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マイケル・ジャクソン
2005/11/12
『イランなしにはイラクを占領できない米国』
(1)
テーマ:
戦争反対(1197)
カテゴリ:
戦争反対 2
この記事は、TUPとリバーベンド・プロジェクトの連携に
よるものです。転送転載大歓迎です。
映画と夢
2005年11月6日 日曜日
私の両親は、同世代で教育を受けた多くのイラク人と同じく、テレビを見す
ぎないように気配りした。E[弟]と私が小さかった頃は、どんなタイプの番
組や映画を見てもいいか、親が目を光らせた。両親はアラブ・西欧のいずれの
プロパガンダも私たちの目に触れさせたくないと思っていたし、行き過ぎた暴
力・汚い言葉・性表現を含む番組はすべて禁止だった。その代わり、読書はど
ー・ブロンテからマキシム・ゴーリキー、シモーヌ・ド・ボーボワールまで
、私はさまざまな作家の本を読んで育った。禁じられた本は一つもなかった。
映画とテレビについては、何かが両親の検閲をすり抜けてしまうこともあっ
た。というより、私たちの方が親の目をかいくぐって友達や親戚の家で何かを
見るときもあった。
子供の頃に見て、その後長年忘れられないで深く記憶にとどまっている映画
が、誰でも1本か2本はあると思う。私には2つあった。1本は映画。2本目
は、記録なのかドキュメンタリーなのか定かでない。
私の記憶には、2つともタイトルが欠落しているし、場所も抜け落ちている。
どこで見たのかも覚えていない。けれどもその映像は、最高レベルの解像度で
映し出されるオリジナルDVDの鮮明さをもって、幾度も私の脳裏でよみがえ
1本目はホロコーストの映画だった。フィクションだが、事実に基づいてい
ることは明らかだった。私が見たのは80年代半ば。怖くてたまらないシーン
があった。わずか6、7歳の女の子が、走ってものすごく高い壁によじのぼれ、
とナチスの看守にけしかけられている場面だった。もしあの壁に登れたら自由
にしてやる、と少女は告げられる。壁に向かって走り出すとすぐ、自分を捕ま
獰猛な黒い大型犬3頭を少女に向かって放つ。次に何が起こったか正確には覚
えていない。だが、恐怖のシンフォニー――悲鳴、犬のほえ声、看守たちの高
笑いは、今も耳から離れない。
2番目の映画/実写フィルムには俳優がいなかった。登場したのは、実際に
残虐行為を行っている現場の人たちだった。私たちはイラクを訪れていた[リ
バーベンドは両親と海外で暮らしていた時期がある]。私は8歳ぐらいだった。
画質がいいので、はじめはニュースフィルムだと思った。そのフィルムを誰か
がどこかで見ているところに、私がうっかり行き当たったのだ。映画の人がイ
ランに収容されたイラク人捕虜(POW)だということは、その後知った。イ
ラン人看守が無力な一人の男性の腕を片方ずつ別の車に縛りつける有様を、私
は目の当たりにした。幼かったが、次の瞬間どうなるかは私にも分かった。走
って逃げ出したかった。さもなければ目をつぶりたかった。それなのに、私は
身動きできなかった。その場に根が生えたようで、まるで私まで鎖でつながれ
たような気がした。一瞬の後、2台の車は反対向きに走り出し、男性は片腕が
肩口からひきちぎられ苦悶にのたうった。
あのビデオを私は決して忘れない。何百万人というイラク人もいまだに覚え
ている。アラビア語で捕虜をいう「アシール」という言葉を聞くたび、独りで
に私の脳裏でビデオが回り出す。夜眠りに落ちるとき、朝目覚めるとき、何週
間も心のうちにあのビデオを見た。映像は私につきまとい、あんな暴虐を受け
たあと人が死ぬまでどのくらいかかるのかと危ぶんだ。人間の腕があんな風に
抜け落ちることすら、私は知らなかった。
イランに捕らわれた捕虜の受けた恐怖を、戦争終結後も私たちは抱き続けた。
精神的・肉体的な拷問をされるといううわさが繰り返し流れ、あまりに確証が
高いものだから、母たちは息子がイランの囚人になるより戦死するようにと
祈った。とりわけ、1984年か1986年にこのビデオが明るみに出ると、
その後は動きが加速した。この戦争で親戚が行方不明になったイラク人はみな、
腕をもがれた捕虜の苦悶の形相に親戚の姿を見た。イラク・イスラム革命最高
評議会(SCIRI)のトップ、アブドゥル・アジズ・ハキムと、その兄ですでに亡
くなったムハンマド・バキル・アル・ハキムの二人は、イランのイラク人捕虜
の取調官・拷問担当官として名を馳せていた。
愛する家族をあの戦争で一人も――数人かもしれないが――失わなかったイ
ラク人家庭はひとつもないと思う。帰還した捕虜から血の凍るような恐ろしい
話を聞かなかった家庭はひとつもない。イランは2003年までわれわれの捕
虜の返還を続けていた。我が家だけでも、この戦争で4人の男性を亡くした。
3人――シーア派1人、スンニ派2人――は死亡を確認したが、4人目のSは
1983年以来、行方が知れない。
Sが戦地に向かったときは24歳。婚約していて、1年足らずで結婚するは
ずだった。家には家具までそろえ、結婚式の日取りも決まっていた。だが、二
度と戻ることはなかった。Sの母は私の母のいとこだが、2003年にはつい
に息子が帰還する望みを捨てた。イランから新たに捕虜の一団が帰ってくるた
び、彼女は電話をかけ、愛するSの消息を知らせてほしいと懇願した。誰かS
を見かけませんでしたか? 誰か息子のうわさを聞きませんでしたか? 死ん
だのですか? その都度がっかりしながら、私たちはいつも彼女に言った。長
い年月は流れたけれど、まだ生きている可能性はあるわ。帰還の希望はあるの
よ。2002年、彼女は母に言った。誰かやって来て、そんな希望をそれっき
り粉々にしてくれればいいのに――死んだとはっきり言ってくれればいいのに、
と願っているの。心では、母の心には、息子がすでに死んだことが分かってい
た。でも、確認が必要だった。確認もなしに生存の望みをまったく放棄すれば、
一種の裏切りになるもの。
イランとの長引く戦争の苦悩は、特に昨年来のイラクの現状を耐えがたいも
のにしている。占領側はアメリカ人であることを止めた。顔はアメリカ人。軍
も同様。しかし、その根幹はイランのものへと、徐々に確実に変容を遂げてい
る。
言うまでもなくその変質は、2003年にアメリカ軍の戦車の後に従ったバ
ドル旅団やイラン拠点の政治集団のいくつかとともに始まった。それは今日も
続いている。ねじ曲げられた国民投票、それにイラン=イスラム共和国をモデル
とする南部イラク国家を保障した憲法がその現れだ。
国民投票の結果にはとても失望させられた。不正と闇取引(モスルは特に)
のうわさが絶えなかった。すでに12月の選挙をボイコットしようといううわ
さが流れている。操り人形政権とって、このたびの選挙こそ、彼らの常日頃の
主張である占領下のイラク国民が享受している民主主義なるもののはしくれく
らいはアピールできる輝かしいチャンスだったのに。そんなチャンスはまるで
台無しになった。
12月の選挙については、シスターニは今日まで殊勝げに、特定の政治団体
への表だった支持を慎んでいる。11月後半か12月初めまではそんな態度が
続くが、その頃には信奉者が選挙に関するファトワを出してほしいとシスター
ニに執拗に迫るはずだ。やがて、彼は政党のどれか一つに支持を与え、その政
党に投票するのは天来の義務であると宣言するだろう。賭けてもいい。シスタ
ーニは前回の選挙と同じく統一イラク同盟(UIA)を支持するにちがいない。
おもしろいことに、今回の統一イラク同盟(UIA)の構成はイラク・イスラム
革命最高評議会(SCIRI)とダーワ党にとどまらない。仲間入りすると予想され
るのはムクタダ・アル・サドルの信奉者たち(マフディ軍)にほかならない!
昨年のイラク情勢を知る人は、多くがムクタダを「扇動家的法学者」「過激派」
「テロリスト」として認めるだろう。昨年は内務省からムクタダの逮捕令状ま
で出され、アメリカ側は「過激派法学者」の拘留または殺害を行うと繰り返し
て、その方針を支持していたのだ。
さて今日、彼はぴんぴんしていて、アメリカの政治家と操り人形たちが熱烈
に歓迎する「政治プロセス」に絡んでいる。サドルとその信奉者たちは、美容
院の脅迫や酒屋の爆破、適切な服装をしていない女性の誘拐その他の活動を引
き起こしている。理由はこれらがすべて反イスラム的だと見なされるためだ(
ただし、イラン・スタイルのイスラム教に基づいてだが)。サドルの武装集団
についてはここ
http://www.uruknet.info/?p=m17385&date=02-nov-2005_04:31_ECT
を読んで。すべてがアメリカ人、イギリス人、操り人形たちの手のうちに
あるわけではない、なんてこれでも言いたい人がいる?
アメリカ人たちは絶えず私に私にメールを送ってきて、こう言う。「イラク
からわれわれが引き揚げたらどうなると思う? 君たちが恐れている過激派が
取って代わるにちがいないよ」。実際はイラク人の大半は原理主義者を好まず、
安定がほしいだけ。イランの影響下にあるイラクなど耐えがたいと思うイラク
人が大部分だ。アメリカ軍の存在は、バドル旅団その他と持ちつ持たれつの関
係にある。なぜなら、アメリカ軍はイランと手を携えて始めて、イラク全土で
占領に反対するイラク人を鎮圧できるのだから。仮にアメリカ軍が引き上げれ
ば、そのときにはその操り人形たちと武装軍団は荷物を取りまとめて、もと来
たところに引き上げなければならない。アメリカの保護と手引きがなければ、
彼らは手も足も出ないのだ。
アメリカの政治家がイランに対して大いに控えめな脅威をちらつかせたとき、
その言葉に私たちは文字通り腹を抱えた。アメリカはもはやイランを脅す余力
がない。仮にサドルの信奉者やイラン人イスラム法学者のシスターニ、バドル
旅団がアメリカに反旗を翻せば、1カ月もしないうちに自分たちがイラクから
出ていかなければならないことを、アメリカは承知している。イランはやりた
いことが何でもできる。ウラン濃縮? もちろん、オーケー。たとえば明日、
イラン政府が目下核取引をやっていると宣言したとしても、ブッシュにできる
のは再びニセモノのパイロットスーツを身にまとい、「テロへの戦い」に熱弁
をふるい、シリアを多少なりとさらに威嚇することぐらいだ。
おめでとう、アメリカの皆さん! イランの強硬派イスラム法学者たちはイ
ランを仕切っているだけではなく、イラクでも主導権を握っている。この権力
の移動は、昨年、“我が忠誠は一番高値を付けた者に”主義のチャラビがその
忠誠をイランに売り払ったときに、疑う余地がなくなった。アメリカ人やイギ
リス人の息子・娘たち、夫や妻たちが命を投げだそうとしているのはほかでも
ない。来るべき12月に、イラク人が投票に出かけて、イランの色のついた法
学者に票を投じ、私たちをたっぷり400年は後戻りさせるためなのだ。
民主国家イラクの夢はいったいどうしたのか?
(TUPより転載ですが、文が長くて入りきれないので、コメント欄にも転載します)
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Last updated 2005/11/12 09:33:01 AM
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