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■荒波にもまれて■
窓を通して聞こえてくる、小鳥のさえずりで目を覚ました。
岬の突端にあるこのホテルに投宿して3日目の朝。
「あそこは乾燥した土地だよ」
と出かける前にダイビング雑誌の仕事をよくしているカメラマンから聞いていたが、実際は想像以上の乾いた土地。
「雨はもう1か月は降っていない」と、ガイドのホルヘは昨夜歌うように言っていた。
「この土地じゃ、当たり前。誰も天気のこととか気にかけないよ」
政府が手配してくれた車だから、一応クーラーが効いているのが助かるが、同じく政府が手配してくれたガイドのホルヘの仕事ぶりはのんきなメキシコ人の中でも群を抜いていた。集合には遅れるし、予定は気分次第でどんどん変えてしまう。そうそう、おととい遭遇した地震の時はまっさきに逃げて、あとで
フロントで私たちを見つけると「おい、どこに行っていたんだ、心配したぞ」などと悪びれた様子もなく白い歯を見せて歩み寄ってきた。
今日はこの土地で最後の取材日だから、スケジュールはぎっちり。そんなホルヘにとってはとってもつらいハードな一日になりそうだ。
がばっとかけシーツをはねのけて、ベッドの上に立ち上がる。
窓を開けたとたん、太平洋の荒波が岩にぶつかる音が聞こえる。
ベランダで遊んでいた小鳥が二羽、群青に広がる大海原の上空のほうへ飛んで逃げた。
「ホテルのロビーに8時集合。食事はすませて」と伝えていたので、カメラマンの富田さんはすでにロビーに待っていた。富田さんこと、とみちゃんは8時に集合というと5時には起きる。長く旅行系の撮影の仕事をしていると、朝日を取るのが習慣になっていて、世界各地の日の出をカメラに収めている。
「おはよう、ももちゃん」
パイナップルジュースのストローをごつい指の間にはさめてチューチューすすりながら、ウインクする。
「まったく何度あるんだろ。いいかげん海にでも飛び込みたくなるよな。」
「今日はシーカヤックの撮影があるから、海に行けますよ。少し休憩いれたいですね」
「そうそう、日のまわりのいいうちにちゃんと撮影して午後はおねんね、ね」
そうこうしてるうちにホルヘがエントランスから入ってきた。
20分遅刻。
今朝は早いほうだ。
「さあ、乗った乗った。最初はどこだっけ?」
「ラペルラ海岸だ」
車のエンジンをギッといれると、朝っぱらから激しいメレンゲのリズムがカーラジオからかかってきた。暑さを打楽器の激しいビートががかき回す。
とみちゃんはすでに大粒の汗をほほに額に浮かべている。
「バーモス!」
ホルヘがアクセルをググっと踏んで、ホテルの正門を右に曲がると、赤茶けた砂漠と並行するように、太平洋の群青の水平線が連なっていた。
サボテンが林立する砂漠の道を走っていくとやがて丘陵の上に白いコロニアル風の邸宅が見えた。
「あそこも取材するといい。地元では有名なレストランだ」
おいおい行先は違うだろ、と思ったが、郷に入れは郷にしたがえだし、実は早くも喉が渇いていた。巨漢のとみちゃんもうんうんうなずく。
門から入ると、ホルヘが上機嫌で階段をかけあがり館の中に入る。
中はひんやりして薄暗く、大型のファンが天井裏からゆったりと風を送っている。出てきた女主人にホルヘが挨拶をすると最初はいぶかしげだった彼女の表情が明るくなり、交渉成立。
ここで僕たちはこの地方の郷土料理を撮影することになった。
庭には鶏やロバがいて、とみちゃんが追いかけまわしてはカメラを向ける。鶏はなかなか絶好の撮影スポットにいかないらしく、ココっと短く鋭く鳴きながら、ついには門の外に出て行ってしまった。
出てきた料理の説明を英語で聞き、メニューを見てなんとか調理法と素材を把握し、いざ試食。チョコレートがたっぷりのったチキン料理というものを初めて食べたが、これは日本人の口にあうかどうか?ワカモーレのサラダとマヒマヒのフライと豆入りライスを食べた後に、お礼を言って車に乗り込む。
すでに陽は真上にあがっている。
カーラジオからゆったりとしたマリアッチの曲が流れてきた。
マリアッチは結婚式のお祝いの曲だ。
トランペットの音色が晴れ晴れとして気持ちを高揚してくれる。
「ホルヘよ、この曲、スペイン語でどんな歌詞なんだ?」
「今日のような空の青さをたたえてるんだよ」
「なんだ、そりゃ?」
「アイ!アイ!アイ!悲しいことがあっても泣くんじゃない。なぜなら、空はこんなに青いから!」
トランペットが高らかに主旋律を吹きあげるそのメロディ。
たしかに、こんな美しい空を見ていたら、悲しいことなんてどうでもよくなっちまうように思った。別に悲しいことなんか、ないが。
車窓から右手の群青色の大海原を眺める。
岩の向こうに一羽のペリカンが飛んで行った。不格好におどけた感じの飛ぶ姿。シャッター音が背後から聞こえる。とみちゃんは車の中でもいつもファインダーをのぞいているからシャッターチャンスは逃さない。
「ペリカ~ノ」
とホルヘが歌うようにつぶやく。
数分だろうか。
まどろみから覚めたらまだ砂漠の道で海岸線にそって走っていたが道の両側に歩いている人を見かけるようになった。地元のマーケットがあるようだ。
「あ、とまって」
とみちゃんが絶好の被写体を発見したらしい。そこでは、子どもたちが不思議なブローチを売っていた。
よく近づいてみてみると、ブローチと思ったものは、実はコガネムシに似たエメラルドグリーンの虫だった。その虫の羽のところに穴をあけ、糸をとおして、肩の上にとまらせているのだ。面白い写真がとれるとばかりにとみちゃんは大喜び。僕たちもマーケットを取材していた。
ホルヘが道の向こうに消えようとする。
あれ、どうした?
僕がついていくとホルヘはにやっと笑う。
どうやら尿意を催したようだ。
それなら僕も、と思い、さっきの店で飲んだビールを放出する。
ホルヘが先に終わって道を横切って帰っていったのを見送って、続けていた時に、
「アイアイアイ」という声が聞こえた。
振りかえるとそこにパトカーと警察官2人が立っていた。
「日本人よ、大変なことをしてくれたな」とばかりに
腕をとられて、車に連行された。
あまりの急なことに、ホルヘを目で追ったが、ホルヘは逃げ足が早く、あっという間に向こう側の雑踏の中に消えた。振り返った顔がかすかに笑ったのを間違いなく見た。
交番につれていかれて、持ち金の小銭を罰金として払い、徒歩でマーケットに戻ってくるはめになった。
小一時間ほどだったと思う。
一本道なので、道はわかりやすかった。
途中ちっぽけな草原で農夫が鍬仕事をしていた。
彼にマーケットへの行き方を聞いたが、にこにこ笑ってるだけでらちがあかない。「マーケットはこちらですか?」農夫うなずく。「それともあちらですか?」農夫またうなづく。
しょうがないので自分の勘を頼りに小走りに走ると、やっとマーケットが見えてきた。とみちゃんは私が拉致されたことも知らずに、必至に人々の写真を撮ってた。ホルヘは、とんだ災難だったな、とばかりに小さくウインクをした。
腹がたったので、ホルヘの足にまわしげりを飛ばしたら、パッとよけて、車に逃げ込んだ。
「とみちゃん、そろそろ海へ行こう!」
「オーケー」
僕たちが着いたその海岸には、ビーチボーイが3名と彼らの視線の先のトップレスの白人女性が2名しかいなかった。
静かな海で、入り江になっているので、天然のプラベートビーチだ。
ここで寝そべっていたい気持ちを我慢して、予定どおりにシーカヤックに乗り込んだ。シーカヤックで漕いで十数分のところに、太平洋に向き立った岩があって、そこにアザラシがいるのだ。そのアザラシをシーカヤックで見に行くというストーリー。漕ぐのは僕で、とみちゃんとホルヘは別のボートで、僕の後ろ姿と遠景に岩の上にねそべるアザラシ、という構図を打ち合わせで決めていた。これは、今回の編集記事「まだ誰も知らない(編集部も知らなかった)メキシカンリゾートの遊び方」でもページのメインカットに使用するよう決めていたから、手落ちがあってはならない。
オールをもらって漕いで海に向かう。
エメラルドグリーンの水の色がひと漕ぎごとに微妙に青っぽさを増してきて、やがて、波が高くなった。オールを漕ぐたびに「じゃぼ」っと潤んだ音がして耳にやさしい。見上げると空はどこまでも青く、最高の撮影日和。気分よく漕ぎ進める。振り返るととみちゃんがボートの舳先に立ってすでにばしゃばしゃシャッターを回している。
どれくらい漕いだだろうか。岩まではあと20メートルほどだが、なんだか、海の勝手が全く違ってきた。いわゆる外海と内海の境まで漕いできてしまったらしい。ばしゃん、と音を立て、大きな魚が跳ねた。背後を見ると、ホルヘらのボートからは30メートルほど離れてしまっている。黒々とした水の色を見ていたら、背筋が凍るほどの恐怖感を覚えた。海には当然潮流があり、さっきまではみじんも感じなかった静かな海面が、いまは、岩に砕けてぐるぐる回流しているように思えた。というか、実際、ここは外海じゃないか?アザラシがこちらを邪悪な目で眺め、ゴウッと一言雄たけびをあげた。
これ以上近づいたら危険だが、それでも後ろから撮影チャンスを狙っているとみちゃんからすれば、もうちょっと近づいてほしいに違いない。意を決して、ふたこぎみこぎしたら、急に群青の海の下に黒い影が見えたかと思ったら、それは岩だった。危ないっ!バランスを崩しかけて、なんとか岩に腕をのばして支える形になっていたが、外海から狂ったように流れ込む荒波が押し寄せ、ボートは外海に引きさらわれ、これはまずいと思った瞬間に岩に激しく激突し、僕は海に放り出された。
ひとしきり海水を飲んで、浮かび上がって見えたのは、ボートが急いで助けにくる様子だった。メガネがとれたようで視界がぼやけているが、なんとか浮き輪を投げてくれたようだ。猛烈に浮き輪に向かって手をばたばたさせ、なんとかホルヘたちがのっているボートに引き上げてもらった。
左の手首には縦に切り傷が入り、そこから血が流れ、一度ぬぐってもまたみるみるうちに血がにじむ。ほうほうの体で、浜についた僕たちは、じゃぶじゃぶ足元の波を蹴散らして、砂浜にあがった。
「危なかったよ。なんで転覆したの?」ととみちゃんに尋ねられて、事の顛末をしゃべる。いきなり岩が海底から上がってきたこと、岩の近くは、実は海流が渦を巻いていて危険だったってことを。
「メガネは落としてしまった」僕がいうと、手首に包帯を巻いてくれていたホルヘは、ビーチボーイのとこに去って行った。そしてしばらくすると
「連中と話をつけてきた」と笑う。連中3人は「誰がメガネを持ち帰れるか?」競争したいという。
「見事メガネをもちかえった人には、賞金を出してほしい」
とホルヘがまたにやっと笑う。
後ろではホルヘにそっくりなビーチボーイたちがにこにこ見守る。
「わかったよ、払うよ!」
「いけ、野郎ども」とホルヘがいったかどうかはわからないが、3人の青年たちは砂浜を走っていって、ばしゃばしゃしぶきをあげて海に突進していった。
「シーカヤックは紹介するには危険すぎるな・・・。よし思い切って没にして、他のアイディアをホルヘに尋ねよう」と僕は左手首の痛みを感じながら、ぼやけた視界で、エメラルドグリーンの静かな浅瀬、そして、その奥で、色が群青に変わった先の猛々しい海を見つめながら、ひとりごちた。
ホルヘは、ビーチに転がってたサッカーボールに玉乗りして口笛を吹いている。さっきカーラジオから流れてきたマリアッチだ。玉の上でバランスを取りながら、男たち3人の背中を見つめているのか?いや、トップレスの女性をサングラスの奥から凝視しているのかもしれない。
空は限りなく青い。波の音にまじって、ホルヘの口笛が続いている。
「どんなに悲しくても泣くんじゃない。ほら、空はこんなに青いから」
確かそんな歌詞だったよな。そんなことを考えながら目をつむる。
その心地よいメロディに眠気を覚え、しばらく目をつむっていただろうか。ふと、口笛がやんだので目を開ける。沖のほうを見つめると、上半身裸の男たちが沖から砂浜に向かって走ってくるのが見えた。先頭の男が腕をあげる。右手にキラリと光ったもののが確かに見えた。
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