差し伸べられる手 ~誰の上にも平等に訪れる事を願って~

差し伸べられる手 ~誰の上にも平等に訪れる事を願って~

もの思う葦 (その一)

   もの思う葦(その一) 
―当りまえのことを当りまえに語る―     はしがき  もの思う葦という題名にて、日本浪漫派の機関雑誌におよそ一箇年ほどつづけて書かせてもらおう と思いたったのには、次のような理由がある。 「生きていようと思ったから」私は生業(なりわい)につとめなければいけないではないか。簡単な理 由なんだ。  私は、この四、五年のあいだ既に、ただの小説を七篇も発表している。ただとは、無銭の謂いであ る。けれどもこの七篇はそれぞれ、私の生涯の小説の見本の役割をなした。発表の当時こそ命かけて の意気込みもあったのであるが、結果からしてみると、私はただ、ジャアナリズムに七篇の見本を提 出したにすぎないということになったようである。私の小説に買い手がついた。売った。売ってから 考えたのである。もう、そろそろ、ただの小説を書くことはやめよう。欲がついた。「人間は生涯、 同一水準の作品しか書けない」コクトオの言葉と記憶している。きょうの私もまた、この言葉を楯 に執る。もう一作拝見、もう一作拝見、というかしがましい市場の呼び声に私は答える。「同じこと だ。――舞台を与えよ。――私はお気に入るだろう。――こいしくばたずね来てみよ。私は袋の中か ら七篇の見本をとりだして、もいちどお目にかけるまでのことだ。私はその七篇にぶち撒かれた私の 血や汗のことを言わない。見れば判るにきまっている。すでにすでに私には選ばれる資格があるのだ。 買い手がなかったらどうしようかしら。  私には欲がついて、よろずにけち臭くなって、ただで小説を発表するのが惜しくなって来たのだけ れども、もし買いに来る人がなかったなら、そのうちに、私の名前がだんだんみんなに忘れられてい って、たしかに死んだはずだがと薄暗いおでんやなどで噂をされる。それでは私の生業もなにもあっ たものではない。いろいろ考えてからもの思う葦という題で、毎月、あるいは隔月くらいに五、六枚 ずつ様々のことを書き綴ってゆこうというところに落ち着いたのだ。みなさんに忘れられないように 私の勉強ぶりをときたまちらっと覗かせてやろうという卑猥な魂胆のようである。     虚栄の市  デカルトの『激情論』は名高いわりに面白くない本であるが、「崇敬とはわれに益するところあら んと願望する情の謂いである」としてあったものだ。デカルトあながちぼんくらじゃないと思ったの だが、「羞恥とはわれに益するところあらんと願望する情の謂いである」もしくは、「軽蔑とはわれ に益するところあらんと云々」といった工合いに手当りしだいの感情を、われに益する云々という句 にうずめ込んでいってみても、さほど不体裁な言葉にならぬ。いっそ、「どんな感情でも、自分が可 愛いからこそ起る」と言ってしまっても、どこやら耳あたらしい一理屈として通る。献身とか謙譲と か義侠とかの美徳なるものが、自分のためという欲念を、まるできんたまかなにかのようにひたがく しにかくさせてしまったので、いまでたらめに、「自分のため」と言われても、ああ慧眼と恐れ入っ たりすることがないともかぎらぬような事態にたちいるので、デカルト、べつだん卓見を述べたわけ ではないのである。人は弱さ、しゃれた言いかたをすれば、肩の木の葉の跡とおぼしき箇所に、射込 んだふうの矢を真実と読んでほめそやす。けれども、そんな判りきった弱さに射込むよりは、それを 知っていながら、わざとその箇所をはずして射ってやって、相手に、知っているなと感ずかせ、しか も自分はあくまでも、知らずにしくじったと呟いて、ほんとうに知らなかったような気になったりす るのもまた面白くないか。虚栄の市の誇りもここにあるのだ。この市に集うもの、すべて、むさぼり らうこと豚のごとく、さかんなること狒狒(ヒヒ)のごとく、およそわれに益するところあらんと願望 するの情、この市に住むものたちより強きはない。しかるにまた、献身、謙譲、義侠のふうをてらい、 鳳凰極楽鳥の秀技、華麗を装わんとするの情、この市に住むものたちより激しきはないのである。そ ういう私だとて病人づらをして、世評などは、と涼しげにいやいやをして見せながらも、内心如夜叉、 敵を論破するためには私立探偵を十円くらいでたのんできて、その論敵の氏と育ちと学問と素行と病 気と失敗とを赤裸々に洗わせ、それを参考にしてそろそろとおのれの論陣をかためて行く。因果。 「私は、はかなくもばかげたこの虚栄の市を愛する。私は生涯、この虚栄の市に住み、死ぬるまでさ まざまの甲斐なき努力をし続けて行こうと思う」  虚栄の子のそのような想念をうつらうつらまとめてみているうちに、私は素晴らしい仲間を見つけ た。アントン・ファン・ダイク。彼が二十三歳の折に描いた自画像である。アサヒグラフ所載のもの であって、児島喜久雄というひとの解説がついている。「背景は例の暗褐色。豊かな金髪をちぢらせ てふさふさと額に垂らしている。伏目につつましく控えている碧い神経質な鋭い目も、官能的な桜桃 色の唇も相当なものである。肌理(きめ)細かい女のような皮膚の下から綺麗な血の色が、薔薇色に透 いて見える。黒褐色の服に雪白の襟と袖口。濃い藍色の絹のマントをシックに羽織っている。この画 は伊太利亜で描いたもので、肩からかけている金鎖はマントワ侯の贈り物だという」またいう、「彼 の作品は常に作後の喝采を目標として、病弱の五体に鞭うち彼の虚栄心の結晶であった」そうであろ う。堂々と自分のつらを、こんなにあやしいほど美しく書き装うてしかもおそらくは、ひとりの貴婦 人へ頗(すこぶ)る高価に売りつけたにちがいない二十三歳の小僧の、臆面もなきふてぶてしさを思う と、――いたたまらぬほど憎くなる。     敗北の歌  曳かれものの小唄という言葉がある。痩馬に乗せられ刑場へ曳かれて行く死刑囚が、それでも自分 のおちぶれを見せまいと、いかにも気楽そうに馬上で低吟する小唄の謂いであって、ばかばかしい 負け惜しみを嘲(あざわら)う言葉のようであるが、文学なんかも、そんなものじゃないのか。早いと ころ、身のまわりの論理の問題から話をすすめてみる。私がいわなければ誰もいわないだろうから、 私が次のような当りまえのことをいうても、何やら英雄の言葉のように響くかも知れないが、だいい ちに私は私の老母がきらいである。生みの親であるが好きになれない。無知。これゆえにたまらない。 つぎに私は、四谷怪談の伊右衛門に同情を持つ者であるということをいわなければならない。まった く、女房の髪が抜け、顔いちめん腫れあがって膿が流れ、おまけにちんば、それで朝から晩までめそ めそ泣きつかれていた日には、伊右衛門でなくても、蚊帳を質にいれて遊びに出かけたくなるだろう と思う。つぎに私は、友情と金銭の相互関係について、つぎに私は師弟の挨拶について、つぎに私は 兵隊について、いくらでもいえるのであるが、いますぐ牢へ入れられるのはやはりいやであるからこ の辺で止す。つまり私には良心がないということをいいたいのである。はじめからそんなものはなか った。鞭影(べんえい)への恐怖、いいかえれば世の中から爪弾きされはせぬかという懸念、牢屋への 憎悪、そんなものを人は良心の呵責と読んで落ちついているようである。自己保存の本能なら、馬車 馬にも番犬にもある。けれども、こんな日常倫理のうえの判り切った出鱈目を知らぬ顔して踏襲して 行くのが、また世の中のなつかしいところ、血気にはやってばかな真似をするなよ、と同宿のサラリ イマンが私をいさめた。いや、と私は気を取り直して心のなかで呟く。ぼくは新しい倫理を樹立する のだ。美と叡智とを基準にした新しい倫理を創るのだ。美しいもの、怜悧なるものは、すべて正しい。 醜と愚鈍とは死刑である。そうして立ちあがったところで、さて、私には何ができた。殺人、放火、 強姦、身をふるわせてそれらへあこがれても、何ひとつできなかった。立ちあがって、尻餅ついた。 サラリイマンは、また現われて、諦念と怠惰のよさを説く。姉は、母の心配を思え、と愚劣きわま る手紙を寄こす。そろそろと私の狂乱がはじまる。なんでもよい、人のやるなということを計算なく 行なう。きりきり舞って舞っ狂って、はては自殺と入院である。そうして、私の「小唄」もこの直後 からはじまるようである。曳かれもの、身は痩馬にゆだねて、のんきに鼻歌を歌う。「私は神の継子。 ものごとを未解決のままで神の裁断にまかせることを嫌う。なにもかも自分で割り切ってしまいたい。 神は何ひとつ私に手伝わなかった。私は霊感を信じない。知性の職人。懐疑の名人。わざと下手くそ に書いてみたりわざと面白くなく書いてみたり、神を恐れぬよるべなき子。判り切っているほど判っ ているのだ。ああ、ここから見おろすと、みんなおろかで薄汚い」などと賑やかなことであるが、お や刑場はすぐもうそこに見えている。そうしてこの男も「創造しつつ痛ましく勇ましく没落して」行 くにちがいない。とツアラツストラがのこのこ出て来ていらざる注釈を一こと附け加えた。     ある実験報告  人は人に影響を与えることもできず、また、人から影響を受けることもできない。     老 年  ひとにすすめられて、『花伝書』を読む。「三十四、五歳。このころの能、さかりのきはめなり。 ここにて、この信条を極めさとりて、かんのう(堪能)になれば、定めて天下にゆるされ、めいぼう (名望)を得つべし、若(もし)、この時分に、天下のゆるされも不足に、めいぼうも思ふほどなくは、 如何なる上手なりとも、末まことの花を極めぬして(仕手)と知るべし。もし極めずは、四十より能は さがるべし。それ後の証拠なるべし。さる程に、あがるは三十四、五までの比(ころ)、さがるは四十 以来なり。返返この比天下のゆるされを得ずは能を極めたりとおもふべからず。云々」またいう。 「四十四、五。この比よりの手だて、大方かはるべし。たとひ、天下にゆるされ、能は得法したりと も、それにつけても、よき脇のして(仕手)を持つべし。能はさがらねども、ちからなく、やうやう年 たけゆけば、身の花も、よそ目の花も失するなり。先すぐれたるびなん(美男)は知らず、よき程の人 も、ひためん(直面)の申楽は、年よりては見えぬ物なり。さる程に此一方は欠けたり。この比よりは、 さのみにこまかなる物まねをばすまじきなり。大方似あひたる風体(ふうてい)を、安安とほねを折ら で、脇のして(仕手)なからんにつけても、いよいよ細かに身をくだく能をばすまじきなり。云々」ま たいう。「五十有余。この比よりは、大方せぬならでは、手だてあるまじ。麒麟(きりん)も老いては 駑馬に劣ると申す事あり。云々」  次は藤村の言葉である。「芭蕉は五十一で死んだ。(中略)これには私は驚かされた。老人だ、老 人だ、と少年時代から思い込んでいた芭蕉に対する自分の考えかたを変えなければならなくなって来 た。(中略)『四十ぐらいの時に、芭蕉はもう翁という気分でいたんだね』と馬場君も言っていた。 (中略)とにかく、私の心の驚きは今日まで自分の胸に描いて来た芭蕉の心像を十年も二十年も若く した。云々」  露伴の文章がどうのこうのと、このごろ、やかましく言われるけれども、それは露伴の五重塔や一 口剣などむかしの佳品を読まないひとの言うことではないのか。  玉勝間にも以下の文章あり。「今の世の人、神の御社は寂しく物さびたるを尊しと思ふは、古の神 社の盛なりし世の様をば知らずして、ただ今の世に大方古く尊き神社などもいみじくも衰へて荒れた るを見なれて、古く尊き神社はもとよりかくあるものと心得たるからのひがごとなり」  けれど私は、老人について関心したことがひとつある。黄昏(たそがれ)の銭湯の、流し場の隅でひ とりこそこそやっている老人があった。観(み)ると、そまつな日本剃刀(がみそり)で鬚を剃ってい るのだ。鏡もなしに、薄暗闇のなかで、落ちつき払ってやっているのだ。あのときだけは唸るほど感 心した。何千回、何万回という経験が、この老人に鏡なしで手さぐりで顔の鬚をらくらくと剃ること を教えたのだ。こういう具合の経験の堆積には、私たち、逆立ちしたって負けである。そう思って、 以後、気をつけていると、私の家主の六十有余の爺もまた、なんでもものを知っている。植木を植え かえる季節は梅雨時に限るとか、蟻を退治するのには、こうすればよいとか、なかなか博識である。 私たちより四十も多く夏に逢い。四十回も多く花見をし、とにかく、四十回も其の余も多くの春と夏 と秋と冬とを見て来たのだ。けれども、こと芸術に関してはそうはいかない。「点三年、棒十年」な どというやや悲壮な修業の掟(おきて)は、むかしの職人の無知な英雄主義にすぎない。鉄は赤く熱し ているうちに打つべきである。花は満開のうちに眺むべきである。私は晩成の芸術というものを否定 している。     難 解 「太初(はじめ)に言(ことば)あり。言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とと もに在り。万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命 (いのち)あり。この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る。しかして暗黒は之を悟らざりき。 云々」私はこの文章を、この想念を、難解だと思った。ほうぼうへ持って廻ってさわぎたてたのであ る。  けれども、あるときふっと角度をかえてみたら、なんだ、これはまことに平凡なことを述べている にすぎないのである。それから私はこう考えた。文学において、「難解」はあり得ない。「難解」は 「自然」のなかにだけあるのだ。文学というものは、その難解な自然を、おのの自己流の角度から、 すぱっと斬っ(たふりだけをし)て、その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んでいるのではないのか。     塵中の人  寒山詩は読んだが、お経のようで面白くなかった。なかに一句あり。   悠悠たる塵中の人   常に塵中の趣を楽む。   云々 「悠悠たる」は嘘だと思うが「塵中の人」は考えさせられた。  玉勝間にもこれあり。 「世々の物知り人、また今の世に学問する人なども、みな住みかは里遠く静かなる山林を住みよく好 ましくするさまにのみ畏怖成るを、我は、いかなるにか、さはおぼえず、ただ人繁く賑はしき処の好 ましくて、さる世放れたる処などは、さびしくて、心もしをるるやうにぞおぼゆる。云々」  健康とそれから金銭の条件さえ許せば、私も銀座のまんなかにアパート住いをして、毎日、毎日、 とりかえしのつかないことをいい、とりかえしのつかないことを行なうべきであろうと、いま、白砂 青松の地にいて、籐椅子にねそべっているわが身を抓(つね)っている始末である。住みがたき世を人 一倍痛感しまことに受難の子とも呼ぶにふさわしい、佐藤春夫、井伏鱒二、中谷孝雄、いまさら出家 遁世もかなわず、なお都の塵中にもがき喘(あえ)いでいる姿を思うと、――いやこれは対岸の火事ど ころの話でない。     おのれの作品のよしあしをひとにたずねることについて  自分の作品のよしあしは自分は最もよく知っている。千に一つでもおのれによしと許した作品があ ったならば、さいわいこれに過ぎたるはないのである。おのおの、よくその胸にききたまえ。     書簡集  おやあなたは、あなたの創作集よりも、書簡集のほうを気にしておられる。――作家は悄然とうな だれて答えた。ええ、わたくしは今まで、ずいぶんたくさんの愚劣な手紙を、ほうぼうへ撒きちらし て来ましたから。(深い溜息をついて)大作家にはなれますまい。  これは笑い話ではない。私は不思議でならないのだ。日本では偉い作家が死んで、そのあとで上梓 する全集へ、必ず書簡集なるものが一冊か二冊、添えられてある。書簡のほうが、作品よりずっと多 量な全集さえ、あったような気がするけれど、そんなのにはまた、特殊な事情があったのかも知れな い。  作家の、書簡、手帳の破片、それから、作家御十歳の折の文章、自由画。私には、すべてくだらな い。故作家と生前、特に親交あり、いま、その作家を追慕するのあまり、彼の戯れにものした絵集一 巻、上梓して内輪の友人親戚間にわけてやるなど、これまた自ら別である。あかの他人のかれこれ容 喙(ようかい)すべき事がらでない。  私は一読者の立場として、たとえばチェホフの読者として、彼の書簡集から何一つ発見しなかった。  私には、彼の作品『鴎』の中のトリゴーリンの独白を書簡集のあちこちの隅から聴取できただけの ことであった。  読者あるいは、諸作家の書簡集を読み、そこに作家の不用意きわまる素顔を発見したつもりで得々 としているかもしれないが、彼等がそこでいみじくも、掴まされたものは、この作家もまた一日に三 度三度のめしを食べて、あの作家もまた房事を好んだ、等々の平俗な生活記録にすぎない。すでに判 り切ったことである。それこれ、いうさえ野暮な話である。それにもかかわらず、読者は、一度掴ん だ鬼の首を離そうともせず、ゲエテはどうも梅毒らしい、プルウストだって出版屋には三拝九拝だっ たじゃないか、孤蝶と一葉とはどれくらいの仲だったのかしら。そうして、作家が命をこめた作品集 は、文学の初歩的なるものとしてこれを軽んじ、もっぱら日記や書簡集だけをあさり廻るのである。 曰く、将を射んと欲せば馬を射よ。文学論は更に聞かれず、行くところ行くところ、すべて人物月 旦(げったん)はなやかである。  作家たるもの、またこの現象を黙視し得ず、作品は二の次、もっぱらおのれの書簡集作品にいそが しく、十年来の親友に贈る書簡にも、袴をつけ扇子を持って、一字一句活字になったときの字づらの 効果を考慮し、他人が覘(のぞ)いて読んでも判るような文章にいちいち要らざる註釈を書き加えて、 そのわずらわしさ、ために作品らしき作品一つも書けず、いたずらに手紙上手の名のみ高い、そうい うひとさえ出てくるわけではないか。  書簡集に用いるお金があったなら、作品集をいよいよ立派に装釘するがいい。発表されると予期し ているような、また予期していないような、あやふやな書簡及び日記。蛙を掴まされたようで、気持 がよくないのである。いっそどちらかにきめたほうが、まだしもよい。  かつて私は、書簡もなければ日記もない、詩十篇くらいに訳詩十篇くらいの、いい遺作集を愛読し たことがある。富永太郎というひとのものであるが、あの中の詩二篇、訳詩一篇は、いまでも私の暗 い胸のなかに灯をともす。唯一無二のもの。不朽のもの。書簡集の中には絶対ないもの。     兵 法  文章の中の、ここの箇所は切り捨てたらよいモノ化、それとも、このままのほうがよいものか、途 方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければならない。いわんや、その箇所に何か書き加 えるなど、もってのほかというべきであろう。     In a world  久保田万太郎か小島政二郎か、誰かの文章の中でたしかに読んだことがあるような気がするのだけ れども、あるいは、これは私の思いちがいかも知れない。芥川龍之介が、論戦中によく「つまり?」 という問を連発して論敵をなやましたものだ、という懐古談なのだ。久保万か、小島氏か、忘れてし まったけれども、とにかく、ひどくのんびり語っていた。これには、わたくしたち、ほとんど閉口い たしましたもので、というような口調であった。いずくんぞ知らん。芥川はこの「つまり」を掴みた くて血まなこになって追いかけ追いかけ、はては、看護婦、子守娘にさえ易々(やすやす)とできる毒 薬自殺をしてしまった。かつての私もまた、この「つまり」を追及するに急であった。ふんぎりが欲 しかった。路草を食う楽しさを知らなかった。循環小数の奇妙を知らなかった。動かざる、久遠の真 理を、いますぐ、この手で掴みたかった。 「つまりは、もっと勉強しなくちゃいかんということさ」 「お互いに」徹宵、議論の挙句の果ては、ごろんと寝ころがって、そう言って二人うそぶく。それが 結論である。それでいいのだとこのごろ思う。  私はたいへんな問題に足を踏みいれてしまったようである。はじめは、こんなことをいうつもりじ ゃなかった。  In a worldという小題で、世人、シエストフを贋物の一言でいい切り、横光利一を駑馬(どば)の二 字で片づけ、懐疑説の矛盾をわずか数語でもって指摘去り、ジッドの小説は二流なりと一刀のもとに 屠(ほお)り、日本浪漫派は苦労知らずと蹴って落ちつき、はなはだしきは読売新聞の壁評論氏のごと く、一篇の物語、(私の「猿ケ島」)を一行の諷刺、格言に圧縮せんと努めるなど、さまざまの殺 伐なるさまを述べようと思っていたのだが、秋空のせいか、ふっと気がかわって、われながら変なこ とになってしまった。これは、明らかに失敗のようである。     病躯の文章とそのハンディキャップについて  確かに私は、いま、甘えている。家人は私を未だ病人扱いしているし、この戯文を読む人たちもま た、私の病気を知っているはずである。病人ゆえに、私は苦笑でもって許されている。  君、からだを頑強にしておきたまえ。作家はその伝記の中で、どのような三面記事をも作ってはい けない。  追 記。  文芸冊子「散文」十月号書斎山岸外史の「デカダン論」は細心縷刻(るこく)の文章にして、よきも のに触れたき者は、これを読め。     「衰運」におくる言葉  ひややかにみづをたたえて  かくあればひとはしらじな  ひをふきしやまのあととも  右は、生田長江のうたである。「衰運」読者諸兄へのよき暗示をもなれば幸甚である。  君、あとひとつき寝れば、二十五歳、深く自愛し、そろそろと路なき路にすすむがよい。そうっし て不抜の高き塔を打ちたて、その塔をして旅人にむかい百年のちまで、「ここに男ありて、――」と 必ず必ず物語らせるがよい。私の今宵のこの言葉を、君、このまま素直に受けたまえ。     ダス・ゲマイネについて  いまより、まる二年ほどまえ、ケエベル先生の「シルレル論」を読み、否、読まされ、シルレルは その作品において、人の性よりしてダス・ゲマイネ(卑俗)を駆逐し、ウール・シュタンド(本然の 状態)に帰らせた。そこにこそ、まことの自由が生れた。そんな所論を見つけたわけだ。ケエベル先 生は、かの、きよらかなる顔をして、「私たち、なかなにこのダス・ゲマイネという泥地から足を抜 けないもので――」と嘆じていた。私もまた、かるい溜息をもらした。「ダス・ゲマイネ」「ダス・ ゲマイネ」この想念のかなしさが私の頭の一隅にこびりついて離れなかった。  いま日本において、多少ともウール・シュタンドに近き文士は、白樺派の公達(きんだち)、葛西善 蔵、佐藤春夫。佐藤、葛西、両氏においては、自由などというよりは、稀代のすねものとでもいった ほうが、よりよく自由という意味をいい得て妙なふうである。ダス・ゲマイネは、菊池寛である。し かも、ウール・シュタンドにせよ、ダス・ゲマイネにせよ、その優劣をいますぐここで審判するなど、 もってのほかというべきであろう。人ありて、菊池寛氏の出す・ゲマイネのかなしさを真正面から見 つめ、論ずる者なきを私はかなしく思っている。さもあらばあれ、私の小説「ダス・ゲマイネ」発表 数日後、つぎのごとき全く差出人不明のはがきが一枚まい込んで来たのである。   うつしみに   きみのゑがきし   をとめのゑ   うらふりしけふ   こころわびしき  右、春の花と秋の紅葉といづれ美しきといふ問題にて。                                     よみ人知らず。    名を名乗れ! 私はこの一首のうたのために、確実に、七、八日、ただ、胸を焦がさんほどにわく わくして歩きまわっていた。ウール・シュタンドもケエベル先生もあったものでなし。所詮、私は、 一箇の感傷家にすぎないのではないのか。     金銭について  ついに金銭は最上のものでなかった。いま私、もし千円もらっても、君がほしければ、君に、あげ る。のこっているものは、蒼空のごとき太古のすがたとどめたる汚れなき愛情と、――それから、も っとも酷薄にして、もっとも気水なる復讐心。     わがままということ  文学のためにわがままをするというのは、いいことだ。社会的には二〇円三〇円のわがまま、それ をさえできず、いま更なんの文学ぞや。     放心について  森羅万象の美に切りまくられ踏みつけられ、舌を焼いたり、胸を焦がしたり、男ひとり、よろめき つつも、ある夜ふと、かすかにひかる一条の路を見つけた、と思い込んではね起きる。走る。ひた走 りに走る。一瞬間のできごとである。私はこの瞬間を放心の美と呼称しよう。断じて、ダス・デモニ ッシュのせいではない。人のちからの極致である。私は神も鬼も信じていない。人間だけを信じてい る。華厳の滝が涸れたところで、私は格別、痛嘆しない。けれども、俳優、羽左衛門の壮健はは祈ら ずにおれないのだ。柿右衛門の作ひとつにでも傷をつけないように。きょう以後「人工の美」という 言葉をこそ使うがよい。いかに天衣なりといえども、無縫ならば汚くて見られぬ。  付言する。かかる全き放心の後に来る、もの凄じきアンニュイを君知るや否や。     世渡りの秘訣  節度を保つこと。節度を保つこと。     緑雨  保田君曰く、「このごろ緑雨を読んでいます」緑雨かつて自らを正直正太夫と称せしことあり。保 田君。この果敢なる勇気にひかれたるか。     ふたたび書簡のこと  友人にも逢わず、ひとり、こうして田舎にいれば、恥多い手紙を書く度数もいよいよしげくなるわ けだ。けれども、煎じる、私は、作家の書簡集、日記、断片をすべてくだらないといってしまった。 いまでも、そう思っている。よし、とゆるした私の書簡は私の手で発表する。以下、二通。(文章の てにをはの記憶ちがいは許せ)  保田君。  ぼくもまた、二十代なのだ。下焼け、胸焦げ、空高き雁の声を聞いている。今宵(こよい)、風寒く、 身の置きどころなし。不一。  さらに一通は、 (眠られぬままに、ある夜、年長の知人へ書きやる)  かなしいことには、あれでさえ、なおかつ、狂言にすぎなかった。われとわが額を壁に打ちつけ、 この生命(いのち)絶たんとはかった。あわれ、これもまた「文章」にすぎない。君、僕は覚悟してい る。僕の芸術は、おもちゃの持つ美しさと寸分異なるところがないということを。あの、でんでん太 鼓の美しさと、(一行あけて、)ほととぎす、いまわのきわの一声は、「死ぬるとも、巧言令色であれ !」  このほか三通、気にかかっている書簡があるのだけれど、それらについては後日、また機会もあろ う。(ないかも知れぬ)  追 記  文芸冊子「非望」第六号所載、出方名英光の「空吹く風」は見どころある作品なり。その文章駆使 に当って、いま一そう、ひそかに厳酷なるところあったならさらに申し分なかったろうものを。     百花撩乱主義  福本和夫、大震災、首相暗殺、そのほか滅茶苦茶のこと、数千。私は、少年期、青年期に、いわば 「見るべからざるもの」をのみこの眼で、見て、この耳で、聞いてしまった。二十七、八歳を限度と して、それよりわかい青年、すべて、口にいわれぬ、人知れない苦しみをなめているのだ。この身を どこに置くべきか、それさえ自分にわかっておらぬ。  ここに越ゆべからざる太い、まっ黒な線がある。ジェネレーションが、舞台が、少しずつ廻ってい る。彼我相通ぜぬ厳粛な悲しみ、否、嗚咽(おえつ)さえ、私には感じられるのだ。われらは永い旅を した。せっぱつまり、旅の仮寝の枕元の一輪を、日本浪曼派と名づけてみた。この一すじ、竹林の七 賢人も藪(やぶ)から出て来て、あやうく餓死をのがれん有り様、佳(よ)きかな、自ら称していう。 「われは花にして、花作り、われ未だころあいを知らず」Alles oder Nichts.  またいう。「策略の花、可也。修辞の花、可也。沈黙の花、可也。理解の花、可也。物真似の花、 可也。放火の花、可也。われら常におのれの発したる一語一語に不抜の責任を持つ」  あわれ、この花園の妖(あや)しさよ。  この花園の奇しき美の秘訣を問わば、かの花作りにして花なるひとり、一陣の秋風を呼びて応(こ た)えん。「私たちは、いつでも死にます」一語。二後ならば汚し。  花は、ちらばり乱れて、ひとつひとつ、咲き誇り、「生きて在るものを愛せよ」「おれは新しくな い。けれども決して古くはならぬ」「いのちがけならば、すべて尊し」「終局において、人間は、これ を語るに足らず」「不可解なのは藤村の表情」「いや、そのことについては私が」「いや、僕だ、僕だ」 「人は人を嘲うべきでない」云々。  日本浪曼派団結せよ、にはあらず。日本浪曼派、またその支持者各々の個性をこそ、ゆゆしきもの と思い、いかなる侮蔑をもゆるさず、また、各々の行きかた、ならびに作品の特殊性にも、死ぬると もゆずらぬ矜(ほこり)を持ち、国々の隅々にいたるまで、撩乱せよ、である。     ソロモン王と賤民  私は生れたときに、一ばん出世していた。亡父は貴族院議員であった。父は牛乳で顔を洗っていた。 遺児は次第に落ちぶれた。文章を書いて金にする必要。  私はソロモン王の底知れぬ憂愁も、賤民の汚さも、両方、知っているはずだ。     文 章  文章に善悪の区別、たしかにあり。面貌、姿態のごときものであろうか。宿命なり。いたしかたな し。     感謝の文章  日本には、ゆだん大敵という言葉があって、いつも人間を寒く小さくしている。芸術の腕まえにお いて、あるレヴェルにまで漕ぎついたなら、もう決して上がりもせず、また格別、落ちもしないよう だ。疑うものは、志賀直哉、佐藤春夫、等々を見るがよい。それでまた、いいのだとも思う。(藤村 については、項をあらためて書くつもり)ヨーロッパの大作家は、五十すぎても六十すぎても、ただ 量で行く。マンネリズムの堆積である。ソバでもトコロテンでも山盛にしたら、ほんとに見事だろう と思われる。藤村はヨーロッパ人なのかも知れない。  けれども、感謝のために、私はあるいは金のために、あるいは子供のために、あるいは遺書のため に、苦労して書いておるにすぎない。人を嘲えず、自分だけを、ときたま笑っておる。そのうちに、 わるい文学は、はたと読まれなくなる。民衆という混沌の怪物は、その点、正確である。きわだって すぐれたる作品を書き、わがことおわれりと、晴耕雨読、その日その日を生きておる佳い作家もある。 かつて祝福された人、ダンテの地獄篇を経て、天国篇まで味わうことのできた人。また、ファウスト のメフィストだけを気取り、グレェトヘンの存在をさえ忘れている復讐の作家もある。私には、どち らとも審判できないのであるが、これだけは、いい得る。窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑。春。 結婚まで。鯉。あすなろう。等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、不滅のもの を持っている。     審 判  人を審判する場合。それは自分に、しかばねを、神を、感じているときだ。     無間地獄  押せども、ひけども、うごかぬ扉が、この世の中にある。地獄の門をさえ冷然とくぐったダンテも この扉については、語るを避けた。     余 談  ここには、「鴎外と漱石」という題にて、鴎外の作品、なかなかに正当に評価せられざるに反し、 俗中の俗、夏目漱石の全集、いよいよ華やかなる世情、涙いずるほどくやしく思い、参考のノートや 本を調べたけれども、「僕輩」の気折れしてものにならず。この夜、一睡もせず。朝になり、ようや く解決を得たり。解決に曰く、時間の問題さ。かれら二十七歳の冬は、云々。へんに考えつめると、 いつも、こんな解決なり。  いっそ、いまは記者諸兄と炉をかこみ、ジャアナルということの悲しさについて語らんかな。  私は毎朝、新聞紙上で、諸兄の署名なき文章ならびに写真を見て、かなしい気がする。(ときたま 不愉快なることもあり)これこそ読み捨てられ、見捨てられ、それっきりのもののような気がして、 はかなきものを見るものかなと思うのである。けれども、「これが世の中だ」と囁かれたなら、なる ほどとうなづくかもしれぬ気配をさえ感じている。ゆく水は二度とかえらぬそうだ。せいせいるてん という言葉もある。この世の中に生れて来たのがそもそも、間違いの発端と知るべし。
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: