Welcome  BASALA'S  BLOG

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迷う男 10~14話



男は胸の鼓動が高鳴る中、その鼓動の原因がまっすぐ男を見詰める看護師の瞳のせいなのか、嘘を隠し通せるかどうか不安だという心のあらわれなのかよくわからないまま、看護師が近づいてくるのを茫然と見ていた。
「体温と血圧は異常がないですよ」
看護師の瞳から読み取れる感情の強さは揺るぎなかった。
「気分が悪いことが体温や血圧に反映されないことは多々あります」
冷静で表情のない言葉を吐きながら、男を見下ろす看護師に、男は説明のできないほどの強気をもって言った。
「じゃ、何のために測ったんですか? 私の言っていることが、うそだという証拠の一つですか?」
看護師は、目の端に笑みのような緩みを浮かべながら言った。
「うそ? 何を主張するためのうそですか?」
男は茫然とした。「何」を言うわけにはいかなかった。この看護師は、これまでのいきさつの詳細を知らないかもしれない。しかし、この余裕の表情は、担当のあの医者から因果を含められたとしか思えなかった。
「知っているんでしょう?」
「何をですか?」
「私がこの病院に運ばれたいきさつを」
「鉄道事故に遭われたことは聞きました。症状は理解できるものでしたが。それ以外に、当医院の医師が我々に伏せている事実があるのでしょうか」
「あ、……そ、それは……」

男は冷静になろうと思った。ここにいる理由は何だったのか、何をしようと思っていたのか、ここに何を求めていたのか、一から思い返そうと思った。しかし、若くてかわいい看護師を前にして、ややこしくてうざったい事情は思い浮かぶ余地がなかったし、思い浮かべない方がいいと、暗に感じていた。

「い、いや、……事故で気分が悪くなった影響で、思考もマイナーになってしまって……。救急隊員やお医者さんが、私の言っていることを信じてくれていないような気がして……」

看護師は男の目をじっと見据えて言った。
「お医者さまも救急隊員も、あなたの言ったことを信じるわけがありません」
男は目の前が暗くなるのを感じた。看護師の通る声と歯切れのいい言葉が男の胸に突き刺さった。男をさらに落胆させたのは、看護師の緩やかな口元だった。ストップモーションがかかったようにゆっくりと、大きな動作で開いた口元がもう一度
「信じるわけがありません」と言っている。
『この看護師はすべてを知っている』と感じた。知った上で、自分を婉曲な表現で責めようとしていると直感した。

「信じてもらえないならいい。何らかの手を使って私の不本意や無念をあなた方や鉄道会社にわかってもらう。法的に立証されれば、痛みを負った私の気持ちがわからないと断言するような病院にだって、何らかの
ペナルティが課せられることだろう。世話になったのに申し訳ないが、やることはやらせてもらうよ」
一気に言い切った男は、心の中ではほっとしていた。
しかし、言ってしまった顛末として、今後、何らかの攻防があることは理解できた。
そして、勝ち目は全くないことはわかっていた。

看護師が口元を緩め、こう言った。
「なぜ、救急隊員と医師があなたを信じないのか、言いましょうか?」
言われた男の体は言葉に緊縛されていた。看護師の言葉に二の句が告げなかった。看護師がこちらを見据えていた。開いた口から発せられる言葉が気になった。
やがて、看護師の口から言葉がこぼれた。
「言いましょうか?」
男には、詳しい意味がわからなかった。それらしいことを想像することはできたが、看護師の真意を図りかねた。

看護師の表情がまた変わった。
「ゆっくりお休みください。数時間後に血圧と体温をお計りいただきます。そのときに理由を言います。何か、ご要望はありますか?」

「……」

「何かありましたら、このボタンを押して呼んでください。では」
看護師はコールボタンを示して言った。

男には、発する言葉がなかった。

看護師は退室するためドアに歩み寄った。男は看護師を注視していた。そして、ちらっと見えた横顔には、不遜な笑みが浮かんでいるように感じた。男は、次の検温までの、不安で居心地の悪い時間を想像して萎えた。

しかし、“居心地が悪い”程度で済むはずはなかった……。

                     〈つづく〉

(十一)眠れぬ時間

男は目をつぶった。朝、あと5分眠ろうか起きようか迷いながら、結局5分間をフイにした無念をここで晴らそうと思った。目を閉じると、意外なことに気づいた。
『病院とは、こんなに騒々しい場所なのか』
もちろん、ナースセンターに隣接した部屋であることもその原因だと思われた。しかし、病に苦しみ、休むことが仕事といっていいような病人が、こんなに騒々しい中で一体安眠を得ることができるのだろうかと疑問にさえ思った。
『関係ない。自分はきょうの夜まで過ごすだけだし、病気でもない』
そう思った刹那、あることが思い出された。
『部長へのプレゼン、どうしよう。企画書などまるっきりできていないし、内容すら考えていない。〈新製品のプロモーション戦略〉……、そんなことが一営業部員に考えられ、成果が上がるんだったら、こんな薄給に甘んじているわけがない……』
男は落胆していく気持ちを支えるように考えた。
『いま考えても仕方がない。ここで何をどうすることもできない。とにかく、夜、家に戻ったら、何とかする手立てを考えよう。そうだ、少し眠ろう』
目を閉じながら、外の物音を聞くともなく聞いていると、
『出社したくないなら、ここに夜までいらしていただいて…』
と言った駅員の言葉が耳の奥から聞こえてきた。男は驚いて目を開いた。
『なぜわかったのだろう。自分でも気づかぬうちに、それらしい事を口走りでもしたのだろうか……。これからどうなるのだろう。入院費、鉄道会社からの尋問、……あ、もしかしたら、警察の取り調べもあるかもしれない……』
男の心を再び煙幕がかかったような疑念と不安が覆い始めた。
それを振り払うように男は自らに言い聞かせた。
『大丈夫。自分のムチウチは、だれも否定できない事実だ。ムチウチだと言い通せばいい。……そうだ、追い詰められたら、日常の仕事のストレスの影響だとすり替えれば言い逃れできる』
男は、自らが発案した強引な結論を導いてほんの少し安心した。再び眠ろうとした男のまぶたの裏側に、先ほど看護師の
『救急隊員もお医者様もあなたの言葉を信じるはずがありません』
と言った口元と瞳が蘇った。
『なぜ信じるはずがないのだろう』
男の疑問は堂々巡りだった。それをわかっていながら、考えずにはいられなかった。
『どんな答えが自分を待っているのだろう。……いや、看護師の勝手な憶測や意見に過ぎないのかもしれない。……考えても無駄だ。それこそ、無駄な憶測をするに過ぎない』
男は今度こそ眠ろうと思った。

『勘の悪い男……』
その言葉が男の脳裏に鳴り響いた。認めたくないが、ここまで来ると、認めざるを得ない事実であることは
明白だった。目覚めてからの出来事が走馬灯のように男の脳裏に蘇った。しかしとのとき男は突然、意味不明なまでのプラス思考に転じていた。
『おかげで、こうして清潔なベッド眠ることができるし、かわいい看護師に会えた。通常なら、いまごろ上司に叱られているか、客先で頭を下げているところだ。同僚には悪いが、これから夜までゆっくりと休ませてもらう』
男はようやく眠る体制に入った。病室の外の物音にもすっかりなれたようだった。

〈コンコン〉
だれかがドアをノックした。すっかり眠るつもりでいた男は、安眠を妨害されたことに強い不満を感じながら、ドアを振り返った。ドアを開けて入ってきたのは、自分と同年輩か、少し上くらいの男性だった。男はその顔にうっすらと見覚えがあるように感じた。しかし、だれなのかはっきりとは思い出せないでいた。

「どんな具合ですか?」
男に問う来訪者のその無機質な表情を眺めながら、男は、安眠どころではない事態がやってきたような予感を感じていた。そして勘の悪い男のその予感は……。

                     〈つづく〉

(十二)看護師への思い

「どんな具合ですか?」
そう言った来訪者の目は冷ややかで、表情も動きも極めて無機質な感じだった。
「えっ、と……」
男は素性のわからぬ来訪者にとまどっていた。男のその様子に気づいた来訪者は、口の端に、わずかに嘲笑にも似た歪みを見せながら言った。
「総務の小田ですが。状況を確認に来ました。具合はいかがですか?」
「あ……」
男は焦った。小田といえば、自分よりも3期上で、平の自分とは違って出世の波に乗った総務部の次長だった。いくら部署や年齢が違うからといって、総務部次長を覚えていないというのはまずかった。

「え、ああ、少し落ち着きました」
男は緊張によどむ言葉に、さらに焦りを募らせた。
「どんな事故だったんですか?」
「人身事故でした。踏切で……」
そこまで言うと、男の脳裏に血まみれの青白い遺体の残像が蘇った。それは、それを見た瞬間より生々しく、その物体から抜けた魂が、いまここにいるかのようなおぞましい感覚を男に与えた。それは、男にとって予想外の現象だった。課長との会話、救急隊員とのやりとり、医師の問診、看護師との談話……、その中では遺体の残像は蘇らなかった。男は気分が悪くなり、嗚咽を漏らした。
「おぉ……」
すると小田が男に近づいて言った。
「大丈夫ですか? 看護婦さんを呼びましょうか?」
男は、気分が悪くなると同時に動悸が激しくなったのを感じた。しかし、さっき来た看護師の蔑むような目を思い出してさらに不安定になった。
「い、いえ……何とかなりそうです」

小田と名乗る男は、コートの内側から手帳を取り出し、小刻みに指先を動かして何かを書き入れている。男の心の中に疑念が芽生えた。
『遅刻や入院の理由を明確にするための確認なのか、後で整合性をチェックするための情報収集なのか……。いや、小田が感じた自分に対する疑問や批判を克明にメモっているのかもしれない……』
男は急速に疑念の蟻地獄に落ちていくのを感じた。青くなった男の顔を見て、小田が言った。
「看護婦を呼びましょう。真っ青ですよ」
小田は病室を出て、看護師を呼んでいる。間もなく、さっきとは違う年配の看護師が病室に入ってきた。
「どうされました?」
男は、言葉に詰まった。自分で自分の状態を把握できずにいたのだ。年配の看護師は素早く腕帯をはめ、
〈シュポシュポシュポ〉
空気を入れ始めた。
男の脳裏には、フラッシュバックのように青白い礫死体が何度も浮かんでいた。
「異常に血圧が高いですね。脈拍数も上がっています。そうなるような何かがありましたか?」
看護師が小田に聞いている。
「いえ。具合を尋ねただけです」
小田は極めて冷静な声で答えている。男は断末魔のような苦しい声を上げた。
「うぉぉぉぉ」
「どうされました? 苦しいですか?」
「き、気持ちが悪い……」
「大丈夫ですよ。降圧剤が必要なほど血圧が高いわけではないし、心拍数も大したことはありません。不安になる必要はありませんよ」
そう言われて男は我に返った。記憶が蘇っただけのことだった。何ら怖がることも、忌むこともない。ただ単に目にした光景に過ぎない。しかし、小田の無機質な中に浮かべられた男を嘲るような表情は、男にとっては言いようのないほどの不安感を与えた。その不安が、男に意外な言葉を吐かせた。
「やはり、どこかに異常があるのかもしれません。先生に、再検査をお願いしてください」
そう言えば、とりあえず状況を理解し、小田が社に戻ってくれるような気がしたのだ。

「先生に相談します」
年配の看護師がそう言った刹那、男はあることに思い至った。
「さっき来てくれたナースはいますか?」
あの、若くてかわいい看護師にこの状況を見てもらいたかった。疑いの眼差しを向けたあの看護師に自分の異常を主張したかったのだ。
「だれか来ましたか?」
「え、ええ。体温と血圧を測ってくれた、若くてかわいい看護師さんです」
「え……、体温と血圧を? ……だれかしら」
年配の看護師は怪訝な表情を浮かべた。男は急速に不安になった。看護師のことではなく、小田の心証が悪くなることにだった。

男はちらりと小田を見た。小田の懐疑的な視線が男に注がれているのを確認し、男はさらに不安になった。しかし、放ってしまった言葉は、男をある意味窮地に追いやることになる。もっともこのとき、男にそのことを理解できる勘はなかった。

                   〈つづく〉


(十三)思わぬ助っ人

小田の怪訝な表情に不安を感じながら、男はさらに泥沼にはまり込むような言葉を発してしまった。
「だれも、私の言うことを信じてくれない。けがのことも、気分が悪いことも、看護婦のことも! いいよ、そうだよ、私は嘘を言っているんだ! けがもしていないし、気分が悪いのも嘘だ。血圧や体温を計ってくれた看護婦も私の妄想だよ!」

言ってしまった後、自分の言葉が部屋中に反響するのを感じて背筋に悪寒が走り、同時にいいようのない虚脱感が男を包んだ。体がペチャンコになって、薄いマットレスに沈んでいくような、どうしようもない感覚だった。

〈トントン〉
そのとき、あの駅員が病室に入ってきた。駅員は、小田が来てからの騒動は全く知らないようだった。
「いかがですか? お加減は」
言った後で、室内の異様な雰囲気に気づいて
「どうかなさいましたか?」
看護師に向かって言った。
「あ、いえ……、患者さんの血圧と心拍数が急に上がったようで……」
駅員の顔が曇った。男の申告を全く信じていなかった駅員にとっては、急変した状況が不審であり、不服
だった。
「そうですか……。で、原因は?」
「それが……、よくわからないんです」
看護師はそう答えると、男に向かって言った。
「もう一度計ってみましょうね。少し落ち着いたかもしれませんものね」
丁寧に言い、男の腕に血圧計の腕帯を男の腕にはめた。
男はぐったりしていた。抗うことも、看護師の作業に協力することもなく、ただ虚ろな目を天井に向けていた。

「あら、今度は低いわ。ちょっと低過ぎるようです」
看護師は男に向かって言った。
「いつも血圧は低い方ですか?」
男はその声に答えることなくぐったりしていた。
「少々お待ちください。先生に相談してみます。大丈夫だと思いますが、念のため」

看護師は部屋を出た。所在なげにしている小田に、駅員がすかさず声をかけた。
「会社の方ですね。ご連絡させていただいた京神電鉄の者です」
「あ、どうも。ご面倒をおかけしています」
小田は、言った後に自分の言い回しがおかしいことに気づいた。本来なら、被害者側の人間であるのに、詫びてしまったのだ。それはとりもなおさず男が嘘をついていると思っていることを示唆していた。
「いえいえ、こちらがご迷惑をおかけしたのです」
駅員は大袈裟とも思えるほどのリアクションで言葉を返した。
「何事もなければよいのですが、病院側もしばらく様子を見ようと言っていますので、夜までここにいていただこうと思っております。よければ、我々に任せていただければと……」
その言葉に、小田は安堵したような表情を浮かべ
「そうですか、わかりました。ではお任せしますので、よろしくお願いします。何かありましたら、ご連絡下さい」
小田は手帳を見直して少し何かを書き足し、紐を挟んで閉じてコートの内ポケットにしまった。

小田は一礼して病室を出た。駅員は男の方に向き直って言った。

「いかがですか? これで夜までゆっくりしていただけます。安心してください」

駅員の言葉に男は我に返った。急に安堵する自分を感じた。男は駅員の顔を見た。自分を嘘つきだと思っていたはずの、敵のような存在だった駅員が急速に身近な存在になっていた。
「あ、済みません……」

〈トントン〉
医者が入ってきた。駅員と医者の視線が合った。それを見た男は、二人が目配せしたように思った。再び疑念がひたひたと満ちてきた。医者の質問にどう答えたらいいのかと、悩んだ。医者がまだ質問していないのに、不毛な悩みだと思いながら、失敗の連続だったこれまでを思い、激しく緊張した。

「どうなさいました? 血圧と心拍数が不安定なようですね。ちょっと胸を開けていただけますか?」

医者の言葉に従って胸を開けようとしたとき、開いた扉の向こうを通り過ぎたあの看護師が見えた。

「あっ!」
男は大きな声を上げた。
「あの人です!」
「どうなさいました? あの人って、だれのことですか?」
「看護婦さんです! 血圧と体温を測ってくれた…」

そう言った後、男は、あの看護師が見つかったことで自分の立場が好転するのか、メリットがあるのかよくわからずに不安になった。

男の不安どおり、看護師の発見によって、事態は思わぬ方向へと向かうことになる。

                      〈つづく〉


(十四)幻の看護師

体温と血圧を計ってくれた看護師の存在は、男にとって正と出るか負と出るか皆目わからなかったが、男が言ってしまった、自分の嘘を暴露するかのような自らの言葉の濃度を薄めるためには、有効に機能するかと
思われた。

「どこにもいませんが、どんな看護師ですか?」
男の言葉を受けて廊下に出た年配の看護師が戻ってきて言った。男は焦った。場の空気を変えたいがために、またしても自分が嘘を発したと思われたくなかった。
「ついさっき、この前を通ったんだ」
男は思わず立ち上がり、廊下に出て、例の看護師が向かった方向に歩き出した。

隣接したナースセンターにその姿を探したが、あの看護師の姿はなかった。エレベーターホールまで出たが、途中の病室にも、トイレにもいなかった。

そのとき男は思った。
「このまま家に帰りたい。これ以上ここにいると、どんどん悪い状況になりそうだ。どうしたらいいんだ」
しかし、検査着を着用し、裸足にスリッパという格好で、病院を出られるわけはなかった。

「いましたか?」
背後から声をかけられて、男の胸は脈打った。駅員だった。
「せっかくですから、夜までしばらくお休みください」
駅員は、にこやかな顔で男を見詰めている。
「あ、そ、そうですね」
駅員に伴われて、男はすごすごと病室に戻った。そこには、医師も看護師もいなかった。
「異常があったら呼ぶからと、医師も看護師も引き取ってもらいました」
駅員の配慮に感謝しつつ、《もしかしたら、医者や看護婦に、『虚言だから、相手にしないように』と言ったのではないか。医者や看護婦も駅員と同じように自分の言っていることが虚言だと思ったのではないか》と推測して、気持ちが重くなった。

「7時前にお声をかけます。おやすみなさい」
ドアを開けながら駅員がそう言い、退室した。

男は目を閉じた。目覚ましが鳴ってからいままでのことを思い返した。
「運が悪い。なぜ、どんどん悪い状況になるんだ…」
眠ることができず、寝返りを打った。窓から見えるのは、どんより曇った空だけだった。
「部長へのプレゼン……」
ため息をついた。
「課長への報告……」
枕に突っ伏した。
「お医者様も救急隊員も、あなたの言ったことを信じるわけがありません」
その声に、男はびっくりして振り返った。男は部屋を見回した。いた。部屋の隅にあの看護師がいた。男の方を見てほくそ笑んでいる。
「何を笑っているんだ!」
男は大きな声を出した。
「どうして私の言うことをだれも信じないんだ!」
男の言葉に全く反応することはなく、看護師は口の端に嘲笑を浮かべて男を見ている。
「言ってくれ! 理由を言ってくれ!」

「間もなく7時です。お帰りになれますか?」
慇懃なその言葉で男は我に返った。目を開けると、駅員の顔が見えた。
「え……」
「よくお休みになっていました。お加減はいかがですか?」
「あ……」
《夢……だったのか……》
男はようやく状況を認識できた。
「お帰りになりますか? それとも……」
「帰ります」
「首や気分はいかがですか?」
男は、どう答えたらいいか迷った。“芳しくないが様子を
見る”“すっかりよくなった”“よくないが、仕事が優先”
“わからない”……どれにしようかと迷った。
「どうでもいい、帰りたい」
言ってから、《しまった》と思った。これまでの努力をフイにするような自分の言葉に萎えた。

「では、ご自宅までお送りしましょう」
医師の診察もなく、血圧や体温を計ってもらうでもなく、病院を出ることになった男だったが、もはやその矛盾に気づくこともなく、力なく服を着替えて病院を出た。

駅員がナースセンターで看護師に挨拶をしているとき、男がふと見た先に、あの看護師を見つけて息を飲んだ。
《夢じゃなかったのか……》
しかし次の瞬間、それが似て非なる別人だと気づいた。ナースのユニフォームではなく、普通のワンピースだし、ナースシューズでもない。
《この人を見間違ったのか》
どこか腑に落ちないものを感じながらも、面倒なことや深い思考が嫌いな男は、自分を無理やり納得させた。

病院のエントランスに出た駅員は、駐車場に合図した。それに呼応してヘッドライトが点灯し、1台の車が動き出した。

男にとってその車は、安堵の世界へ運んでくれるものであるはずだった。少なくともそのときは。
しかし間もなく、それが覆ることになる……。

                    〈つづく〉


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