿った裁判が進行するばかりであるということであった。真実は「何か・・・」会場の隅でそのことばかりが頭の中を駆け巡っていた。
2005.09.11
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昨日、行きつけの釣具店へ顔を出したら、やはりその店の常連で昔からの顔馴染みでもあるFさんがクーラーの蓋を開けて、店員に中を見せていた。Fさんもマイボートを所有し、暇さえあると浦賀水道(東京湾口)にボートを走らせ、魚釣りを楽しんでいる。僕も後ろから覗き込んでみたら、僕に気付いたFさんが「お~しばらく!今日は早朝から金谷と久里浜沖を攻めたら大漁でさぁ~、飯を食う暇も無かったよ~」とご機嫌だった。Fさんの言うとおりクーラーの中は魚で一杯だったが、アジにシロギス、メゴチにカサゴといった所謂、雑魚と呼ばれる小魚ばかりで、鯛やヒラメなどの高級魚は一尾も入っていない。釣り人には2通りがあって、どんな魚でもとにかく数が釣れればよいという「五目釣り派」と、なかなか釣れなくても狙った大物だけを追いかけるという「大物狙いの一発派」がいて、どちらかというとFさんは前者の「五目釣り派」に属するのだ。とにかくFさんは一日魚釣りを満喫したのには間違えないようだが、クーラーの魚を眺めながらFさんは「さーて・・・困ったなぁ~。この魚どうしようか・・・」と突然言い出した。「どうしようかって、食べればいいじゃない・・」と僕が返すと、Fさんは「俺、釣りは好きなんだけど、魚食べるのは嫌いなんだよねぇ~・・・そうだ!魚やるから持って帰ってよ。クーラーはこの店に返しておいてくれればいいから・・」と言うので、遠慮なくもらって帰ることと相成った。家に持って帰り、クーラーを開けて改めて中を見て魚の数を数えると、アジ68、シロギス92、カサゴ19、クロダイ2、メゴチ57、イナダ(鰤の幼魚)8、ベラ13、メバル6、アイナメ3、カレイ1とまさに大漁である。早速、包丁を研いで料理を始めた。まずアジは「タタキ」と「塩焼き」、シロギスは「糸造り」と「テンプラ」、アイナメは「煮付け」と「お刺身」、メバルとカレイは「二度揚」、マゴチは「糸造りの納豆和え」、カサゴとベラはぶつ切りにして味噌汁に入れた「漁師汁」、クロダイとイナダは一晩寝かせたほうが美味しいので冷蔵庫に保管。約1時間半かけて料理は完了し、色とりどりの魚達が我が家の食卓を飾ったが、どれもが涙がちょちょぎれるほど美味しかった。それは当然といえば当然で、数時間前まで海を泳いでいたのだから・・・おかげで昨夜は飲み過ぎてしまい、今日は少々二日酔い気味で午前中は仕事が手に付かなかった。「一発狙い派」の釣り人に言わせると、アジやシロギスのような小魚を「雑魚」と呼んでバカにするのだが、味のほうは鯛やヒラメと比較しても、勝るとも劣らず・・である。僕自身の釣りも、どちらかというと「一発狙い」に属する。しかし、これからはなかなか釣れない大物ばかりを狙うのではなく、ちょっと趣向を変えて、魅力溢れる雑魚釣りを始めてみようかな。
2005.08.30
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23日に書いた山梨で田舎暮らしをしている友人が、昨夜我が家を訪れた。やはり、山梨での生活は今年一杯で終わらせ、千葉へ戻ってくるという。想像していたように、側から見ているほど自給自足の田舎暮らしというのは、楽ではなかったようだ。彼は一人息子を交通事故で亡くし、そのことがもとで奥さんとも離婚した。詳しいことについては、僕もあまり聞かなかったが、精神的に追い詰められた彼は、都会での暮らしを捨て、山梨の山村にある古い農家を買い取り、そこで自給自足の田舎暮らしを始めたのである。僕も何度か彼の家を訪れたことがあったが、約500坪ほどの自宅敷地内に野菜づくりのための畑を耕し、食料を確保していた。しかし、いくら自給自足といっても、文明社会の生活に甘んじてきた人間にとって、自然の恵のみに依存するという暮らしには限界があり、電気技術者であった彼は地元の電気設備会社で働くことによって、日々の生活のための糧を得ていたのである。ところが7月の終わり頃、突然会社側から廃業を告げられてしまい、次の職場を懸命に探すものの、この不景気下においてどうしても仕事に有り付けることが出来なかったらしい。結局のところ、収入が無ければ田舎暮らしの生活も成り立たないという結論に達し、古巣のある千葉へ戻ることを決断したとのことであった。昨夜、「息子を失ったことで家庭も崩壊し、何もかもが嫌になって田舎暮らしという現実逃避の人生を選んだけど、やはりそれも(現実)であって、考えていたほど甘くなかったよ・・・」と少し酒に酔って口から出た彼の言葉に、僕は何も返すことができなかった。
2005.08.28
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昨夜、山梨県に住む友人に電話をしてみた。6年前に始めた「田舎暮らし」にもすっかり慣れて快適な生活を営んでいると思いきや、勤めていた会社が閉鎖され、大変なことになっているらしい。「いま、一生懸命に職探しをしているけれど、田舎だし仕事がなかなか見つからず、もうしばらく探して見つからなければ、住まいを引き払って千葉へ戻る・・」とのことであった。10年ほど前に子供を交通事故で亡くし、それが元で奥さんとも離婚して、人間関係の煩わしさと都会暮らしがほとほと嫌になって、母親の故郷である山梨県で一人きりの「田舎暮らし」を始めたのだが、現実はやはり厳しいようだ。最近はテレビや本などで「自給自足の生活」が紹介され、都会に住むサラリーマンなどがそんな生活に憧れては、都会を捨て田舎に移り住むようだが、ほとんどの人が厳しい自然の「洗礼」に耐え切れず、戻ってきてしまうらしい。自給自足の暮らしとはある意味で「野生」の生活である。動物園で暮らす檻の中の獣が自然界に解き放たれても生きていけないように、都会で何不自由なく暮らしてきた人間が、いきなり自然の中で野生の生活を始めようとしてもそれに順応していくということは、どだい無理な話である。千葉県内で自給自足の暮らしを売りにしている、あるアウトドア作家の家を実際に見たことがあるが、その人が本に書いている生活なんかとんでもない話で、車はあるし食材は全てスーパーへ買いにいくしで、読者を欺いている以外なんでもないという現実に腹立たしくなった。私の母の実家は信州で代々農業を営んでいて、私も子供時分、母に連れられては時々そこを訪れ、田舎暮らしの厳しさを垣間見てきた。焦げ付くような炎天下で畑を耕し終わりの無い重労働を日課とし、凍てつく寒さの中でじっと耐え忍ぶ生活には、幼いながらも野生に生きる逞しさを感じ「自分には真似できない」と感じたものである。仲間が東北へ狩猟に行ったら、地元の「マタギ」に「所詮、都会の鉄砲ぶち」と罵られたと怒っていたが、それは当然といえば当然で、都会暮らししか知らない我々が、田舎で逞しく暮らしている人々に太刀打ちなどできるわけがないのだ。正直なところ「千葉へ戻る・・・」という友人の言葉を聞いたとき、内心ホッとした。
2005.08.23
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今日は町内会の夏祭りがあり、僕も午後から手伝いに行く。机や椅子運び、盆踊りのための櫓作り、役員席のテント設営などなど・・一通りの作業を終えて家に戻りシャワーを浴びて一休みしていると、友達から電話が入り「これから船橋のサッポロビール園へ行くけど、よかったら一緒に行かない?」とのこと。何となく疲れていたから「また次の機会に・・」と言って電話を切る。ビールを飲みながら昼間録画しておいた高校野球決勝戦「京都外大付属VS苫小牧駒沢」の試合をビデオ観戦。結果はニュース速報で知っていても白熱した試合には興奮した。高校野球の面白いところは最後の最後まで諦めないことだ。そして夕食後、今度は狩猟仲間から電話が入り「今年はどこの県に狩猟登録を出す?」とのこと。あ~・・・もうそんな時期にが近付いてきたのか・・1年なんてあっという間だなぁ~
2005.08.20
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今日は仕事を休んでモーターボートで東京湾口から三浦半島へかけて釣りに行く予定でいたのだが、相棒が夏風邪をひいてしまい熱が39度もあるということで中止にしてしまった。そんなことから会員になっている「マリンクラブ」へキャンセルの電話を入れると、オーナー兼クラブの責任者であるTさんが電話口に出て、「そうですか・・・残念ですねぇ~。まあいつでも船は空いてますから近いうちにぜひお出かけ下さい。今はけっこう大きな鱸やシイラが釣れていますから・・」と本気で残念がっている様子だった。人づてに聞いた話では、そのクラブもバブル崩壊以降、会員数が減り続け、最近は赤字も続いてどうも経営が苦しいらしい。たしかに以前から比べると係留されている船の数も、一時期の半分近くまで減っているし、昔のような活気もまるで無くなっているのだ。バブル期の頃は、どこそこの不動産屋のオヤジやら、医者、中小企業の経営者などが数千万円から高いものでは1億円以上するクルーザーを所有して、クラブハウスに集まってはそれぞれの船自慢を聞かされたものだが、今はそういう光景もほとんど見ることがなくなった。とにかく「マリンスポーツ」といのは金のかかる代表的な遊びで、ちょっとしたボートでも数千万円から高級艇になると1~2億円はゆうにくだらない。維持費のほうもバカにならず管理費や燃料代などを合わせると、それだけでも1千万円以上の経費がかかってしまう。以前、知り合いの不動産屋のオヤジが大きな「トローリングボート」を所有していて、下田沖や伊豆七島でカジキのトローリングフィッシングに凝っており、毎週のように誘われては、トローリングを楽しませてもらったのだが、その不動産屋も数年前に倒産し、オヤジもその後は行方知れずである。クラブハウスで「シャネル」の匂いをプンプンさせて誰彼構わず船の自慢話を聞かせていた厚化粧の銀座のママさんも借金地獄に陥り、数年前に自慢のボートをもろとも差し押さえられ、マリンクラブの会費や滞納していたボートの管理費も踏み倒して音信不通になってしまったそうだ。残っているのは、たまにマリンクラブのレンタルボートを借りては、5~10万円くらいしかお金を落とさない僕らのような貧乏会員だけなのだから、根本的にクラブの経営などが成り立つはずはないのである。バブル崩壊から15年近くになるが、贅の限りを尽くしていた「VIP」会員たちは、バブル(泡)の如く消えてしまった。「豊臣秀吉」の辞世の句ではないが、「露と落ち、露と消えにし我が身かな、(大海原)の夢も夢のまた夢・・」といったところではないだろうか。それを教訓に、僕自身は現実を見据えた「夢づくり」に励んでいきたいものである。
2005.08.17
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この盆休みに九州へ行っている友人から携帯メールが届いた。毎日、釣り三昧でもう千葉へは帰りたくなくなってしまった・・・とのこと。羨ましい~と内心では思いながら「人間遊んでばかりいると堕落の一途を辿るばかりだから、すぐに戻って仕事をしなさい」と返事を送る。しかし、人が休んでいるときに仕事なんて、俺はなんで不幸なのだろう・・なぁ~んちゃって!来月、みんなが仕事に追われているときに俺は知床に行ってやる・・・しかも、会社の経費で・・・・・・と夢を描きつつも、多分、経理に怒鳴られて一泊二日の温泉だろうなあ~(涙)
2005.08.15
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昨日訪れた釣り仲間が「そういえば、釣り雑誌にゴルゴの写真が載っていたよ」と教えてくれた。「ゴルゴ」とは昔の釣り仲間のS君のことで、風貌が劇画の「ゴルゴ13」に似ていることから、みんなから「ゴルゴ」という愛称で呼ばれていた。「ゴルゴ」は当時某大学水産学部の学生で、「甲殻類」の研究を続けていたのだが、魚釣りも大好きで僕らの「釣り同好会」に所属していつも一緒に各地の海を釣り歩いていた気の知れた仲間であった。そんなゴルゴも今から15年ほど前に九州の水産会社に就職が決まったということで、盛大な送別会(?)で仲間達に別れを告げて涙ながらに旅立っていった。早速、書店へ行ってゴルゴが載っているという釣り雑誌のページを捲ると、釣り上げた大きな魚を持って満面笑みをたたえている懐かしいゴルゴの写真が載っていた。僕には15年前のゴルゴしかイメージがなかったので、「中年オヤジ化」したゴルゴの写真は一瞬別人のように映ったのだが、よく見ると昔の面影が残っていて、写真の下に姓名が書かれていたから間違いないようだ。たぶん取材で訪れていた釣り雑誌の記者が記事のネタとして大物を釣り上げたゴルゴの写真を写し掲載したのであろう。まさか、こんなかたちでゴルゴと再会できるとは思ってもみなかった。僕らの「釣り同好会」は1983年、某釣具店に集まっていた客同士で作ったサークルで、発足後20年以上が経過している。「釣り同好会」なんていうと何だかすごく格式があるように聞こえるのだが、釣り好きが集まって一緒に釣りに行くだけの会で、入会金3000円に年会費5000円を払えば老若男女誰でも参加できる気軽なサークルである。他の釣り会のように、煩わしい上下関係やら会則なども一切なく、釣り好きの「仲良しクラブ」のようなサークルで一般の釣り会とはちょっと雰囲気も違うのだが、それでも多いときは会員数が70名以上になり、タウンコミュニティー紙や釣り雑誌などでも何度か紹介されたことがあった。今、僕の書棚には1冊のファイルがある。これは、「釣り同好会」の会誌で「潮風」と呼び、会員でもあり某新聞社の記者であったHさんが発足後の1984年3月から隔月ごとに発行してくれた「釣り同好会」の歴史が詰まった貴重な資料でもある。先日の納戸整理の際、ホコリを被っていたこのファイルを見つけたので、取り出してみると、そのファイルには第1号から最終の82号まで全て保存されており、中を読み返すと誰々が大物を釣ったとか、途中でバラして悔しがったとか思わず笑ってしまうようなことが書いてあったり、事情があって会を脱会しなければならなくなった人のこと、不幸にして病気や事故で亡くなった会員の訃報に加え、さすが新聞記者だなぁ~と思えるようなその時の世情を上手く釣りに関連付け社会を批判している記事など、どこにでもあるような下手な同好会誌などと比べると超一流の内容である。そんな会誌を読み返し、とくに懐かしく甦ったことは1986年11月「伊豆大島噴火」の記事であった。ちょうど噴火あった3日後に会では伊豆大島での遠征釣りを計画していた。あの時の噴火は当初の予想より被害が拡大し、最終的には「全島避難」という措置が執られたわけだが、もし噴火が3日後に発生していたら、ちょうど会では大島で釣りをやっていたはずで、下手をすれば怪我をしたり命を落としていたかもしれず、みんなで胸を撫で下ろしたことを思い出した。それから印象深い記事は、1988年7月23日に横須賀沖で発生した海上自衛隊の大型潜水艦「なだしお」と横浜の釣船「第一富士丸」の衝突事故を書いた記事である。あの事故は潜水艦と釣船双方の安全確認ミスで衝突し、2分後には「第一富士丸」が沈没して、第一富士丸の乗員乗客計30人が死亡するという大惨事になってしまった。結果として、潜水艦の元艦長が禁錮2年6ヶ月(執行猶予4年)、釣船側の船長に禁錮1年6ヶ月(執行猶予4年)という判決が言い渡されたわけだが、Hさんは自衛隊側の「航海日誌」の改ざんや、事故調査結果の曖昧さなどを痛烈に批判し、その後も「コラム」として約5年間、僕ら会員の安全に対する意識向上を促す記事を連載してくれた。また、1989年の消費税スタートに絡め、10万円の「リール」を買うと3,000円の税金を払わなければならないという記事も書かれていて、「あの頃は3%だったんだなぁ~」と思い出し感慨深いものがあった。14年もの間、一度も休むことなく会誌「潮風」を連載してくれたHさんも1997年11月に「肺がん」で倒れ、1998年6月に「永久の国」へ旅立たれてしまった。52歳だった。無くなる3ヶ月前に書かれた最後の「潮風」に、死を予感したHさんの言葉が胸を打つ。「完治すると期待していましたが、どうも天はまだしばらくの間、この私に試練を与えそうです。(中略)そろそろ桜鯛(春に釣れる鯛)の季節になり、房総沖は鯛釣船で壇ノ浦の合戦のごとく賑わうことでしょう。(中略)今年も桜を見たいと望みを繋げています」バブル崩壊とともに、それぞれが釣りをやる余裕が無くなってしまったのか、一時は70人以上いた会員も現在では10人程度になってしまったが、それでも細々と活動は続けている。「ゴルゴ」の笑顔を久しぶりに見て・・・復活しようか「潮風」を・・・Hさんの意思を受け継いで・・・・
2005.08.14
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世間は一般的に「盆休み」ということもあり、電話ひとつ無い静かな一日を事務所で過ごした。こんな日には読みかけの本を読むのが一番だ・・・と思いつつ、ボーっとして本のページを捲っていると釣り仲間から電話が入り「近くにいるからこれから行ってもいいか・・」とのことである。断る理由もないので「いいよ」と答えると、10分くらいしてから両手にビールをぶら下げて事務所にやってきた。約2時間ビールを飲みながらの釣り談義にハナを咲かせ、仲間が帰ったのは午後6時過ぎ・・・つまらぬ一日だった・・・
2005.08.13
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今秋から着工するアパート新築工事に伴い、建設予定地の「地質調査」を行ったら、地中5メートルの位置に、縦3メートル、横8メートルほどの空洞部分があることが確認された。その空洞部分が何であるか土地の所有者に聞いてみても首を傾げるばかりだったが、近所で昔から住んでいる「おばあさん」の話しでは、どうもその空洞は第二次大戦中に掘られた「防空壕」の跡らしいということが解った。以前にも書いたことがあるが、その現場から約2キロほど離れた「行田町」というところには、「日本海軍船橋無線送信所」という、日本軍屈指の無線送信施設が建っていた。現在では、その跡地に「行田団地」「行田公園」「税務大学」などが建っていて、戦争の面影を残すものは何も無いが、大正12年の「関東大震災」の際、その無線送信所から「在日朝鮮人」が暴動を企てているらしいといった「デマ」が流され、罪の無い多くの在日朝鮮の人々が「虐殺」されたり、「日米開戦」の引き金となった「真珠湾」の攻撃命令も、その基地を経由して太平洋上に待機していた日本海軍の「連合艦隊」送信されている。当然のことながら通信施設などの重要拠点は、すべてアメリカ軍の攻撃破壊対象とされ、戦略爆撃機「B29」や「グラマン戦闘機」などによって、爆撃や機銃掃射などの洗礼を受けたらしい。その「おばあさん」曰く、「昭和20年3月10日の東京大空襲のとき、東京の方を見ると空が真っ赤だった。それからしばらくすると、数機のB29がこちらにも飛んできて、何発か焼夷弾を落としていった。無線基地があったからこの辺もよく狙われたんだよ・・・農家が畑で仕事をしているとグラマンが地面スレスレの低空を飛んできては、機銃を撃ってワザと脅かすんだよ。逃げ惑う人たちを見ては面白がってね。あまりにも低く飛んで来るからグラマンの操縦士の顔がハッキリ見えるんだけど、笑いながら機銃を撃っているんだ・・」とのことであった。戦争を知らない僕には、おばあさんのそんな話しを聞いてもあまりピンとこなかったのだが、戦後60年を経ても今尚残る「防空壕」という戦争の痕跡を身近に見ると、自分の中では遥か昔の出来事として捉えていた「戦争」が、実際にはかなり身近な出来事であることを沸々と感じ、タメ息と一緒に「戦争なんてけっきょく無意味なんだよな・・」という言葉を漏らしてしまった。額から流れ落ちる汗を拭い、ふと空を見上げると「自衛隊北総基地」の双発練習機が低空偵察訓練のために空を飛び去っていった・・・
2005.08.11
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ここ数日ニュースで騒がれていたように「郵政民営化法案」は否決と相成った。続いて「解散総選挙」・・・・昔、テレビのバラエティー番組で「伊東四郎」が「シーラケ鳥飛んで行く南の空へ・・・惨め惨め・・」と歌っていたが、その歌詞が脳裏を過ぎっていく・・・・山梨へ岩魚を釣りに行った友人が「カモシカ」の屍骸を見たと言っていた。内臓がすっかり無くなっていたそうだが、多分「熊」にでも襲われたのだろう。人間社会と同じで自然界も生き抜くことは厳しいようだ・・・・昨夜のNHKアーカイブスで60年前の「広島・長崎原爆投下」の特集をやっていた。20年以上も前に「原爆資料館」を初めて見たときは、ショックでしばらく話しが出来なかった。いや、話が出来なかったというよりは、一発の爆弾が、一瞬にして何万人もの尊くかけがえのない命を奪ったという事実を、実際の遺品や資料を通じてこの目で見た瞬間、戦争の恐ろしさというよりは人間の本質にある残酷さと愚かさのようなものを感じ、言いようのない「虚脱感」に襲われてしまったからなのだ。以後、何度か広島、長崎は旅行などで訪れたが「原爆」に関する資料や戦跡を見学する気にはなれなかった。「咽もと過ぎると・・・」という諺があるが、戦後60年が経ち、実体験として戦争を経験した人々が減りつつある現在、再び世界は「きな臭い」方向に進みつつあるようなきがしてならない。北朝鮮問題、中東問題然り・・これは世界の国同士の問題ばかりではなく、あまりにも人の命が軽んじてきている。「自殺サイト」で他人を呼び出し虫けらの如く簡単に殺害する・・人が苦しみ死んでいく姿を見て「性的興奮」を覚える・・・バカ野郎!何考えているんだ。人の命を何だと思っているんだ・・・と言いたい。オウム真理教による一連の事件で最初に犠牲になった「坂本弁護士」が、最後に知人へ宛てた年賀状に「親となって思うことは子供達の目が曇ることのない社会を築いていきたい・・」ということが書かれていた。つい先日、知人の見舞いに行った際、病院の新生児室を見学したら、生まれたばかりの新しい「命」がこの世に生を受けた喜びを全身で表しているかのように、精一杯の力を振り絞り手足を動かしていた。そんな新しい「命」が安心して育っていく世の中が開けていけばと思う・・「郵政民営化」「政権交代」・・・大東京のど真ん中にある永田町にはいまだに「狸」や「狐」がたくさん棲息しているようだが、自分達の私利私欲と税金の無駄遣いを考える前に本気で日本の将来を案じてもらいたいものだ・・「なあ!そうだろ・・お偉い先生達よ」・・・・気分治しに明後日は釣りでも行くとするか・・・
2005.08.08
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どこへ行っても誰と会っても、まず出てくる言葉は「暑いねぇ~」の一言。大阪は38度を記録し、東京でも35度まで気温が上昇したようだ。今日も現場に行ったのだが、車から降りて2分も経たないうちに額から滝の如く大粒の汗が流れ落ちる。30分も経過すると、体内の水分がどんどん出てしまい塩分濃度だけが高くなる。そして一区切りつけると、すぐにコンビニに駆け込み水分補給・・・・それを一日繰り返していると「食欲不振」になり、体がダルくなる。暑い暑い・・・・・再び車に乗り込みエアコンを入れラジオをつけると「国会中継」だ。「郵政民営化法案」の質疑・・・与党も野党も暑い中で更に「熱く」なっていた。
2005.08.05
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昨夜は久しぶりに早く寝たせいか、今朝は5時に目が覚めた。家でボーッとしていても仕方がないし、最近は少々運動不足気味なので自転車で少し走ってみることにした。僕の自転車は10年ほど前に買った「マウンテンバイク」というやつだが、たまにしか乗らないので10年経った今も錆ひとつ無く新品同様だ。ギアに油を注し、早速6キロほど離れた「谷津干潟」まで走ってみた。早朝ということもあり人影はまばらだが、老夫婦が可愛い「柴犬」の仔犬を連れて散歩をしていた。あまりにも可愛いので頭を撫でさせてもらい話しを聞くと、仔犬はお孫さんが毎日散歩をするという約束で飼い始めたそうだが、その約束もはや1週間で破られてしまい、仕方がないから毎朝日課にしている散歩に連れて歩くようになったと苦笑していた。しばらくそんな話しをしてから、再び家に戻ったのは7時少し前だ。シャワーを浴びて麦茶を一気飲みし新聞を開くと、「日航ジャンボ墜落事故」から今年8月12日で20年が経過するという記事が載っている。つい最近もこの話題については書いてみたのだが、あれからもう20年が過ぎるのだ。振り返ってみると歳月の経過は本当に早いものである。日航の社員の約半数は事故の後に入社した人たちで、中には事故の記憶が全くないという若い社員もいるそうだ。日本航空「123便」は飛行中に尾翼の一部が破損欠落し、操縦不能のまま、群馬県の「御巣鷹山」へ激突した。一瞬にして500人以上の尊い命が奪われた日本の航空機史上最悪の事故となってしまった。毎年、日航の社員は慰霊の登山を続けているそうだが、社員にとっても遺族にとっても、この20年をどのような思いで過ごしてきたのだろうか・・・・そんなことを考えながら別の記事に目を向けると、富山県の「剱岳」で62歳の女性が滑落死したということが書いてある。どうもその女性は一人で登山をしていたそうだが、僕の常識の範疇で言わせてもらえば、62歳の女性が2000メートル以上の山をしかも一人で登るなんて無謀以外の何ものでもない。たしかに夏から秋にかけての「剱岳」はルートさえ間違えなければ、それほど難しい山ではない。しかし、「剱岳」を含む北アルプスの山々は急峻な場所も多く、毎年のように多くの登山家が怪我をしたり命を落としている。もうかなり昔の話しだが、知り合いのパーティーに参加して「剱岳」に登ったときも「山岳救助隊」の隊員達と遭遇し、行方不明になっている登山者がいるから見つけたら連絡がほしいと言われたことがあった。数日後の新聞にその行方不明者が遺体で発見されたとの記事を目にしたのだが、記事を読むと「まさかあんな所で・・」と思うような場所での滑落死だった。最近は高齢者の登山ブームであるらしい。僕も時々書店へ行くと、登山ガイド誌などを立ち読みするが、そこそこ難易度の高い山でも、あたかも簡単に登れてしまうような書き方をしている本もある。しかし、自然の力をバカにしたりナメて掛かると必ず手痛い「しっぺ返し」を受けることになる。どんなに簡単そうな山であっても、絶対に一人登山などするものではない。エベレストなど海外の名だたる山を何度も制覇したプロの登山家さえも、国内の2000メートル級の山で命を落とすのだから・・・・まして高齢者なら尚更である。まあ、「人の振り見て我が振りなおせ」ではないが、僕も8月に長野県の山奥で渓流釣りに行く予定だから、気を付けることにしよう。今朝は、何となく新聞を読んで感じたことを書いてしまった。しかも、取り留めの無い文章で・・・・
2005.07.31
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一昨日の地震から一昼夜が過ぎ、街の生活はいつもと変らない表情に戻っていたが、わが社で管理している駐車場のオーナーさんから、「アスファルト舗装してある駐車場に亀裂が入った」と電話連絡が入った。早速、現場へ行ってみると幅1センチ、長さ3メートルほどの亀裂が入っていて裂け目の部分が2センチ程度盛り上がった状態であった。幸いにして人や駐車中の車には被害がなかったが、その場所は地盤もしっかりしていて、アスファルトの層もかなり厚めに施工しているので、かなり強い地震エネルギーがかかったに違いない。とりあえず応急処置の手配をし、現場を後にしたのだが、もしこれが建物に入った亀裂で一昨日の揺れがさらに長く続いていたらどうなっていただろう・・・そんなことを考えると背筋に寒いものが走った。最近は、地価の下落と低金利ということから、分譲マンションの建設ラッシュである。ユーザーからすれば、バブル期に7千万円も8千万円も値が付いた分譲マンションが3千万円台で購入できるということもあり、年収の低いサラリーマンであっても、賃貸マンションの家賃並みの負担で購入することが可能とあって、アッという間に完売してしまう。しかし、売り手側からすれば如何に建築コストを下げ、世帯数を多く取り、早く売り切ってしまうか否かで、利益率が大きく変わってくるのだ。つい先日も、ある中堅ゼネコンに勤務する友人の建築士と話しをしたのだが、バブル時代は建物の外観など「意匠的」な部分で才能を発揮する設計士が腕の良い設計士と呼ばれたようだが、最近は如何にコストダウンできる建物を設計できるかどうかで、腕の良し悪しを判断されてしまうらしい。建設業界というのは「たてわれ」の社会で、元請から孫請、さらに孫から曾孫へと下請け業者に仕事を流していき、途中、途中で利益を抜いていくワケだから、実行原価というのは驚くほど安くなるのだ。業者も下に行けば行くほど、請負価格の点で上から苛められるワケだから、どこで利益を出せばよいかということばかり考えるようになる。当たり前といえば当たり前の話だが、当然、利益を出すためにはどこかで手を抜くしかない。分譲建売住宅にしても分譲マンションにしても、如何に客の第一印象をよくするかで売れるか売れないかの勝負の分かれ目となるワケだから、外壁などの外観のデザイン、キッチン、風呂などの設備関係、建具、クロスなどの内装関係ではコストダウンも限界がある(安っぽいと売れないから・・・・)とすれば、手を抜くのは客が直接目にすることのない部分・・所謂、構造部分ということになるのだ。ある場所で、現在大手ゼネコンによる分譲マンションを建設中だが、「こんな基礎で大丈夫なの?」と聞いてみたくなる。当然、販売業者の営業にそんなことを訊ねれば「はい!心配ないですよ。この建物は耐震設計です。構造計算もしっかり行われているし、すべて建築基準法に則った施工で、国の基準も満たされていますから・・・」と答えるであろう。しかし、お役所の偉い役人さんが毎日検査や監視に訪れるわけではない。しかも、マンションのような大規模建築物の場合は、全世帯など確認や検査など絶対にしないし、またやりたくても時間的な制約を受けているからできないのだ。アスベストの問題しかりで、国や行政が守ってくれるなんて絶対に考えないほうが間違いない。構造計算や建築確認なんて机上の計算であり、実際に大震災が来てみないとどうなるか分からないというのが、行政や国の本音であろう。友人で中堅ゼネコンの設計士君曰く「とっても自分の会社で建てたマンションに住む気はしない・・」多分、それが本音であろう。10年前の「阪神淡路の震災」から暫くして現地を視察にいったが、地震エネルギーの凄まじさをこの目で確かめてとき、今まで持っていた我が国の建築技術に対する信頼や常識が吹っ飛んでしまった。分譲マンションの建設ラッシュもけっこうだが、「大地震が来ても本当に大丈夫なの?」そう疑うのは僕だけかなぁ~
2005.07.25
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昨日は仕事で午前中に柏市を回り、午後から八千代市、千葉市と車を走らせていた。土曜日は「休日ドライバー」が繰り出すので、国道16号もいつもより渋滞が激しい。ちょうど千葉市に入ったあたりで「グラリ・・・」。信号待ちをしていたので車体が大きく揺れて、すぐに地震と気が付いた。CDのBGMからラジオに切り替えると「番組の途中ですが、4時45分頃、関東地方で強い地震がりました。詳しいことはただ今調査中ですが、津波に注意してください」とアナウンサーが警告している。しばらく車を走らせたら急に車の流れが止まり、なんとか千葉駅近くまで行くと信号4~5回待ちというひどい渋滞になってしまった。どうやら高速道路が全面通行止めになり、高速から締め出された車が、すべて国道へ回避したものだから一般道が車の洪水化しているのだ。裏道を抜けつつ、何とか事務所に辿り着いたが、今度は電車が止まっているために従業員が帰宅できないと嘆いている。仕方ない・・・・「じゃあ送っていくよ」と言って、再び車を国道357に出るが、行楽帰りの車が全く動かない状態だ。再び裏道を抜け、僅か13~14キロの船橋へ辿り着くまで、何と2時間以上もかかってしまい、帰宅したのは夜10時を回っていた。昨日の地震は、東京の足立で「震度5強」千葉市でも「震度4~5弱」を観測したらしく、首都圏の交通は完全に麻痺し、途中で通った「幕張本郷駅」や「津田沼駅」にはニッチもサッチもいかなくなった人たちで溢れかえっていた。前の「新潟地震」の時もそうであったように、地震直後からしばらくは携帯電話が全く使用不能・・・自宅にやっと連絡が取れたのが地震発生から約1時間も経過した後である。またもや、自然災害に対する文明の弱さを思い知らされる。近い将来、必ず来るとされている大地震は震度7くらいを予想しているそうだ。そんな地震が襲いかかってきた時、我々は一体どうなってしまうんだろう・・・・
2005.07.24
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今日、営業で外出の帰り道、馴染みの釣具店の前を通ったので、久しぶりに顔を出したら、時々、釣りに一緒に行くHさんとバッタリ・・・Hさんとは長いお付き合いで、その釣具店も僕が紹介してあげたのがキッカケで、今やその店の常連客である。店で立ち話というのもなんだから、お茶でも飲みに行こうかということになり、近所のファミレスに直行・・・・まあ、いつもと変らぬ「釣り談義」から話しは始まったのだが、話しの途中で突然Hさんが「そういえば初めて一緒に釣りに行ってから、今年で20年経つんだねぇ」としみじみとした口調で言った。それを聞いた僕が「へぇ~!もうそんなに経ったっけ・・・それにしてもよく20年だなんて覚えているねぇ~」と言うと、Hさんは「だってさぁ、あの時、日本航空のジャンボが御巣鷹山に墜落した事故の少し後で、釣りをしながら事故の話ししたことをよく覚えているよ。そうだ!そういえば、やはり一緒に釣りに行った髭のおじさんはどうしているかなぁ」と懐かしそうに天井に目をやった。「髭のおじさん・・・・」一瞬、誰のことかすぐに思い出せなかったが、「あ~・・・Eさんのこと?もうだいぶ前に癌を患って亡くなっちゃったよ」と僕が答えると「亡くなったのかぁ~。元気なおじさんだったけど・・」とちょっぴり寂しそうな表情をしたが、話題はすぐに釣り談義に戻った。そう・・・Hさんと初めて釣りをご一緒したのは1985年のまだ残暑が厳しい8月下旬頃だった気がする。場所は当時クロダイ釣りのメッカだった東京湾の「五洋堤防」だった。当時参加していた集まりにHさんも来ていて、たまたま席が隣同士になったのが縁で、自分は無趣味だと嘆いたいたHさんを釣りの世界に引きずり込んでしまったのが、付き合いの始まりだった。あれから20年・・・「光陰矢の如し」という諺のとおり、アッと言う間の20年だったような気がするが、1985年は僕の長男が産まれた年で、その子が今では大学へ通っているのだから、やはり時は確実に過ぎ去っていったのである。店を出てからHさんと別れ際、「これからあと20年・・いや死ぬまで一緒に釣りに行きましょう」と言って、お互いに笑った。
2005.07.22
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一昨日、釣り&狩猟仲間が釣りたての「スズキ」を届けてくれた。スズキは今の時期が旬で、薄くそぎ落とした身を冷水で洗い、氷の上に置いてさらに冷やして梅肉醤油で食べる。口の中で梅肉の酸っぱさと新鮮なスズキの甘味が絡み合い、思わず「美味い」と唸ってしまう。スズキのような大きな魚は釣ったその日に食べるより、冷蔵庫の中で一晩寝かせたほうが、身に脂がまわり旨味が増すのだ。そんなことから、もらったスズキは昨夜料理して食べた。食卓に並んだメニューはスズキの「洗い」に「ムニエル」、それにスズキのオマケとして一緒にもらった「メバル」を唐揚げに片栗粉と野菜を煮込んだタレをかけた「メバル餡かけ」である。たしか「魯山人」の言葉だったような気がするが、人間が最も幸福感を味わえるのは美味い料理を口に入れた瞬間である・・・・まあ、まだ女性に対する「欲望」も枯れ切ってしまったわけでもないので、食べることが人生最高の幸福と感じるまでは悟りが開けていないが、美味しいものを食べる・・・やはり幸福である。旬の魚に感謝・・感謝!
2005.07.19
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昨夜は暑さのために、午前3時頃目が覚めてしまった。エアコンを入れ再び床に就いたが目が冴えてしまい、読みかけの本を読み始めたら、結局6時頃まで起きていて、一瞬ウトウトするが、無情にも目覚ましのベルでまた起こされてしまった。睡眠不足からくる気だるさを吹き飛ばそうと、風呂場に入り冷水を頭からかぶり、頭をスッキリさせてから再び自分の部屋へ戻り、中元の礼状や母に対するお見舞いのお礼の手紙を書く。それから職場へ出社・・・・・午前中は事務処理をこなし、午後から現場廻りやお客さん宅を訪問して営業活動を行い、午後6時頃帰社。とにかく暑い一日だったなあ・・・・・・・・・・今夜は、プロボクシングの世界タイトルマッチがテレビで放映される。川島VS徳山の因縁の対決・・・そちらも熱くなりそうだ。カキ氷の味が恋しい一日だった。
2005.07.18
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今日、事務所で「バンキシャ」というニュース番組を観ていたら、知床半島羅臼町における「エゾシカ」の激増という内容を放送していた。昨日の日記でも付けたのだが、知床半島は数日前に「世界自然遺産」として登録され、国を挙げて自然環境を保護する地域とされた。番組で流れる映像では、エゾシカが街中に現れては畑を荒らしたり木の皮を食べてしまったりで、地元では深刻な被害をもたらしているようだ。番組の記者が近寄っても逃げる気配も見せず、動物園には必ずある「動物に触れるコーナー」のようだ。僕も遥か昔に知床半島を訪れたことがあったが、エゾシカの姿はたまに見かける程度で、少しでも人間の気配を察知すると一目散で逃げていった。ところが、今のエゾシカは一体どうなってしまったんだろう・・・人間を恐れるどころか、涼しい顔をして道路下で昼寝をしている始末だ。番組の中では夜間に道路を横切る「羆」の姿も捉えられていた。世界自然遺産に登録され、観光客が大勢やってきてはエゾシカに餌付けをするようになる。エゾシカは益々人間を恐れなくなり、日光の鹿のように人の姿を見ると餌をネダリにくる。しかし、それだけならよいのだが、エゾシカは羆にとってかっこうの食料である。当然、エゾシカの集まる場所には羆が出没する可能性が高くなるはずだ。そなると必然的に羆による人身事故も多発することであろう。今日夜になって釣り仲間でもあり狩猟仲間でもある仲間3人が、房総半島へ釣りに行ったとのことで釣りたての魚を届けてくれた。その中のひとりSさんは「なんか、動物園の鹿を撃つみたいで狩猟という感じがしなくなるのでは。とくに羆が頻繁に人里へ出没して人間に危害を加え、その羆たちを駆除することになれば、世界自然遺産の動物保護どころか、さらに羆の減少に拍車がかかるんじゃないかな・・」と言った。彼は20年以上にわたり、狩猟解禁になると北海道へエゾシカ猟に出かけている北海道の猟場を知り尽くしたベテランハンターである。昨日書いた「トド」の問題にしても「エゾシカ」の激増にしても、結局のところ、これといった「良策」は誰も思いつかないようだ。番組に登場した羅臼町の町長が「本当ならエゾシカを山へ帰せれば一番いいのだが、不可能な場合は駆除もやむをえない・・」と言っていた。世界自然遺産と自然界・・・自然界と人間社会とのかかわり・・・とにかく今後の課題は多そうだ。
2005.07.17
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ここ数日、テレビのニュース番組や新聞の紙面では、北海道知床半島の「世界自然遺産」登録について、大々的に報じられている。我が国に現存する自然が世界遺産として登録されることは、世界を挙げてその自然を保護するのだから全くけっこうな話しであり、知床以外にも登録されればいいなあ・・・と思える場所がたくさんある。しかし、今回の知床半島における世界自然遺産登録についてちょっと気になることがひとつある。それは、流氷と共に知床にやってくる海獣「トド」と、スケソウダラ漁を生業にしている地元漁民との問題である。冬の季節になると、トドはスケソウダラの群れを追って知床半島へやってくる。ちょうどその頃は漁師にとってもスケソウダラ漁の最盛期で、海岸沿いに刺し網を張るのだが、スケソウダラを追ったトドがその網を破ってしまったり、1日に何トンものスケソウダラを捕食してしまい、漁民は年間数億円もの損害を被っている。つまり、地元漁民からすればトドの来襲は大きな脅威であり、トドは「招かれざる客」なのである。そこで登場するのが、地元猟友会を中心とした「有害鳥獣駆除」を行う「トド撃ちハンター」なのだが、今回の世界自然遺産登録をキッカケに、「動物愛護団体」などとの摩擦がいっそう激しさを増しているようである。昨夜もテレビのニュース番組でこの問題を取り上げていたようだが、(僕はその番組は見なかったが・・・)他のマスコミも含め様々な報道を見ると、結局スケソウダラ漁で日々の生活の糧を得ている「漁民保護」か、動物愛護の見地から「トドの保護」をするかで意見は真っ二つに分かれ、地元の自治体や漁協なども今後の対応と対策に苦慮しているらしい。近年、トドの個体数がかなり減少しているということから、トドは希少生物として扱われ始めている。また、スケソウダラも年々漁獲高は減少の一途を辿り、ついには廃業に追い込まれている地元漁民も出始めているとのことである。トドの個体数減少が、即「有害鳥獣駆除」によるものなのか、スケソウダラの漁獲高減少が、乱獲やトドによる捕食が直結しているものなのかは、研究者の間でもいろいろな議論があるようだが、少なくてもそれら全てが複雑に絡み合っていることだけは否めない事実であると思える。ただ、スケソウダラにしてもトドにしても、海を通じて日本まで回遊してくる外来性の生き物であることから、日本だけの問題ではなく世界的な規模での調査が必要であろう。そうでなければ、日本だけで個体数の調整や捕獲制限を行っても、それは全く無意味だという感がしてならない。前にも書いたが、鹿や猪、熊の問題についてもしかりで、近年、天敵や狩猟者の減少で鹿や猪の生息数が増加の一途を辿り、その結果、山は荒れ農業被害も年々拡大している。また、昨年のように熊が人里に降りて来て、人を襲うという事故も増えてきている。そういう事故が発生すると必ず動物保護を訴える立場の人たちは、「生きて捕獲し、別の山へ帰せばよい」と言うが、これでは「モグラタタキ」と同じで、問題の解決にはならない。動物というのは、一度、豊富な餌場を覚えると、多少の危険を冒しても必ず再びその場所へ戻ってくるのだ。逆に人間に苛められたという記憶から生じる警戒心と、人間に対する恐怖心から自己防衛本能が働くことで凶暴化し人間に対し危害を加え、結果として「有害鳥獣」として扱われる。それをハンターが駆除すれば「残酷だ!」「命を軽視している」と批難を浴びせる。つい最近も神奈川県の一部が地元住民の運動により「狩猟禁止」となったが、すでに農地への猪被害が出始め、被害を受けた農家は頭を抱えているらしい。知床のトドと漁民との関係、鹿や猪と農民との関係。難しい問題だ。「自然界と人間社会との共存共栄」を如何に模索していくか・・・・今回の知床半島世界自然遺産登録をキッカケに、皆でこの問題を考えてもらいたい。尚、「知床のトド猟」に関しては、作家「甲斐崎圭さん」の著書、「羅臼・知床の人々・・マガジンハウス1994年発行」「ネイチャリング紀行・北へ!・・コスモヒルズ1990年発行」に詳しく書かれている。
2005.07.16
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今日の夕方、浴衣を着た中学生らしい女の子数人が楽しげに語らいながら歩いていた。あっそうか・・・今夜は稲毛浅間神社の夏祭りである。子供たちにとってお祭りの楽しみといえば、やはり露店の出店であろう。「金魚すくい」「ボンボン釣り」「吹き矢」「射的」「綿菓子」等など。夏祭りでいつも思い出すのは、僕が5歳くらいの頃、父に肩車され近所の神社で開かれた夏祭りに行ったことである。肩車されての高い目線から見た、楽しそうに行き交う沢山の人に埋め尽くされた参道の風景や境内の前に一杯並んだ様々な露店、客寄せをする露店商の掛け声・・・・40年も前のその時の光景を、今だ鮮明に記憶している。アルバムに残る赤茶けた写真の1枚に、笑顔の母の横で父に肩車されお面を被って嬉しそうに写っている浴衣姿の僕がいる。たぶんその時の写真だろう・・・・そんな優しかった父もすでに亡くなった。母も病気を患い「認知症」になり、施設でほとんど寝たきりの日々を送っている。「夏が来れば思い出す・・・」今までの自分の人生で、その頃が一番幸せだったんだろうな・・・・
2005.07.15
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今年も山梨県勝沼に住む遠い親戚筋にあたる知人から、ワインのお中元が送られてきた。彼は僕の渓流釣りの師匠でもあり、地元ではハンターとしてもそこそこ有名で、狩猟専門雑誌などでも何度かその名を紹介されたこともある。仕事が自営ということもあって、比較的自由になる時間があるためか、渓流釣りのガイドをやったり、中学高校生などの団体登山や高齢者登山のサポート役も時々頼まれてはやっているようだ。とにかく山梨から長野にかけての山々には精通していて、以前は登山雑誌のコラムを執筆したり、山岳会からの要請で会報誌へのレポートを送るなど、精力的に山の紹介も続けていて、僕も数年前、「八ヶ岳」に面する全岳の登山を彼のサポートにより達成することができた。そんな彼に昨夜遅くワインのお礼かたがた電話を入れ、山のことや渓流釣りの話を聞くと・・・・「6月下旬に地元の大学の学生に頼まれ、赤岳に向かう登山道を歩いていたら、途中の沢で大グマと遭遇したよ。そのクマは沢の対岸にある岩場の影から出てきて、我々の姿を見ると慌てて尾根伝いに逃げていったけど、150キロ以上は充分にあったな~。今までに何十回もあの道は歩いたけど、クマなんて初めて見たよ。ただ昔からあの周辺は200キロを越す大グマが棲息しているって噂はあるにはあるんだよ。それにしても本当にあんなのがいるとは思わなかったなあ・・・。その場に一緒にいた学生たちなんか、怖がってもう下山しましょう・・なんて言い出したからな(笑)」そこで僕が「猟期中ならきっと鉄砲持っていて確実に仕留めたろうね。残念・・・」というと・・・「いや~、釣りと同じで大物はなかなか獲れないよ。それだけ長生きしているわけだし、長生きできるということは利口なんだからさ~」と彼は答えた。どこの山にも「大グマ伝説」というのがある。福島県会津地方のマタギたちの間に、赤面山スキー場からさらに奥へ入った赤面山の尾根に「赤面太郎」と呼ばれている、ゆうに300キロを超す大グマが棲息しているとの伝説がある。毎年、足跡だけは誰かしらが見つけるのだが、その姿を見た者は未だかつて誰もいないそうだ。生物学的にいえば、クマがそこまで大型化することは有り得ないそうだが、人間だって、2メートル以上の人はまれにいる。それを考えると、赤面太郎のような大グマが棲息していても不思議なことではない。もしかすると、彼の目撃した大グマなんてまだまだ序の口で、もっとすごい怪物がいるかもしれない・・・「赤面太郎」のような・・・・・
2005.07.14
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昨夜、納戸から古い本を引っ張り出し、パラパラとページを捲っていたら、何と1万円札が3枚(計3万円)出てきた。それもお札の人物は「聖徳太子」の旧1万円札である。その本は今から20年近く前に購入した本だが(僕は必ず購入日を裏表紙に記する習慣がある)あまり面白くなかったから、途中まで読んで納戸に放り込んでいたものである。だから、1万円札を入れたのは他ならぬ僕自身に間違えないのだが、いつ「ヘソクリ」をしたものなのかどうしても思い出せない・・・・・読むのを途中で投げ出していて、その後ページを開いた記憶がないのだから、やはり20年近く前なのであろう。しかし、20年前の僕にとって3万円というお金は大金だったし、ヘソクッたことを忘れてしまうなんてことがあり得るのだろうか。札の1枚には「昭和60年11月15日、山本さん」と僕自身の筆跡で書かれている。だけど、僕の知り合いに「山本」という人は数人いるが、お金とは全く結びつかない。一体、このお金は何なんだろう・・・・不思議だ。
2005.07.13
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つい最近の話だが、突然、自分でもコントロールが利かないどうしようもない「虚脱感」のようなものに襲われてしまった。自問自答するものの、その原因は思いつかないのだが、肉体的疲労というよりは、やはり精神的なストレスが起因していることだけは確かなようだ。そんなことから、一旦は事務所に出社したものの、何だか息が詰まりそうになり、仕事を放り出して、ドライブに出かけることにした。ドライブと言っても目的地があるわけではない。他の車の波に飲み込まれるように、千葉から市原、袖ヶ浦、木更津市を抜け、気が付いたら、富津市の上総湊という海辺の街まで来ていた。ちょうど昼時だったので、「どさん幸」というラーメン屋に行くことにする。この「どさん幸」は、釣りや海水浴に行った際、時々立ち寄るラーメン屋で、はじめて行ったのは、僕の長男が赤ん坊の頃だったから、もう20年近くに前のことになる。開店から30年が過ぎ、改修工事は1度もしていないというから、店はかなり古くなっているが、ラーメン、チャーハン、餃子がメチャクチャ美味い。今回は3年ぶりに訪れたのだが、味は変っていなかった。変っていたことといえば、昔、カウンターの奥で一生懸命ラーメンを作っていた店のオヤジさんが、昨年の暮れに亡くなったそうである。このオヤジさんには思い出があって、家族との海水浴の帰りに立ち寄った際、長男が突然大きな声で泣きだして、なだめてもあやしても一向に泣き止まない。すると、カウンターの奥にいたオヤジさんが見るに見かねたのか、小さなお菓子を息子に手渡してくれた。不思議なことにあれだけ烈火の如く泣いていた息子が、ピタリと泣き止み、急にニコニコと笑い出した。今でもその店を訪れると、その時の記憶が甦ってくる。現在は、奥さんとお嫁さん(?)が2人で店を切り盛りしているようだ。これからも末永く営業を続けてもらいたい。(オヤジさんのご冥福を祈りつつ)そして昼食後、さらに南下し、竹岡を通り過ぎて金谷へ到着。対岸の神奈川県三浦半島の景色が美しい。しばらく金谷、久里浜間を行き交う「東京湾フェリー」を見ていたら、急に今度は神奈川県側から千葉を見たくなり、フェリーで久里浜まで向かう。約30分の航海だが、海の上をすべり、胸一杯に潮の香りを吸い込むと、頭の天辺からスーと虚脱感が抜けていき、心地よい「安堵感」のようなものに包まれていくような感覚に浸った。久里浜到着後、港からしばらく千葉県房総半島の景色をボーッと眺め、再びフェリーで引き返し、事務所に戻ったのが夕方6時を過ぎていた。何も考えず過ごした「空白の一日」だった・・・
2005.07.12
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午前中、仕事の打ち合わせで、千葉寺の「青葉の森公園」近くの現場へ行った。幼稚園の子供たち10人くらいと、多分、園長先生ではないか思われる初老の男性が歩道の真ん中で何かを囲んで輪になって騒いでいる。その横を通り過ぎながら覗き込んでみると、1メートルくらいの「青大将」だった。やはり、その横を歩いていた数人の奥様方は「わあ~ヘビだ気持ち悪り~」なんて言いながら、小走りに逃げていった。しかし、園長先生らしき初老の男性は、青大将をそっと手に取りながら子供たちに向かって「ヘビ君は足が無いのに何で歩けるのかねえ」「よく見るとお目目が可愛いでしょう?大丈夫だから撫でてごらん」と言って、子供たち一人ひとりに青大将の体に手を触れさせていた。何となくそんな光景が微笑ましかったことと、子供たちがどんな反応を示すかと思い立ち止まって眺めていると、最初、恐々触れていたのに慣れてくると男の子も女の子も「カッコいい!」とか「可愛い」なんて叫びながらキャアキャア言って嬉しそうに青大将と戯れている(青大将にとったらいい迷惑だろうが・・)そして一人の子供が「先生、幼稚園で飼おうよ」と言ったが、園長先生らしき男性が「ヘビ君も遊びに出て道に迷ったのかもしれない。ヘビ君のお母さんが心配しているかもわからないから、帰してあげよう」と言いながら草むらに放すと、ニョロニョロと草陰に入っていき姿が見えなくなった。ヘビという動物はその姿から一般的に気味悪がられるものだが、それは大人が「ヘビは気持ち悪い」とか「不気味」だとか子供たちの潜在意識に植え付けてしまうから、ヘビを気持ち悪いものとしか見れなくなってしまうのではないだろうか・・「よく見るとお目目が可愛いでしょう・・・」その一言は、「ヘビだって命があるんだから、無闇やたらに苛めてはいけないんだよ」「どんな命でも尊いんだよ」と子供たちに教えているように聞こえた。凶悪事件が低年齢化し、ゲーム感覚で人を殺めてしまう子供たちが多くなっている現代の社会で、命の尊さを幼い子供たちに肌身をもって教えている初老の先生の姿が、何かほのぼのとしたものに映った。何となく良い一日だった。
2005.07.08
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会社を経営していると、下請業者、同業者、お客様など様々な方からお中元を頂く。大体、お中元の中身で多いのが以下のとおり。第1位 アイスコーヒー、ジュース、ビールなどのギフトセット。第2位 素麺第3位 水羊羹などのお菓子類のギフト第4位 ハム、ソーセージ類のギフト第5位 石鹸、洗剤のセットその他 お花、果物、お魚など多種多様頂き物については、社員みんなで分ける。いつも思うのだが、中元とか歳暮のやり取りの習慣は本当につまらない。日本って変な国だなあ~。今日は疲れたから寝ることにします。
2005.07.07
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今朝、突然携帯のベルが鳴って起こされた。(午前5時10分)出てみると聞き覚えのある声だ。頭がボーとしながらも「どうしたの?こんな時間に」と聞くと「あっ!すみません。リダイヤルで電話かけたら間違っちゃった・・・」相手は昨夜、仕事の打ち合わせをした下請け業者の社長である。どうも履歴を間違えて、僕の携帯にリダイヤルしてしまったようだ。「これからゴルフ行くんですよ~。すみません起こしちゃって・・それじゃまた」と言って一方的に電話を切りやがった(怒)昨夜は午前2時まで酒飲んで起きていたから、思考力が全く働かない。しばらくボーとしていると、新聞受けに新聞を入れる音が聞こえたので、それを取るために玄関を開けると、隣のオヤジが玄関の前でしゃがみ、歯を磨きながら新聞を読んでいる。「いや~早いねえ。今日はゴルフかい?」と歯磨き粉だらけの口でニンマリ笑う。「違うんですよ~。今日ゴルフに行くっていうバカが間違い電話かけてきて起こされちゃった・・・2時まで飲んでいたから二日酔い気味だよ~」と答えるとオヤジは「早寝早起き三文の得って言うからねえ。まだまだ若いんだから日の出と同時に飛び起きて働かなくちゃ・・」とさらに追い打ちをかけてくる。顔では笑って頷くが腹の中では「冗談じゃネ~よ。あんたは毎日暇こいて囲碁やら鉄道模型作りをやっていればいいけど、こっちは今日も仕事なんだよ。」と思いつつ、「つくり笑顔」で愛想よく「それじゃ・・失礼します」と言って再び玄関に入り新聞を読む。時計を見ると5時40分・・・・今朝は8時に業者が来社するから再び寝たら起きられないと思い、そのまま起きてしまうことに覚悟を決めた。寝不足に二日酔いの重い体にムチ打ち、予定どおり出社。一日中、眠く頭が痛い辛い一日だった。そして午後6時過ぎ、電話をかけてきた下請け業者の社長から再び電話があり「今朝は申し訳なかったですね~。お土産買ったから明日、事務所へ届けます」だって・・・・・いい加減にしろよなあ~。・・ったく!
2005.07.05
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ここ2~3日続いている雨で、各地で土砂災害の恐れありなんて毎日ニュースで報じているけど、首都圏の水がめの貯水率は多少、確保できているのかな・・・そういえば、平成2年の今頃は記録的な渇水状態が続き、取水制限やプールの閉鎖が相次いでいたっけ・・・・渇水で思い出すのは、その年の東京湾が「タコ」フィーバーに沸いたことだ。どの釣船も他の釣りを取止め、タコ釣りに転じた。僕もそれまではタコ釣りの経験が無かったのだが、釣り仲間に誘われ初めてタコ釣りに挑戦した。「タコテンヤ」という錘の付いた独特の仕掛けに、餌の「石蟹」を結んで船長の指定するタナ(深さ)まで仕掛けを落とし、道糸を引いたり下ろしたりしていると、突然、仕掛けが重くなる。そして船べりまで引き上げると、足をくねらせた「タコの八ちゃん」がくっついている。目玉は黄色く、ホラー映画に登場する悪魔のような目をしている。さて、タコは船上に釣り上げてからが大騒ぎ。手で掴もうとすると吸盤で吸い付いてなかなか離れない。だから、そのまま真水を溜めたバケツにタコを突っ込み、頭を裏返しにしてしまうと、グッタリとして動かなくなる。そう・・・タコは真水が大嫌いなのである。要するに真水が嫌いなタコは雨の多い年は不漁で、雨の少ない年は大漁となるのである。記憶では初めてのタコ釣りで100パイ以上釣れた。大漁はよかったのだが、家に持ち帰ってからその処理が大変だった。洗濯機でタコを洗って滑りを取り、我が家だけでは食べきれないから塩茹にしてご近所へ配って歩いた。そういえば、釣りを終えて船から上がると、観光らしい外人さんが船の近くへ歩いてきて、クーラーの中を見せてくれと言うからフタを開くと「お~っ!デビルフィッシュ」と叫んで、1メートルも後ずさりしたのには笑ってしまった。あ・・そうか!西洋人はタコを悪魔の化身と忌み嫌うんだなあ~あの黄色い目を見ると納得してしまう。
2005.07.04
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昨夜は涼しかったので、エアコンを入れず窓を全開放していたら、プウ~ンと「ラッカーうすめ液」の匂いがしてきた。「おっ?また始めたなあ~・・・・」隣のオヤジさんの趣味は「鉄道模型工作」で、その凝りようと言ったら半端じゃない。専門誌にも何回か作品が掲載されるほどで、細部に渡り、実に見事な出来栄えだ。時々、お邪魔すると必ず自慢の機関車や電車を見せられる。僕も嫌いではないから、時間の経つのを忘れオヤジさんの模型製作過程の苦労話や自慢話に聞き入ってしまう。趣味に投じたお金は、家が建つ位使ったと言っていた。そこまでいくと、趣味を通り越し「道楽」の世界である。因みにオヤジさんは旧国鉄マンであった。この間、オヤジさんと話しをしたら「今度、模型の作り方を教えるよ・・」だって。あ~あ、鉄道模型まで手を出したら、我が家は家庭崩壊だろうな。
2005.07.03
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我がPCには毎日30前後のメールが届く。主な送信主はメル友が7割、残りは宣伝関係や僕が所属している団体などからの広報メールである。その中でも毎日定期的に受信トレイに届く「21世紀の狩猟を考える連絡会議」というメールが面白い。この「21世紀の狩猟を考える連絡会議」というのは狩猟をやる人もやらない人も誰でも参加でき、昨今の狩猟が抱える問題を議論しそれを全て開示するHPだ。参加している人たちを見ると、狩猟者はもとより環境問題に取り組んでいる人、学生、研究者などが多く意見を述べていることで、どうしても狩猟者の立場からでしか周囲の状況を見渡せなくなっている謂わば「井の中の蛙」化している僕自身に、様々な考え方を導いてくれている。今日も、北海道の猛禽類が鉛弾によって倒されたエゾ鹿を食べ、鉛害を引き起こしている問題について書かれていた。また、保護か駆除かについての議論にも「いろいろな考え方があるんだなあ」と、多くを教えられる。メールで知る情報は、狩猟ばかりではない。今朝、受信トレイを開くと5年ほどメールのやり取りをしている「メル友」から、僕が何年も前から探していた大正アナーキストに関する絶版本を、ある古書店で見つけたというメールが届いていた。古書店の住所と電話番号も書いてくれたので、早速、その古書店に電話で問い合わせると「ちょっとお待ち下さい。あ~その本なら1冊ありますよ。値段は6,000円です。現金書留で送料と送っていただければ、代金が届き次第、宅配で発送します。古い割には本の状態はなかなかいいですよ」との返事が返ってきた。すぐに代金を送る旨を伝え、その本を押さえてもらうことになったが、何年も探しなかなか見つからなかった本が、まさか「メル友」からのメールで発見できるとは思ってもみなかった。電話だと余計な話しもしなければならないと思うと、ついつい億劫になってしまうが、PCや携帯のメールだと必要な用件だけが気楽に、しかも安く確実に伝えたい用件だけを伝えることができる。受け取るほうも何度も読み返し、内容を把握することもできるのだ。パソコンや携帯を手にして10年以上になるが、パソコンや携帯に伴う弊害は別として、進化を続けるパソコン&携帯は、僕にとっていつの間にか無くてはならない情報収集の源になってしまった。
2005.07.02
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今朝は遠方の仕事のため、7時に家を出て埼玉県川口市、越谷市、三郷市を回り、午後は、茨城県牛久市と千葉県柏市のお客さん宅へ行って、途中、印西のホームセンター「ジョイフル本田」で買い物をして、ちょっと前に帰ってきた。今日は水曜日ということもあって、いつもより道路は空いていたので、どの目的地にも大体予定どおりの時間に到着できた。走行距離167キロ。毎週水曜日は会社の定休日だが、それは従業員だけの話しであって、僕の場合は仕事が入ってしまうと定休日もクソもない。いつものとおり家を出て仕事をこなし、いつもと同じ一日が終わる。
2005.06.29
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一昨日予定していた猟仲間との飲み会が、昨夜に変更になった。毎月1回、気心の知れた連中が集まって開くミーティング(仲間内ではそう呼んでいるが、ただ単に酒を飲むだけ・・)も、来月で5年目になる。ミーティング会場は、毎回、猟仲間の弟さんが経営する錦糸町の某居酒屋で開催すると決めている。昨夜の酒の肴は、仲間の一人が栃木で釣ってきた「鮎の塩焼き」と、房総半島の獲りたての「アカイカ」、そして前日に居酒屋の主人が富津沖で釣ってきた「マゴチ」と「黒鯛」のお造りと贅沢三昧(?)であった。酒も毎回持ち込み可ということで、今回は沖縄の友人が贈ってくれた「泡盛」と「ハブ酒」を僕が持参し、ミーティングのメインドリンクとなった。「泡盛」はレモンを絞ったり、トマトジュースで割るとクセがなく美味しく飲めるが、どうもハブ酒になるとグラスに注いだ酒の減るペースが遅くなる。別に生臭いわけでもなく、口に入れてもアルコールの味しかしないのだが、ビンの底でトグロを巻いている「ハブちゃん」の姿を見ると、喉の通りが悪くなるようだ。仲間の一人が「こんな恐ろしい顔したヘビが本州にはいなくてよかった・・こんなヘビがいたら、怖くて山なんか入れないよ」とボソリと言う。20年以上前に、友達に誘われ、戦争で亡くなった兵士や民間人の遺骨収集のボランティアに参加したことがあった。場所は、沖縄本島南部一帯のジャングルにある防空壕や洞穴である。当時の沖縄は未開発の場所も多く、復帰して差ほど時間が経過していなかったということもあり、ジャングルにちょっと足を踏み入れると、ボロボロに錆びた銃や弾、不発弾と思われる砲弾や手榴弾、軍刀やヘルメット、水筒などの軍装品がゴロゴロとしていて、頭蓋骨などの人骨も沢山落ちていた。そんな遺骨収集の際、毎朝開かれる朝礼で必ず注意されたのが「ハブには気を付けろ」であった。世界最強の毒蛇は「キングコブラ」だそうだが、キングコブラは鎌首を持ち上げ、首を振って届く場所しか危険はでない。しかし、ハブは危険を察知するとトグロを巻いて、まるで巻かれたバネが一挙に伸びるようにすごいスピードで攻撃を仕掛けてくるから攻撃の範囲も広く、その射程距離に入るとほぼ100パーセントの確率で咬まれてしまう。だからとにかく厚手の服を着て肌を露出しないようにと、くどいくらい注意された。遺骨収集は、1チーム、5人1組で編成され、必ずハブの捕獲器(棒の先に輪になったワイヤーが付いるモノ)を持った地元のヘビ獲り職人が1人同行した。戦争中、ジャングル内入っても、地元の民間人はハブの習性をよく知っていたから咬まれるということは少なかったようだが、内地から徴収された日本兵や米軍の兵士はハブの犠牲になったものも多かったようだ。今でこそ、ハブに咬まれてもすぐにワクチンを注射すれば事無きを得るが、戦争末期なんかワクチンなんて無かっただろうから(たとえあってもごく僅か・・・)、咬まれた人は苦しみながら死んでいったのだろう・・・一昨年、カジキのトローリングフィッシングをやろうと沖縄の久米島へ行ったときも、空港から乗ったタクシーの運ちゃんが「数日前に内地から来た観光客が、雑木林に入ったらハブに咬まれ大騒ぎになったよ。すぐに病院へ運ばれてワクチン打ったから助かったけど、注意して下さいね」と教えてくれた。ハブ酒を注ぎながらそんな話しを仲間に聞かせたら、ますますハブ酒の減り方が遅くなった・・・・(笑)ハブ恐ろしや~!マムシのほうがまだ可愛いかなあ~
2005.06.27
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昨日、仕事関係の人と会うために、新宿の市ヶ谷富久町へ行った。土曜日は「休日ドライバー」が多く車を出すので、時間が正確な電車で行こうと決めて、本八幡から「都営新宿線」に乗り「曙橋」で下車する。冷房の効いたホームから階段を駆け上がり地上に出ると、サウナ風呂に入った瞬間を思わせるような熱気を感じる。梅雨の中休みで、関東地方は真夏並みの陽気になると天気予報では聞いていたが、予想を遥かに超える暑さに「やはり車で来ればよかったなあ」と少し後悔した。仲間の事務所は、駅から徒歩17~18分くらいの場所にあるが、5分も歩かないうちに全身から汗が噴出す。とくに市ヶ谷台地というところは、起伏の激しい場所なので、坂や階段の上り下りで、目的地に着くころには全身が汗だくになった。やっと目的地に到着し事務所に入ると、エアコンの冷気を受けて体全体がだるくなる。約1時間の打ち合わせを終え帰ろうとすると、仲間が車で途中まで送ると言ってくれたが、歳と共に暑さ寒さに順応しにくくなっているわが身に渇を入れるため、仲間の申し出を辞退し、今度は四谷3丁目までの約30分を歩くことにした。四谷3丁目に着き「地下鉄・丸の内線」で真っ直ぐ帰ろうかと思ったのだが、昼食を食べていないことを思い出し、四谷駅近くにある昔なじみの寿司屋へ行こうと更に20分ほど歩く。ようやく店に着いてカウンターに座ると、店の女将が「あらっ!こんなに汗だくで・・今日はお車じゃないんですか?」と目を丸くして驚いている。さっそく冷たいビールを注文しおしぼりで汗を拭うと、カウンター越しの主人が「社長、千葉より暑いでしょう・・・昔はこの辺も土が多かったから地面が熱を吸収したけど、今はアスファルトばかりだから照り返しがすごく、暑くてたまんないですよ。」と寿司を握りながら笑顔で語ってくれた。たしかに僕の住む千葉は海も近く、土や緑もけっこう残っている。地球温暖化の問題は別としても、都内のように足元から電熱器で炙られる焼け付くような暑さを感じることはない。同じ暑さでも、千葉のほうがどこか優しい暑さだ。昔読んだ何かの本に、サハラ砂漠のど真ん中に飛行機が不時着し、乗員が水を求めて彷徨いながらも、力尽き熱射病で次々と倒れ死んでいくという一説があった。食事を終え、店を出ると、また咽かえるような熱波を浴びる。アスファルトの灼熱地獄の中で、とことんまで自然を破壊した人間の愚かさと、崩壊が始まりつつある「大東京」の末路を垣間見た感がした。
2005.06.26
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昨夜、ネットを見ていたら、偶然にも中学校時代の恩師を発見した。当時は大学出たての熱血多感な新任教師だったが、今では都内の中学校で校長先生になっていて驚いてしまった。掲載されている画像に映し出された現在の顔は、それなりに貫禄もつき年相応といったところであったが、笑顔に昔の面影が残っている。何か涙が出るほど懐かしくなった。先生とは中学卒業以来お会いしていないから、30年ぶりのネット再会である(と言っても僕が一方的に先生の写真を見ただけだが・・・)そうだ!暑中見舞いを送ってみよう。覚えていてくれるかな・・・今夜は、猟仲間と定期ミーティング(要するに飲み会)。肴は解禁直後の鮎と酒は沖縄友人が送ってくれた泡盛だ・・・明日は二日酔いになりそうだ。
2005.06.25
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昨日、何だかんだ理由をつけて仕事を早退し、釣り仲間と江戸前の「アナゴ」を釣りに行った。この時期、東京湾で行うアナゴ釣りは「夜アナゴ」と言って、釣船が夕方出船し、夜9時ごろまで釣りをする江戸前釣りの初夏の風物詩だ。釣果のほどは、アナゴ大中合わせて28尾。まあまあの成績だった。早速、今夜の夕食でテンプラと蒲焼で美味しく頂いたが、我が家だけでは食べきれないので、魚好きの友人宅へ届けてあげた。とにかくその友人は、仲間内でも有名な魚好きで、残った骨まで唐揚にして食べるほど、魚を愛してやまない。当然、アナゴを見た途端、目尻が下がり大喜びした友人だが、帰り際に「ちょっと待って・・・去年亡くなった親父の荷物を整理していたらこんなモノが出てきたんだけれど、いらないか?」と大きなダンボール箱を抱えて出てきた。フタを開けると、ななな・・・・何と!箱の中には古い釣具がビッシリ入っていた。年代からすると昭和20年代後半から30年代の釣具のようで、アンティーク釣具としてインテリアにもなりそうな外国製のリールや、道具箱、道具箱の中にはやはり何十年も昔の釣り針とか、柄の部分が象牙細工で装飾されている鋏なども入っていた。その友人いわく「親父は釣りなんかやっていなかったけど、昭和30年代に商社に勤めていた関係で外国生活をしていた時があったから、たぶん、その頃誰かに貰ったモノかもしれない・・・俺も魚を食うのは大好きだけど、釣りには興味ないし、家に置いておいてしょうがないから、よかったら持っていって・・・」と惜しげもなく箱ごと手渡してきた。僅か数尾のアナゴが「歴史的価値がある釣具」の「思いがけないプレゼント」に変り、とにかく嬉しかった。
2005.06.18
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一昨日、テレビのニュースを観ていたら、捕獲した「熊さん」を山に返そうとトラックの檻を開けた際、突然、隣の乗用車に乗っていた人に襲いかかろうとする瞬間の映像を流していた。襲われた乗用車に乗っていた人は「熊撃退スプレー」で応戦し、ドアをすぐに閉めたので事無きを得たが、熊が突然襲いかかるスピードは早く車体も大きく揺れていた。あれが生身の人間だったら、ひとたまりもないところだ。もう10年ほど前だが福島県に渓流釣りに行ったとき、たまたま通りがかった農家で何やら騒いでいたので野次馬根性丸出しで覘いてみたら、その家の飼い犬が熊に襲われたとのことであった。もちろん、犬は即死で死体も雑巾のようにボロボロになっていたが、何より恐怖を覚えたのはベニヤ板の「犬小屋」に残されていた熊の「爪痕」だった。突然、熊が現れ繋がれていた犬は走って逃げることもできず、犬小屋に逃げ込んだんだろうが熊の爪と強い腕力で小屋を囲っているベニヤ板を瞬く間に壊され、成す術も無く殺されたことは一目瞭然であった。ニュースを観ながら、あの時の光景が甦ってきたわけだが、やはり野生の熊は恐ろしい猛獣だということを再認識させられたニュースだった。今年も熊の出没が多発するだろうが、充分注意が必要だ・・・・
2005.06.16
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昨夜、NHKのアーカイブスを観ていたら、野鳥の保護か開発か・・・という40年ほど前に放送されたドキュメンタリー番組をやっていた。画面に映し出されたのは、何と40年前の「千葉県市川市行徳」の懐かしい風景だった。今でこそ、行徳から浦安にかけてはマンションが建ち並び、ディズニーランドなどで賑わっているが、おぼろげながら僕が記憶する30年くらい前までの行徳は、ほとんどが葦が生えた沼地で、地下鉄東西線の行徳駅を降りても小さな食料品店が1軒だけポツリとあるだけで、駅の乗降客などはほとんどいなかった。まだ、僕が中学生だった頃、友達と今頃の季節から夏の終わりにかけて、そんな行徳の沼地へよくウナギを取りに行った。竹筒に数本の釣り針を仕込み、餌は大きなミミズを付けて、石の重しで筒を水中に沈めておく、2~3日してから竹筒を上げてみると1メーター近い大きなウナギが1本の筒に2~3尾入っていた。そして、そのウナギを活かしたまま家の近所のウナギ屋へ持っていくと、1本500~1,000円で買ってもらえた。趣味と実益を兼ねた遊びで、夢中になって竹筒を仕掛けたものだった。現在の行徳で当時の面影を残すのは、宮内庁管理の「御猟場」のみとなってしまったが、昨夜のNHKアーカイブスによって、そんな懐かしい「遠く過ぎ去った時の流れ」を遡ることが出来た。テレビで甦った遠い日の思い出・・・だった。
2005.06.13
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昨夜、飲み仲間を伴って、行きつけの居酒屋へ顔を出したら、メニューボードに「イナゴの甘露煮・500円」と書いてあった。仲間が「イナゴって何?」と聞くから、なら注文しようということになり、早速運ばれてきた皿に盛られた「イナゴ」を見た途端、仲間は「何だ~!バッタじゃないか・・・うわ~」と言って顔を背けた。僕は「いいから食べてみな」と言いながら仲間の前で食べてみせると「よく食えるなあ~・・信じられない」と仲間は目を剥いている。「とにかく一口だけでも食べてみろよ」と仲間にすすめると、恐々口に入れて噛みはじめ、しばらくしてから「これは・・・う~ん・・・けっこう美味いな」と再び皿に箸を伸ばした。居酒屋のオヤジに聞くと冷凍物のイナゴを仕入れたとのことであった。僕が幼い頃、母の郷里である信州へ遊びに行くと、伯母が甘辛く煮たイナゴをオヤツ代わりによく出してくれた。母の実家は農家だったので、当時は田んぼへ行くといくらでもイナゴが獲れたようだが、今は農薬散布の影響かその数も激減して、イナゴも高級食材になってしまったらしい。幼い頃から食べなれていたこともあり、バッタ科の昆虫イナゴも僕には何の抵抗もないが、東京育ちの「飲み仲間君」には、やはりゲテモノの部類に入るようだ。ゲテモノといえば、数年前に香港へ行った時、裏通りにあった怪しげな店で「蛇料理」を食べたが、何種類もの薬草や調味料を入れたスープで煮込んだ蛇は、コクがあってクセもなく非常に美味しかった。また、霞ヶ浦近くに住む鴨撃ち仲間の家へ遊びに行った際にご馳走になった「ウシガエル」のから揚げや、ナマズの味噌汁も驚くほど美味しかったし、群馬の友人がたまに送ってきてくれる「蜂の子(幼虫)」もいい酒の肴になる。ゲテモノは美味・・・・これは僕の持論である。昨夜のイナゴも数十年ぶりに食べる「懐かしい味」だった・・・
2005.06.12
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昨日お会いした「狩猟入門希望者」のTKさんから、再び電話をいただいた。「昨日のお話を聞いて、狩猟や射撃にますます興味が湧いてきました。秋までに講習を受けて、銃の所持許可を取得するつもりです。近々お邪魔させていただきますので、また、お話しをお聞かせ下さい!」いままで狩猟や射撃を始めたいと、何人かの知人から問い合わせはあったが、結局、誰も実際に銃を手にするまでには至らなかった。「これは本気だぞ」・・・・相手が本気なら僕も本気で教えてあげたくなる。来月、友人とクレー射撃に行く予定があるので「見学だけでもどうですか?」と誘うと「ぜひ連れていって下さい。楽しみにしています」とのハリキリようだ。TKさんにとって、銃砲所持初心者講習、教習射撃、狩猟免状取得講習、試験と、まだ先は長いが、ぜひとも最後まで頑張って、我々の仲間に加わってもらいたい。電話を切った後、何となくホノボノとした気持ちになった。
2005.06.10
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数日前に知り合いの不動産会社の社長から「うちのお客さんで狩猟をやりたいという人がいるんだけど、一度会っていろいろ教えてもらえないかなあ・・」と電話をもらったので、その人と今日の午後お会いすることになったそして約束の時間に知り合いの不動産会社の社長が連れてきた「狩猟入門希望者」というのは、年齢が43才、仕事は数年前まで福島県でサラリーマン勤めをしていたが、その頃取得した資格を活かし、現在は独立して都内で店舗デザインの設計事務所を開いているとのことであった。初対面の挨拶はそこそこに、早速「狩猟入門希望」の動機を聞いてみると「福島に住んでいた頃、地元の知り合いから狩猟に誘われ、興味は持っていたのだが、とうとう狩猟を始める機会を逃してしまった。ところが今年の初め、家族を連れて群馬へ旅行に行ったら、宿泊した民宿の裏手に大きな猪が吊るされていて、その横にハンターが数人座って楽しそうに話をしていた。自分も中に加わって狩猟の話を聞いたり、立てかけてあった猟銃を見ていたら何か自分も無性に狩猟やってみたくなった。しかし、東京生活を始めてから自分の周辺で狩猟を楽しんでいる仲間はいないし、どこへ問い合わせたらよいかも分からなかったから、誰か狩猟をやっている人はいないかなあ・・と思っていたところへ、不動産屋の社長から紹介を受けた・」ということで僕との面談と相成ったわけである。約1時間、猟銃所持許可の取得方法や狩猟免状の取得方法を説明し、狩猟の世界を少しでも理解してもらえるようにと、先日銃砲店で買ってきた雑誌「狩猟界6月号」を差し上げると、その人は大変喜んで帰っていった。現在、狩猟者は減る一方であると同時にどこの猟友会も高齢化が進み、会の存続が危機にさらされている。「初心者講習」の受講者も、僕が受講した頃から比べるとその数も3分の1くらいの人数に落ち込んでいるらしい。狩猟は残酷なものという一般的な認識や、銃に対する嫌悪感を持つ人が増えているのも原因のひとつだが、実際問題、狩猟はお金がかかりすぎる。鉄砲所持許可取得のための講習会や練習射撃に数万円、狩猟免状の取得講習や猟友会の登録代に数万円、その他、ガンロッカー、装弾ロッカーの購入、銃や猟装、猟具の購入を合わせると、少なく見積もっても50万円近いお金を必要とし、実際に狩猟登録を行う都道府県へ毎年数万円の税金を納めなければならない。そして実際に猟に行くと高速代、ガソリン代。勢子への報酬、犬代、弾代などで1回につき3~5万円くらいのお金がかかり、北海道のエゾシカ猟などに遠征すると、飛行機代からガイド料などで少なくても30~50万円くらいの費用を必要とする。昔はゴルフが金のかかる遊びの代名詞だったが、平日のコースが1~2万円で回ることができる昨今、狩猟はゴルフなどが到底及びがつかないほど、その費用負担は重くなる。一緒に横で話しを聞いていた仲間の不動産会社の社長は僕のゴルフ仲間でもあるわけだが、「ハンティングってそんなに金がかかるんだあ!」と驚いていた。狩猟者が減り続けている現状を考えると、もう少し狩猟地域の都道府県に払う税金だけでも軽減してもらえないかといつも思ってしまう。そうじゃないとこれから狩猟を始めようと考える若い人が皆無になってしまう・・・まあ、それはそれとして、新しい狩猟仲間が増えることは僕ら狩猟者にとって「熱烈歓迎」なのである。
2005.06.09
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今日、下請け業者の社長がカツオを1尾届けてくれた。奥さんと房総の鴨川にいる親戚宅へ出かけ、帰路の途中で勝浦へ寄って買ってきたとのことであった。千葉県勝浦港といえば、関東の代表的なカツオ水揚げ基地で、春先から初夏にかけて、高知や三重県のカツオ一本釣り漁船が毎日のように入港する。僕も春先に勝浦へ鯛やヒラメ釣りに行くと、釣船の船頭に頼んでカツオを丸ごと買ってくる。「カツオのタタキ」などと言うが、新鮮なカツオは刺身に限る。「おろしニンニク」でもいいし「生姜醤油」でも美味いが、何といっても僕は「マヨネーズ醤油」で食べるのが最も好きなのである。この食べ方は、勝浦漁港に入港していた三重県のカツオ漁船の船員に聞いた食べ方で、彼らは毎日のように船上でカツオの刺身を食べるが、どうしても食傷気味になってカツオを見るのも嫌になってしまうらしい。しかし、マヨネーズ醤油につけて食べると不思議に飽きが来ないということであった。僕も半信半疑で最初口に入れたら「う!美味いっ」と驚いてしまった。それ以来、僕は「マヨネーズ醤油党」になり、すし屋でカツオの握りを注文する際も、必ずマヨネーズをつけて食べている。そして、余ったカツオの刺身は醤油に大さじ一杯の味醂を入れたタレに一晩漬け込み、翌日、熱いご飯に乗せてホウジ茶をかけて食べる「カツオの漬け茶漬け」で食べると最高である。残ったアラも煮るか吸い物にして食べると頬が落ちるほど美味しい。食材というのはちょっと工夫するだけで、まったく別の食べ物に変わってしまう。狩猟で獲れた「鹿肉」も、山椒を塗し、胡麻ダレや酢味噌つけて「鹿刺し」で食べると誰もが唸るほど美味くなる。「猪肉」もすき焼きで食べると「猪鍋」とはまた違った美味さがある。要は、その食材を生かすも殺すも食べ方の工夫次第なのである。
2005.06.04
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一昨日の夜、一人事務所で仕事をしていたら、突然、携帯の着メロが鳴った。「こんな遅く誰だろう・・・」と思いながら、出てみると女性の声で「久しぶり・・・分かる?」と言われた。「誰だろう・・・」聞き覚えのない声なので「どちらにおかけですか?」と切り返すと、な!なんと・・22~23才ころに付き合っていた女・・つまり昔の僕の彼女であった。「え~!何で俺の携帯が分かったんだよ~。元気かあ?」と訊ねると「元気よ~!あなたはどうなの?」と明るい声が返ってきた。そして「いま千葉にいるんでしょう?私も稲毛に住んでいるの。ねえ、久しぶりに会わない?」との弁。「もちろん!会おうよ」・・・ということで早速、今日の昼に20数年ぶりの再会と相成った。久しぶりに会った彼女も見た感じは歳相応になっていたが、面影は残っていた。聞くところによると、僕と別れた後に知り合った男性と結婚して、現在では2人の子供の母親になり、上の子供は女の子で高校生だとのこと。旦那さんとは数年前に離婚し、都内の病院に勤務して生計を立てているとのことであった。20年の時を隔てての再会だっただけに、最初は違和感を拭えなかったが、話しをしているうちに、気が付くとお互い昔に戻ったような打ち解けた会話をしていた。若い頃の楽しかった思い出話に花が咲き、ふと時計を見ると3時間が経過していた。昔、矢沢永吉の歌に「時間よ止まれ」という曲があったが、心のどこかで「時間が止まらないかなあ」なんて久しぶりに考えてしまった懐かしい再会であった。
2005.06.03
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ここ数日続けてきた納戸整理で、しまい込んで忘れていたビデオテープが沢山出てきた。その中で「おっ!懐かしい・・観てみよう」と思ったのが、昨日、記した「比叡山・・千日回峰」と「熊撃ちドッコ」というビデオである。「熊撃ちドッコ」は10年ほど前に「ドキュメンタリー人間劇場」という番組で放映された「会津の老マタギ」の物語で、「蟹江敬三さん」が例の独特の口調で解説しているのがいい。主人公は「熊撃ちドッコ」こと、「独固直一さん・・93歳」である。福島県の阿武隈川源流に住む独固さんは、伝統ある会津マタギの数少ない継承者で、生涯を熊撃ちに賭けたマタギの頭であった。熊の足跡を追って、根気よくゆっくりした歩きで、しかも確実に熊を追い詰めていく姿には、我々のようなアマチュアスポーツハンターには、到底、及びもつかない迫力とプロの凄さを感じる。熊を撃つ瞬間の心構えや、若い頃熊撃ちに出かけ、銃の引き金を引いても弾が出ず、逆に熊に襲われて瀕死の重傷を負った時の話しには、テレビに思わず身を乗り出し聞き入ってしまった。独固さんも数年前に老衰でなくなったようで、実際に狩をされている姿にお目にかかることは不可能だが、「松葉豊さん」という絵本作家が「熊撃ちドッコ」という独固さんの生涯を描いた絵本を発行しているようなので、探してみたいと思っている。それと納戸整理で出てきたもうひとつの「お宝」は、約200枚ほどの「テレホンカード」である。携帯電話の普及でテレカを目にする機会はほとんどなくなってしまった昨今ではあるが、逆に数が少なくなればそれだけ希少価値が上がるはずである。出てきたテレカの種類として最も多いのが、所謂「企業モノ」というやつで、企業の行事の際、記念に配られたものや新商品の販売ツールなどで作られたものがほとんどを占めている。次に多いのが旅行先で購入したご当地紹介の記念テレカで、一枚一枚に昔行った旅の思い出が甦る。最後は、友人や知人にもらった「結婚記念テレカ」や「子供の誕生記念テレカ」などである。どれも懐かしいものばかりで、昨夜は時間の経つのを忘れ、昔の思い出に耽ってしまった。たまには納戸や物置の整理もいいものだなあ・・
2005.05.31
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昨日は成田射撃場で射撃大会に出場・・・なんて書くと何か代表選手のように聞こえるが、クラブ主催なので誰でも参加できる。結果は・・・う~ん・・まあいいか・・(下手な鉄砲数撃ちゃ当たる・・っていうのは絶対に嘘。参加することに意義がある<と自分を慰める>)最近、暇なときにやっているのは、昔のビデオをDVDに録画し直していること。納戸の古いビデオテープを整理していたら「千日回峰・・酒井雄哉」というタイトルのテープが出てきた。これは昭和63年に「NHK教育テレビ・・こころの時代」という番組を録画したものであった。酒井雄哉さんは比叡山延暦寺の高僧で、「千日回峰行」という荒行を2度も満行した「あじゃり」さんである。何故かすごく懐かしく思え、すぐにビデオデッキにいれて再生すると、20年前のビデオテープとは思えないほど劣化も無く鮮明な画像で、若々しい笑顔の酒井さんが映り出された。聞き手が元NHKチーフアナウンサーの飯田忠義さん(現NHKスクール・話し方教室講師)で、酒井さんに飯田さんが質問する「質問形式」の番組である。酒井雄哉さんは、軍隊から復員後、様々な職業を経ながら結婚するものの、奥さんが自殺したり、始めた商売が上手くいかなくなったりして、一時は自暴自棄の人生を送りながら、最後に辿り着いたのが「比叡山延暦寺」であった。そして39歳のときに得度(僧侶になること)し、それからは数々の荒行を自らに課して、比叡山の「大あじゃり」という高僧にまで昇りつめたすごい人である。酒井さんの経験した荒行を簡単に紹介すると・・・「常行三昧」90日の間、お堂の中をグルグル回り、休むことなく真言を唱え続ける行で、行が始まると90日の間、用便以外に座ることも寝ることも許されない、まさに人間の限界を遥かに超えた荒行である。その昔、やはり比叡山の修行僧がこの「常行三昧」に挑んだが、途中で倒れ命を落とした。そして、その死に際に「このような行は二度と行わないでほしい・・」と言い遺して亡くなったことで、比叡山でも長年、この「常行三昧」を行う行者はいなかったのであるが、酒井さんが復活され満行(行を成就させること)した。(飯田アナウンサー・・聞き手)90日もの間、体を横にすることもなく歩き続けていくと、どのような感覚になるんですか?(酒井雄哉さん・・答)最初は足がパンパンに腫れて、やはり限界が来ちゃうんだよね。そうすると、堂内の柱と柱の間に渡してある竹竿にもたれかかり、一瞬、ウトウトとするんだけど、すぐに目を覚まし、また歩き続けるんだよ。体力の消耗とともに、足はまったく次の一歩が出なくなるし、意識が薄らいでくる。それでも続けていくと今度は陶酔状態になり、体がフワフワしてものすごいいい気持ちになって、真っ直ぐな道をどこまでもどこまでも歩いているような感覚になってくる。そこを進んでいくと途中で魔物に刀で斬りつけられるような感覚になってどうしようもない恐怖心が湧いてきたり、さらに先へ進むと海岸の波打ち際を歩いているような気がして、遠くから誰かが「おいで、おいで」と手招きをしている姿が見えてくるんだよ(臨死体験というやつか・・・)(飯田アナウンサー・・聞き手)千日回峰という行はどのような荒行なんですか。(酒井雄哉さん・・答)延べ1000日を7年間かけて歩き続ける行で、最初の数年は毎年100日づつ比叡山の山峯約40キロを歩きながら途中にある伽藍や石仏、一草一木に念仏を捧げながら前へ進んでいくんだよ。この行は一度始めたら、病気になろうが悪天候だろうが何があっても途中で休んだり止めることは許されない「不退転」の行なんだ。もし、どうしても行を続けることが出来なくなったときは、腰に巻いている「死出紐」で首を吊って死ぬか、腰に下げている「短刀」で腹を切って死ぬしかないんだ。そして4年目に「堂入」という行があるんだけど、この堂入というのは9日間、お堂に篭って「断食、断水、不眠、不臥」、つまり食べない、飲まない、寝ない、横にならないを満じなければならないんだよ。(飯田アナウンサー・・聞き手)堂入を行っているときはどんな感じなんですか・・(酒井雄哉さん・・答)とにかく、食べない飲まない寝ないを続けていくと、体力が消耗してきて自分の体から異様な匂いがするんだよねえ・・ようするに「死臭」がしてくるんだよ。そして、いろいろな幻覚を見るようになる。たとえば自分が外国の上空を飛んでいたり・・・ね。いよいよ限界に達してくると、ものすごく気持ちよくなる。このまま目を閉じたらまさに「極楽浄土」だなと思うんだけど、堂入の行を行っている行者が一度、目を閉じたら二度と再び目を開くことはないという・・あっちフラフラ、こっちフラフラと比叡山へ辿り着くまではいい加減な人生を送ってきた僕(酒井氏)だけど、そんな落伍者だった僕を檀家さんや多くの人たちが応援してくれて、ここまで来ることができたんだから、目を瞑って死んでしまおうなんて考えるのは僕の勝手なエゴで、何としてでも生き延びてご恩返しをしなければならないということに気が付いたんだよね。結局のところ、人間なんて「死ぬ」か「生きるか」の二者択一しかないということにも気が付いたんだ。(飯田アナウンサー・・聞き手)行をするときの心構えは・・・(酒井雄哉さん・・答)べつに覚悟する必要もないし、気負うこともない。ただ、毎日同じことを繰り返し繰り返し、コツコツと続けることだね。そうすれば必ず「何かを掴む」ことが出来るし、「何かを得る」ことができる。そして真面目にやることだな・・人はいくらでも騙せるけど仏や宇宙を騙すことは出来ないんだよ。僕にとって行は「人生の砦」だし、昔から「無始無終」といわれるように、行には始めも終わりも無いわけだから、これからも行を続けていこうと考えているんだよ。人間誰でも生きることそのものが行なのだから、「行」特別なことではないんだよね。とにかく、何事もやるならやるで一生懸命やればいいし、やらないんならべつに寝ていても構わないわけだ・・・何かを始めたらリズムに乗ることが大切だと思うよ。人生において良いことがあれば悪いことがあるなんて当たり前のことだし、いちいちそんなことに気を取られず真っ直ぐに進めばいいんだよ・・・と言うような内容の講和だった。そのビデオを観て、何か久しぶりにほのぼのとした気持ちになり、また忘れていた大切な「何か」を思い出せたような気もした。ちなみに一昨年は、酒井さんのお弟子さんで「藤波源信さん」という修行僧が千日回峰を満行して晴れて比叡山「大あじゃり」となった。コツコツと繰り返し行うことの大切さを聞くと、今更ながら意志薄弱の自分が恥ずかしく思えてしまう。
2005.05.30
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