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クロージングトーナメントの予選最終戦の試合終了のホイッスルが鳴り響き、初夏の到来を告げる斜陽がまだ鮮やかにピッチに照り返している。仲間の悔しさを滲ました表情、相手チームの歓喜。そしてもう左腕にキャプテンマークを巻くことはないのだと思うと、少し寂しい気がした。サッカーに、そしてチームに真摯に向き合い続けることを決めてから1年が経ったのだ。やがて夕暮れの陽が美しい光束となって、シーズンエンドパーティの参加者達を等しく彩る。僕等の座るテーブルからは、遠く隣接するゴルフ場のなだらかで柔らかな芝生の起伏が見える。頭上を見上げると、北極星がもう6月の帳に煌びやかな姿を見せている。心から美しい瞬間だと思う。人生の一瞬、だけれど確かにサッカーを通じて交差した人々の温もりに包まれた一時。ヨーロッパ、南米、アジア、オセアニア、アメリカ・・・・拙いかすかな英語でだけれど、確かに繋がった人々との交流。この1年を、どう形容したらいいのだろうか?この1年自分がやってきたことがなんだったのか?この1年自分が向き合い続けた物事がなんだったのか?キャプテンのオファーを受けて、自分なりに悩み抜いた末に、それを引き受けたこと。サッカーが上手なわけでもない。リーダシップで集団を纏めるというよりも、元来自分が納得できればそれでいいと思う個人主義のタイプ。誰とでも仲良くなれるわけでもない。何故だろう。それでもそれを是非やってみたいと思う、自分がいた。それからの1年は本当に等比級数のようにあっという間に過ぎ去り、今日このパーティの宴に帰結したわけだ。チームの結果には満足をしていない。チームの結果を最良に導けず悔しい気持ちも多分にある。いっぱい失敗をし、沢山間違いを犯し、選択を多々誤まり、もうドジばっかりだった。それでもなんだろう。この充実感は。終わりの段になって、初めて気付く。ああ、俺はこの仲間と、この仲間達と1年を向き合い続けることができたんだな。と。そして仲間も同じく僕と向き合ってくれたんだと。だからこそ今のこの瞬間、このぬくもりがある。それこそが僕のこの1年の一切だったんだ。と。こんなに苦しくて、しんどくて、でもこれほどの充実感、達成感はない。逃げないこと、言い訳をしないこと。そして真摯であること。乾杯を酌み交わし、だれかれともなく「ありがとう」或いは「お疲れ」という言葉をいただく。それが全てなのだ。僕はそれだけでもう単純で、真っ直ぐで、それだけでもう本当に仲間に、チームに胸いっぱいだ。感謝。感謝。ひたすらの感謝。
2007.06.09
20歳の時に初めてその絵に出会って10年が過ぎようとしている。オランダ・デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園を吹く風はもう晩秋のそれのように肌に刺さる。アムステルダムからバスを乗り継ぎながら片道2時間半の道のりをかけてやってきただけのことはある。あたりはもうアムスのような箱庭的なメルヘン観光地の賑やかなそれではなく、牧草地が果てしなく広がり、乳牛や羊が草を食み、その奥深くには針葉樹の森がうねうねと幾重にも曲線を描きながら秋の高い空の下に続いている。広大な国立公園の森の中央奥深くに佇むクレラー・ミュラー・ミュージアムの正面玄関に辿りついた時、決心はとっくについているつもりだった。この世でもっとも敬愛する画家が描いた「夜のカフェテラス」1人のどこにでもいるありふれた青年が真剣に人生の意味を考え始めるきっかけを与えた絵。僕の青春はあの絵と始まり、以来心の底辺には常にあのカフェの灯りがあったように思う。大切な人を喪い(そのことの本当の意味を噛み締めるのはずっと後になってからだけれど)それから10年それとどう向き合い、或いはどう向き合ってきたか、それを心の闇からそっと照らす灯火だった。数百年という時の洗礼を受けた絵画たちが静かに額縁に納まっている回廊を静かに僕等は歩く。ゆっくりとそれらの一つ一つを見定めていく。対面していく。時にはそれらのうちの何かが僕の心の何かと触れ合う。だけれどそれが何かは僕には上手く把握できない。やがてその瞬間は不意にやってくる。絵はゴッホルームの中央に掛けられてた。実物は心の想像よりも小さかった。額縁は最近変えられたのだろうか?新品のような目新しさを醸し出していて、絵自体が放つ深い質感との間でアンバランスさを際立たせている。ゴッホはこの絵を描いたとき、弟のテオへの手紙でこう言っている。「因習的な夜の闇から抜け出す唯一の方法によって描いた絵だ」絵の技法のことを言っているのかどうかは遺された僕等には正確にはわからないけれど、少なくとも、そこには純粋で直向な1人の人間の決意が見て取れる。オランダのある作家がこう言っている。「ゴッホの遺された手紙はオランダ文学史上最高の作品だ」目新しい額縁。そこに閉じられた120年前のアルル。人の温もりに包まれた夜のカフェテラス。そしてそれを描く孤独の画家。多分目新しく無機質な額縁が絵と交じり合いそれらが一体となって見るものに映るには、なお幾十年の歳月を要するのだろう。その頃にはもう僕はこの世にはいない。これからも幾多の人々がこの絵と対峙し、時に自らの心の何かを揺り動かすことになるのかもしれない。クレラーミュラーを辞するとき見上げた空は10年前、あの11月の夕暮とダブって見えた。「夜には昼よりも多くの光が存在する。僕はそう思うよ。」 V.Gogh20代最後の旅はまだ終わらない。
2006.10.01
Jに待望の第一子が生まれた。Jとは大学時代からの付き合いで、以来不思議な縁に導かれるように互いの人生の節目節目で再会を果たしながら、今ではここ上海でお互いに駐在員として家族同士の付き合いをさせてもらっている。そのJから今日メールで吉報が届いた。「無事に子供が生まれた。」と。いつかこんな日が来るだろうとは思っていたのだけれど、なんだか不思議な気分だ。18歳の時に出会った彼が父親となった。ともに青春の街長崎で暮らした彼が。ともに八ヶ岳に白馬岳に富士山に屋久島に登ったあいつが。互いの結婚式で人生最良の日を祝い合った大切な友が。添付された愛娘とご家族の写真からは、それがどれだけある家族においてささやかだけれど幸せな一時なのかが、真っ直ぐに伝わってくる。愛娘の名は「明日花」。素敵なパパのお気に入りの友人として我が身を覚えてもらえる日が待ち遠しい。今宵はJに乾杯。
2006.09.21
昨晩は、上海外国人リーグの永遠のライバルチーム「Shooters」のメンバーの1人、Steveのお別れパーティがあり、我々Japanからも3人でちょっとだけ顔を出した。正直、欧米系(笑)のノリについていけるかいささか心配だったのだけれど、やはり行ってよかった。我々が顔を出したことに、Steve本人もいたく喜んでくれたし、Shootersのそれ以外の面々や普段リーグで良く顔を合わしている他チームのメンバーも沢山来ていて、結構お互いに気さくに挨拶を交わし、とってもフレンドリーで親密な気持ちに包まれた。最後に壇上でShootersの監督のJohnがなにやらお別れ挨拶&メモリアルグッズをSteveに手渡すとSteveは男泣き。やはりこういう場面は国や人種に関わらずやっぱりいいものだなと。そしてスピーチの中でも「Japanも着てくれてありがとう云々」といったちょっとした謝辞があり、彼等のそうした何気ない配慮というか礼節に感動。自分がもしそういうことをされたら本当に素直に嬉しいだろうし、たとえ言葉がそれほど深く通じ合えないとしても、人間としての心は通じるということなんだろう。何を行動として示すかが、人と人とのつながりの基本なんだと改めて感じさせられた夜だった。髭の濃いアングロサクソン系顔に2つの純粋な瞳があって、それはちょっと潤んで輝いていて、なんだか上海でサッカーを通じて出会った人々との繋がりに胸がほっこりとしたそんな気持ち。
2006.09.17
昨晩は外国人サッカーリーグのリーグコミッティミーティングに参加した。普段アジアンなんちゃってイングリッシュに慣れきっている身には欧米系の本場英語での2時間は堪えた。ヒアリングはある程度問題なかったのだけれど、(それでもアイルランド系のはメチャ聞き取りにくかったなあ。)やはり自分の伝えたいことや言いたい事をそうした場で発言するのは難しいなと。イタリア人やオランダ人、フランス人なんかもメチャクチャ流暢に英語喋っていて、おとなしいのはやはり韓国、中国、そして日本というアジアン。お国側がでているなあ。でも言い回しとか、結構すぐにパクれそうなのがあったので早速実践してみよう。でも大変刺激になった。蘇州河に面した隠れ家的なBARの屋上オープンバーで、夏の夜風に吹かれながら、サッカーを通じて出会った様々な異国の人との交わりは。同行したチームメンバーのKちゃんとその後、下の階で飲みなおしながら「これからは英語やなと。」と盛り上がったりなどして。(単純)いずれにせよ、こうした機会を与えてくれたチームに感謝。この1年、自分自身の責任をチームに果たしたいと改めて感じた夜だった。上海ライフの集大成としてもラスト1年余りを仕事、プライベート通じて完全燃焼しようと思う今日この頃。
2006.08.16
アムステルダム→ケルン(もしくはハイデルベルク)→フライブルク→フェルドベルク→パリ→オーヴェール・シュル・オワーズ→ブリュッセル→アムステルダム行きたいところはそれこそ山ほどあるけれど、これが20代最後の旅の草案。先日の日本出張の折に8年ぶりに購入した「地球の歩き方」ヨーロッパ編を見ながら纏めたルート。8年前あの頃まだユーロはなく、行く先々でマルクやフラン、リラなんかに換金していたんだっけ。秋のヨーロッパを訪れるのは初めて。もうヤッケは必要だろう。今年買ったオレンジのシェラ64パーカを卸そう。僕の敬愛する作家は旅や異国の生活において「理解できなくてもいい、ただ感じるだけでいいんだ。」というような意味のことを言っていた。それはまさしく僕の旅行観とも符合する。無理に目的や意味を見出すことはない、ただ感じるだけでいいんだ。それでも今回の旅はいささかの個人的な目的があるのも確かだ。1.「彼女は林檎を齧り僕は縄を焼く」の原風景とも言うべき、黒い森との邂逅。2.敬愛するゴッホの「夜のカフェテラス」に出会う。3.ゴッホ終焉の地を訪れる。あの森は今も深く、濃く樅の木々に包まれているんだろうか?あのフェルド山の頂にはまだ十字架が立っているんだろうか?そしてまた涙は頬を伝って、別の何かに変わるんだろうか?1999年2月、ポーランド。アウシュビッツ収容所跡地ビルケナウツヴァイ。敷地の中央奥深く、おもむろに終わりを見せる線路は僕の人生の何かと重なった。あの時途絶えた線路の先には、本来続くべき幾百万の人々のそれぞれの人生の軌跡があるべきだった。そのことを思うと胸が激しく軋んだ。世界と繋がるということは美しいことばかりではない。世界の哀しい記憶や思い出が時として、個人的な何かと共鳴することもある。胸の奥深くに今もしっかりと根を張る忘れえぬ様々な記憶としっかり対峙してこようと思う。
2006.08.13
世界の国の数、191程度。僕がこれまで訪れた国々及び地域ドイツ、フランス、スペイン、スイス、イタリア、バチカン市国、ポーランド、チェコ、オーストリア、ハンガリー、台湾、シンガポール、マレーシア、中国、アメリカ合衆国、韓国、ベトナム、タイ、インドネシア。未知の国:既知の国=10:1こうやってリストに書き記すことで世界の大きさと人間の小ささがよくわかる。これまで行かなければ良かった、或いはもう二度と行きたくないなんて国々は一つもなかった。そこにはいつも何かしらの発見があり、心が震える瞬間があった。ように思う。僕の出会ったことのない人々がリアルな日々の生活を営んでいるということ。それは僕が今生きているこの時代に、確かに世界の人々がともに生きているということを理解するということ。それだけでも知らなかった国を訪れる価値はある。と僕は思う。初めて海の外の世界に触れたのは20歳を過ぎてからだった。TVや新聞を通して示される海の外の出来事。10代を過ぎて20代を迎えてもなお、それらは常に僕の外側にあるものであった。僕の世界は日本だけであり、岡山であり長崎であった。それから10年にも満たない間に僕は海の外に一歩を踏み出し、そして今に至ってはその外なる世界でリアルな生活を営んでいる。不思議は縁(よすが)だと思わずにはいられない。どのような世界であれ、文化であれ、違いを見出すこと、多様性を理解すること。それは今までよりもほんの少しかもしれないけれど世界に参加したということになるんだろう。そして世界はまだまだ広く、あらゆる示唆に満ち満ちている。20代最後の年。その視座をもたらせてくれたあの国へ足を運ぼうと思う。奇しくも2006年ワールドカップはそこで行われる。祭りが終わり、夏を過ぎて鮮やかな秋となれば僕は青春の残り香を確かめにあの山にまた登るのだ。
2006.05.11
火曜日の夜久々にチームの練習に参加した。連休前から全く体を動かしていなかったため、かなり心肺機能が落ちているだろうとは思っていたけれど、まさかここまでとは。練習の最後はいつもミニゲームで締めるのであるが、もう最初から最後までキツサが抜けないままだった。いつもであれば最初の1、2セットが終わればしんどさが抜けて、体がハイになるのだけれどこの日は最後まで沈んだままだった。おかげでボールロスト、トラップミス、シュートミスのオンパレード。いやはや恥かしさこの上ない。かなりショックである。いつかこんな時がやってくるとは思ったのだけれど、総体的にみて今自分の肉体が指し示す体力運動能力曲線は緩やかな下降線を描きつつあるのではないかという、暗ーい気持ちに包まれてしまった。けれども肉体がいくら衰えを見せたとしても、精神は絶対に萎えることはない。と僕は信じたい。人間的な向上心をもってさえいれば、肉体がどのようなステージに至ったとしても、自分の愛するサッカーに対しては決して色褪せない情熱でもって向合っていける。小雨にしっとりと濡れたピッチ上で淡いナイターの灯りにほんのりと照らされたチームメイト達が躍動する様を眺めながら、僕はそのようなことをあれこれと思案する。
2006.05.09
労働節(中国版GW)休暇は熊本でのんびり過ごした。のんびりという言葉がまさにぴったりくるような1週間だった。今回の休暇は妻の友人の結婚式がメインではあったのだけれど、それを除けばさしたる予定はなく、そのようなわけで黒川温泉に僕と妻と義父の3人でドライブをかねて小旅行をした。黒川を訪れたのは2回目だったのだけれど、阿蘇山麓の山間にひっそりと佇むその温泉宿場の箱庭的美しさに僕は素直に感動を覚える。そして泊まった宿の客人をもてなす心意気にも。宿には10数個もの趣向を凝らした湯があり、僕は昔から自然の眺望を楽しめる露天風呂が大好きなので、迷わず露天風呂に浸かる。露天風呂で眼前を雄大に流れる滝を見てのんびりしていると、傍に浸かっていた男性が突然「スネーク。」と語りかけてくる。彼の目線の先にある岩場を見やると、茶褐色の縞模様の蛇が岩の隙間を抜け出ていこうとしていた。「自然とは人間の恣意を越えた先にあるものである。」などとわけのわからぬ合点を心に呟く。先ほど声を掛けてくれた男性。スネークという言葉の響きからから、アジアの何処かからきた外国人だろう。英語で話しかけてみる。韓国人であった。その後取り留めのない会話をする。黒川は2度目であること。黒川温泉は韓国でもとても有名であること。毎年大勢の韓国人旅行者がこの地を訪れること。自身は投資信託会社の社員であること。などなど。そんなささやかな会話の中にも僕の知らない世界があり、僕の知らなかった物事がある。だからこそ旅は楽しいし、異邦人との交流は心を解してくれる。なんだかとても懐かしい感覚だった。そういえば僕はもう随分と一人旅をしていない。温泉からあがると部屋で冷えたビールを飲みながら、義父と将棋を指す。0勝3敗。やれやれ僕は本当に将棋が弱い。夜は豪華ではないけれど、心の込められた丁寧な宿の夕食を頂く。夕涼みがてら、温泉街の小路を浴衣を着て3人で歩く。そのような訳で親子にとっても夫婦にとってもナチュラルで温もりに包まれた小旅行だった。
2006.05.06
パートナーの担当者2名とうちのスタッフ1名をつれて4人で会食。場所はワイタンの浦東側にあるイタリアンレストラン。Kitchen 初めて訪れたのだけれど、黄浦江に面したオープンテラスのとても開放感溢れる素敵なロケーションだった。ここは日本人オーナーで元々日本でも有名なイタリアンレストランらしく、店員さんも日本人の方が多くて接客態度も日本的な整然さを醸し出していた。ワインも料理も本当に美味しかった。とりわけピッツァは生地が本当に丁寧に作られていて、上海で食べたピッツァに中で一番美味しかった。あとアラスカ産の鱈ソテーも美味でした。でも一番この日僕の心が温かくなったのは、宴を囲んだ3人との語らい。3人とも中国人。パートナーの担当者2名はどちらも日本での就業経験があり、日本的文化にも造詣が深くまた応対にもある種の落ち着きや深みがある。同席したうちのスタッフにも付き合えば付き合うほど、その底知れない能力の高さに敬服する。本当にこの子が部下でよかったなと(笑)僕の社会人経験でも、ダントツで間違いなくNo1のエンジニアですね。もう宝です。本人は上海交通大学情報工学卒で、弟は復坦大学卒でその後UCLAで博士号取得後シリコンバレーで世界最先端半導体技術の開発に携わっているらしい。要はDNAレベルでも折り紙付です。IT関係の人間ばかりなのに、途中何故か文学の話で盛り上がり、村上春樹がどうとか、魯迅のあの作品がどうだとか、ワイルドスワンがやれどうだとか、そこから脱線し始めて、毛沢東は○○だとか、挙句には先方の1人が「実は私は両親から続く共産党員なんです」なんていうカミングアウトまででる始末・・・・・年代も近かったせいか、立場など関係なく本当にざっくばらんに楽しく愉快に会話を楽しめました。今日も感じたのだけれど、やっぱり国とか文化に関係なく、最後は人対人。個人対個人だなと。今日語り合った3人のような人間が現実にこの国にいることは、この国が間違いなく更に更に良い方向に向かうことになると思う。仕事に関係なく人と人の繋がりとして大切に大切にしたい方々です。
2006.04.20
心を貫いた小話の要約。==============================世界の果てに下放された母。それでも終わらない迫害の日々。過酷な農作業に明け暮れてなお、夜の批闘大会での容赦ない指弾。暗闇の日々に訪れたつかの間の親子の再会。やがて母のいる僻地から娘は去っていかなければならない。世界の果てから更なる世界の果てにいる迫害の父のもとに向かう為だ。娘が母の為に持参したささやかな食材。それらは一族が身を削って蓄えたもの。母は一切手をつけず、父の元へ託す。果てしなく続く荒涼とした黄色い砂塵の世界で、別れのトラックが来るのを待つ母子。今度別れたらいつ再会できるかわからない。もうこのまま永遠に会えないかもしれない。母は娘を行かせたくない。娘は母を残していきたくない。激しく互いの胸の内で聞こえる慟哭。隣人すら信じられない時代、希望も夢も一切は家族だけであった時代。全てを損なわれてなお、バラバラに引き裂かれていく家族。トラックは約束の時間を過ぎて未だ来ない。折りしもその日は旧正月。下放先でもささやかながら、春節を祝う食事が作られている。古来、中国において新年を祝う時家族で一緒に飲むささやかなスープがある。母は娘にどうしてもそれを食べさせたくなる。やがて歩いて片道30分はかかる小高い丘陵にある幹校に戻る母。そして母は喜び勇んで、けれども手に持った鍋をこぼさないように、娘がトラックを待つ場所に急ぐ。その時母の目には遠く眼下にトラックの荷台に足をかける娘が映る。娘にも今や確かに、丘陵の中腹に鍋を大切にもってこちらにやってくる母が見える。荷台に乗った娘には、今や母が鍋を捨てて駆けてくるのが見える。娘を乗せたトラックは出発する。やがてつい先ほど確かに娘と佇んでいた場所に母はたどり着く。娘がもうそこにいないのはわかりきっていたのだけれど、母はそうしないわけにはいかなかった。そこには黄色い大地が無限に広がっているだけだった。==============================母にとっても娘にとっても互いを思う気持ちは、もう信仰と呼ぶべき域に達している。これを「愛」と呼ばずしてなんと呼ぶべきかを僕は知らない。人間の精神は美しい。否、美しい精神を持った人間はどの時代、どの国であっても確かに存在する。それを鮮やかに示してくれたユン・チアンさんに感謝。
2006.04.04
上海で暮らすようになって3年が過ぎたけれど、僕はそれまで一貫してこの国とこの国の人々に対して「理解できない」という気持ちをずっと抱いてきた。例え僕自身がどれだけ自らの価値判断に譲歩や妥協を重ねても、決して折り合うことはないだろうという圧倒的な距離感がそこにはあった。けれどこの本と出会い、今僕が生きるこの国がどのような過去を紡いできたかを垣間見たとき、僕の「理解できない」という感情は変わった。一言で言えば、「道理」がいったのである。つまりそれまで僕の中に積もり続けていた「何故」や「どうして」という疑問の氷塊が、どこからやってきて、またどのように形成されたかが、自分の中で感情的に合点がいったわけである。社会と歴史に翻弄され続けた中国の人々。ワイルドスワンで描かれた真実を僕が思うとき、まさに今僕が生きているこの場所で生きる人々が背負い続けてきた過去の一片を理解するということであった。ワイルドスワンの多くの場面においては、ひたすらに人間の残虐性や暴力性が赤裸々に、けれど淡々と語りつくされている。でもね僕が、本当に魂を揺さぶられたのはそのような光景ではない。僕が今までの29歳の自分の人生において、読み解いてきたあらゆる書物の中で最も美しいと思える光景が確かにそこにはあったのだ。それは10年に及んだ文革という名の暗黒にこの国がすっぽり包まれた時代、確かに存在した「愛」の姿だった。あの闇の時代において、この本を描ききったユン・チアンさんとその実母が指し示した一切に、僕は根底から揺さぶられたのだ。続く
2006.04.03
心は激しく、魂の根幹から揺さぶられた。ワイルドスワン。ユン・チアン著 1993年に発刊された本書を僕が読み終えたのは、2005年度も終わろうかという3月末、上海から香港に向かう飛行機の中であった。筆舌に尽くしがたいというのはこのことなのだろう。描かれた全てが真実であることを考えれば、その物語はそれまで僕が見聞してきたあらゆる事象を越える壮絶な人間の物語だ。物語の舞台は中国。その時代背景は清朝末期から日本の侵略、そして第2次大戦、国共内戦を経て共産党国家の成立、文化大革命へと続く中国近現代そのままである。物語が僕に示した中国が辿ってきた紛れもない真実の数々。人間が人間をどのように損ってきたのか、人間が人間によってどれほど損なわれてきたのか、その連綿たる歴史の連鎖に僕は言葉を失う。人間はここまで残酷になれるのか、それでもなお人間はこれほどまでに崇高な魂を持ち続けられるのか。単純な僕はすっかりその世界に感化された。まさに冒頭の一語に尽きる。僕の魂は根底から揺さぶられた。そしてそれは劇的とまでは言わないけれど、少なからず僕の中国、ひいては中国人を見る目すらも変えたように思う。続く。
2006.04.02
【夢】= 中国リソースを活用して誰もやったことのないことをして新しい価値を生み出す。【戦略】=メーカが社内リソースを活用してオフショア開発を実現する。自社の経営判断に即して柔軟且つ安価にシステムを実装できる。社内リソースをというところが、ミソである。一般的なアウトソースを活用していては、技術蓄積もできずベンダーの言いなりになってしまうし、コストダウン効果もしれている。【戦術】1.「ブリッジは内部リソース」 その狙い=技術蓄積とコストダウン効果を最大限に2.「できることをやる」 その狙い=業務 技術両面で過去に経験をした領域であること3.「餅は餅屋にまかせる」 その狙い=下流(コーディング工程)は柔軟に外注技術者を登用。固定費削減。4.ユーザの息遣いを感じる その狙い=密なユーザとのコミュニケーションは成功の必須要素。定期的なレビューを細かく実施。(出張、TV会議、情報共有DB)実行時のポイント1.「仏となり鬼となる」部下のミスは、率先してユーザの矢面にたって誤り部下を守る。その代わり内部でのミーティングでは徹底的に指弾しその原因と再発防止の空気をチームに伝達させる。2.「スタッフとユーザとともに汗をかく」その意味= ユーザ部門への訪問時はどんなことがあっても必ず最後まで付き合う。→日本滞在中になんど会社の食堂で夕食を取り、日付が変わるまで悪戦苦闘したか。そうした時間をユーザとスタッフと共有していくと、不思議と目には見えない信頼関係が醸成されていったように思う。尾道ユーザ部門での最終納品を終えて、僕は本社IT部門のある大阪に向かった。その日の夜、部内の何人かと連れ立って昔良く通ったBARに行った。もちろん師匠もその中にいる。寡黙に4人の男達で、各々が思うままにグラスを傾ける。僕はラガブーリンのロックを空けると、マッカランをオーダーする。ふと横にいる師匠を見やる。暗い店内でキャンドルの灯りに仄かに照らされた初老の横顔。その時、あと2年ほどで一線を退く男の表情はいつもより綻んでいるように僕には思えた。
2006.03.23
時に厳しく、感情的に叱責したことも数え切れない、それでも真っ直ぐについてきてくれたスタッフ。ブリッジとして活躍した中国人ママさんSEは、今やその名はグループ全体に轟いている。開発チームはどこに出しても恥かしくない面々に成長した。会うたびに胃に鈍い痛みを感じたユーザ部門の強面部長。立会いの最終日の夜、それまでの強面が一片して温和な表情で「おー間に合ったじゃん、やればできるじゃん。」と息子ほど年の違う僕にそう言った。きっと彼なりの精一杯の労いの言葉だったのだろう。彼がプロジェクトの間中一貫して激烈な言葉で以って、プレッシャーを僕達に与え続けたその意味を僕は最初から知っていた。彼は彼の眼差しで僕等をスポンサードしてくれたのだろう。プロジェクトは幾度となく厳しい局面に晒され続けた。その度に決まって適切且つフェアな判断で僕に視座を与えてくれたシニアマスタの師匠。今思えば師匠がもし僕の側にいなかったとしたら、こんな無謀と言われても仕方ない挑戦的なプロジェクトが予算、納期、品質その3点揃った成功を迎えられただろうか?僕だけの力じゃない。このプロジェクトに関わった様々な人々が、みな追い風となって僕を包んでくれた。僕は本当にそう素直に思える。僕がやったことはシンプルだ。「夢を戦略に落とし込み、戦術を練り、そして実行に移す。」ただそれだけだ。続く
2006.03.22
この1年近く、仕事の中で常に最優先プロジェクトであった社内オフショア開発がなんとか今月納品を迎え、無事ユーザ部門での検収を通った。ユーザ担当者に渡した2枚の納品書に検収合格を意味する署名押印が押されて一部が手元に戻ってきたとき、僕の胸には形容し難い何かが翳めた。振り返るとこの1年はこれまでのジョブキャリアの中でも最も苦しくて、苦々しくて、そして濃密な時間だった。疑念や不満を抱えながら、それでもユーザをチームを部下を仲間を人間を中国人を信じ続けた。時にユーザ部門と正面からぶつかり合い、ユーザ拠点の部長から「お前等なんか所詮数あるベンダーのうちの一つでしかないんやっ。勘違いするなっ」などという罵声を浴びせられたことも1度や2度ではない。「ほんまに仕様がわかっているんかどうか・・・・・」「こんな品質では到底リリースできない・・・・・」など、ユーザ担当者の猜疑心や疑念の声は、真っ直ぐに僕の胸に突き刺さった。それでもこの日が来ることを疑わなかった。続く。
2006.03.21
家内が上海で働くことになった。まず最終的に決断をしたのは彼女なので、その意志を尊重したい。そう言うと何だか僕としては、あまり賛成ではないかのように受け止められるかもしれないけれど実はまったくその逆である。以前から、上海で何かしら仕事をするというのは、報酬を得るということ以上の何かになると僕は考えていた。異国で外国人と仕事するというのは、きっとその後の本人の人生にとって良き栄養となると僕は信じている。もちろん、本人にその気があればという前提の上だけれど。いずれにせよ、彼女が自分で考え抜きそういう決定をしたのは本当に良い選択だったと思う。だから彼女から勤務中に電話がかかってきて「面接受かってた。どうしよう。」という第1報を聞いたときは、なんだかね、本当に自分のことのように嬉しかった。彼女の生活がどういう風に変わっていくのか、ひいては彼女自身がどういう風に変化していくのかとても楽しみである。そして今でも理解はしてくれているとは思うけれど、自分が仕事をすることで、改めて上海で仕事をすることの難しさみたいなものを共通認識として彼女がわかってくれたら、互いの仕事の話などももっともっと現実感をもって話し合えるだろう。春は何かを始めるのには良い季節です。
2006.03.10
日曜日はサッカー友達の依頼で、日本人ちびっ子サッカーの上海選抜を決めるセレクションに選考委員として参加した。既に自薦、推薦などで絞られた25名程度の子供達から15名程度にメンバーを絞る。高校からサッカーを始めた僕としては、正直今の子供達のレベルが昔と比較してどうなのかはよく分からないのだけれど、少なくとも僕より上手い子がうじゃうじゃいる。(笑)いや本当に思わず唸ってしまうようなプレイを9歳とか10歳ぐらいの子供達がキレイにやるのである。左利きで鮮やかにステップを踏んでシザースしたりだとか、スペースに走りこむ子に併せてスルーパスを通したりとか、サイドでステップオーバーをして軽く相手をかわしたりだとか、とにかく選考とか抜きにして見ていて本当に新鮮だった。ちょっと大げさかもしれないけれど、何かこう可能性を感じさせてくれるわけです。小さな子供達がそれこそひたむきさや一生懸命さ、或いは緊張の中にも今自分が挑戦しているんだっていう気概を体一杯から放っているわけで、見ていて非常に気持ちいい。セレクション後に関係者で評価打合せを実施したら、やっぱり上位10名ぐらいはもう誰が見ても評価が高いわけですね。派手なプレイをするような子、華があるっていうのかな、そういう子は言い換えればわかりやすい。誰が見ても絶対的評価になるという意味合いで。極端だけれど例えばペレや、マラドーナや、ロナウジーニョはサッカー知らない人が見たって上手いとわかる。あれですね。その反対に注意深く見なければわからない、或いは細部に目を向けるとハッと気づかせてくれるような、そういうのはやはり1回や2回のセレクションでは見落としやすいのは確かだと思う。例えばデシャンやドゥンガやマケレレみたいな地味なシブーイやつね。だからこそセレクションの焦点は「如何に当落線上つまりボーダーにある子を拾えるか」ってことになるんだと思う。そういう1回見ただけでは見えてこない埋もれている才能を見出してあげるのも、また大事なことだ。と僕は思う。来週末は2回目(最終選考)が行われる。まだ僕が見えていない、気づいていない原石を探すべく、気持ちを新たにして選考に挑みたいと思う。
2006.02.19
「ねえペペ。君は毎日いつから働いているの?」「そうだね、大体夕方の5時ぐらいかな。」「店をたたむのは?」「朝の6時ぐらいだね。」「えっ本当に。じゃーとても長い時間じゃない。」「うん、それに朝の10時ぐらいに野菜や果物の市場に行って、その日の材料の仕入れをするんだ。この玉蜀黍も市場で仕入れてるんだ。それにこのパイナップルなんかも。でも一部の果物は僕の家で栽培もしているんだ。このドラゴンフルーツや、このマンゴーなんかも、うちで取れたものなんだよ。」「へー。すごい。家で栽培もしているんだ。ところでペペは結婚はしているの?」「うん。去年子供が生まれたんだ。」そう言うと、彼は布地でできた可愛らしい象の絵柄の携帯電話ケースから旧式の携帯を取り出す。そして待ち受け画面を僕らに見せる。可愛らしい子供の写真が画面一杯に映し出されている。「マーって言うんだ。」「可愛いね。男の子?」「うん。」「じゃー、つまるところ君は今とても幸せだ。」「うん。」彼は彼の愛する家族の為に働く。自分を勘定に入れずにただ真っ直ぐに。一生懸命に。ペペが思いついたようにおもむろに僕らに質問をする。「君たちは何処のホテルに泊まってるの?。」「ブラサリっていうホテルなんだ。ここから歩いて5分くらいだよ。知ってる?」「うーん、よく分からないな。そのホテルは一泊いくらぐらいなの?」僕と妻は顔を見合わせて、暫く算段ををして大よその金額を彼に言う。「えっー、とっても高い。高い。すごい高級なんだね。きっとそこは。」僕らは曖昧な表情を浮かべ、相槌をただ打つだけだった。「さあ、もうすぐ焼けるよ。バターはつけるかい?」ついに妻の待ち焦がれた玉蜀黍は仕上げの時を迎えた。妻は嬉しそうに頷く。ペペはまるで何かの印しをつけるように、優しくバターを塗り、もう一度炙る。そして新聞紙でサッと取っ手のあたりを包むと、妻に差し出した。「わー、美味しそう。ありがとう。いくら?」妻がそう訪ねると、「20バーツ。」とペペは答える。それは今まで我々がパトンビーチで何度か買ったことのある焼きもろこしで一番安い値段であった。僕と妻は当たり前のこととして30バーツを彼に手渡す。彼は受け取った金額が多いことがわかって、それを僕らに告げる。僕らは「昨日はこの値段で買ったから。」となんだか訳のわからない回答をする。彼は僕らの気持ちを察してくれたのか、それ以上何も言わずただ微笑んでそのコインを受け取ってくれた。「ありがとう。」「ありがとう。さようなら。」僕と妻はペペが焼いてくれた一本の玉蜀黍を食べながら、暗くなったソンロイピー通りを歩いてホテルに帰った。やがて房に実の一粒すら無くなった時、僕はこれから先このペペが焼いてくれた玉蜀黍以上に旨い玉蜀黍に出会うことはないだろう。と考える。歩きながら、玉蜀黍が焼ける間に我々が語り合ったことをこのままずっと覚えていたいと思った。あの時、どれだけ温かで親密な空気がペペと僕と妻の周りに漂っていたかを忘れるべきではないと思った。僕が「You're just in a happiness 」と問い、ペペが返してくれたあの頷きと微笑は僕の人生に確かに交差した何かだった。人間と人間が確かに繋がりあい、そこにぬくもりが灯されたことをずっと胸に抱いていたいと思った。そのようにして我らの夜は更けていくのだった。-完-
2006.02.09
焼きモロコシを静かに食べ終えた先客の白人青年達は、小声で二言三言会話をするとソンロイピー通りを南に消えていった。屋台の網の上では、先ほどまで薄い肌色だったモロコシは熾きに炙られて今や光沢のある黄色に変わっている。妻の為だけに焼かれたただ一つのモロコシ。それをペペは丁寧に焼き目を確認しながら、裏返したり、時には置く場所を変えていく。不意にペペは手を休めることなく、微笑みながら僕らに語り掛けてくる。「どこからのきたの?」「日本からだよ。日本の大阪からなんだ。」上海に住んでいることは何故だか伏せている自分がいた。「大阪?大きな都市だねぇ」「ああ。君はプーケットで生まれたの?」「うん、僕はプーケットで生まれてここで育った。以来ずっとここで生きてきたんだ。家はここからバイクで20分ぐらい離れた場所なんだ。」「ペペは、何歳?」「29歳だよ。」「えっ、僕と同じだ。同い年だね。何だか不思議だね」本当に不思議に思えた。世界には確かに目には見えない縁があって、それは人と人を繋ぎ合わせる。胸に温かみが沁みだしてくるのが感ぜられる。水商売風な化粧と身なりをした派手な女性二人組みが乗ったスクーターが屋台の前で止まる。1人がペペに何か話しかけると、彼は吊るされたフルーツ群の中から、マンゴーとメロンの房を手に取ると、器用に簡易まな板の上で、それらを一口サイズに切っていく。やがてナイロン袋にそれらを優しく入れて女に手渡す。水商売女は勘定を支払うとまたスクーターに乗って闇に消えていった。何処か遠くから犬の鳴き声が聞こえた。ふと空を見上げる。星の海が空には広がっている。今や小さな点と点はそれこそ僕の網膜の中においては、ゴッホがかつて「満天の星アルル」で描いたような世界となっている。そのような星々は、僕と妻そしてペペと彼の屋台を温かく照らし続けていた。パトンビーチの夜はまだ終わらない。続く。
2006.02.08
灯りは紛れもない屋台のそれで、しかもそこには僕らが捜し求めていた玉蜀黍が柱に吊るされているのが見て取れた。スクータに荷台を括りつけたこの地で良く見かける形状だ。既に網の上では先客である白人の若者4人が頼んだらしいモロコシが香ばしく焼かれている。やがてその屋台を1人できりもみしているらしい若いおにいちゃんが、僕らの姿に気づいて声をかける。「イラッシャイ、ちょっと待ってくださいね。もう少しでコイツが仕上がるから。」褐色の肌に飾らない微笑でもって彼はそう簡潔に告げると、またイソイソと目の前の網一杯に並べられたモロコシの焼け具合に注意を払っていく。彼の慎ましい仕事振りを暫く眺めた後、妻は人差し指を立てて、屋台の柱につるされた玉蜀黍を指差して焼きモロコシを一つオーダーする。可愛いピンク色のエプロンをした痩せて小柄なおにいちゃんは、笑顔でもって頷く。こんがりと焼き目がついて、見るからに香ばしそうなモロコシに、仕上げのバターをサッと塗って軽く炙る。そうして出来上がった4つ玉蜀黍が4人の白人青年達に手渡される。青年達は受け取りながら「サンキュー、ペペ。」と言った。おそらく屋台のお兄ちゃんの名前だろう。と僕は思う。僕と妻はいささか歩きすぎたので、近くの階段に腰を下ろし、4人が美味しそうに食べるのを眺める。青年達は何処から来たのだろう?あどけなさの残る顔立ちから察するにまだ十代かそこらだろう。おしゃべりもせず静かにその場で、ムシャムシャと食べはじめている。学生か或いはどこかの米軍基地で働く兵隊かなにかで、長期休暇を利用してこの地にやってきたといったところだろうか?不意に脈略もなく「スタンドバイミー」という映画が胸に思い出された。死体探しに出かける4人の少年達の物語だ。小さな街で暮らす4人の若者達。胸の内にそれぞれが大なり小なり暗いオブセッション抱える4人だ。彼らにとって死体探しは自分探しの旅でもあった。1昼夜かけた徒歩の探検旅行から帰ってきた4人にとって、郷里の町はあまりに小さなものに思えた。映画の最後、やがて作家になった主人公の1人がこうつぶやく。「あの12歳の時に出会った友人に勝る友人に出会うことは二度となかった。」そういえばあの映画の主役の1人はもうこの世にはいないんだっけ。今、目の前で寡黙に焼きモロコシを食べている4人の若者達。彼らはいつの日か、今日のこの日を思い返す時がやってくるんだろうか?或いは、4人で深夜のパトンビーチの屋台で食べた玉蜀黍の味を。続く。
2006.02.07
マッサージ屋を出ると、さっきまで元気だった義父は「明日の出発も早いのでもうホテルに帰って休むことにする」と告げて、僕ら二人と別れた。やっぱり先ほどの会話を漏れ聞いた父が、多少気を使ってくれたのだろうか?実際のところは良くわからないけれど、図らずも旅の最終日の夜に、僕と妻は気兼ねなく二人でゆっくりと街を散策する時間を持てたのだった。妻に何処に行きたいと訪ねると、返って来た答えは「屋台の焼きもろこしが食べたい」という無邪気なものだった。僕らがメインストリートに出る頃には日付も変わって、街の土産物屋やレストランは店じまいをはじめていた。つい数時間前までは、通りのあちこちで見かけられたヌードルやフルーツ、そして焼きもろこしなどを売る屋台が見かけられない。彼らも同じようにもう店じまいだろうか?しかしBARやその他の盛り場はまだまだ宴はこれからのはずだ。きっと屋台達もそちらの方に場所をシフトしたんだろう。と僕らは希望的観測を胸に、バーやディスコのような酒場が犇めき合う、パトンビーチの北、バングラ通りに向かった。夜更けのバングラ通りを訪れたのは初めてだった。ストリートに足を一歩踏み入れると、ロックやらポップやらの音楽が大音量でガナリ立ててくる。通りにびっしりと並んだBARはどれも窓やら壁やらがない、オープン状態で、タトゥーをした白人やら黒人やらが、テーブルの上に登ってビールジョッキを片手に踊ったり、なにやら叫んだりしているのが見える。店の奥のTVではイングランドプレミアリーグの試合がやっていて、マンUのルーニーが審判に悪態をついている。通りの至る所ではケバケバシイ身なりの女性達が、太った白人おじさんの群れとなにやら今晩の交渉事をしている。サイモンキャバレーでの仕事を終えたニューハーフの方々が、道の真ん中を闊歩しながら観光客の記念写真に快く応じている。僕の目に映る誰も彼もがギラギラとした得体の知れない何かを光らせていた。そのような原色のネオンで彩られた艶やかな通りを、玉蜀黍焼きの屋台を求めて彷徨う僕と妻。なんだかこの世界にとても似つかわしくない二人だ。と僕は思う。ヌードルやサテーの屋台は直に見つかったが、焼きもろこしの屋台は中々見つからなかった。喧しいバングラ通りをそのまま僕らは通り過ぎると、幾分かひっそりとしたソンロイピー通りに道を曲がる。僕も妻もはっきりと口には出さなかったけれど、もう焼きもろこしは食べれそうもないな。という諦めの気持ちに近づいていた。幾許かの寂しさを感じながらも、まあ親孝行のようなことも出来たし、のんびり温かいところでリフレッシュできたし、というような半ば旅を総括しはじめている自分がいた。いささか歩き疲れてぼんやりした目の前に、白人の若者達4人が取り囲んでいる灯りが見えた。現実に意識が戻ってきたとき、確かにその灯りは僕らが求めていたそれだった。続く。
2006.02.06
雑多で賑やかな大通りを抜けて、僕らは昨日偶然見つけた安くて旨い大衆食堂に今日も向かう。そしてお腹一杯タイ料理を食す。義父のお気に入りはさつま揚げに良く似た魚介類のすり身の揚げ物。僕はシーフードのフライドライスで妻は烏賊のガーリック炒めもの。それにしても、サーブされる料理全てがドンピシャで美味しい。そしてシンハビールとよくマッチする。このビールともまた当分お別れだな。と思うとついもう一杯お代わりなどしてしまう。お腹も満たされて、辺りを見回すと昨日と同じく、欧米人で溢れかえっている。ガイドブックに載っていないお店や穴場に出会うことは、なんだか自分だけの秘密の場所に出会えたようで嬉しくなる。そんなことも旅行のささやかな楽しみの一つだ。やがて、料理の質ともてなしに対して申し訳ないくらいの不相応な金額(僕ら日本人の感覚では)を支払って店をでる。そしてお土産物屋をひやかしながら、タイ式マッサージ屋へ。僕と妻はフットマッサージ。お義父さんは全身マッサージをオーダーする。やがてお義父さんが全身マッサージ用の部屋がある階上に消えたとばかり思って、僕は妻に語り掛ける。「それにしても御父さん元気だね、ほんと。」「そうだよね。今日も朝早くからあんなに泳いで、夕方もお昼寝もしてないっていってたからね。それにあの食欲。ほっんと元気ね。」「あの年齢(66歳)であんだけ泳いで、食べられるってすごいよね。僕の方がバテちゃったぐらいだもの。」「大丈夫。ちょっと疲れた?ごめんね。やっぱりそりゃー疲れるよね。」「全然。大丈夫だよ。でも御父さんには勝てないわ。」そんな会話をしていると壁を隔てたすぐ隣で、義父がマッサージの女の子と笑っている声が響いてきた。ひょっとして今の会話が聞こえていないだろうかと思わず妻と顔を見合わせ、僕らは黙り込む。普段異国で生活している僕らにとっては、ちょっとした親孝行のつもりだった。義父は郷里で1人で暮らしている。3人の子供は嫁ぎ、妻は8年前に先立っていた。義父がこの旅行についてどういう風に感じてくれているのか、ほんとのところはよくわからない。僕は僕で多少なりとも遠慮や気を使うように、義父も義父でそれなりに嫁婿に対して接してくれているのがよくわかる。義父は僕からすれば、本当に素晴らしい人格者だ。謙虚であり、若者の声にも本当に興味を持って耳を傾け(僕にはそう思えた)、そして決して自分の経験や知識をひけらかさない。ある程度の齢を重ねていくと人間というのは、多少なりとも年少者に対して横柄さやえばったところが見え隠れするものだけれど義父に限ってはそのようなところが微塵も感ぜられなかった。ただいつまでも元気でありたい。そしていつまでも世界から何かを学んでいたい。それを体現する人だ。けれども、彼ももう若くはない。そして僕らにしてみたところでいつまでも身軽な身でいられる訳ではないのだ。そう思うと、僕らとしてはそのように元気な父親と一緒に旅行をできたことは、この先もささやかだけれど、3人の中でずっと温かく残っていく何かになるのだろう。タイ式マッサージで身も心もここち良くまどろみながら、僕はそのようなことをアレコレと考えるのだった。続く。
2006.02.05
パトンビーチの夜は長い。だけれどそのことを僕らが知ったのは、明日にはこの地を辞そうかという段になってからだった。実質的には旅の最終日ともいえるこの日は、早朝から慌しいスケジュールだった。プーケットの南西に浮かぶラジャ島への日帰りシュノーケリングツアー。島と沖合いにて、たっぷりと熱帯魚と戯れる。そして太陽が西に傾きかけた頃、肩にヒリヒリとした熱痛を抱きながらホテルに戻ってシャワーを浴びる。本当ならば、そのままゆっくりとホテルのプールサイドでカクテルでも飲みながら、ゆっくりとしたいところだけれど、貧乏性でせっかちな3人(僕と妻、そしてお義父さん)は、すぐに夕暮れのパトンビーチに繰り出す。南北に2Kmほど続くメインストリートには、西は道路を隔てて直にビーチ、東にはびっしりとお土産物屋やレストランが軒を連ねている。昼間は暑さのためか人影もまばらだった通りには、今や大勢の観光客が闊歩し、僕らもそのような群集に混ざり合っている。通りを歩きながらビーチを見やると、日中あんなにもぎらついていた太陽が空からは消え失せて、その後を3日月がくっきりと鮮やかに浮かび上がっていた。夕暮れに海から椰子の木々を通り抜けて吹く風は、日焼けした僕らを心地良く冷ましていく。オープンテラスのシーフードレストランからは、何処かのバンドか演奏するボブ・マーリィーが流れてきた。そのお店の入り口には今日採れた魚介類達が、豪勢に盛られている。ロブスター、大きな鮮やかな熱帯魚、牡蠣、クルマエビ、ワタリガニ・・・・どれもさっきまで生きていたような艶やかさを保っている。客は好きなのを食べたい分だけ選んで、調理方法を指定するのだ。多くの場合、ただ素直に焼くだけで極上の味となる。通りに至るところにプレハブで建てられたお土産物屋のタイ人の男は、意味のよくわからない日本語で僕らに語りかけてくる。トゥクトゥクという軽トラの簡易タクシーが、道路のあちこちに路駐していて、彼らも同じように僕らを勧誘してくる。欧米系の一流ホテルのオープンカフェでは、白人達がもうカクテルで宴を始めていた。そのホテルの入り口辺りには、椰子の実を竿に担ぎ道行く旅行者に声を掛ける痩せた女がいる。女の呼びかけに答える者はいないようだった。彼女の横を通り抜けるとき、微かな匂いがしたような気がした。それはかつて確かに何処かで僕が吸い込んだ何かだった。しかしそれがいつで、何処だったのか、僕にはよくわからない。僕はいつも大切な何かを忘れながら生きているような気がする。そのようにしてプーケットはパトンビーチの夕暮れ時、世界は原色的に鮮やかで真っ直ぐでそしてなにより不公平だった。続く。
2006.02.04
最近世間を見回すと、某若社長(僕にはイベリコ豚にしか見えなかったが)率いる新興IT企業グループの不正が明るみになり、証券市場は騒乱の極みとなっている。僕もささやかではあるが個人投資家として、いささか不安な気持ちでこの事態を見守っている訳だがかなりの数の個人投資家が致命的打撃を受けたのではないだろうか?他方、事件を受けて直にこの某IT企業の株取引の制限をかけた証券会社がいる。マネックス証券である。当初マネックスは(今でもそうだが)、この措置について個人投資家を無視した行き過ぎた対応ではないかと政府関係から批判されたようだ。またこの措置により損を抱えたまま無残に沈みこんだ個人投資家の怨念もかなりあると聞く。しかし個人的には、「松本大社長よくやった。」と言いたい。細かな部分は割愛するが彼は自分の本業というものを理解している。何故ならようやく東証が昨日LD株を監理ポストにおいたことをとってみても、あくまでマネックスは時代の流れを察知(リスクを読み)し当然の行動をしたに過ぎないわけだ。結局筋が通っているわけです。つまりこの事件の教訓として個人的に感じていることは、どのような業界であれ本質的に中身のある企業というのは自らの本業をよくわかっているかどうかということだ。それからこれは何も企業に限ったことではなくて、投資という行為についても大いに当てはまるのではないかと思う。つまりそのIT会社の株が大暴落したことで、結果的に大量に保有していた個人投資家はメチャクチャ痛手を被るとする。(現にかなりいるようだ)そしてそれらの方々は、心無い罵詈雑言をそのIT会社の掲示板なりその会社のイベリコ豚社長のブログなりに浴びせまくっているようである。しかし僕が思うに、それは勘違いも甚だしいのではないのかということである。なぜならそうした誹謗中傷は結局は自ら(投資家自身)の責任の範疇にある問題であるわけだから。僕はそんな方々にこう言いたい。外なるイベリコ豚を詰るのではなくて、内なる自らのイベリコ豚を戒めなさい。と。そしてリスクを背負えないような人が、リスクゲームに身を投じるべきではないと。それができないのであれば、以前僕が書いたように、「雑魚が虚業で巨魚を得る」であるべきである。結局は雑魚として認識して雑魚レベルの商いで満足すべきである。要は宝くじですね。宝くじに借金して何百万もつぎ込む人はいないでしょう。ということでそういう観点から、手持ちの株式資産を今一度棚卸したいと思う今日この頃である。
2006.01.25
機械は壊れ、人は間違い、バグは残る。ある高名なPM(プロジェクトマネージャ)の言葉である。「曖昧性とのたたかい」名内泰蔵著。著者はその昔JRがまだ国鉄と呼ばれたころ、日本発のオンラインシステムである緑の窓口システム(通称マルス)の開発にも携わったという伝説的なPMである。僕は師匠から手渡されたその本の中で、冒頭の一文が大好きである。「機械は壊れ、人は間違い、バグは残る。」氏はその著書の中で、自らの体験的プロジェクトマネジメントのエッセンスを余すところ無く、プロジェクトマネジメントを知らない人にもわかりやすく論じられている訳だけれど、僕にとっては100の理論よりも、このたった1つの哲学的な言葉がどれだけ強く胸に響いたことか。とりわけこの中国でいつの間にかPM的な仕事をやるようになっている僕としては、非常に生きた言葉として共感できる。要は最想定されうるリスクを予見しその損害を最小に抑える手立てを講じるかということ。最近は「フェイルセーフ」などという言葉で語られることも多い。非常に考えさせられる命題だ。最近仕事上、グループ3社事務所統合、東アジアエリア情報セキュリティ対策など抱えてるプロジェクトで少なからず不備や問題があったわけだが、それも結局のところはリスクというものをどれだけ事前に想定できたかといことになるのだろう。言ってみれば想像力の問題といっていいかもしれない。いずれにせよ、もっともっとリスクに対する感覚を研ぎ澄まさなければと思う今日この頃である。また氏はこうも言っている。「困難でも負けずに突き進むこと」読みながら、思わず「うん、うん、そうだよな」と激しく同意である。ビジネスにおける水とパンとは想像力と根性である。
2006.01.19
今週末は上海市内グループ3社の事務所統合のためテンヤワンヤである。場所はポートマンにも程近い南京西路のとあるオフィスビル35F。折角の統合を単なる引越しに終わらせないためにも、出来る限り神経系(IT)の強化を図るべく、インフラの共通化/共同化とセキュリティ対策を企画して、あつぅーく経営陣に上梓した。まあ3月からは自分も働くことになる職場となるということで、個人的にも熱が入ったというのはあるのだけれど我ながらかなり自信作である。その設計とは1.データ系通信にかかわる諸々(スイッチ、国際回線ルータ、インターネット、ファイアウォール、プロキシ)は機器と構成を1本化。2.全フロア無線LAN化。(With Radius認証機能付き)3.構内PHS導入&電話交換機(PBX)の3社集約。4.ICカード(将来的なパソコン認証との連動も可能)による全フロアセキュリティドアロック導入。With勤怠システムとも連動。5.スタッフのパソコン全操作履歴管理システムの導入。6.Windowsのドメイン統合。7.会議室共同利用&会議室予約システム導入。当初は経営層も多少コスト面での心配をする声もあった。が、やはり最終的には上記が実現された場合のランニングコスト削減とユーザの利便性、そして管理強化(特にパソコン全操作履歴を監視できるというのはキョーレツ)それら全体効果の大きさに最後はご納得いただけたわけである。実は先週日本も本社機能を移転したのだが、はっきり言ってその上を言っていると自負をしている。設計もそうだが、やはりグループとはいえ思惑の異なる3社それぞれを口説き落とし、なおかつ安くは無い投資の3社間の調整など、それらトータルでの取り組みをやり遂げたことは、とても達成感がある。来週月曜からは第1陣として営業現法が業務を開始する予定だけれど、極力ケーブルレス化されてすっきりしたオフィスで働き始めたスタッフ達が「この職場は好き」と思ってくれたら、やっぱり嬉しいですね。ということで今週末は追い込みです。
2006.01.13
気が付けば2006年。年末はカウントダウン花火でも見ようかと妻と連れ立って新天地に行ってみた。あまりの人の多さに辟易して、シンプリータイに半ば避難するように入る。勢い頼みすぎた料理に「ダーパオ(持ち帰り)」などと店員さんにお願いしている間に、花火が上がり始める。秩序のない人の群れが大嫌いな僕のテンションが見る見る下がっていくのを察した妻が横で笑っている。12時が5分ほど過ぎたあたりで、もう僕ら二人はタクシーを捜してとっとと家に辞したのだった。車中では「よかったねー、すぐにタクシーつかまって」などとカウントダウンや花火などは二人の間で既にその記憶も消え失せているわけである。このようにしてポリシーもなく、祈願もなく、決意めいたものもなく、感傷に浸るようなこともなく2005年は終わり2006年は始ったのだ。年明けは同じ会社の比較的年の近いご夫婦をお招きして家で大富豪ゲームをやったり、サッカー仲間を招待してすき焼きをしたりなどこじんまりとして小幸福な正月だった。そして2006年仕事始め、ちょっとした懐かしい面々からの近況報告を知らせるメールが何通か届いていた。いずれも8年前、文部省プロジェクトで共にドイツで一夏を過ごした仲間からのものだった。彼や彼女からのメールから伝わるそれぞれの8年の歳月の意味。日本の会社を辞めて昨年末ベルリンで新生活を始めた者、昨年シーメンスへと転職を果たした者、ルフトハンザ航空のキャビンアテンダントとして元気に空を飛び続けている者。はたまた生まれ育った家で両親が去った後も、一人でその家の修復をしながらなんだか訳のわからない生活をしている者。愛知万博で働いた後、今は実家で次の方向性を見定めている者、そしてドイツ人の恋人と元気にマンハイムで暮らす者。あるいはシカゴで新婚生活を始めた者、大阪で市職員として働く者。メールの行間から滲み出てくる8年分の人生の軌跡がそれぞれにあった。そしてそれらの群像がかつて重なった夏があった。あの9人は僕の人生の視座だ。彼らは僕をそのように思ってくれているだろうか。わからない。ただ僕はあの夏より少しだけ衰えた足でもって今もサッカーを続けているし、いつかあの夏へと続いた何事かを物語ってみたいという気持ちを忘れていない。ローテンブルクのユースホステルの前で10人が並んで撮った写真がある。夏の斜陽が木々を通り抜けて乱反射して、皆眩しそうだ。僕もそんな眩しさに絶えかねて上空に顔を反らしているように見える。だけれど、9人は今も知らないのだ。あの時顔を上げなければ滂沱の如き溢れ出てくる涙を堪えることができなかったことを。
2006.01.11
今日僕が好きなサッカー選手が復活の第一歩を確かに記した。田中達也。(浦和レッズ所属。)74日前のJリーグの試合で、彼はアクシデントというには余りにも不条理な負傷をしてしまう。選手生命さえも危ぶまれるような凄惨な足首の脱臼骨折を乗り越えて、彼はグラウンドに戻ってきた。いや、本当の意味ではまだ彼は戻ってきていない。ただ彼はグラウンドのピッチを恐る恐るゆっくりと走ったということだけだ。だけれど僕は、それが彼がピッチに再び戻ろうと試みるための勇気ある文字通りの第一歩であることを思うにつけ、胸が熱くなる。こんな素人の僕ですら、怪我をしてサッカーが出来ない日々を今まで何度も経験してきた。素人の下手の横好きの僕ですら、そんなときは死せる屍の如き、魂の抜け殻のような虚ろな時間を過ごすのみだった。まして、もうひょっとしたらこれから先二度とサッカーができないという暗い呪縛を抱えて、先の見えない暗く長いトンネルを潜り抜けろと言われたら、僕だったらモルヒネかハシシでもやってるだろう。だけれど田中達也は、勇気をもって自分を信じて、確かに再びピッチを走ったのだ。やっぱり、スポーツは美しい。フットボールは勇敢だ。がんばれ田中達也。願わくば彼の再び始ったばかりの挑戦の帰結が、6月のドイツのピッチで結ばれることを願って。
2005.12.28
越してきた我が家のリビングに、ようやくお気に入りの絵を掛けた。「夜のカフェテラス」 1888年 Vincent van Goghこの絵に出会ってからもう10年が立つ。初めての出会いは、学生時代にさかのぼる。当時アルバイトしていた大型玩具店のパズルコーナーでたまたまこの作品を模したパズルを見かけたのだ。瞬間的に素敵な絵だと思った。僕は芸術をアカデミックに理解することには興味がないけれど、そうした作品が時として人の心の何かを揺り動かすことがあるということを知っている。作者はゴッホ。激しい筆致、抽象的な描写(僕はこうしたタッチが当時のフランス芸術の先端であった印象派と呼ばれるということすら知らなかった。)大胆な構成。夜の闇とカフェの灯りの対比。この絵に出会って以来、僕は少しだけ絵画に興味を持つようになる。とりわけゴッホの作品には、様々な美術館を訪れて本物を鑑賞したりもしてきた。ただこの「夜のカフェテラス」の本物にはまだ出会っていない。去年、バカンスで訪れたプーケットの雑多な通りにあった画廊で、この作品の贋作を見かけた。タッチがかなり本物に近いような雰囲気を醸し出していたことと、値頃だったこと。そして何より僕がもっとも愛する絵のエッセンスの一部でもいいから、手元においておきたいという衝動にかられて贋作を買った。以来、上海の我が家には、少し奮発してオーダーメイドした額縁に納めて飾ってきた。そして先月引っ越してきた新居のリビングに、今日ようやく掛けたのだった。何故この絵に強く惹かれるのか?正直なところその論理は自分でもよくわからない。ただこの絵には、その生涯を通じて心の乾きを潤すことのなかった一人の人間の生きた証が残っている。ような気がする。そう遠くない昔、欧州を一人旅したことがあった。リヨンを離れ、南に向う列車に乗った僕はアルルで降りる。2月だというのに、アルルは太陽の光が溢れていた。運河にも、コロッセオにも、飛ぶ鳥達にも、木々にも陽光が等しく降り注いでいる。100年前ゴッホが愛した街。ゴッホが生きた街。僕はガイドブックを片手に、迷路のように入り組んだ狭い旧市街の街を彷徨う。やがて視界が開けると、そこには広場が広がっていて、その正面にカフェはあった。僕は夜を待って、再びその場所を訪れる。絵と同じ構図、つまりかつてゴッホが描いたであろう場所からカフェの灯りを眺める。季節こそ違えど、僕の心を捉えて離さないあの作品と同じだ。カフェの灯りは煌々と明るく、それは人の温もりのようだ。だけれどそれを眺める僕の場所はただ冷たく、夜の闇に包まれた孤独な場所だった。少しだけ「夜のカフェテラス」を愛する理由がわかったような気がした夜だった。いつの日か、この絵の本物と出会いたい。その時まではリビングに掛けられた贋作でもって満足することにしよう。
2005.12.24
先週1週間は出張で尾道、大阪へ。尾道は僕の生まれた郷里にも近く、冬とはいえ穏やかな陽射しとかすかな潮風に包まれたところ。瀬戸内の小さな宝石のようだ。宝石のようだという表現は、普段無味乾燥したコンクリートと排ガスに包まれた上海で生活する僕にとって本当にそう素直に思えたのだ。かつて僕は18年間このような穢れない青い空と凪いだ海のキラメキの中で過ごした時代があったのだ。誰かがいった「故郷は遠くにありて思うもの」というのは真実だと思う。比較する何かしらが、実体験として自己の中にあるのとないのとでは、物事を捉える尺度を時として見誤ることにもなる。のかもしれない。告白をすれば、かつて僕はこのような郷里の風景を退屈だと思ったことさえあった。変わり映えのない町の風景が自分の限界のように思えた。でも歳月を経て、様々な場所を訪れ、多様な人間の営みを体感する過程の中で僕にとっての郷里、瀬戸内の風景は極めて普遍性をもっていることを知るのだった。やはりそれは僕にとってのかけがえのない場所なのだ。広島空港では高校時代から続く友人が迎えに来てくれていた。彼は高校を卒業して以来ずっと付き合いの続いている大切な友の一人だ。岡山、長崎、大阪、ハワイでの挙式、そして上海。僕の節目節目において常に彼はその場所に来てくれた。そういう友をもてたことを誇りに思う。彼は寡黙だ。多くを語らない。そして僕も多くを語らない。ただ無邪気な会話だけで充分だ。18歳から今まで何一つ変わっていない。同行のローカルスタッフと旧友と僕の3人で尾道ラーメンの老舗「朱華園」で中華そばを食す。ローカルスタッフと別れ、僕と旧友の二人で車を東へ走らす。やがて国道2号線を行く僕らの眼前に、瀬戸内の斜陽が迫ってくる。かつておそろいのブレザーを着て、ブルーハーツを聴いて、馬鹿話で盛り上がった時代があった。そんなかつての僕らをオブラートに包んでくれた風景が今も手を伸ばせばそこにあるのだ。僕は目を細めずにはいられない。冬の太陽の光りはやけに赤みがかっている。僕はこの光りを包み隠さずに受け止めてきたんだろうか?十字架を清算して(清算したとその時は思えたのだ)、フランクフルト空港のロビーで泣いたあの日のようだ。声を上げて泣きたくなることがある。だけれど泣きたい時に涙はでない。
2005.12.21
2005年12月3日(土)曇り後雨。僕は29歳になり、そして上海にいる。僕の生が続く限り、12月3日は僕という人間が生まれたという理由だけで極めて個人的な記念碑的祭日であり続ける。そして僕の生が終わりを見せれば、それはありふれた365分の1日に戻っていく。だからこそ1年に1回やってくるこの個人的祝祭を迎えられることは僕にとって嬉しいことだし、そのような特別な日に何かしら良いことがあれば、それはなお嬉しいものだ。この日、妻が久々に僕のプレイするサッカーの観戦に来てくれた。そして僕はこの日、彼女からの29歳の誕生日プレゼントである「真っ白いプーマのパラメヒコ」を履いてプレイした。曇天の肌寒いピッチで、僕はそのパールホワイトのスパイクの感触を確かめる。首位ドイツ相手の試合は引き分けだったけれど、思ったような活躍はできなかったけれど、ただその真っ白いスパイクでもってピッチを駆け巡れたことは、ささやかな喜びだった。雨が街をしっとりと濡らした夜、グランドハイアットのイタリアンにて二人で食事を取る。食前酒として僕はマッカランのロックを。お酒の飲めない妻はグレープフルーツジュースを。やがて注文した品を給仕がテーブルに運びおえると、僕達はいそいそと食べ始める。ルッコリとパルメザンチーズのフレッシュサラダ、バルサミコソース風味。スパゲッティ ナポリ風。リブステーキ。何とか添え。などなど。僕はやがて赤ワインのハーフボトルに切り替える。窓からはおもちゃのようなテレビ塔がキラキラと輝いていて、眼下には夜の黄浦江をのんびりと泳ぐ観光フェリー。対岸には雨に煙るオールド上海の建物がライトアップされて、浦西へと続く延安高路の上、車のテールランプは途切れることなく流れ続けていた。幸せだろうか?1+1=2であるような明確さを持ち合わせてはいないだろうその問いかけが、胸を翳める。幸せってなんだろう?Happy。Gluecklich。幸福。人間の文化や歴史がこんなにも多様なのに、僕はこんなにも遠くにやってきたのに、いまなおその答えを導き出せず、その意味するところがよくわかっていないのだ。あと1年たてば僕は30歳になる。20代最後の1年が始まったのだ。深い悲しみも底抜けの喜びも自己探求への萌芽も、自己実現への第一歩も、変わらぬ友情も続いていく愛情もみなこの10年とともにあった。深きロッソ色のグラス越しに透かして見える上海の夜の闇には見えない雨がなお音もなく降り続いていた。瞳を閉じる。僕はまだ世界がなんたるかを知らないのだ。
2005.12.03
週末は妻と連れ立ってアンティーク家具屋めぐりをした。きっかけは妻がフリーペーパーで見かけた家具特集の記事で、とても素敵な感じの椅子が掲載されていて、一度実際に実物を見てみたいということになったのだ。虹橋路を真っ直ぐ動物園方面に進み外環線との交差にその店はあった。敷地に一歩踏み入れると、すぐに膨大な古い家具群が目に飛び込んできた。近づいてみる。それらは皆等しく土埃を深く被っている。椅子やら棚やら机やら装飾品やら、その他なにやら用途が知れないような物まで、夥しい品数だ。それらは幌を天井につけただけの粗末な納屋の中、むき出しの土の上に横たわっている。地方のそれなりの旧家(だと思う)から信じられないくらいの安さで仕入れてきたであろう沈黙のアンティーク家具達。中には据付が悪くなったり、扉の取っ手がなくなったり、つまりは極控えめに言っても「家具としての機能を失っている」としか言いようのない物も多数あった。だけれど、そうした無数の家具たちがかつて確実に存在したであろう中国の何処か、僕の知らない人々の生活において、ささやかな人間の営みの一助となったということに、いつもの生産性のない密やかな勘考でもって僕は迎え入れる。かつてコミュニスト達がコミュニスト然とした時代が確実にあった。そしてそれはそう遠くない昔だ。そのような暗い時代(僕はこの国のコミュニズムは失敗だったと言い切れる)、彼らは時に暴力の影が主の生活に差し迫ろうとした時にも、或いは慎ましき清貧さでもって結ばれた家族の団欒においても、ただ物言わず黙々と自らの責務を全うしてきたのだ。彼らは彼らなりの歴史を持っていて、僕はその過去を知ることはできない。やがて家具屋の小姐が、僕らに気付いて伺いにやってくる。妻は雑誌の切抜きを彼女に見せる。切抜きの椅子は、磨かれて修復されていて綺麗だ。だけれど深い時の洗礼を受けたアンティークの存在感を放っている。やがて小姐に連れて行かれた場所には、記事と同じ椅子が数脚あった。だけれどまだ磨かれず、直されず、最初の役目を終えたままの姿で佇んでいる。僕と妻はその椅子を二脚とバティックをかけるための梯子のようなものもオーダーする。椅子はイメージよりもいささか背が高かったので、10センチほど足を切ってもらうことにする。出来上がり日を聞いて、前金を支払って、店を辞する。次回会うとき、彼らはセカンドライフに向けての心準備を終えているだろうか?コミュニスト達の手によって作られた椅子を引き継ぐ。僕や妻が年老いたとき、僕らは過ぎ去った上海時代の思い出を、そのような椅子に腰掛けながら、昔話に華を咲かせているのかもしれない。
2005.11.28
最近髭を生やしているんですが、これがまた微妙なんですね。もうかれこれ2週間ほど剃っていないんだけれど、口周りはそれなりに生え揃ったんだけれど相変わらずモミアゲや頬のあたりの生え方がいまいち。僕は顔自体がオボコイ(幼いの意)ので、あまり年相応に見られないことが多いので、髭でも生やしてみたら多少は年相応に見られるかなと。でもね、自分で言うのもおかしいのだけれどはっきり言ってこ汚いだけですね(笑)まあだからといってここまで伸ばして剃るのも癪なので、とりあえずもうちょっと伸ばしてみます。昔学生の頃に憧れたんですが、モミアゲからあごひげが綺麗につながるような生え方って誰でもじゃないんですね。僕の場合はどちらかというと、ブルガリア系かなと(爆)でもオボコイ顔で、ブルガリア系の髭・・・・・人間の多様性は本当に奥深いです。
2005.11.25
先週末、無事引っ越しを終えた。2年半住みなれた社宅を離れ、新居となる日系マンションへ一歩足を踏み入れるとそこは日本だった。懸念していた低層階による騒音も、2重サッシが効果を発揮しており問題ない。妻はすでに下見を終えていたのだけれど、僕自身はモデルルームのみしか見ていなかったので引越し日が新居との初対面だった。正直期待よりも不安のほうが先に立っていたのだけれど部屋に入った瞬間、そんな些細な不安などどこかに吹き飛んでいた。率直に言って、猛烈に感動した。(笑)設備も内装にも家具にも家電にも、そして何より今回色々ときめ細かい対応をしてくれたマンション管理会社の知人達にも。引越し当日は、堆く積まれたダンボールの開封もそこそこに、早速風呂に入った。肩越しまですっぽり湯船につかれたのはいつ以来だろう。本当にあったまる。これから毎日風呂に入るのが楽しみだ。そして翌日、山積みのダンボールが散乱した我が家もそこそこに、早速マンション2Fの喫茶店へ。目的は友人が絶賛するある料理を食する為。その料理とは「ラーメン(しょうゆ味)」。普通のこじんまりした社員食堂然とした喫茶ルームで妻と待つこと5分。やってきたその品物を早速食してみる。懐かしい味だ。郷里の笠岡ラーメンの老舗「シダ原」の味に似ている。控えめなチャーシューとメンマとのりのトッピングもそっくりだ。そういえば「シダ原」はもう数年前に店をたたんだんだっけ。ということは僕が今こうして食べているこのラーメンのルーツはもうこの世には存在しないのだ。「あらゆることは流れ去り、それを捉えることは誰もできない。」と僕の好きな作家は言った。だけれどその流れ去る物事のあとをそっと別の何かが引き継いでいくこともあるのだろう。かつて「シダ原」が世界からそっと消えていった。そして今、僕は越してきたマンションの小さな喫茶室の片隅で、「シダ原」の味を引き継ぐラーメンと出会う。それはもう邂逅と言ってもいいのかもしれない。妻は対面でカツカレーを美味しそうにほお張りながら、「また太ってしまう」などとひとりごちている。僕ら二人が座る席に面した窓からは、吹き抜けとなったプレイグラウンドが広がっていて、週末の父と子がボールを蹴っている。昨日までの秋雨に汚れた空気まで洗い流されたのか、空は薄いブルーを見せていた。やがて僕はスープの最後の1滴を飲み終えると瞼を閉じてみる。今、ささやけれど幸せな時間の中に僕はいる。
2005.11.20
僕はどちらかといえば読物として小説が好きだと思う。ジャンルとか年代とか傾向とかそういった区立ては取り立ててない。だけれど好きな作家や好きな小説というのは、数は多くないけれどそれなりにある。作家で言えば、日本人で古典的なものでは夏目漱石、宮沢賢治。現代では村上春樹、小川洋子、高村薫、山崎豊子、宮本輝。海外で言えばヘッセ、レイモンド・カーヴァー。自分としてはこれら作家達に特に関連性や共通性はあまりないように思う。ほんと僕の生活と同じで雑多ですね。今日はその中で、レイモンド・カーヴァーについて少し。もともとのきっかけは、村上春樹氏が翻訳を手がけていると知って、長崎での学生時代、中古書店で買ったのがその始まりだったと記憶している。その時購入したのは中公文庫版の「足元を流れる深い河」と「夜になると鮭は」の2冊だった。今では廃刊になっているちょっとした年代物だろうと思う。背表紙の裏をめくるとモノクロの訳者村上春樹のポートレート。当時の僕は20歳かそこらで、村上春樹の小説の大ファンだった。今でもそうだけれど、村上さんというのは極端にメディアへの露出が少ない方だ。当時僕は、氏の作品に出会って以降、折に触れては書籍やその他で氏の足跡やその人となりを探っていた。だからその薄暗い古本屋で思いがけず村上春樹氏の顔と出会ったことは、少なからずの興奮を僕に呼び起こさせた。そのような訳で僕はその2冊の中古文庫本をレイモンド・カーヴァーの作品だからではなくて、村上春樹氏が翻訳をしていて、尚且つ氏の写真が掲載されていたから買ったのだった。若者というのはよくわからない動機でもって行動するものである。しかし、そのような経緯でもって出会ったカーヴァー作品だけれど、僕はまた違った意味で彼の作品に深く共鳴し、以来幾度となく読み返すこととなった。2冊ともまず題名の響きが文句なくすばらしい。この2作以外にも魅力的な題名を持った作品がある。「僕が電話をかけている場所」「愛について語るときに我々が語ること」などなど。極めて詩的である。なんだかこう文章の裏にイメージが浮かび上がるんですね。実際のところ、レイモンド・カーヴァーは短編小説が割合有名だけれど、少なくない詩篇も残している。まあ有名な作品や彼の作風などは、今更僕などが説明する必要はないわけで、今日は個人的に好きな佳作について少し。「22歳の父の肖像」。これはレイモンド・カーヴァーの自叙伝だと思われるのだけれど、当時の僕は極めてその作品と作品を書いたレイモンドに共感したんですね。その作品中にある詩篇がでてくる。詩篇自体はここでは書かないけれど、それはもう間違いなく、リアリティなんですね。それも一般論ではなくて、極めて限定されたある種の特別な状態に陥っている人間だけに通じるような。当時の僕は繰り返し繰り返しその詩節を読み返した。読むほどに味わい深くそれは堪らないほど真実をもって僕の胸に響いた。なんだかレイモンドが傍にいて語りかけてくれるように。「誰でもね、人生でもっとも多感な時代には多かれ少なかれ複雑で多少込み入った体験をするものなんだよ。大事なのは受け入れるってことだ。自分自身を。そして自身に通じる一切をね。」そのようなわけで僕はこれからも、今は亡きレイモンド・カーヴァーという作家と彼の残した作品群を愛好していくのだろう。
2005.11.11
現在僕は会社保有のマンションに住んでいる。いわゆる社宅というやつだ。2003年にこの地にやってきて以来、最初の2ヶ月間のホテル住まいを除けば、ずっとこの社宅で暮らしてきた。かれこれ2年半の歳月をここで暮らしてきたことになる。最初は独身。やがて結婚して妻との共同生活。そして今年からはウサギが1匹加わって、今は2人+1匹のそれなりの所帯持ちである。住めば都とはよく言ったもので、この2年半恙無くそれなりに快適な生活をさせていただいた。しかし会社の方針で保有不動産の売却が決定したので、いよいよ住みなれたこのマンションから出て行くことになった。名残惜しさよりも、上海で初めて住宅探しをする楽しさ(最初の社宅暮らしはほぼ強制で選択肢がなかった)のほうが勝っているのが正直なところだ。10月くらいから色々と物件を探ってきたわけであるが、最終的に今住んでいる虹橋地区のとある物件に決めた。しかし今回家探しをして改めて感じたのだけれど、本当に最近の上海不動産の価格上昇にはびっくりする。外国人向けのそれなりに安全性/利便性のある場所となると軽く2000ドルを越えたりする有様である。向こう3年ぐらいはこの過熱は当分続きそうな気配である。さて次の住処であるが、決定理由は色々とあるのだけれど、大まかに言えば1.地下鉄駅が近い(来春開通予定)。2.日本食材店やレストランが界隈に豊富。3.ジムやプールなどの共有施設が充実。4.知人がマンション管理会社に勤務している。5.知人が住んでいる。6.兎OK(ホンマは×だけれど便宜図っていただいた)7.ベランダに兎用の柵をつけてもらえる8.水が安心。などなど。逆にネックは階層が低い(4F)ところ。いずれにせよ、引越しってなんだかわくわくします。
2005.11.04
J-Asia in Korea。アジア各国の日本人サッカーチームが1年に1回、一堂に会して行われるサッカー大会。今年で9回目を数える今回は韓国はソウル近郊の水原で開催された。集まった10カ国11チームの中で、僕の所属する上海チームは見事優勝を勝ち取った。思い返せば、昨年度は決勝でバンコクに惜敗。絶対バンコクに雪辱を果たしたいと思って挑んだので、決勝でPK戦の末同じバンコクを破ったときは、本当に嬉しかった。ちなみにPK戦では、僕は5人目まで蹴って勝敗が決まらない状態でサドンデスに突入してから、急に足が痛くなって泣く泣く蹴らなかったけれど。(笑)大会前に個人的に立てた誓いのうち、1.優勝2.バンコクを倒す3.2大会連続の得点王1と2は達成できたのだけれど、3は達成どころか結果的に無得点となった。大会前夜、チームメンバーが集って行われた決起集会でも僕はこの3つを高らかに宣言していたので、非常に恥かしい。やはりあまり大きなことは言わない方がいいですね。だけれど得点王の代わりかどうかは別にして、メンバーが僕にまた新しい称号をつけてくれた。「オフサイド王」そりゃー、1試合に5回もオフサイドにかかってりゃー言われますわな。(笑)まあ、とにかく優勝は最高ですね。また開催国となった韓国は非常に個人的に気に入りました。料理は焼肉、ビビンバ、屋台の麺、キムチ、雑炊のようなもの・・・・・何食っても超旨い!街も僕らが宿泊したホテル界隈は、非常に整備されていて歩いていても気持ちが良かった。またちょっと足を伸ばした東大門辺りは、小さなお店や屋台やらが密集していて、とても庶民的でおもしろかった。そして極めつけは、韓国の人々。会う人会う人、皆いい人ばっかり。親切だし、温かいし、スマイリーだし。やっぱり中国大陸生活が長い身には、かなりこの人間的なトリートメントには甚く感激しました。
2005.10.30
今日、敬愛する師匠より興味深い記事をいただいた。―開発拠点、中国から国内に―(記事要約)「ある東京のシステム開発会社が中国のソフト開発拠点を売却し、その代わりに九州のとある同業者と組み、技術者確保や業務委託で協力を得る。日本でも地方であれば東京と比較して開発コストを3割程度は低く出来るとみている。今後も地方の同業者と提携を広げ、開発費を抑えつつ技術者確保を行っていく。」という内容だった。現在僕が仕事で携わっているメインミッションに対するまさにアンチテーゼとも言うべき内容である。確かにモノ作りの世界においては、既に先進的な企業ではそうした試みは既に実施されたり戦略としてPRされていたりする。シャープの亀山工場の液晶パネル一貫工場しかり、キャノンの大分での大型工場設立しかり。しかしソフト開発の世界において、中国を撤退して国内回帰という話は僕にとっては初めてだった。現在ソフト開発業界では顧客からの熾烈な価格値下げ圧力に対して、大なり小なりその解決策として中国をはじめとした海外ソフト受託開発=オフショアにその活路を求めている。しかし僕がこれまで収集した情報から出てきた答えは、その多くが苦戦(コスト削減効果が当初目標に程遠いという意味合いにおいて)しているという現状だった。しかしそれでも開発体制や開発手法の整備強化を進めていけば、ゆくゆくは充分な効果を生み出すだろうという期待とも願望ともとれる想いをもって、その多くは今もオフショア開発を続けている。そう考えていた。だが日経産業新聞のかなりの紙面を割いて掲載されていたその記事は、オフショア開発の将来性に一石を投じるものだった。面白い。と僕は思う。いつの時代であれ、どのような世界であれ本流があれば支流がある。民主政治の世界に与党と野党があるように、サッカーのフォーメーションに3-5-2があれば3-4-3があるように、旅行でハワイが好きな人もいれば、アフリカ大陸が好きな人もいる。といった具合に。殊ビジネスの世界において重要なのは、自分(自己が属する組織)が勝ちきることだ。と僕は思う。今回の記事を読み僕は改めて、自分達の目指す方向性は間違っていないのか、そしてその勝ち目はどうなんだという自問自答をした。だけれど僕には一寸の迷いもない。昔(といってもつい1年ほど前だが)社内経営塾で学んだ戦略とはという根本的な問いかけが胸をよぎる。「戦略とは時代の流れを把握し自社の強みを発揮して同業他社に対して継続的差別化優位性を築くことである。」僕のチームは、この条件をなお失わずギラギラと輝いている。純粋なメーカー自身がオフショアを自社リソースをメインにやろうという話は、ほとんど皆無に近い。だからこそわくわくする。ちなにこの記事を僕に送ってくれた師匠は、7月まで香港駐在で東アジアITの総責任者だった。僕を上海に引っ張ってくれた方だ。今は本社にもどりシニアマスターとしてITの技術領域の実質トップとしてご活躍されている。師匠とは入社以来の付き合いであるが、今なお僕のよき指導者であり理解者であり続けていただいている。ややもすればすぐに突っ走る僕に良い意味でバランス感を与えてくださる。よき理解者に恵まれるかどうかはサラリーマンにとって、とても大事なファクターだと思う。
2005.10.27
久方ぶり(おそらく3ヶ月ぶり)に土日連続でサッカーをした。土曜日は上海国際リーグ VS フランス戦。日曜日は上海浦東プレミアリーグ VS 中国人チーム。となる予定だったが、対戦チームがこなかった為、急遽紅白戦。土日に通じて言えることは、どちらも良質な芝生のグランドでのサッカーということだ。晩夏とも秋の入り口ともどちらにも取れるような気候が突然、秋真っ只中に移ろった10月の週末。ジャージを上下に着こんでも、日が翳れば寒さが身をじわじわと侵食していくようなそんな季節。見上げる秋の空は遥か高く、陽射しは薄いヴェールに包まれたように淡く、風は爽やかさそのもの。そして目の前に広がる青さをまだ保っているピッチ。対戦相手は、皆外国人。サッカーをするのにこの上ないシチュエーション。だと僕は思う。良いプレイができればなお幸せだし、チームが勝てばさらに嬉しい。もし誰かから上海で一番楽しいことはなんですか?と問われれば「サッカーが良質な芝生の上で目一杯できることです。」と答えるだろう。そして10年後や20年後に上海時代を振り返ったときにもその答えは変わらないだろう。今週末はいよいよJ-Asia in Korea。バンコクに昨年度の借りを返すこと。優勝トロフィーを上海に再び持ち返ること。そして二度目の大会得点王をとること。ささやかな野望を胸に期し、今週末韓国に向かう。
2005.10.24
後の人生のふとした瞬間に過去を振り返ったときですら、2005年ほど今までの人生において社会的な災禍と隣り合わせになったことはないだろう。と僕は思う。・4月16日(土)かぎりなく暴動に近い反日デモ行進at上海・10月1日(土)爆弾テロatバリ前者はまさに真っ只中でその一切を体験し(僕の住んでいるマンションはあのデモの中心に在った)、後者については災禍の翌日に休暇の為、島を訪れたのだった。あのような爆弾テロがあった翌日に、それを知った上で(もちろん詳細まではわからないとしても)旅行を決行することは確かに難しい決断だった。爆弾テロの翌日以降、日本発のツアーは随分とキャンセルした方々がいらっしゃったと聞く。だけれど僕ら夫婦は、最終的に行くことを選び結果的に大きなトラブルもなく旅行を終えることができたのだった。島での滞在期間中、多くの時間を僕らはただホテルに閉じこもって鬱々と過ごしたわけではない。ラグーンを形成したホテルのプール、隣接するプライベートビーチ、パラセイリングやシュノーケリングをはじめとしたマリンスポーツ、激流を舞台としたラフティング、芸術の村ウブド訪問。アクティビティや訪れた場所だけに限ればごくありふれたビーチバカンスだろう。だけれどその行程において僕らを絶えず包み込んでいた、島に横たわる空気をどう形容していいのかを思案するとき、言葉は失われる。振り返ってみると奇妙な旅行だった。島を渡る風は爽やかで、空には一片の雲もなく、ヌサドゥア湾の海は穏やかに凪いでいる。トラジャワ川は上流から支流に至るまで流れの速さは変わっても等しく清流であり続けた。ウブド郊外に広がるライスガーデンは少年時代の故郷の光景とダブって見えた。ナシゴレンは如何なる場所で食べてもひたすらに美味しかった。触れ合った島に生きる人々は皆、褐色の肌に飾らぬ打算のない笑顔でもって僕らをもてなしてくれた。僕の五感でもって伝わってくる島の一切は、生命力に満ち満ちていて多くのツーリストを惹きつけて止まない理由がそこにはあった。そのようにして世界が鮮やかであればあるほど、僕はなお一層目には見えない何かを思わずにはいられなかった。僕の敬愛する作家が作品の中で言っていた事が強く思い出される。「死は生の対極にあるのではなく、その一部である。」と。バリが圧倒的な生命力に満ち満ちた世界であればあるほど、尚一層その言葉は強く僕の中に響いた。そのような感覚は、かつて父を喪ったあの二十歳の時代以来、久しく体験したことのないことだった。世界はいつも生死でもって回り続ける。地上の楽園と揶揄される、かの地も例外ではない。だけれど、それでも彼の島に太陽は昇り、星は瞬く。
2005.10.08
阪神が昨夜セリーグ優勝を決めた。生まれてからずっと阪神ファンの僕としては嬉しいことこの上ない。1986年、バース、掛布、岡田を要したダイナマイトの如き圧倒的な打撃力で相手チームを薙ぎ倒して決めた優勝。当時小学校3年だった僕はブラウン管越しに見る虎戦士達の勇姿に子供ながらに胸を熱くしたものだ。そこに至る苦節の歴史を知る親父はそれ以上に感無量だったようだけれど。そしてそれから10数年におよぶ長き苦悩の低迷期を経て、2003年闘将星野監督が率いて21世紀最初の優勝を果たす。ただ残念なのはその瞬間を僕は上海にいて、優勝の空気というか熱気を現実的に体験できなかったことだ。そしてそれから2年。まだ僕は上海にて、今回も優勝をNHKのBSニュースの僅か1分たらずの中で知る。でも本当に嬉しい。惜しむらくは普段は軽蔑して敬遠しがちの民放の派手な演出がこの地では見られないので、全国の阪神ファンの熱狂振りや街の熱気やそういった雰囲気があまりよく実感として伝わってこなかったことだ。こういうときは、ああいう民放の馬鹿丸出しの演出が妙に心地良い。結局僕もミーハーなんですね。今回の優勝は星野氏から勝者のDNAをしっかり引き継いだ岡ちゃんこと岡田監督が見事にチームを纏め上げた完成度の高い優勝だ。と僕は思う。本当に今期の阪神は横綱相撲じゃなくて横綱野球だったと思う。打ってよし、投げてよし、守ってよし。他方かつて球界の盟主といわれた巨人の凋落ぶり。僕の記憶の中で、とりわけ多感な青春時代に見た阪神対巨人戦などは、全く今年の逆であった。阪神が一生懸命、足や犠打やシングルヒットで必死に取った先制点も、あっという間に巨人のホームランや連打でメッタメッタにされて、ラッキーセブンの風船が飛ばされる頃には、もうチャンネルを変えていた。ということは数え切れないくらいあった。それが今は、巨人の名も知らないような若手(極めて爽やか系)が一生懸命バットを短く持って、ボールをゴロで転がして一生懸命一塁まで疾走する。阪神のピッチャーが面白いようにそんな小粒たちをあしらう。そして巨人のピッチャーが放る球は見るからに勢いのない棒球ばかりで、それを面白いように縦縞の精鋭が打ち抜いていく。青春時代から今日に至るまで、僕は阪神を堪らなく愛しているのと同じくらい巨人が大嫌いだった。だからいつかはこのような日が来て欲しいと祈っていたのだけれど、実際その現実をみるとなんだか寂しさを感じる。やはり強い者を倒すからこそ野球も他のスポーツも面白いんだなと。ところで強い阪神は、岡田監督である限り当分続きそうだなと思う。岡田監督は理論派とか卓越した戦術家とかっていうイメージではないのだけれど、なんだか人間力が非常にある方だなと。優勝を決めて甲子園球場の空に舞った監督と、胴上げをする選手の屈託ない笑顔を見ていると、岡ちゃんが本当に選手から愛されているのが伝わってくる。僕はつくづく阪神タイガースのファンでよかったと思う。
2005.09.30
昨晩NHKのNスペで「イトーヨーカドーの改革」が取り扱われていた。特集の内容もNスペらしい切り口と構成でもちろん興味深かったのだけれど、それ以上に興味をそそられたのが、ある男性の方だった。現イトーヨーカドー取締役 執行役員衣料事業部長 藤巻 幸夫さん。その人である。以前も経済誌か何かでお目にしたことがあるなと思っていたのであるが、映像で見たのは初めてだった。ブラウン管越しにも店舗改革の志をもって躍動される姿からは氏の強いオーラが伝わってきた。光っている人というのはオーラを持っているものだと常々思う。とにかく文句なくカッコイイですね。氏はお世辞にもスマートでもなく長身でもなくハンサム顔でもないと思うのですが、魅力があふれているなと。行動派はやはり素敵ですね。
2005.09.27
先週末は旧友とここ上海で再会した。彼とは中学2年からの付き合いになる。中学卒業後、お互い進路は別々の道を歩んできたが、折に触れて再会したり、電話で連絡を取り合ってきた仲だ。今回、彼が出張で上海に来ることになり時間の都合をつけて久方ぶりの再会をこの地で果たすことができた。中秋節の夜、妻と連れ立って旧友をホテルに迎えに行った後、久しぶりに訪れた台湾料理レストランは雑多な人で溢れかえっている。僕らは4人掛けの席に座り、青島ビールで乾杯をする。4年ぶりに会う彼は、彼のままだった。4年分きっちり齢を重ね、29歳の男の顔を持った旧友が僕の目の前にいる。それは僕にしてみたところで同じことなんだろう。やがて給仕に料理を注文し終えると、僕らはいささか照れながらお互いを見やる。そしてどちらともなく、はにかみながら「なんだか不思議だな」というような言葉を交わす。確かに不思議だ。14年前、小さな瀬戸内の田舎町の片隅で、毬栗頭でそれでも精一杯お洒落や流行やらを追いかけて好きな女子の話で胸いっぱいだった、あの二人の少年がこうして上海で再び会うことになろうとは。僕は思うのだけれど、過去に確かに交叉した糸がまたいつの日か交じり合うそういう瞬間は、人間にとってささやかだけれど幸せな時間だと思う。料理が運ばれてくる間、僕は彼に中国そして上海の印象を尋ねる。彼は彼が感じた通りを言葉に乗せて答える。僕はなるほどという感嘆でもってそれを聞く。そしてお互いの近況やら、地元の古い仲間(少なくとも僕にとっては)の話やらがその後を引き継いでいく。僕の知らない、だけれど確かにかつてそこに暮らした郷里の話だった。僕の知らない、かつてはよく知っていた仲間の話だった。妻は僕の横で静かに、だけれど楽しそうに、そんな僕らの会話に聞き入っている。僕らは青島ビールをお代わりする。そして意味もなく2回目の「乾杯」をする。彼は坦々面をすすり、僕はワンタンを食べる。妻は妻で辛揚鶏肉を頬張る。そのようにしてささやかな中秋月の夜は更けていった。おなかと心が美味しい料理と御酒と語らいで満たされたりなどして。レストランを出ると、上海では珍しい晴天の空に14夜の月がぽっかりと浮かび上がっていた。店の前には偽物タバコの行商が露店を広げていて、僕らを勧誘する。彼はタバコが切れたのを思い出して、「マルボロは売っとるかーのー」と岡山弁で僕に聞く。「おーあるでー。ちょっと待っとけーよー」と僕は威勢良く答える。僕は広げられた品物からマルボロを探し出して、交渉する。大げさに僕らが「高い」と言って怒ったふりで立ち去ろうとすると、観念したように行商は僕らの言い値でタバコを投げ出す。この地におけるありふれた光景だ。そして月夜の道を僕ら3人は歩き始める。買ったタバコを吸い始めた彼は「なんだか味が違うのー。」と独り言を言っている。そんな彼を見ながら僕と妻は目を合わせて、笑みを浮かべる。やがて歩きながら限りなく真円に近い月を見上げると、僕はふと自分が今正しい方向に向かっているのだろうかと思う。僕は正しい方向に歩いてきたのだろうか。僕は間違った方向に生きてきやしなかっただろうか。昼間の秋老虎はとっくに冷めて、風いささか肌寒かった。僕はそのような奇妙な冷熱を胸に懐いて、妻と旧友とともに月夜の道を進むのだった。
2005.09.21
今、虹橋空港のシャロンにてこの文章を書いている。何故か?生まれて初めて、飛行機に乗り遅れたからだ。単なる寝坊や自分の怠慢からくることが原因であればあっさりあきらめもつく。だけれど、自分の力ではどうしようもないことだったりすると、もう怒りの矛先を何処にぶつけていいのかわからずただ遣る瀬無さが胸に体積していったりする。今回がまさにそう。普段であれば自宅から空港までは、たかだかタクシーで15分もあれば充分の道のりである。だのに、今日は朝9時30分に出て、空港に着いたのは10時30過ぎ・・・・凄まじいほどの交通渋滞に巻き込まれたからだ。例年、国慶節前のこの時期は確かにいたるところで工事やなにかをやっていて混みやすいというのはある。しかし今回のはもうひどすぎる。平日の朝から、市内と市外の要衝ともいうべき幹線道路の3車線を1車線ふさいじゃったりすれば交通マナーのマの字もないこの地でどういう状態になるのか当局は想像できないわけじゃないでしょう。それを平然とやっちゃっているのである。松田勇作(故人)風に言わせれば、「なんじゃこりゃ?」である。で、予定していた飛行機に間に合わず、次のフライトをとりあえず抑えてシャロン(喫茶店)でマッタリしている最中なのである。今日の午後からの予定もすべてリセットで、出張先に色々と予定変更の依頼をするにしても、こっちが悪くないとしてもなんだか後ろめたさを感じちゃったりする。しかし交通渋滞ほど、不毛なものはありませんね。時間を失う。という感覚がこれでもかというほど伝わってきますね。とはいえ、起こったことはもう起こったことなので、とりあえずシャロンでメールチェックや資料作成をしながら、気持ちを切り替えようとしている次第である。あと・・・・・今回もまた例のごとく暴れちゃいました。タクシーの中で。女性の運ちゃんでしたが、ゴメンナサイね。あなたは悪くないのにね。でも交通渋滞を迂回するぐらいの機転を利かせてくださいね。次回は。
2005.09.14
バカンスまであと1ヶ月である。そろそろ本腰を入れて計画を練らねば10月の国慶節(中国の祭日)にどこにもいけずじまいということになりかねない。実際今年5月の労働節の折には上海で何をするでもなく暇を持て余した挙句、近所のペットショップでウサギを衝動買いし、それ以来住んでいるマンションがペット厳禁にも関わらず、こっそり飼育をしている。飼い始めて2ヶ月ぐらいしてから、いきなりマンションの至るところに張り紙やDMなんかで、「○○はいかなる動物の飼育及び持ち込みも堅く禁止されております。万が一規則を破った云々」のお知らせがあった。このマンションに住んで2年半になるがこのような警告は初めてなのでさすがにたじろいだ。これは間違いなく、管理本部がマンションの何処かの部屋で何か動物が飼われているという証拠もしくはそう確信するに充分な情報を掴んだとしか思えない。思い当たるフシといえば、妻が不在中の何日か、ウサギ小屋の掃除をやることになった僕が、糞尿をフツーに各フロアのゴミ箱にぶち込んでしまったことが漏洩してしまったのか? というよりもその警告が張り出された当日、妻は絶対そうに違いないと僕を激しく詰った。僕は大丈夫だろうと言ったのだけれど、結局それ以来、なぜかキューウェル(我が愛兎)の糞尿は通常のごみ袋とは別に専用のごみ袋に入れて尚且つ、マンションに備え付けのゴミ箱ではなく、マンション前の自販機横の公共のゴミ箱に捨てることになった。僕は黒いゴミ袋を目立たぬよう握り締め、いささかうしろめたーい面持ちで、フロントのおばちゃんや警備員を通り過ぎて、マンションの外のそのゴミ箱に、黒い袋を投げ込み終えるまで、言いようのない気味悪さを覚えるのだった。ハッ、いかん。国慶節の旅行のことを書こうと思っていたらいつの間にかウサギの話に脱線している。ということで軌道修正をして、今回の旅行先はバリ島に白羽の矢を立てる。やはり普段は海や森といった自然の少ない生活をしているので、どうしてもお気楽リゾートに惹かれてしまうのである。ツアーだと結構割高で融通が利かないので、今回は個人手配で少しずつ準備を進めている次第である。ビーチでのんびり読書したり、ゴルフしたり、スパいったりとベタですがそうしたアクティビティでしっかりリフレッシュして、上海生活後半戦に挑んでいく。
2005.09.01
夏が終わる。子供達は溜め込んだ宿題のラストスパートを。受験を控えた中高生は、夏休みの多くを学校の勉強合宿やら塾の夏期講座などで費やしたことに寂しさを覚えると同時に、いよいよ受験が間近に迫ってきたことになお一層の暗澹が胸を包む。ノーテンキな大学生は、一夏を掛けて遊び続けたツケをスッカラカンになった財布の中身に負う。これらはある国のある時代の一般論だ。それはかつての僕であるのかもしれないし、或いはその他大勢の青年群像なのかもしれない。例えば今、急に「1980年の夏はあなたにとってどんな夏でしたか?」と問われれたらどうだろう?僕は即答できない。例えばそれが1981年だったら?答えは同じだ。ではそれが2003年だったら、2004年だったら・・・・・・同じだ。結局のところそれらは過ぎ去った記憶の欠片なのだろうし、その夏がどのような効果をもって僕を包んだのか(包んでいるのか)なんて僕は理解しようともしないし、そのような捉え方をしたことはないのだ。ただ一つだけの例外を除いて。1998年夏。 あの夏ワールドカップがフランスで開催された。日本は初出場した。あどけないオーウェンがアルゼンチンDFを切り裂き、若きベッカムは心に深い傷を負い、悲しみの国のFWが得点王となり、アルジェリア系移民の子がカナリア軍団を打ち破り開催国を頂点に導いた。そんなドラマに満ちた大会だった。 中田はイタリアに移籍し、日本の政権は小渕内閣に代わった。贔屓の阪神は相変わらずの弱小ぶりだった。日本経済はバブル崩壊後、暗いトンネルの中未だ出口の見えない状態で、それを象徴するような円安が続いていた。確実にかつて在った1998年の夏の断片だ。1997年にだって、1999年にだってそのような断片はいくらでも僕は見いだせられる。だけれど1998年、それは僕の人生にとってかけがえのない夏だった。今までの人生の過程においてこれ以上の夏はない。そう思える日々だった。あの夏、僕はその始まりから終わりまでを、不思議な縁に導かれるようにしてドイツで過ごした。小さな中世の面影を残す町の語学学校に通い、黒い森地方の山深いユースホステルで労働実務研修に取り組んだ。労働といっても午前か午後の半日程度で、その内容もゲストハウスの清掃やら食事の準備、後片付け、庭掃除や、レセプションでの宿泊客の応対といった簡単なものだ。そのような訳で僕は研修期間の多くを、ユースで共に働くドイツ青年達(彼らはZivi=良心的兵役拒否者と呼ばれていた)やフランスからやって来ていた少女と近くの山々をトレッキングしたり、湖で泳いだり、夜通し飲み明かしたり、自転車で麓までサイクリングしたりして過ごした。ただ、ささやかでそして静かな森の日々だった。だけれどどれだけ僕はその無垢なる日々に救われたことか。暗い闇に沈み、溺れかかって冷えきった人間の魂がその日々によってどれほど温められたことか。それは結局のところ僕にしかわからない。クロッケンブルーメやエリカといった高山植物の花々が咲き乱れる草原を歩く。黒い森の奥深くにひっそりとたたずむフェルド湖の冷涼な水に喚声を上げながら泳ぐ。羊飼いに導かれた羊達の群れが、夜の帳が落ちかけた山の稜線の彼方に消えていくその様を村の感謝祭の小さなビアホール会場から見守る。夕暮れに染まったフェルド山の山頂の十字架にもたれて、遥か遠くアイガーやモンブランを眺める。旅立ちを明日に控えた真夜中、酔っ払ったまま午前2時のプールにZivi達と真っ裸で飛び込む。若者達の歓声はいつまでも室内プールに木霊していった。瞳を閉じれば、それらの情景は今もなお鮮やかに甦る。フランスからやって来ていた少女はゾフィーという名だった。僕より1歳若かった。トレッキングの度に彼女は必ず、ユースホステルの冷蔵庫からまだ青さの残る林檎をこっそりと2、3個リュックに忍ばせた。一度だけ彼女と二人だけでフェルド山までトレッキングしたことがある。頂上に向かうなだらかな草原の一寸先をゆく彼女は、僕に振り返る。リュックから林檎を取り出し一齧りする。それを掌にかざしてこう言う。「あなたにはこの林檎はどう見える?」今年も夏はやってきて、そして去っていく。あの麗しき日々から僕はまた少し遠ざかっていく。僕は今もちゃんと世界と繋がっている。
2005.08.31
車の運転をしなくなって久しい。中国では駐在員の運転は原則禁止されているからだ。おそらく禁止されていなくてもこの交通地獄中国では、ビビリの僕は絶対運転はしないだろうけれど。それでもやはり運転自体は好きなので、たまに無性にハンドルを握りたくなるときがある。日本にいた頃は、よく大阪近郊をドライブしたものだった。当時付き合っていた彼女(と言っても今の妻なのだけれど)を横に乗せて、様々な場所を訪れた。その頃の愛車は、コツコツためた貯蓄をはたいて買った中古の白いレガシーランカスターだった。納車日当日、雨上がりの初秋の国道171号線をドライブして辿りついたのは、大阪と京都の県境にあるサントリーの山崎蒸留所だった。本当は運転者は胸に運転者シールを貼られて、所内での試飲は禁止されているのだけれど妻がお酒が駄目なのをいいことに、こっそりシールを妻に貼り直して、山崎のダブルを2杯も飲んでほろ酔い気分で帰途について、夕暮れの雨に濡れた蒸留所から幹線にいたる小道が気持ちよくてとても幸せな心持ちで満たされたのをよく覚えている。ある時は折りたたみ自転車をトランクに詰めて大阪心斎橋まで行って、そこからチャリンコで南船場や堀江界隈のショップ巡り。それまで歩いたことしかない通りが、自転車に乗るだけで全く違った世界のように感ぜられた。ちょっとしたお洒落気取りで、カフェの前にチャリ止めてお茶なんかしたりして。懐かしい。またある時などは、大阪から実家のある岡山経由で妻の実家のある熊本まで長旅をしたこともある。あれは正月で岡山から熊本に至る道程は見事に降雪で高速がヤられていて、夜8時ぐらいに岡山を出発して熊本に着いたのが翌朝の7時という記録的な殺人ドライブだった。途中広島の山中に迷い込み豪雪地帯の道なのか空き地なのかもうよくわからんようなところで、仮眠をとったりなんかして。はっと、思って気付いて飛び起きて空を見上げたら、雪は止んでいて、ただただ満天の星々がもう弾けるほどに輝いていて。あれは楽しかったな。自動車がなかったら、運転ができなかったら、あんなささやかだけれど、幸せな時間はやってこなかった。と思う。そう思うと車って単なる便利ツールではなくて、愛すべき仲間なんだと思える。そんな訳で、今日も譲り合いの精神もゆとり運転の欠片もまったく存在しないダダ混みの上海外環線に埋もれながらそのようなことを考える。
2005.08.25
書く事を決めていざ題名を何にしようかと考える。とりあえず頭の中で、イメージを抽象化してみる。とりあえず出てきたイメージをタイプしてみて、たまたま打ち間違いしたまま変換をしたら、うまーくこの話題にぴったりの表現になったので、今回はこの題名でいこうと決める。「雑魚が虚業で巨魚を獲る。」なんだか早口言葉のなり損ないのようでいて、それでいて趣深さが仄かに漂っている。まあそれは由として、なんの話かと言うと今回は株についてである。個人的に僕は株をやっている。やっているというと、それを生業にしているような響きが伴うので正確に言うとちょっと齧っているということに訂正する。まあそんなことはどうでもいいのであるが、僕が株を初めて購入してもう4年が経つ。初めて買った株は「神戸製鋼」。当時、時価@¥50を6000株だった。貧乏サラリーマンの備蓄でもなんとか買える低位株に絞って、自分なりの分析5%と直感95%で決めうちで買った思い出の株だ。今日の株価を確認すると「@¥259」・・・・・・残念ながら小者の僕は2年半前、海外転勤に伴って売り飛ばしていた。その時の価格@¥72。小者らしい取引である。しかし、実際に僅か1年足らずで10万以上もの利益が生まれたことは、それまで余剰資産は銀行にしか存在しえなかった僕に新鮮な驚きをもたらした。ただ、だからといってそこから直に株にのめりこんでいったのかと言えばそうでもない。海外生活の慌しさや、結婚の準備、新婚生活のスタートなどが色々と重なり落ち着いて株をできる状態ではなかったからだ。しかし1年半前に再び株を買う。妻も帯同となり生活もそれなりに落ち着いたというのと、たまたま義父が株をやっていてその父が株のことを語るとき子供のように無邪気に、そして心底それを楽しんでいるように思えたからだ。それは単なる儲け主義や株で一山当ててやろう的なギャンブル志向ではなく、ある種の純粋さだった。僕は語られる内容以上にそこに在る空気を重んじる。義父から発せられた株にまつわる話は少なくともポジティブでそこにはなんだか僕を温かくする要素があった。あーこういう風に気軽に株をやっていこう。はっきり言って緻密な分析や下調べはそこにない。義父の株に対する愛情にも似た温かさに僕は共感したのだ。そのようにして僕は旧正月の長期休暇で日本に戻った折に、3つの銘柄を買った。それから1年半。かいつまんでその3つの株のその後を記すと・・・・A株(某新興市場上場の証券株)・・・・・・購入後すぐに某大手証券会社と合併にともなう爆裂上昇。その後一旦は低下し一進一退。しかし先週末、東証1部上場が発表され更に爆裂上昇へ。B株(大手総合電気メーカ)・・・・・・鳴かず飛ばず状態を経て、今年社長交代で初の外国人トップ就任。その後少し停滞気味。C株(僕が勤める会社)・・・・・・ジリジリと上昇中。ちなみにA株は義父の一押し銘柄であり、残りの2株は僕の直感である。みっみっ見事に素人と玄人の差が・・・(笑)3銘柄とも購入以来、一切動かしていない。現時点で言えば、2勝1敗である。3銘柄合計の時価評価は購入価格比約1.8倍。(※総投資額は非公開)時には、小刻みに動かしたい衝動が起き上がるのだけれど、ここはやはり「雑魚が虚業で巨魚を獲る。」の精神で、気長に構えようと思う今日この頃である。
2005.08.22
先日ジーンズを久々に洗いました。いつ以来だろう、1年ぶり?いや妻が上海に来てから洗った記憶がないので1年半は立つか?もともと僕はジーンズは洗わずに味を出して良しとするというようなところがあるので、なるべく洗わないようにしてきたのだけれど、先日の台風の中歩いたら裾の辺りがずぶ濡れとなり、それが生乾きとなった後になんともいえない異臭を放ーつようになったので、久方ぶりに洗濯機に放り込んだ次第なのである。無論、洗剤の類は一切使用せず、水洗い→陰干しである。そして乾いたジーンズを見て思う。「カッコイイ・・・」手にとってみてまた一言。「これだよね、これ・・・」そして穿いてみて、傍で家の片づけをしている妻にまたまた一言。「どう○○子(妻の名前)、シルエットいい?」ちょっとウザそうに「うん」と答える妻。決して僕はナルシストとかモノマニアとかの類ではないと自分では思っているのだけれど、妻が言うほどではないにしても、ジーンズに限っては多少なりともその点は認めざるを得ない。汚れが落ちてジーンズ本来の青さを取り戻した1960年代のリーバイスBigE Type A。出会ってもう5年である。その昔、学生時代夢中になった古着屋巡り。暇あれど金無しの貧乏学生にとっては、憧れのヴィンテージは試し穿きの世界だけだった。足繁く通った当時長崎の古着屋の老舗「SAL」(今でもあるのかな?)の店員さんは、いつも試着だけで終わるのに、試着を申し出るたびにその都度快く僕を一寸だけヴィンテージのオーナーにしてくれた。そのようにして何十本というジーンズを手に取り、時の洗礼を受けたその名品の数々を眺めるだけで、僕はとても幸せな気持ちになったものだった。そのような学生時代、一度だけどうしても欲しくてまた現実的に買えるだろういう一品に出会ったことがある。あれは今でもよく覚えているのだけれど、リーバイス503BXXだった。ウェストも、レングスもぴったりで、なにより僕を強く惹きつけたのはその色落ちの見事さだった。全体的にまだ深いブルーが残っているのだけれど、それでいてヴィンテージのミソとも言うべきタテ落ち感は見事に浮かび上がっている。タテ落ちというのは、紡織機が今のような精密さや高速さを有していなかったからこそ生まれた偶然の産物なのだと思うけれど、だからこそ僕はそこにささやかな奇跡を見出す。おまけにちゃんと膝のあたりや股間部分にくっきりとアタリがでていて、まさにヴィンテージと呼ぶに相応しい一品だった。一目見た瞬間、僕はほれ込んだ。そしていつものように試着をする。そして値札をチラッと見やる。「¥29800」試着して、また脱いで、また試着する。そんなことを繰り返して、結局買わずにアパートに帰る。そして一晩中僕は503BXXのことを思い浮かべる。そのジーンズを穿いた僕の姿を想像する。そのジーンズが僕の持っているどの服と一番合うかシュミレーションする。その青いズボンを所有したらどれだけ、自分が幸福なんだろうと考える。貧乏学生が¥29800円を失う痛手と503BXXを手にすることで得られる幸福感を秤に掛ける。そのような夢想は楽しかった。あの当時、実用的ではない或いは向学とは無関係な数々にどれだけ僕は無邪気にそして真摯だったんだろう、と思う。そして僕はついに意を決する。「明日買おう」と。翌日開店と同時に、お店に訪れる。だけれど、僕が恋したジーンズはもうそこになかった。昨日まで確かに存在していたその棚は、いまや虚しい空白が占拠しているのだった。僕は店をでる。そして秋の深まりによって鮮やかな青さを見せる11月の遥か高い空を眺めた。鍛冶屋町を吹く風は冷涼さを一層帯びてきている。僕は何故だか自分が取り返しのつかないものを失ったんじゃないかと思う。だけれど、一体何を失くしたのかさえよくわからなくなる。僕はいつまでもその透明な虚空に失くしたものを追い求め続けていた。それからやがて社会人になって2年目のとき、僕は初めてヴィンテージジーンズを買うことになる。もう躊躇いはなかった。出会った瞬間のその閃きに僕は素直に従うだけでよかった。そのようにして503BXXの夢は501BigE Type Aが引き継いだのだ。そんな訳で、洗いざらしの姿で今目の前にあるこの一本と僕はこれからもずっと付き合っていこうと思う。
2005.08.19
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