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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第八話 青年インカ(3)
【 第八話 青年インカ(3) 】
ところで、この頃、インカ帝国の旧都クスコにて幽閉されている、トゥパク・アマルたち家族は如何なる状況になっていたであろうか。
それは、連日繰り返される執拗な訊問と過酷な拷問に明け暮れる日々であった。
特に、此度の反乱の「首謀者」たるトゥパク・アマルに対する仕打ちは言語を逸するものであり、日毎に増していく過重な付加による身体的疲弊と負傷によって、もはや、独力で自由に身動きすることもままならぬ、酷い身体的状態に陥っていた。
だが、それにもかかわらず、トゥパク・アマルは少しも意気沮喪などしてはいなかった。
外界では、アンドレスやディエゴたちの率いる反乱軍が、粘り強い果敢な行動で敵軍に挑み続けていることを、獄中にいながらも、トゥパク・アマルは、はっきりと感じ取ることができていた。
かのアンドレスが、たとえ物理的な距離が如何に離れていようとも、トゥパク・アマルとのつながりを明瞭に確信していた、まさにその通りに、トゥパク・アマルは、生身の肉体は獄中にあれども、その精神は、これまでと変らず反乱の中心に立ち、常に反乱軍及び全てのインカの民と共にあった。
実際、このインカの地に生きる民にとって、トゥパク・アマルは、獄中にあろうが、如何なる状態にあろうが、今もかつてと少しも変ることなく、彼らの絶対的な精神的支柱、全ての中心、そのものであったのだ。
そのトゥパク・アマルは、隣国ラ・プラタ副王領に残ってソラータ奪還に賭けているアンドレス、また、ペルー副王領で粘り強い死闘を展開しているディエゴやビルカパサ、さらに、全ての反乱軍の兵たちを、深夜の獄中で静観し、力を送りながら静かに微笑む。
そして、インカの地の全ての民を思って、祈りを捧げる。
それから、今も己の肉体を獄中に縛り付けている忌々しい足枷(あしかせ)と冷たく黒光りする鉄格子に視線を走らせた。
彼は、褐色のしなやかな指先を、精悍な横顔の輪郭に添える。
(さて…何とかして、この牢を出る手立ては無いものか…。
外界のインカ軍が奮戦しているという中、このわたしの身が処刑に向かってこのように拘束され、「人質」さながらとあっては、反乱の展開にとって大いなる足枷以外の何物でもなかろう…――)
実は、この頃、トゥパク・アマルは、次第に本気で脱獄を考えはじめるようになっていた。
このまま牢につながれていては、迫り来る処刑の日を待つばかりである。
アンドレスやディエゴたち、外界の反乱軍の動向を頼もしく感じ取りながらも、やはり、己の身柄が獄中にあるのは、決して便利のよいことではない。
トゥパク・アマルは、今も強い光を変らず宿した切れ長の目を、思慮深く細める。
彼は、もはや、外部からの軍事的行動によって、現在のクスコの厳戒態勢を解いて牢から自分たちを救出するのは不可能であることを深く悟っていたため、残された可能性は、己自身が獄中から何らかの手を打っていくことしかないと考えていた。
己と同様、非道な拷問に晒(さら)されている妻ミカエラや息子たちの、その身の、そして、その心の安否を思うと、己自身に加えられる如何なる拷問よりも激しい心痛に苛(さいな)まれずにはいられなかった。
トゥパク・アマルに敢えて聴かせることを狙ってのことであろうが、深夜にもかかわらず、時折、血生臭い牢の澱んだ空気を震わすように、役人の怒声と共に流れ来る、まだ8歳の末子フェルナンドの泣き叫ぶ声に、彼の心はとめどなく血を流した。
おそらく、この暗黒の牢のどこかで、ミカエラやイポーリトも、同じ心痛に身を切られる思いをしていることだろう。
そのイポーリトでさえ、最も年長の息子とはいえ、まだ、たった12歳の子どもにすぎない…――その性格から気丈に耐えていようが、その内心では、どれほど恐怖と不安に圧倒されていることか。
さらには、ミカエラは…――あれほどの類稀な美貌を備えているが故に、かえって、その身に加えられているであろう仕打ちを思うと、トゥパク・アマルの心は凍りついた。
彼は、非常に険しい目で、闇が支配する牢獄の宙を見据えた。
ミカエラや息子たちを救出するためにも、そして、何よりも、外界で今も果敢に展開しているであろう反乱を成就して民を解放するためにも、この身を何とか自由にすることはかなわぬものか…――と、彼は本気で考えた。
トゥパク・アマルは、再び、重々しい足枷に視線を走らせる。
(牢を破る手立ては…――)
この期に及んでも、決して諦(あきら)めることの無いトゥパク・アマルの不退転の精神は、健在であったのだ。
彼は、アレッチェが自分たちインカ(皇帝)一族を、「見せしめ」として公衆の面前で処刑にすることを強く望んでいることをよく認識していたため、役人たちが如何なる拷問を加えようとも、獄中で致死に至らしめるまでの付加は加えまいと見切っていた。
それは、己自身に対しても、ミカエラや息子たちに対しても同様のはずである。
監視の厳しい獄中からの脱獄など針の穴を潜(くぐ)るほどに困難なことではあるが、僅かな可能性でも、ゼロではないはずだ。
トゥパク・アマルは、己の身辺で監視の目を光らせているスペイン兵たちを、首尾よく抱きこめまいかと思案した。
そして、監視のために己の周りをうろついている兵たちを一人一人つぶさに観察しながら、スペイン側の中枢部に帰属意識の高いスペイン人将校たちは避けて、スペイン人ではあるものの身分の低そうな番兵たちにその狙いを定めた。
そんなトゥパク・アマルが白羽の矢を立てたのは、リノというスペイン人の番兵だった。
リノは、正規の将校たちが休息をとる深夜を中心に、見張りの巡回に来ている端くれの番兵の一人である。
トゥパク・アマルは、最近、リノが自分に、ある種の特別な関心を持ちはじめていることを敏感に察知していた。
スペイン人であるとはいえ身分の低いリノにとって、いかにインカ皇帝末裔であろうが、今や「インディオの重罪人」であるトゥパク・アマルは、普段、身分の高い将校たちに顎で使われている己自身の鬱憤を晴らすべく、当初は格好の蔑みの対象でしかなかった。
しかし、そのような蔑みからはじまったリノの監視の目は、時を経るにつれ、次第に変化していった。
今宵もその日の長々しい拷問を終え、深夜の暗闇に包まれた牢の中で、瞼を閉じて、じっと精神統一をしているトゥパク・アマルの全身からは、闇を圧倒していく黄金色の覇光が放たれているようにさえ見える…――。
日々、その息遣いや体温までが感じ取れるほどに非常に身近な位置から彼を見続けているリノの意識は、それを錯覚だと懸命に否定しながらも、もっと超意識の次元で、トゥパク・アマルの、強靭で、超人的でさえある精神性に、惹き付けられずにはいられなかった。
また、トゥパク・アマルのもともとの特質でもある稀有な秀麗さは、この過酷な環境にあって傷つくほどに、むしろ、日増しにいっそうの憂いと崇高さを纏い、浮世離れした妖艶な美しさを高めてもいた。
リノは、彼の意識の中では牢の中のトゥパク・アマルを「重罪人のインディオ」として懸命に蔑もうとしながらも、その姿に――血も滴(したた)る傷ついたさまにも、それをものともせぬ、不動の沈着さと高潔な輝きにも――夜毎、傍近く接するうち、己の意思を超えたところで、無抵抗に激しく魅了されていった。
一方、観察力の鋭いトゥパク・アマルは、いかに肉体的に傷つき衰弱していようとも、その意識は常に清明に保たれており、日毎に変化していくリノの視線を容易(たやす)く察知していた。
ある晩遅く、いつものように巡回に訪れたリノは、深夜の闇の中で、トゥパク・アマルが鉄格子にもたれるようにして倒れているのを発見した。
どのような過重な付加を加えられた後でも、倒れこんでいるような姿勢をこれまで一度も見せたことのないトゥパク・アマルの通常とは異なる様子に、リノは慌てふためいて鉄格子の傍に駆け寄った。
まさか、自分の見張りの時に死なれでもしようものなら、監視怠慢とされ、いかなる罰を与えられるか…――と、情け容赦の無い冷酷無情な上司、アレッチェの形相がよぎり、リノは顔面蒼白になる。
「おい!!
どうした!
大丈夫か?!」
すっかり動転したリノの声が、冷たい闇を震わせる。
まるで縋(すが)るようなリノの呼び声に、「うう…」と苦しそうなトゥパク・アマルの呻き声が返ってきた。
相変わらずグッタリと倒れこんだままだが、とりあえず生きていると分かり、リノはホッと胸を撫で下ろす。
そんなリノの内面には気付かぬ素振りのトゥパク・アマルが、伏せたまま呻くように言う。
「体中が熱くてかなわぬ…。
水を一杯くれないか」
「勝手に水は与えられない決まりになっている。
知っているだろう!」
「そうか…では…」と、トゥパク・アマルの声が低く響く。
「せめて、身を起こすのを手伝ってはくれまいか。
力が入らず、自分では体勢を立て直せぬ。
牢の中に入ってきて、手を貸してほしい……」
そう言って、トゥパク・アマルは鉄格子にもたれたまま僅かに顔だけ動かし、リノを上目遣いに見上げる。
乱れた漆黒の長髪の隙間から覗くトゥパク・アマルの流れるような切れ長の目は、あまりに妖艶で美しく、同性であるにもかかわらず、リノの心臓を易々と貫いてしまう。
全身の血流が逆流するような感覚…――リノは、乾ききった喉から上擦った声を絞り出す。
「ろ…牢の中には、入れない…。
鍵は全て、アレッチェ様が管理されているのだ」
「アレッチェ殿が…――そうか…」
トゥパク・アマルの声が、探るように硬く変わるのを、しかし、今のリノは気付かない。
暫し、沈黙の後、トゥパク・アマルは再び妖しい気配でリノを斜めに見上げた。
その顔に無造作にかかっていた黒髪が揺れながらハラハラと零(こぼ)れ落ち、秀麗な造形の輪郭が現われる。
「それでは、鉄格子の外からでよい。
そなたも知っての通り、あの拷問以来、わたしの片腕は自由がきかぬのだ。
さあ…もっとわたしの傍に来て、わたしに触れ、そなたの腕で、この体を起き上がらせてくれ……」
「…――」
リノは、ゴクリと音を立てて生唾を呑み込んだ。
リノの理性は、トゥパク・アマルが死んでさえいないのであれば、一切放置して、余計な関りをせぬ方が絶対に無難であると、激しく警笛を鳴らしている。
だが、普段は神々しいほどに近寄り難い崇高な雰囲気を持ちながらも、今はまるで妖艶な気配で己を誘惑しているようでさえある眼前の人物に、もっと近づき触れてみたい衝動と欲望を、今のリノには、もはや抑えることは難しすぎた。
リノは手に持っていたランプを足元の冷たい石床に置くと、興奮に昂(たか)ぶる足取りで、固唾を呑みながら鉄格子の傍に近づいていく。
トゥパク・アマルはまんじりともせず、近づいてくるリノを目の端でじっと見つめている。
その瞳に吸い込まれるように、リノは鉄格子を隔ててトゥパク・アマルの脇に膝をつくと、興奮と緊張に震える腕で、その身を起こすために相手の肩の辺りに触れた。
その瞬間、リノの意識は、咄嗟に現実に引き戻された。
トゥパク・アマルの体は本当に熱く、嘘偽り無く、かなりの発熱を呈していることが分かったのだ。
実際、日々の過重な拷問による付加のために、謀(はかりごと)とは別の次元で、トゥパク・アマルの体は高熱を帯びた状態になっていた。
「おい、本当に、熱いぞ…!
すごい熱があるんじゃないのか?!」
再び焦り気味の動揺した声を上げるリノに、「ああ。だるくてかなわぬ。起こしてくれ…」と、先程と同じことをトゥパク・アマルが繰り返す。
リノは鉄格子の間からさらに深く両腕を差し入れ、トゥパク・アマルの肩を掴んで何とか起こし上げると、その体を牢内の石壁にもたれかけさせた。
その間も、トゥパク・アマルの視線は絡みつくように妖しくリノを見つめ続けている。
手の中にあるトゥパク・アマルの逞しく引き締った筋肉の感触と、高熱による燃えるような体温、それらとは対照的に、涼やかで妖艶な視線とに絡めとられ、リノの全身を身震いが走った。
動悸も速まるばかりである。
一方、トゥパク・アマルはやっと座した体勢になり、「ありがとう…」と低く言うが、顔や手足の随所に血を滲ませた肌が、痛々しくもかえって艶(なまめ)かしく、リノの目の中で、その姿は間近で見れば見るほど、いっそう妖艶で美しい。
しかも、今、微かに笑みを湛えた流れるようなトゥパク・アマルの切れ長の目尻は、リノの瞳の奥を完全にとらえ、リノは瞬きすらできなかった。
陶酔を誘う甘美な眩暈(めまい)と共に、頭の中が真っ白になっていく。
その機をとらえるように、トゥパク・アマルの目の端が、鋭く光った。
彼は、ゆっくりと、優美な仕草で、鉄格子の隙間から片腕を伸ばし、褐色のしなやかな指先でリノの顎を掬(すく)い取る。
そして、そのまま、トゥパク・アマルは、リノの顔を鉄格子を隔てた己の顔の直近に引き寄せた。
リノは瞬間、ビクリと身を縮めたが、全く抵抗することができない。
むしろ、恍惚とした陶酔感に溺れるように虚ろな目で、降伏したように大人しくなっている。
トゥパク・アマルは薄っすらと笑みを湛えたまま、そんなリノの口元に己の唇を近づけて囁(ささや)くように言う。
「わたしの頼みを聞いてはくれまいか…――。
クスコのある場所に、わたしの手紙を届けてほしい」
「…!!」
さすがに、その瞬間には、冷や水を浴びせられたように、リノはギョッと目を見開いた。
「そ…そんなこと…まさか…――!!」
歪んだリノの口角から、震えるような擦(かす)れ声が漏れる。
その瞳は、自らの内面の混乱と衝撃と欲望との鬩(せめ)ぎ合いのために、既に涙ぐんでさえいる。
トゥパク・アマルは、リノの顎に添えた指先を、さらに己の方へと引き寄せた。
「頼みを聞いてくれれば、決して悪いようにはせぬと誓う。
力を貸してくれれば、礼金は望むだけ与えよう。
他にも、そなたが望むことなら、どのようなことでも…――」
「――!!」
唇と唇が触れ合うほどの距離で囁かれ、リノは電撃に打たれたように硬直する。
トゥパク・アマルは、やがて、リノの顔を引き寄せていた指の力を僅かに緩めた。
そして、今度は、今までの妖しげな目つきと口調とは明らかに趣の異なる、真摯な眼差しと声音になって言う。
「そなたにとっては、非常に危険な要求を突き付けていることは分かっている。
そなたには、わたしから、このような要求を迫られる謂(いわ)れも、増してや、このような話に乗らねばならぬ謂れも無きことも、分かっている。
だが、こうして、ここで出会ったことも、互いの天運。
それ故、そなたが、この流れに乗ってくれるならば、それに相応しき返礼は、決して違(たが)えぬと約束する。
我々、インカの人間が嘘をつかぬことは、そなたも知っておろう?
もし力を貸してくれれば、わたしは、そなた自身も、そなたの身内も、その身の安全と、そして、この後の生活の安寧を、完全に保障し庇護することを誓おう。
…――もちろん、今すぐ、ここで答えを出せなどとは言わぬ。
僅かでも、考えておいてほしい」
そう言って、ゆっくりとリノの顔から手を離した。
リノは、急に夢から醒めたように幾度も瞬(まばた)きをしてから、もう一度、トゥパク・アマルを見る。
先程までの姿は、幻覚だったのか…――今、トゥパク・アマルは、一人の逞しい武人らしい精悍な表情に変わり、あの常なる沈着な、深い誠意を込めた眼差しで、リノに向かってゆっくりと頷く。
そして、すっと目を細めて静かに微笑むその面持ちは、相変わらず極めて秀麗ではあったが、しかしながら、今のそれは、全くの男性的なものであった。
リノは、呆然と、腰を抜かしたように、暫し、その場から動くことができなかった。
かくして、その晩から、深夜のリノの巡回の度に、トゥパク・アマルの「誘惑」と「説得」は夜毎に続いた。
それと並行して、トゥパク・アマルは、日々の訊問の際にも、僅かずつ、「情報」――実はどうでもいいようなものに限ってはいたが――を話す素振りを見せて拷問の付加をかわし、密かに体力を温存していった。
連日連夜のように続けられるトゥパク・アマルのリノへの甘美な「誘惑」――それは、日を重ねるごとに、情け容赦無く、リノの魂を奪い去っていった。
そして、今も、鉄格子の向こうから差し出され、優美に妖しく誘いながら手招きする腕に、リノは魔術にかけられたように吸い寄せられていく。
鉄格子の前に額(ぬか)づくリノの肩に、トゥパク・アマルのしなやかな腕が這うように回されていく。
囚われた時のままのトゥパク・アマルの黒マントは、既に傷ついた翼のように裂かれ磨耗してはいたが、今も蒼白い覇光を放ちながら、相手の全身を、その漆黒の翼の中にどこまでも深く包みゆく。
その大きな黒い翼の中で、すっかり心を奪われた虚ろな目でトゥパク・アマルを見上げるリノ――そのさまは、まるで、あの世の闇の帝王と、それに取り込まれてしまった哀れな僕(しもべ)のように見える。
だが、この状態まで嵌(はま)りこんでしまったリノは、それが己にとって、どれほど危険でリスクの大きいことなのか、僅かに残された理性が警笛を鳴らそうが、もはや、逃れる術(すべ)を知らなかった。
トゥパク・アマルはリノの肩に回した腕にゆっくりと力を込めながら、己の胸の中に落とし込むように抱き締めていく。
今、トゥパク・アマルの逞しい肉体の奥で力強く脈動する鼓動の音まで確かめられるほどに、きつく抱き寄せられているリノには、麻薬を打たれたかのように、己の全身に喰い込む鉄格子の痛みさえも心地よく感じられる。
そのようなリノを、美しい微笑みを宿した眼差しで見つめながら、トゥパク・アマルは、相手の耳元で甘美に囁(ささや)く。
リノの中に残る理性の、最後の灯火を吹き消すように…――。
「そなたの名を、まだ聞いていなかったね。
名は、何という…?」
「…――」
恍惚に呑まれながらも言葉に詰まるリノを、トゥパク・アマルが流れるような視線で見下ろす。
「そなたも、わたしが口の堅いことを良く知っておろう。
決して他言はしない」
「…リ……」
「案ずることはない。
名を申してみよ」
「…――リノ…」
トゥパク・アマルは横顔で微笑する。
「リノ…リノ……リノ…――よい名だ…リノ……」
耳元に吐息がかかるほどの距離で、幾度も己の名を囁かれ、頭の芯が痺れるような陶酔に陥っていく。
そんなリノの肩を抱く腕に、いっそう力を込めて、トゥパク・アマルが続ける。
「リノ…わたしの頼みを聞いてほしい…――。
ここから自由になれば、このような鉄格子を挟まずとも、もっと直に、そなたと触れ合うこともできよう。
リノ…わたしの言うことの意味を、分かってくれるね…リノ……?」
漆黒の強靭な翼で締め上げられるほどに、ますます激しく抱かれていくリノは、もはや、歯車の壊れた機械も同然だった。
リノは、ついに崩れるように頷いた。
朦朧と消え入るような擦れた声が、リノの口元から漏れる。
「ここを出ても、俺のことを…――?」
「わたしは、決して、約束は違(たが)えない。
…――いい子だね…リノ……」
トゥパク・アマルは、その美麗な切れ長の目を薄っすらと細めて、リノの頬に優しく口づけた。
こうして、ついに獄中のトゥパク・アマルが番兵リノを抱き込むことに成功し、破獄に向けて一歩を踏み出した頃、隣国にいるアンドレス軍の状況はどうなっていたであろうか。
ここで、物語を、一旦、アンドレスのいるソラータの陣営に戻そう。
ご記憶の読者もおられるかもしれないが、和議の会合を装っての、かのスペイン側の裏切り行為が露見して数日後には、アンドレスは、再び、和議の場を、今度はインカ側の陣営にて整えた。
そして、当日…――。
インカ軍で和議の話し合いがもたれる日である。
果たして、敵将スワレス大佐は、現われるのか…――。
インカ側の誰もが固唾を呑みながらも、厳戒態勢の中、一つの広々とした天幕がその和議の場として用意され、アンドレスの指示のもと、会合に向けての準備が着々と進められていた。
いよいよ約束の時間の迫った夕刻時、自ら高所にある見張り台に立ち、護衛兵たちと共にソラータの市街地方面に鋭い視線を投げていたアンドレスの目に、遠く馬たちの上げる砂塵らしき土煙が飛び込んできた。
目を凝らすその視界の中で、それが、スペイン側の代表者スワレス大佐が、多数の白人兵を伴ってインカ軍陣営に馬を馳せてくる様子であることを確認すると、アンドレスは、誰にともなく力強く頷いた。
(よし……!!
スワレス…本当に、来たな…――!!)
ブロンズ像のような横顔で光る鋭利な目が、今、薄く微笑む。
一方、アンドレスの陣営目指して馬を馳せてくるスワレス大佐は――彼こそが、あの夜のアンドレス暗殺計画の真なる首謀者であったが――その策謀の全ての責を副官ピネーロに負わせ、己の潔白をあくまで貫き通す構えを固めていた。
(先日の一件が誰の策謀であったかなど、憶測のみで、結局は証拠も何も無い中、あのアンドレスに核心的なことなど何も言えはすまい…――)
スワレスは腹の内でそんなことを思いながら、多数の護衛兵たちと共に、インカ軍の陣営傍に荒々しく馬を乗りつける。
馬を下りてインカ軍陣営の入り口へと尊大な足取りで歩むスワレスは、苛立たしげに眉間に皺を寄せる。
アンドレス殺害を狙ったあの夜の副官ピネーロの失態ぶりに、このスワレスは苦い思いと共に、密かな驚きを抱いてもいた。
あの場にいたピネーロ以外のスペイン兵が一兵残らず全滅させられ、一方、インカ側の犠牲者が一人もいなかったのは、一体、どういうことなのか…――?
それは、さすがに信じがたかった。
後にピネーロから事態の説明は受けていたものの、スワレスには、いまひとつ、その内容に信憑性を抱けない。
むしろ、ピネーロが、あの晩、策謀の場で、何かとんでもない失態を仕出かしたのではないか、それを隠すために、ピネーロが虚言を言っているのではないか…――スワレスの認識は、そちらに偏っていた。
そして、既に、この時には、己が真の首謀者であるにもかかわらず、このスワレスはピネーロを捕え、監禁し、「アンドレス暗殺未遂の犯人捕縛」という――それは、実際は形だけのものではあったが――とりあえずの体裁を整えた上での此度の来訪でもあった。
(とはいえ、あの夜の一件で、我らスペイン側に分(ぶ)が悪いことには、変わりはない。
今宵の会合では、はじめの出方に少々気を遣わねばならぬ……)
スワレスは、内心で、忌々(いまいま)しげに舌打ちする。
だが、それでも、結局は、相手をたかが「インディオ」と見下げているスワレスは、そして、彼の率いる白い護衛兵たちも、アンドレス暗殺に失敗したのみならず、そもそも完全包囲を受けて飢え苦しんでいるという自軍の不利な戦況にもかかわらず、その歩き方や目つきからして、いかにも居丈高な態度を崩さない。
あくまで、「上の階級」の者が「下の階級」の者の陣営に来てやった、と言わぬばかりの傲慢な態度である。
実際、彼らは、先日、スペイン側に乗り込むアンドレスたちが抱いたような身の危険は、殆ど感じてはいなかったのだ。
なぜならば、インカ側が、こうした話し合いの場において、決して卑怯な真似などせず、極めて紳士的に振舞うことを、かのトゥパク・アマルのこれまでの行動を通して、白人たちは既に十分に知り尽くしていたからである。
当地の「インディオ」たちの貫き通す、「騙(だま)さぬ、裏切らぬ、相手を信じる」というインカ帝国時代から続く彼らの徹底した信念と態度は、此度の反乱でも、総指揮官トゥパク・アマルが身をもって示し、彼の配下のインカ軍の兵たちも、それに準じていた。
皮肉にも、そのインカの人々の清い態度を、インカ帝国侵略時にも、そして、此度の反乱においても、逆手に取って利用し、制圧してきたのが侵略者たちの常套手段であったのだが。
スワレスは皮相な笑みを浮かべながら、相変わらずの尊大な態度で歩みを進める。
いずれにしろ、此度のアンドレス軍来訪においても、この場にて、自分たちの命に危険が及ぶことは、まず無いであろう、との確信を深めながら…――。
他方、インカ側の警備態勢は非常に堅固で、兵たちの眼差しも険しく真剣なものではあったが、その態度はあくまで礼儀正しく、微塵も粗暴なところはなかった。
スワレスには、そのインカ側の紳士的な態度さえ、「土着民のおひとよし」、はたまた、「単純で低能」にすら見えて、声にこそ出さぬが、せせら笑わずにはおられない。
さらに、スワレスは、口の端を僅かに吊り上げながら、胸の内で算段する。
(しかも、この軍団の将アンドレスは、たかが18歳の若僧…――。
あの夜は、何の手違いか、取り逃がしたが…、今宵は、うまいこと料理してしまいたいものだ。
この機に、あのトゥパク・アマルの甥でもあるアンドレスを捕えられれば、アレッチェ様は小躍りして喜ばれるだろう。
それによる私の利も大きいというもの。
アンドレスは、以前、プノの戦場で一度見かけているが、腕っぷしはともかく、将としては、まだまだ「青い」という印象だった。
あの者が相手なら、今宵、我らに有利に事を運ぶことも、そう難儀ではあるまい)
そのような思いを巡らせながら、ほくそ笑むこのスワレス大佐はと言えば、白い毛の混じりはじめた豊かな黒い顎鬚が特徴的な、眼光鋭い、中肉中背の、堂々たる壮年のスペイン軍人である。
そして、その表情は髭に隠されているためか、どうにも読み取りにくく、何を考えているのかわからぬ、どこか掴みどころの無い印象をも与える男であった。
そんなスワレス大佐、及び、彼を護衛する白人兵たちは、アンドレスの待つ会合の天幕へとインカ兵によって誘(いざな)われていく。
やがて、すっかり夜の帳(とばり)の下りた夕闇の中に、今宵の会場となる特別な天幕が、無数の松明に照らし出され、白く浮かび上がって見えてくる。
天幕の周囲には、多数のインカ兵たちが堅く守りを敷いており、いかにも厳戒態勢の様相である。
見回せば、このアンドレス陣営には、初々しいほどに、まだ20歳前後と見られる年若い兵が多い。
(ふ…兵も若僧ばかりか……)
スワレスは、その内心で、相変わらずせせら笑う。
だが、その彼も、歩み進めるうちに、次第に真顔になっていく。
それら若々しい、今にも力の溢れ出さぬばかりの鋭気漲る青年兵たちの放つ煌々たる気迫は、ただならぬものであったのだ。
その様相に、スワレス一行は僅かに怯(ひる)んだ。
しかし、その間にも、彼らは天幕の入り口へと導かれていく。
「さあ、どうぞ、中へお入りください。
アンドレス様がお待ちです」
天幕の垂れ布を掲げながら、毅然とした声で、逞しいインカ兵がスワレスたちを中へと促す。
スワレスは、少なからず高まり出した緊張を隠すために、敢えて傲然(ごうぜん)と胸を反らし、天幕の垂れ布をくぐった。
だが、次の瞬間、不覚にも息を呑む。
「!!…――」
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第八話 青年インカ(4)
をご覧ください。◆◇◆
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