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時代は戦国。勝つために手段を選ばなかった戦国大名は、戦場で戦う以外にも、情報収集や暗殺、破壊工作といった「陰」の戦いも繰り広げていました。こういった任務についていたのが、情報収集や裏工作の技術を持つ、「忍者」と呼ばれた者たちでした。
そのような忍者の一集団である「伊賀者」出身の父を持つ男がいました。男は父親の代から徳川家に仕え、主君の徳川家康と息子の信康から、厚く信頼されていました。
その男は、服部半蔵。服部半蔵は、天下を取るまでの家康の前に立ちはだかった数々の困難を家康とともに乗り越え、特に「本能寺の変」が起きたときの「神君伊賀越え」という脱出劇は、半蔵の活躍により、伊賀・甲賀の協力を得て、絶体絶命のピンチを救われました。
戦場での半蔵の活躍は目覚しく、「鬼」と恐れられていました。
家康が江戸に移ると、半蔵は徳川家についた伊賀者200人を束ね、江戸城を警護するという重要な役目につきました。
「鬼」と呼ばれた半蔵でしたが、生涯に一度だけ、家康の命にそむき、涙を流したことがありました。
家康の嫡男・信康は、わずか9歳の時に、政略結婚で織田信長の娘の徳姫を娶りました。1957(天正7)年、その徳姫が、信康とその母・築山殿が共謀して宿敵・武田家に内通しているという密告の手紙を織田信長に送ります。その手紙を読んだ信長は、2人の死を家康に命じます。家康は、半蔵に命じ、2人無実の証拠を集めさせますが、どれも怒る信長を納得させられるものではなく、ついに家康は家の存続のために築山殿を討ちました。そして、幽閉していた信康に切腹を命じ、その解釈を半蔵に命じました。しかし、半蔵は、信康の首を斬ることができませんでした。これが主君の命に背いた最初で最後でした。
忍者の装束 忍者の実際の装束は黒ではなかったそう。夜の活動でも、月明かりなどがあって真っ暗ではないため、黒だとかえって体の形が浮き出てしますそうです。そのため、濃紺や赤茶、灰色などが多かったそうです。中には表は濃紺、裏は灰色のようにリバーシブルになっていて、夜の明るさに合わせて色を変えたとか。
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