ペトラプト・パルテプト

Tomoest





「ビール! ビール!」

玄関のドアを開けるなり理紗は言い放った。全く遠慮なしのところが理紗らしい。
コンビニ袋を両手に持ち、軽やかなステップで廊下を進んでゆく。

いつものことだとは言え、私はとりあえず苦い顔でもしてみる。
部屋の鍵をスカートのポケットにしまい、ドアポケットに入っていた電気だか水道だかわからない明細書を拾い上げて、
今月は節約できなかったよねーと後悔しながらドアを閉めて施錠した。

台所の方で冷蔵庫のバタンとしまる音と共にプシューと缶の開く音が聞こえる。
全く手の早いことだわ。

脱ぎ散らされた理紗のパンプスが彼女の性格を物語るようにあっちの方に飛んでいる。

「一応、女の子なんだからさぁ…。」

ブツブツ言っても仕方ないんだけど、言わずにいれない性格なのかなぁ私って。

いったいいつからだろう? 


綺麗にそろえて置いて、クスっと笑った。




「もう理紗ったら、ずるい! 抜け駆け!」

私もヒールを脱いで、廊下を進む。
閉め切ったダイニングは行き場のない熱気で満たされていた。
こういう時ってさ、まず窓をあけないもんかしら? さすがの私でもそうするけどね。
とりあえず鞄とさっき買い物したコンビニ袋を床に置き、窓を開け放った。

まだこの季節は夕暮れ時の風が涼しげだ。オレンジ色の光と共に爽やかな風が部屋に入ってくる。
はやる気持ちを抑えて、理沙にジロりと殺気のこもった視線を浴びせながら、ベランダの扉も開ける。
これでかなり風通しもよくなるはず。
一人暮らしにはかなり贅沢なマンションだけど、家賃相応の値打ちはあるのよね。
夜になると絶妙な風が部屋に入り込んでかなり気持ちいい。
まぁそれも7月いっぱいだけどね。
8月になると大阪独特のねっとりした空気で冷房無しじゃいられなくなるから。

「さあ巴、乾杯しよ!乾杯!」
「いや、その前に理紗の目の前の空き缶は何?」
「そんな細かいこと気にせんとき。ほら早よう!」






普通、乾杯っていったらまず最初の一杯目のこというんじゃなかったのかしら?
と不服そうに少し顔をゆがめてみた。
憎らしげにテーブルの上の空き缶を見つめる。

そんなことはお構いなしとばかり、理紗は冷蔵庫から鼻歌交じりに缶ビールを2本取り出した。
「もう喉渇いてしゃあないわ。まっこれやから夏はビールが美味いってね!」





「じゃあ、駆けつけ1杯ね!」
そう言って理紗の手から缶ビールを2本とももぎとり、そのうち1本を一気に飲み干す。

喉を駆け抜ける炭酸の刺激と舌を包むホップの苦味が心地好い。
空腹に不満げな胃袋が歓喜の叫びを上げそうだ。
大人になって初めて理解した。夏に一番合う飲み物。
理紗の言うことを一々認めるのもなんだけど、こればかり認めないほうが無理ってもんだわ。


瞬く間に空き缶に変わったものを軽く握りつぶしてこう言った。
「乾杯! これでおあいこなんだからね。」

理紗も飲み干したばかりのテーブルの上の空き缶を持って、渋々付き合う。
「はいはい乾杯…。」

つぶれた缶同士が鈍い音を立ててぶつかる。

私たち二人はいつもこうだ。
まず一杯目を先に飲み干してから空のジョッキで乾杯をする。
今回は缶ビールだから飲み干した空き缶で。
こぼれなくてもいいという理由もあるんだけど、それよりどちらが先に飲むのか勝負って理由もあったりする。
だから抜け駆けは少し許せないなぁと思った。
居酒屋ならともかく、だってここ私ん家だもの。ずるいよね。

「理紗、せっかくだから駆けつけ3杯しない?」








「ふ~ん、駆けつけ3杯!? その2リットル樽で?」

理紗は私の足元のコンビニ袋を指して言った。

「ええっ!! ええっ!! これで? えーっとさすがの私にもこれは…。」
いったい何考えているんだろ。理紗ったら暑さのせいでおかしくなった?

「あ~、巴。そこノリツッコミするとこやでぇ。
ほんま、わかってないなぁ。こう言われたらとりあえず栓抜いて飲むまねでもせーなぁ。」

「あっそうか。」
やっぱりこういう関西人のテンポには馴染めない。油断しているとすぐこれだ。
っていうか、ここボケるとこなの? 

気が動転して言われるまま、2リットルのビールの樽缶をあける。

「ちゃうちゃう、こういう時はお互いの前に3本置くねん。」
すかさず理紗の鋭いツッコミが入る。

「でも理紗。3本置いたらって言っても全部で4本しか買ってないよ。私はこの2倍ぐらいでも持てないこともないけど、
理紗が普通の女の子はこんなに持ち歩かないって言うから…。」

片方のコンビニ袋に2リットルのビール樽缶が2つとおつまみ少々。ってことは5キロ弱くらいかな。倍にしても10キロぐらい。

それが両手で20キロ。
それぐらいなら私にとって何でもない重さだけどね。
腕力だけは剣道をやってたおかげでかなり自身があったりする私。

今日だってコンビニの店員さんが心配そうに何度も大丈夫ですかとかお持ちしましょうかとか声をかけてくれたけど、
正直あんまり心配そうな顔されるほうが恥ずかしかったりするんだわ。

「だ・か・ら、ここでボケるんやんか! あ~ん、もうウチは情けないでぇ。こんな女に育てた覚えはない。」

片手で顔面を押さえていかにも…って顔をされた。

「育てられた覚えはないけど…。」
どうせ私はお笑いの才能はないですよーだ。

「しゃーない。ウチが見本見せたる。駆けつけ3杯って言われたら、よっしゃー駆けつけ3杯やなぁ。
じゃあこれを3本ずつ用意してっと、1・2・3とアレ?4本しかないなぁ。
ほな、このしょうゆの瓶とサラダオイルで勘弁してもらおうか~って飲めるか~!」

「ハハハ…。」
思わず笑ってしまった。

「もう!なんかすべった感じぃ。巴のせいやな。もっとドッカンドッカン笑うとこやのに。もうええから早く! おつまみぃ!」

本当、理紗ったら勝手なんだから。
ぬるくなると困るのでテーブルの上のビール樽缶を冷蔵庫にしまう。
それにしても…、冷蔵庫に大小さまざまなビールが並ぶ独身女っていかがなもんでしょ?
以前にビール専用って理紗に張り紙されたけど、あながち間違いでもないのよね。
冷え切った缶ビールをもう1本取り出して(これは私のだ)、肩身の狭そうな豆腐に視線を向ける。

「はいはい、おつまみだよね。とりあえず冷奴でいい?」

昨日買ったから賞味期限には程遠い。ただし木綿豆腐…。
まぁいっか。ばれないように盛り付ければ大丈夫よね。
ちらっと理紗の方を見るとさっき私が取り上げたはずのビールの蓋を開けている。
テーブルに置いたのをすかさず取ったのだろう。

「くぅー!! この1杯のために生きてるんやなぁって感じやな。巴、漬け物とかない?」

この人は時々本当に同じ女なのかと思うときがある。今がその時なんだわ。

「さっき買い物した中に白菜の浅漬けがあるけど。冷蔵庫にキムチが残ってたかな?」

この前、家で豚キムチしたのいつだっけ? 最近よね。あれ!? 食べちゃったかな?

「なかったら鶴橋行ってキムチ買ってきてなぁ。」

あのねー! ここから地下鉄に乗って30分以上かけてキムチを買いに行けるわけないでしょ!
と思ったけど声に出さないでおくことにした。いけない、つい真面目に相手してしまう。
負けてばかりいるもんですか。ここでのせられると面倒だわ。

「それ無理! っていうか理紗も手伝ってよ!」

「手伝いたいのはやまやまなんやけど、どうしてもこのビールが飲んで欲しいって言うてるから。
 ちょっと待ってぇな。
 それにテーブルの上の雛ちゃんかて、相手して欲しそうやんか。」

その雛苺は喋んないんだけどね…。
仕方ない…。恨めしそうに理紗を見て溜息ひとつ。

でも今がチャンスかも!
すばやく一口サイズに豆腐を切って皿に盛りつける。この大きさならばれないでしょ。
そうだレタスなんかも一緒に盛り付けてお豆腐サラダにしてしまうっていうのはどう?
我ながらいいアイデアだわ。
野菜室からレタス、レタス…と、無い…。あっちのコンビニ袋だったかな?
うーん、やっぱり止めよう。私だってまだ1杯しか飲んでないんだからね。
手のこんだものは後にしたほうがいいか。とりあえずシンプル冷奴よね。
おっと、おろししょうがのチューブも出さなきゃね。

「はい、シンプル冷奴。お待ちどうさま。」
皿にお豆腐を盛りつけただけなんだけど涼しげでいいかもしれない。
これも立派なお料理だ。


「ありがとう巴。でもネギは? かつお節は?」
理紗はそう言ってテーブルの上のしょうゆさしを持ち、さーっとまわしかけた。

「もう! 贅沢言わないで! だからシンプル冷奴だって。理紗、これでも美味しいよ!」
そう言って箸を渡す。

「わかった。贅沢言わへんけど、巴の趣味には文句言うでぇ。」

いつも感心させられることだけど理沙はかなり箸の使い方がうまい。
何の苦も無く軽くお豆腐を箸でつかんで自分の取り皿に運んだ。
親の躾の賜物だと言っていたけど、箸使いが綺麗な女性って素敵よね。
私も見習わなくっちゃね。
でも趣味ってどういう意味?

「何? 趣味がどうかしたの?」

「冷奴に木綿豆腐はどうかと思うんやけど。」

「ばれた!?」

「見たらすぐわかるって! ほんましゃーないな。そんなことやってたら嫁の貰い手ないでぇ。
 もう私がやったるから、あんたは飲んどき。」

理紗は残りのビールを飲み干して立ち上がった。






「はぁい…。」
いかにも渋々と椅子に腰掛けて、小声で雛苺の人形につぶやく。

「理紗ったら、すぐ邪魔者扱いなんだから…。」

蓋が空いてない缶ビールを見つめながら、どうせ私はお料理苦手だからいいじゃないのと声を出さずにいた。
こんなこと迂闊に声を出してしまったら地獄の猛特訓だ。

今日は勘弁して欲しい。せっかくの週末なんだから家で心行くまでのんびりと楽しみたい。
2本目を飲み終える頃には缶ビールの味に飽きてきた。
でも樽缶のほうがおいしいとだれかに言われたような気がする。
そう考えただけで心が踊ってしまうのはなぜかしら?

理紗はすごいペースで料理を作ってはテーブルのうえに並べていった。

さすが理紗!!



「しまったなぁ。」
大盛の野菜サラダを置いて理紗がつぶやく。
盛り付け方が一つの芸術作品みたいに優雅で色彩が見事なまでに調和している。
たいした材料でもないはずなんだけど、やっぱり料理って魔法だと思う。

「何が? 何か失敗しちゃったの?」
私は自作のシンプル冷奴が他の料理に辱めを受けているような気がしたのでさっきから優先的に箸を進めている。
心の中で何度もあなたは負けてないからね、ごめんねと陳謝して口に入れる。
いいんだ。木綿でもりっぱなお豆腐なんだから。
私はゆるい絹こしなんかよりずっとあなたの方がしっかりした大豆の味がしていて好きなの。
ううん、理紗の前であなたをこんな姿に変えた私が悪いの。あなたは悪くないわ。
だから私が責任持って最後までつきあうからね。

「今さら言うことちゃうけど、キムチ鍋食べたくなったなぁーと思て。
 ほら、暑いやんか。暑いときは辛いもん食べたら美味しいやん。
 さっきなキムチの話出た時に心ん中にチクってきてん。」

「じゃあ、この次はキムチ鍋にしよっか? 美味しい豚肉取り寄せておくね。」
なんて無責任なことを言ってるのだろう。我ながら感心するわ。
でも当てはあるんだからあながち嘘とも言い切れないんだけどね。
よし! 最後の一口だ。

「巴…。」

「何?」
私は顔を上げた。

「ようがんばったなー。」

「何が?」
こういう時に頑張ったと言う表現はどうかと思うんだけどね。
まぁそれが関西弁独特の言い回しなんでしょうけど。

「それ…。」

「ああ、これ? 理紗も欲しかった?」
すっかり綺麗になった私の料理を指差す。

「うーん。それはちょっと微妙やけど。残しといてくれてもよかったんちゃう。」
もしかして理紗怒ってる? 

「えへへ、ごめんね。でも理紗が趣味がどうとか言ってたじゃない。」
ちょっと苦笑い。
実際、お豆腐は大好きだからなんだかんだ言っても一人で独占したかったりして…。

「まぁ、ええけどな。ええけど…、巴かて人のこと言えんくらいずるいやんか。」
なんだか険悪…。
いや、そうじゃない。危うく騙されるとこだったわ。
この調子ならきっとこう言うべきなんでしょうね。ひっかかるもんですか。

「お互い様ということよね。」
なぜだか二人揃って大声で笑った。オチがドンピシャなんだわ、きっと。

ひとしきり笑った後、理紗の手料理を食べる。
出し巻き卵の味に感心しつつも、枝豆の包みあげに目を奪われ、想いは水なすの漬け物に向かっていたりする。
家庭でこんな上手に居酒屋メニューが作れるなんていったい誰が想像するだろう。

ふとさっきの話を思う。
この関西人の話の間合いに少しは上達しているのかな、私って。
もしかして染まってきてるの?
うーん、喜ぶべきなんだろうか。
私にとってフランス語よりもやっぱり関西弁は難しいなぁ。
テンポとかボケることとか突っ込むところとか…。
なにも理紗が特別ってことじゃない。周りのみんながそうなんだ。
でも…楽しい。
理紗と出会えて本当によかったと心から思う。
同じ関西のはずなのに大学時代はこういう友達がいなかったしね。

「なにニヤついてんの?」
理紗がビールの樽缶から私のグラスに注ぎながら言った。





「ん!? 別に…。」
顔に出てた? そりゃこんなに美味しいんだもん。頬だって緩むわよ。
でもわざとしらばっくれてみる。

「ふーん。やな感じぃ。まあ味わって食べや。今日は特別やからな。」

「特別? どうして? 確かに理紗がさ、いつもの居酒屋じゃなくて私の部屋で飲みたいなんて久しぶりだけど、何かあったの?」
そう言えば今日の理紗はいつもに増して上機嫌のような気がする。
いつものハイテンションにレベルが3つくらい上がった感じだ。スーパー理紗?

「へへへ、当ててみい。」
理紗は悪戯っぽく笑った。どこから来るのかわからない自信をもっているみたいだ。

「なんだろ? うーん…ボーナス貰ったから?」
割とポピュラーな線で言ってみた。単純だけどわかりやすい。
私も小躍りしたくなるくらい嬉しかったしね。

「ちゃう! 単純やなー。」
即答、しかもハズレか…。

「あっ、彼氏ができたから!」
まさかね!?

「ちゃうちゃう! って、ほっといてや。ええねんまだ彼氏なんていらん。」

そっかー、じゃあもっと複雑な事情かな?

「ごめんなさい。想像つかない。あっもしかしてアレ?」
そう言って、私には何も根拠は無い。
ただここでボケる必然性を感じたのは確かだ。

「アレって何? まだ巴もウチもアレとかコレで話する年とちゃうでー。」

よし!ここだわ。このタイミングで言えばいいんだわ。

「そっかー。『ちゃう』んだ。私、ちゃうちゃうかと思ったー。」

「ちゃうちゃう、あれちゃうちゃうちゃうで、ちゃうちゃうやけどちゃうちゃうちゃう!
 って何言わせんねん。ここはボケらんでええの!」

私、この『チャウチャウ』ネタが好きなんだけどなー。
まぁ理紗は否定しながらもキチンと突っ込むのがすごいよね。
あーそうか。これがノリツッコミ? 私も少しはボケられるようになったかも!?

と喜んでいる場合でもないんだわ。ええっと、何かあったかな? うーん…。あっ!!

「あっそうだ! おめでとう!」

「巴、今度はハッピーバースデイなんていうボケは無しやで。」
先制攻撃をくらった気分。でも私、この前、総務部の人事異動が書かれた掲示板を見た記憶がある。

「違うよー。ちゃんと思い出したんだから。あれだよね。理紗、昇進したんだ。総務部管理課主任だよね。すごいじゃない。」

「まぁ、巴の課長代理に比べたら、ウチなんてまだまだ下っぱやけどな。」

「そんなことないよ。山田課長だってすごく褒めてたよ。『さすが理紗ちゃん。転んでもただでは起きひん。』って言ってたもの。」




「転んでも…って、ひどい言われようやなぁ。
 それに『転んで』ないんやけどなぁ。ウチとしても総務部の仕事はある意味、天職やと思てるし。
 うん、確かにEC専でおったころは面白かったけど、そこと比べたら総務は堅物ぞろいのわりに役者は揃ってると思うで。」

理紗は鳥の空揚げをほおばりながら話す。

「そろってるって?」

「んーっ、こればっかりはさすがのウチも表現に困るなぁ。バラエティに富み過ぎや。
 それだけ部署が細かいっていうのもあるんやろうけど。」

「そっかー。それで理紗がなった管理課主任って、どういう仕事なの?」

理紗のグラスが空いたのですかさずビールを注ぐ。

「雑用…の元締めみたいなのんかな。何でも屋の監督って言った方が早いかも。」

ついでに自分のグラスにもビールを注ぎ足す。
あっいけない。あふれてこぼした…。

「じゃあ私とそんなに変わらないような気がするんだけど。私だって海外三課の雑用係みたいなものだから。」

そう言いながら台拭きでこぼれたビールを拭く。
私の仕事って、この台拭きみたいなもんよね。しかもみんなこぼしっぱなし…。

「えーっ! 全然ちゃうよー! 巴は実質課長やんかー。どこの世界に重役会議に出席する雑用係がおるねん。
 今のEC専は巴でもってるってアジア屋(海外一課)の課長が言ってたでぇ。」

アジア屋の…あの課長!? 確かに言いそうだ。 

お行儀悪いけどグラスをテーブルに置いたままで口をつけてビールをすする。
こぼれるともったいないしねーっと自分に言い訳しておこう。

「またー。そんなお世辞言われてねー。
 会議だって山田課長が出張だから仕方がないっていうか、その代役で顔出してるみたいなもので…。」

そう言いかけて理紗にふさがれた。

「またまたご謙遜をやなぁ。
 海外事業部長が巴ファンやから後ろから手を回してるって噂があるけど、それは理由にならんし、
 そんなに甘ない会社ってことは総務でおってようわかるわ。」

「うへー、私、海外事業部長が苦手なの。」

神経質そうな黒縁眼鏡を思いだした。
会議では部長によく責められるのであまり良いイメージがない。
そして今日の午前中の会議でも、イヤミを言われたばかりなので。

「そりゃそうやなぁ。社内でも得意な人はおらんわなぁ。」

「うん。そんなことより、理紗の話よ。ボーナスが増えたんじゃない?」

強制的に話題転換だ。これ以上部長の話が続くと飲む気が失せそうになる。





「増えへん。そこは上手いことなっててな、ボーナスを貰ってから昇進やねん。
 せやから、ボーナスは去年とそんなに変わらへんわ。って言うよりむしろ下がってるかもしれへんな。
 7桁への道は険しいなぁホンマ。」

その言葉とは裏腹にまんざらでもない顔をして理紗はグラスを空けた。
その目が探るように私を見つめる。
私にもっと注げってこと?

あっ、マズイ!! そっちの話はリアルに傷つけるかも…。
よくよく考えてお給料とかボーナスの話ってなんか自慢話にとられちゃうみたいで嫌なんだわ。
ここはやっぱり誤魔化すべきか…。

「ちょっと残念よねー。せっかく評価が上がったって認められるのに…。でもいいじゃない。冬のボーナスはドーンとくるわよ。」

理紗のグラスに注ぎながらひんやりとした汗が背中を伝う感触がする。
しかも途中で樽缶が空になった。ヤバイ! ピンチ!

「あっ、2本目終了~っと。次、出さなきゃ。」
そう言って冷蔵庫へ向かうべく立ち上がる。

「3本目~♪ 3本目~♪ 」

わざと即興の歌を歌いながら少し苦笑い…。

「巴ちゃ~ん。ウチにもっと言うことあるやろ。」

冷蔵庫の扉を開けながらギクッと立ち止まる。

「えーっと、なんだっけ?」

冷えたビールの樽缶を取り出して、なるべくやさしくスマイル。
もうこれ以上無いってくらいに平和な微笑で理紗に振り返る。

私は本当に平和主義者なのですよ。争うことは望みません。
世界が平和になることだけが私の望みです。
何にもねたましいことは無いから、お願い、私を信じて!
そういうことを笑顔に強く念じた。
テレパシーでもなんでもいいから伝わってお願い!

「高給取りは余裕の表情ですなー。」

「うっ…、そ、そんなことないよ。私だって理紗とそんなにかわんないし。それに私のほうが3年後輩なんだから。ここは先輩のおごりで…。」

再びビールを注ぐ。まるでパリの三ツ星レストランのソムリエのような優雅な仕草で。

「もう、しゃーないなぁ。いつまでも先輩にたかってたらあかんで。
 あんたかて後輩が出来てるんやし、下っ端の修行僧は早よ卒業せーななぁ。
 今日は私がおごったるさかい、ほら、伝票貸して。えーっと何々…18万円!!
 なんやめっちゃ高いやんか! ぼったくりちゃうかこの店は!
 私のボーナス、一瞬でぶっ飛ぶやんか~! これから先、どうやって生活していけっちゅうねん。
 おいっ! 店長呼んで来い! あんたじゃ話にならん! 
 …って長いんじゃー! 巴、止めてくれへんかったらいつまでも終わらんやんか。」

笑いつつも感心してしまった。すごいノリツッコミだ。

「だって、どこで止めればいいか、わかんないし。」
ちょっと口を尖らせてブツブツ言った。どこまでボケていられるか、正直見たかったんだわ。

「そういう時は難しいこと考えらんとぶつけてみるこっちゃ。」

「だってー…。」

ぐいっとグラスの中のビールを飲み干す。さすがに家だと飲むペースが速い。
こうなるとビールが水以上に飲みやすいかもしれないってぐらい消費している。
でも…、そんなことを気にしなくていいのも家で飲むのに良い理由なんだよね。

「ウチ知ってんねんで。だてに総務部なんかにおれへんし。それに巴の去年の冬のボーナス考えたら、ウチの何倍もろてることやら。」

理紗はチッチッチッと人差し指を立てて小刻みに振る。
やっぱりその話に向かうのね。私ったら本当に話の方向音痴なんだから。

「あーひどい! 職権乱用!」

「ホンマのこと言うてみ? 怒れへんから。」

理紗が私のグラスに注ぎながら、自白を促す刑事のような顔で言った。

「えーっと…。コンマが二つついていました…。その…2ヶ月分とちょっととかで…。」

一瞬だけ理紗の手が止まったような気がした。またコポコポと注ぐ。

「ふーん。決まりやなぁ。これで今年の夏は毎日ビアガーデンに通えるなぁ。うん、ウチはええ親友を持ったなぁ。」

理沙はニンマリと笑顔でそう言った。私には良くない笑顔だ。

「ちょっと待ってよー。いくらなんでも毎日ってのはひどいよー。」

「そう? じゃあ新地で豪遊する? ええ店知ってんで~♪
 いやそれよりホームグランドを完全制覇のほうがええかなぁ。
 道頓堀を端から順番にはしごしていくのんって魅力的だと思わへん?
 あかん、それでもおつりがくるわ。」

「おつりって、それ私のボーナスだし…。じゃなくて駄目なの!
 もう使い道は決めているんだから! 」

「使い道って、また旅行とか買い物やろ。」

ばれたか。って別にいいじゃない。私のお金なんだからさ。





「まぁ、そうなんだけどね…。」

ゴクゴクとグラスを飲み干して溜息をついた。
確かに今の自分はお金には不自由していない。
キチンとお仕事頑張っているわけだし、生活も人並みより質素な方だ。
お給料の半分近くを実家に仕送りしても、全然余る方だから少しぐらいの贅沢なんてしてもどうってことも無いのが事実だ。

「巴はブランド物とか信じられへんくらいに興味ないもんなぁ。」

「確かに…。」

アクセサリーを身につけるのってあまり好きじゃないし、バッグとかも就職祝いで貰った物をいまだに使い続けてる。服もほとんど通販だしね。

「オシャレどころか化粧もろくにせーへんし。」

「確かに…。」

最低限はがんばってるつもりなんだけどな。
自分に自信がないっていうか、元がこんなのだからお化粧したって綺麗になんてなれないって思う。
それに私は強くなりたかっただけだから。
女としては駄目なのかもしれないけど…。

「趣味って言ったって、読書だけやろ。それも訳のわからん錬金術とか胡散臭い魔法の本とかの。」

「ちょっと誤解があるみたいなんだけど、確かに…。」

本に埋もれて生きる生活は好きでやってるの。
それに中世の古い本がすべて錬金術とか魔法の本ってわけじゃないんだけどなぁ。
実用的でないことは確かだけどね。

うっ…、なんかへこんできた。理紗の心理攻撃なんだわ。

「何よりも貢げるような彼氏がいてへん!」

「うっ、痛いところを…。って大きなお世話よ!」

どうせ私はもてないんです! 理紗も人のこと言えないじゃない!
こんなことに負けちゃいられないんだから。


「というわけで…。」

「駄目! 反対! 却下します!」

「まだ何も言うてないやんか。」

「理紗、友達として忠告するけど飲み過ぎは本当に身体に良くないんだからね!」

「巴が言うともんのすごく説得力無い。しかもこんなに飲んでて…。」

理紗があきれた顔でテーブル脇の空き樽缶を指差す。気がつくと4本…、あれ?
いつのまに…。

「もう! 無くったっていいの!」

そうそう説得力なんて無くったって、言葉は伝えることが大事なのよ。





「それにね、こんなにって言うけどさ、まだオードブルみたいなものよ。
 これからメインだってデザートだってあるんだから。」

とは言ったものの、すでにお腹はビールでいっぱいになってたりする。
そう言えばさっきからひたすら飲んでた気がする。

「さすが酔っ払いの理論。めちゃめちゃ矛盾してるやんか。
 あ~あ…残念やなぁ。酔っ払いにはかなわんわ。」

口とは裏腹に理紗がにんまりと笑う。
なんか振り回されてるって感じ…。

「そう、残念だったね。自分のお金は自分で使ってこそ価値があるものなのよ。」

「んんん!? それって私の受け売りやんか。」

「そうよ、友達から学んだ社会人の教訓ってやつ。ちゃんと守ってるんだからね。」

「何もこんな時に…。まぁええわ、巴がそれだけ大人になったちゅうことやから。」

「うーん、それって褒められてるんだろうか?」

「さあね!? それよりまだビールあるん?」

「普通の缶ビールだったらあるよ。」

「偽もんちゃうやろなー。」

「偽もんって?」

アルコール1%未満のビール飲料ってこと? 確かにアレはビールとはいわないけど。


「偽もんゆうたら偽もんや。いくら酔っ払っても発泡酒だけは飲みたないなぁ。」

あっ、そっちか。ビールもどきだけど、ちゃんとアルコール入ってるのに…。


「安くて美味しいって言ってたの誰だっけ?」

「ウチ?」

「そうだよ。家で飲むにはちょうどいいって言ってたじゃん。」

「そうやったっけ? まあええわ、それよりちょっと休憩。」

そう言ってダイニングからすたすたと出て行った。たぶんトイレだろう。





「さてと…。」

本格的に酔ってしまう前に洗い物でもしようかな。
食べ残しを別の皿にひとまとめにし、空いたお皿は流しへ持っていく。

どんなことにもリスクと言うものはつきもので、自宅で飲む時は何の遠慮も気兼ねも無く
ダラダラと飲んだって全然かまわない気楽さがある反面、後片付けをしないといけない。

これが…少々つらい。

普段の食事の後はそんなに苦痛ではないんだけど、飲み出したらこれがめんどくさい。

居酒屋で慣れているせいだろうか?
確かにアレはどんどんテーブルの上が綺麗になっていくので気にもならない。
理紗と思いつくまま料理を注文して、食べて、また注文して…って調子なので、
帰りの精算で心臓が飛び散るぐらい、いや財布が拒否してカードが泣く泣く登場するぐらい
の金額でも、当たり前だがテーブルの上には漫画のように食べ終えた皿が積まれたままというのはありえない。

でも家は違う。

普通の賃貸マンションに住む普通のOLの家に給仕をしてくれるメイドさんとか執事とかはいない。
第一、そういうご身分じゃないしね。

というわけでテーブルの上には食べ終えたお皿とか小鉢とかがたまっていくわけだ。
料理が並ぶうちはきらびやかで、テーブルの上の雛苺の人形も笑顔な様子なのだが、
次第に窮屈そうな顔をして不満そうなオーラを出してくる。

もっとも本物の雛苺がいたなら料理の後のデザートに目を輝かせているんでしょうけどね。

『巴! 雛は苺ケーキと苺プリンと苺ポッキーと、それからそれからうにゅーが食べたいのー!』
とか言いそうだ。うーん…、雛苺、デザートは1種類にしてね。あなたはいいけど私、体重計が怖いから。


それにしても…。ちょっと使ったお皿が多すぎない!?

こういう時は大皿で色んな料理を盛り付けたりするものだと思うんだけどなぁ。
ほら中華バイキングみたいに空揚げとか春巻きとか酢豚とかが盛っているイメージ。
しかし理紗の料理の腕はたいしたもので、あの性格に反して飲茶のような小皿料理が得意なのだ。



「それにしても長いよね…。」


先を越された感はあったが、一応理紗はお客さまなのだから文句は言えないけど、けどね…。

私だってね、我慢してんだから。

そうなんだ、実はさっきから会話のタイミングを逃し続けて先越されたんだ。
で、気を紛らわすついでに食器を洗ってる。

意識を下半身から無理矢理そらして手元に集中する。


洗い終えるのが先か、漏らすのが先か…。なんて馬鹿なことを考える。

まだ酔ってないはずなのにジワジワと世界が揺れているような気がする。
妙な緊張感と戦い続ける。

どうせ人生は戦いなんだから、これもそのうちよね。

これからせっかくいい気分になれそうなのに…思わぬ敵があったものだわ。

誰だ? 家で飲むのは気が楽っていったやつ。

でも悪いのは理紗でも私でもなく、そうタイミングというやつなのだ。

まさか自分の家でこんな目にあうとは…。


いつの間にかブツブツと言っている自分に気がついた。
正しいようで矛盾した考えに自分が酔っていることに気がついた。
関係ないけど、台所洗剤がもうすぐなくなることに気がついた。

買い置きあったかな?

あっ、マズい! 奥歯を噛みしめたくなる下半身の緊張感がもうすぐピークかも!?

でも噛みしめたって何の効果もないのに…。

っていうか思考がおかしくなってきている。大丈夫、私?

じゃなくて、とりあえず手を止めて、トイレに駆け込めばいいだけの話よね。
なのに、いつまでも洗ってる場合ではないんだわ。


まったく! この酔っ払い!


自分で自分を非難する。でも手は止まらない、いえ止めない。

なんとなくここで手を止めるのは悔しい気がしたからだ。



よしっ! 勝った!  

自分でもよくわからない敵を倒した。つまり食器を洗い終えた。

理紗はまだ帰ってこない。


いったい理紗はどんなに大きな○○○をしてんのよ!


嫁入り前の娘にあるまじき言葉。

父が生きてたらもの凄い剣幕で怒鳴られそうだ。
軽く竹刀で上段面打ち5連発。いや胴に道場の壁までぶっ飛ばされそうな払いかも!?

いやだなー、マジで思考が怪しいわ。



「ちょっとー。理紗! いつまで入ってるのよ!」

少し殺気がこもった声をかけながら、トイレに進む。


軽くノックする。コンコンと扉に響く怨嗟のこもった音。。

「理紗? 長いよー?」

返事が無い。どうやら気絶でもしているようだ。


じゃなくて、なんで返事が無いのよー!

再度チャレンジ、さっきよりは強めに。音に濁点が増えた感じ。


「・・・・・・。」


まったく返事が無い。というか気配すらない。

もしやと思い、ドアノブを回したら…、開いた。


そして誰もいなかった。


ここは…。

悩むことも無い。ここは私が今、絶対的に行かなきゃならない場所。

だから誰もいないその部屋をしばらく独り占めにすることに決めた。





理紗の行方を考えてる余裕はなかった。

やるべき生理現象の方を優先することにする。これ以上耐えることは身体に毒だ。

それにしても…。


やっぱりビールってただ単に飲むだけのものじゃないのよね。

他のアルコール類にはない楽しみもあるんじゃないかなって思う。

ここまでトイレに行きたくなる飲み物はないだろう。

水やお茶ではこれほど大量に飲めないしね。

うん、無理だ。水を2リットルペットボトルを飲み干そうなんて出来ないもの。


それなのに我慢できる限界まで飲み続けて一気に出す。そしてその繰り返しなのに…。

わずか5%のアルコール分が程よく身体中を満たし、後味も爽快で喉越しも最高。

世の中にこれほど優れた飲み物が存在するぐらい不思議なことはないんだ。


と、普段はワイン好きの私がちょっと浮気して思ったりして。

まぁいいか、とりあえず用を済ませてすっきりした。


「さて、理紗はいずこへ?」

トイレの戸をバタンと閉めて廊下を見渡す。理紗が動いた気配はない。

念のため、もう一度キッチンとダイニングを確認したがいなかった。


となると…、あそこか!

玄関から出て行った気配はない。理紗の靴も私が揃えて置いたままだ。

残っているのは寝室とバスルームと図書室だけだ。

寝室と言うのは考えられないし、理紗も他人の寝室を荒らすような人じゃない。
寝込みは襲われたことはあったけど…。

バスルームっていうのもないだろうな。それなら一言あるだろう。
温泉気分で飲むのも良いとは言ってたけど…。

図書室が今回一番の予想なんだけど、一人で入ることはないと思う。
理紗はあの部屋が気色悪いって言っていたから…。
だいたいあの部屋は冷房がないのでこの季節に閉じこもるのは地獄だ。

考えれば考えるほど疑わしい。いやそれ以前に疑うのもどうかと思う。


行方不明の友達を捜索!? しかも自分の家で!?

なんとなくバカらしくなってきた。飲んでいたらそのうち帰ってくるだろう。


そう考えて図書室を開けようとドアノブに手をかけたが、思いとどまった。


やめた。

とりあえず、スッキリしたことだし、さっきの続きだ。身体に冷えたビールを補充しないと。


再びキッチンに戻り、冷蔵庫の扉を開けた。

ひい・ふう・みい…、冷えたビールの確認。あと6本か…。

今さら買いに行くのもねー。こんなことならケースで買っておけばよかったかな。

そう思いつつ1本取り出す。

「理紗ー? 早く戻ってこないとビールなくなっちゃうよー!」

後がうるさいので一応言っておくことにする。





テーブルに残ったお料理を見渡して、目に付いたほうれん草の胡麻和えを小皿に取る。
空いたグラスにビールを注いで、ゴクリと一口飲む。

なんとなく静かになった食卓に奇妙な違和感を感じる。

食べかけのコロッケを箸で小さく切って口に頬張りながら、またビールを一口。

うーん、美味しい。

とっくに冷めているのにジャガイモの甘みと牛肉の旨みが調和している。
コロッケは下味が重要だと理紗が言ってたけど、これは魔法のレベルだ。
理紗曰く、食べ方によって塩加減が変わるとか言ってたよね。
ごはん向きとビール向き、そしておやつ向きと様々なバリエーションがあるらしい。

私にも出来るかな…。

レシピを考えようとして、自分のあまりの不器用さに嘆いてしまった。

別に女の人だからって必ずしも料理が上手ってわけじゃない。
私みたいにさ、不器用なのも味音痴なのもいるわけだし…。
要は愛情なのよ、愛情! 料理は愛情!

「何ぶつくさ言うてんねん? 愛情? その前に基本を覚えらなあかんとちゃう?」

「あれ? 理紗!? いつの間に? どこ行ってたの?」」

私、独り言を言ってたみたいだ。しかも聞かれてた!?


「えーっと巴の図書室…。これの続きを探しに…。」





そう言って理沙が差し出したのは『新陰流武芸帖』の3巻…?

ニコーッと満面の笑顔で近づいてくる。
あれは酔っ払いの笑顔だ。
危険極まりない微笑というのはこのことかもしれない。


とっさに言い訳めいたものを酔いかけた頭で考えてしまった。

確かに私の家には一部屋をまるまる図書室として使うぐらい本があり、その中に漫画があっても違和感ないと思う。
私だって漫画を読むときはある。だから不思議なことでもなんでもない。
そうこれは個人的な趣味なんだからね。別にいーじゃない。
私が学生の頃、剣道をやっていたのは理紗も知ってることだし、剣術家ならそういうの興味あると思う。
そうよ。それそれ、剣術家だから何かと勉強になるのよ。

…って、私が剣術家!? 自分の道場も持たないのに!? 剣道初段で!? ちょっと無理があるかな…。
確かに免許皆伝は持ってるけど、実家に置いてきたし、今はまともに竹刀さえ振らないし…。


うーっ、やっぱり無理があるか。


別にその本自体は恥ずかしい本でもないんだけどね。
ただの時代劇漫画なんだけど、その話の途中に暗殺剣の使い手が出てきてその流派が楓流、
つまり私の師匠と同じ流派だから気になって買った本だ。

これはもともと職場の休憩室に置いてあった普段は私が見ない類の漫画雑誌に連載されていて、
偶然手にした本だけど、剣法よりも物語のほうが面白くてそこに惹かれてしまったわけで、
つまり言い訳じゃないけど私だって漫画を読むときがあるということ。


それにしても…、理紗に見つかったなぁ…。まぁいいか。


多少の後ろめたさがあるのは、問題がその見ない類の漫画雑誌にあるからだ。
たぶん女性読者はかなり少ないと思われるそれにはかなり性的表現が多い漫画が多くて、
俗に言うエロ本っていうのはこれかと思った。

でも部下の矢部君に言わせるとただの青年漫画誌だそうなので雑誌棚にあっても問題ないらしい。
よく見ると公序良俗に反しないって主張するように並んでいたっけ。
私だってさすがにこの年で赤面するほどうぶではないけど、やっぱり抵抗ってもんがあるのよ。

『課長代理にお薦めするのはセクハラですかね?』とか言われて、
『別に…大丈夫なんじゃない。』と強がって答えてみたけど、
内心は非常にドキドキしてたりして、嫌な汗をいっぱいかいてたのを覚えてる。
いつもは爽やかな好青年であるはずの矢部君がニヤニヤと含み笑いをして、
私がいつも以上にクールな表情でパラパラと読んでる光景が蘇った。

本を読むことに関しては貪欲な私の性格上、途中で放り出すなんてことはせず、
何割かある強烈な性的描写に耐えながらも最後まで読みきった自分を褒めたいぐらいだ。
こんなもの中世ヨーロッパじゃ研究されつくされているんだから、その手の文献なら私の知識の範疇だ。
そう強がる私ではあったけど、さすがに漫画は生々しい。現代ってところが余計にリアルだし…。

悪気はないにしても『こいつ、上司にセクハラだ!』って思った。
立場が逆なら訴えてやりたいところだけど、そこが中間管理職の辛さなんだよね。
こういう精神的な部分っていうのは扱いが難しくて、我が社でも専門の対策委員会が設置されているぐらいだ。
うちの課のそのセクハラ対策委員が立場上、私なわけで、その私に向かって言うってことは彼も承知。
だからあんな風に聞いてくるんだろうな。
だからと言って私がセクハラと断定してしまうと、あれらの本が強制撤去されてしまうので、
それはあの本たちが可哀想だし、あれに憩いを求めている他の社員にも迷惑な話だ。
それにしても憩いを求めるって…。いやいや男の人はそうなんでしょうけど、仕方ないよね。


うーん…。そうじゃなくって問題の雑誌よりこの漫画の話よ。

あー変なこと思い出しちゃった。気づかないうちに、私、飲み過ぎてるのかな?


『新陰流武芸帖』はただの時代劇なんだから後ろめたいことなんてないはず。
作者が古い文献から資料を集めているのだろうかと思うぐらい設定がしっかりしている。
ただ楓流に関していうならばかなりリアルな剣さばきなのだが、さすがに奥義だけは嘘くさい。
名前は合っていてもデタラメな剣の使い方がユニークと言うか苦笑してしまう。
もっとも暗殺剣だから資料に残らないんでしょうけどね。
残っててもあの動きを漫画で表現出来るとは思わないけど、出来たらすごいかも!?

そういう意味では私は本物を師匠にさんざん叩き込まれただけに少し歯がゆかったりもする。
それじゃあ人は斬れないよね…と、つい危ないことを考えてしまう。
日本刀は斬ることに特化した剣なのだから下手に骨を折るような斬り方はしない。
漫画だから見た目に派手な斬り方をしているんだろうけどね。

でもこの現代では全く役に立たない暗殺剣なんてねー。今だから笑って済ませる話だ。
使えるのは良くて時代劇の殺陣とか演武ぐらいかな。
逆に危なすぎて護身用にも使えない。それに関しては刀を持てない現代社会でよかったと思う。
私にとってはわずか40センチの特殊警棒でさえ、立派な殺人凶器だ。殺しはしないけど…。
まあ相手がナイフとかの凶器を持っていれば話は別。
多少の手加減無しに凶器を持った手を破壊ぐらいはする。それくらい正当防衛の範疇よね。
素人なら手の動きは平面上で捉えられるから手首から肘の内側を裂けば終わり。
あとは動脈から流れ出す大量の血が相手の動きを封じてくれる。

つまり武器を持つ手ほど無防備なものはない。だから素手で襲われるよりかえって安心なんだから。
でも素手なら素手で対処の仕方があって、こっちに隙をワザとみせて誘い込めば、
捕まえようと相手が延ばした腕がそのまま…。


いや、そういう物騒な話じゃなくって…。

駄目だ、思考がまとまらない。


「あれっ? 『新陰流武芸帖』の3巻? それってどこにあったの?」

私の口から出た言葉はなんとも当たり障りのないものだった。





                           …つづく。




© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: