今ならまだ


妹が言ってたのはこいつか。
迷い猫がいるんだよと、珍しく、はしゃいだ声を出していた。

僕と妹は二人きりの家族だ。
父親は最初からいないし、母さんは半年ほど前に消えてしまった。
自分の意思でどこかへ行ったのか、
何かに巻き込まれて帰れなくなったのかはわからない。
とにかく母さんは消えてしまった。
よくある話だ、どこにでも転がってるような話。
この国は今、僕たちみたいな子供で溢れ返っている。
施設はどこも満杯で、今この瞬間も、どこかの子供が
住む所も食べる物もないまま死んでいるはずだ。
それに比べれば僕たちはかなり恵まれている。
アパートを追い出されずに済んでいるし、
時々だけど食べ物をわけてくれる人たちだっている。
だけどそれもいつまで続くかわからない。
僕は猫に伸ばしかけた手を引っ込めて、
さりげないふりで辺りをうかがってから、
階段横の茂みに隠しておいた自転車を引っ張り出した。
盗んだんじゃない、拾ったんだ。
心の中で呟きながらサドルに跨った。

雨の匂いのする風を切り裂いて自転車を走らせる。
思ったより早く病院跡が見えてきた。
ここを突っ切るのが近道だ。

今では廃墟のこの場所が、終わりの気配なんか微塵もなくて、
白々しいほど真新しく輝いていた頃、僕はここで女の子と出会った。

無口で、ちっとも笑わなくって、くすんだ感じの子だった。
他の子は知らないけど、僕にとってあの子は、
いてもいなくてもよくわからないような果てしなく透明に近い存在で、
母さんから仲良くしてあげなさいよと言われるまでは
視界に入ることさえ、ほとんどないくらいだった。

「友達がいなくてかわいそうだから仲良くしてあげろってこと?」
「あの子の家ね、うちと同じで父親がいないんだって」
同じ境遇の者同士くっつけばいいってことか。
バカみたいだって思った。いやだよって突っぱねた。

それなのに、結局、
その日から、僕は、気がつけばあの子を目で追っていた。

途切れることのない空白感や、
誰かが家族やお父さんの話題を出した時の、なんとも言えない居心地悪さを
あの頃の僕は自分だけが背負ってる邪魔な荷物のように感じていた。
あの子とわかちあえたら楽になれそうな気がしてた。

機会を見つけては話しかけた。
「きみもお父さんがいないんだって?」
あの子はいつだって何も答えてはくれなくて、
うさぎみたいに逃げ出すばかりだったけど。

あの子が非常階段から転がり落ちた時、大人たちに知らせたのは僕だった。

時々、思うのだ。
あの日からずっとあの子は眠ったままで、
かつての平穏が嘘のように歪んでしまったこの世界を知ることなく
淡い色した夢の中で暮らしているんじゃないかって。

病院跡を抜けると同時に大粒の雨が降り出した。
ちょうどいい。
うっかり泣いてしまっても雨が隠してくれるだろう。

今ならまだ間に合う。

約束の公園には妹の父親が待っている。
僕とは血が繋がってない、妹の父親。
どんな人だろう。
優しい人かな、妹を幸せにしてくれるかな。
もしも、そうだったなら、僕は、
妹宛ての手紙を盗んだことを謝って、
そうして、妹を連れてってくださいと頼むんだ。

今ならまだ間に合う。








BGM    the beatles "Strawberry Fields Forever"


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