Welcome  BASALA'S  BLOG

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心霊現象な日々9~16話


その9【霊感体質者の至言】

我が社の隣に、同業種の会社がある。といっても、弊社業務の一つ「映像制作」の、こちらは企画・シナリオ、制作全般で、お隣は照明専門の会社である。

仕事が暇なとき、スタッフがよく遊びに来てくれる。
その日も、
「うぃーっす。お元気すか?」
と突然やってきた。日本人離れした面だちと、余りにもラフないでたちのせいで、外国人によく間違われるらしい。本人は「ナンチャッテイタリア人」と言っている。鋭い眼光と人をまっすぐ見る強さは“ただ者ではない”と思わせる。それもそのはずである。ハリウッドで映画制作に携わりたいと思っていた若いころ、アメリカの永住権(グリーンカード)取得のために傭兵として戦争に行った経験があるそうだ。ソマリアで、隣の兵士が自分の太ももの肉をナイフで切り取って食べているのを見たという、壮絶体験の話を聞いたことがあった。

一緒にいる時間の7割は聞き役に回り、自分がしゃべるときは、確信に満ちた話題を端的に話す。決しておしゃべりではないが、話の内容は面白くて興味がわく。その日も結構話に花が咲いた。

1時間ほど話したとき、話題が「霊現象」のことになった。くだんの、タレントさんの話をしたところ、彼の顔つきが変わった。
「ここに来たときからずっとなんやけど、ボクの横にだれか座ってるねん」
「えっ、ほんと?」
「男か女かわからんくらい、薄い存在やけど、じっと座って二人の話を聞いてる」
「地縛霊? それとも私の背後霊?」
「いや…、そんなに意味のあるものじゃなくて、たまたまここにいてるって感じ」
「あ、以前夜中に、厨房のあたりで人影を見たことがある」
私がそう言うと、彼は事務所から出て厨房を見に行った。
「いまはいないみたい」
「まだ座ってる?」
「あ、いないなぁ。ビルの中をうろうろしてるのかも」
「悪さしない?」
「しないでしょう」
「私の肩にに変な霊、見える?」
「……いないと思う。いまは」
「いまは?」
「もしかしたら、憑きやすい体質かもしれんね。でも、気にせんでいいよ。よっぽどおかしなことがあったら、いつでも呼んで。とってあげるから」

彼は、生死を彷徨うような体験によって、霊を感じる体質になったそうだ。

それにしても、見えないだれかが事務所の中にいてテーブルの前に座って私を見ていると思うと……、ぞっとしないことである。



その10【謎の訪問者】

以前住んでいたマンションは、落ち武者がよく出没した。「心霊現象な日々」の1から9をご参照いただきたい。

8年前、現在のマンションに引っ越した。と同時に同居人ができた。こちらも新築マンションだったが、あのいやな記憶を甦らせることはなかった。

引っ越してからしばらくは、平穏な日々を過ごした。
1年ほど経過したある寒い夜(夜といっても、正確には午前4時過ぎくらいだが、真っ暗だった)、同居人がトイレに行ったのに気付いた。トイレの気配は確認できるが、それとは異質な、妙な音がすることに気付き、ベッドの上に身を起こした。開いたドアから廊下を見た。そこには、半透明の人間が4人ほど立ってこちらを見ている。しばし見詰め合った後、全員がこちらに向かって
手を振った。意味がわからずリアクションをせずにいると、リビングの方に消えた。

「どうしたん?」
トイレを終えた同居人に声をかけられた。
「人がリビングの方に行った」
「人?」
「あ、霊でしょう」
「げっ、どんな霊?」
「半透明の親子4人」
「4人も?」

よく考えたら、我が家の廊下は90cm幅だ。4人が横並びできるわけがない。しかし、並んでいた。

「全員で手を振ってリビングに消えた」
「ひょっとしたら、うちの中に霊道(霊の通り道)があるんとちがうか?」
「そうかも」

“通り道”である、ということであれば、4人は我が家を通過して外に消えたのだろう。

二人は再び休むことにした。
しかし、この想像が全く正しくなかったことを間もなく確認することになる。
毎朝繰り返される、とんでもない所業によって。


その11【訪問者の悪戯】

うちの中に霊の道(霊道)がとおっているのか、家に問題があるのかはわからないが、午前4時にやってきた親子4人は、その日から我が家に棲みついた。それがわかったのは、4人がやってきた日の朝、リビングでテレビを見ていたときのことだ。
〈ドスン、ドスン〉
背後で物音がする。最初は気のせいか、階下の住民が出した音だと思っていた。しかし、何度目かのとき、体に振動も伝わってきた。子どもがソファーから飛び降りたときのような音と振動だった。
「うるさいなぁ! 静かにしなさい!」
音はピタッとやんだ。
そのときは言うことを聞くが、昼となく、夜となく、ドスン、ドスンを繰り返す。4人一家の2人の子どもだろう。我が家には遊び道具がないから、致し方ないか、と諦めた。

一家がやってきてから、ラップ現象が頻繁が起こったが、それは我慢ができた。夜よりはむしろ日中の方が多いし、S/N比のごとく、Sが大きい環境ではさほど気にならない。

しかし、ある日、我慢の限界に近いような悪戯をやらかした。同居人が酒に酔っぱらって、変な体勢でベッドに寝込んでしまったので、私の寝るスペースがなく、致し方なく自分の部屋に布団を敷いて寝ていた。

眠ってから1時間以上たっていたと思う。物音がして目が覚めた。部屋からLDKを見ると、冷蔵庫の前に同居人がいる。しかし、おかしいことに、パンツ一丁である。眠っている姿を見たときは、スゥエットを着ていた。わずかに“おかしい”と思いながらも「◯◯さん(同居人の名前)」と呼びかけた。すると、1拍置いて、冷蔵庫の前の人物が振り返った。
「ムジナ……」
そう、のっぺらぼうだったのだ。これはきっと、同居人ではないと思い、無視して後ろを向いた。するとムジナはこちらに歩いてきて、私の布団の中に入った。ぞっとすると同時に、負けてはいけないという思いがわき起こった。ムジナは後ろから私の肩をつかんだ。
「やめて! うっとうしいなぁ」
と言いながら、肩にかかった手をつかんだ。つかみ方が悪く、私の親指が相手の親指にかかり、グチャッとひっしゃげた、と同時に、
「ボキボキ」
という音がした。ゾッとした。
「エッチ! あっち、行って!!!」
そう声を出すと、背後のムジナはすうーっと布団から出た。振り返ったが、姿は見えなかった。
少し心配になって、同居人の部屋に行った。同居人は、緩んだ顔で眠り、いびきをかいていた。
何もなくてよかったと思うと同時に、布団に入ることはやめ、リビングで、暗い中で過ごした。そうすれば、再びムジナが出現するかもしれないと思ったからだ。再び出現すれば、大声で叱って、改心させようと思った。

しかし、その日はそれ以上のことは起こらず、私はリビングで眠ることになった。

どうして一家がいついてしまったのかを不審には思ったが、実際の理由を知るまで、まるでそうとは予想もしなかった。

一家に申し訳ないと思い至るようなその理由を知るまでは。





その12【訪問者滞在の真相】

朝方やってきた親子4人の訪問者は、その後しばらく悪さを繰り返した。ソファーから飛び下りる「ドスンドスン」攻撃が朝から始まり、ラップや気配で驚かすのは日常茶飯事、まるで、我が家のようにやりたい放題やりながら4人で暮らしていた(くだんのムジナは、一家のおやじのいたずらではないかと思っている)。

それくらいなら問題視もしないのだが、捨ておけぬ事態が発生した。同居人の商売道具とも言える
AV機器が次々と故障し出したのだ。DATを皮切りに、受像機、VTR、CDプレーヤー、アンプ、プリンター、HDDと、次々と壊れてしまう。
いよいよ家族の存在を認識せざるを得なくなり、ある方法で確証を得ようとした。
それは、ビデオで、家族が最も出没するリビングを撮影するというものだ。

夜、廊下からリビングに向けてビデオをセットした。悲しいかな、古いビデオだったので、赤外線暗視機能などなく、フツーの撮影しかできないのが難だったが、とりあえず蛍光灯をつけた状態で、リビングが広く映せるようにセッティングした。

翌朝、同居人と一緒に映像をチェックした。倍速で再生していたが、しばらくは、何の変化もなく
「何も映ってないなぁ」
「蛍光灯をつけてたからなぁ」
そんな会話をしていると、
「あっ!」
二人で声を上げた。映っている!
「何? これ」
リビングのカーテンの上に瞬く光がある。点滅しているのではなく、同じ位置で光るばかりである。
「外光?」
同居人が言ったが、その位置の背後は壁で、外光が入ることはない。
「違う……、でも、電灯がついているのに見える。光って……」
これも4人家族のいたずらなのだろう。

「霊道」の存在を受け入れるとして、どうして一家は我が家にとどまってしまったのだろう。その理由はとても意外なもので、一家に申し訳ないと後で思った。
リビングの横にある私の部屋の窓の上に、厄除けの「矢」が飾ってあった。母が買ってくれたものだが、厄が明けてて2年以上たっていたにもかかわらず、神社に奉納せずに置いていた。
聞くところによると、お札やお守りは、期限がきたらきちんと奉納しないといけないらしい。放っておくと、逆の効力を発揮したり、霊道を封鎖したりしてしまうとか。
霊道の上に建つ我が家を通り抜けようとした一家だが、厄除けの矢が邪魔をして、抜けられなかったということのようだった。

矢を納めたら、嘘のように物音もしなくなったし、家電製品の故障もなくなった。

神社仏閣の存在をないがしろにしてはいけないと痛感した。
神社仏閣に頼るなら、決まりごとをきちんと守ることがご利益にあずかる最低限の条件だということは、当たり前ながら、なかなか理解できていないことではないだろうか。

そんなこんなの日々を送りながら、心霊現象はなおもおさまらないのである。




その13【おじさんの生霊】

7年前のこと。おじさんが危篤状態になった。それより3年ほど前、脳梗塞になり、半身不随の生活を続けていたのだが、再び脳梗塞を患って、集中治療室に入ることとなった。

仕事が終わってから、大阪から奈良の総合病院に車で駆けつけ、見舞った。倒れたおじさんというのは、父親の兄で、長男亡き後、家長となっていた。おじさんと父の間に兄妹がいたが、生まれて間もなく亡くなり、父の下は5人の妹と、トメが弟の10人兄弟という構成になっていた。

病室に入ってすぐに、父のすぐ下の妹夫婦が来訪し、おじさんを見舞った。私は奥に退き、おばさん夫婦がおじさんの顔に向かって話しかけた。おじさんは半身不随で、片方の自由がきかないため、いつも同じ方向を向いていた。私が取っていた手は不自由な方の手で、きっと感覚がなかったのだろうと思う。

ひとしきり妹夫婦とおじさんの奥さん(おばさん)が話をし、30分ほどして帰っていった。

おじさんは時折り
「うぅぅ、うぅぅ」
と苦しそうな声を出すが、話をすることも、視線を合わせることもなく、時間が過ぎ去った。

『消灯時間です。お見舞いの方はお帰りください』
館内アナウンスが流れた。21時になったのだ。私はおばさんに促されて出口に向かった。
なぜか背後が気になり、私は振り返った。おじさんと目が合った。
「うぉぉぉぉー、うぉぉぉぉー」
苦しそうな、何かを言いたそうな、切ない声が響いた。
「おっちゃん?」
そう言って立ち止まる私に、おばさんが言った。
「しんどいから、あんなこと言うねん」
「気がついたんと違う? 私って」
「わからへん。意識あれへんねん」
おばさんはそう言うが、とても気になった。おじさんの目を見ながら、集中治療室から出た。

「ありがとう、見舞ってくれて。気をつけて帰りや」
おばさんに見送られて、車に乗った。
エンジンをかけると、「チャゲアス」の70年代のベストアルバムのテープが鳴り出した。車のカセットデッキには、常にこのテープがつっ込んであった。

西名阪自動車道を走っていると、テープがおかしくなった。テープが熱で伸びてしまったのか、SPレコードを33回転で再生したときのような、おかしな音になった。夏場だったし、購入してから10年以上たつ古いテープだったので、伸びるのも理解できた。イジェクトボタンを押してテープを出した。

次の日の朝、車に乗り込んだ私は、何気なく出ていたテープをデッキに突っ込んだ。前夜のできごとはすっかり忘れてしまっていた。再生が始まってハッとした。
「テープが伸びてたんだ」
慌ててイジェクトしようとしたが、まともな音で再生されているのを確認し、首をかしげた。
「あれ、きのう……あの部分だけ伸びてたのかな」
そう思ったので少し戻って再生した。おかしなところはなかった。
「どういうこと……?」

この事件の真相を確認するのは、おじさんが亡くなった2ヵ月後である。それは、想像を絶する衝撃を伴っていた。





その14【おじさんの叫び】

最後におじさんを見舞って2ヵ月後、父から連絡が入った。とうとうおじさんが亡くなったということだった。2ヵ月の間に何度か見舞いに行こうと思っていた。しかし、北海道への出張や補充社員の採用面接、ビデオ制作による現場張りつきの日々……いまとなってはそれとおじさんの人生の終焉への立ち会いとは比較にならないことは十分理解できる。しかし、そんなにすぐに亡くなるとは思っていないし、そう思うことが罪悪とも思えたので、至って普通の日々を送っていた。

おじさん夫婦には、子どもがいなかった。我が家は3人兄弟で、女、男、女という構成で、私は最後の女だったため、当時の言葉で“要らん子”と思われていた。
貧乏な上に病弱な母親、子だくさんという我が家の事情と、家長(長男は事情があって終生独身だった)という立場上、子どもが欲しいということで、おじさんとおばさんは私を養子にしたかったようだ。
そんな事情があって、私はよくおじさんの家にお泊まりに呼ばれた。親子としてやっていけるかどうかを探るためだったのかもしれない。

おばあちゃんの助言があって、養子縁組は実現しなかったが、おじさんとは親戚の中でも一番親しかったし、好きだった。

そんなおじさんの、まともな最後の顔を見たのは私だったと思う。脳梗塞で倒れた日、おじさんは実家に遊びに来ていた。父と競馬を楽しむおじさんを置いて、バイクで海岸に出かけた。海を見て何かを考え、心を落ち着かせて戻ってくると、おじさんが道に飛び出していた。
「どうしたん、おっちゃん」
「海を見に行ってたんか?」
「うん」
「おっちゃんも一緒に行きたかったのに」
初めて聞くおじさんの甘えたような言葉に驚きながらおじさんの背後を見ると、父が車を出して追いかけてきていた。
「おとうちゃんが迎えに来たわ。一緒に海を見に行っておいで」
私がそう言うと、おじさんは悲しそうな顔をした。

その後、父と私はおじさんを車で駅まで送り、家に戻った。おじさんは、寂しそうな背中を見せながら、ホームに降りる階段に消えた。

その日、自宅の最寄り駅で降りたおじさんは倒れた。救急車で病院に運ばれたおじさんは、半身不随になった。

それから3年足らずで逝ってしまったおじさんは、亡くなる2ヵ月前に見舞った私の顔を覚えていたのだと思う。

葬儀が終わり、お供え物をおじさんの家に運び、おばさんの思い出話をひとしきり聞いた私は、帰途についた。

2ヵ月前におじさんを見舞ったときと同じように、西名阪自動車道で大阪に向かって走っていた。
以前と同じように、例の「チャゲアス」のテープが車内に響く中、海に行きたいと言ったおじさんの目、最後に見舞ったとき、最後の最後に視線が合ったときののおじさんの表情を思い浮かべていた。

それまで鳴っていた音楽が、ふっと消えた。
「うぉぉぉぉー、うぉぉぉぉー」
スピーカーから声がした。それは紛れもなく、最後に聞いたおじさんのうめき声だった。私は慌ててテープをイジェクトした。もっとおじさんが話したいことがあるなら、聞きたいと思ったからだ。しかし、それ以後、いかなる音も鳴らなかった。

「ごめんね。私と気づいていたんやね。戻って、手を握ったらよかった。おじさん、ごめんね」
声を出して言った。
すると、不思議なことに、車の中が無音になった。高速道路を走っているにもかかわらず、車の走行音も、他車のエンジン音もすっかり消えた。

わかってくれたのだと思った。多分わかってくれたのだと思う。でも、得体の知れない影響力を感じたのも確かだった。
「いつも見ているで」
と言っているかのような……。





その15【おやじの生霊】

私が小学5年生のとき、おやじが家出した。
前夜、食事の後、いつものように夫婦喧嘩が始まった。理由は多分、おやじの生活態度が悪いことを母がなじったというのが相場だろう。風呂嫌いの上に下着を着替えないといった、ささいなことだった。

ところが、どういうわけか話がエスカレートし、
「ほんなら、わしが帰ってけぇへんかってもええねんな!」
とおやじが吠え出した。母は
「勝手にしぃ!」
と一喝。おやじは私に助けを求めたのか、それとも別の意図があったのかはわからないが、
「お前はどうやねん」
と聞いてきた。冗談だろうと思っていたし、おやじの風呂嫌いには私も辟易していたので
「ええよ」
と言った。そう言えば、改心してくれるのでは、という淡い期待があった。

果たしておやじは猛然と怒り、
「わかった、もう帰ってけぇへん」
とふて腐れて自室にこもった。

翌朝、いつも不機嫌なのだが、一層不機嫌な顔をしておやじは出勤した。

「おかあちゃん、おとうちゃん、帰ってくるやろか」
母に聞いた。
「さぁ」
母は無関心そうに短くそう言い、いつもどおり、朝の家事をこなしていた。

翌日、目覚めた私は、おやじの部屋をそぉっとのぞいた。おやじはいなかった。本来なら、深夜に戻ってきて眠っているはずである。

「おかあちゃん、おとうちゃんから連絡あった?」
「ないよ」
「帰ってないやんか」
「ほっといたらええ。そのうち帰ってくるわ」

しかし、それから数日、おやじは戻ってこなかった。
学校で「父親参観」のプリントをもらった。タイミングが悪い。どうせ来てはくれないのだが(実際は学校に来て、3分くらい授業を見ている。が、その後、姿を消す。パチンコか何かに行くのだろう。参観は、家を出る単なる口実なのだ)、プリントを渡せない事実は、私の心を曇らせていた。

おやじの家出から10日目の朝、その日は日曜日で私は早くから起きていたのだが、ガサゴソと起き出すと兄や母に怒られるので、布団の中でじっとしていた。

すると、母とおやじの部屋で寝ていた母が私を呼ぶ声がする。驚いて、母の元にすっ飛んで行った。

「どうしたん、おかあちゃん」
「見てみ、あれ」
母は布団に入ったままの姿勢で天井方向を指し示した。指先をたどると……、ハンガーだった。

「な、何? なんで?」
揺れているのだ。窓から風が吹き込んでいるわけでもなく、もちろん地震でもない。が、かなり激しく揺れている。横にではなく、前後に。壁に当たってパンパンと乾いた音をたてている。
「おとうちゃんが仕事の服をかけてるハンガーや」
落ち着いた口調で母が言う。
「なんで揺れてるの?」
「もうすぐおとうちゃん、帰ってきはるわ」
にわかに信じ難い言葉だ。

『ピンポ~ン』

玄関の呼び鈴だ。
「まさか」
と思いながら解錠し、ドアを開けた。そこにはおやじが立っている。
「どうしたん、おとうちゃん」
「会社の仮眠室の布団、臭いんや」
そう言うと、即座に脱衣所に行き、服を脱ぎ捨てている。風呂嫌いのおやじが「たまらん」と思うのは一体どういう仮眠室かと思い巡らせた。

私は母の元に行った。

「な、帰ってきたやろ」
母はニヤッと笑った。

母の霊感が発揮された瞬間である。なぜ、ハンガーが揺れていることとおやじがが戻ってくることが結びついたのかはいまもってわからない。しかし、自信あり気な母の表情は、忘れられない記憶となっている。

余談だが、私におやじが「お前はどうや」と聞いたのは、出て行く口実を私につくらせたかったのではないかと思う。おやじ一流の計算があってのことだろう。1日だけ家に帰りたくない事情があったが、理由は家族に言えない。【家出】という大げさな話にし、数日戻らなかったら、言い訳がきく、というふうに考えたように思う。

この結末に導いたのは、母の生霊だったのかもしれない。母が自らの生霊をおやじの元に放ち、おやじを導いたということかもしれないといまになって思う。





その16 【魔のカーブにいた霊】

その朝、日曜であるにもかかわらず、私はロケ地に向かうべく車を走らせていた。走っていた国道は、通勤にも使う道で、早朝走っていると、よく、ついさっき轢かれたと思われるような、生々しい動物の死体が路上に転がっている(張りついているときも)ことがあっった。

そうした地点はかなり限定されていて、5キロほどの間に二つのポイントに絞られる。どちらもカーブがきつく、背の高い人間には多少見えても、地面を這って歩くような動物には寸前まで見えないだろう。

その朝、そのカーブを通りかかると、中央分離帯に花束が添えてあった。通りかかったのは朝6時前だったので、夜中に何かの動物が亡くなったのであろうと思った。余り気にしなかったが、小さな花束は私の心を重くした。
『もし自分が轢いてしまったら、どうするだろう』
血まみれになっている猫や犬を抱き上げることができるだろうか。役所に電話して、遺体を引き取ってくれと申告することができるだろうか。そんなことを考えているうちに、高速道路の乗り口に到着した。

そこからロケ地まで、およそ100キロの長旅であった。途中、事故渋滞、合流のための渋滞、自然渋滞と、渋滞責めに遭いながら、通常1時間で走破できる距離を2時間かかって現場に到着した。

車をとめ、ドアを開けて右足を踏み出したとき、体が異様に重いことに気づいた。ようやくのことで車外に出たと同時に口からこぼれ出た言葉は
「はぁ、しんど」
だった。寝不足の上に、渋滞で神経を使い、長時間運転したせいで、身も心も疲れたのだろう、と思った。

それには違いなかった。しかし、それにしては、体が重過ぎた。ロケが終わるまでの7時間ほどの間、何をするにも「よっこらしょ」「はぁ、しんど」と言わずにはいられなかった。

ロケは滞りなく終わった。私はシナリオライタ-と監督を兼ねているので、現場での緊張や疲労はそれなりにあったが、ロケが無事に終了したことで、安堵した。車で自宅に戻り、食事をそそくさと終え、早めに床についた。

にもかかわらず、翌日も翌々日も、体から異様な重さが取れなかった。

火曜日の夜、背筋を伸ばしていられないほど背中が重いことに気づき、
『これは尋常じゃない』
と思った。

家に戻って空気清浄機の電源を入れると、エアーモニターのゲージがみるみる上がっていく。グリーンのゲージがオレンジになり、とうとう真っ赤になって振り切れてしまった。
「煙草も吸ってないのに、何で?」
と驚いて言う同居人に私は言った。
「背中、思いっ切り叩いて」
同居人に背中を向けて座り、手を合わせて目をつぶり、般若心経を唱え始めた。
「観自在菩薩摩可般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度…」
266文字のうち、真ん中あたりまで唱えたところで
「あ、下がってる!」
同居人が声を上げた。空気清浄機のゲージがみるみる下がっている。

般若心経を読み終える前に、ゲージは最低レベルになった。
「ありがとう」
背中を叩いてくれていた同居人に言った。

あの花束は、人間の死を意味していたのではないかと思った。もしくは、この世に未練を残す、強烈な魂を持った動物の霊だったのかもしれない。

いずれにしても、あの場所で私に憑き、3日近くあちこちを動き回った。それで満足してほしい。
西明石のロケ現場とその道中のドライブ、居酒屋、風呂、定食屋、お得意先の打ち合わせルーム、スーパー、我が家……。生きていたら、きっと足を踏み入れることができなかったような、未知の場所だったはずである。その冒険をさせてあげただけで我慢してほしい。高級な料亭や、豪華なレジャー施設や、高級な車の車内や、広々とした家を見せてあげられなかったことは悪いと思う。が、この世の私だって見ても、味わってもいないのだから、諦めてほしい。

『納得できない!』
と怒るなら、今度から憑く相手を選べと言いたい。だれに憑いたって、裁かれることも、罰金を払うことも、叩かれることもないのだから。

勝手に人に憑いて平然としている、そして、知らぬ間にどこかに消え去るわがままな霊たちよ。





その17【コックリさんの怪】

小学5年生のとき、夕食を終えて兄や父とテレビを見ている私のところに母がやってきた。小さな声で背後から私を呼ぶ。振り返ると、尋常ではない顔つきの母がこちらを凝視して立っている。ただごとではないと察し、立ち上がって母のところに行った。母はダイニングキッチンの隣の部屋(唯一、他の部屋から独立していた)へ私を導いた。

引き戸(ふすま様)を開けると、部屋の照明は消されていて、真っ暗だったが、なぜかほのかな明かりがどこからか放たれていた。足元を見ると、ろうそくが2本、灯されていて、その間に白い紙があり、何かが書かれている。
「おかあちゃん、何これ?」
「コックリさんや」
「……」
知らない言葉だった。
「どうするの?」
「これからおかあちゃんの手がとまったところの文字を紙に控えてほしいねん」
母が後ろ手に扉を閉めた。私は言いようのない恐怖を感じていた。この後何が起こるのか想像できないこともそうだが、母の表情が異様なことが恐怖を増幅させた。

間もなく母は胸の前で手を合わせ(仏教式ではなく、キリスト教式の合わせ方。母は仏教徒だったが、なぜかこうする癖があった)、ブツブツ言い始めた。
次に、母は割り箸を持ち、鳥居のマークが書かれた部分にのっかっている十円玉の上に箸を置いた。再び母は何かをつぶやいた。するとすごい速度で、鳥居の右に書かれた「はい」という文字の上に箸の下の十円玉が移動した。と、すぐに鳥居に戻る。終始母は下を向き、目を閉じている。

次に母がぶつぶつ言った後、箸と十円玉は、紙に書かれた50音の中の「な」の上に移動した。
次が「お」。私は慌てて紙に書きとめた。すると、母の手の動きがおかしくなってきた。箸を持った手が激しく文字の上をこするように動く。手はラ行あたりだった「る」か「り」かわからない位置だった。もはや十円玉は箸の下からはずれ、遠くへ飛んでいってしまっている。
次に手が動いたのは「ね」だった。箸もすっ飛び、母の手は拳を握ったような格好で「ね」の文字をどんどん叩いている。事態を把握できず、慌てるばかりの私に母は
「痛い、痛い」
を繰り返す。
「とまれへんの?」
「とまれへん」
母の顔は苦痛に歪んでいる。意味のわからない私は、ただ手をこまねいて見ているばかりだった。

やがて手がとまり、ぐったりした母の手は、鳥居のところに戻った。母は再び手を合わせて
「ありがとうございます」
と小さく言った。
「書いてくれた?」
母がこちらを向いて言った。憔悴し切った表情だった。紙を見せた。
「そう」
そう言ったきり、母はしばらく言葉を発しなかった。
「何をしたの?」
「神さんに、おかあちゃんの病気が治るかどうか聞いたんよ」
母は、若いころに大病を患って以来、薬を飲まなければ発作が起きるという厄介な持病に苦しめられていた。

『なおるね』
と出たということは、治るということだと私は子ども心に安心した。母は私をベランダに導いた。50音の書かれた紙と割り箸、十円玉を燃やしながら
「このことは、人に言うたらあかんよ」
私はきっと、人に話すと効力がなくなるのだと察知した。違う理由があったのかもしれないが、そのときの母に理由や感想を聞いたりする勇気は、そのときの私にはなかった。

数日して、学校で「コックリさん」が話題になった。「小学5年生」にこの言葉が登場し、瞬く間に子どもたちの関心事になった。みんなでやってみよう、ということになったが、「間違ったやり方をすると、のろいがかかる」という者が出現したりして、実行には至らなかった。

学校から戻った私は、母に言った。
「おかあちゃん、学校でコックリさんが話題になってるねん。やり方教えて」
「“コックリさん”……、あぁ、おかあちゃんが子どものころはやったなぁ、そういえば。やり方は覚えてないわ」
「え、この間やったやん」
「何を」
「コックリさん」
「おかあちゃん、コックリさんなんかしてないで」
母の表情に、何かを隠すために嘘をついているといった作為的なものは感じなかった。本当に知らないのだ。では、ついこの間コックリさんをやったのは母ではなかったのか……。
私は言いようのない恐怖を感じた。目の前にいる母とこの間の母は別人ではない。しかし、母はその事実を覚えていない。

“憑いた”のだ。何者かが母に憑いて、コックリさんをやらせたのだ。何のために? 私に見せるために?

いま思い出しても、背筋が凍る。










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