Welcome  BASALA'S  BLOG

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「ちーちゃん」と過ごした日々 その1~5



このブログで12月19日に書いた「知的障害者と犯罪の関係」に対して
「自閉症」のお子さんを持つ方々がご訪問になり、ちょっとしたご要望もいただいたので、当該のブログで登場した「彼女」とのエピソードについて、少し書こうと思います。

「彼女」とのエピソードは中学時代の3年間と、18歳になってからの再会という長期にわたるものなので、1回で書き切れるものではありません。何度かに分けて書こうと思います。

★★★★★

「彼女」は「ちーちゃん」と言います。
だれかが教えてくれたのだと思います。
中学に入学すると、出席番号順で私が1番、彼女が2番で、靴箱も座席も、朝礼などで並ぶときもいつも私が前、彼女が後ろ、という関係でした。
入学式のときは、彼女は私の横の席にいました。
視線が定まらないし、そわそわしているし、だれかの声がするとすぐに反応してそちらを見る、つまり、キョロキョロしてしまうので、私はすぐに彼女の状況が理解できました。
理解ができた理由はよくわかりませんが、12年間の知識や経験から、理解できたのだと思います。
私は名札を見て声をかけました。
「○○さん(ちーちゃんの苗字)、前を向いて、私のような姿勢をしよう」
ちーちゃんは、少し警戒したような目で私を見ましたが、肩に手をかけて姿勢を直してあげると、静かに前を向きました。

入学式ですから、校長先生や来賓の挨拶などがあり、それがよくわからないちーちゃんには随分苦痛だったと思いますが、静かに前を向いていてくれました。
式典が終わって教室に向かうとき、ちーちゃんの手を握って歩きました。
ちーちゃんには、教室の場所がわからないはずだし、周囲の状況を怖がるのがわかっていたからです。
ちーちゃんは、ようやくにこやかな笑顔を見せてくれました。

その日から、事あるごとに「いのさん」(ちーちゃんが言う私の呼び名)と呼んで、私のそばを離れませんでした。

特段、担任から何かを言われた記憶はありません。
男性の年配者が担任だったせいもあるかもしれませんが、ちーちゃんのことを
説明したり、「世話をしてやってくれ」といった言葉をかけられたことはありません。
が、後ろから私の背中をつついて、「いのさん」と声をかけてくるちーちゃんの言いたいことを聞き、したいことをさせる方法を考えるのは、私の役目になっていました。

我が中学は、3つの小学校の卒業生が集まってきていました。
私はちーちゃんの出身小学校を卒業したわけではありませんでしたので、
彼女の小学生時代のことは全くわかりませんでした。
入学してから少しして、彼女と同じ小学校出身の女の子に聞くと、「ちーちゃんは特殊学級にいたので、私たちはよく知らない」という答えが返ってきました。
私の小学校には特殊学級はなかったので(小学4年までいた学校にはあって、その意味は少しだけわかっていました)、参考にできる話はないと判断しました。

ちーちゃんと一緒にいると、どうも見たことのない男の子からボールをぶつけられたり、スカートをめくられたりしましたが、意味がわからなかったので、知らぬ顔をしてやり過ごしていました。後でわかったことですが、ちーちゃんと同じ小学校出身の男の子らしく、特殊学級にいたちーちゃんをばかにしてなのか、差別してなのか、一緒にいる私を対象に意味のないことをしていたようです。

私は鈍感な方なので、そんなことは余り気にしませんでした。
ちーちゃんのような子を「差別する」という意味がわからなかったので、男の子たちの気持ちというか、下品で無意味な行動に理由を見出せなかったということです。

説明が遅れました。
ちーちゃんは知的障害児でした。それに伴って、言語にも障害がありました。
自分の名前をかろうじて言えるくらいで、感情や状況の説明はほとんどできませんでした。「うん」「ううん」が主な言語ですから、こちらから言葉を用意しないと、自発的な発言はないという状態でした。

しかし、体は大きく、発育もよく、力も強いので、ちーちゃんにとってはふざけただけでも、私には結構なダメージを受けることがありました。最初は我慢していましたが、気持ちが砕けてきて、彼女との接点が多く(大きく)なると、黙ってはいられなくなりました。
「ちーちゃん、痛い! やめて」
大きな声でたしなめても、ちーちゃんは私と遊んでいるつもりで更に力を強めて叩いたり押したりします。
「ちーちゃん、やめてくれへんねんやったり、ちーちゃんとおんなじこと、するよ!」
ちーちゃんと同じような力加減で同じようなことをすると、ちーちゃんが痛そうにします。
「痛いやろ。人にこんなことしたらアカン!」
ちーちゃんは少し寂しそうな顔をしました。そして、再び同じことをすることはありませんでした(実は、はしゃぎ過ぎたときなどは、たまに同じことをしました。その都度同じことを言いました。ちーちゃんは同じ表情をしました)。

こんなとき、最初は「ゴメン」という言葉を言ってくれたことはありませんでした。
でも、私が「謝って!」とか「いたたたた!!」などと大げさに言うと、
次第に「ゴメンね」「痛かった?」と気遣ってくれるようになりました。

そんなコミュニケーションができるようになったのは、ちーちゃんと出会って
3ヵ月くらいの間でしょうか。

1学期の間は席順も変わらないので、いつも一緒にいました。
私は課外クラブに所属していましたから、部員の友達もいたし、同じ小学校出身者の友達もたくさんいたのですが、いつもちーちゃんと一緒に皆と集っていました。私の友達は、ちーちゃんのことをごく自然に受け入れていました。それは、私とちーちゃんの関係が自然だったからだと思います。屈託なく私について歩くちーちゃんのことを、皆が「かわいい女の子」と思ったからだと。体は大きかったけれど、小さな少女のようなかわいさを持った女の子でしたから。

違和感を持っていたのは、同じ小学校出身の子たちだと思います。

ちーちゃんの存在を知っていながら、ちーちゃんの笑顔を見たり、声を聞いたりしたことがない者がほとんどだったからです。「特殊学級」を変な目で見る癖のついている子たちが、ちーちゃんが楽しそうにしていることを受け入れることができなかったのだと思います。

その下地として、親や担任の言動があったのではないかと思います。
ちーちゃんを、一般の児童と区別するような言動を発した大人の存在が。

中学生になっても、どの教師もちーちゃんのことを説明しませんでした。
説明する言葉を持っていなかったのだと思います。
「知的障害」などという言葉は使わなかった時代です。「知恵遅れ」とか、
「精神薄弱」という、差別用語的な言葉を使わざるを得なかったのを嫌ったのだと思います。
しかし、それは間違いです。
ちーちゃんが、ほかの生徒と同じような学校生活を送る方法をきちんと考え、導く必要があった。教育者には。
しかし、それは、ちーちゃんが卒業するまで一度もなされませんでした。

★★★★★

今回は、ちーちゃんのことと、ちーちゃんと私の出会いについて書きました。
次回は、私がちーちゃんを自然に受け入れることができた理由について書きます。

実は、子どもが社会生活を営む上において、そこのところが最も重要なことだと思います。


Last updated 2008.12.29 01:46:58

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「ちーちゃん」と過ごした日々 その2

28日のブログで知的障害のあるちーちゃんと出会ったときのことを書きました。
それは、中学1年生の入学時のことです。

出席番号順で並ぶと私が前、ちーちゃんが後ろで、入学式でいきなり
ちーちゃんの世話をすることになったのですが、私は余り「衝撃」や「違和感」を
持つことなく、ちーちゃんのことを受け入れていました。

それはなぜか、を書きます。

私が生まれたのは、結構な都会でした。
周辺に田畑がほとんどなく、国道が何本も通っていて交通量が多く、
高速道路が開通するような地域で、大阪を代表するような大企業やその関連の
企業がひしめくといった土地柄でした。
そのときには全く知らなかったのですが、小学1年生の3学期に転校した
驚くような田舎(大阪府下ですが)の学校では、いろいろなものを見て、経験を
しました。

まずは、特殊学級(当時は「特別学級」と呼ばれていた記憶があります)の存在です。
だれも説明してくれないので、その意味を知ったのは、3年生になってから
でした。
私は父親の会社の社宅に住んでいたのですが、同じ社宅に住んでいる子が
特殊学級に入ったのです。
この子は、「勉強ができない」というレベルではあったと思いますが、
知的障害だとは思いませんでした。一つ年下の女の子でしたが、一緒によく
遊びました。私の言うことをきちんと理解していましたし、笑ったり、怒ったり
といった反応も、運動能力も普通でした。
でも、特殊学級に入ったのです。
彼女の母親は、「勉強が遅れているから」と説明しましたが、そんな理由で特殊学級に
入るというのは納得いきませんでした。
私は毎日その子を特殊学級に迎えに行き、一緒に帰りました。
彼女には、友達が一人もいなかったのです。普通学級にいたときも、友達ができなかった
ようです。そんな状態で特殊学級に入ったのですから、新たに友達ができるわけが
ないのです。
(彼女は外見的に特異でした。髪が金髪だったのです。彼女のお母さんは、
「栄養失調」と主張しましたが、栄養失調が原因で髪が金髪になるのか、
子どもの私にはわかりませんでした。そのことが、彼女の周囲から同級生を
遠ざけた可能性はあると思います。が、私には一向に気になりませんでした。
髪の色が人間の何を決めるのかが確定できなかったからです。学校では
こわばった顔をしていましたが、私と一緒にいるときはにこやかで活発な
かわいい女の子でした)

私の同級生には、いろいろな子がいました。
オノさんという女の子は、学校では一切しゃべりませんでした。
オノさんの近所に住む友達に聞くと、
「家ではしゃべっているよ」
と言うのです。しかし、学校では、しゃべることはおろか、笑う(微笑む)ことすら
しないのです。先生が、わざと笑わそうと冗談を言ったり、怒らせようとしたり
するのですが、何の反応もありません。家で話ができるのに、学校では一言も
しゃべらないということが、私には全く理解できませんでした。
また、クゼくんは、反応が極めて鈍く、先生が話したことを理解するのにも
人一倍時間がかかりました。笑うタイミングがずれるし、何で笑ったのかを理解しているか
どうかも怪しい。多分、軽度の知的障害があったと思います。
それから、ナガタくんは胸腺の病気で、身長が伸びません。3、4歳くらいの身長しか
なかったように記憶しています。でも、言葉は達者で、グループの中心になりたがる
わがままな面も持っていました。

ナガタくんはともかく、オノさんやクゼくんは、普通学級に普通にいるには
問題があったように思います。が、担任の先生(50代の凛とした女性の先生。
厳しくて冷たい感じがしましたが、言うべきことはきちんと言ってくれました)が
常に目をかけてフォローしていましたし、ほかのクラスメートにも
「みんなと同じように接してほしい」
「できるだけ、一緒に遊んでほしい」
「近くの席の人は、注意してあげてほしい」
と指導し、クラスメートはそれに従っていました。

そうした経験があったから、ちーちゃんを最初に見たとき、驚きや衝撃が小さかった
のかもしれません。“自分とは違ういろいろな人がいる”ということを体感していたせいで。

子どもは残酷です。
自分と違う形を持った人、違う表現をする人には容赦ない反応をします。
しかしそれは、周囲の大人の指導や経験の中から学習をし、慣れたり、許容量を
大きくしたりして順応するようになります。しかし、誤った指導や、周囲を受け入れない
わがままを許したりする環境があると、いつまでも残酷な人間であり続けます。

ちーちゃんは中学に入るまで、そんな人間に囲まれて生きてきたのかもしれないと
思います。いまのように親が学校に意見を言ったり、周囲の児童に直接指導したり
といったことができない時代でした。教師もろくに特殊学級やその学級にいる児童に
ついての説明をせず、偏見に満ちた認識に威圧されるように学校の隅においやられていたのではないかと。

だから、一部の男の子は、ちーちゃんと一緒にいる私に攻撃してきたのだと思います。
私がそんな生徒に対して何ら危害を及ぼしていないし、攻撃される理由もなかった。
しかし、「ちーちゃんと一緒にいるということ=同類=攻撃に値する者」と
考えたのだと思います。知的障害者を攻撃することに、どんな爽快感があるのか、
充足感があるのかは理解できませんが、“強者が弱者をいじめる”という
許し難い差別の構図がそこにあったのは確かです。

でもこうした現象は、徐々になくなっていきます。
1学期の間は、ちーちゃんが頼るのは私だけでしたが、そのうちに周囲の女の子が
世話をしてくれるようになりました。教室の移動や、予防接種など特別な行事が
あったときの誘導などは。

ちーちゃんも次第に心を許せる相手を獲得し、表情も、感情表現も豊かになっていきました。

自分の名前すら、満足に言うことができなかったちーちゃんに自己紹介の方法を教え、
人の前で口を開くことができるようになったことや、
私がつくった平仮名の練習帳で文字が少しずつ書けるようになったことで、
ちーちゃんは“自分”を確認し始めたたのだと思います。
それまで、まともな教育を受けることができなかったちーちゃんは、
自分のことさえ理解する機会がなかったように思います。

暑くなり始めたとき、
「いのさん、くくって」
ときれいな色のゴムを私に差し出しました。おしゃれに目覚めたのです。
伸びてきた前髪をかわいく結わいてあげました。同時期に私は、
「ちーちゃん、お母さんにこれを渡して」
と、漢字練習帳の最後の頁に連絡事項を書いて、ちーちゃんにお願いしました。
「お母さんへ。ちーちゃんにブラジャーを用意してあげてください」
と書きました。ちーちゃんは体が大きく、胸の発達も早かったのです。
体育の授業のときに気になっていたのはもちろん、夏服になると前ボタンが
弾けそうになっていました。私は男の子の目が気になっていました。
メモを渡してすぐ、おかあさんはブラジャーを用意してくれました。
ちーちゃんはそれを窮屈そうにしていました。
髪におしゃれをしたいのに、胸のことには関心がないというのは残念なことですが、
何かの機会で理解してくれるときもくるだろうと思っていました。

一つずつ新しいことを理解し、興味を持って瞳を輝かせるちーちゃんを
見ていると、心が温かくなりました。そんな私の気持ちは、たくさんの同級生に
伝播し、ちーちゃんを取り巻く環境は少しずつ変わっていきました。


次回は、中学3年生のときのことから、18歳で再会するときまでを書きたいと思います。
ちーちゃんのお母さんや姉妹のことも。


Last updated 2009.01.02 23:54:54

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「ちーちゃん」と過ごした日々 その3

新入生として中学に入学したのを機に知り合ったちーちゃんは、
知的障害を持つ女の子です。
1年生の1学期の間は、少しずつ、でも確実に成長し、夏休みを過ぎたころから
目を見張るほどの成長を見せるようになりました。
私と一緒にいるちーちゃんを見るクラスメートの目が変わったからだと思います。

人は、より多くの人間と接することで能力を伸ばし、世界を広めることが
できるのだと知りました。
一般の生徒であれば、「学校」は「学問をする場」といえるかもしれませんが、
実は、「人間としてのあらゆる能力を伸ばすための場」と言えるのかもしれません。
人を見習い、人から刺激を受け、人と競い合うことで、人間に内包される
多種多様な能力を開発し、“できない”と思っていたことができるようになったり、
“得意”と自信を持っていたことが、他人より劣っていると知ったり、そしてそれを
伸ばすための努力をしたり。

ちーちゃんを見ていて、私はそう思いました。

1年生の間、ちーちゃんは楽しそうに生活をしていました。

が、別のクラスになった2年生のときのことはほとんどわかりません。
休み時間に私のところに遊びに来たちーちゃんはにこやかだったし、
いつもどおり「あれをして」「これを教えて」とねだってきたので、
自分のクラスでも、他のクラスメートにそうしているのだと思っていました。

しかし、3年で再び同じクラスになってみると、2年生のときが「空白」になって
いることに気づきました。
1年間、またおもしろくない授業時間を過ごしたのかと思うと、かわいそうに
なりました。
そこで私は、漢字が書けるようになってもらおうと、小学低学年から中学年
くらいの漢字(生活に密着したもの)をピックアップした漢字練習帳をつくりました。

ちーちゃんは、最初拒否反応を示しました。
「いのさん、書けへん」
難し過ぎると思ったのでしょう。1年のときには、躊躇なく取り組んだのに…。
ちーちゃんの中に、自分を確認する能力が芽生えたのだと思います。
焦らないように、ゆっくり、丁寧に書き方を教えました。
少しわかってくると、再び目を輝かせてちーちゃんは漢字の練習に取り組みました。

そして、できたときのうれしそうな顔は、1年のときのそれとは比較にならないくらいで、幸せそうでした。
それを見たクラスメートは、私と同じようなことをちーちゃんにし始めました。
うれしかったのは、私が考えつかないようなアイデアを盛り込んで、
ちーちゃんが楽しく漢字の練習ができるように工夫してくれたり、
正解の○の横にかわいいイラストを描いたりして、ちーちゃんが喜ぶ方法を
考えてくれたりしたことです。

そんな中、球技大会が開催されました。
女子の競技種目はソフトボールでした。
私のクラスには、ソフトボール部員が3人いたことから、「1チーム2名まで」
という規制が設けられました。
部員と一般生徒の実力差を考えて、チーム編成をしました。
私は部員であり、ピッチャーでしたから、私はそのままピッチャーを、
ファーストにも部員を配置し、黄金の1塁アウト体制を敷きました。
私は大差で勝つだろうと確信していました。
ですから、代走や代打はもちろん、守備交代も頻繁に行い、全員参加を目指しました。

もちろん、ちーちゃんにも参加してもらいました。
打ったり守ったり、というのは難しいし、けがが心配でしたので、「代走」で
出場してもらうようにしました。
私は1塁のコーチスボックスに立ち、ちーちゃんにスタートの指示をしました。
ちーちゃんは私の指示どおり一生懸命走り、ホームに帰りました。
そのときのうれしそうな顔、興奮した声は忘れることができません。
多分、それまでの学校生活で最も感動した瞬間だったのだと思います。

球技大会は大勝しました。
ちーちゃんは「戦う」経験、そして「勝つ」経験、自分がその輪の中にいる経験をし、自信を得ることができたのではないかと思います。

夏になると、水泳大会が開催されました。
他のクラスは棄権する子が続出しましたが、我がクラスはほとんどが参加し、
またもや圧勝しました。ちーちゃんもレースに参戦しました。
残念ながら、泳ぐことができないちーちゃんは、水の中を歩くという競技に出て、
善戦しました。
優勝をコールされ、歓喜するクラスメートと一緒に、ちーちゃんも飛び跳ねて
喜んでいました。
国語や数学に自分の居場所を見つけることができないちーちゃんも
体育やその関連行事では皆に貢献できる喜び、体を動かす喜びがあることを知ったのだと思います。

秋口には体育大会。
もちろん、我がクラスは全員参加を目指していましたので、ちーちゃんも競技に
参加しました。大きな得点の獲得できるレースを総ナメにした我がクラスは、
他のクラスに大差をつけて優勝しました。ちーちゃんは1位にはなれませんでしたが、
クラスが優勝したことで、自分自身の悔しさは払拭されたようでした。
さすがに「体育大会」だけあり、感動もひとしおでした。

その興奮は「文化祭」まで冷めず、クラス全員がフルパワーで取り組むことが
できました。
我がクラスは芝居を披露することになりました。
作品は「夕鶴」です。何と、登場人物が4人というこぢんまりした物語を
選んだ経緯は私にはよくわかりませんでした(用事があって、クラスを離れたときに
決まってしまっていました)。そんな状況なのに、私がシナリオを書くことが
決まっていて、これには閉口しました。
「全員参加」を目指す私は、4人の登場人物を残しながら、あと20人のキャストを
つくり、演者24人、残り10数人は大道具、小道具、衣装係になってもらい、
裏方を固めることができました。

大道具も衣装も、大掛かりですごいものが出来上がりました。
農家の男の子は、家からおじいさんがつくってくれたというわら草履を持ってきて
くれたり、お婆さんのモンペを持ってきてくれたり、建具を家から抱えてきてくれる
男子生徒もいました。
ちーちゃんは、小道具係にいて、同じ係の女の子の指示に従って作業をしていました。

芝居は大成功でした。
下級生からも、教師からも、校長先生からも絶賛されました。
我がクラスの生徒は全員、感動の渦の中にいました。
文化祭終了後、不要になった舞台道具や展示で使ったものを燃やして処分する
キャンプファイヤーが焚かれました。
燃えていく大道具を見ながら、それらをつくるために使った日々や、仲間と衝突したり、
思うものができて喜んだりした思い出が蘇ったのか、女生徒のほとんどが
涙を流していました。
ちーちゃんもその光景を見て、しばらく戸惑っていましたが、隣にいた女生徒が
ちーちゃんの肩を持ったとき、何かが伝わったのか、ちーちゃんも涙していました。

文化祭が終わると、高校を目指す者はすべて受験体制に入ります。

日に日に緊張感が増していく同級生に囲まれて、ちーちゃんの顔からも
笑顔が消えがちになりました。

そんなさなか、ちょっとした事件が起きました。
我がクラスではない、クラスの階も違う女の子が助けを求めて私のところに
やってきたのです。

この女の子も知的障害を持っていました。
そして、その事件は、学校全体を揺るがすような事件になったのです。


今回は、少し書き過ぎました。
次回、事件のことと、中学卒業から18歳までのちーちゃんとの出来事を書くつもりです(前回もそう書きましたが…。スミマセン)。


Last updated 2009.01.03 20:03:33

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「ちーちゃん」と過ごした日々 その4

中学3年の秋、皆が受験体制に入り、ちーちゃんの顔からも笑顔が消えがちになったとき、一つの事件が起きました。

休み時間、A組のMさんが、教室の階が違うC組の私のところへやってきたのです。
Mさんは、小学校のときの同級生でしたが、中学に上がってからは、一度も同じクラスになったことはありませんでした。
小学5年生のとき、九州から転校してきたのですが、担任が言うには、
「田舎の分校にいたので、学習面が遅れている」
ということでした。
でも、私には、“学習面”という限定的な問題でないことはすぐにわかりました。
今の言葉で言うと「知的障害」があるということだと。
言語が明瞭でないことと、身体能力が低いことは、私以外のクラスメートにもすぐにわかったと思います。
5年生のときにははっきりとはわからなかったのですが、彼女は、足に進行性の障害を抱えていました。中学に入るころになると、足の動きの悪さが顕著になり、体育の授業もままなりませんでした。

そんなMさんの家庭は貧しく、知的障害や足の障害がなくても、高校に進学できたかどうかはわかりませんが、中学卒業後の彼女の進路は「就職」と決定していました。

Mさんが教室の外から私の名前を呼んだとき、その様子から尋常ならざる状態であることがわかりました。なぜなら、彼女の泣きはらした目がそのことを訴えていたのです。

「どうしたん? Mさん」
「○○さんと、□□さんと、△△さんが、私のことを、臭い、汚い言うねん」
○○さんと、□□さんと、△△さんというのは、Mさんの同級生で、別段悪い子だと思ったこともなく、私と普通に接していた女生徒たちでした。Mさんは、家庭の事情なのかどうかわかりませんが、お風呂に余り入らないとか、洗濯回数が少ないなどを推測させる状況であることは認識していました。が、それを材料にいじめるのは許せない。
「いつ?」
「ずっと前から」
「何で今まで言わへんかったの?」
「我慢してた」
不自由な足を引きずって、階の違う私のクラスまでやってきたMさんの心情を思うと、私はいたたまれなくなり、
「ここにおって。ちょっと行ってくるから」
そう言った私は職員室に向かって全力疾走しました。

彼女のクラス担任は理科系の教師で、柔和な表情や物言い、ユーモラスな会話で生徒には特に人気の高い人物でした。多分、教師を対象にした人気投票をしたら、3位以内には入るだろうと思われました。
対して我がクラスの担任は体育系教師で、体罰をいとわず、その筋の人のような威圧的な視線で生徒を威嚇する、いわゆる“暴力教師”で、人気投票では間違いなくワースト1になるという、札付きの悪教師でした(この先生のことも、いずれ書きたいと思います)。

職員室に飛び込んだ私は、一目散にA組の担任に駆け寄りました。
「どうしたんや、●●(私の姓)。えらく怖い顔して」
A組の担任が驚いた顔で聞きました。
「先生、Mさんが○○さん、□□さん、△△さんにいじめられたそうです」
「ちょっと待て、どういうことや」
「臭い、汚いって、ずっと言われていたらしいです。先生、知りませんでしたか?」
「知らんなぁ…。……なぁ、●●、受験でみんな気が立ってるんや。事を荒立てんといてくれるか」
私は耳を疑いました。この教師からそんな言葉を聞くとは思ってもいなかったからです。
きっとMさんをかばって、いじめの張本人をこっぴどく怒ってくれると思ったのです。
「受験って…、Mさんは高校には行かないんですよ。学生生活最後の思い出が、いじめですか!」
「そうカッカせんと」
完全に幻滅しました。こんな教師が人気だなんて、生徒の目は節穴です。
「もういいです。先生には頼みません。ここに来た私が間違ってました」
そうです。先生などに頼らず、自分で解決したらよかったのです。
怒り狂った状態で職員室を出て行こうとする私の肩をつかむ者がいました。
振り返ると、我がC組の担任です。私の耳にそっと口を近づけて
「やれ、●●。俺が責任を取る」
「はい!」
勢いよく職員室を出た私は、私を追ってきたMさんとぶつかりそうになりました。
A組の担任の言いようを彼女に知らせずに済んだことを幸いに思いながら、
「うちのクラスにおって!」
そう言い残した私は再び全力疾走でA組に向かいました。

A組の出入り口前に立った私は、
「○○、□□、△△、出てこい!」
3人は不審な顔をして出てきました。
「どうしたん? いのさん」
「あんたら、Mさんに臭い、汚い、言うたらしいな」
「そんなこと、言うてへんよ」
一人が答え、皆うなづいています。
「そんなはずはない。不自由な足ひきずって、うちのクラスにMさんが来た。しかも泣いてた」
「そんなつもり、なかったんよ」
「どんなつもりや」
「……」
「あんたらは高校行くか知らんけど、Mさんの学生生活はこれが最後や。そのMさんに、いやな思い出だけを残すのか! あんたらはいやな奴らという思い出になって、平気なんか!」
そのとき、私を追ってきたMさんが到着しました。途中、“大変なことになった”と思ったのか、私の行動に驚いたのか、泣きはらした顔がさらにクシャクシャになっていました。
「見てみ、この顔を見て、あんたらは平気なほど、いやな奴らなんか!」
3人のうち、一人が泣き出しました。
「ごめん、ごめん……」
「あんたらがそんなつもりない、言うても、この子がこんな顔になってるねんから、ひどいことしたことに間違いないやろ」
ほかの二人も泣き始めました。
「ごめんね。もう言わへんから」
私は畳み掛けるように言いました。
「今度こんなことがあったってMさんから聞いたら、承知せえへんからな」
私の勢いに怖じ気づいた3人は
「もうしません」
なぜか敬語になっていました。
「■■、出てこい!
■■というのは、このクラスの学級代表の女の子です。
「あんた、このこと知らんかったわけやないやろ」
「知らんかった」
いつもは仲よしと思っていた私の剣幕に驚いた彼女は、うそを言いました。“知っていた”と、顔が言っていました。
「情けないなぁ。学級代表やろ。あんたがしっかりしてへんから、Mさんが私のクラスまで来たんや。しっかりせぇ」
■■さんは泣き出しました。
「ごめん」
■■さんが小さな声で謝りました。
「謝らんでいい。そのかわり、卒業するまでMさんをきちんと守ってや。もしもう一回こんなことがあったら、あんたも承知せんで」
私はMさんを振り返り、
「Mさん、このあほの4人を許したってくれる? よく言うといたから」
「うん、うん、ごめんね。ごめんね」
Mさんも大泣きし、
「Mさんが許してくれるらしい。お礼言うとき」
いじめた3人と学級代表に言うと、4人はMさんに向かって
「ありがとう。ごめんね」
と、Mさんの手を取って言いました。

それを見届け
「ごめんな、呼び捨てにして。大きい声で怒鳴って」
そう4人に詫び、Mさんの肩を叩いて、私は自分のクラスに戻りました。
途中、暴力教師が私を待つようにして廊下に立っていました。
「やってきました」
笑みを浮かべながら私が言いました。
「そうか。で?」
「解決しました」
「よっしゃ!」

担任に責任を取ってもらう事態に至らず、よかったと思いました。

その日の終業のホームルームで、担任がこの出来事をクラスメートに説明しました。
最後に言いました。

「オレは、このクラスの担任になってよかった。弱い者をいじめるような奴がおらんし、そんなほかのクラスのことを怒ってくれる生徒がおった。お前らに感謝する」

体育担当の我が担任は、全学年の男子の体育の授業を受け持っています。
授業の最初にこの事件のことを話し、“いじめ”の醜さ、酷さ、無意味さを説きました。

そんな事件に出会えた私や、その当時在学していた生徒は幸せだと思います。
Mさんがいなかったら、「他人事」として通り過ぎてしまっていたのですから。
人生の貴重な時期に、ちーちゃんやMさんがいてくれてよかった。

そう思わせてくれる事件でした。


またしても長々と……。
次回の予告はしないことにします。
書くたびに思い出すことが増えて、思惑どおりにはいかないことに気づきました。


Last updated 2009.01.05 13:25:44

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「ちーちゃん」と過ごした日々 その5 (2)

前回は少し脱線しました。

ちーちゃんのことに話を戻します。

秋口に修学旅行がありました。
それを前に、担任がホームルームのときに言いました。
「○○(ちーちゃんの姓)は、修学旅行に行かんらしい」
「何でですか?」
女生徒の一人が聞きました。
「お母さんから連絡があった。“うちの子が旅行に行くと、皆さんの足手まといになる”とおっしゃった」
「足手まといって…」
クラスがざわつきました。当のちーちゃんは、みんなの様子をじっと黙って見ています。
多分、自分のことが話題になっていると、半分気づかず、半分気づいているといった状態だったのだと思います。

「夜、トイレに起こさないといけないらしい」
担任の言葉に、私にかわって漢字練習帳をつくってくれるようになっていた女生徒が
言いました。
「そんなこと、私たちがやります。一緒に行けるように頼んでください」

私は驚きました。こういうときは、決まって私に回ってくる役割でした。
が、私が何も言わなくても、言ってくれるクラスメートが出現したのです。
しかも、一人ではありませんでした。

担任が説得し、お母さんも了解してくれました。
かくしてちーちゃんの修学旅行は実現し、問題も事件もなく、私が密かに心配していた「ホームシック」に陥ることなく、ちーちゃんは楽しい2泊3日の旅を終えました。

その後は大きな行事もなく、卒業式を迎えました。

体育館での式典を終え、教室に戻ってきた私たちに担任が言いました。

「俺は、手紙をもらった。○○(ちーちゃんの姓)のお母さんからや。みんなにも聞いてもらいたいからここで読む。いいか」

担任は手紙を読み始めました。
内容は概ね次のようなもの。

「娘を中学にやるには、大変な不安がありました。普通学級でこの子に何ができるのか、周囲の方々はこの子をどう受け入れてくれるのか、いじめられたり、仲間はずれにされたりしないかと、心配ばかりしていました。
でも、1年の生活をスタートさせた当時から、●●(ちーちゃんの名)から、いいお友達ができた、学校が楽しいと聞かされ、胸をなでおろしました。
いろいろな行事があるたびに、うれしそうにし、それに参加している●●を見ると、いい先生、いいクラスメートに出会えて本当によかったと思いました。
3年生になって、●●が楽しみにしていた修学旅行に行かせないと決めたとき、本当に心が痛みました。でも、クラスの皆さんにご迷惑をかけられませんし、ご迷惑をかけてしまったときの●●の気持ちを考えると、不参加を決断しなければならないと思いました。ところが、皆さんが面倒を見てくださるとおっしゃってくださり、先生もサポートするとおっしゃってくださったので、思い切って甘えることにしました。●●が旅行から帰ってきて、「楽しかった」と言ったときは、本当にうれしく思いました。同じ部屋で●●の面倒を見てくださった皆さん、ありがとうございました。
3年前、不安いっぱいだったことを思い出します。いまでは、中学にこの子をやってよかったと思います。これは、多くの先生方や同級生の皆様のおかげだと思っています。
この3年間の経験は、今後のこの子に人生にとってとても意味のある、貴重なものだと思います。
皆さまも、中学を卒業され、新しい生活が始まります。明るい未来に向かって頑張ってください。
ありがとうございました」

女生徒の多くが涙ぐんでいました。
それを見たから、自らの感情からなのか、ちーちゃんも泣いていました。

「○○のお母さんは、○○がいい経験をできたと礼を言ってくださっているが、俺はクラスの全員がいい経験をしたと思う。○○を思いやる、心配する、力を貸す、いろいろな経験をしたおかげで、お前らは成長した。この経験を生かして、これから生きていってくれ」

先生も少し涙ぐんでいるようでした。

すべての行事が終わった後、私はちーちゃんのところへ行きました。
「ちーちゃん、いまからちーちゃんのおうちへ行っていい?」
私が聞くと、ちーちゃんは満面の笑みを浮かべて私の手を握り、飛び上がって言います。
「来て、来て、いのさん、来て!」
「大丈夫? お母さん、怒らへん?」
「怒らへん、いのさん、来て、来て、来て!」

私は、お母さんに聞きたいことがあったのです。
卒業すると、簡単には会えなくなるので、この機会に、と思ったのです。

ちーちゃんの家へ行くと、お母さんが優しく出迎えてくださいました。
ちーちゃんは相変わらず小躍りして喜んでいます。
これまで、こうして友達を家に連れて帰るという経験がなかったのでしょう。

こたつに入ってお母さんと話をしました。
「◆◆(私の姓)さんのことは、1年の初めから聞いていました。いろいろお世話していただいたようで、いつかお礼を言わなければ、と思っていました」
ちーちゃんには一つ上の姉が、二つ下の妹がいました。二人とも健常者で、同じ中学に通っていました。
この二人がちーちゃんの様子をお母さんに伝えていたことも知りました。
でも、二人とも学校でちーちゃんに接触することがありませんでした。
どうしてなのか、常々疑問に思っていました。
「姉や妹がいると、この子が頼ってしまいます。できるだけクラスメートの皆さんと過ごしてもらえるようにと、直接接触しないようにしてました」
お母さんの言葉に、そういうことか、と思いました。

ふと私は、変なことを聞きたくなりました。“聞いてはいけない”と思いながら、とめることができませんでした。
「お母さん、ちーちゃんが生まれた後、妹さんを出産することに躊躇はなかったですか?」
いま思えば、何と配慮のない聞き方をしたのかと思います。が、15歳の私には、こういう言葉しか見つかりませんでした。
「……、ないと言えばうそになりますが、もし下の子が●●と同じような障害を持って生まれてきたら、それはそれ、と思いました。
「……」
「姉妹3人とも私の子どもです。障害があろうとなかろうと、私の子として育てることに変わりはありません」

優しそうなお母さんの口から、こんなにきっぱりとした言葉が聞けるとは
思いませんでした。そして、聞いてよかったと思いました。お母さんに恵まれ、
姉妹に恵まれたちーちゃんは幸せだと思いました。こんな家庭はそうそうありません。
いがみあってばかりの家庭に育った私は、心からうらやましいと思いました。

聞きたかったのは、ちーちゃんの小学時代のことだったのですが、
そんなことはどうでもよくなりました。
昔のことを聞いて、「おかしい」「やりようがあったはず」と怒ったり、
嘆いたりしたところで、ちーちゃんの「今」が変わるものではない。
こんなに喜んでくださっているのだから、これでよかったのだ、と思いました。

名残惜しそうにし、途中まで送ってくれたちーちゃんと別れるときが来ました。
ちーちゃんは泣きながら、見えなくなるまで
「いのさん、バイバイ」
と見送ってくれました。

ちーちゃんと再会したのは18歳のときです。
連絡をして、私がちーちゃんの家を訪ねました。
ちーちゃんは少しお姉さんの表情をして私を迎えてくれました。

ちーちゃんは擁護学校を卒業し、就職することが決まっていました。
ちーちゃんは、少し不安がっているようでしたが、
「大丈夫?」
と聞くと
「うん。大丈夫、いのさん」
と元気に答えてくれました。

お母さんは、
「●●はずっと、擁護学校より、中学のときの方が楽しかったと言っていました。
よほどいい思い出ができたのだと思います。
でも、擁護学校でもいい先生に恵まれましたし、楽しくやっていました。
擁護学校にやることにも心配や不安がありましたが、これでよかったのだと思います」
と話してくれました。

帰ろうとする私に、ちーちゃんは
「また来てね」
と言って、帰路の途中まで送ってくれました。

それからは、手紙でのやりとりになりました。
ちーちゃんからの返事は、封筒の表書きを妹が書いてくれ、
中身はちーちゃんが書いたものでした。

私が21歳になった年、実家が引っ越すことになり、中学時代の家から遠く離れてしまいました。

それ以来、行き来も手紙も途絶えています。
いま、ちーちゃんがどうしているか……。
今年、連絡を取ってみることにします。
随分時間がたってしまいましたが、再会できることを祈って。


Last updated 2009.01.07 00:24:07




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