他 人 の 私
「ドクター!」
私はその声で我に返った。目の前には妻、いや元妻のシルヴィアがいた。
「ああ、ごめん、ごめん、ちょっと考え事をしてて…」 私は答えた。
シルヴィアは少し愁いを含んだ目で私を見つめ、か細い声に戻って言った。
「ほんとにこの悲しみを一番わかってもらえるのはドクターだけだわ」
「付き合いの年数だけから言うと僕のほうが長いからね…」
シルヴィアは微かに笑みを浮かべると、ふっと視線を下に落とした。
私はその仕草に見覚えがあった。好意をもっ異性に対してシルヴィアはそういう表情をするのだ。嬉しさとともに強い 嫉妬の感情が湧きあがってきた。
しばらく沈黙があったのち、
「ああ、もうこんな時間だ。申し訳ない、シルヴィア、また来てくれよ」
私は壁の3Dディスプレイの時計を見ると、わざと拝み手になって大仰に謝る素振りをして言った。
「わかってるわ、ごめんなさいね。貴重な休憩時間をとっちゃって」
「いや、とんでもない。君と話してると僕も気持ちが休まるよ」
わたしはドアを開けて、肩を抱いてシルヴィアを外へ送り出し、振り向いて手を振るシルヴィアに手を振り返した。
シルヴィアの靴音が遠のくと、私はコンソールの前に座り、ユーザーを切り替えた。 パスワードを入力し、ドクターから のメッセージを読み始めた。
☆ ☆ ☆
私は突然ドクターの部屋で彼の椅子に座っていた。何度も来た事があるとは言え、なぜ今自分がそこにいるのかわからなかった。
どうしてだろう…と考えている内に、部屋のドアがノックされた。我知らず救いを求めるような心境で「どうぞ」と言う と、ドアが開いて助手のワキタ君が入ってきた。私はほっとした。
「ドクター、気分はいかがですか?」
「えっ?いや私もドクターがどこにいるか知りたいんだけど」
私は彼が私を確認せずに話し掛けたとばかり思っていたが、私はこのとき初めて自分がスリッパを履いて研究室の 衣服を着ていることに気が付いた。ワキタ君は一瞬、たじろいだような表情をみせたがすぐに真剣な表情に変わっ て、
「スエナガさん…ですか?」と言った。
「僕を忘れたなんてことはないだろ?一緒に飲みに行ったことだってあるじゃないか」
「もちろん、忘れたりはしませんよ!」
みるみるワキタ君の顔は上気し、目は見開かれた。
「スエナガさん、今から私の話すことを冷静に聞いていただけますか?」
それから彼が私に話してくれたことはあまりに衝撃的でにわかには信じ難いことだった。私は交通事故に遭い、即死 状態で病院に搬送されたが、ドクターがそれを知り、自分のところへ運ばせたらしい。
ドクターはその頃、動物の脳の意識の構造についての研究に熱中していた。意識の存在の根源が量子学理論に より、細胞レベルのパターンに求められることをかなりの程度まで突き止めていた。動物実験によりその意識の構造
やパターンを脳のニューロンパターンとともに他の個体の脳に移植する実験を繰り返していたのだ。 そしてそれはかな りのレベルまで到達していたらしい。
親友である私の死が肉体的には不可避だと悟ったドクターは、まだ実験中のその手法を無謀にもドクター自身に 対して行ったのだった。
私の意識はドクターの脳の一部へコピーされたのだ。ワキタ君がその操作を行ったらしい。
私の肉体は損傷がはなはだしく、死体として取り扱われ、葬儀がとり行われたのだ。世間的には私は妻のシルヴィ アを残して若くして死んでしまったということになっているらしい。
当初、意識転送が正常に行われたかどうかドクター自身にもわからなかった。ドクターの意識はもとのままだったの だ。彼の予測では、2人の意識は同居が可能で恣意的にどちらの意識を主として行動するかは選択できるはず だったのである。
ところが目算が違った。今私は私でしかない。ドクターの意識は闇に包まれている。私の意識が目覚めているとき、 ドクターの意識は眠りについているのだ。私は惑乱し、ワキタ君につかみかかろうとしたとき、突然意識を喪失した …。
それから時折、私は目覚め、ドクターの意識と交代でドクターの肉体を共有している。二重人格などという生易し いものではないが、少しづつ私はこの状況に慣れ、驚いたことにドクターの専門知識を私の意識がアクセスできるこ とを発見した。私はコンピュータ技術者だったのでドクターも私の専門知識を利用しているようだ。ただし、ドクター自 身のアイディアや意識は未だに知ることができない。
かくして私は私であるときもドクターの仕事を無難にこなし、亡き夫の親友として、時折訊ねてくる妻のシルヴィアに もドクターとして接していた。これは恐ろしく克己心を要することであったが。
☆ ☆ ☆
「スエナガ、あと3段階の実験がクリアできれば、現状のフリップ・フロップ的な状況から脱出することができると考えて いる。われわれの意識が同時に存在することがどのような状態を意味するかは想像を越えるが、徐々にそのような 状態に移行できるような準備を考えている。引き続き共同で実験を進めたいが、実験の手順は……」
私はディスプレイ上のドクターのメッセージを読みながら、意識が同時に存在することが、ひょっとしたらドクターでも なく私でもない新たな意識を生んでいくのではないかという思いにとらわれながらも、シルヴィアに引き続き会えるこ との喜びが続くならば、それはそれでかまわない…と考え始めていた。
挿絵:武蔵野唐変木唐変木様