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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第九話 碧海の彼方(2)
【 第九話 碧海の彼方(2) 】
ところで、この頃、ラ・プラタ副王領からペルー副王領へと移動中のアンドレスたちは、いかなる状況になっていたであろうか。
トゥパク・アマルが懸念していた通り、アンドレスの陣営でも、兵たちの間に、にわかに英国艦隊到来の噂が流れはじめていた。
言うまでもなく、アンドレスの側近たちの口は堅く、彼らの誰かが漏らしてしまったというわけではない。
だが、広大な大陸全土には様々な人々がいて、海の交易を行う貿易商や、スペイン人の役人たちとも関係の深いインカ族の者たちなどが、どこからか英国艦隊到来の話を聞きつけて、それが風の噂となって、まことしやかに、あるいは、かなりの尾ひれがついて、内陸部の方まで広がりつつあった。
そのような噂が、大軍を率いて移動中のアンドレスたちの野営場にも、どこからともなく流れ込んでいたのだった。
そして、アンドレス軍の義勇兵の一人として負傷兵の看護に当たっているコイユールにも、その噂は届いていた。
すっかり驚き青ざめている治療場の女性たちの間では、「あの世界最強の英国海軍が、海を埋め尽くすほど無数の艦隊を引き連れて押し寄せて来ているらしい」「スペイン側は、ほどなく降参して、この国を英国に引き渡すことに決めているらしいわ」と、かなり歪曲された噂でもちきりだった。
さすがに負傷兵たちの前では、下手に不安を煽ることの無いよう噂話は控えている彼女たちだが、治療場を出れば、再びその話題に終始する。
夜の野営場の一角で、看護の手を休めて風に当たっていたコイユールの傍にも、同じ治療場を持ち場としている女性が近づいて、またその話をはじめた。
「ね、コイユールも聞いたでしょ、英国艦隊のこと。
せっかく、ここまでスペイン軍と戦い続けてきたのに、英国軍が来てしまうなんて…!
スペイン軍も逃げ出しかけてるって聞くし、私たち、これから、どうなってしまうのかしら?!」
「でも、まだ噂にすぎないんだし、今から、そんなに心配することないと思うけど。
それに、もし英国艦隊が本当に来ているとしたって、あのスペイン軍が、そんなに簡単に逃げ出すなんてありえないわ」
そう応えながらも、コイユールの胸にも不安がよぎらぬはずはなかった。
(もし、本当に英国軍が攻めてきたら、今度は、インカ軍は英国軍とも戦うことになるのかしら…?
確か、子どもの頃、マルセラから教わったっけ…英国艦隊って、スペイン軍を破ったこともあるほど強いって…。
まさか、噂が本当だったら、今度は、そんな相手と戦うことになるのかしら…トゥパク・アマル様も…アンドレスも……?)
そう思い至ると、急に足元の地面が揺れたように感じられ、にわかに心臓の鼓動も速くなる。
不意に顔色を曇らせたコイユールを、隣の女性が驚いて覗き込む。
「コイユール…大丈夫?
顔色が悪いわ」
「え…何でもないの!
ありがとう」
コイユールは慌てて首を振ると、踵を返した。
「私、ちょっと用を思い出してしまって…!
ごめんなさい、少し遅れて戻るから、先に治療場に戻っていてね」
「え?
ちょっと、コイユール!
大丈夫なの?!」
相手の女性が声をかけた時には、コイユールは既に野営場の中心部目指して、若草の上を走り去っていた。
松明に照らし出された夜の野営場は、無数の義勇兵や専門兵で溢れ返っている。
極寒の真冬の頃を過ぎつつあるとはいえ、アンデスの早春の夜の冷え込みは、まだ厳しい。
白い息を吐きながら陣営の中を駆けていくコイユールの耳に、そこかしこから、あの英国艦隊の噂が囁かれている様子が流れ聞こえてくる。
「貿易商の話では、海が黒く埋まるほどの英国海軍を見かけたとか…!」
「スペイン軍は、この国から逃げ出す準備をはじめているとも聞いたぞ!!」
それらの言葉の一つ一つが、コイユールの不安をいっそう煽っていく。
彼女は野営場を走り回り続けて、やっとマルセラの姿を見つけると、周囲の目も忘れて駆け寄った。
「マルセラ!!」
「え?…――あ!
コイユール!」
野営場を見回っていたマルセラも振り向いて、血相を変えているコイユールの様子を見て取ると、共に見回っていた部下に後を委ねて足早に歩み寄って来た。
マルセラは、コイユールの肩をそっと押しながら木陰に移動すると、不安気に揺れる友の瞳を覗き込んだ。
「あの噂のこと?」
激しく息を切らし、額いっぱいの汗を滲ませながら、コイユールが頷き返す。
「英国艦隊が攻めてきたって、本当なの?!」
マルセラは懐からハンカチを取り出して、それを相手の手元に差し出した。
「だいぶ走ったね?
ほら、汗、拭いて。
風邪ひくよ」
そして、一呼吸おくと、真摯な瞳でコイユールを見下ろしながら言う。
「アンドレス様から、まだ他言してはいけないって言われてるけど、あんたには隠し立ては必要ないよね。
それに、私も、コイユールに伝えたいことがあるし」
「え…?
私に…?」
マルセラからハンカチを受け取って額の汗を拭きながら、コイユールが、くっきりとした目元を瞬かせる。
「私に伝えたいことって…?」
「うん…その前に、まず、英国艦隊の到来のことだけど、あれは本当のことらしい」
「!!」
ハンカチに添えられたコイユールの細い指先が、ピクリと震えて止まった。
そんな彼女を眼差しで支えながら、マルセラは言い添える。
「だけど、この陣営で広がっている噂は、だいぶ大袈裟になっているみたいだね。
トゥパク・アマル様も、こうなることを懸念して、今まで内密にされてきたのだろうけど」
「え?!
トゥパク・アマル様がって…?!」
いっそう目を大きく見開いて息を詰めるコイユールの頭上では、新芽をはらんだ大木の枝が夜風にザワザワと揺れている。
長身のマルセラは、しなやかな枝の一本に軽々と手を触れながら、やや声を低めて続ける。
「今回の英国艦隊は、トゥパク・アマル様が敢えて呼び寄せたらしいんだ。
スペイン軍を海と陸から攻めるために。
つまり、海から英国軍に、そして、陸からインカ軍に攻めさせ、腹背から挟み撃ちにしようってことらしい」
「!!――……」
「それで…」
「ちょっ、ちょっと待って!!」
言いかけたマルセラを、急いでコイユールが遮った。
「マルセラ、トゥパク・アマル様は牢屋に入れられているはずよね?!
なのに、英国軍を呼び寄せたとか、今まで黙っていたとか、一体、どういうこと?!」
「え?!
あ、そっか!!
コイユール、まだ知らなかったのね!
トゥパク・アマル様は、ずいぶん前に牢から抜けて……」
「ええーっ!!
トパッ…」
「シーーッッ!!!」
歓喜と驚愕の叫びを上げるコイユールの口を、すかさずマルセラの手が押さえ込む。
そして、コイユールの耳元までにじり寄って、さらに声を低めた。
「コイユールってば、大声だしちゃダメ!
まだ内密なんだから!
それに、トゥパク・アマル様が英国艦隊を呼び寄せるために連絡を図ったのは、投獄される前のことだし。
いや、それより、あのね、コイユール……」
放心して言葉も失っているコイユールの様子に、マルセラは、言うか言うまいか暫し迷いの表情を見せていたが、やがて意を決したようにコイユールに真っ直ぐ向き直った。
「それでね、コイユール。
あんたに伝えたいって言ったのは、アンドレス様のことなんだ」
「!――…」
コイユールは深く息を呑むと、ハッとマルセラを見つめた。
「実はね、トゥパク・アマル様が今回の件で連絡を取った英国の神父様と、アンドレス様のお父上が、昔、知り合い…っていうか、親友だったらしいんだ」
「え?!
アンドレスのお父様が…?!
ど、どうして、英国の神父様と?!」
新たな驚きに身をすくめながらも、険しいほど真剣な眼差しで身を乗り出したコイユールに、マルセラも真剣な面差しで深く頷く。
「その英国の神父様は、以前、この国にいたスペイン人のイエズス会の神父様で、その時、同じイエズス会の神父様だったアンドレス様のお父上と一緒にインカの解放運動をしていたらしいんだ。
だけど、スペイン国王のイエズス会弾圧で、その神父様は英国へと亡命。
そして、アンドレス様のお父上は……」
不意に言葉を詰まらせたマルセラに、コイユールも不穏な何かを直感して、ビクッと身を固めた。
それでも、搾り出すように問いかける。
「アンドレスの…お父様が……?」
「――…暗殺されたらしいんだ」
「!!」
愕然と身を震わせたコイユールの手から、風に奪われるようにして、ハンカチが夜空へと吹き飛ばされた。
「あっ!」
長いおさげを風にはためかせながら、慌ててそちらを振り向いたコイユールの華奢な肩を、マルセラが押さえる。
「あれは、いいって…!
それより、今のこと、あんたに伝えておきたかったんだ。
アンドレス様も、ほんの最近まで、お父上のことは殆ど何も知らなかったらしい。
暗殺だなんて知って、どれほどショックだったか知れないし…。
きっと、アンドレス様も、そのこと、コイユールに聞いてほしかっただろうと思って。
――…でも、多分、聞いてないでしょ?
あんたたちって、そういうところ、あるからさ…」
「!…―――」
マルセラは小さく溜息をつくと、震えているように見えるコイユールを真摯な瞳でそっと見つめた。
「きっと、これから、戦況はますます激しくなっていく。
先のことはどうなるか分からないけど…、だけど、コイユール、アンドレス様と同じ陣営にいられる今を大事にしないといけないよ」
友の言葉に、コイユールは声を失ったまま、涙の滲んだ目だけを見開いて風の中に立ちすくんでいる。
煌く銀河を背景に、ますます吹きつのる早春の風の中で、頭上の大木が枝を揺らしながら大きくざわめいていた。
他方、同じ頃、アンドレスもまた、難しい表情で陣営内を見回っていた。
アンドレスと共に見回っていたロレンソが、鋭利な目元をひそめる。
「アンドレス。
英国艦隊到来の噂、兵たちにも完全に知れ渡っているようだな。
その上、いらぬ尾ひれまでついて、いたずらに不安を煽る内容にまでなっている。
ここまでともなると、このまま放置というわけにもいくまい」
燃え上がる松明が落とす黒々とした影を踏みしだきながら、アンドレスも意を決した横顔で頷いた。
「そうだな。
そろそろ潮時か。
兵たちにも、きちんと真実を伝えるべきかもしれない」
「真実…か。
そうだな…。
だが、まさかトゥパク・アマル様が呼び寄せたなどとまで言い出すのではなかろうな」
声を低めたロレンソに、「いや、さすがに、そこまでは…」と、アンドレスも声をひそめた。
二人の歩む大地では随所から若草が芽吹き、それらに宿った夜露のために、地表はしっとりと湿っている。
「うむ…確かに、ある程度は真実は明かしてしまった方が、余計な不安を煽ることもないか」
「ああ」
思慮深い眼差しで呟くアンドレスに、ロレンソは再び振り向いた。
「では、わたしは、もう暫く陣営を回ってくる。
アンドレス、そなたは、どうする?」
「俺は、その辺で、少し腕をならしていく」
そう言って腰の剣に触れたアンドレスに、ロレンソは感心したように微笑んだ。
「素振りか?
そなたは、如何なる時も、それだけは欠かしたことがないな」
「あの鬼師匠のアパサ殿のお達しだからな」
苦笑交じりにはにかむアンドレスにロレンソも笑みを返すと、彼は義勇兵の野営場の方角へと踵を返した。
一方、ロレンソと分かれたアンドレスは、陣営のはずれへと足早に歩み行く。
進むにつれて人気は無くなり、次第に松明の数も減り、辺りは深海の底のような深い夜闇へと包まれていく。
早春の冷風が吹きすぎるたび、彼の柔らかな髪が背後に流れてひるがえる。
アンドレスは周囲の気配に意識を研ぎ澄ませながら、さらに足を速めた。
と、その時だった。
ふと、誰かが自分の名を呼ぶ声がしたような気がしたのだ。
アンドレ…ス――……
「!」
アンドレスは、ハッと、声のした方を振り向いた。
そして、素早く剣の柄に手をかける。
(これほど陣営のはずれともなれば、見回りの衛兵ぐらいしかいないはずなのだが…!)
アンドレス―――!
今度こそ、彼の耳にハッキリと聞こえた。
それは、どこか懐かしいような男性の声。
「誰だ?!
俺の名を……!」
すかさず剣を抜くと、アンドレスは夢中で体ごと暗闇の中を見回した。
目をきつく凝らし、夜闇の中に見え隠れする太い木々の幹の間に視線を走らせる。
そして、思わず、息を呑んだ。
「!!」
そこに白く浮かび上がる人影を確かに見たのだ。
闇に透けるような透明な白い光に包まれたその人を見た時、アンドレスの心臓は止まりそうになった。
(ち…父上…―――?!)
自分を生き写したかのような木陰の人物は、遠い日の記憶の中にある父親の姿そのものだった。
だが、己の父親は、ずっと昔にこの世を去っているはず。
微動だにできず直立しているアンドレスに、木陰の人物は真っ直ぐ視線を注いでいる。
その人物の毅然とした強い意志に貫かれた眼差しは、とても幻や亡霊のようには見えない。
アンドレスは大きくかぶりを振って、それから再び、恍惚たる表情で目を凝らす。
一方、木陰の人物も、逞しく成長した眼前の若者――己の息子の姿に、眩しそうに目を細めた。
息子の姿は、いまや己を凌ぐほどの身の丈となり、幾多の戦火をくぐりぬけた体躯はガッシリと強く鍛えられている。
それでいて、まだ、どこか少年のような風貌も残しているのだが…――。
そんなアンドレスを包み込むような眼差しで見つめながら、彼は唇をゆっくりと動かした。
アンドレスは、まるで金縛りにあったように動けぬまま、しかし、懸命に相手の唇の動きを読もうと、大きな瞳をさらに大きく見開く。
いや、口の動きを見るまでもなく、即座に、彼の脳裏に相手の懐かしくも深遠な声音が響いてきた。
(アンドレス――会いたかった……。
そなたが、わたしと同じように、インカの解放のために戦うことになろうとは。
これも宿命なのか―――)
アンドレスは、息を詰めた。
「父上…!!」
彼は動かぬ体から、渾身の力を振り絞って声を放つ。
「俺は、何も知らずとも、父上の遺志を継いでいたことが嬉しくて……!」
アンドレスの声が詰まる。
その目元に涙が滲んだ。
そのような息子に力強く真摯な瞳で頷き返すと、木陰の人物は、不意に悲しげな表情に変った。
アンドレスが相手の表情の変化にハッと息を呑んだ瞬間、彼の体は、いきなり稲光走る天空の真っ只中にあった。
「!!」
何が起こっているのか全く判断も何もできようもないまま、息をすることさえ忘れ、カッと目を見開く。
と同時に、彼の眼前を、大きく翼を広げた一羽のコンドルが、目にも止まらぬ光速でよぎっていった。
その瞬間、アンドレスは愕然と身を固める。
天から地へと無数の光の柱を突き刺すがごとくに落雷する稲妻を、強靭な漆黒の翼で切り裂いて滑空するコンドル―――しかし、その体はズタズタに傷つき、傷口から放たれる血飛沫が、宙に絶え間なく飛び散っていた。
「――!!!」
叫びを上げそうになったアンドレスの視界の中で、だが、コンドルは、そのような傷など異次元のことのような炯々たる鋭利な目をして、その力強い飛翔をさらに加速させながら、激しく荒れ狂う稲妻を次々と切り裂いていく。
ついに全ての稲妻がコンドルの翼によって分断され、悲鳴のごとく絶叫する雷鳴と共に電光が闇に消え去った次の瞬間―――今度は、アンドレスの体は、苛烈な嵐の猛り狂う大海の上空にいた。
「!!――なっ?!」
彼は、上空から下界の海を――いや、恐らく、下界の船の上にいる、もう一人の自分の姿を見下ろしていた。
獰猛な怪物のごとく轟々と激しくうねり波立つ海の上で、木の葉のように翻弄される帆船。
しかし、その船もまた、巨大な怪物に抗うがごとく、大きく上下しながら猛然と波間を帆走していく。
水浸しになった板張りの床の上に立ち、強風に吹き飛ばされそうになりながら、飛び散る波飛沫にズブ濡れになっている己の姿が見える―――…!!
一体、そこで自分は何をしているのか?!
何もかもが全く分からない――だが、その鬼気迫る己の相貌は、尋常ならざるものだった。
あまりのことに、再び激しく愕然とするアンドレスの視界が真っ白になった―――と、急に、周囲は暗黒の静寂に閉ざされた。
一瞬、完全に意識が飛び…―――そして、また意識が舞い戻る。
ハッと気付けば、そこは、元いた陣営はずれの森の中だった。
「あ…!!」
全身で荒く息をしながら、ひどい混乱の眼で周囲を見回すアンドレスの傍を、早春の冷風が木の葉を揺らして去っていく。
汗にまみれた前髪からのぞく痙攣する目元をやっと動かし、僅かに視線を上げた彼の目に、先刻と同じ木陰に立つ人物の姿が映った。
だが、その姿は、先ほどよりも、ずっと薄く透明に近く、今にも夜闇に溶けて消え入りそうになっている。
今ここにいる己さえも夢か現(うつつ)か定かではない深い混沌と衝撃の渦巻く頭で、だが、アンドレスは殆ど反射的に叫んでいた。
「父上!!
待ってください――…!!」
その瞬間、急に、彼の体は呪縛を解かれたように動いた。
「父上!!」
駆け寄ったアンドレスに、木陰の人物も、一歩、前に踏み出した。
そして、消えかけた姿のまま、しかし、大きく両腕を回してアンドレスを抱き締めた。
アンドレスには、それが、もはや実在せぬ父の亡霊であると分かっていたが、にもかかわらず、しっかりと抱き締められている感触と、そして、熱い体温までが伝わってくるほどの感覚をありありと感じ取ることができていた。
その抱き締める腕の力も、とても消え入りそうな亡霊のなすものとは思えぬほどに、非常に強靭で、深い包容力に満ちている。
己の力を全て分け与えるかのように力強く抱き締める父の逞しい腕の中で、一方のアンドレスは、自分の全身にこれまで体験したことのない強烈なエネルギーが満ち溢れてくるのを感じていた。
アンドレスの胸に強い恍惚感と高揚感が突き上げる――!!
しかも、まるで自分の全身から鮮烈な光が放たれているかのごとく、激しい感覚に包まれていた。
(父上――!!)
思わず父を見上げたアンドレスに、父もしかと頷き、微笑み返してくれた―――と思われた次の瞬間、アンドレスの全身を包んでいた光がスッと消えた。
「!!」
彼が目を見張った時には、既に父の姿はそこになかった。
辺りには、海底のような深い静寂が広がるばかり……。
夜の森を吹きすぎる早春の夜風に、ザワザワと木の葉だけが鳴っていた。
(父上……!)
アンドレスは自分の体を見下ろした。
全ては夢か幻だったのか――あれほど鮮烈な光に包まれていたはずなのに、今、そのような気配は微塵も見られない。
少なくとも、外見上は、全く普段通りに戻っている。
だが―――…確かに、感覚が残っているのだ。
しかと抱き締められた相手の腕の力、温かく抱擁された感触…そして、今も、全身に強いエネルギーが巡っているのを明確に感じ取ることができていた。
アンドレスは、巨大な流星の降りしきる天空を見上げた。
彼の瞳に、流れる星々の放つ光が反射している。
(父上だった…確かに…!!
俺に会いにきてくれたんだ……!)
胸が熱く、再び目元には涙が滲む。
だが、その横顔には険しくも、恍惚たる強い力が宿っていた。
(父上は、これから厳しい戦いが待っていると、それを示してくれたんだ。
だけど…いや、だからこそ、力を与えに来てくれたんだ!!)
その時、野営場に続く道の方から、誰かが近づいてくる気配がした。
ハッと耳をすませると、パタパタと小走りになって懸命に進んでくる足音。
それは聞き覚えのある――…!
(っていうか、あの足音は!!)
そう意識が走った瞬間には、アンドレスの体は、弾かれたように大木の陰から小道に飛び出していた。
「コイユール?!」
驚いて急に声を上げたアンドレスに、道の向こうから夢中で走ってきたコイユールは、ビクッと身を震わせて小さく叫びを上げた。
そして、咄嗟に後ずさってから、やっと相手がアンドレスらしいと気付いて、声を返してきた。
「アンドレス…?!」
月夜にもかかわらず、深い闇は墨をこぼしたようで視界がきかず、二人は、互いの姿を求めて懸命に目を凝らす。
その間にも、夜風は、ますます冷気を増してくる。
アンドレスは濃厚な夜闇をかきわけるようにして、コイユールの声のした方に駆け寄った。
すぐ傍まで近づき、彼女の姿を発見すると、驚きも忘れて彼は深い息をついた。
それから、嬉しいも何も、とにかく心配と安堵の念が先に立って、思わず声が険しくなる。
「コイユール、どうしたの?!
こんな時間に、一人で、こんなところまで…!
危ないじゃないか!!」
「ご…ごめんなさい…!」
アンドレスの剣幕に驚いて、コイユールは身をすくめた。
白い息を吐きながら、まだ息の上がっている肩を落としてしまったように見えるコイユールに、アンドレスも慌てて言い返す。
「いや、俺こそ、ごめん…!」
こうでもしなければ、何か話があっても普段の陣営内では声もかけられないだろうし、夜の素振りの場所はマルセラから聞いたのだろうと、アンドレスはすぐに察した。
実際、こうして傍近くで会うのは、どれほどぶりだろうか―――。
あのソラータの深夜の川辺で会って以来ではなかったろうか…?!
あれから、ソラータの水攻めがあり、トゥパク・アマル様の秘策を知り、ラ・パスへの進軍があり、そして、今、英国艦隊到来に向けてペルー副王領に帰還しつつある――まるで果てしなく長い時が流れたように感じられる。
森の中に差し込む僅かな月明りを頼りに、実に久しぶりに身近に接した愛しい人の姿をしっかり目におさめようと、アンドレスもコイユールも懸命に瞳を凝らした。
やがてコイユールは相手の方に一歩踏み出すと、そっと澄んだ声で語りかける。
「マルセラから聞いたの…英国艦隊のことと、それから、英国の神父様のことと…」
「え…!」
不意に大きく息を呑んだアンドレスを、コイユールは真摯な眼差しで見上げたまま、意を決したように続ける。
「そして、アンドレスのお父様のことも……」
「!…――」
アンドレスは、すぐには返す言葉が見つからず、ただ独り言のように呟いた。
「そうだったのか…」
実は――自分自身も、初めて父の死の真相を知ったとき、あまりの衝撃の大きさから、無意識のうちにコイユールに会いに行きかけたのだ…。
だが、実際には、会わずに途中で引き返してきたのだが――……。
アンドレスの脳裏で、そんな思いが巡っている間にも、心配そうに見上げるコイユールの瞳は小刻みに揺れ続けている。
やがて、己を見上げているコイユールの瞳が、いっそう大きく揺れはじめた。
いよいよ彼女が泣き出すのではないかと、むしろアンドレスの意識はそちらに奪われる。
「あの…コイユール、俺のことなら大丈…」
「アンドレス…!!」
言いかけたアンドレスの声が聞こえないかのように、コイユールが、急にキッパリと力のこもった声を上げた。
「え?!
は…はい!!」
咄嗟にアンドレスが居住まいを正す。
一方、コイユールは暗闇の中で、さらにアンドレスに近づいた。
そして、とても真剣な目でじっと相手の顔を覗き込むように見つめた後、今度は彼の全身をまじまじと眺め渡す。
それから、最後に、はぁっ…と、感嘆の混じった吐息を漏らした。
暗闇の中とはいえ、コイユールにこれほど見渡されては、アンドレスの方が赤面してしまう。
「コ…コイユール…?」
「アンドレス…!」
コイユールは、深い感動の滲んだ声を上げた。
「アンドレス、何かあったでしょ?」
「え?」
思いもかけぬコイユールの言葉に、アンドレスの鼓動がにわかに速まる。
「な…何かって?」
「何だか、今までと少し違うみたい」
コイユールはやや興奮気味に頬を紅潮させながら、さらに一歩、アンドレスに近づいた。
「アンドレスの体が今までよりも強く光って見えるの。
暗闇の中だからかしら…?
でも、それだけじゃないような…!!」
「え…っ?!」
恍惚としながらも不思議そうに目を細めるコイユールに、アンドレスは息を呑んだ。
(まさか――…でも、コイユールなら、分かるのか…?!)
今度はアンドレスの方が真剣な表情になって、真っ直ぐコイユールに向き直った。
「実は、俺、今……」
くっきりとしたコイユールの目がさらに見開かれ、吸い込まれるようにアンドレスを見上げている。
「俺、今、父上と会ってたんだ…――!」
思い切って決然と言い放ったアンドレスに、さすがのコイユールも驚いて、息を詰めた。
「え?!」
「俺も最初は夢か幻かと思った。
だって、父上は、もうこの世にはいないはずだし…!
でも、確かに俺の名を呼ぶ声がして、振り向いたら、その木の陰に…!!」
アンドレスが指し示した方向を、コイユールもハッと振り向いた。
そして、息を詰めたまま、じっと夜目を凝らす。
それから、またアンドレスを見上げて、恍惚とも呆然とも取れる声を漏らした。
「アンドレスの…お父様が…」
「ああ…!
それで、俺を抱き締めて、力を与えてくれて……!」
噛み締めるように語りながらも、彼の表情は、相手の反応をうかがうかのように、次第に躊躇(ためら)いがちになっていく。
(こんなこと、唐突に言われたって、さすがにコイユールでも……)
だが、アンドレスの懸念をよそに、コイユールは嬉々として深く頷いた。
「そう…!」
彼女は、いっそう恍惚と瞳を輝かせる。
「お父様、アンドレスに会いに来てくださったのね…!」
「コイユール、俺が変なことを言っているって思わないの?!」
真顔になって瞳を覗き込んだアンドレスに、コイユールは可笑しそうに微笑んだ。
「少しも変じゃないわ。
私も、父さんや母さんが、いつも傍にいると分かっているし…!
私たち、誰だって、守られているのよね」
アンドレスも、目を細めて頷く。
そんな自分に、再び感嘆の混じった視線を向けているコイユールの様子に、アンドレスも、改めて自分の全身を眺め渡した。
今までよりも強く光って見える――コイユールに、そうまでハッキリ言われると、本当に全身が白光しているように感じられてくる。
アンドレスは、思わずコイユールの両手を取って、その手をぎゅっと握り締めた。
「それじゃ、コイユールにも分けてあげるよ!
父上からもらった力!!」
どこか得意気なアンドレスの声音が可笑しくて、コイユールはクスクス笑いながら、それでも本当に嬉しそうに顔を輝かせた。
「嬉しい…!
アンドレスの手から、とっても強いエネルギーが流れてくるみたい!」
「本当に?!」
「ええ!!」
二人は手を取り合ったまま、改めて、眩しそうに互いを見つめた。
二人の頭上では、美しい星々が宝石を散らしたようにキラキラと眩い光を放っている。
アンデスの空は近く、まるで手に取れるほどに宇宙が間近に迫って見える。
その時、一つの流れ星が、スッと光の尾を引いて流れ、不意に夜空を明るく染めた。
その光の明るさに、二人は手を取り合ったまま、ハッとそちらを振り向いた。
流星は白光する軌跡を残して、ペルー副王領の方角へと消えていった――それは自分たちの故郷がある方角でもあり、また、トゥパク・アマルの本陣がある方角でもあり、そして――これから想像を絶する激しい戦いが待っているであろう方角でもある。
いつしか真剣な眼差しでそちらを見やったまま、二人は無意識のうちに、互いの手をいっそう強く握り締めていた。
やがて二人は、今一度、互いに視線を戻した。
アンドレスは、込み上げる愛しさから、胸に深くコイユールを抱き寄せる。
そして、コイユールも、また、相手の胸元に頬を寄せたまま、その細い腕でアンドレスを包み込むように抱き締めた。
「コイユール…あのソラータの川辺のとき以来だよね……」
「…――ええ」
「会いたかった」
「私も……」
不意にアンドレスの片手が、コイユールの頬を優しく包んだ。
「!」
コイユールの頬が、サッと上気する。
「コイユール、動かないで」
「!…――」
アンドレスは優しい眼差しでコイユールの頬を手で包んだまま、その長身をゆっくりと屈めて、顔を寄せていく。
コイユールも、そっと目を閉じた。
―――バキッ!!
と、その瞬間、背後で何かが割れるような鈍い音と、人の気配がした。
「!!!」
ビクッとして二人が身を固め、そちらを振り向くと、既に数メートル後方まで後ずさったロレンソの姿――…!
驚いて闇の中で目を凝らすと、ロレンソの少し手前の地面には、彼が慌てて踏んでしまったと思われる小枝が二つに割れて転がっていた。
平素は冷静沈着なロレンソが、今はすっかり慌てふためいて、さらに後方に後ずさっていく。
「すまんっ!
続けてくれ……っ」
「…―――!!」
ガーンとした涙目で「あと少しだったのに…!」と言いたげな眼差しのアンドレスの横では、コイユールも震える瞳を潤ませている。
二人の愕然とした表情に、ロレンソは果てしなく恐縮しながら、彼もまた、深く肩を落とした。
「そなたたちが一緒だとは知らなかったのだ。
アンドレスに急ぎ伝えねばならぬ事情があって、近づいたら…!
まさか、こんなタイミングとは…!
すまん…本当に……!!」
すっかり恐縮しているロレンソの様子に、アンドレスも、コイユールも、「い…いや、そんなに気にせずに…」と言うしかない。
実際、アンドレスにも、コイユールにも、ロレンソを責める気持ちなど毛頭ありはしない。
ただ、体から力が抜けて、いつしか三人共、草の上にへたり込んでいた。
はぁ……と、それぞれの口元から、小さく溜息が漏れる。
若草の夜露が、上気した全身に、ひんやりと服の下から染みてくる。
そんな三人に優しく微笑みかけるように、煌くインカの月が、清らかな光を地表に降り注いでいた。
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第九話 碧海の彼方(3)
をご覧ください。◆◇◆
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