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ウエスティ Benの部屋
ポーランド旅行 14-17 April 2006
クラコフ、ザコパネ、ワルシャワを訪れたが、ザコパネは雪が降っていた。
カトリック信仰者が95%といわれるお国柄だけあって、イースター期間中は交通量もとても少なく数多い教会ではどこも熱心なミサがとり行われていた。
先の法王、ヨハネ・パウロ2世の人気は今でもとても高く、教会の壁面に大きなポスターが貼られていた。
ヴァヴェル城の大聖堂で行われていたミサに飛び入り参加した。
何故だかとっても懐かしく、ほっとした気持ちになると同時にすごく心を動かされて涙してしまった。
旅程
4月14日(金) 07:35 ガトウィック発
11:05 ポーランド クラコフ着
その後タトラ国立公園、スロヴァキア国境近くのザコパネへ。
クバウフカ山はスキー場が設けられ、みぞれ交じりの冷たい雨のなか、山頂へ登ったが、とても寒かった。
ザコパネの市街観光。
クラコフへ移動。ホテルへチェックイン。
夫のスーツケースのキーを移動のバスの中に置き忘れ、荷物が広げられず、やむなくキーを壊した(キーは翌朝、バスの中で見つかったが後の祭り)。その騒ぎで夕食に出るのが遅くなり、レストラン(Szara)ではバーでお喋りしながら空席待ちに小一時間。
食事は美味しかった。
代表的なポーランド料理、としてガイドのモニカさんが教えてくれたのは、
1.Bigos(ビゴス)クラウト(キャベツ漬け)の煮込み
2.Zurek (ジュレック)発酵させたライ麦のスープ。
3.Gulasz (グラーシュ) シチュー
4.Placki Ziemniaczane(プラツキ ジェムニャチアネ)ジャガイモのパンケーキ
5.Sernik(セルニック) チーズケーキ
6.Szarlotka(シャルロトカ) リンゴのケーキ
など。
4月15日(土)
7時前に起床して朝食後は世界遺産のヴィエリチカ岩塩抗へ。
千年以上の歴史を持つヨーロッパサイコの岩塩採掘場で深さ役300m、総距離300kmという壮大なスケール。
内部には塩の結晶で作られた華麗なシャンデリア、数多い礼拝堂、労働者によって作られたマリア像、坑夫を助けると信じられた幽霊の像、キリストの生涯を表す像など様々な芸術品が置かれ、地底湖もあり、採掘場というイメージを超えた空間が広がっていた。
ここをかつて訪れたゲーテやコペルニクスの彫像などもあり、その長い歴史に感服した。
地底での危険な仕事を支えた神への信仰、労働者同士の扶助、仕事に対する誇りが強く感じられた。
午後はいよいよアウシュビッツとビルケナウ収容所の見学。
今回の旅行のハイライトである。
アウシュビッツはクラコフから車で1時間程度の場所にある。今まで何となく「地の果て」のようなイメージを抱いていただけにちょっと意外なほど近く感じた。
「アウシュビッツ」というのはポーランドを武力で併合したナチス・ドイツがつけた名でポーランド名はオシフィエンチム市である。
「アンネ・フランクの日記」や「コルチャック先生」そして何よりもナチスの愚行で有名な場所なので訪れる前から覚悟はしてたが、ものすごい衝撃を受た。
アウシュビッツとビルケナウ収容所の展示自体は客観的で事実だけを並べたとてもシンプルなものだ。
ただ、ナチスがそこでしていた事に対する反論や疑問を許さぬ徹底的証拠が並べてある。
ユダヤ人は北はスウェーデン、南はクレタ島などからもアウシュビッツに集められてきた。
しかも、騙されて。
ゲットーに住まわされて職も奪われていた彼らは東欧に新しい土地と職を与えてやる、ナチに騙されて、存在しない土地や商店の代金を払わされ、しかも貨物列車の乗車券まで買わされた。
そして長い場合は10日間も家畜のような扱いで食事も与えられずに立錐の余地もない列車に詰め込まれて収容所に送られた。
列車の劣悪な旅に疲弊した彼らを待っていたのはSS(ナチスの親衛隊)による選別。
何と、70~75%の人が即座にガス室送りになったそうだ。
ガス室に入る時でさえ、シャワーを浴びるだけ、と騙された彼らは最後の大切な財産をSSに預け、自ら服を脱ぎ一度も水の出た事のないシャワーが取り付けられたガス室に入って行った。
そしてSSはチクロンBと言う毒薬を天井に作られた穴から投入したのだ。
それを吸い込むと、人間は呼吸ができなくなり、15~20分で死に至る。
その間に彼らが味わった苦しみ、絶望、恐怖はまさに想像を絶する。
その後SSは死体を焼却する前に死体から金歯を抜き、指輪とピアスを奪った。
死ぬ前に奪った鞄や服、女性の髪の毛が切られ、靴、そして義肢は集められ、金歯は金の延べ棒にし、女性の髪は布地に織り上げベルリンのナチの本部に送られていたそうだ。
その布地で軍服を作っていたのだと言う。
また、チクロンBを製造販売していたのはドイツの会社(デゲッシュ社)で、そこは収容所で使われるチクロンBの製造・販売で1941年から1944年までの間に約30万マルクの利益をあげた。
まるで収容所運営が当時のドイツの一大産業だったように見受けられる。
チクロンBの缶の山(中にはまだ中身の入った缶もあった)、チクロンB結晶、アウシュビッツからデゲッシュ社へ毒ガスを取りに生かせた命令書が何枚も展示されていた。
選別を生き延びた人たちも拷問、死刑(銃殺と餓死刑!)、低栄養と過酷な労働でなくなっていった。
収容所に着いた子供たちはガス室か不法な医学実験の対象になったそうで、その過程を示す子供の写真が展示されている。
おびただしい数の靴、鞄、義肢、めがね、細々とした身の回り品、そして女性の髪も展示されていた。
何よりも恐ろしい、と思ったのはアウシュビッツの所長だったルドルフ・へスの暮らしぶりだ。
彼はベルリンから所長に任命されてポーランドに赴任してきた時、家族と一緒だったという。
そして収容所の鉄条網のすぐ外でガス室と死体焼却場の間の一軒の家に住んで子供5人を育てていた、という事だ。
家族を抱えたいわゆる駐在員として、朝晩は家に帰り、妻子と生活をともにし、昼間は人をいわれなくなぶり殺していたのだ。
どうやって収容所の子供の餓死実験に立ち会いながら、自分の子供を育んだのだろうか?
そして何よりも悲しいのは人間はどんな極限状態になっても決して希望を捨てない、という事。
それはある意味で救いでもある。
しかし、希望を信じようとする心をナチスは徹底的に利用したのだ。
どうして、どうやったら同じ人間に対してこれだけ非道な事をやり遂げられたのだろうか?
なぜ、民族や出自の違いがこれだけのことをするのを正当化できたのだろうか?
収容所では、ユダヤ人の被害が知られていますが、ポーランド人(特に知識人や芸術家、政治運動家など)の被害も甚大でした。ポーランドはその頃は国家が分断されていて、独立を勝ち取るために既に多大の犠牲が
払われており、戦後も共産圏に組み込まれて苦労が続いたにもかかわらず・・・
ここまで書いてくると、近年アジア諸国、特に中国や韓国で問題が大きくなってきている日本の戦争責任について考えざるをえない。
ナチスを抱えていたドイツと比較してみると、日本は確かに、「責任の所在」についてはっきりと世界に対して発言して来なかった。
誤解を恐れずに言ってしまうとドイツではヒトラーがいて、彼が自決した事によって彼が責任を全部取って死んでくれた事になった。
そのおかげでドイツ国民は「ヒトラーのした事は悪い」といえるようになった訳だ。
日本では確かに東条英機が東京裁判で死刑になったけれど、責任の所在は追求できなかった。
戦争終結時点で既に日本に主権はなく、従って捜査や裁判が出来なかったこともその1つの理由だろうし、もともと白黒をはっきりさせる事を嫌う国民性もあったのかもしれない。
理由はともかく責任をはっきりさせなかったから、きちんとした謝罪もできなかった。
そしてそのまま、戦後のタブーみたいになって60年も過ぎてしまった。
結果として戦争責任を検証する証拠もかなりの部分、散逸してしまった。
しかし、責任の所在は曖昧であっても、責任を取らなかったわけではないと私は思う。
ODAをはじめとする政府援助・民間援助は中国、韓国に対して戦後ずっとしてきた。
その点についてもっと政府もPRするべきだったと思う。
今までの反省はいろいろあるとして、日本人として今後はどうしていったらよいのだろうか。
過去の責任問題もあるが、そろそろ、今後の方針・方策について話し合いを始めるべき時期だと思う。
何を今私たちはするべきなのでしょうね?
皆さん、どう思いますか?
午後6時過ぎにクラコフのホテルに帰着。
ホテルから5分ほど歩いてクラコフの旧市街を散策を楽しんだ。
先ほどまで訪れていたアウシュビッツとは対照的な石畳と教会の多い美しい街並み。
4月16日(日)
8時前に起床。朝食後、クラコフの市内を観光する。
旧市街の中心、中央市場広場。
織物会館 -お色直し中で少し興ざめ。
聖マリア教会はイースターのミサの最中だった。
聖ヴォイチェフ教会は同じ広場の南側にあるとても小さな教会。地下に中世の頃の通りがそのまま残っているのが見える。
ヴァヴェル城
たまたま泊まったホテルの川をはさんだ向い側にあり、旧市街からほんの少し離れて、ヴィスワ川がカーブする丘の上にそびえ立っている。
ホテルから城門が一番近いのだが、ここも化粧直し中で通行禁止。少し離れた方の入り口から入った。
大聖堂は1320年にゴシック様式で着工されてからルネッサンス様式、バロック様式で新たに尖塔やチャペルが加えられたため、建築様式が混合している。
大聖堂の入り口には巨大なマンモスとクジラの骨が鎖でつながれて吊るされている。この骨が地に落ちる事があると世の中が滅びると言う言い伝えがあるそうだ。骨をつないだ鎖はとても頑丈なものだった。
大聖堂の中ではイースターのミサが行われており、飛び込みで参加した。
神父さまがキリストの復活について歌をまじえながら熱心にお話をされていて思わず感動して涙を流してしまった。
竜(ドラゴン)の洞窟と竜の像
ヴァヴェル城のヴィスワ川べりに竜の洞窟と呼ばれるほら穴がある。
伝説では昔、ここに竜が住んでいて美しい娘をさらってきては食べていて皆に恐れられていたという。
そこである靴職人がタールと硫黄をお腹に入れた羊を竜を騙して食べさせたところノドが乾いた竜が川の水を飲み続けついには体が破裂したという。
この賢い靴職人は後に王の娘と結婚したという。
竜の像は口から炎を吐いていた。
カジミエーシュ地区(ユダヤ人地区)
かつてヨーロッパ最大のユダヤ人地区があり、第2次世界大戦でナチスに蹂躙された。
「シンドラーのリスト」の舞台となったユダヤ人ゲットーがあった地区で、シンドラーの工場跡があった。
昼食後、15:50発の列車(IC3502)でワルシャワへ移動。1一等車だが、車両は古く、喫煙OKのためタバコ臭い。
ポーランドの田舎の風景みながら約3時間ほどで到着。
ホテルにチェックインした後、ワルシャワ旧市街を散策。
ポーランドの首都ワルシャワは16世紀の終わりにクラコフから遷都され、「北のパリ」と呼ばれたほどの洗練された美しい街だったという。
しかし第2次世界大戦末期、ドイツのナチス占領軍に対して市民が一斉蜂起したことで街は戦場となり、20万人以上の市民が犠牲となり、街も徹底的に破壊された。
対戦終了後、ワルシャワ市民によって街は復元されたのだが、「壁のひび一本にいたるまで」生き残った市民の記憶と努力を総動員して元通りの姿を取り戻したという。
その熱意と努力の成果で、ワルシャワ旧市街は1980年にユネスコの世界遺産に登録された。
4月17日(月)
ホテルを朝8時頃チェックアウトし、正午頃のフライトまでワルシャワの市内を観て回った。
聖十字架教会
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