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先日、新聞で「新書が下火となっている」との記事を目にした。 ブームの時に、調子に乗って何でもかんでも新書として乱売したため、 ネタ切れと質の低下が相まって、読者が離れていったという内容。 そう言えば、私も何時か、同じようなことをブログに書いた。 先の記事同様、私も新書に対し、学術書、専門書への入門書的役割を期待するが、 そういう役目を果たしうるものは今や少数派、と言えば言い過ぎか。 繰り返しの読書、長期保存に耐える新書という形をとるまでもないものが目立つ。 雑誌の記事なら許せるけれど、新書としては……というものが多い。本著も、残念ながらそんな類のものの仲間に入るしかない一冊。今後、何年にも渡って資料として活用されるような内容ではなく、今だけが旬の代物。雑誌に掲載されているルポタージュ記事としてなら、十分に読み応えはあるし、とても素晴らしい内容だと言えるものではあるが、新書としての品格は感じられない。ただ、繰り返し述べるが、くだけた雰囲気のルポタージュ記事としては、十分面白い。就活に明け暮れる学生たちや、そこに絡む様々な関係企業の動きが、よく分かる。また、生き残りをかけて、待ったなしの苛烈な競争を展開する大学が、学生たちに、各段階で施す様々な対策については、時代を感じずにはおれなかった。
2012.01.28
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久しぶりに小説を堪能した。 奥田英朗、恐るべしである。 これまで読んだ作品とは、まるでイメージが変わってしまった。 私の中に「伊良部シリーズ」や短編とは一味違う、作家像が出来上がった。 「よく分からない、変わった男」としか思えなかった島崎国男に、 読み進むにつれ、どんどん感情移入してしまうのは、何故だろう? 史実に照らし合わせれば、彼の計画が失敗することは分かっていながら、 それが成功することを、密かに願ってしまうのは何故だろう?かと言って、落合昌夫を始めとする刑事たちのことだって、上巻の段階から「公安に負けず、早く事件を解決してしまえ!」と応援しているのである。この矛盾は、一体何なのか?それぞれのキャラクターが、あまりにも見事に描かれているということあろう。両津勘吉並みに、ビルから飛び降りても死なないどころか、大ケガさえしない島崎国男。このあたりは、まさにフィクションなのだが、その背景に描かれる当時の日本社会は、まさにノンフィクション。私は『ALWAYS 三丁目の夕日'64』よりも、この作品を映画で見たいと強く思っている。
2012.01.28
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節毎に、番号下に年月日が示されている。 私は最初、余り気にせず読み飛ばしていたのだが、 これは、きちんと把握した上で、読み進める必要がある。 なぜなら、このお話、時系列がかなり行ったり来たりするから。 読み始めた当初は「随分ややこしいなぁ」と思ったが、 次第に、この時系列が前後するということそのものが、 このお話の構成において、極めて重要なものであると気付くと共に、 そのことが、映画を見ているような気分にさせることも分かってきた。それにしても、なぜ島崎国男は飯場で働こうと決意したのか。東大大学院で学ぶ優男(やさおとこ)が、肉体労働を実体験する意義は何なのか。飯場で亡くなった種違いの兄に対しての親しみゆえとは、とても思えない。「兄の弔い」という言葉は、彼の本心を表現していない。郷里のあまりの貧しさに、今さらながら衝撃を受け、大都会の大学院で学んでいる自分自身に「疚しさ」を感じてしまったからか。それとも、やはり、彼自身が学んでいたマルクスが影響しているのか。何にせよ、彼が飯場で働いたことが、全ての始まりになっていく。 *** 入浴料と洗髪代を払い、中に入った。(p.412)昭和39年9月22日 火曜日、須賀忠が旧白山通りに面する銭湯に入ったときの描写である。しかし、私は「洗髪代」という言葉に引っかかった。確かに、当時、銭湯では「洗髪料」を徴収していた。しかし、この時期に、既に男性から洗髪料を徴収していたのだろうか?調べてみると、東京の銭湯では、昭和45年になるまで「婦人洗髪料」を徴収していた。男の長髪ブーム以後は、男性からも洗髪料を徴収したようだ。しかし、昭和39年段階で、長髪男性から洗髪料を徴収していたかどうかは、私がちょっと調べただけでは、はっきりしない。ちなみに、大阪では平成17年まで洗髪料を徴収していたが、昭和50年からは、男性もその対象に加えていたことが分かった。
2012.01.28
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気が付けば、この頃読んでるのはミステリー小説が多い。 世間的流行なのか、それとも私の読書傾向の偶然の偏りなのか。 それでも、本著はそれらの作品の中でも、かなり個性的である。 本、しかも古書を巡るお話しというのが、読書好きにはたまらない。 若くて美しい女性が、謎を解決していくのは、『万能鑑定士Q』シリーズと同じ。 類い希なる能力をもつ、篠川栞子と凜田莉子という魅力的女性キャラは、 それぞれ五浦大輔、小笠原 悠斗という若い男性キャラと行動を共にしており、 それぞれにお互いを意識しあっているところも同じである。まあ、これはこの二つの作品だけでなく、どんなお話しにおいても、よく見られる設定ではあるけれども。『ガリレオ』シリーズの湯川学と内海薫の二人も、恋愛関係とは程遠いが、お互い結構意識しているという点では、やはり同じかも知れない。さて、本著は古書にまつわる4つのお話しが収められている。そして、最後の『晩年』をテーマとするエピソードには、それまでの3つのお話しの登場人物が、全て絡んでくるとともに、予想外の人物が犯人として浮かびあがるという、なかなかよく出来た構成。既に発行されている『ビブリア古書堂の事件手帖(2) 栞子さんと謎めく日常』も、読まないでいるわけにはいかない。
2012.01.22
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1か月ほど前に読み始めました。 久しぶりに村上さんの書く文章に触れて、 その佇まいとか、明瞭さとか、読む者に伝わってくる波動に、 「あぁ、やっぱりイイなぁ」と、心が和みました。 読書途中、『小澤征爾さんと、音楽について話をする 』の発売を知り、 我慢できずに、書店まで出向いて早速購入。 帰宅後すぐにそちらを読み始めてしまったので、本著の方は暫し中断。 そして、年が明けてやっと読了しました。本著では、色んな村上さんに触れることができ、ファンとしては、とても嬉しい一冊になっています。色んな時期に、色んな形で書かれた文章が、数多く集められているのですが、その中で、私が特に印象に残ったものを、いくつかご紹介します。まず、「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」は、読者が就職試験を受けた際に出された「原稿用紙4枚以内で自分自身について説明しなさい」という課題に、村上さんならどうするかという質問に答えたものです。その着眼点、発想力に思わず唸り、私としては本著の中で最も印象に残った文章です。「いいときにはとてもいい」は、本著の装画を担当しているお一人、安西水丸氏の娘さんに対して、結婚式の際に贈られた、わずか4行のメッセージ。「結婚というのは、いいときにはとてもいいものです。あまりよくないときには、僕はいつもなにかべつのことを考えるようにしています。」に、村上さんらしさを感じます。「違う響きを求めて」は、『小澤征爾さんと、音楽について話をする 』にも登場した、村上さんの書かれる文章が、とても強く音楽と結びついているというお話し。村上さんの文章が読者に向けて放たれる波動の秘密が、ここにあります。そして、装画担当の安西さんと和田誠さんのお二人による巻末の解説対談も、他書の解説では感じたことのない、とっても印象に残るもの。安西さんの発言途中に頻繁に登場する(コホン)という擬音挿入も手伝って、眼の前で一緒にお話しを訊いている感覚に陥り、話の中身もとても身近なものに感じました。
2012.01.15
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どうしてこういうことになってしまうのか? 本著に書かれていることが事実なら、 本当に不思議だし、納得がいかないし、恐ろしい出来事である。 世間とは、こんなにいい加減なものなのか? そして、本著にすら書くことが出来なかった事実が、まだまだあるに違いない。 それらは立ち位置によって、見え方が違ってくるようなものかも知れない。 本当の真実とは何か、それを知り見極めることの難しさを、熟々感じる。 それでも、白を黒と言い切ってしまうような世間では、本当に困る。そもそも、ことが始まったとき、校長や教頭は、なぜあれ程までに、当該教員を守る姿勢が希薄だったのだろう?たとえ、保護者のあまりの剣幕に圧倒されたとしても、普通なら、ちょっと考えられない立ち位置である。また、管理職の姿勢に対する職員室の姿勢・雰囲気はどのようなものだったのだろう?その辺りの事情は、本著ではあまり伝わってこない。また、問題の保護者と児童に関する、それまでの指導の情報共有が、職員室の中で、一体どの程度出来ていたのだろう?管理職や職員室が共有していた、当該教員に対する視線や認識、そして、管理職や職員室が共有していた、問題の保護者・児童に対する視線や認識が、この事件をスタートさせてしまったような気もする。それらは、決して公になることのないものなので、第三者である私には真実を知る由もないが。また、教育委員会のこの事件への対処はどのようなものだったのだろう?管理職や学校に対する指導や支援を含め、様々なアクションがあったはずであるが、(無かったとしたら、本当にどうかしている)これも公にすることが出来ない部分が多々あろうから、私には真実を知る由もない。また、ことが始まったときの、児童や保護者らの無反応ぶりにも首を捻らざるを得ない。無反応を示し続けねばならぬほど、問題の保護者と児童が、実は校内や近隣で、よく知られた存在であったのであろうか。それとも、当該教員がそのような状況に追い込まれても、別に構わない存在だったのか。この児童・保護者らが共有していた、当該教員に対する視線や認識、そして、児童・保護者らが共有していた、問題の保護者・児童に対する視線や認識が、どのようなものだったのか、本著の情報だけでは、十分には分からない。しかし、それらがこの事件を大きなものにした原因の一つであることは間違いない。さらに、PTSD判定の杜撰さと、マスコミの報道姿勢が絡み、事件は泥沼へと突き進む。問題の保護者は、判定した医師にどのような形で接触し、そこで何が行われたのだろう?また、取材に当たった記者たちは、どのような思いを最優先に取材をしていたのだろう?また、その記事を受け取った上司は、それに何の疑問も抱かなかったのだろうか?どこかひとつでも、正常に機能し、真っ当なアクションを起こせば、この出来事は、このような大きな事件に発展しなかったのではないか?それでも私は、何時、誰に同じようなことが起こっても不思議でないと感じてしまう。そんな、世間を信用できない時代、社会に生きているということなのか。
2012.01.14
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奥田さんの作品はこれまでに3つ読んだ。 『イン・ザ・プール』 『空中ブランコ』 『町長選挙』 いずれも、精神科医伊良部が登場するものばかりであるが、 どれもこれもとても面白く、すごく印象が良い。 そして、本著は家族を描いた6つの短編集。 そのいずれにも、伊良部は登場しない。 つまり、私としては「伊良部シリーズ」以外の初めての奥田作品。 印象としては、悪くない。最初は「サニーデイ」という、ネットオークションにはまった主婦のお話。ネットオークションにおける気分の高揚感は、初心者には本当に毒。SL-10は買い戻せたとしても、ヤマハFG-180は……。男女の価値観の違いから、夫婦の危機に発展しなければよいのだが。次は「ここが青山」という、会社が倒産して主夫になった男の話。まぁ、こういう夫婦があってもおかしくはないか。3つめは「家においでよ」という、家の中に自分の理想空間を実現した男の話。最後は……よくわからない……そして「グレープフルーツ・モンスター」という主婦の妄想話。これもフィニッシュが……何だかなぁ……5つめは「夫とカーテン」という、所謂一つのサクセス・ストーリー。春代の才能がまた覚醒するのは、そう遠い日ではない?そして最後が「妻と玄米御飯」という、文学賞受賞作家を主人公とするお話し。個人的には、6つの中でこの作品が一番面白かった。ひょっとして、これは著者の実体験を元に書かれたのではないかと思わせる構成で、ロハスを皮肉っているところが痛快であり、それに徹しきれないところが少し哀しい。読後に思ったのは、小説家もたいへんだなということ。著名な文学賞を獲得しても、その後に作品が売れ続けるとは限らない。アイディアが無尽蔵に湧き出てくるわけでもないだろうし、作者自身のフィーリングが、常に時代に即し続けるかどうかも不確定だ。本当に小説家って水商売なんだということを強く感じさせられ、奥田さんを始め、色んな作家の人たちが今後どうなっていくのかと、少し案じてしまった。まぁ、向こうから言わせれば、本当に余計なお世話なんだけれども、でも、奥田さんには「伊良部シリーズ」を、ぜひとも再開して欲しい。
2012.01.14
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『うまくいく夫婦、ダメになる夫婦の心理学』という本が目にとまったとき、 カスタマーレビューで、本著を再編集・改題したものだということを知った。 そこで、ネットで本著を古書で発注、お陰で随分安く買うことができた。 ただし、両者を比較してみると、章立について多少の違いが見られる。 そして、著者の書く文章には、『だれにでも「いい顔」をしてしまう人』や、 『妬まずにはいられない症候群』の時と同様、不快感でいっぱいに。 これは、前2冊と同様、否定的なことばかりを、たいへん強い調子で、 何度も何度も、繰り返し書き連ねるという手法を採っているためだろう。さらに、自分の父親に対する嫌悪感を露骨に顕わにし、否定的なことを並べ立てるのも、読んでいて気持ちのよいものではない。それでも、後半には「なるほど」とか「そうだな」と思わせるところがちゃんとあるのは、『だれにでも「いい顔」をしてしまう人』のときと同じ。 *** とにかく結婚生活をしている二人は 誤解だらけで何も分かっていないという認識が 結婚生活を成功させる最も重要な基礎である。(p.158)一緒に生活していることから、知ってるつもり、分かってるつもりになってしまうのは危険。同じDNAで繋がり、生まれたときから同じ時間・空間・価値観を共有してきた両親や兄弟姉妹ですら、色々な面で自分とは違う感覚を持っているはず。それ故、元々赤の他人である配偶者とは、感覚が違ったり、分からないことがあって当然である。 『お互いを理解するために』に相手を理解できないということは 相手と自分の違いを理解できないということだと書いてある。 つまり相手を理解するということは相手と自分の違いを理解することなのである。(p.250)相手の考えが自分と同じだと思ったり、自分と同じであることを期待するから、それが違うと知ったり、気付いたりしたときに、ショックを受けたり腹が立ったりするのである。元々違う人間、それぞれに考えは違って当然というところからスタートしさえすれば、違いの中に共有できる部分を見つけたとき、そこからより良い関係を築いていける。ところで、『お互いを理解するために』とは、本著の中で何度も登場する書物で、本著が発行された時点では、まだ日本語に翻訳されていなかったもの。 相手の言うことを文字どおりに解釈してはならない。 文字どおりの言葉の解釈と相手の意味していることとは違う。 言葉を聞くよりも相手の行動や態度を見るほうが相手の真意がよく分かるときがある。(p.251)「相手の真意を知る」、これは結婚生活だけでなく、社会生活全般において必要とされる態度・姿勢だと言える。進む国際化の中で、日本人の態度や言葉は曖昧で分かりにくいとよく指摘されるものの、どんな国においても、言葉を額面通りに受け止めているだけでは、やってはいけない。
2012.01.14
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ガリレオ・シリーズに内海薫登場。 既にTVドラマでは草薙を脇に追いやり、湯川とタッグを組んでいたキャラが、 本作からは、正式に原作にも登場して、活躍を開始。 それは、TVドラマでのイメージを最大限取り入れたものになっている。 これにより、草薙はTVドラマ同様、日の当たらない(?)キャラに格下げ。 まぁ、それでも本作では、一応薫の上司として、同じ職場で勤務しているから、 栄転により異動したTVドラマの草薙よりは、登場機会は遙かに多く、 さらに『聖女の救済』では、より絡みが多いらしい(未読のため未確認)。さて、本作は5つの短編から構成されており、第一章「落下る(おちる)」と第二章「操縦る(あやつる)」については、すでにTVドラマ化されていたので、私も既にストーリーを知っていた。「操縦る」は5編の中で最も長いお話しだが、TVで見た時以上に余韻に浸れた。残り3編はドラマ化されていないため、展開・結末を知らずに読めたので十分楽しめた。どれも読みやすい文章で、一つ一つのお話しが短いため、スラスラと気楽に読めた。ここで、もう一歩の深みを求めるのは、短編のいう体裁の作品には酷だろうか。個人的には、3編中では第五章「攪乱す(みだす)」が最も面白かった。
2012.01.08
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今年になって初めて購入・読了した本。 ただし、発行は昨年11月22日で、気付いた時点で既に1か月半を経過。 その前の20巻は、19巻発行後10か月も延々待たされての発行だったので、 まさか、こんなに早く発行されているとは……迂闊でした。 今回は、雨宮君とカイとの和解がメイン。 「この音……」「この音は……」 「遅くなってゴメン!」「手伝いに来た」 う~ん、とっても良いシーン。しかし、今巻はいくつかの謎・疑問を残したまま終わってしまっている。まず、Dr.仲尾のオペというのは、一体誰のどの部分にどのよう施術を行うものなのか?そして、阿字野は今後のカイを誰に委ね、自身はどのような道を歩もうとしているのか?こんなことは、これまであまりなかったことなので、少々気分が落ちつかない。さらに、パン・ウェイと同様、カイの出自も世間の目に晒されることになりそう。コンテスタントのゴシップを広めて回るビクトリアの真の目的は何なのか?また、その行動を指示しているのは一体何処の誰なのか?そして、ショパン・コンクール終了後も、このお話しはまだ続いていくのか?まぁ、最後の疑問は、一色先生の気持ち次第、続けようと思えば、まだまだ続けることは出来る状況だけど。
2012.01.08
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