部屋とYシャツとわらG

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バンド関係のこと 1



雪が降る町 [ カテゴリ未分類 ]

 クリスマス関係の曲は、12月26日以降は急に場違いに感じるから不思議だ。車のMDとか(前はカセットテープ)から前日(あるいは前々日)の続きが流れると、ひとりでいてもこっぱずかしかったりする。

 で、逆に、この1週間に聴かないとしっくりこなくて、すごく名曲なのにこの時期しかピンと来ない(つまり聴き忘れると1年間チャンスをのがす)ので、思い立ったら必死で探すのが、ユニコーンの「雪が降る町」。

 「だから嫌いだよ、こんな日に出かけるの。」と始まる「年末」を歌った情景は、毎年、年の瀬に一年をしみじみ思い返すのに欠かせなくなってきたしまった。私の住む街では「雪」は積もっていない方が普通なのだが、その曲名はどうでもよくなって、私にとってはこの時期にしっくりとくる1曲なのであった。

 一応、念のため、ユニコーンは奥田民生がメインボーカルをやっていたロックバンドである。

 彼の方が私よりひとつだけ(確か)若いのだが、ほんのちょっとだけ私の人生とかすったことがある。

 私は大学在学中と卒業後4年間、とあるロックバンドのメンバーだったのだが、卒業して1年目くらいは、すでに有名になった先輩のバンドのローディー(器材チェックしたりライブ中にステージで起こるいろいろなことに対処する人)をやっていた。その時のそのバンドのプロデューサーが、以前、爆風スランプのマネージャーをしていた人(現在は某事務所の社長)で、私は自分のバンドの方のアーチストとしてではなく、先輩のバンドのローディーとして気に入られてしまい、「俺の元でいろいろな仕事を覚えてこの業界で一旗揚げないか?」と誘われてしまった。

 すぐじゃなくてもいいから、自分のバンドと並行して続けながら、そっちがだめだったらでもいい…とまで言われたのだが、「俺は自分のバンドがダメだったら、スパッとこの業界から足を洗いたいと思っています。未練が残るので…。だからこの仕事(ローディー)はただ勉強のためにやるだけです」と言って断った。

 その時にその人の口から出たのが「奥田民生」の名前。当時はまだユニコーン自体が無名だったがたまたまコンテストのゲストで見て私は知っていた。「今売り出し中のユニコーンってバンドの奥田ってヤツが、爆風の中国・四国支部(確か)のファンクラブ(確か)の仕事をボランティアでやってて、その時に、仕事ぶりが気に入って今みたいに誘ったんだ。そしたら今のお前と同じこと言って、断ったよ。たいていのヤツはすぐ乗り気だったり、少しは気を遣って人脈ををつなごうとするんだけど、そういってはっきり断ったのはお前で二人目だ。まあ縁起いいからがんばれ」と言われた。

 これで私が、現在音楽業界にいる人だったら、「美談」なのだが、全然関係のない「二人目」となってしまった。

 同じことやってても二番煎じじゃビッグになれない!ってことだな。


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 出会った有名人 [ 1年以上前をふりかえっての日記 ]
 山本譲二の話から、「音楽やってた頃に、有名人とかに会ってないの?」と人に急に聞かれ、急には思い出せなかったのだが、本当はかなり会っていた。で、何日かかけて、思いだしては書いたのがこれである。今となっては、基本的に自慢である。 ただ、その人達がすでに有名人でなくなっていることで今ひとつ自慢にならない…。

 まず、同じ大学の別の音楽サークルということでは、

T-スクエアのベーシスト 須藤ちゃん…彼は高校時代バレー部のようで、体育の授業の時にその彼のすごいスパイクを私は頭で止めて、またそれが偶然にも相手コートに突き刺さり、みんなを笑わせた。もちろん日頃は音楽関係の顔見知りで、会えば話もするが、連絡先は知らないという仲。 

フライング・キッズ 浜崎(浜ちゃん)…学年が1つ下だったので、共催イベントでギターを弾いているのを見て「君なかなかいい」とほめた。「いやあ、うれしいです」とか普通に言う好青年だった。

 ここから先は主にライブ活動などで会った人たち。

原田喧太君(俳優の原田芳雄の息子さん)…対バンをした時に、最初「かわいい女の子だなあ」と思って見とれていた。息子と聞いて「???」だった。よく出ているということで渋谷のライブハウスを紹介してくれた。

杉田二郎さん (「戦争を知らない子ども達」のジローズ)…当時入るかもしれなかった事務所の関係者として一緒にフランス料理を食べながら飲みまくった。すげえおもしろい人だったし、アメリカンロックに詳しくて驚いた。

ガロのボーカルさん(大野さん)…彼の友人の曲で私達がレコードデビューというような話の時に一緒に飲んだ。遅れてきた大手音楽事務所のお偉いさんの態度に私が切れそうになったのを止めてくれた。ちなみにこの話はわけあって自分たちで流した。 

GAOさん…コンテストで何度か一緒になってよく話すようになった。当時はバンド名だった。ずっと男だと思って話していた。何回目かで一緒になった時に、なんか背中にブラジャーの線が見えたような気がして「あいつ女じゃないか?」とうちのメンバーに言うと、ケチョンケチョンにバカにされた。でも俺の方が正しかったことが彼女のデビュー後に判明。

平田輝(アキラ)さん…コンテストで仲良くなり、対バンをやり、飲んだ。年賀状もやりとり。現在、ネリヤカナヤで活躍中。メジャーデビューしたけど会社にプッシュしてもらえず全然売れなかった?

バービーボーイズ(というより今は「福耳」で山崎まさよし・スガシカオと一緒のと言った方がいいのか)のKyokoさん…スタジオでバイトをしていた頃、店に練習に来たのだが、すぐに第2スタジオに入らずにフロントの階でくつろいでいた。目の前の第1スタジオの照明を外から見て「中に入って見せてもらえますか」と言われたので、きれいなマネージャーさんだなと思いながら、回転する所を見せてあげた。「ここの照明すごいでしょう」「わーきれい」とか普通に会話していた。翌日、人に言われてからやっと気づいた。
 その1年後、うちのバンドが出たコンテストの世界大会(すごいでしょう)のゲストだったので、そこで再会。打ち上げでスタッフや出演者で一緒に飲む。スタジオでのことを覚えていてくれた。その時はバービーのドラムとギターの人とかなり話した。

ディック・リーさん(去年の紅白でユーミンと歌っていたシンガポールの歌手)…そのコンテストをやっていたテレビ番組の収録で、そばにいたというだけ。

宇崎竜童さん(言わずと知れた、元ダウンタウンブギウギバンドで、山口百恵のヒット曲の作曲家)…そのコンテストの司会者。当日よりも前に、かなり話したし、シングアウトで一緒に演奏して見つめ合った(笑)。「なんで君らプロにならないの?」と本気で聞いてくれ、「いや、なれないだけなんですが…」と世間話。昔は「やります」って決めた次の日から何とか食えたんだけどねえ…と明治大学時代の話を聞いた。宇崎さん曰く、「俺のまわりでは、うまい人ほどみんなカタギになって、下手だった俺がなぜかプロ」。

歌舞伎一番(カブキロックス)さん…やはりそのコンテストの司会者。同じライブハウスの出身でもあったので、共通の知り合いで盛り上がる。「あの店長、ケチだよねえ」とか…。

ちょっとお話ししたシリーズはその時の総合プロデューサー 関秀章さん、司会のシンディーさん。他のイベントの時の司会でお笑い系の春一番さん、ミュージシャンだけど司会のイクラちゃん(ムーンドッグズ)

あと先輩が一緒にバンドをやっていて紹介された人が、のちの、矢井田瞳のバンドのドラムのお姉さん(名前思い出せず)

共演となると 同じイベントの時間違いで 、東京パフォーマンスドール(ということは篠原涼子がいたはず?) 
学園祭の階違いでWINK。上の階にステージ裏から行ってのぞこうとすると警備員につまみ出された。

本当の共演は、イカ天関係の人間椅子と大島渚(バンド名)…大島渚のみうらじゅんさんとシンセ(ヤマハDX7)が一緒だったので、あつかましくもカートリッジだけ自分のを使って本体を共用させてもらった。今は、彼の本、「見仏記」のファンである。

ライブハウスで、昔好きだったTULIPの一部のメンバーがいたAlwaysと一緒だった。年月がたちすぎてどの人がそうなのかわからなくなっていた…。

コンテストのゲストがThe Boom (「島唄」で有名。当時は「中央線」)だった時は、ボーカルの彼とすれ違っただけだったが、彼らを育てた…というお客何人かがその後うちの客として流れてきてくれた。(育ち損ねてすみません) 

バンド紹介の雑誌で、うちの裏のページがデビュー前のスピッツだった。そういうのでいうと、イベント会社が作ったパンフ(学園祭に呼べるバンド紹介)にはドリカムと一緒に載っていた。しかもDreams…のSがまちがってとれていて、まだ知名度が低いようだった。

渋谷エピキュラスの地下駐車場で器材を積んでいたらスポーツカーが来てクラクション。「ちょっと待て」…とにらみ返した相手がチャゲだった。

先輩の結婚パーティーのゲストとして出演の、爆風スランプのファンキー末吉さんを駅に迎えに行った。

元有名ハードロックバンドの「せいさん」(バンドも名前全部も思い出せない!)の、その次のバンドの解散イベントで、AURAのベースのお兄ちゃんやパール(名前が思い出せないけどのち有名になる女性ボーカル田村?…のバンド)のドラムのお兄様などと一緒に、ジャーニーのコピーバンドをした。その前に一緒に麻雀。店を出る時に主にAURAファンのカメラのフラッシュを浴びた。

近藤真彦や吉田栄作に曲を書いている歌川和彦さんと若狭さん…自分のバンドを引退した後、1年間だけ一緒にバンドをやって、仮歌の演奏録音などをした。毎週飲んだ(飲まされていた)。二人ともすごい曲を書いて、やはりプロだなあと痛感した。

音楽関係だけど実際には高校の友人…の結婚式の主賓が さだまさし さん。なんだ、結局一番の大物は自分の音楽活動とは関係なかったか…。

で最後に、一番の自慢は 「渋谷陽一さんにほめられたこと」である。バンド活動最後の年、いろんなコンテストでいい所まで顔を出したのだがNHKのコンテストだけ(全国優勝者はつんくのシャ乱Q)は、早々と地区の決勝で負けた。BS放送には出たけど、ライブ審査に出損ねた。その時に数人いた審査員の一人が渋谷さんだった。ちなみに渋谷さんは、DJとして、ロック雑誌の編集者として、カリスマのような人である。その人がライブ審査の会場で、ここまでの予選をふりかえる話の中で、すでに負けてその場にいない私達のバンドのことを、わざわざほめちぎってくれたのだ。

「この場にいないバンドの中で、ものすごくいいバンドがありました。バックビートです。私は『これこそがロックだ、楽しく本気でやっている、音楽とは…ロックとは…と、忘れていたことを思い出させてくれた』と思って、強く押したのですが、他の審査員に多数決で負けました。今日、彼らがいないのがとても残念です。」と言ってくれたそうなのだ。

この日、偶然会場に行っていた友人が「すごくびっくりした」と言って、これまた後日、偶然私と会った時に教えてくれた。 ジーンと来た。 がんばってきたことへの、何よりのご褒美だったなあ…と思った。(でも人づてで聞いたからどこまで正確な情報かは?である)

ということでそのバンドを5年間一緒にやっていた有名人(笑)は平安利也。もとはそのバンドのローディーで、最近、音楽で縁のある有名人(大笑)が辻村千尋です。このあたりは地道な音楽活動家なので「見込み」有名人ということで…。

ちなみに私達のそのバンドは、ほめられる時は「第2のサザン」、けなされる時は「田舎のハウンドドッグ」と言われていました(笑)。東京のバンドなのに! 

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バックビート 「今日の出来事(65534)」 [ 1年以上前をふりかえっての日記 ]
 15年前くらいまで、バックビート(BUCK BEAT)というロックバンドをやっていた。このブログは匿名運営のはずだが、そんなに有名ではないから大丈夫!(変な自慢の仕方だが)…ということで書いてしまった…。

 なぜ突然この話題なのか…深夜(というか早朝)、『BACK BEAT』という映画をテレビで見たからだ。微妙なつづりの違いにお気づきかもしれないが、もともとは私たちもBACK BEATだった。ことばの意味としては「後ノリ」…4拍子の2・4拍目にアクセントとタメを効かせた感じ…なのだが、当時のうちはどうもそんな感じにならない…。で、たまたまベースの男が見つけてきて着ていたTシャツに、BUCKBEATSと書いてあり、BUCKには「突進する」という意味などもあることがわかり、「俺たちは演奏がすぐ走っちゃうからこっちだ!」と『A』から『U』に改名したのだった。

 その結果…のち有名になり、まったく音楽性の違うBUCK-TICK(バクチク)とまちがえられたり、UP-BEATとまちがえられたりと、とても不便だった。

 で、本題はその映画なのだが、これが話題になったときは、すでにバンドは5年以上の活動を閉じて、少したっていた。でも何人もの人が「えっ、まさか?と思って…」と確認のための連絡をくれた。力を入れた一斉の宣伝だったのか、ある日、大きなビルとか映画館とかにでかでかと垂れ幕(なぜか縦書き)で「BACK BEAT」と出ていたのだ。電車から見えるビルにも軒並み書かれていた。日付と題名(バックビート)だけ大きく出ていたので、「えっ、復活してとうとう大々的にデビューなのか??」と驚いた人たちが何人もいて電話をくれたのだ。当の本人(私)も、初めて見たときは驚いたくらいだから、他の人だってつづりの違いに気づかなければかなり驚いただろうと思う。

 そして、そんな因縁の映画の方は、ビートルズの「ロックン・ロール・ミュージック」に出てくる「BACK BEAT」ということばから「題名」をとったとも思われ、だとすれば、私たちの「バンド名」の語源とまったく同じなのだ。同じセンスだったということか?(自慢)

 内容は、初期ビートルズのメンバーだったスチュワート・サトクリフを描いたもので、実話に忠実でありながらもドラマチックだった。生き方そのものがロックである。絵の道に目覚め、出会った女性との交流に心をひかれ、音楽活動から次第に離れていき、成功前夜のビートルズをあえて去っていく…そして最後は…という実話通りの進行なので、結末を知っているにもかかわらず、ひきこまれた。出演者の表情や仕草もよく似ていて、いつのまにか俳優であることを忘れ、本物のジョンやポールに思えてくるから不思議だ。これはおすすめの映画かもしれない。

 そんな新鮮な感動の気持ちで見ていて、最後の場面で気がついた。

 「あっ、この映画見るの2回目だ…。」

 なぜ最後まで気がつかなかったのかは謎だが、ビートルズの伝記とかで話を知っているとはいえ、えらく先の展開が予想通りだな…とは思っていた。途中、この写真家(スチュの恋人)の名前まで知っていたかな…と少し不思議には思っていた。それにしても最後まで気がつかないとは…。

 たぶん、前回見たときも、「深夜」に寝ぼけて見たようである。

 ということで、何度も楽しめる(笑)映画です!

追記:○黒摩季さんの古いベスト版も『BACK BEATs ♯1』なのだが、あれについては「パクリ疑惑」を勝手に思っている。ちょうどあちらの事務所の主催コンテストにデモテープを送った後、私たちの『Na Na Na』という曲が、スローになってちょっとメロディも変えられて 『ら・ら・ら』になっているのでは…とか(その年にテープ審査で落ちたコンテストはこれひとつだけなのもかえって怪しい…)、私たちの解散の後に安心したかのように先の『BACK BEATs ♯1』という題名を出したり…と疑惑を主張しているのは私だけだが…、あの永田さんになってはいけないので、「冗談です」としときます…。

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バナナホール [ 1年以上前をふりかえっての日記 ]
 大阪でライブハウスに出るといえば『バナナホールだ!』と勝手に目標にしていた。

 というか他にあまり知らなかった(笑)からだ。

 1989年、東京の怪しい音楽事務所にいた頃、ほとんどのライブのブッキングは関東(それも3回に2回は渋谷ばかり)で、「ツアーに出させろ!話が違うぞ!」といばっていた。

 やっと行けた大阪の初ライブは、『ブーミンホール』…あまり聞かない名前?だ。夜中に器材車(業務用バンに人も全部乗った)で出発し、翌朝到着。ところが朝の渋滞に巻き込まれてまったく右折できない。大阪では直進車両が赤になっても突っ込むし、前が進んでなくても突っ込んでそのまま交差点の中央に居座る車が多くて、いつまでたっても右折できなかったのだ…。

 唯一の運転手であるドラマー君はあせる。一晩中一人で運転してきて早く着いて寝たいのだ。やっと譲ってくれた車があったので右折すると、見事に対向車線の車の影から原付があらわれ、ぶつかった!

 自動車学校通学中だったギター君は、「あ!これ、ビデオで見たヤツと同じだ。教則本通り!」とか言い出し、まったく不謹慎なヤツだ。相手はひざを少しすりむいたくらいですんだのだが、こちらがレンタカーなので保険の都合上、事故処理をしなくてはならず、警察を呼んだ。

 で、○○署に入っていくと、応対の警察官は恐いし、手錠をした刑事が通ってもどっちが犯人かわからないくらい人相悪いし、時間がかかって結局リハーサル直前に到着して大変な思いをした。ライブのあと、街の屋台で食べたたこ焼きがおいしかった以外はなんだか今ひとつの思い出だった。

 話は戻って、『バナナホール』。こっちは、2回目の大阪ツアーの時についに出演できた。その時は運転手も二人に増えたし、レンタカーも業務用ではなく家庭用のバンになっていたし、こちらも旅に少し慣れてきていた。

 初日が大阪の『バナナホール』、翌日が名古屋の『ハートランド』という、黄金メニュー、我々より一日前で『The Boom』がやっているという『それなりのあつかい』をうけた気持ちいいツアーだった。

 実は細かいことはあまり覚えていないのだが、『バナナホール』はすごくやりやすかったし、落ち着くライブハウスだった。『憂歌団』がよくやるというだけあってそれなりのムードがあり、伝統を感じるような重みがあり、「ついにここに立ったぞ!」みたいな気にさせられた。

 今や、音楽関係の人間ではないし、たぶん一生そこに行くこともなかっただろうが、その『バナナホール』が閉店した。

 移転して再開…ぜひして欲しいとは思うが、少なくとも(もうあの場所はないんだな…)と思うと少しさびしいのであった。

 詳しい内容は下記をご覧ください。


バナナホール閉店 へジャンプ

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アフィリエイト 「バンドマンの語り場(5679)」 [ 最近のことの日記 ]
 数日前のメールで、楽天アフィリエイトの3月分として、3880円のお買い上げとの連絡があった。

 自分ではアフィリをやっている意識がなかったので、「???」となっていたのだが、日記の中の引用写真として、『花粉症の薬』と『阪神タイガース優勝記念DVDレンズクリーナー』などをのせたので、そのあたりでどなたか?が買ってくださったらしい!

 しかし、1点の買い物で3880円という値段からすると、そのどちらでもないかもしれず、結局はよくわからないのだが、とにかく『誰かがこのブログを通して買い物をしてくれた』ということは事実である。

 特にもうけようという意識がない時にこういう結果を得られるとはなかなかおもしろいものだ…などと思いながらも、今まで知らなかったけど、3880円の買い物で38ポイント(自分が買い物した時に38円分になるんですよね?)が入るということを知った。

 確かにこっちも何もしていないけど、『1%』(しかも切り下げ)ってどんなもんなんだろう?…と思う半面、うーんこちらは何もしていないし、ブログの提供から管理まで楽天がやってくれているんだし、いわば『胴元』みたいなもんか…と妙に納得した。

 そこで2匹目のドジョウをねらおう!(笑) 

 買い物ブログではないことは確かなので、でもついまちがえて買ってしまう(笑)人のために高額商品をのせてみよう!

 先週、ついに購入したデジタルオーディオプレーヤー。ケンウッドのそれはとてもすばらしくて重宝している。しかも、アンプのヘッドホン端子から録音したものがMP3データにできるので、今までお手上げだった『昔のバンドのデモテープ』とか、『カセットテープでしか残っていない音源』などをプレーヤーを経由してコンピューターに取り込むことができることに気がついた。

 他社製品は独自形式になるものが多いのだが、これは普通の?MP3ファイルのまま保存できている。

 もちろん、音質は、コンピューターメーカーではなくて音響メーカーが作ったのだから別格だ。512MBのと1KMBのがある。

 ちなみに私は、512MBのものを、ムラウチ電気インターネット販売で、約12000円で購入した。(かなりお買い得だったと思う)

 ということで、自分が本当にいいと思ったものなのでご紹介させていただきました。

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めんたいロック [ 1年以上前をふりかえっての日記 ]


 下関出身なので、九州の音楽シーンには詳しかった。

 テレビにラジオに、映るのはすべて福岡の放送で、山口県のニュースは見られないという特殊な環境だった。

 さらに、番組も、中央のものと地方独自のものの区別がつかなかったので、日本中で売れているのか、ここだけでブームなのかわからなかった。

 上京してからわかった、福岡でしか有名でなかった人々は…ルースターズ、ロッカーズ(陣内のバンド)、とべない飛行船、ばってん荒川…など。

 いわゆる『めんたいロック』にも自然と詳しかった。でもその強烈なビートの中に『キーボードプレイヤー』の必要性もなかったので、自然と、「福岡に行こう」ではなくて「東京に行こう」に乗ったのだと思う。

 『めんたいロック』から逃れるように上京したのだが、今聞くと、むちゃくちゃかっこよかった。ARB(石橋凌のバンド)は高校生の頃からコピーバンドをやっていたが、今聞いてもなんだか熱い! 少なくとも、俳優さん(石橋)が昔いたバンド…とかその程度のものでないことは確かだ。

 ということで、冒頭の「ライブ帝国シリーズ」超おすすめです。

 しかし、石橋凌・陣内孝則・うじきつよし(子供ばんど)…とみんな俳優として成功しているのはなぜ? 

 やっぱりボーカルは『花』があるっていうか、『役者』というか、『自分の世界』を持っているということなのか!

 うじきつよし(現在は一部漢字で書くのかも)にいたっては、10年以上前には、「えっ、あの深夜のクイズ番組のメガネの司会の人が、ロック? うそー」とか言われていたし、つい昨年では『金八』の麻薬で死んじゃうお父さんが彼だったとは、『子供ばんど』を知っている人にも気づかれていないかも…というくらい、そのたびに別人だ。

 完全に忘れてましたが、金八自身も福岡出身のミュージシャンでしたね…。

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2006/09/01
ブライアン・ジョーンズ [ 最近のことの日記 ]
 過日、映画『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』を見た。

 私の世代では無理もないのだが、ローリングストーンズのギタリストといえば、キース・リチャーズ、ロン・ウッド、ミック・テイラーあたりだと10代の頃までは思っていた。ストーンズ創設時に中心になったブライアン・ジョーンズの存在を知らなかったのだ。私の生まれは’66年で、ブライアンが変死したのは’69年だから少なくともタイムリーには知らないし…。

 しかもどちらかというとビートルズ派の私は、曲は聴いても特にストーンズのことを深く追求していなかった。ストーンズ好きが高じてバンド名の元になった曲を書いた『マディ・ウォーターズ』まで聴くような5つ年下のギタリストN田と一緒にバンドをやっていた頃に、ストーンズの話題になって「えーーー、わらGさん、ブライアン・ジョーンズ知らないのー!!!!」とすごくバカにされて、それ以降名前は知ったのだが、調べてみようという気をよりなくしていたのであった。(これで気に入ったりすると悔しいから…)

 映画そのものもなかなかおもしろかったが、おどろおどろしいというか、「サイケでーす」とか「LSDでラリっていまーす」という感じの映像を見ていると、こっちも頭の中がグルグル回ってくるから不思議だ。

 やはりロッカーは27歳で死なないと…という伝説を地でいく彼にまさに「ロック」を感じた。よくあんなに破滅的に生きられるなぁ…と変な感心の仕方をしてしまうのであった。

 どの曲で誰がギターを弾いているとか今まで意識してなかったけど、ちょっとチェックしてみようかなという気になった。

 ストーンズを作ったのはブライアン・ジョーンズで、でもヤクや酒におぼれたりしているうちにメンバーから捨てられ、そのうち死んで(殺されて?)しまった彼…。国も時代も違うけど、新撰組を作って中心にいたけど、酒におぼれたりしているうちにメンバーに密かに殺された芹澤鴨…とイメージがダブルのであった。


 それにしても、今年60歳を超えてるのに「やしの木?に登って落ちて重傷を負った」キース・リチャーズ…彼こそやはり「ロック」である。

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2006/09/06
ライブハウス 「バンドマンの語り場(7654)」 [ 最近のことの日記 ]
 友人であり、バンド仲間である鎌倉君(仮名)のライブに久しぶりに行った。3年ぶりくらいだ。本人は月に2本くらいのペースでやっているのにファンとしては申し訳ないかぎりだ。

 いつも都道府県の中心街でやられると、遠くて行けない。しかし今回は…うーん、やはり遠い。うちからだと2時間少しかかる。が、3年前に毎日『痛勤』していた養護学校より少しだけ近い駅…一日かぎりで行けないわけがないので、がんばって行った。

 途中、当時(3年前)唯一の息抜き場所だった朝食場所の喫茶店に寄ってみたり、乗る頃には暗い気持ちになっていたあの地下鉄に乗ったり…トラウマを克服する?かのような道のりだったが、同じ低い天井の地下鉄駅にいてもあの頃と違い、「今、自分は心がすっきりしている」ことが実感できてよかった。

 さて、そのライブハウス、店長が学生時代の友人であることが最近わかり、それも今回の行動を後押しした。2回分の用事が1回で済む…。

 ほぼ10年ぶりに会ったその友人は、転職や闘病生活を経て、仕事を辞めた2年前、ちょうどその時に本当は閉まることになっていた店を託されて復活させたのだそうだ。やっぱり、人間は必要とされる時にはなにかに導かれるようにフィットするものだ。

 彼に会って話ができただけでもよかったと思っていたら、アコースティック・デイの演奏1番手は、いきなり店長だった(笑)。2回分の用事どころか、彼の歌も久しぶりに聴けて得した気分だ。昔やった曲をわざと入れてくれたこともうれしかったが、MC(曲間の語り)の感じが20年前から変わらず、それがおかしかった。

 そして、お目当ての鎌倉君(仮名)。これはもう、人生の荒波?にもまれ、ストイックに音楽を続けてきた貫禄から来る、圧巻のライブだった。バンドでやっても、ひとりでギターを弾いて歌っても、彼の作る独特な世界が同じように醸し出される…そういういいライブだった。

 しかし、あれはまだ8割くらいの力の入れ方で、熱唱モノや重い歌をあえてはずして結構淡々とやっていたのを、ファンの私は見逃していない…。そのうちもっと熱いのも見たいものだ。

 さて、鎌倉君(仮名)のステージも終わり、店長にあいさつをして帰ろうと思ったら、姿が見えない。

 ステージでピアノのチェックをしているので、「もうすぐもどってくるな」と思いきや、3番目の女性ボーカルがステージに立つと、店長がその伴奏のピアノを弾き始めた!

 サービスよすぎっていうか、お前、出過ぎだよ(笑)。

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2007/01/08
大家 「バンドマンの語り場(8876)」 [ 1年以上前をふりかえっての日記 ]
 その人は、最初は先輩が借りた家のただの大家さんだった。だからその存在を知るよしもなかった。

 大学時代、ロックバンドがたくさんある(本当はフォークもあったはずだったが)音楽サークルにいたのだが、その練習場所は大学の教室だった。2つの教室が、放課後の練習に割り当てられる。PA装置からエレクトリックピアノまで、大きなリヤカーに乗せて部室から教室まで移動する、はたから見るとかなり怪しい集団だった。

 1階の教室が第1、2階の教室が第2練習場で、2階にベースアンプを運んだりするのはなかなか大変なことだった。大変だけど「無料」の練習場でたくさん練習できることが、サークルの技術力?を支えてきていた。だが、音が出ることに抵抗ある教授がいて、校舎ごと違うからそううるさいわけではないだろうに、とうとう実力行使で他のサークルも含めて「音出し」をできなくしてしまった。

 そこで先の大家さんが登場する。先輩の大家であるその人は、その話を聞いて、「前々から音楽産業に少し手を出してみたかった」という山っ気?と「若者たちと一緒に何かをしたい」という気持ち?からか、なんと、自宅を大改造して新たなスタジオを作ってくれることになった。

 ただし、ポンと作ってくれたわけではない。そこからサークルをあげての大工事が大家さんのもとはじまった。「作るための労働力」も低賃金で提供させられたのであった。この工事の中で一般大学生は知らなかった工事現場の常識?用語、「U 字
溝」 「コンパネ」 「バール」 「はつる」などのことばを覚え、穴を掘り、土台をくみ、…セメントを錬り、壁を作り…していったのである。

 実は細かいことはよく知らない。私は卒業して講師をしていたので、夏休みに1週間程度行っただけだ。たしか日給4500円昼食付きだったか…。

 そんな学生たち(一部フリーター)の働きで完成したスタジオだったが、当初の予定通り、学生たちは月極めで有料借用する「消費者」にもそのままされた(笑)。もう後には引けないし、多少の値上げも飲むしかない。でもある意味破格の安さだったし、お互いの夢が叶った感じだった。

 しかし、さすがは手作り、地下スタジオは3部屋くらいあったが、通路を確保できなかったため、一番奥に行くにはその手前のスタジオ2つを通過するという笑える形だった。しきりとなるドアも分厚いの一枚だと高価すぎたからか、普通のサッシが3枚くらいならべてある。一番奥に行くには、入り口も含めて9枚くらいのサッシを開け閉めする(笑)仕組みだったような記憶がある。

 さらにスタジオの上の階(1階)は普通うるさくて住めたものではない。そこで、4名が下宿できるようなつくり(グループホームみたいな)となり、サークル関係者が住んだ。割安の家賃で、スタジオ極近、いつでも練習可、ガス・風呂・洗濯機・乾燥機付き(共同)、プライバシーなし…という条件だ。

 地下のスタジオと1階の部屋のすべてをまとめて『第3』(スタジオ)と呼ぶようになった。私もOBとして、時々練習に使ったり、アポなしで遊びに行き4部屋のうちの誰かの部屋で長居した。

 大学生と協力して、遊び心を形にしてくれた大家さん…いろいろややこしい点はあるが、美談だと思う。

 「第3」を作った大家さんは、その勢いでその後、小さなライブハウスを造り、さらにもっとちゃんとしたスタジオも別に作ってその経営に乗り出した。「第3」が取り壊しになった?後は、さらに大学に近い場所に同じようなスタジオを作ってくれたらしい。私たちの少し下の代から始まった大家さんと大学生との交流は、毎年たくさんの人たちの音楽人生に影響を与えたに違いない。

 私は、他のライブハウスばかり出ていたし、他のスタジオ(その店のオーナーは、大家さんと、ライブハウス経営だけの時は仲良しだったが、スタジオを無断でそばに立てられてからはすごく怒っていた)の元アルバイト兼お客でもあったので、その後、特にお会いすることもなくなっていった。

 一昨年度、受け持った教育実習生(ミュージシャン)がそのライブハウスで出ていたりとかまた縁がつながりそうだったのだが、先日、大家さんの訃報を聞いた。

 急なこと(まあ普通訃報は急だが)に都合がつかなかったし、自分と大家さんの関係は、葬儀に参列するほどのつながりではなかったと、参列はしなかった。

 ただ、こういうおもしろい大人が世の中にいて、それにお世話になったたくさんの元若者たちがいることだけでも書き残しておこうと思った。

 ご冥福をお祈りします。

 たぶん、葬儀には大家さんの好きだったたくさんの若い子たち(元も含む)が参列したんだろうなあ…すてきな人生だったと思えるに違いない…と勝手に思った。

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