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1934(応永1)年、一休は京都郊外の民家で生まれました。
母は藤原氏の血を引く貴族の娘で、父は後小松天皇とも言われています。
一休の母は、女官の嫉妬により、天皇の命を狙っていると嘘の噂を流され、宮中を出ていかなければなりませんでした。女性同士の関係は難しいですね。
一休は6歳で京都の臨済宗の寺・安国寺に預けられ、その後、12歳の時に維摩経を学び、翌年からは建仁寺で漢詩を学びました。子供頃から、学問に秀でた賢い子だったようですね。
が、17歳の時に、人々が苦しんでいる時でも、金儲けをしているような大寺院に反発し、そこを去り、貧乏寺であった西金寺の謙翁宋為のもとに入門します。
一休が21歳の時、謙翁が亡くなり、師を失った一休は、自殺を考え、琵琶湖のほとりをさ迷います。が、幼い頃生き別れた母の面影が突然現れ、自殺を思い止まります。
翌年、近江の国の厳格な禅風で知られる祥瑞庵の華叟宋曇に弟子入りを志願しますが、なかなか入門を許されず、一休は何日も寺の門前に座り続け、ようやく入門を認められます。
そして、入門からわずか3年後、一休は華叟からだされた禅の難問を解き、印可状(悟りを開いたことを師から認められた証)を渡されますが、それを断わり、寺を出ます。
その後は、京都、堺、河内、大和など各地を転々としながら、特別な地位につくこともなく、庶民の中で毎日を過ごしていきます。
81歳の時に、後土御門天皇の命で断われなく、大徳寺の住持(住職)になり、戦乱で焼けた大徳寺の復興に力を注ぎ、1481(文明13)年、88歳で生涯を閉じます。
一休の言葉 「諸悪莫作 衆善奉行」
※いろいろ悪いことをせず、たくさんよいことをしなさい。
時代の権力と結びつくことで、存続を図ろうとした当時の仏教界に強い反発を覚え、アウトローに生きた破戒僧ともいうべき一休でした。
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