世界の平和


「きみが上手にすりぬけて生きていけるよう祈ってる」

私の七回目の誕生日の夜、
激しい雨が降っていたあの夜、パパは帰って来なかった。
テーブルいっぱいのごちそうが冷めたくなっていく中、
ママは困り顔で部屋中をうろうろしてたけど、
私は窓にへばりついてプレゼントのことばかり考えていた。
パパの友達から譲ってもらう約束になっていた子猫。
そのままパパは帰って来なかったし猫も来なかった。

あれから私は、雨の日になると決まってあの夜を思い出す。
終わりと始まりの繋ぎ目の、六月のあの夜を。

ママの中のママを形作っていたものは
パパがいなければ崩れてしまうような儚いものだった。
「パパは私たちを裏切ってどこか遠くに逃げたんだよ」
そう口にするたびに、ママは、どんどんママでなくなって、
この家にママの恋人が住みついてからは、すっかり別の人になっていた。

悪意って目に見えないけど、たぶん、
甘ったるい飲み物みたいに、べとべとしているんだと思う。
こすっても容易にはとれないし、
ぼんやりしてる間に、いろんなものがくっついてくる。

私には友達がいない。
前はいたけど今は一人もいなくて、
クラスの子たちはみんな、私のことを汚いって言う。
いつからか、ばいきんって呼ばれてる。

ねえ、パパ。
私は世界の悪意どころか、自分をとりまく小さな世界の悪意すら、
すりぬけることができないでいる。
パパの祈りは、まったく意味がなかったね。
きっとね、祈るだけじゃどうにもならないの。

今日は私の十回目の誕生日。
ただでさえパパがいなくなった日なのに
朝からの雨に記憶を叩かれ続けて、一日中、心が遠くに行きっぱなしだった。
ロボットみたいに掃除を終わらせて学校を出た。

ため息をたくさんついたら体が重たくなるのはどうしてなんだろう。
吐きだした空気の分、軽くなってもおかしくないはずなのに。

そんなことを思っていたら信号の色を確かめ忘れた。
車のブレーキ音にびくっとしながら顔を上げると、
通りの向こうに黒い色の猫がいた。

びしょぬれて毛がぺたんこ。
雨の中をうろうろしているなんて、おまえ、家がないの?
・・・ひとりぼっちなの?

信号が青になるのと同時に駆け寄った。
ビニール傘をさしかけてみる。
猫は私の目を見て、みゃあって鳴いた。
いいのかな。
しゃがみこんで背中をそっとさわってみる。
ごわついていて、いまいちな感触だったけど、
私をいやがらないでくれていることがうれしくて、
うれしくて、うれしくて、鼻の奥がつんとした。

突然、猫が駆け出した。
待って、行かないで。
小さな背中を追いかけて私も駆け出した。

傘なんかいらない。
靴下が泥のしぶきで汚れても構わない。

追いかけながら思った。
この猫は「私の猫」なんじゃないか。
パパがいなくなった誕生日の夜に私の所に来るはずだった猫が、
今になって会いに来てくれたんじゃないか。

だって猫は、時々、立ち止まって振り返る。
ちゃんとついてきてるかどうか確認するみたいに。
そうして私が追いつくのを待ってから、ふたたび地面を蹴とばすんだ。

やがて猫は病院の門をくぐった。
古い病棟の方へとまっすぐに進んでいく。

ここは私のよく知ってる場所だった。
パパがいなくなるまでは週に何度も来ていて
広い敷地内のいろんな所で同い年のいとこと二人で遊んでた。

やっぱりこの猫は私の猫なんだ。
近寄ることができなくて、
だけど本当はずっと来たかったこの場所に連れてきてくれた。

非常階段の下で猫が止まった。
それから、ぶるぶるっと体を震わせる。
細かい水の粒が飛んできた。
「まったく、もう。どうせびしょぬれだからいいけどね」
私は苦笑いしながら猫に手を伸ばした。
その手を猫は、素早い動きですり抜けて、みゃあと鳴いた。
私じゃなくて非常階段の方を見ている。

少し上の所に女の子が立っていた。
まだ小学校にも上がってなさそうな小さい女の子だった。

猫は器用に階段を昇って女の子のもとにたどり着くと、
甘えてるみたいな声を出しながら
女の子の足に何度も何度も自分の体をすりつけた。

急に、寒くなった。
急に、どこかに傘を置いてきてしまったことや、
髪の毛から靴の中まで全部びしょぬれなことを思い出した。

私は猫と女の子から目を背けてその場から離れた。

途中、振り返ると、
さらに上へ上へと階段を昇って行く女の子と
その足元にじゃれついてる猫の姿が見えた。

立ち入り禁止の札がかかった非常階段。
びしょぬれの非常階段、小さな女の子。
私は一瞬浮かびかけた想像を閉じた。
知らない、関係ない。

いつのまにか雨はやんでいて
遠くの空に、うっすらと月が浮かんでいる。

くたびれた体をひきずって
ようやく家に帰り着いた頃には完全に日が暮れていた。

家の窓が全部暗い。
怒る人がいないことに、ほっとしながら、
玄関の鍵をあけて、ぐちゃぐちゃの靴を脱いだ。

のろのろと居間のドアを開く。

からっぽな気分でテレビをつけた。

四角い画面の中にパパがいた。

髪型も洋服も、前とは変わっていたし、
名前だって違っていたけれど、間違いない。
パパ、
どこで何をしているのかと思っていたけれど、こんなところにいたんだね。

まっくらな部屋の、四角い画面の中で、パパは祈ってた。
世界の平和を、人類の幸福を、パパは祈ってた。

会いに行こう。
行かなくちゃ駄目だと思った。

私はランドセルの中身を床にぶちまけると、
かわりに、落ちていた包丁を拾って入れた。
それから、
ママとママの恋人を踏まないように外に出た。










BGM    LOVE PSYCHEDELICO "These Days"


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