一緒に歩こうよ。~特別養子縁組しました。~

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AIHから体外へと

本格的不妊治療へ

AIHでは全くかすりすらしなかったぱんだ夫婦は
話し合って体外に進むことにして
説明会に出かけた。
2時間の間にいろんなことをレクチャーされ金額の膨大なことにも
納得しつつ帰路に就いた。
その頃プリンの実家は実父のみの生活になっており
プリンは世話にも1日おきに通っていたのだけど
体外を始めてすぐに
実父が脳こうそくで倒れた。
すぐにヘルパーさんの手続きをして様子を見ていたが
膵臓炎にもなり入院手術。
もはや一人にしておけないってことで思い出があるけど
実家を処分して介護のあるホームに実父を入れることにした。

体外の方は
刺激誘発の治療だった。治療を始めてから
毎日の誘発の注射。
保険が利かないので毎日2万円ほど飛んで行った。
15本ほどの誘発の注射を打ち
やっと採卵の日を迎えた。前日の夜中に最後の注射を打ち
早朝に病院に向かって手術台の上に乗った。
先生の「麻酔しますよ~」という声と一緒に
意識がなくなった。
ただ真っ暗の中をジェットコースターに乗っているような
そんな感覚。
目が覚めた時に麻酔の切れかけのだるさと
下腹部の鈍い痛みだけが残っていた。
ぱんだに待っていてもらって
帰宅。その時住んでいたのが5階建てのマンションの最上階。
しかもエレベーターなしだった。
体を引きずりながら登って布団に倒れこんだことだけ
覚えている。なんかやたらと悲しかった。

初めての採卵は11個
そのうち顕微で授精したのが7個
移植の日までに分割したのが3個
グレードも低かった。

私の卵巣って駄目なんだなぁ・・とその時思ったけど
せっかく授精してくれた卵子を大事にあたためなくっちゃと
お姫様生活を判定日まで
したのだけど

結果は陰性。
それから2年もの間に二桁の治療をするなんて思っていなかった
そして自分が妊娠すらできないってことも
わからなかった
それと同時に今回の自分に課した治療が体に合ってないってことも
実感したこともあり転院を決意した。
今までは誘発治療。
しかし40代の体外では自然の治療がいいのではないかと思い
その頃開院した腕のいい先生の門をたたいた。

先生は若く熱意に満ちていて
「あなたに赤ちゃんを抱かせてあげたい」と言ってくれた。その言葉を
信じて治療をまたスタートさせた。
自然での治療なので毎回採卵できる卵子の数は少なかった。
多くても5個少なかったときは1個
でも年齢にしては反応がいいらしい。
採卵して顕微授精させて胚盤胞になるのを待つ生活
でも最後の一歩が届かないまま・・
何度も自分を責めた。どうしていい卵が育たないんだろう。
なんであの人にはすぐに子供ができたのに私にはできないんだろう
こんなに努力してるのに神様は願いをどうしてかなえてくれないんだろう
このころは狂気にもにた何かを抱えて
西へ東へと
子宝ナントカというものがあれば手に入れたり場所を尋ねたり
体にいいとか妊娠できやすい体になるとか言われたりする
サプリやお茶なんかも必死で手に入れるために頑張っていた。
生理前になると狂ったようにぱんだを責めたり自分を責めたり
何かきっと狂っていたんだろうなぁ
採卵が10回を超えたころには先生が言った。
「初期胚で戻してみましょう」
・・・胚盤胞にもならないのに・・無理じゃんって言葉を
最後まで飲み込んだ。
そして初期胚で戻すこと4回。

一度もかすりもしなかった。
その頃になると2月が憂鬱になった。
毎年の医療控除の計算をするのだけど治療費だけで
限度額を軽く超えていたから。
そして一番いやな自分に気がついたのは
お金の単位が「体外1回分」が基本になっていたこと。
ぱんだのボーナスが出たら
「ああ・・体外2回できるな」とか
そんなことばかり考える自分が嫌になっていた。
そしてある大晦日にぱんだと夜が明けるまで治療をやめることを
話し合った。
結論は
その年のプリンの誕生日までに結果が出ていなかったら
夫婦二人の生活をしようということになった。

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