全167件 (167件中 1-50件目)
沖縄からもうすぐ離れる?ことを意識して、沖縄でしか読めないだろう本を図書館で借りるようにしてきたけど、ちょっと読んでみたくなったものがあって寄り道、次の住処?タイに関するもの。題して、「だから、居場所が欲しかった。」、副題に“バンコク、コールセンターで働く日本人”('17 集英社刊)。意識しないで借りたのだけど、著者は、水谷竹英。何のことはない、以前読んだフィリピンの「脱出老人」等の著者だった。日本を離れ東南アジアの地で暮らす日本人の実情を取材する著者のタイ編ということだ。副題にもあるように、タイに移り住んだ日本人が、手っ取り早くつける仕事がコールセンターなのだという。日本からの電話を日本語で対応する。だから、英語もタイ語も話せなくて問題ない。しかし、このコルセンが、タイで働く日本人の中では最下層の仕事と位置付けられているそうなのだ。沖縄でもコールセンターの仕事はポピュラーだ。沖縄にしては時給も高めなので、コンビニや飲食よりは、むしろ、上位の部類の仕事の印象だけど、タイ、ないしは外国ではそうではないようだ。著者は、このコルセン勤務の日本人たちを対象に、背景を取材していく。まさに、訳ありの人物ぞろぞろ。別の仕事で身を立てることを考えている人もいれば、とりあえずの居場所として留まる人もいる。タイ特有のジェンダー系の事情で勤めている人もいる。そこら辺の事情は、また独特だ。タイもフィリピン同様に女性にハマってしまう男は多々だが、一方で、男にハマってしまう女性もいるのだ。また、ジェンダーに寛容なタイに日本とは異なる環境を求めて飛び込んだ人たちもいる。そんなタイでも差別はないわけではないし、天国というわけではないようだ。それでも、日本よりは、確実に生きやすい環境が存在する。僕自身も、関心があったのは、まさにそこだ。本書に記述の生活費の基準だと、自分が考えている程の安さ、甘さではない感じがしてひやっとするが、なるほど、一時的にコルセンなどに勤務してみるのも、一つの手かなと思えた。こちらは、最早、仕事のグレードが周囲にどう見られようが気にする筋は全くない。それで、ヴィザも得られ、住居も得られ、そこそこの収入も得られるなら言うこと無い。本書に漂う絶望よりも、希望の方を感じてしまったくらいだ。勿論、基本は働きたくないから日本を出たいのだけど。正直、ジェンダーの問題や、女を求めてとか男を求めてといったことは、自分の関心の埒外ではあるけれど、タイ・バンコクに住む日本人の事情を垣間見得たことは、そこそこの収穫だ。沖縄からの直行便で早いとこバンコクに行ってみたいが、エアアジア、なかなか運賃が下がらなくて、もやもやしている。あくまで対象は、タイのお金持ちなのかなあ・・・ウチナーンチュもタイに行けるように、下がれ、下がれ、運賃!
2024年05月20日
コメント(0)
昨年、久々に辺野古を訪れた際、社交街で店の工事が進められている光景が見られた。ちょっとレトロなテーマパークのような趣で、地域活性の試みなのかなと思ったが、実は映画のセットを作っていたということだった。その映画とは、直木賞を受賞した「宝島」'18(真藤順丈著 講談社刊)の映画化だそうだ。沖縄を舞台にした小説ということで話題になったっけ。受賞当時は図書館も予約待ちいっぱいだったけど、今は余裕で借りれるので、これを機に読んでみるとす。文庫は上下巻2冊だが、2週間で読み終わらず延長しようとしたところ、下巻は予約が入ってしまって延長できず、代わりにハードカバーを借りた。こちらは単巻で540頁ほど。ようやく読み終えたがつまらなかったわけではない。むしろ、大いに面白く読んだ(以下、ネタバレあり)。復帰前のアメリカー世のコザが舞台。戦果アギヤーで暮らしていたにせたーたちの青春物語だ。おそらく佐野眞一のルポルタージュに影響を受けたと思しい内容。瀬長亀次郎、高等弁務官キャラウェイ、旭琉会の又吉世喜ら実在の人物も登場し、物語に巧みに絡ませている。登場人物たちのセリフはウチナーグチのルビがふられ、“ひんぎれー”といった会話のやり取りに不自然さはない。アメリカ支配下の理不尽さ、ウチナーンチュの苦難にもページと描写が割かれているし、かなり取材を積み重ねた上で書かれているのが窺える。“キャラウェイ暗殺計画”は創作だろうけれど、さもありなん。本書の読ませどころでもある。そして、クライマックスはコザ暴動だ。ここで、登場人物たちが探し求めてやまなかった戦果アギヤーの英雄“オンちゃん”のその後がついに明かされる。なるほど、これは映画化するにはうってつけの題材とは言える。沖縄の歴史や背景を取り込みながら、青春ドラマとして、またミステリーとしても大いに読ませる内容だ。ただ、結末については、僕は些か期待はずれというか、もうひとひねり欲しかった気もする。いわば殉教者のような存在となったオンちゃんだが、英雄的存在が、敢えて多くの命が失われたガマで骨になるという結末に意味を込めてはいたのだと思うけれど。青春ドラマとしてはカタルシスのない結末だし、ミステリーとしても物足りなさを覚える。映画化に際しては、この結末に手を加えてもいいのではないかと思える。一方、役者や脚本によっては、これまでも多々あった陳腐な沖縄映画になりかねない恐れもある。セリフをどうするかも課題だろう、”さ〜さ〜”みたいに中途半端にウチナーグチを混ぜるか、ヤマトグチにしてしまうのか。辺野古のセットはどこで使われるのだろうか、まさかコザの場面として?ゲート通りなんかは今も昔の面影を残しているから、そのまま行けそうな気もするが。まあ、「ミラクルシティコザ」みたいなお粗末な事に成りかねない危険はあるが。直木賞受賞作だから、エンタテイメントとして面白く読めるわけだけど、沖縄の時代背景はしっかりと描かれているので、ウチナーンチュの共感も得られる内容だと思う。映画化に関しては、正直、期待半分不安半分というところだけど、注視して待ってはいようと思う。
2024年04月16日
コメント(0)
県立図書館が再開して、これまで借りていた4冊を返し、新たに3冊借りてきた。ちょっと分量のあるものばかり借りてきて、果たして期限内に読み終えるかは怪しいけれど、3冊の中で一番手頃なものから読み始める。それは、「フィリピン史」(守川正道著 '78 同朋舎)だ。セブ島行きの前にフィリピンの歴史をおさらいしておこうというところだ。これが案外少なくて、那覇市立の方には、そういう類の本がなかった。県立の方でも、これと、後は岩波書店から出ている「日本占領下のフィリピン」があったくらい。著者の守川という人についても、あまり情報はないが、出版社は学術書を主に発行していて、現在も健在のようだ。守川という人は過去に「黒人闘争の歴史」とか「サッコとバンゼッティ事件」といった著書があるので、その傾向はわかる。この本も、抑圧されてきた歴史を持つ、フィリピンの民衆に寄り添った内容、筆致ではある。何せ、フィリピン、幸か不幸か、国名もスペインの王フェリペに由来するものなのだから。いわゆる大航海時代に、あちこちで登場するマゼラン、レイテ島に到着した後、セブ島に移り、セブ王への服従とイスラム教からのカトリックへの改宗を迫るようになる。当然、住民の反発をくらい、マクタン島の王ラプラプとの戦いで戦死する。ラプラプはセブの英雄、いや、フィリピンの英雄となっている。しかし、セブの地名にもなっているレガスピによって、マニラが征服される。スペインの植民地の時代が続いた後、次はイギリスが進出、更に、スペインとの戦争に勝利したアメリカの傘下になっていく。そこで、独立を宣言するも、事実上はアメリカの統治下であった。反発したフィリピン人が蜂起してアメリカとの戦争が始まる。ここで、アギナルド初代大統領を捕らえたのがアーサー・マッカーサー、あのダグラスの父だ。後には、息子の方もフィリピンにやってくるのだが。そのダグラス・マッカーサーは、第二次大戦化に日本がフィリピンに攻めてくると、フィリピンを見捨てるような形で逃れ、フィリピンは日本の軍政の支配下に置かれる。しかし、アメリカもそのまま黙ってはおらず、フィリピン奪還を仕掛け、日本との間で住民を巻き込んだ戦闘を行う。沖縄戦に匹敵、それ以上かも知れない地上戦により、フィリピン住民は多大な被害を被った。そして、アメリカ傘下で基地も残された。ここいらは沖縄の歴史にも非常に通じるものがある。スペインの世からイギリス世、アメリカ世から日本の世、そしてまたアメリカ世・・・この本で書かれている歴史は1960年代までだ。“フィリピン人民はどこへ行くのだろうか”と締め括られるように、米軍が撤退する1990年代までは、真の独立を果たしたとは言えない状態が厚づいた。その後も、マルコスの独裁政治が続き、後の大統領もエストラーダだのドゥテルテだのといったトランプチックな人が務め、現在は、独裁者だったマルコスの、まさにぼんぼんだった、ボンボン・マルコスと。いやあ、独立が果たされても民衆の苦労は絶えないのではないのかな。ここいらのフィリピンの、特に政治面については、まだまだわからないことが多い。沖縄の図書館には、そこらの蔵書が乏しいので、これはまた、移ってから改めて・・・
2024年03月07日
コメント(0)
これも読みたかった本で、県立図書館に収蔵されていた。昨日の「射鵰英雄伝」同様、長い休館期間を利用して借りてきた。二段組で300ページなので、そこそこ量があるなと思って。でも、対談が中心の内容なので、「射鵰」と並行しながらもスラスラ読めた。なぎら健壱著「高田渡に会いに行く」(’21 駒草出版)。なぎらが対談する相手は、高田の兄、元奥さん、息子の高田漣、佐久間順平、シバだ。特に興味深いのは、身内以上にミュージシャン二人の方の証言だ。何せ、あの人、家庭よりもミュージシャンとのつきあいの時間の方が長そうだったからね。なぎらは高田の弟子を自称している。高田の歌というのは、自分で作詞作曲したものは、ごく初期のみで、後は、詞も曲も全て流用だ。まずは詩を見つけてくるらしい。そして、それに合うメロディを、主にアメリカのトラッドやブルースから持ってきて組み合わせる。時にはシャンソンやスペインの歌からも。その組み合わせが絶妙で、まさにオリジナル、他の誰もが出来ない歌作りだった。“生活の柄”や“仕事探し”等、全てそういう風に生み出された。そして、あの朴訥とした個性的な歌いっぷり。確かに唯一無二の存在感だ。実は元々ギターもうまかったらしい。バンジョーにも凝ったことがあるそうだけど、なぜかステージでは披露しなかったが、マンドリンも名手だったらしい。ところが、そういう曲作りの妙や、演奏技術、創作にまつわる努力や試みは、全て酒によって失われていった。元々は飲まない人だったそうだ。よりによって高田に酒を教えたのは医者だったそうで、その藤本医師は、晩年のかかりつけ医でもあり、藤本医師のところに行けば、高田の体調は何とか持ち直していたらしい。しかし、それが仇となり、高田は、飲んでは体調を崩すを繰り返す。あの見た目からは信じ難いが、高田は享年56歳だったのだ。その葬儀の場で、藤本医師は泣き崩れたという。確かに、高田の死の遠因は、その医師にあったかも知れない。三鷹のいせやで早い時間から飲んでご機嫌そうなおじさんと、一見思えるが、実は決して親しみやすい人ではなかったらしい。ただ酒に溺れて行ったのは寂しがり屋だったが故なのだろう。そもそも酒には強くなかったらしいし、大した量は飲んでいなかったらしい。ただ、朝からダラダラと飲み続けていると。映画「タカダワタル的」にも描かれていたけど、晩年は、ステージで寝てしまって、目覚めて、また続きを歌い出すなんてこともしばしばだった(僕が、その死の5ヶ月前に見た唯一のステージは、割とちゃんとこなしていたと記憶するが)。映画の影響で、それが面白いというか、ある種の伝説みたいになってしまったのは不幸な一面とも言える。なぎらも嘆いているように、あれがダメだと誰も言えなかったのが問題で、(なぎらも言えなかったということだ)高田はミュージシャンとしては自滅の道を辿ってしまったのだ。アル中になってしまったことは本人も認めていて、ある人を前に泣いて告白したこともあったという。そんな高田の晩年にバックでつきあった佐久間には、苦労は絶えなかったろう。送迎のみならず介抱や下の処理まで・・・そんな周りに迷惑をかける人だったにも拘らず、なぜかみなが高田に惹かれた。これは誰もが口を揃えて語る、まさに、高田は“人たらし”であった。そして、シバがいみじくも語ったように、“高田渡は高田渡をやっていた”、特に晩年はそうだったのだろう。様々な証言で、高田渡その人のキャラクターを浮き彫りにしているけれど、それでも尚、高田渡という人は掴めない人だ。確かに、もうこんな歌い手にはお目にかかれないかも知れないな。初期の音源、ちゃんと聴いてみないとね。
2024年03月03日
コメント(0)
いや〜、よーやっとだ。金庸の「射鵰英雄伝」全5巻(徳間書店刊)を読了した。2巻までは結構前に読み終えていたのだけど、3巻目以降は、どういうわけか、なかなか進まず、県立図書館で借りてきたのは、これで3回目!三度目の正直で、ようやく読み終えた次第だ。でも、つまらなかったわけではない。面白かったのにも拘らず、なぜか中断してしまって読みきれずに返却したのが2回。今回、県立図書館がメンテナンスで1ヶ月休館ということで、長めに借りることが出来たのだ。去年から足掛け1年くらいかかっての読了だ、やれやれ。ドラマシリーズ等は知ってはいたけど未見。この小説を読まないとと思ったのは、ウォン・カーウァイの「楽園の疵」を遅ればせで見たのがきっかけ。周知の通り、あの映画の原題は「東邪西毒」。と聞けば、金庸を知る人ならすぐにわかる、「射鵰英雄伝」の主要人物二人の名を冠していたわけだ。映画ではレスリー・チャン扮する西毒とレオン・カーフェイ扮する東邪の若き日を描いていた番外編なわけだけど、そもそも「射鵰」を読んでないと、そこらもわからないわけで、香港、中華圏の武侠映画を見るにあたって、金庸のものは読んでおかないとお話にならないかなと思った次第だ。で、「射鵰」だけど、主人公は、割と愚鈍でヒーロー然とはしていない郭靖と、そんな郭靖になぜかベタ惚れの利発にして自由奔放な黄蓉の物語。スケールは雄大で、前半と終盤でジンギス・カーンも登場。モンゴルが帝国を築く時代を背景に描かれる。各民族が熾烈な戦いを展開する一方で、郭靖の周辺の北乞南帝東邪西毒を中心とする武芸の達人たちは、戦乱我関せずとばかりに、互いの腕を競い合ったり、権謀術策でもって自らの名を上げることに勤しむ・・・郭靖は、金の王・完顔洪烈に父を殺された遺恨があるが、その復讐が第一義ではない。行く先々で出会う個性的な武人たちとの関わりで、中国各地を旅し、次第に武芸の腕を磨いていく。ついには、モンゴル軍の武将にもなって戦いに参加するも、その非道さにはついていけず、カーンの下を離れる。意外なのは、漢民族第一主義のような愛国調は、あまり感じられず、金は悪役ながらも、それほど極端な描き方はなされていない。ジンギス・カーンらモンゴル人にの描写に関してもリスペクトの念が感じられる。全中華圏で愛されている小説ながら、決して中華民族の優越ばかりを描くような狭量な物語にはなってないのだ。ただ、勿論、基本は中国武術の奥義の深さ、偉大さに貫かれてはいるのだけど。この小説の魅力は、その虚実織り交ぜたストーリーも勿論だけれど、やはり、登場人物のユニークさが何よりだ。確かに、ここに登場する人物たちで、幾つものスピンオフが出来そうなくらい、実に個性的な面々が勢揃いだ。“老頑童”周伯通あたりを主役にシリーズものが出来てしまいそうだ。結局、華山論剣で、最も強かったのは、西毒だったということになったわけかな。結末は、些か歯切れが悪い感じなのだけど・・・道理で、郭靖と黄蓉の物語は、この後の「神鵰俠侶」に引き継がれるのだそうな。ひえ〜、やっと、全5巻読み終えたのに、今度は全8巻!?一応、県立図書館には置いてあるけれども・・・もう、沖縄にいる間に読み切るのは無理かも・・・ナイチの図書館にも置いてあればいいけどね。まあ、せっかく小説を読み終えたところで、「三国志」(こっちは漫画だけど)同様にドラマシリーズを見てみたいね。小説に登場したキャラクターたちがヴィジュアルではどう描かれているか。かつては、チャンネルネコとかで、よく放送されていたドラマ、また放送されないかな。ま、配信探せばどこかで見られるのかも。中国の武侠の道を極めるのは、まだまだ遠い道のりだね・・・
2024年03月02日
コメント(0)
これも前から読みたかったのだけど、本当はタイミング的に昨年末までに読もうと思っていた。チーフタンズの伝記本「アイリッシュ・ハートビート ザ・チーフタンズの軌跡」('97 '01 ジョン・グラット著 音楽之友社刊)。メンバーのインタビューを主とした正統の伝記だと思う。パディ・モローニがチーフタンズを結成した1962年当時、アイルランドの伝統音楽の演奏だけで職業として成り立つとは考えられていなかった。モローニ自身も、長く一般企業に勤め、管理職にもなっていた。アマチュアとしてショーン・オ・リアダのキョールトリ・クーランに参加し、オ・リアダから学びながらも独自の音楽を追求し、バンドを結成に至る。当然、この本は、モローニの歩みを中心に辿るものだけれども、各メンバーの出自についても取り上げ、バンドの伝記として、細かくエピソードを積み上げていく。専属のマネージャーもいたけれど、かなり長い期間、モローニは、単に音楽的なリーダーとしてだけではなく、バンドそのものを仕切っていた。長く勤め人として会計を担当していたこともあって、ビジネス感覚にも長けていた。アイルランドの伝統音楽の伝播を第一義としながらも、その世界的な普及に全力を注ぐ。チーフタンズのような形でアイルランドの伝統音楽をポピュラーにしていった存在は稀有で、とりわけアイリッシュルーツも多いアメリカでも大いに受け入れられた。ロックバンドとの共演も含めたビッグビジネスにも参入していくが、それでもモローニが、メンバーの家庭生活が脅かされるような過酷なスケジュールは、頑として拒否した。一方で、アイリッシュのステロタイプを否定すべく、メンバーの規律には厳しかった。自ら仕事中毒と称するモローニの八面六臂ぶりが印象に残る。歴史的名盤と言っていい、ヴァン・モリソンとの「アイリッシュ・ハートビート」の制作過程等、アルバム制作のエピソードも色々と興味深い。年代を追って、チーフタンズが世界に受け入れられて行った過程が非常によくわかる、真っ当な構成になっている。後に、「リヴァーダンス」で大成功を果たす、ダンサーのマイケル・フラートリーやジーン・バトラーもいち早く起用していた。ただ、一時メンバーだったガルシアのカルロス・ヌニェスとの活動のあたりは記述が少ない。原書の出版は1997年だったので、まだ現在進行形だったということだろうか。その成功の大きさ故に、国内からの、やっかみや妬みもあったというが、その辺にも触れられている。しかし、グラミー賞を連続受賞した、一連のコラボレーションアルバムは、ケルトをテーマにアイルランド音楽の地平と可能性を更に広げようとした音楽的追求も大いに感じられて、この人たちは決して、ロックスターとの共演に浮かれていただけではないことは明らかだ。誰がどう言おうと、チーフタンズがアイルランド音楽の世界で残した功績は、あまりにも大きい。それにしても、あの精力的なモローニ、本当に死んでしまったのだろうか?未だにピンと来ない感じだ。あの人は、今もメンバーを叱咤激励しながら、世界のどこかを駆け巡って演奏を続けているような気がする。音楽に一生を捧げた偉大なるアイリッシュ・ソウルの主に、永遠に幸あれと祈りを捧げたい。この本、今更ながら購入したいのだけど、生憎、高値の古書しか出回ってないようだ。故ナンシー・グリフィスによる朗読版もあるみたいだけど。
2024年01月30日
コメント(0)
これも前から読みたかった本だ。十数年前に出た本だけど、「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」'10(日経BP社 デヴィッド・ミーアマン・スコット ブライアン・ハリガン著)、また県立図書館で借りてきた。ハードカバーで結構厚くて、おっと思ったけど、開いてみて、ありゃ、何、このフォントのデカさ?子供の絵本並の字の大きさ。ちょっとなめてんのか?って思えなくもなかったけど、あの糸井重里が絡んでいるから、さもありなん。この本の翻訳を出そうと言ったのが糸井だったそうな。まあ、糸井が言わなくても誰かが言い出したとは思うけれど。で、翻訳者の渡辺由佳里という人は、共著者スコット夫人だそうで、あ、手前味噌?ままよ。内容的には、まあ、グレイトフル・デッドについての知識が多少ある人なら誰でも知っているような、彼らのポリシー、アティテュードについての記述。ま、確かに、今のネット時代に通じるものを先駆けていたというか、そもそもインターネットが、彼らのようなヒッピー系のコンセプトを具現化したものだろうから、彼らの取った“戦略”が、現代に通じるというか、一般的であるのは当然といえば当然。そういう意味では、彼らのやり方を現代のマーケティングに活かそうみたいな、この本は、むしろ、先祖返りというか、ネット時代に至る根本原理を改めて確認しようということに過ぎない感じがする。勿論、彼らのようなやり方を始めることは大変勇気がいったろうし、その手法に倣った人たちは慧眼ではあったろうけど。尤も、草の根とも言える彼らのやり方を踏襲し切れず、典型的なビッグビジネスのやり方が今も横行しているのも事実だろう。正直、タイトルで謳われるような、ビジネス書としては、それほど、優れた内容とは思わない。まあ、ああいうやり方があって、それに共感して取り入れるか否かであって、それをまとめているだけというか。デッド、肝心の音楽だけど、彼らのアルバムって2、3枚しか聞いたことがなくて、アイチューンにはデビュー盤が入ってるだけ。キャリア前半をまとめた箱ものは持っているけど未開封。勿論、ライヴにも触れたことはなくて、実は彼らの音楽的本領?は理解していないというのが正直なところだ。ナイチに帰って時間が出来たら箱を開けてじっくり聞いてみたいところ。ライヴ音源にまで興味が赴くかどうかはわからないけれど。
2024年01月23日
コメント(0)
1週間前に取り上げた「日本を捨てた男たち」と同じ著者による「脱出老人」'15 (水谷竹秀著 小学館)を読んだ。前作が賞を取って好評だったようで、今回は装丁は似ているけれど別の出版社より刊行。こちらもフィリピン移住した熟年(主に)男性を取り上げているが、テーマ的には、日本の老後政策を扱っている部分が主。最初に登場の71歳の元警官も、前作でよく登場したように、フィリピンパブにハマって移住したクチ。しかし、この人は24歳年下の妻と幸せに暮らしている。妻の家族に援助はしたけれど、言われるままに金を渡すのではない程々のスタンスでうまく行っているようだ。何より、異国で生活を送ることに対する寛容さがあるのが肝心かも知れない。こういう具合に、稀に“成功例”もあるのだ。次に登場する人も、ある意味フィリピン社会には溶け込んでいる。何せ、妻と一緒にスラムで暮らしているのだ。フィリピン人は金持ちの日本人は金づるとしか見ていないが、困窮した日本人には、むしろ、同情をかけ優しくしてくれる傾向があるようだ。そもそもカトリックが多いから同胞に手を差し伸べる精神を持ち合わせている。助け合いで生きることは当然と考えていて、それは外国人に対してであっても変わらない。しかし、その男性は、まさに現地人化しているので、著者に金銭援助を依頼してくる。そのことで取材は打ち切りとなってしまうのだが・・・震災を機にフィリピンに移り住んだという夫婦もいた。そもそも、雪国での生活が高齢者にはしんどくなってきた。それは当然だろう。僕も雪かきをしなければいけないような環境に住みたいとは全く思わない。ところが、この夫妻はフィリピンでも被災してしまった。フィリピンは沖縄以上に台風銀座に思えるが、レイテ島で大きな被害が出たという。日本に拠点を残さずに海外で被災をしてしまったら厳しいだろう。結局、夫妻はセブ島への移住は断念したそう。尤も、セブは台風の直撃はないと聞いているのだけど・・・一番印象に残ったエピソードは、セブ島の日本人墓地に眠る女性の話だ。元高校教師の意識高い系というか、フィリピンの社会問題等にも関心があったらしい。しかし、現地の生活に溶け込めず、隣人のカラオケ騒音等に悩まされたらしい。う〜ん、フィリピン、実際に住んだらそういう問題は確かにありそうだな。明るい人たちならではの無神経さが。女性はコンドミニアムで孤独死したという。一人でいるのが好きだった人というのは身につまされるものがあるな。著者は、特に後半で日本における孤独死の問題に焦点を合わせていく。人間が一人で死んでいくのは、むしろ当然だと思うのだけど、誰にも気づかれずに、部屋で腐乱、白骨化なんて事態は避けたいところだ。近隣とのつながりやコミュニケーションを保つよう努力するよりないだろう。日本は高齢者が生きづらい国になってしまった。しかし、海外に移住して必ずしも幸福を得られるものか。少なくともフィリピンでは孤独死の事例は見られないし、介護施設すら、ほとんどないらしい。高齢者を家族でケアするのが当然の社会だからだ。その意味では、近隣に溶け込みさえすれば日本よりは不幸でない晩年を過ごせる可能性もある。海外での客死、それも独り身ではありなのではないかとも思えなくもない。退職者ヴィザを扱うフィリピン退職庁の長官は、著者に取材に対し、“だったら、みんな連れてこいよ!”と宣ったとか。日本の高齢化社会の状況は、フィリピンにとってのビジネスチャンスの側面があると考えての発言か。ただ、フィリピンとて、今後は日本のような状況になっていく傾向もある。結局、終わりゆく社会は、発展しつつある社会の方に色々な面で移行されていくということは、ある種、当然というか、その流れと考えてもいいのではないかというのが、読後の個人的な感想ではある。なわけで、とにかく、来年のセブ島行きは継続して考えたい。一方で、この本の参考文献も引き続き読んでみたいと思う。海外移住の色々な側面を鑑みるためにも。
2023年07月29日
コメント(0)
前にも書いていたと思うけど、日本を脱出した場合の今後の移住先、かつてはマレーシアだったけど、今はフィリピンが有力だ。でも、フィリピンって、どうも物騒なイメージあるよね、最近でもルフィだなんだと。僕はマニラすら行ったことがないから、まだまだ未知の国。実際に渡航するのは来年以降になりそうだけど、とりあえず活字やらで情報を仕込んでおくべく。で、図書館で借りてきた一冊が、「日本を捨てた男たち」'11(水谷竹秀著 集英社)。ちょっと意図していた目的とは違うけれども、これは今後の現実を考える上で色々と興味深かった。暇な日曜日、返却期限の都合もあって、一気に読み進めた。副題に“フィリピンに生きる困窮邦人”とある。日本よりも物価の安いフィリピンにて、困窮する邦人とは?これ、正確に言えば、日本を捨てたというか、捨てざるを得なかった男たちの話だ。むしろ、日本に捨てられたと言った方が正しいかも知れない。著者は、日刊マニラ新聞社なるフィリピンの新聞社に勤める記者だ。フィリピンでは、にっちもさっちもいかなくなった現住日本人が大使館に駆け込む比率が最も多い国の一つだそうだ。そこで、その実情を著者が探ったのが、この著書だ。大半は、日本でフィリピンパブにハマり、その女性を追っかけてフィリピンへ。そのうちに有金を使い果たし、ある者は病気になったりといった不幸もあり、異国でホームレスに身をやつす。しかし、フィリピン人は、カトリックに加えてラテン気質のせいか、貧しいものには優しいという傾向があるようだ。本来の?金持ちの日本人は金づるにしか思っていなかったとしても、落ちぶれた日本人にはすこぶる優しく、食べ物や住居を提供したりも。それで、異国で身をやつした日本人も、案外、何とか生きていけたりしているという例があるようだ。僕自身は、フィリピンパブというのに生涯で一度しか行ったことがないけれど、確かに、フィリピーナたちは実にノリがいいし、何より歌がうまかったことが印象に残っている。ウチナーンチュなんかもそうだけど、芸人気質というか、生来のエンタテナーの素質を備えているかのような。しかし、その明るさや優しさにハマってしまう日本人が、かくも多いとは。で、フィリピンで有金を使い果たした日本人は、故国に帰ろうにも、経済的な問題のみならず、親戚縁者との関係が微妙で、援助はあてに出来ないといった人たちが多い。ここらは、自分も身につまされるな。日本で好き勝手に生きて周囲を顧みなかったにも拘らず、困ったら縁者を頼る。それでは通らないのが日本社会だ。しかし、優しいフィリピン人は、そんな困った日本人にすら手を差し伸べる。でも、その優しさが却って仇になっているという感じもある。まさに、“自己責任”で切り捨てられそうな事例が並ぶ中で、最後の章に登場の星野さん(仮名)は、ちょっと異色で、これはある種、自分の目指す姿のようにも思えた。紆余曲折はあったけれども、年金生活をフィリピンで過ごし、郊外で慎ましやかだけど、そこそこ楽しい生活を送る。自炊生活に近所の友人との交流等、至って地味な暮らしだけれども、かつての派手な暮らしに未練のある日本人が多い中、割り切った軽さが印象的だ。尤も、日本には捨ててきた妻子がいるわけだけれども。この本が好評だったのか、著者は、「脱出老人」なるタイトルの同種の本を別の出版社から上梓している。実は今回そっちも借りてきたので、続けて読むとする。さて、自分は、果たして、日本を捨てられるかな?
2023年07月23日
コメント(0)
何かのニュースで知ったけど、神保町の書店・書泉グランデの店員が、絶版だった書籍を出版社と交渉の上、復刊。書店で買取をする形で実現させたとか。その本が、「中世への旅 騎士と城」(’82 白水社)。僕自身も中世の騎士物語は好きなので、なかなかそそられる本ではないか。新書版として復刊したそうだけど、これは図書館にも普通に収蔵されていた。ということで、「騎士と城」に加え、やはり、復刊なった「中世への旅 都市と庶民」「中世への旅 農民戦争と傭兵」も併せて借りてきた。いずれも250ページ程度で気軽に手に取れる分量だ。ハインリヒ・プレティヒャというドイツ人作家・学者が、豊富な資料を基に、主にドイツの騎士たちの生活ぶりをわかりやすく紐解いて読ませる。まだ「騎士と城」を半分ほど読み進めたところながら、日常生活や城の特徴、城での暮らしや衣食等を活き活きと伝える。なるほど、これはなかなかワクワクさせられる。ドイツ人による書だから、「ニーベルゲン」からの引用も多く、原典も併せて読みたくなってくる。今更、中世の騎士のお話なぞ読んで何になるというところだけど、それが読書というもの。このところは、こんな具合に、興味の赴くままに脈略なく色々借りている。音楽関係や映画関係の本でも読みたいものはいくつかあるし、映画といえば原作のミステリー小説等もそそられるのだけど、とりあえずは、今回の3冊を読んだら、騎士文学の方に進んで、しばし、中世ヨーロッパの世界に思いを馳せるのも良いかなと思ってる。読みたい本が色々あるというのは、脳が活性化してきている証拠ではということで、少しは自分も立ち直りつつあるのかなと・・・
2023年06月18日
コメント(0)
「少年と犬」'75という映画がもうすぐ公開予定(沖縄で)、これ日本初公開出そうな。あの、サム・ペキンパー組のバイプレーヤー、L・Q・ジョーンズの監督作。これは観たいなと思うが、しかも、原作がハーラン・エリスン。どちらかというとテレビドラマの脚本で名を知った人で、「宇宙大作戦」の“危険な過去への旅”なぞ実に傑作であった。では、映画を観る前にエリスンを読んでおかねばと、図書館で文庫本を2冊借りてきた。まずは、「世界の中心で愛を叫んだもの」’71(’79 早川書房 どこかで聞いたようなタイトルだ)。長めのまえがきから始まり、表題作他数篇を読むが、これはなかなか手強いというか、正直、描写がよくわからないところが多い。訳が良くないのかなと思うも、浅倉久志に伊藤典夫という名手二人なので、まあ間違いはなさそうだ。エリスンの文体は、なかなかぶっきらぼうでお上品とは言い難い。内容も戦いや暴力の要素が多く、ある種殺伐とした未来世界を想起させるものが多い。そんな調子なので、ちょっと読み進める速度が遅れがちなのだけど、とりあえず、肝心の「少年と犬」を読んでしまう。これは、この短編集の中では比較的長めの60ページ程のもの。第四次大戦後の未来世界の話ということだが、実は2024年。それで、今になって映画が公開されるのか(以下ネタバレあり)。こちらも暴力、セックスが溢れる内容だが、要は地下世界がエリートのような人たちが住む管理社会で、少年ヴィクは、そこを引っ掻き回した上で、元の世界に娘を連れて帰っていく。ちょっと「未来惑星ザルドス」にも似てないことはないかな。何よりも、犬のブラッドが喋るという設定だ。そこは、詳しくは語られてないけど、テレパシーを通じてヴィクとだけ話せるということか。結局、最後にヴィクは、娘を選ぶ以上に犬のブラッドを選ぶ、これが“愛”なのだと。いい結末だね。他のエリスンの短編に比しても、わかりやすく面白かった。ただ、これをこのまま映画化出来るのかなと思ったが、映画の予告編を見る限り、原作に近い内容らしい。ただ、「マッドマックス」的な荒廃した砂漠のような世界が舞台だとは考えずに読んでいた。まあ、戦後の廃墟であるなら、そういうことになるだろうが。映画を観るのは、早くても三週間後くらいの予定。それまでに、他の短編も読んでしまわないと。しかし、先にも書いた通り、これがなかなか手強いんだなあ。図書館の返却期限までに読み終えられるかどうか・・・
2023年06月04日
コメント(0)
本当は別のものを借りるつもりで行ったのに、久々の県立図書館では、先日見たテレビ番組の影響で、ついつい西村賢太なぞ借りてしまった。それも、日記本だよ。2冊借りたけど、「一私小説書きの日乗 不屈の章」'17(角川書店刊)を、まずは読んだ。無頼で知られた西村の生活パターン、まずは午後に起床。入浴というのは、ちゃんと風呂にも浸かるのか?その後で、毎日の如くサウナ、どんだけ浸かっているのか。当時は、まだそこそこ人気作家だったから、それなりに執筆やら出版社からのお呼びもある。一方で、これは趣味でもあろう、私淑する私小説作家の資料整理。そして、週いちくらいのペースで“買淫”。その具体的内容には触れてないが、当たりとか外れの記述はある。サウナや買淫の帰りにラーメンだの牛丼だの回転寿司だのを結構な量食べて帰宅。そこから執筆作業、完全に夜型の人なんである。で、晩酌を始めるのが明け方4時とか5時。“晩”酌じゃないじゃんってツッコミたくなるけど、1〜2時間、様々なつまみで発泡酒一本に焼酎のホッピー割りを飲んで、締めには必ず炭水化物を食らう。井之頭五郎ほどではないけれど、かなりの大食漢には違いない。つまみの品が事細かに書かれているけど、そうそう不健康なものばかりでもない。まあ、寝しなに食うのが問題だったろうな。時折、特定の編集者をこき下ろすような記述がある。一方で、鶯谷の信濃路という行きつけの居酒屋や、文壇バーでの編集者との交流は、割合と楽しんでいたようだ。律儀に、毎月、私淑する藤澤清造の命日に香華を手向ける。そして、時に実際の墓を訪ねる。今は、その隣に西村自身が眠っているわけだけど。まあ、無頼といえば無頼なのかな。何せ、日々の晩酌だけは一日たりと欠かさない。この人は、クリスマスだろうが正月だろうが、頑なに同じ生活パターンを守り抜く。一応、正月はおせちを食べたりはするけれど。テレビは、「吉田類の酒場放浪記」は見ていたみたい。それでも、藤澤とか田中英光といった敬愛する私小説作家の本を読んだり資料を扱っている時は実に楽しそうだ。好きなことを生業にして、何はなくとも熱中できることを持っていた分、この人は、ある意味幸せだったのではないか。単なる好事家にとどまらず、自らも創作活動を行って、ある程度望みを叶えることが出来たのは、むしろ立派と言えるかも知れない。と、何にも表現出来ない自分には少なくとも、そう思える。まあ、本の内容そのものは読むに足るものかどうかって感じで、日記とはいえ、永井荷風とか、そういったレベルのものではない。それでもまあ、もう1冊も一応読んでみるとする。そこで、気づいたけど、装丁は同じながら、「一私小説書きの日乗 新起の章」'18は、角川ではなく、本の雑誌社からの出版だった。連載が途中で移ったらしい。この、あまり中身の無い日記が、「火の鳥」顔負けに出版社の垣根を超えて書き継がれたとは驚きだ。まあ、つきあいますよ、たらたらと。そういえば、このブログも“日常”を“日乗”に変えようかな(笑)?
2023年05月17日
コメント(0)
昨晩、ダチと4年ぶりくらいに飲んだ際に本を一冊もらった。本と言っても漫画なんだけど、これが、なぜか「まんがトキワ荘物語」'12(祥伝社)。どう入手したか、何でこれだったのかは聞いたような聞かなかったような。とにかく、帰りの機内で読むものが手に入ったのはありがたい。手塚治虫を含む、トキワ荘縁の12人の漫画家たちによる書き下ろし回顧篇、1969〜79年にCOM誌に掲載されて1983年に単行本化されたものの再編集版で、増刷4刷は昨年出ている。短いもので8頁、長くても15頁程度の短編集だ。藤子不二雄Aのものは前に読んだことがあるな。貴重なのは、漫画をほとんど読んだことがない鈴木伸一のもの、それに、最近亡くなった永田竹丸や森安なおやのものだろう。森安は、1970年時点のその作品で15年ぶりに描いた漫画だったという。のほほんとはしているけれど、結構しっちゃかめっちゃかの粗さも感じる。よこたとくお(昨年他界)という人も住人だったそうだけど、藤子の「まんが道」には一切登場しないので、その認識がなかった。この人、ある意味、最も無頼なキャラだったようだ。この時点では、寺田ヒロオも普通に漫画を描いていたようだけど、次第に仲間たちに取り残されていった寂しさが、作中に漂う内容だった。個人的には、意外にも赤塚不二夫のものが一番印象に残った。手塚と赤塚を除く顔ぶれに大家さんまで加わっての対談は、トキワ荘が取り壊される1982年、最初の単行本が出る段階で行われたものだろう。ここでも寺田や森安が健在。でも、編集者?による仕切りが今一つのせいか、どうにもとっ散らかったまとまりのない内容になっている。何はともあれ、羽田から沖縄までの機内での時間を潰すには、ちょうどよい分量だった。いつか時間があれば、ミュージアムになったトキワ荘を訪ねてみたいもの。そして、帰りには、松葉でチューダーとラーメンを、んまい、んまい。
2023年03月21日
コメント(0)
那覇市立図書館ががサイバー攻撃でを受けてまともに利用できなくなっていた期間、しばし読書が途絶えていた。でも、コロナで休館したりして久しく利用していなかった沖縄県立図書館の方にしかない本を読む機会でもある。ということで、以前からチェックしていたものをこれから借りようと。まずは、今更ながらコロナ禍で読むべき本として挙げられていた一冊を。ちょっと時間かけて読了。ネヴィル・シュート著「渚にて」(’58 文芸春秋新社刊)、核戦争が起こった後の、かろうじて生き延びた人々の行動を描く物語。ハリウッド映画でお馴染みの題材だが、映画の方は未見だ。小松左京の「復活の日」にも似た内容だが、こちらは、むしろ静かに滅びゆく人類の様を淡々と描く感じだ。図書館所蔵本は初版かどうかはわからないけれど、かなり年季の入った本でバッチいし臭う。活字も小さめの280頁。気になったのは、主人公であるドワイト・ライオネル・タワーズ中佐の呼称が、時にドワイト、時に艦長、時にタワーズ中佐等と変わること。当初、別の人物かと思えたけど、勿論、一人。これは原著がそうなっているのかもしれないけれど、統一してくれないとややこしいよね、至極基本の話だと思うけど。とまれ、このタワーズは、既婚者のようなのだけど、妻子は生死が不明らしい。それを知ってか知らぬか、モイラ・デヴィッドソンはタワーズとの逢瀬を繰り返す。二人に性的な関係があるわけではないのだけど、モイラはやけなのかどうか、しょっちゅうブランデーを煽っていてアル中状態だ。この時代、女の方が積極的で、これだけ飲んでいるのもなかなかだと思うけれど、当時のハリウッド映画でも時々描かれていたけど、立場を捨てれば、案外、女でも自由にいられた時代だったのかも知れない。お話は、この二人と、タワーズの部下にあたるオーストラリア海軍少佐ピーター・ホームズと、その家族との交流などを描いているけど、人間ドラマ的に特段の起伏があるわけではない。ただ、北半球を壊滅させた核の放射能は、次第に南半球にも迫ってきているということで、登場人物は、一様に、いずれは自分達にも終わりの時が近づいていることを意識している。ある種、絶望的な物語なのだ。彼らが特に何か行動を起こすわけではなく、まさに淡々と日常を送っていく。タワーズのみは、自らが指揮を執っていた潜水艦と運命を共にしようとする。そんな具合で、「復活の日」のようなサヴァイバルの葛藤があるわけではない。終始クールなジョン・オズボーン博士のように、起こる物事に冷静にあたっていくだけだ。映画版のタワーズ=グレゴリー・ペック、モイラ=エヴァ・ガードナー、オズボーン=フレッド・アステア(これは意外なキャスティング)らを思い浮かべながら読んでいた。最後は、皆が用意されていた赤い小箱を開け、その中の薬を飲んで命を絶っていく。この非情さはなかなかだとは思ったけど、核の放射能による病状、症状に対する決定的な無理解、誤解に基づいた結末なのが痛い。時代だから仕方がないのか、或いは、アメリカ人は、今でも自分達が他国に落とした爆弾の“効果”について無理解なままなのかも知れない。訳者の木下秀夫という人のあとがきを読んで驚いた。この小説は、当初、シノプシスだけ文春に掲載されたそうだけど、この本は、それを”ほぼ完全なかたちで・・・伝えることができた”とある。“ほぼ”である。実は、割愛された部分があるようで、主筋から離れた描写の部分がカットされているらしい。おそらく、その後に創元社等から出版されたものは、ほぼではない”完全版”なのだろうけど、いやあ、県立図書館、そっちの方を入庫していて欲しかったなあ。まあ、後は映画で観ればいいかねえ・・・
2023年02月22日
コメント(0)
ナイチ帰宅の機内で読んでいた本は、吉村英夫著「『男はつらいよ』、もう一つのルーツ ポピュリズム映画考」'22 大月書店。「男はつらいよ」、山田洋次関連の本を多く出している著者の最後の著作との触れ込み。何せ著者も82歳、その意味では、非常に力の篭った一冊だ。まず、表題にある“ポピュリズム”だが、大衆迎合というネガティヴな意味合いで使われがちだけど、本来の意味は少し異なるようだ。大衆に阿るわけではなく、あくまで大衆に寄り添うという意味合い。その観点から、著者が考えるポピュリズムの映画作家の系譜を辿り、そこに山田洋次が連なるという論考だ。まずはアメリカのフランク・キャプラ、まさに大衆に寄り添った映画を撮り続けた人。そして、日本では、少し意外な家城巳代治。この人はレッドパージで松竹を追われた故に、代表的な作品が注目を浴びなかった嫌いがある。しかし、美空ひばりの「悲しき口笛」にとどまらず、秀れた作品を発表している。その松竹時代の門下の一人に山田洋次も名を連ねていた。「男はつらいよ」のルーツとなった作品として、フランスの劇作家マルセル・パニョルのマルセイユ三部作があることは山田自身も語っているのだけど、その点が、これまであまり取り上げられたことがなかった。何せ、山田は、パニョルの「ファニー」を翻案した「愛の讃歌」'67という作品を撮っているし、「マリウス」は、音楽劇として舞台版の演出まで手掛けている。寅さんの下町人情の世界は、マルセイユの港町の人間模様が原型なのであろうと。その山田に辿り着く前に、日本映画の二大巨匠である黒澤明と小津安二郎のポピュリズム作家的な部分に触れる。スケールの大きな力技の作品を撮ってきた印象の黒澤も、探っていけば大衆に寄り添った作品を撮っている。それは、「どですかでん」等の後期の作品ではなく、貧しさ故に誘拐に手を染める犯人を描いた「天国と地獄」や汚職の罪を着せられて死んだ父親の復讐劇を描いた「悪い奴ほどよく眠る」にも当てはまる。しかし、ヒーロー、アンチヒーローを描いた堂々たる黒澤映画の評価は、時代の移り変わりのうち、普遍的な家族の問題を描いた小津安二郎の方に取って変わられる。そして、小津。晩年の小津作品は、ブルジョア家族の結婚を巡る小喜劇作品の印象だが、極め付けの代表作「東京物語」は、少々趣が異なる。決して豊かとは言えない子供たちが、突如、上京する両親のアテンドに四苦八苦。ついには、疲労の果てに母が体調不良を起こし帰らぬ人となる。血の繋がっていない原節子が献身的に義父母の世話を焼くが、実の子供たちの対応も、決して責められるものではない。そういえば、小津は、戦前は、喜八ものを始めとした小市民映画を撮り続けていた人でもあったのだ。そして、そんな蒲田、大船の小津の系譜を継ぐという意味でも、改めて山田がポピュリズム映画の作家であると結論づけられる。勿論、大衆に寄り添った映画の作り手としてということだ。最後に、番外編として、“『東京物語』と競輪、そしてアルコール”という章が付加されている。小津が、野田高梧と共に、名作「東京物語」の脚本を執筆中、競輪にのめり込んでいたことが、日記からもわかる。その点に着目した文章というのが、これまでになく、そこを吉村が探っていく。確かに、稀代の名作の創作のクライマックス時に競輪熱というのは不思議な取り合わせだ。これまで取り上げられることがなかったのは、そのことが作品創作にどのような影響を与えたのかを判断しづらかったためと思われる。しかし、小津と野田が競輪に傾ける情熱と共に、「東京物語」の創作もピークを迎えていたことは事実。作者たちの創作意欲は新興(当時)ギャンブルへの肩入れと共に高揚を迎えていったということか。いかんせん、観ていない作品も多くて、内容についての細かい検証をしづらいところはあるのだけど、これまで見過ごされがちであった、映画史上の意外な事実を仔細に掘り下げていく、著者の飽くなき探究心には敬意を表する。何やかや、まだまだ情熱は燻っているようなので、最後と言いながらも、更なる著作が今後も有り得るのではないかと思っているけど。ひとまず、渾身の一冊の上梓に、お疲れ様と申し上げたい。
2022年11月20日
コメント(0)
コロナで突っ伏している間に、たまたま図書館から借りていた手塚治虫「火の鳥」を読んでいて、少し貸出期限を延長していたけど、ようやく今日読み終わった。コミック本は、大体、1日の1〜2時間で1冊を読み切るペースなのだけど、「火の鳥」に関しては、そうはいかず、少し時間がかかった。その意味では、病で時間があったのは好都合という側面はあった。まあ、さすがとしか言いようのない読了感。これは、やっぱり読んでおくべきものであったと改めて感じた。但し、「太陽編」が執筆された最後の巻とはいえ、手塚としては更に続きを書き進めていこうとしていたわけで、完結したという印象ではない。この続き、いつ読めるのかなと思えてしまうほど、生々しい読後感とでも言うべきか。とにかく話は壮大だ。過去を題材にした編から始まると、次は対極の未来の物語。それが交互に繰り返されながら、物語と歴史が収斂していく。それぞれの物語が繋がっていると言う描写が必ず終盤には織り込まれている。まさに、構成そのものが輪廻転生の如きもので、やはり、手塚治虫という人は天才だった言わざるを得ない一大叙事詩だった。読んだのは講談社の手塚治虫文庫全集版全11巻。少女クラブに連載されたエピソードを収めた12巻目もあるようだけど、それは地元図書館には収蔵されてなかった。手塚自身が発刊していたCOM、それに月刊マンガ少年、野生時代に書かれた版を収録しているけれど、単行本化にあたっても色々と手直しがなされているのだろうか。おそらく、その書き直しの違いを探っていくとキリがないだろうから、ここは、この文庫収録を決定版として記憶に留めておきたい。各編を一つ一つ書いていくといっぱいになってしまうけれど、まず印象に残ったのは「未来編」。時系列で言えば一番最後にあたるエピソードで、まさに、これが「火の鳥」の、とりあえずの完結編とも読めないことはない。とりわけクライマックスは独創的過ぎてわけがわからないくらいの内容で、SF作品としても一級、手塚治ならではの世界に圧倒される。もちろん、歴史上の人物を巧みに織り込んだ過去のエピソードは、楽しさと共に手塚の歴史解釈も興味深い。執筆年代としては最後の「太陽編」において、手塚の仏教に対する考え方が窺えるあたり、白土三平の「カムイ伝」に通じる部分もやや感じないでもなかった(あちらは、もう筋金入りの、ではあるけど)。「太陽編」は、そのエピソードの中で過去と未来を行き来する内容で、手塚としても「火の鳥」の物語の完結を意識しながら執筆していたかのよう。構成的に、あの、村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」との相似性も感じる。どちらが影響を受けているのか、受けていないのかは定かではないが。異色なのは「羽衣編」、歌舞伎の舞台を意図したかのような短編、本来は、次の「望郷編」との繋がりがあったらしいが、書き直されたとのこと。その、「望郷編」は、未来・宇宙系の中では、とりわけ印象に残るエピソードだ。火の鳥は勿論だけど、ほぼ共通して登場するキャラクターが、鼻のでかい猿田。お茶の水博士の原型という感じだが、「鉄腕アトム」の時代を描いて、そのお茶の水博士も登場するというのが、結末に近いエピソードとして構想されていたとか。手塚キャラということでいえば、ケンイチ、ロック、アセチレンランプ、ハムエッグ、それにスパイダー等が、様々な時代のキャラとして登場するけど、意外や、ヒゲオヤジだけは出てきてないのは、「火の鳥」と世界観が別ということか、或は、結末で登場予定があったのか。そこらは未完なだけに色々と想像の余地がある作品ではある。それにしても、この続きが読めないというのは誠に惜しい。でも、読みようによっては、「ブッダ」のように、「火の鳥」のエピソードの一つと読めるものもある。手塚漫画の奥深さを改めて知る。もっと、同時代的に読めるものは読んでおくべきであったという後悔も今更ながら感じる。後は、どこか他の図書館で、朝日ソノラマ版とか角川書店版とかを収蔵しているところがないものか、別ヴァージョンにもあたってみたいような気もしてくる。手塚沼、ハマると深そうだが、ハマってみる価値は大いにあるだろう。
2022年09月09日
コメント(0)
何やかや、図書館から借りて読み続けてきた白土三平「カムイ外伝」、続きの9〜12巻を予約したが、あれ、全15巻のはず、ということで追加で予約したけど、それは「カムイ伝」の間違いだった。どうやら那覇市立図書館では、「カムイ外伝」は最後の巻までないみたい。誰かが返さなかった?とにかく、12巻目までは読んだ。詳細が分かりづらいのだけど、やっぱり、更に続きがあったようで、それらを収録して全15巻なのだろう。「外伝」は続き物ではないので、エピソード毎に完結しているのだけど、カムイの幼馴染が登場するのが13巻以降だったようだ。まあ、正直、ここまでで充分かもしれない。前にも書いたけど、いわゆる“第二部”以降の「外伝」は、タッチが、あまりにゴツい劇画調過ぎて、ちょっと生理的に苦手だった。エピソードもえぐいものが多くて、読んでいてしんどいものがあった。寝る前に読むと夢に出てきそうで(実際、出てきた時も)。これはビッグコミックで1982年以降に連載されたものだそうで、一方、「カムイ伝」の第二部は1988年以降に連載されている。一応、第一部の続きのエピソードらしいけど、当然、画調は「カムイ外伝」第二部を踏襲するものだろうから、それはちょっと読む前から萎える。確かに、冷徹にして非情なエピソードの数々は凄みを持って読ませるけれど、ちょっとお腹いっぱい、胃もたれ必至なのだ。これ以上いいなもう、後期の白土漫画は、と思わせる。一応、返却期限は週末なので、そこまでキープして返却の後は、続きはもう借りないだろう。図書館で借りられる漫画シリーズ、いよいよ、次は手塚治虫の「火の鳥」を読んで完結の予定。9月のスポーツ観戦シーズンに入ると、読書そのものの時間がなくなってくるし。そういうことではいかんのだけどもね。とにかく、1週間お休みの後、手塚漫画に回帰してラストストレッチだ。
2022年08月09日
コメント(0)
読書は、再びクラシック漫画シリーズにカムバック。図書館で借りられるコミックも残り少なくなってきたけど、白土三平の「カムイ伝・第一部」の後は、「カムイ外伝」に進む。全15巻のうちの8巻までを借りてきた。“第一部・雀落とし”が単行本の2巻目まで続く。絵的に、ちょっと古めというか、「カムイ伝」以上に少年漫画っぽさが感じられたが、描かれたのは1965〜66年で、テレビアニメの「忍風カムイ外伝」に描かれたのは、この辺だろう。何となく覚えのあるエピソードもある。大河ドラマ的な「カムイ伝」に対し、こちらは抜忍カムイの戦いの日々に絞った内容だ。ところが2巻目の終盤に収録の、“第二部・スガルの島”になって、絵柄がガラリと変わる。何というか、ガキガキに描きこまれた劇画調なのだ。勿論、白土作品は元々劇画ではあるけれど、先の第一部は「カムイ伝」は、まだ漫画っぽさも残されていた。しかし、第二部は、のっけから女はおっぱい丸出し、全裸出しまくり、コマの隅々まで線が描かれ黒々としていて、何ともえげつないというか。正直、こういう画調は生理的に苦手で、え〜、これがずっと続くの?と、どうにも戸惑ってしまった。それもそのはずというか、第一部は、少年誌である少年サンデーに連載されていたが、第二部は、一部から15年後にビッグコミックに連載されたものだった。ウィキによれば、第一部のペン入れは、小島剛夕の担当で、二部は白土の弟・岡本鉄二によるものだそうだ。でも、二部の方が、小島の「子連れ狼」とかに近いものを感じる。僕自身は、あの辺の劇画というのは、ほとんど読んでいなくて、ああいったタッチにも慣れてない。ちょっと、この調子が続くのであれば、「外伝」は、途中まででいいかなあとさえ思えてしまう。数年前に崔洋一によって実写映画化されたのは、この“スガルの島”だったそう。さすがに、スガル役の小雪がおっぱい晒しまくりで演じるのは無理だったろうから、描写は抑えめなのだろうが。一方、未読の「カムイ伝・第二部」の方も、岡本の絵で、1988年からビッグコミックに連載だったから、このタッチが続いているのだろう。となると、もう「第二部」も読まなくてもいいかなあと思えてしまうけれど、あの「第一部」が、あまりにも色々寸止め状態で終わっていたから、続きがどうなるのか気になるということろは大いにある。どーしたもんかね。やっぱり、僕は、いわゆる少年漫画的なものが好きなのであって、こういうガチの劇画は、当時も敬遠していたのを、今更思い出した。白土三平、カムイとはいえ、これを読み続けるのはきっついものがあるなあ。まあ、とにかく借りた8巻までは何とかと思うけど・・・
2022年07月28日
コメント(0)
5月に岩波ホールに映画を観に行った際、最後の上映作品として「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」の予告編が上映されていて、これは観たいなと思った。幸い、沖縄でも上映予定があり、来週には観る予定だけど、まずは、そのイギリスの作家ブルース・チャトウィンについて知りたいと思った。なので、映画の予習として、彼の著作「パタゴニア」'77を図書館で借りてきた。勿論、チャトウィンが、いわゆるパタゴニアというエリアを自ら歩いた紀行ではあって、出会った先の人々との交流や背景も描かれたりはするけれど、これは単純な旅行記ではない。幼年期の祖母の家に飾ってあったプロントサウルスの皮?から始まり、旅の最中に見た諸々から想像を働かせて、その物語を紡ぐような、紀行文学のような1作だ。登場するのは、あのブッチ・キャシディ&サンダンス・キッドとか、一角獣とか裸の巨人とかオオナマケモノ等々。終盤は祖母の従兄弟であったチャーリー・ミルウォードの数奇な生涯にフォーカスする。何でもチャトウィンは、芭蕉の「奥の細道」の影響を受けているそうだ。なかなかの二枚目で人当たりも良かったから、各地で歓待されたそうだけど、チャトウィン自身はゲイでエイズ死したそう。わずか48歳とのこと。パタゴニアというのは、エリアで言うとアルゼンチンとチリにまたがる南米の南端のエリアで、もう南極に近い。だから、風は強いし寒いし、かなり過酷な地域のようだ。最南端の都市のウスワイアのことは聞いたことがあったけど、思えば、あのブッチとサンダンスは、そんなところまで流れていったのか。死んだのは、確かボリビアだったと思うけど。確かに、恐竜やら一角獣やら巨人やらという、人智を超えた存在を想起するにはふさわしい場所といえるかも知れない。正直、そのチャトウィンのイマジネーションの飛躍についていけない部分もなくもなかったけど、映画を撮ったヴェルナー・ヘルツォークとチャトウィンは、実際に交流があったそうだ。彼が歩いた道のりをヘルツォーク自身が辿ったという映画には、やはり、心躍らせるものがある。チャトウィンの著作を続けて読むかはわからないけれど、とにかく、映画は期待して観に行くとする。
2022年07月22日
コメント(0)
地元図書館で借りられる漫画セットシリーズ、先月も書いたけど、いよいよ白土三平「カムイ伝」に着手。第一部全15巻を読了。これまでのコミックは、大体1巻につき300ページくらいで、1巻を寝る前の1時間程度で余裕で読み切っていた。しかし、こちらは1巻につき400頁、しかもページ毎の密度が非常に濃いというか、書き込みぶりがすごい。なので、1日で一巻を読みきれない場合が多くて、8巻と7巻を分けて2周ずつ借りたけど、期限いっぱいかかって読み終えた。ここで、基礎知識的な話なのだけど、「カムイ伝」と「カムイ外伝」の違いって何?ということろだけど、「カムイ伝」は、カムイは登場するけれど、カムイだけの話ではない。抜け忍としての境遇に陥ることは描かれるけれども、物語上は、カムイは狂言回し的な感じで、「カムイ伝」の真の主役は農民たち、更に、それ以下の身分である非人たち。彼らの時の体制に対する抵抗、生きるための必死のあがきこそが、「カムイ伝」の主筋である。抜け忍のカムイの一方、前半では白狼のカムイの物語も並行して語られるが、途中から狼は登場しなくなる。そして、終盤は忍者のカムイも姿を消す。お話は百姓たちの一揆が主となり、農民の正助、ゴン、元々は農民だが非人の身にやつしている苔丸らが主役で、そこに商人の夢屋、カムイの師匠の横目、非人の頭・赤目、そして、日置藩を巡る侍たちの浮き沈みが描かれる。それにしても、徳川幕府の時代にこれ程の百姓一揆が起こっていたのか。確かに、歴史を辿ると、一揆は頻繁に起こっている。武士が階級制度を維持するために、農民たちに徹底的な弾圧を加えたことで、常に一触即発に近いような状態で、この時代に農業に従事することが如何に過酷であったか。どこまでが史実であるかはわからないけれど、確かに農民の歴史は、幕府主導の正史には残らないわけで、歴史に記されていない多くの悲劇や惨劇があったのかも知れない。まさに、「カムイ伝」は、日本の裏面史の趣だ。最後は、江戸に直訴に及んだ農民たちは過酷極まる拷問を受け、唯一人、正助が生還するも、舌を抜かれていた。加えて、唯一の生存者が故に裏切り者の烙印を押されてしまう。横目や周辺の侍たちは軒並み命を落とし、金で権力を得ようとした夢屋も、更なる大商人の三井にしてやられる。一方で、カムイは不在のまま、或いは、狂人・小六がカムイかと思われたが、そこも明確には描かれない。主要人物の運命に結末がつけられぬまま第一部は終了。ちょっと、「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」の如き寸止め感。しかも、第二部が書かれたのは、第一部の終了から相当経ってのことだったはず。そこで、「カムイ外伝」が必要になってくる。カムイに焦点を合わせた物語という「外伝」こそが、実は正伝とも言えるかも知れない。なので、次に読むとしたら「外伝」の方かも知れない。一応、市立図書館には「カムイ伝 第二部」もあるのだけど、一部欠落している模様だ。ナイチ帰宅から戻ったら、次は「カムイ外伝」を予約か。一旦、漫画シリーズをストップして、明日に備えて別の本を借りてきた。それについては、またいずれ。沖縄に戻ってから観る予定の映画に関わるもの。とりあえずは、この文庫本が、飛行機と電車の中のお供となるのだ。
2022年07月13日
コメント(0)
村上春樹や沖縄本土復帰関連を経て、図書館で借りての読書は、再びクラシック漫画セットに回帰。「三国志」、「ブッダ」、「はだしのゲン」と来て、次は、いよいよ「火の鳥」かと思いきや、貸出中だった。では、後、図書館に置いてある漫画セットといえば、白土三平「カムイ伝」、これでいこう!そういえば、白土、去年死んだんだよな、読むにはいいタイミングかも知れない。小学館発行の「カムイ伝全集第一部」全15巻、のうちの8巻目までを借りてきた。各巻400ページ余の、まさに大河漫画、読み応えは充分。カムイとは非人の少年と、兄弟に差別される白い狼の子供、双方の名前だ。狼ネタでも差別を描いているのはすごいが、人間の方のエピソードでは、主要人物と思われたキャラが、早々に次々と死んでいく。主役のはずのカムイまでが・・・ところが、カムイはもう一人いた。影分身の術ではなく双子だったらしい。インド映画並の設定だね(汗)。白土の漫画といえば「忍者武芸帳」のように、虐げられた農民たちの爆発を描くような内容かと思いきや、ここでは、農民以下の非人が中心だ。一揆を起こした農民の処刑は非人が行い、そういう仕向で、農民と非人の間に分断を築かせる。この差別を巧みに煽る手法は、まさに戦時中や現代の政府の施策に通ずるものがある。農民から武士から非人に身をやつすものもいる。彼らは、改めて、非人の境遇の悲惨さ、痛烈さを身をもって味わう。もう、江戸時代の日本って暗黒社会だったんじゃないかと思えるような描写が続く。父親はプロレタリア画家だったという白土、見事に親の意志を継いでいる感じだ。「シートン動物記」なんかも書いた白土だけあって、動物、自然社会の弱肉強食というか、パワーバランスの部分も綿密に描いている。狼のカムイが、この先も登場するのかな。人間のカムイの方は、いよいよ忍者の修行を積んでいくようだ。まだまだ先が長い大河漫画、頁をめくっていくのが楽しみだね。
2022年06月20日
コメント(0)
二週間ほど前に書いた、沖縄返還にあたって密使としてアメリカと交渉した若泉敬、問題の著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」'94 文芸春秋社 を図書館で借りた。念の為、先日の番組のルポである「沖縄返還の代償 核と基地 密使・若泉敬の苦悩」'2012 光文社 も併せて借りた。これは正解だった。なぜならば、メインの「他策」は、600頁で二段組の分厚い本で、百科事典並の威容。これは借りる人いないよな、情けないけど、ちょっと見ただけでこりゃ無理かなって思えてしまったくらい。まず、NHKスペシャル取材班によるルポの方を先に読み始めた。こちらは2日で読み終えた。で、おそるおそる「他策」に取り掛かったが、難解とか読みづらいといったものではない。ただ、とにかく物量が圧倒的で記述が細かい。現在6分の1くらいだけど、これは本気で読むなら、二週間の返却期限を超えて延長必至かなあと思える。正直、そこまでこの本に付き合うべきなのかを迷いながら読んでいる。重いから寝ながら読むにしても、本を抱えているだけでも疲れるのだ。内容は、ある意味、衝撃的なもののわけだけど、その割に、出版時の世間的な反響が今ひとつだったのは、この物量(加えてタイトルもだろう)故だと納得できた。本のタイトルには、沖縄返還のためには、ある種の妥協は不可避であった、という意味と、今となっては、その事実をこういう形で世に問うしかなかったという、二重の意味が込められているようだ。若泉という人、相当に真面目であり、またこの本にある種命を賭けていた訳だから、短くまとめるとか、タイトルをわかりやすくするといった妥協は一切行わなかったのだろう。文春の編集担当者も、その気迫に押されてか、著者の希望通りに出版せざるを得なかったのではないか。しかし、世間へのアピールという点では、これは明らかにマイナスに働いたと思わざるを得ない。この本、関係者すら読み切るのは及び腰になったろうし、昔の政治家は今ほどはバカでなかったかも知れないけれど、それにしても、新聞記者だって、この大著にそうそう付き合おうとは思わなかったのではないか。一般大衆は言わずもがな。ここが、若泉にとって悲劇だったろう。まあ、自分としては、返却期限までは、とにかく付き合おうと思う。でも、延長するかというと、多分しない。まだ他に読みたいもの色々あるからね。若泉には申し訳ないのだけれど、番組やルポ本で、彼の心情や返還交渉の様子、晩年の日々、自殺の原因等は、概要は理解出来たから。などと簡単に言ってしまっては失礼かなあ。若泉は、今も忸怩たる思いで、あの世に在しているだろうか。
2022年06月07日
コメント(0)
春から読み始めた村上春樹、とうとうというか、今更というか、「ノルウェイの森」'87(講談社)を読んだ。例の赤と緑の表紙の上下巻、もっと長いかと思ったけど、合わせて500頁ちょい。これも勿論、図書館で借りてきて。出だし、これはいいねと思った。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は毛色の変わったSF小説って感じだったけど、こちらは文学の香りがする。それでも、「世界の終わり」同様にスラスラ読めるし、物語の展開にも惹かれる。翻訳も手がける村上故に、ビートルズのあの曲のタイトルが、“ノルウェイの森”ではないだろうというのは承知の上だったのだろう。ただ、内容的には“ノルウェイジャン・ウッド”の歌のイメージと重なり、歌から発想を得た物語であろうことは、よくわかった。ジョン・レノンが書いた曲の歌詞は、どう訳すか諸説はあるけれど、あの歌詞に凝縮されたエッセンスを長編にすると、こうなるのかなと思えた。考えてみればアルバムの2曲目がこれで、1曲目が“ドライヴ・マイ・カー”なわけだから、村上の「ラバー・ソウル」への思い入れの強さが窺える。ただ、いかんせん、セックスの描写が多いのは好き嫌いが分かれそうなところだけど、当時、この本があれだけベストセラーになってすんなりと受け入れられていたわけから、村上に限らず日本の文学ってこういうものなのかなと、あまり読んでいない僕には、そう自分に言い聞かせるしかない。この身も蓋もない?セックスを重ねるのが大学生なんだから、自分の時とは大違いだ。折しも、学生運動盛んな時代、村上は早稲田に通っていたそうだが、運動には一切コミットせず、むしろ忌み嫌っている様子が、小説からは窺える。運動の主たちを、“こういう奴らが・・・社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ”とまで言い放っている程だ。何となく友達づきあいをする永沢という人物も、非常に優秀で能力は認めながらも、常人の感覚を持ち合わせない異形の俗物として描かれている。永沢は外務省のお役人になってエリートコースを歩むようだけど、まさに、今の日本の支配層に対する村上の考えが反映されている感じだ。上巻の前半で、わざわざ太字で一行記されている“死は生の対極としてではなく、その一部として存在している”がテーマということになろうか。主人公ワタナベ君の周囲の人物は、次々と自ら命を絶っていく。そして、残されたものが、その傷と記憶を背負いながら生き続ける。人々の死を見続けてきた主人公が、これからどう生を重ねていくのかというところで物語は終わるわけだけど、生は性だと言わんばかりに、最後に、ここまでできちゃうのかという性がまたある、いやはや。とはいえ、全体としては悪くなく、これまで読んだ村上作品の中で一番興味深く読んだ。出版から23年経って映画化されたけど、この物語は、トラン・アン・ユン監督のタッチには合っているというか、通ずる作風があるのではないか。あとキャスティングでも、松山ケンイチはともかくとして、直子に菊地凛子、緑に水原希子って合っているんじゃないか。彼女たちの映画なりってロクに観たことないから、あくまでもイメージではあるけど。そういう意味では、ちょっと映画版の方も観てみたくなる。劇中のセックス描写とかも、どれくらい描けているのかも含めて。ともあれ、長短合わせて、これで4作読んだから、とりあえず、“村上春樹を読んだ”と言えるようにはなった。なので、ひとまず、村上シリーズはこれで終了。別の本、或いは、また漫画シリーズに戻るかも。村上作品は、また何かきっかけがあればいずれって感じだ。
2022年05月31日
コメント(0)
ということで、図書館で借りた「中沢啓治著作集3 オキナワ」 '15(発行ディノボックス)を。最初の「オキナワ」は、「はだしのゲン」に先立つ1970年にジャンプに掲載された200ページ弱の中編。中沢は執筆のために沖縄に取材に行ったそうで、内容的には、当時の(今もだけど)沖縄が抱えていた問題をてんこ盛りで余すところなく描いている。主人公の親は沖縄戦の体験者で、米兵の酒酔い運転で殺され、その米兵は無実になる。また、親子は闘牛を通じて憎い基地成金に抗い、平和への強い思いの下に結束する。「ゲン」に通じる、力強いメッセージに溢れた1作だ。「うじ虫の歌」も沖縄戦がテーマだ。ヤクザに身をやつした主人公は、沖縄戦で、兄弟を殺した日本兵の生き残りに復讐を試みる。中沢版「魔太郎が来る」のような怨念のストーリだが、これも中沢らしく、明るくバイタリティに溢れた内容だ。「永遠のアンカー」は、沖縄からの転校生と広島の原爆被爆者の少年の友情を描くストーリー。痛みを抱えた同士の、現状を打開しようという抗いが切ない。最後の「拍子木の歌」は、原爆被害の実態を紙芝居を通じて伝えようとする被爆者と、その意志を継ごうとする主人公に、中沢自身の姿が重なる。主人公と、ヴェトナム戦争で父を亡くした米兵の子供との友情も描かれ、人種間の融和も説く。まさに、ピカを憎んで人を憎まず。全てジャンプ掲載作だ。ひとまず、これにて、中沢の代表作群を読み終えた。でも、中沢の他の著作集も読んだ方がいいかなあ・・・
2022年05月19日
コメント(0)
これも沖縄の本土復帰絡みというか、「三国志」以来の古典漫画まとめ読みの流れで「はだしのゲン」を初めて読む。思い起こせば、むかーし、学校で昼休みに回し読みされていたけれど、その時にも僕は読んでなかった。手塚治虫、藤子不二雄好きであった僕は、ちょっとあの画調、タッチが苦手な感じで。でも、これも読んでおくべき漫画だろう。幸い、これなら図書館にも必ずある。中公文庫版は全7巻だ。と、読み始めたけれど、正直、なかなかしんどかった。1日1時間程度で1巻を読み終えるのだけど、毎日「火垂るの墓」を観ているかのようだ。1巻目でもう原爆投下があり、地獄絵図が展開する。相当に悲惨な状況が生々しい筆致で綴られるのだけど、主人公・中岡元の“むごいのうむごいのう”という言葉のうちに絶え間なく続く。この漫画を読んでいてしんどいのは、原爆や戦火の悲惨さだけでなく、「火垂るの墓」でもまさに描かれていた、周囲の大人たちの冷たさ、汚さ、醜さだ。一方の元は、絵柄ではあまり判別がつかないのだけど、実は小学生低学年。ちょっと信じられないくらい大人びているのは、環境がそうさせたという風には読める。父は元々画家で、非常にリベラルな人物で、その教えに強く影響を受けている。劇中で、度々、とても子供が放つような内容とは思えぬセリフを元が吐くのだけど、これはまあ作者の主張を代弁させるという意味で納得すべきだろうか。当初は、あの週間少年ジャンプで連載されていた作品で、赤子の妹・友子が死ぬところまでがジャンプ連載分で第一部となる。単行本には話のどこまでが、どの掲載誌に連載かといったデータはないのだけど、二部以降は、左翼系雑誌とか共産党機関紙、日教組の機関紙に連載されたので、それ故に苛烈な天皇批判も許容されたのだろう。とはいえ、最も肝心と言える原爆あたりは、当時、人気絶頂の週刊誌に連載されていたのだから、今思えばすごい話だ。まだ自由な時代、真っ当な時代だったのかなとも思える。左翼系の雑誌に連載されるようになってから作品のテイストが変わったという人もいるのだけど、二部以降は、むしろ、戦後を生き抜くゲンたち、戦争孤児のバイタリティが印象に残る。話が悲惨になりがちなのを避けるためか、ゲンや弟分の隆太が、やたらに妙な歌を歌って賑やかす場面が出てくる。そして、冒頭に登場する父の言葉、麦のようにふまれてもふまれても強くなれ、が要所要所に登場する。多くの死を描きながらも、逆境にめげずに希望を持って生きる人間讃歌として結実していく。残されたゲンの兄弟たちが別々の道を歩み、ゲン自身も東京へ向かうというところで話は終わる。あれ、もう少し続かないの?と思えたけれども、連載そのものは1987年に終了。作者の中沢啓治は、2000年代になって、更なる続編を書こうとしたようだけれど、体調悪化で断念したそうだ。文庫版で7巻というのは思ったよりは短い印象もあるが、この悲惨な物語はこれで充分かもとも思えなくもない。お話の大半は、中沢の実体験に基づくものだそうだから。こういう題材を描きながらも、読み物として面白く読めるのは、さすがの力量とは思う。ゲンの弟分の隆太を通して、広島でヤクザが生まれた経緯が描かれるのも説得力がある。何より、本当なら忘れてしまいたいような強烈な体験を、作品を通じて表現しきったクリエイターとしての中沢の姿勢に脱帽する。「ゲン」シリーズとは別に、「中沢啓治著作集」の中の3巻目には「オキナワ」という一編がある。こちらも図書館で借りられたので、引き続き読み進めるとしよう。
2022年05月18日
コメント(0)
図書館から借りた、手塚治虫「ブッダ」全12巻読了。今日中に図書館に返却しようと、やや急ぎ気味に一気に読んだ。横山光輝の「三国志」の時も思ったけど、活字ではない分、行間を読むごとく、作者が、その一コマ一コマにかけた思いを汲み取りながら、じっくり読まないといけないよなあとは、思いつつ・・・劇中、架空のキャラクターが多いとは聞いていたけど、お話の展開上、相当重要なキャラクターが、実はほとんどと言っていいくらい、手塚が創造した架空の人物なのだった。となると、これは聖なるブッダの伝記漫画とは言いづらく、最早、ブッダのキャラクターを使った手塚独自の物語とさえ言ってよさそうだ。勿論、それは非常に読ませるし、生命の尊さや人間の性等を余すことなく描いていて、手塚のストーリーテラーとしての手腕を大いに認識させられるものではあるのだけれど。尤も、終盤の年齢を重ねて以降のシッダールタは、正直、冴えないというか、顔もおっさん臭いし、若い時のカリスマ性も薄れ気味だ。そもそも、あまりさしたる活躍をしない主役を引き立てるために、周囲に個性的なキャラクターを配して、物語を面白くしているというのは、夏目房之介だったかも指摘していた。ある意味、シッダールタは狂言回し、真の主役はダイバダッタであり、アジャセであり、タッタであり、アナンダであったろうか。ブッダの伝記、生涯を真剣に辿るということになると、もっと別の活字本を読まなくてはならないだろう。それでも、この漫画は読んでおいてよかった。ウィキにも書かれているけれど、この手塚版「ブッダ」は、ある意味、「火の鳥」のスピンオフ作品でもあり、同作の流れなのだろう。となれば、次は、やっぱり、「火の鳥」を読まねばということになる。こちらも図書館に揃っているのかな。何とか、12巻を読みきって返却に赴いたが、図書館、休館じゃないの。本来、木曜は開館しているはずなのに、明日の振替休日?知らんわ。袋入りのセットだけど、返却ポストに落としてきてしまった。まあ、結構、古い、既に傷み気味の本だったから、容赦を。なわけで、返すものは返して、明日からはナイチ帰宅の途につくのでありました・・・
2022年04月28日
コメント(0)
ということで、ようやく市立図書館の「ブッダ」の順番が回って来た。手塚治虫が10年以上かけて連載、執筆した代表作の一つ。なぜ、これを読もうかと思ったかといえば、2月に大映の「釈迦」を観たからだ。本当は、映画を観る前に読んでおきたかった。一応、仏教徒だけどブッダの生涯というのは詳しくはない。だから、とりあえず漫画でと思ったのだ。ただし、この漫画は、当然、手塚の創作の部分も多い。登場人物も架空のオリジナルキャラが多く、必ずしも、正確なブッダ、釈迦の伝記という体裁では無いようだ。あくまでも、手塚治虫のブッダってことで。「ジャングル大帝」にも通じる内容で、自然界の動物たちも含め、生きとし生けるものの宿命や厳しさが描かれる。シリアスなテーマの中にも、時折、手塚自身とかひょうたんつぎとかが出てきてお茶らかす。それでも、そんなシリアスとコミカルの具合は絶妙で、見事に手塚節になっている。手塚の漫画読んだのも本当に久々だな。文庫版で、一冊平均250頁、全12巻。これを連休が始まる前に読み切らないといけないので、1日1.5冊くらいのペースで読まねば。しかし、映画を日記で取り上げた際、「これでインディア」とか書いたけど、シッダルタは、今のネパールで産まれたんだね。沖縄にも多く住んでいるネパーリーの中でブッダは育まれた。尤も、肝心のネパールはヒンドゥー教の国ではあるけれど。ブッダの生涯に関して、活字での決定版というのは何なのかわかってない。それはともかく、しばし、久々の手塚タッチを存分に味わいたい。また、読み進んだところで取り上げることもあるだろう。
2022年04月20日
コメント(0)
初めての村上春樹の小説を読み終えて、図書館の手塚治虫の「ブッダ」待ちまで、もう少し村上ノヴェルを読んでおこうと。手頃そうなので、長編デビューの「風の歌を聴け」'79と、2作目「1973年のピンボール」'80を借りてくる。長編と言っても小じんまりしたもので、それぞれ200頁程度で、余裕で返却期限までに読み終えそう。まずは、映画化もされた「風の歌を聴け」、冒頭で登場するデレク・ハートフィールドなる作家は架空の存在らしいが、出版当時、その作家の本を読みたいという問い合わせが多く寄せられたそうだ。まあ、一種の青春小説だが、この頃の村上春樹は、同じ村上での龍のテイストに通じる作風にも思える。大したことは起こらないが、音楽や映画のタイトルを散りばめて細部に凝る。でも、何か重いテーマを語っているわけではない。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」でも思ったけど、その語り口と物語の展開が主で、テーマ云々の小説では無いようだ。映画版は未見だが、小説に登場するビーチ・ボーイズの“カリフォルニア・ガールズ”を使用して、その使用料が製作費を圧迫したそうだ。でも、これ、わざわざ流す必要はなかったように思える。あくまで背景に流れるだけで、特に作品に深く結びついているというわけではないから。ここら辺、村上龍というか、田中康夫みたいだけど、それは失礼と言うべきか、でも、この頃の村上春樹は、そのくらいのものだったような気もする。「1973年のピンボール」は、前作にも登場した“鼠”の方が実質の主役という印象だ。世では“鼠”三部作と呼ばれているそうだけど、三部目の「羊をめぐる冒険」は、前2作の倍の400頁の分量なので、ある意味集大成?なのかも知れない。とまれ、「ピンボール」は、前作同様にジェイズ・バーでビールを飲む主人公たちの日常が描かれるが、語り部の僕は、双子の女性と同居している。「世界の終わり」もそうだけど、村上の小説は、いつもどこかSFチックだ。だって、双子と同居のシチュエーションが簡単に想像出来るものか?“鼠”なんて称されているけれど、金持ちのボンボンらしい。その鼠の恋と、最後はジェイとの切ないやりとりが描かれる。これも前作同様に何てこたない内容だ。僕の方は、ピンボールを求めての捜索に精を出す。この不思議なこだわりと、散りばめられた音楽や映画のタイトル。そこはかとなく喪失感が漂うけれど、やっぱりどこか軽めだ。2冊をそそくさと読み終えたので、村上の本領?とも言うべき「ノルウェイの森」にいってみるかとも考えていたところ、「ブッダ」の順番が回ってきたという図書館からのお知らせが。では、村上春樹は、ここでひとまず終了。「三国志」に続き、再び大河漫画の世界の方に戻ると使用。手塚漫画を読むのも相当に久しぶりだぞ。
2022年04月17日
コメント(0)
藤子不二雄A訃報、享年88歳か。相棒であった藤子・F・不二雄が亡くなって25年、とうとう後を追っていったか。藤子不二雄は、僕が最もよく作品を読んだ漫画家だったと思う。勿論、子供時代はF主導の「オバケのQ太郎」や「パーマン」、「ドラえもん」等だ。何か違うなと思いつつも、「怪物くん」等も好きだった。薄々感じてはいたけど、二人は別々の作品を描いていた。コンビ解消が発表された時は、何か僕の無邪気な子供時代がそこで終わったような気がした。そして、翌年の1989年に手塚治虫が永眠した。僕が漫画を好んで読んだ時期は、そこで終わりを告げた。僕にとって、“漫画”とは手塚、藤子らの描く、それであったのだ。以後、現在に至るまで漫画を読むことは、ほぼ無くなった(最近、例外が生じたのは先月の日記の通り)。ある時点で、家にいっぱいあった漫画の本を処分してしまった程だ。漫画は、自分にとって過去のもの。別れを告げることにためらいはなかった。ただ、それでも残した漫画本があった。それが、藤子Aの「まんが道」と「少年時代」だった。子供時代に夢中になったのは藤子Fの作品だったが、成長して以後は、むしろ、藤子Aの作品の方だった。ただ、「魔太郎が来る」や「プロゴルファー猿」のような作品を好んで読んだわけではない。「笑うせぇるすまん」も然り。ただ、先の2作は別格の存在だった。あと、ギャグ漫画では「フータくん」は好きだった。「まんが道」に描かれた、少年時代からの漫画に対する純粋な想い、そして、トキワ荘での理想的な交友関係。ある意味、自分では得られなかったような、幸福で充実した時を過ごした作者たちを羨みながら読んだような気がする。一方の「少年時代」は、幸福そうな少年時代の中にある、人間たちのドロドロした政治的な営みが描かれた。これも、多少なりと自分にも覚えがある内容であり、読まないではいられなかった。僕にとって、藤子Aといえば、やはり、この2作。但し、「まんが道」の続編は読んでいない。トキワ荘ゆかりの漫画家も、これで残るは、つのだじろうと水野英子だけか。先月の日記でも書いた通り、最近はまた漫画を読むようになった。ただ、読もうと思うのは、横山光輝だったり、手塚、藤子だったりといった人の作品。今の漫画や新作を読もうとは思わない。繰り返すけど、僕にとって、漫画は終わっているものなのだ。だから、藤子Aの死は、改めて、漫画よさらばと言うべき出来事だ。でも、素晴らしい作品をありがとうと言いたい。合掌。
2022年04月07日
コメント(0)
でまた村上春樹なんだけど、毎年ノーベル文学賞受賞が取り沙汰されるのは周知の通り。今度こそ獲るのかなと思いきや、まさかのボブ・ディランが獲っちゃったりもあり、今年は必ずしも候補予想の上位には上がっていないようだけど、とにかく、賞を獲る前に一冊くらい読んでおきたい。そう、僕はまだ一冊も読んだことがないのだ。海外を旅している時に、日本人だと言うと、特に欧米人だけども、自分は村上春樹のファンで、村上文学を通して日本に関心を持ったなんて人に何人か遭遇した。オレは読んだことないけど、とは正直に言わなかったけれど、村上春樹の存在とはそういうものだ。「ノルウェイの森」の映画版がヴェトナム人監督によってなされたように、それは欧米だけにとどまらないだろう。いわば、村上春樹は、今や歌舞伎と同じなのだ。お前、日本人だろ?なのに、何で知らないの?と言われかねない、好きや嫌いに拘らず、とにかく知っておかねばならぬものなのだ。ということで、「三国志」コミック版も読み終えて、次に予約した手塚治虫の「ブッダ」は、先約が入っていて、当分借りられそうにないので、次の読書は、いよいよ村上春樹に乗り出すことにした。幸い、あっさりと借りられた。選んだのは、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」'85の新潮文庫上下巻。長編4作目で書き下ろしの1篇。なぜこれだったかというと、面白いとどこかで聞いたからだ。上下巻ながら、他の長編に較べれば、まだ短い方ではないか。上下巻合わせて700頁程度。印象としてはSFだ。ちょっとサイバーパンクのフィリップ・K・ディックあたりに通じるものを感じるのは自分だけ?表題通り、ハードボイルド・ワンダーランド篇と世界の終わり篇に別れていて、交互に展開するので、割と読みやすい。上巻だけ読み終えたところだけど、この2篇が最後には交わってきそうな雰囲気だけど、どうなのか。とにかく、想像したような難しさはなく、意味があるのかないのか不明な不思議な物語が、ディテールに凝った筆致で描写される。散りばめられる映画、音楽、或いは、料理や酒の名前やブランド(たまたま文中にも登場する映画「ワーロック」が昨日BSで放送されたので録画した、昔見たけど)。そして、ところどころにセックスの描写も。これは、欧米の若い世代には受けるだろうことは何となく察しがついた。でも、当初、無国籍な印象だったのだけど、特にハードボイルド篇の方は、明確に東京、それも青山あたりが舞台であることが示され、しかも、未来とかではなく執筆のリアルタイムくらいの設定でもあるようで、そこは意外であった。ラジオの語りで知った村上その人の、何となく、その語り口は反映されているようにも思える。まだ半分なので、僕自身がどう評価すべきかは定まっていない。ただ、抜群に面白い、何か感じ入るところがあるという程ではないけれど、まあ、スラスラと読んでいける。スラスラ読んでしまっていいのか、もっと行間を読むべきかはわからないけれど、とにかく、長さは気にならない。一体、どんな結末が待っているのか、期待させる展開ではある。だから、思ったよりは早く読み終わりそうなので、読後感が良ければ、その他の小説にも手を出してみるか?「ブッダ」待ちの間はね。
2022年04月02日
コメント(0)
先々週以来、新聞難民だ。4、5年前から東京新聞を購読していたのだけど、アプリの更新があって、自分のアイパッドが非対応になってしまったのだ。何せ、11年前に買ったアイパッド2だから、とっくにOSの更新は出来なくなってる。この手の機器を10年以上使うことがあまりないだろうけど、まあ、ボロいとは言え、まだ使えるからね。そのアイパッドは新聞読むために買ったようなもんだから。20年くらいは日経新聞読んでたけど、その11年前に電子版に移行。日経の電子版の使いやすさは抜群だった。でも、日経の内容に段々違和感を覚えてきて、当時、望月衣塑子記者のがんばりぶりもあり、かつ、安さもあって東京新聞電子版に鞍替えした。朝はアイパッドを立ち上げて朝刊をダウンロードするのが毎日の習慣だった。そう、新聞はアイパッドで読めないと意味がないのだ。東京新聞電子版は、アイパッドでは、なぜかウエブでは読めない。これじゃあどうしようもない。このためにアイパッドを買い替え?それは数年前から考えてはいるけど、何せまだ使えるのだから。まあ、新聞以外ではラディコを聴くくらいの使用ではあるんだけど。じゃあ、新聞を替えるしかない。東京新聞の内容に不満はなかったけれど、読めないのではどうしようもない。昨日の3月末日をもって解約した。では、次は?今のアイパッドで、まだアプリが使えるものが前提。スマホで新聞なんぞ読みたくないし、いちいちPCを立ち上げるのも難儀。どうやら朝日新聞のアプリは、まだダウンロード出来る。じゃあ、朝日にするか、大昔、家では朝日新聞を取っていたのだ。で、とりあえず月980円で50本の記事が読めるという朝日新聞デジタルのベーシックコースを申込み、アイパッドで朝日のアプリをDLしたが、ログインが出来ない。結局、ダメってことのようだ。ビューアーは当然今のアイパッドOS(ヴァージョン9以下だ)ではDL出来ない。結局、ダメじゃん。アイパッドは容量の問題か、ブラウザの立ち上げは遅くて、あまりウエブでは読みたくなのだけど、それしかないか。てか、結局、スマホ版になるのかい?今月は無料だけど、月980円なら余裕があるので、いっそ、とうとうローカル新聞も購読しようかとも考える。つまり、琉球新報ないしは沖縄タイムスだ。新法は、アプリはなくてブラウザ閲覧だけらしいが、タイムスはアプリで、これは自分のアイパッド非対応。なら、新報か。ローカル記事と、社会・国際は朝日でバランス取れるかな。いや、いっそのこと赤旗って選択肢もあるかな。どうも、結局、新規のデジタル新聞、定着には、まだ暫し紆余曲折がありそうだ。アイパッドの買い替え?まあ、年末くらいには考えてもいいけど・・・
2022年04月01日
コメント(0)
先月来、図書館で借りて読んできた、横山光輝著の漫画版「三国志」、ようやく文庫版30巻を読了。お陰様で、三國志の概要を把握することが出来た。それが何よりも大きい。三国志、真の主役は誰なのかと言えば、それは劉備でもない曹操でもない、諸葛孔明であろう。彼こそが、三国の建立を描いた人で、蜀の皇帝になった劉備以上に時代と時勢を見ていた人であろう。そんな稀代の才の持ち主でも、天下統一は成し得なかった。結局、孔明の死後は蜀は魏に降伏し、その後、魏は司馬家に乗っ取られ呉も滅ぼされ、三国志の時代は終わりを告げ、晋によって中国は統一される。漫画版では、劉備が主役として描かれてきたけど、前にも書いたけど、劉備は案外凡庸な人物で、むしろ周りの人材の支えによって生き永らえた人と思える。孔明は勿論、張飛、関羽、趙雲らだ。だから、子供には目がまわらなかったか、皇帝を継いだ劉禅は、典型的なドラ息子だったようだ。戦力的には、蜀は魏に勝てたかも知れないのに、劉禅があっさり降伏、それも、これまでと同じような酒池肉林の生活を続けたかった故のものだった。こうしてみると、何代にも渡って、志を持って戦い、国を治めようとしても、バカ息子一発で、その志は潰えてしまうものであるようだ。何だか、日本の政治もまんまな印象があるけど、いくら優秀な人材がいたとて、それを束ねるリーダーが無能ではどうしようもない。非常に歴史の虚しさ、切なさを感じさせる、コミックのエンディング。正直、これまでの群雄割拠は何だったのかという、無常感を感じざるを得ない。巻末の後書きであったけれど、文庫化にあたって、その後の中国取材で分かった史実に基づいて、皇帝や将軍の衣装を書き換えたり修正を行ったらしい。そうだ、活字は活字の精緻さがあるだろうけど、それを絵で表現する際は、ヴィジュアル面での正確さも求められる。返却期限の関係で、ザーッと読み進めてしまっtけれども、横山が意図した細かい部分も、しっかり味わって読み進めるべきだったろう。さて、この後、図書館で予約を入れた、手塚治虫の「ブッダ」は、現在貸出中、予約待ちのようだ。今愛読んで、改めて漫画の手に取りやすさ、わかりやすさを実感した。更に、知識を深めていく場合、活字に漫画は、理想的な共存関係にあるだろう。横山光輝、万々歳であります。
2022年03月22日
コメント(0)
また、三国志であります。横山光輝のコミック版「三国志」の文庫本シリーズ、最後の21〜30巻を借りてきた。そして、22巻目はある種のハイライト。前巻で関羽が不覚で敗れ、曹操も病死。この巻では、更に張飛が。そして、劉備がと、物語の当初からの重要人物たちが次々と表舞台から去り、転換点を迎えるからだ。無敵と思われた関羽は驕りから戦局を誤る、張飛は懸念されていた酒癖が命取りになる形。曹操も運が尽きた印象で、劉備も志半ばにして倒れる。残ったのは呉の孫権、そして、諸葛孔明だ。20巻目だったか、先代の市川猿之助が後書きを書いていたけど、ちょっと共感するところがあった。つまり、劉備は戦国武将にしては魅力不足で、孔明は、むしろ曹操につくべきだったのではと。確かに、コミック版のここまでで事実上の主役であった劉備は、必ずしも傑出したキャラではなかった印象だ。彼が蜀の王まで登り詰めたのは、周囲の人間の活躍によるものだった感がある。関羽、張飛、趙雲、そして、孔明だ。孫権も今ひとつパッとしないが、真の主役は悪役扱いの曹操の方だった気がする。しかし、この時点で三国志の2大主役と言える曹操と劉備が死んでしまったので、この後の主役は誰か。やはり、孔明という事になるのか。曹操の後継者たちは凡庸だし、劉備の後継はまだ子供だ。それにしても、魏呉蜀の三国は、隙あらば互いを牽制し、天下統一の野望のために、つかず離れず、同盟と敵対を繰り返す。これがまさに政治というものか。中国の政治史の奥深さを思い知らされる。こうしてみると、曹操にしろ、劉備にしろ、関羽、張飛にしろ、更には周瑜や呂布等、遠大な三国志の中でも一部を彩った人物に過ぎず、最終的な勝者ではないのだけれど、それぞれ中国における人気は絶大なようで、これは、陳寿による歴史書、また「三国志演義」の活字以上に、町場の芝居による影響が大きいのだろう。歌舞伎もそうだろうけど、遠大な物語のうちの、芝居向きのいいとこを引っ張ってきて上演するうちに、ある特定のエピソードが有名になっていき、その時点での主役がフィーチャーされていった結果だろうか。赤壁の戦いだけ取ってみれば、周瑜は大勝利の立役者だが、その後、不遇のうちに死す。一方、大敗した曹操は、後に強大な権力を得る。しかし、こと赤壁だけなら周瑜が勝者で曹操は敗者。映画や芝居でこれしか観ていなければ、そのイメージのままだろう。結局、「三国志」というのは、通史としてどうこうではなく、ある戦いや、あるエピソードでもって記憶される、語られる、そういう見方でもいいのかも知れない。その方が、むしろ、中国人の感覚には近いのかも知れない。だから、近代の中国史においても、長い歴史の中で、ある時点では毛沢東は勝者だったかも知れないけど、ある時点では・・・また、習近平も然りと。そんな風に考えられた方が、ある意味、幸福かも知れない。権力は永遠のものではなく、時代が過ぎてみれば、所詮は兵どもが夢の跡・・・その方が、民衆にとってもいいのでは。「三国志」には、そんなことも考えさせられた。あ、まだ後、数巻残ってるのだけどね。
2022年03月09日
コメント(0)
本当は、先日、映画「釈迦」を見た流れで、これを機に手塚治虫の「ブッダ」を読もうと思っていた。那覇の図書館で資料検索したところ、あったのだけど、貸出中だった。でも、こういうクラシック的な漫画は図書館に置いてあるべきだね。で、代わりに、こちらも読まねばと思っていた「三国志」、横山光輝のコミック版が折良く借りられる。よし、と那覇市立図書館に予約を入れて借りて参りました。厚めの文庫本で全30巻(単行本では60巻あったはず)の最初、1〜10巻を借りてきた。希望の友なる雑誌に連載されていたと思う。出版社は潮出版という学会系だけど、横山は学会員ではないし、ここは学会とは直接関係のないものも出しているようだ。何せ、横山の「三国志」は今も売れ続けているベストセラーだし。まあ、そりゃあ活字で読むのが筋なのだろうけど、何せ漫画はわかりやすいし、スラスラ読める。横山の漫画は、大体、キャラの顔はみんな同じ感じで、少し登場人物の区別がつきにくかったりするけれども、劉備玄徳を主役に据えて、膨大な「三国志」の序章部分が、簡潔に、かつ、力強く描かれ、ワクワクしながら読み進めることが出来る。本当は、もっとコマ毎の背景描写等を味わいながら読むべきかも知れないけど、波瀾万丈の展開を息つく間もなく読み続けていく。三国志の時代は、様々なキャラクターの人物が様々な思惑でのし上がろうと割拠した。取り巻きによる謀略の誘いや謀も数知れず。時代の波に踊らされる庶民は、“ひ〜”と声を上げるばかり。400ページの1巻分は1時間程度で読み終えてしまう。これなら、1日1巻、返却期限の二週間以内に読み終えるだろう。続けて11〜20巻も明日くらいには予約を入れてしまうか。それにしても漫画を読むのは実に久しぶりだ。勿論、子供の頃は漫画が大好きで、手塚、横山といった、かつての巨匠たちの作品にはリスペクトを抱き続けてはいる。活字の方も勿論だけど、こういったクラシックコミックも少しずつ、また読み進めていきたいものだ。
2022年02月16日
コメント(0)
毎週というか、BSテレ東での再放送があるから数年来見続けている「孤独のグルメ」。未見だった第1シリーズの再放送が始まって、少し最近のシリーズとは味わいが異なることが気になった。シリーズ初期の、まだ個性が確立していない作りなのかも知れないけれど、井の頭五郎さんが仏頂面の時が多く、結構食事以外の独白も多く、そこは、一匹狼的な気負いも感じられるものがある。このテイストはどうなんだろうと思っていたところ・・・ネット上の記事で読んだところ、そもそも最近のシリーズが、原作にあったハードボイルド感が失われているとのこと。そうなんだ、原作は。ということで、これまで省みてこなかった原作の方に興味を持った。何せ、漫画って読まないもんで。地元の図書館に第1巻とかがあったので借りてくる。2000年扶桑社刊行。薄っぺらい文庫版に18話収録、1話は10頁程だ。巻末に原作者・久住昌之の少し長めの後書き。作画の谷口ジローは既に故人だ。漫画はドラマのオープニングにちょっと登場するだけだが、確かにドラマよりは、ちょっと哀愁漂う画風だ。で、確かに五郎さんは、第1シリーズのように、それ程愛想は良くないし松重豊が最近のシリーズで演じる剽軽なキャラクターではない。自分の場違いさや、少し外し気味の注文についてもあけすけに淡々と語る。ストリップ劇場に入ろうとしたりもするし、これはドラマ版でもあったけれど、バイトの店員を怒鳴りつける店主を懲らしめるエピソードもある。確かに、そこはかとなくハードボイルド感がある。谷口の画風がマッチしている。ドラマの方では本編後に久住がヘラヘラしながら飲み食いするから、この原作もそもそもそういうものかと思っていたが、意外や原作者はハードボイルドなグルメを意識していたのか。確かに後期のシリーズは、この本来の?テイストからは結構逸脱してしまっている。ただ、原作者そのものがニタニタしながら番組に登場する訳だから、その内容については肯定しているということなのだろうけど。どちらがいいかは好みが分かれるところだろう。僕自身はコミカルな五郎さんに慣れてしまっているから。でも、“俺はまるで人間火力発電所だ”といった、如何にもドラマの「グルメ」っぽいセリフが飛び出すのは、原作本では焼肉を食らう第8話だけだ。もし、松重豊が降板して、五郎さんが2代目になるなら、この原作のテイストにちょっと戻してみるのも面白いかなと思う。巻末の久住の後書きは、長いばかりで面白くなかった。あの、ドラマの音楽の飄々とした作りといい、結局、この人がやりたいのはどっちなのかなと思う。或いは、原作と初期のこの味わいは作画の谷口の意向、個性であったのかも知れない。そう考えると、早世は惜しいものがあったなと思う。
2020年11月22日
コメント(0)
ようやく利用可能となった県立図書館で、新田次郎著「八甲田山死の彷徨」'71を借りてきたのは、政治学者の中島岳志氏が、“コロナ禍の今読むべき本”として挙げていたからだ。映画版は観ている、この小説、氏曰く、過去の体験に囚われて転換がしにくい日本の特質が描かれているからという。映画版「八甲田山」の記憶では、高倉健扮する徳島大尉の隊と、北大路欣也扮する神田大尉の隊が、それぞれ逆方向から冬の八甲田山を行軍する。これは、日露戦争に備えての寒冷地での訓練を兼ねたもの。同じ軍隊の隊とはいえ、それぞれには当然、競争心が芽生える。そこには指揮する上官たちの思惑も混じる。徳島大尉側は、事前に入念にリサーチを行い、民間の案内人を雇うことも厭わず、少数の隊で無理ない旅程を組む。神田大尉側も決して準備を怠っていたわけではないが、オブザーバー的に随行することになった上官の山田少佐が実質的な指揮権を握ることになり、まず指揮系統が混乱する。神田大尉の隊への対抗心と、軍特有のプライドが様々な形で裏目に出る。結果、神田大尉の隊は、まさに死の雪中行軍を体験することになり、あのCMでもお馴染みとなった”天は我らを見放した”という絶望的なセリフを指揮官に吐かせるに至る。映像版も勿論だが、小説の方も雪の地獄の中で、次々と命を落とす兵隊たちの描写が生々しい。焚き火を焚いたとしても、炎の外側にしかおられない下士官や兵卒らが、まず最初に犠牲になっていく。軍隊、命の値段に露骨に差がある世界なのだ。慎重な性格の神田大尉が指揮を執っていれば、ここまでの惨事には至らなかった可能性はあるが、映画で三國連太郎が演じた山田少佐の、頑迷な姿勢が全てを悪い方向に導く。徳島大尉側は、雪国育ちで、雪山に対して、ある程度経験のある兵がいたこともプラスになった。映画版で、単独行動で生還した、緒形拳が演じた村山伍長は登場しない。これは、映画化にあたって橋本忍が独自取材で脚本に書き加えたのだろうか。いずれにせよ、リーダーの判断が見事に明運を分けた形で、極限状況、緊急時のトップの姿勢や施策が如何に重要であるかがわかる。まさに、今の日本の状況を思い起こさせる内容ではある。ただ、小説の方では映画では描かれなかった重要な要素が後半に登場する。有能なリーダーとして描かれる徳島大尉だが、そこは、やはり軍人。吹雪の激しさに行軍の中止を進言する案内人に対し、無理やりにでも行軍の案内をするよう強要し、目的地まで到達した後は、賃金は払えど、彼らを用済み扱いにする。案内人たちと言えど、吹雪の中を戻るのは決死の事態だ。しかも、神田大尉の隊の遭難を目撃したことは口止めされ、恫喝さえされる。戦時中の様々な悲劇を、当事者たちがなかなか語ろうとしないのは、こういう背景があるからであることがよくわかる。軍は民間人を守る存在ではないのだ。そして、更に問題となるのは、遭難した兵士の銃を徳島大尉が持ち帰ったことだ。銃は軍隊では厳重に管理され、その銃の処置は上官を巻き込んで最後まで取り沙汰される。雪中行軍を成功させ、一躍、時の人となった徳島大尉でさえ、そのことが明るみになると、軍人として命取りになりかねない件であった。何ともナンセンスに思えるけれども、軍隊という組織の保守性、閉鎖性が垣間見られる。雪中行軍を失敗に導いた神田大尉、山田少佐は、いずれも自決という形で責任を取る。特に、張本人である山田少佐は生還はしたものの、生き恥は晒さぬとばかりに拳銃自殺を遂げる。全く責任を取ろうとしない今の日本のリーダーに比べれば、まだ自分の非を認めるだけ人間としての誠実さは残されていたようだ。行軍によって命を落とした兵士たちは、世論の高まりもあって、そこそこの補償はされることになった。これも、人々の不満の声が高まることで、次第に要件が変わっていったという点で、やはり、今の状況とよく似通っている。日本の組織というのは、昔から体質が変わっていないことの証であろう。橋本忍が渾身の脚本を書いているとはいえ、映画版は、あくまで行軍の悲劇及び、軍人たちの行動を主体に描かれていて、民間人の視点の部分には重きは置かれていなかったと記憶する。とはいえ、小説を読むにあたっては、映画で演じた役者を思い浮かべながら読んでいたのは事実。数年前にデジタル修復版が放送、公開された映画版を改めて見てみたい気はする。実話を彷彿させる位の過酷な撮影現場であったことと、記録的なヒット作として日本映画史に刻まれる1作ではあるからだ。夏にでも、また日本映画専門チャンネルで放送を期待したいところだ。
2020年05月31日
コメント(0)
閉館になる寸前だった市立図書館で借りた「アンドロメダ病原体」'69読了。あのマイケル・クライトンの出世作、なぜ、これを借りたかは、わかるよね?こちらのウィルスは墜落した人工衛星がもたらしたもの。アリゾナ州の田舎町を一夜にして壊滅状態にする。実は、スクープ計画という生物兵器開発のための人工衛星によるもので、当然、極秘のうちに収拾が図られる。強力な感染力と致死率で、住民の大半は即死か発狂死。その中で赤ん坊と老人が生き残る。彼らがウィルス治療薬開発の鍵となる存在になる。屋外で展開するのは、冒頭の描写のみ。あとは、緊急に召集された専門家たちによる隔離施設内での研究の様子がひたすら描かれる。元々、医師であったクライントンだから、医学データをもっともらしく示しながら原因究明の様を追う。施設内はセクターに分かれ、移動時に念入りな消毒、殺菌の過程がある。そこら辺のリアリティある描写が、この小説のウリ。一方で国家機密が漏洩しかねない状況で、政府や軍がどのような行動を取るか、そのシュミレーション小説ともいえる。ここらのアメリカ政府機関の徹底した管理ぶりは、現在に至るまで健在なのであろう。ただ、現実と合わせて考えると、トランプみたいな素人的人物が大統領になってる今では、このような態勢があったとしても機能するのかどうか。まあ、いずれにせよ、日本には全く望めないものだろう。いや、勿論、このアメリカ的な極めて合理主義的な管理態勢が全て是とは言わないけれど、少なくとも危機管理という点では、あの国は日本の一枚も二枚も上手であることは間違い無いだろう。今の日本というか、世界的なこういう状態だから、この小説が何某かのヒントを与えてくれるかなとも思ったのだけど、如何せん、専ら施設内での研究者たちのやりとりだから、外の一般の様子は描かれず、あまり参考にはならなかった。地味な内容だけど、最後に核爆発のスイッチが作動してしまい、それを如何に止めるかというサスペンスが、最大のクライマックスになる。で、結局、ウィルスは、突然変異を繰り返すことで、人類に無害なものに形を変えて事なきを得るといった結末となる。例のウィルスも変異があるとか言われていて、一旦、検査で陰性となったところで、後で再び陽性になった事例があるとか、人体に決定的な後遺症を及ぼすというような話も一部で伝えられる。とにかく、今の段階では情報が少なく実態が掴めず、また政府、特に日本の対応は後手後手で不安を募らせるばかり。ジタバタせずに静観するよりないといった状況だ。何度か書いたけど、個人的にも体調不良が続いているので、とうとう病院には行ってみた。ただ、例の検査が出来る病院ではなく、あくまで風邪の延長の症状という事で診察を受けたが、医者の簡単な診断では何も出ず、レントゲンは画像の提示すらなく、何もないという事で薬もくれなかった。とはいえ、時折の呼吸の息苦しさと背中の痛みは続いていて、その原因については医者もスルー。熱はないけど、やや熱っぽいようなだるさは相変わらずだし。まあ、今月下旬になれば五輪の中止ないしは延期が発表され、そうなれば、日本ももう少し検査をやる体制になるのではないか。今、コロナ陽性なんて出ると周囲に衝撃を与えるけれど、1ヶ月後位になれば、感染は当たり前という状況となるかも知れない。今回のナイチ帰宅は中止したけどGWは、さすがに帰宅予定。そこらで、親に会う前に自身の白黒をつけるようにしたい。そこまでに体調が悪化したりしなければいいのだけどね。そうそう、ロバート・ワイズ監督による映画版の「アンドロメダ・・・」、どこかのCS局で放送してくれないかね。
2020年03月14日
コメント(0)
全5回のドラマが放送された「少年寅次郎」。その原作である、山田洋次・著「悪童(ワルガキ)」は、講談社から出版されていたんだね。那覇市役所立図書館にもあったので借りて、ナイチ帰宅の際に携えた。あちらでは否が応でも電車に乗ることが多いからね。必然、本を読む時間も出来る。電車に乗ることがほとんどない、乗っても短時間の沖縄では、読書の時間がとんと減ってしまった。で、「悪童」だ。”小説・寅次郎の告白”との副題。実際に山田監督が執筆したか、弟子筋に任せたのかは定かではない。成長した寅次郎の旅先での飲み屋での独白という形を取っている。だから、記述は一人称だ。まあまあ時系列の展開ではあるけれど、時々飛ぶこともある。ドラマの方では影も形もなかった博の話もチラリとあったりする。ドラマの方には登場しなかったといえば、タコ社長もこの原作には登場する。ドラマの方は井上真央が主演で、母親目線での描かれ方だったけど、こちらでは当然ながら主役はあくまで寅次郎。親たちの描写も客観的な記述だ。一方、ドラマでもあったけれど、寅を語る上で必然的とも言える失恋ネタは、こちらの方がしっかり描かれる。ドラマで岸谷五朗が演じた坪内散歩先生は、この原作では、その死までが描かれる。ということは、映画の「続・男はつらいよ」とかぶるわけだ。また、映画でミヤコ蝶々が演じた、寅の実の母おきくを成長後に訪ねる件も。映画の様に直接会いはしないのだけど。ドラマ版との最も大きな違いは、車平造の描き方。ドラマで、一番印象に残った場面と言える、病院での光子と平造のやり取りとかはなく、あれはテレビ脚本で加えられたものだったのだ。してみると、脚本の岡田恵和は、平造に結構思い入れがあったようで、彼のキャラクターと描写を膨らませたのが、ドラマ版の特徴と言える。原作の方では、実は御前様が光子に思いを寄せていたらしいことも描かれていて、寅にからかわれると真っ赤になって怒る。ちょっと若き御前様が無法松のようだ。等々、180ページほどは、往復の電車内で一気に読み終えてしまった。ドラマの方もだけど、この原作ももう少し続きを読んでみたい気がした。そうこうするうちに、それやるか?という、ナニワ版の寅?「贋作男はつらいよ」の公式情報がネットで上がっていた。さくら役は、ドラマ版「遥かなる山の呼び声」に続いての起用となる常盤貴子とな。いっそ、かつてのドラマ版の「男はつらいよ」も小説化して、その贋作版でもいいから、映画版以前の車寅次郎の物語を再現してはどうか。あのドラマって最初と最後しか残ってないわけだから。まあ、50周年寅さん商戦、こっちもトコトンつきあっちゃいますよ、お立ち会い。
2019年12月04日
コメント(0)
先月「海燕ジョーの奇跡」が上映された際、そのロケ地巡りの紹介で登場したシネマラボ突貫小僧の二人、平良竜次と當間早志の共著による「沖縄まぼろし映画館」('14 ボーダーインク)を図書館で借りて読んだ。何とまあ、かつての沖縄は、今の自分の周囲も含め映画館だらけだったのだ!まあ沖縄に限らず、昔は日本全体に映画館があったのだろう。そもそも、経済の好調が伝えられる沖縄だけど、賑やかな場所と寂れている場所の落差が非常に大きい。僕の部屋から近い開南あたりも、かつては大変賑わっていたらしいけど、今は見る陰もない。その開南にも映画館はあったのだと(開南琉映館)。その痕跡はものの見事なくらいに残っていない。あの駐車場あたりが元映画館があった場所かなあと想像するよりない。まさに、まぼろし映画館である。一方で、映画館としては、かなり昔に閉館になったものの、建物は再利用されて残っているというものもある。バスでコザ方面に向かう際、普天間を通過時に気になっていた“さんしんの松田”の看板。何だか映画の看板っぽいなと思ったが、何と普天間琉映館という映画館の建物をそのまま店舗にしているのだそう。そりゃあ目立つよな。コザにあったいくつかの映画館も、ディスコになったりライヴハウスになったりして残っていたところもあったけど、この数年で皆壊され駐車場とかになってしまったようだ。那覇市内ににしても、少し大きめの駐車場があったら、そこは映画館だったのでは?と疑って見るべきかも。これまた部屋から程近い場所にあったグランドオリオンは、廃墟がつい数年前まで残っていた。閉館した後、10年くらい放置されていたらしいからすごいが、沖縄はそういう場所が結構ある。とにかく、開発が進むところは一気に行くけど、取り残されたところは、信じがたいくらいに放っておかれる。この本を読むと、沖縄の景気の浮き沈みと開発の有り様を考えざるを得ない。ただ、沖縄の場合、趣のある建物というよりは、あまりにボロすぎて近寄り難い場所も多く、興味を持つ以前の存在の場所もある。まあ、首里劇場が今も存続しているのは、ある種の奇跡という感じもするが、昨年閉まってしまったコザ琉映にしても、好んで行こうとは思わないような場所(一度入ったことがある)だった。ともあれ、南は糸満から北は辺土名にまで映画館があったとは本当に驚きだ。やはり、バスでうるま市を通った際に、琉映前というバス停があって、そこもかつては映画館があったのだろうかと思ったが、やはり石川琉映館というのがあったそうだ。その建物は今はベスト電器の店舗だそうだが。本の多くを占めるのは、山里将人(故人)という沖縄の映画研究家が残した資料に基づくものだそう。いつか失われていくものを記録に残すことの重要さを心得ていたのだろう。4人程取り上げられている“映画人烈伝”はいずれ劣らぬ傑物揃い。沖映の創設者で最強の空手家でもあった宮城嗣吉、アーニー・パイル国際劇場を作った高良一、スターシアターズで現在の沖縄興行界をほぼ独占するお馴染み?國場幸太郎、そして、山口組沖縄支部とも言える東声会を仕切った宜保俊夫と。高良の躍進に手を貸したのは、あの川平朝申だったそうだし、沖縄興行インディーの雄・桜坂劇場設立には宜保の助力もあったと聞く。かつての、映画の社会における地位を物語る大立者ばかりだ。この本を片手に、映画館の痕跡を求めて県内を訪ね歩くも一興であろう。それは沖縄の歴史と現在に至る歩みを辿ることにもなろう。それは復興の歴史なのか衰退の歴史なのか些か複雑なものはあるけれど・・・
2018年04月23日
コメント(0)
桜坂劇場で「素敵なダイナマイトスキャンダル」なる日本映画を上映中。原作者は末井昭とな。うん?何か聞いた名前だな。そうだ、数年前に何度か大阪の春一番に出演した“なめだるま親方”島本敬の昭和歌謡ユニット、ペーソスでサックスを吹いていた人だ。白夜書房の専務取締役だが退職してサックス一本で喰っていくてな紹介を受けていたが、まあ、知る人ぞ知る名物編集者の一人だったのだ。その人の自伝エッセイの映画化ということで、映画は観るかどうかわからないけど、ちょっと原作の方を読んでみたくなった。何気に検索したら那覇市立図書館にあったではないか。予約入れたら意外に早く借りられた。何と言っても出自がすごい人なのだ。何がって、タイトルにもなっているダイナマイト。父親が鉱山で働いていたからダイナマイトが日常にあって、何と母親は隣家の若い男とダイナマイトで心中したと。小学一年生の時にその体験をした末井氏は、ある時から、そのことを人前でも話せるようになった。といっても別に売りにしているわけではないのだけど、自伝のタイトルにもしているくらいだから、どこかでトラウマ的なものが吹っ切れたのだろう。いや、文章を読む限りはトラウマにすらなってないかのようだ。まさに人は色々、人生も色々である。母親の壮絶な自死を売りにするでもないトラウマになるでもない(実際はわからないが)末井氏は、何をするにも至って淡々、興味の赴くままに気負いなく取り組み、それが人を引きつけ読者を惹きつける。何と言っても氏が名をなした?のが荒木経惟との一連のコラボ。雑誌「写真時代」等でアラーキー的な仕掛けをしたのは末井氏その人なのだった。他にも南伸坊から、なぜかヒカシューあたりまで様々な業界人を巻き込んで、冗談なのか本気なのかよくわからない雑誌や仕掛けで、時に世間を騒がせ、時に警察のお世話になってきた。エロ雑誌が出発点だけど、氏は特にエロに執着があるわけでも何でもなさそうだ。エロ本の編集者の中には、本当は文学をやりたかったけどなんていうインテリくずれも多かったようだけど、氏はそういう主義主張や反社会的な意図は微塵もないようなのが面白い。ちょっと赤塚不二夫あたりとも共通するキャラながら、とにかく気負いが全く感じられないところが何とも特異な存在だ。この本にしてからに、何とも捉えどころのない内容だ。ヒストリーを辿るのかと思えば、突如、ある時期の日記の羅列となり、呆気無く本編が終了した後は、長いアンコール演奏のように後書きや寄せ書きの連続にページが割かれる。今になってみれば結構差別用語(バカチョン等)も多いし、ヤバい内容もあるのだけど、僕が借りた文庫本は、あの営業まで東大卒だらけの(僕がかつて接した限りでは)筑摩書房からの出版のものだ。元々は小さな出版社から出たらしいが、見城徹が角川時代に文庫化し、更に筑摩でと版を重ね、とうとう映画にまでなったという次第だ。まあ、面白いけれど、先にも書いたように何とも捉えどころのない本としか言いようがないのだが。表紙のお着物のご婦人は、末井氏その人であろう。おいおい。このとっ散らかった内容を、映画の方がちゃんと整理して見せてくれているなら観てみたい気もするけど、ハズすと怖いのでテレビ放送を待つとする。冒頭に書いたペーソスは、ギタリストを替えて、更にクラリネットだかまで加わって、勿論、末井氏も含む5人体制で活動中とのこと。島本敬は本書の中で肝臓を壊して入院したという描写でちょいと登場する。先代のギタリストだった岩田次男も登場していて、ともども長いつきあいなのであろう。そのペーソス、何と2012年には沖縄公演も行っていて、栄町市場でライヴした画像等もネットで見つけた。一度ライヴを見に行ったのだけど、前座の演奏が長過ぎて本番が始まる前にウンザリきて帰ったという経験があって見ず終い。何だかまた一度見たくなってきた。末井氏のサックス始めが本に記載されているから、既に演奏歴も30年余か。そりゃあ、それで喰ってもみたくなるわな(笑)。
2018年04月02日
コメント(0)
非常に今更なのだけど、そういえば「ブレードランナー」の原作であるフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」'68の文庫本を持っていて、未だ読んでいなかったじゃないかと、続編公開時に思い出して、2月にナイチ帰宅した際に持ち帰った。で、今頃読んだ。結論から言えば、このSF小説と映画は、設定だけ借りた別物に近い。それでも、それぞれに、そのメディアのクラシック的地位を確立している作品なのだからすごい。映画の方は言わずと知れ、あのヴィジュアルは後続にも多大な影響を与えた。一方で、この小説の方もサイバーパンクの先駆けの傑作と認知されている。で、結論から言えば、この小説は大変面白かった。映画とは、かなり異なる内容であっても。どうしても、映画との違いという観点から語ってしまう。主人公リック・デッカードはバウンティ・ハンターだがシスコ警察所属。賞金稼ぎなのに役人というのが、よくわからないが、小説のデッカードは、アウトローというよりは、もっとサラリーマン的キャラクターだ。上司がおり、休みたくとも上司の命令ともあれば従わざるを得ない。更に、妻がいる。この妻にも色々気を使う羽目になり、何となくサラリーマンの悲哀を感じさせるのが、ハードボイルド調の映画とは大きく異なる。タイトルは実は重要な意味を持つ。第三次大戦後の荒廃した世界では、純粋な生き物は極めて貴重で、生き物を所有することがその人物のステイタスを物語る。デッカードは電気羊を所有していたが、アンドロイドを処分して賞金を得ることで本物の羊を手にする。感覚的にはピンと来ないくらい、未来の人間たちは生き物を所有することに執着する。この辺は、いわゆるペットロスとかとは異なる感覚で描かれている。アンドロイドも市中に多く存在して、純粋な生命を持つ存在の貴重さが価値を持つのだ。映画でレプリカントよ呼ばれていたアンドロイドは、ここでは単にアンドロイド、”アンディー”だ。別の惑星から流れてきた彼らを処分するのが賞金稼ぎの仕事だが、デッカードが、その仕事に初めて疑念を持つのがレイチェルとの出会いだというのは、数少ない映画との共通項だ。デッカードとレイチェルは結ばれるのだが、それは映画のような愛の観念ではなく行きずりの関係に近い。そも、最後にレイチェルはデッカードに手痛いしっぺ返しを食らわしもする。大体、デッカードは妻帯者で、その妻との関係も始終気にかけているのだ。彼らの生活に深く根ざす感情コントロールの装置は、映画の続編では、それらしきものが取り入れられていた。一方、テレビのショーとか新興宗教的な教祖とか、映画では全くオミットされた要素もある。オミットといえば、放射能に脳をやられ”スペシャル”と差別されるイジドアの存在も、映画では影も形もない。彼が最後に残ったアンドロイドたちを匿う形になるのだが、映画ではデッカード以上に重要とも言えたロイ・ベイティ(バッティ)は、あんな気の利いたセリフを吐くこともなく、アッサリとデッカードに始末される。そのロイも妻帯者なのだが、彼女も敢え無い最後を遂げる。デッカードが手こずるのはレイチェルの存在だけなのだ。アンドロイドを始末する仕事に嫌気がさしたデッカードは、最後に自死すら模索するが、それを救うのは新興宗教の教祖と思われた偽の老人であり、妻の存在だ。映画のディレクターズ・カット版で示唆されたらしい、デッカードがレプリカントであるなどという仄めかしは皆無。むしろ、アンディーかと思われた刑事がそうではなかったのだが、この男の名がフィル・レッシュ。グレイトフル・デッドのメンバーと同名なのは何か意味があるのか?してみると、映画における、アジアの混沌を取り入れたような未来の光景は、全くの映画での創作なのだ。そうなると、あの映画は、やはり偉大だったのだなと思えてくる。一方で、共通のテーマである、人間と機械間の”生命”の観念については、この小説によって提示されている。そういうわけで、双方共に革新的なのである。久々にSF小説なんて読んだけど、ディックとかもっと読みたいね。映画とはまた違う想像の輪が拡がっていく。一方で、映画「ブレードランナー」の前作、久々にまた観たいな。
2018年03月19日
コメント(0)
昨年から読んでいて年を越えてしまったけど、「ハリウッド「赤狩り」との闘い」 '17 (吉村英夫著 大月書店刊)を読了。前著「愛の不等辺三角形」(夏目漱石論)で著作からも引退かと思われた著者が、やっぱり書かずにゃいられなかったという感の書。その心情の程は大いに理解出来る。副題に”「ローマの休日」とチャップリン”とある。「ローマ」といえばオードリー・ヘプバーンだが、実はこの書での事実上の”主役”は監督ウィリアム・ワイラーだ。著者はワイラーの、不遇とまでは言わぬものの、近年再評価が行われない状況を嘆く。ワイラーといえば、どんなジャンルでも一級の名作を生み出している人で、紛う方なき巨匠には違いないのだが、例えばサスペンスのヒッチコック、喜劇のワイルダー、西部劇のジョン・フォードらと比すると捉えどころがなく損をしているのかも知れない。で、肝心の主題は、その作品評価という以上に、赤狩りに巻き込まれたワイラーの処し方にある。赤狩り旋風が吹き荒れたのは、今から約60年前の話。「独裁者」を撮ったチャップリンは事実上の国外追放で、イギリスからハリウッドに戻るまでは20年以上の歳月を要した。ワイラーは、当初、赤狩りと闘う意思を示したが、転向とは言わぬまでも”挫折”に近い形で鳴りを潜める。自由人ジョン・ヒューストンはハリウッドを脱出して海外での撮影で嵐を逃れた形だが、ヒューストン程の器用さを持たないワイラーが取った手段は・・・それが「ローマの休日」だった。実は脚本はドルトン・トランボ。赤狩りで最も睨まれた人物として知られるトランボの脚本を、危険を覚悟で採用。撮影には当然ハリウッドを離れた海外を選んだ。ベルギー生まれでオランダにも暮らしたことがあるヘプバーンは、ナチのレジスタンスも経験していたとか。そんなヘプバーンを主役に起用したワイラーは、トランボ脚本の「ローマ」で友情と信頼の大切さを描いた。それは、密告や裏切りが渦巻いた赤狩り傘下のハリウッドへのアンチテーゼであったのだと。ワイラー、トランボ、チャップリン、ヘプバーンと、些か間口を広げ過ぎの感はある。でも、本書を読むと、赤狩りの時代が、今の、或いはこれからの日本に非常に似通った状況に思えてしまう。故に吉村氏は、今この題材で本を書き下ろすことを止められなかったのではないか。不遇の状況下にあっても、気骨ある映画人は作品を通して自らの主張を貫いた。ワイラーは決して転向したわけではなかったのだと思う。今回の「午前十時の映画祭」では、「ローマ」を含むヘプバーン作品が多く上映されたけれど、僕はスルーしてしまった。著者が主張する通り、当時の状況を鑑みながら「ローマ」を再見すると、新たな発見があるかも知れない。次の機会を待つとしよう。
2018年01月10日
コメント(0)
小学館の学習雑誌は休刊されたとかいうニュースを聞いたような気がしたけど、そもそも関心のない話なのでスルーしていた。でも、「ドラえもん」とかが元々連載されていたのはこれだったんだよね。時代の流れではあろうが、各学年毎に細分化された?内容の雑誌が毎月出ていたというのが、今となってはすごいと思う。そんな学習雑誌、未だ健在だったのだ。ツイッター上で話題なのは、その名も「小学8年生」。はい?元々の学習雑誌は、「小学一年生」だけが存続していて他はみな休刊。代わりにというか、全学年向け?の8年生が刊行されたのだそう。で、話題なのは、その4月号にアベシンゾーの伝記漫画が掲載されていたため。これが親アベを怒らせ、反アベを笑わせたという内容らしい。これはチェックしてみないと。ジュンク堂で滅多にいかない3階のマンガとかが売っている売り場で見つけた。お値段は980円と結構する。早速、問題の”まんがで読む人物伝”のアベシンゾー篇を読む。まんがは藤波俊彦という人。なるほど、これが結構絵柄のタッチも内容もえぐい。子供時代のアベを描いているのだけど、まあ、こんなのがそのまま大人になって首相になんぞなっちゃうとああなるのだろうなという、ある種納得の内容だった。このマンガがネット上で炎上したのは、主に、かいよう性大腸炎のくだりだったらしい。でも、別に病気について何かコメントされているわけでもないし揶揄されているわけでもない。病名が記載されているだけじゃん。これなら実際病気を患っている人が何か不快を覚える要素もないし、アベがこの病気だったと書いてあるだけ。要は、炎上の主たちは何でもイチャモンをつけるアベ応援団(長谷川某のセリフを借りれば”8割がハエ”な連中だ)たちに過ぎず、難病とかはかっこうのネタだったのだろう。彼らがイチャモンをつけるネタの特徴として、被災者とか障害者とかに結びつけるのは得意なところだ。実際は、その被災者や障害者をないがしろにしてるアベを肯定しているくせにね。まあ、マンガ的にはややウケだったけど、このマンガ、アベだから特別ってわけじゃなく、エラソーな人を毎回この調子で描いているに過ぎないのではないか。次回はベートーベンだそうだけど、ある種偶像破壊というか、人間的な面を強調して描いているに過ぎないと思う。これで炎上するアベ応援団のバカさ加減が改めて浮き彫りになっただけだね。記事全体に目を通すと、巻頭特集が”土偶vsはにわ”で、オーブンで焼ける手作り土器キットが付録。更に、空前のブームという将棋を取り上げ、紙製の将棋入門セットもついている。やるかな、これ(笑)。それに学習雑誌といえばこれ、何と「ドラえもん」の復刻連載も。これ、読んだことあるな。薄手だけど内容はなかなかの充実ぶりだ。おそらく、ターゲットは子供だけではないのだろう。良いではないか。官邸がイチャモンつけて、こちらも休刊なんてこにならぬように。購読はしないけど(苦笑)密かに応援しとります。
2017年10月14日
コメント(0)
ようやくテレビでも取り上げられるようになった森友学園の問題は、これまたようやく日本会議の存在をクローズアップさせるに至った。これまでマスコミが正面切って取り上げることなく、知る人ぞ知るといった存在の、日本最大の極右宗教団体。僕自身も、この団体の存在を知ったのは比較的最近だ。この日本会議を取り上げた本もいくつか出版されてはいるけど、菅野完著「日本会議の研究」(扶桑社)がイチャモンつけられて差し止めという記事を読んで、すわと図書館をチェックした。沖縄県立図書館に収蔵されていて、予約を入れたところ借りられた。一体、日本会議とは?実は「研究」は半分程度読んだところで返却期限が来てしまい、次の予約も入っているということで、途中で返却せざるを得なかった。ただ、日本会議の生い立ちについては概ねわかった。そして、現政権の閣僚がほとんどこの組織に属していることも。自民の議員たちが、なぜ靖国神社参拝にこだわるのかも、現政権が憲法改正に異様にこだわるのも、総ては日本会議の方針に沿った上のことなのだと理解できた。「研究」は、またしばらく借りられない。では、別の本を借りるとする。それが、「日本会議・戦前回帰への情念」(山崎雅弘著 集英社)だ。冒頭、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」が取り上げられている。本来は「真田丸」が決まっていたはずなのに、なぜか山口県が舞台の、このドラマが押し込まれ、歴史捏造に近い解釈で脚本が書かれたドラマ。結果は記録的低視聴率に終わる。どうやら、このドラマはNHKが山口県出身アベシンゾーのご機嫌取りのために押し込まれたものだったよう。そんなものが面白くなるわけはない。著者は日本会議、極右連中の論理的矛盾に踏み込む。彼らは日本を敗戦に導いた、東条英機ら当時の政権担当者を批判することは一切ない。多くの自国民を死に追いやり、彼らが崇拝する天皇の地位を貶めたことに対する為政者たちへの批判の視点が全く欠けていると。日本が繁栄を誇ったのは戦前ではない。憲法に守られて再び戦火をまみえることがなかった戦後だ。しかし、彼らにとって戦後は屈辱と後退の歴史という。日本の国力に対する見方が全くもってトンチンカンだ。付け加えるなら、なぜ、憲法を押し付けられたというアメリカを批判しないのか。それどころか、現政権も対米従属一辺倒の政策に邁進している。それこそが屈辱ではないのか?現政権のやろうとしていることは、日本会議の目指すところとピタリと一致する。数年来目立つ自民議員による、”神武天皇の時代に戻るべきだ”だの”八紘一宇”だのといった前近代的な発言も、日本会議の掲げる精神に合致したものだ。議員連中は、心から共感しているのか、或いは集票組織としての日本会議に魂を売っているだけなのかは定かではないが、そこらの学習には誠に熱心で表向き忠誠心を表している。勿論、アベシンゾーへの擦り寄りという側面もあろう。森本学園の問題で、図らずも日本が、日本会議の方針に則って動かされていることが明らかになってきた。彼らの目指す世は、あの児童たちに愛国やアベシンゾー崇拝を強要する不気味な世なのだ。ネトウヨや、それに近いスタンス、単に左翼嫌いで現政権を消極的支持している人たちは、この存在を知ってか知らずか。日本はすでに中国共産党を飛び越えて北朝鮮に近い体制に向かおうとしていることがわかってきた。この動きは今止められなければ、もうまっしぐら、お先はないだろう。無知ほど恐ろしいものはない。僕自身、この団体の存在を知ることが遅すぎたと思う。そして、今尚、気づいていない人たちも多い。その一方で、日本は相当にヤバイところに来てしまっている。まさに、逆説的に”日本を取り戻す”ことをしないと手遅れになる。日本の終わりが既に始まっているのだ。
2017年03月18日
コメント(0)
ナイチ帰宅していた時に、この本読もうと思って那覇市立図書館のサイトで貸出予約をしていた。昨年のベストセラー「家族という病」(下重暁子著 幻冬舎)。間違えて「2」(が出ていたとは知らなんだ)を予約していたが、最初の方も借りることが出来た。新書で180p足らず。すぐに読み終えた。なぜ、この本かといえばタイトルに惹かれたのだ。ナイチで飲んだ何人かの友人たち、世代的なものもあるけれど、皆すべからく家族の問題を抱えていた。学生時代の同級生Tは、父が亡くなり母が認知症になったことで妹や親戚筋と一悶着。仕事のプレッシャーも相まってクモ膜下出血で倒れた。やはり同級生のWは夫婦関係が原因で夫婦ともども鬱病に。これまた職場環境の影響もあってアル中に。仕事を共にしたSさんは、やはり奥さんが鬱病になってしまった。いいダンナさん(という書き方をしたら著者に怒られそうだが)なはずなのにねえ。事ほど左様に”家族”は様々な問題を引き起こす。曲がりなりにも僕が健康体でストレスフリーでいられるのも、家族らしい家族がない。いや、正確にいえば親はいるけれども離れている。親戚とも1年に1回か2回会う程度。女房子供は勿論兄弟姉妹もいない。だからこそではないかと。こういう身分の人間は、当然ある種の後ろめたさを抱えているのだけど、この本は、その身分を肯定する内容と言うべきか、家族とはそれ程素晴らしいものなのかと疑義を呈する書だ。家族は”諸悪の根源”とまでは言わないけれど。薄っぺらい新書故にそれ程中身があるわけではない。ある意味、タイトルがすべてといった内容だ。著者はかなり割り切った考えの人で、”つれあい”との関係も実にさばけたものだ。著者の家族体験を元に、美化されがちな家族の本音の部分を曝け出す。親アベ政権の社長が営む出版社がこういう本を出すのは意外な気がしたが、要は売れると思えば何でも可という節操の無さなのだろう。僕みたいな人間でも、家族を肯定する気持ちは皆無ではない。でも、著者は自らの不幸な家族体験をある種普遍化すべく、様々な事例を挙げる。僕自身、今は沖縄のような、本土以上に家族を重視する土地に住んでいるので、ここまで家族を否定していいものか迷いはある。でも、家族ほど厄介なものはないというのは一面の真実には違いない。ただ、本の最後は著者から、亡き家族への手紙という変則的な形で締められているのだけど、正直ここがピンと来ない。所詮は新書ながらも、「家族という病」という刺激的なタイトルにふさわしい、もう一歩踏み込んだ家族感を読みたかった気もする。「2」はその辺どこまで掘り下げられているだろうか。引き続き読んでみるとしよう。
2016年12月05日
コメント(0)
長期で帰って来た時じゃないと、長年会ってない友人とかにはなかなか会えない。貴重な機会なので金はないけど旧交を温めることに勤しまんとす。今日は沖縄移住前以来だから4年以上はご無沙汰のS氏と約束。かつて仕事でお世話になった方。横須賀在住で現在は半ばリタイア気味。専ら横須賀の米軍基地の原子力空母寄港反対の活動に精を出されているようだ。とはいえ左翼闘士とかってわけではなく、至ってフツーの人だ。ネトウヨとかってバカたちは反対運動というと、すぐに活動家とか何とかヌカすけど、あくまで自分の生活環境を守るためにやむを得ずにやっている人たちが大半なのだ。金もらって活動してたりするのは自称”右翼”どもの方だろう。てな苦言はともかく、久々の再会の場所は僕の希望で神保町。折しも古本まつりを開催中。古書を買うような余裕はないけれど、あの雰囲気を味わってみたくて。神保町を歩くのも数年ぶりだから、約束時間より1時間早く着いて、しばし散策を。そもそも結構マイペースなS氏故にもともとは17時指定だったのだけど、”観たい映画があるから”と急遽18時になった。何だ、だったらひと運動して行けたのになあと言うのはともあれ、日が暮れ気味、少し冷え込んで来たところで家を出る。平日故に古本まつりも特に何かが行われているわけではないけど、街頭に並べられた本の数々を眺めているだけでも何だか嬉しい。さて、飲む場所は居酒屋の浅野屋あたりか、はたまた、さぼうるあたりか。S氏が待ち合わせ場所として指定してきたのは小宮山書店前とな。どこそれ?神保町なら岩波ホールとか救世軍の前とか、書店なら三省堂あたりというならわかるけど、小宮山って聞いたことないよ僕は。捜し当てたその店、小じんまりした美術書中心の店、1939年以来というから80年近い歴史のある老舗ではないか。何気にS氏は神保町通であったのか。お見逸れしました。S氏は神保町シアターでドキュメンタリー映画を見ていたそうな。以前にも待ち合わせで小宮山書店を指定して、やはりわからない人がいたという。そりゃそうでしょ。何でも家にある同じ本が20万円で!売られていたという。在庫が2冊になっちゃうから買い取りは渋られたそうだが(苦笑)。で、実は神保町に詳しかったS氏の行きつけらしい酔の助という居酒屋で一杯と相成る。めくるめくような多彩なメニューで古き好き庶民的な大衆居酒屋の見本みたいなお店だ。如何にも吉田類の番組で取り上げられそうな店だが、実際に来店したそうだ。元気いっぱいなS氏はガンガン熱燗のお銚子を空け、僕もつられて久々に結構な量の日本酒を飲んだ。食べる方も、焼鳥、刺身、カキフライのみならずガツ炒めとかたこ焼きのミートグラタン等々。大いに飲み食いしたけど、結構リーズナブルであった。これは大満足。S氏が仕事を辞めてしまったという話を聞いた時は驚いたけど、何でも東北でのボランティア活動中も仕事の電話がかかってくることに嫌気がさした!のが原因だったそうで、何とも前向きな理由なのだった。家族の問題等はあるようだけど、ますます意気盛んで何より。神保町の通はさすがに人望厚き人なのであった。またいつか一杯飲れたらいいね。
2016年10月31日
コメント(0)
長崎行きを前に関連の本を読む。また図書館借りだけど、「ナガサキ 消えたもう一つの原爆ドーム」(09 高瀬毅著 平凡社)。たまたま見つけたのだけど、これは大いに興味深い内容だった。著者は長崎出身。ラジオから出版界へ進み、ジャーナリストとして歩んできた人のよう。長崎の原爆遺構としてすぐに頭に浮かぶのは、あの平和祈念像だ。手をL字型に構えた独特のシェイプで、あれはあれで印象には残る。でも、あれはあくまで原爆投下後から約10年後に建造されたもので、”遺構”とは言えないものだった。広島には原爆ドームがあるけれど、長崎には原爆の痕跡となるものが残されていないという。勿論、広島とは別の原爆資料館はあるわけだけど。その辺で、原爆といえば、ヒロシマが多く取り上げられるものの、二番目の都市である長崎はどこか影が薄い。被害という点では広島にも劣らないにも拘らずだ。ある研究者は、長崎を”劣等被爆都市”とまで称しているのだ。長崎にも原爆の遺構となるべき建物はあった。いや、残っているには残っているそうだ。平和公園にそれはある。浦上天主堂の柱だ。しかし、天主堂は元々そこにあったわけではなく、新たな天主堂が建造されるにあたって移設されたものだ。この本は、当初、原爆ドームのように残す話があった浦上天主堂が、なぜ残されず、全く新しく建造されたのかを探る内容だ。天主堂の廃墟を跡形もなく取り去り、新たな堂を建造することを決めたのは、時の長崎市長・田川務氏だった。当時の天主堂の司祭も、同じ場所に新しい堂を作ることに賛成だったという。だが、元々は田川市長は、広島の原爆ドームのように天主堂の廃墟を負の遺産として残す考えだったようだし、市議会でもその事を強く主張する人たちがいた。にも拘らず、田川市長は新天主堂建造に転じ、堂の遺構はわずかに柱のみが平和公園に残ることになった。なぜ、田川市長が考えを変えることになったのか?また、なぜ、天主堂の司祭たちは同じ場所に新しい堂を建造することにこだわったのか?著者は丹念な取材でその理由を探っていく。キーは、長崎と姉妹都市を結んだセントポールの存在だ。著者は、カトリックの総本山である、このミネソタ州の都市にも飛ぶ。姉妹都市というのは民間文化レベルで、大した意味はないものだと思っていた。だが、実はアメリカが国家的な戦略の下に考えぬかれた事業なのだった。長崎は姉妹都市の先駆けとなったのだけど、そこには被爆都市であることが密接に関わっていたのだ。なぜ日本におけるカトリックの地であった長崎に原爆が落とされたのか。元々は小倉が目標で、長崎はプランBだったそうだ。それも都市の中心部に落とされるはずが、運命のいたずらで、聖地ともいえる浦上に原爆が落とされることになる。日本における異教徒の地である浦上と、長崎市街では意外に温度差があったようだ。それがまた、広島に比して、長崎の影の薄さに繋がっているのかも知れない。ようやくオバマ大統領が広島を訪れたものの、アメリカでは未だに原爆投下を肯定する声が多い。それはアメリカによる、初動の情報操作が大きく影響している。そして、日本、長崎に対しても、その手は及んだ。田川市長や教会関係者を懐柔し取り込み、翻意を促させた。今回の長崎行きでは、「長崎の鐘」の永井隆記念館にも寄ろうと思ってはいるが、クリスチャンの永井も、”原爆は神の与えた試練”といった、アメリカ人に沿った発言を残している。長崎の聖職者には、広島の原爆投下すら同様に表現した者さえいた。キリスト教とはほぼ無縁の広島では、これは許容し難い発言だろう。この本で改めて思うのは、アメリカという国の情報戦略の巧みさ、強かさだ。姉妹都市提携に関わるUAIAなる団体も、実はCIAとも関わりがある。戦後の日本は、全体が、このアメリカの情報戦略に沿って統治、誘導されてきた。とりわけ、この長崎、そして沖縄は、その戦略が効果を及ぼした地と言えてしまいそうだ。沖縄の基地を巡る問題が起こる度に、沖縄県民自身からも発せられる”アメリカ人にもいい人はいる”といったナイーブな発言。そりゃあ、どんな人種、民族にだっていい人も悪い人もいる。善人の地のように思われている沖縄だって”悪い人はいっぱいいる”(ローリー・クックの発言)のだ。そんな単純なレベルを超えた、戦略をアメリカは展開し続け、現在に至っている。そして、長崎は遺構を失い、広島にはなり得なかった。アメリカという国の狡猾さ、計算高さに対して、日本人はもっともっと自覚的にならなくてはならない。既に手遅れとも言うべき状況ながらも、それは必要だ。長崎を訪れた際には、最早失われてしまった”遺構”としての浦上天主堂の姿に想像力を働かせてみたい。
2016年08月27日
コメント(0)
誠に今更ながら、世間で話題の自民党・安保法制PR動画「教えて!ヒゲの隊長」をユーチューブで見てみた。そのPART2も。そして、勿論、あかりちゃんの「ヒゲの隊長に教えてあげてみた」及び「ヒゲMAXあかりのデスロード」も合わせて。いやはや・・・詳述はしませぬが、どちらが理にかなっているかは明らかだ。これでまんまと説得される人って、よほどのバカか単細胞・・・でまあ、その中で気になったのが、あかりちゃんが教えてあげた”経済徴兵制”のあたり。折しも、今更ながらだけど、堤未果著「ルポ貧困大国アメリカ」('08 岩波書店)を読んでいる最中であった。貧困が原因の肥満、防災の問題、医療の問題、そして、まさしく経済徴兵制の問題。読んでいて目眩がしてきそうだ。そして、これこそが今のアベシンゾーが目指している未来の日本の姿かと考えると、もう何をか言わんや。一刻も早く日本を脱出したくなってくる。勿論、アメリカに行く気はないが(爆)。このアベシンゾーが目指す未来の日本の姿に、最も近いのが沖縄に思えて仕方がない。沖縄は日本における肥満率No.1県。脂っこい食べ物、アメリカ的な食生活習慣、暑さも相まっての運動不足等々の複合的な理由にはよるけれど、貧困も、その理由の一つではないか。ウチナンチュはジャンクフード大好きだが、安さ、お手軽さも、その理由だ。親に放置されてテキトーにジャンクを食べて済ます子供も多いらしい。さすがに学校給食はまともなようだけど、今のところ・・・所得の低さも日本一。老人も多いから医療費や保険料も高騰。防災?まさしく基地を押し付けられているから、県内は常に危険がいっぱい。何かあった時の補償すらない。そして更に・・・自衛隊は沖縄では非常に身近な存在だ。戦争を知る世代は忌避感があるものの、今の親くらいの世代は自衛隊基地の開放イベントに子連れで嬉々として出かけている。わらばーたちは自衛隊に結構親近感があるかも知れない。ここいらは米軍基地直伝の?広報戦略がある程度功を奏していると言えよう。でもって、”自衛隊はかっこいい”と思ってるにせたーも少なくない印象。それに貧しさが加われば・・・沖縄は自衛隊に最も人材を提供する県となり得るかも知れない。ウチナンチュのある種の呑気さてーげーさは美点として語られて久しいが、それでいいのか?とりわけアンタら自身は?と最近とみに感じる。勿論、一方で、沖縄は不正に対して戦う人々を擁する地でもある。しかし、オーヴァー40とアンダー40の世代の意識の差というのは結構大きい気がする。共通項は皆”沖縄が好き”ということ。でも、好きならば、好きだからこそ、もう少し真剣に色々考えてみないとヤバイんじゃない?とお節介なヤナナイチャーは思ってしまう。いい人たちではあるのだけど・・・基地がいっぱいある沖縄が、先んじて現在のアメリカのようになってしまわないように。そんなことも含めて今週末は、半年ぶりに辺野古&高江行きのつもりだったが、にゃにぃ?またぞろ台風だあ〜〜(泣)。
2015年08月20日
コメント(0)
沖縄の歴史をキッチリ学んでおかないといけないなあと思い、県立図書館で本を借りた。タイトルは「教養講座 琉球沖縄史」('14 新城俊昭著 編集工房東洋企画刊)。教科書であるらしい。だから大判で字も大きく写真等も豊富。しかし、記述もわかりやすいし、コラム等を通じて、かなりキッチリと歴史を概観している。これは初心者には最適と、まだ原始時代篇(笑)あたりを読んだだけで、これは持ってた方がいいなと思い、ジュンク堂書店で購入した。しかし、買ってしまうと読まないもんである(苦笑)。折に触れとは思ってるのだけど、いつでも読めるのだから、別のものを優先ってことになってしまう。で、その本を図書館に返却した代わりに借りてきたのが、「沖縄・だれにも書かれたくなかった戦後史・上」(佐野眞一著 '11 集英社)だ。文庫本で読みやすいってこともあり、やはりこちらの方を先に読み進めてしまう。そもそも面白いからスイスイ読める。沖縄の歴史なら“正史”をまず、のはずが、ついつい裏面史の方が先になってしまうという・・・扱われているのは、沖縄のヤクザの攻防史、そして、一代で財をなした財界人たち。彼らを追うことは、まさに沖縄のもう一つの歴史を紐解くことになると。まさしく然り。沖縄戦、基地、観光等のキーワードだけではくくれぬ、沖縄のもう一つの顔が活き活きと綴られる。これもまた沖縄の真実なのだ。コザに行く途中のバスの車窓から、屋宜原あたりで突如見えてくるソープランドの看板。話題のSCイオンライカムにも程近い場所に場違いに存在するそこは、何と米軍の動向を探るためのスパイ拠点として築かれたのだという。そんな驚愕の事実も本書の取材で明らかになっている。かの、オシャレな桜坂劇場も、所詮は“興行”の世界。当然、バックにはヤクザが絡む。しかも、出資者は山口組とも繋がりのある組の頭目で、名うての空手の猛者であったと。「ナビィの恋」も、その筋の資金がなくては作られなかったのだ。そういう沖縄のもう一つの顔や裏面を知ると、現在の辺野古を巡る状況も、また違って見えてくる。勿論、新基地建設に反対であることに違いはないし、反対運動も支持するのだけど、それを展開する団体に絡む財界人や政治家たちの動向や思惑を、また別の側面から眺めることが可能になる。当たり前だけど、沖縄のような地でも事情は色々複雑なのだ。上巻500頁を概ね読み終わり、週末には下巻を借りてくるつもり。これはもう読み始めたらやめられないからね。でも、この本も“正史”と同様に、やっぱり手元に置いておきたいなあと思い始めていて・・・
2015年05月26日
コメント(0)
先日見たオリヴァー・ストーン来日時の番組で知ったジョン・ハーシーの「ヒロシマ」(増補版 '03 法政大学出版局)地元の図書館から借りてきて、ようやく今日この日から読み始める。ハーシーはアメリカのジャーナリストで、原爆直後の広島を訪れ、詳細な記録を綴り、それはニューヨーカー誌を始めとしたメディアに掲載され、当時、大反響を呼んだ、らしいのだ。“らしい”というのは、それだけ反響を呼んだのに、なぜ、未だにアメリカ人は、自国の日本への原爆投下に関して無知な輩ばかりなのだろうか?かくいう、自分も、こういう書の存在を今になって知ったわけだし。実のところ、本はまだ80頁位までしか読んでない。その前半は、ハーシーが、後に広島を訪れた際に生存者(のうちの一人が翻訳も担当している)にインタビューしての、原爆投下日前後の再現ルポが淡々と綴られている。後半は、彼自身が見たその後の広島について描かれるのだろう。いずれにせよ、この前半だけで、その破壊力の大きさと現場の状況の程は充分に伝わる。これを読めば、アメリカ人は、自国政府がどんな事をしでかしたのかがよくわかるはずなのに・・・記憶の風化は、この日本でさえ進んでいるのだから、ましてやアメリカをやということなのだろうか。それでも、そんな国でも、対戦国を訪れて正確な記録を残そうとした人物が存在したということだけでも救いと言えようか。こういう書が、今一度、アメリカは勿論、ここ日本でも顧みられることを期待したい。
2014年08月06日
コメント(0)
全167件 (167件中 1-50件目)