We're Not Gonna Take It

We're Not Gonna Take It

パレスチナ問題について

映画「ミュンヘン」を見るための予習


パレスチナ問題について


簡単に言うと「パレスチナ」と呼ばれる土地をめぐっての民族間紛争なのだが、ただそれだけでは表せない色々な利権や歴史的な問題が含まれている。
「そもそも誰の土地であるのか」とか言い出すと、旧約聖書とか考古学の話まで出てきてしまうので、それは後でさらっと紹介するに止める。
ここでは、現在の状況を招くに至った経緯を記したいと思う。

ここで、一つ断っておきたいのは、ここに書かれている事柄は非常に微妙な問題を孕んでおり、立場や見解の違う人から見ると憤りを感じるものであったりする可能性も否定できないと言うこと。
あくまでもこの文章は「映画 ミュンヘン」を見るに当たって、下敷きとなる基礎知識を得るためのものであり、パレスチナ問題についての正式な文章ではないと言う立場を分って頂きたい。書いた本人が一番良く分ってないので。
詳しく知りたい方は、ここではなく、真面目にパレスチナ問題を扱っているサイトを見るなり、本を読むなりして頂きたい。知的好奇心を刺激する問題である事は保障するので。
※ このページについて、意見や苦情などがある場合は、掲示板に書き込むかメールを頂ければ、前向きに対処しますので、よろしくお願いします。


発端はイギリス

第一次大戦下、イギリスのバルフォア外相は、中東地域の覇権をめぐる戦いを有利に進めるため、「同じエサで3方と取引をする」と言う荒業に出た。
まず、フランスには「戦後、中東を領国で分断統治する」と言う密約(サイクス=ピコ協定)を結ぶ。
そして、トルコ支配地域下のアラブ人には「戦後、パレスチナを含むアラブ国家の独立を認める」と言う書簡(フセイン=マクマホン書簡)を送る。
さらに、イギリスシオニズム連盟会長のロスチャイルド卿へは「パレスチナでのユダヤ人国家の建設を支援する」と言う書簡(バルフォア宣言)を送った。

こうしてイギリスは、現在にいたる紛争の原因を作り上げた。


対立の経緯

第一次世界大戦後パレスチナを支配していたイギリスだったが、パレスチナ人とユダヤ人の衝突や、イギリスを標的とするテロの頻発に手を焼き、問題解決を国連に委ねる。
第二次世界大戦後の1947年11月に開かれた国際連合総会は、パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家の二つの国に分割する「パレスチナ分割決議案」を賛成33(アメリカ・ソ連・フランスなど)・反対13(アラブ諸国など)・棄権10(イギリスを含む)で可決。
さらに、宗教的な意味を持つイェルサレム(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教それぞれの聖地)を国際管理下に置く事もどう決議案には含まれていた。
しかし、人口で1/3、土地所有面積で6%弱のユダヤ人に57%の地域を割り当てる決議をアラブ人が「はいそうですか」と受け入れるわけも無く、断固拒否。
そんな中イギリスは、1948年5月15日にパレスチナの委任統治権を放棄。その前日5月14日、ユダヤ人たちはパレスチナ人との合意も無いまま、一方的にイスラエルの独立宣言を発表する。
この宣言をアメリカは即日、旧ソ連は3日後に承認し、イスラエルは「約束の地」にユダヤ人の夢であるユダヤ人国家として世界に認められた。
この事によって、イスラエル国家として認められたパレスチナから、パレスチナ人(アラブ人)が追放され、100万人以上の難民がうまれる事になる。
約2000年間住んでいた土地を奪われた形のパレスチナ人(アラブ人)は、当然これに猛反対。
これ以後、イスラエルとアラブ諸国との間で、4次にわたる中東戦争が繰り広げられる事になった。


中東戦争

分割決議に反対するアラブ諸国がイスラエル独立宣言の直後にイスラエルに攻め込み、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)が勃発。
最初は国としての形を成したばかりのイスラエル軍が不利だったが、次第にイスラエル軍が戦争を有利に進め、半年後に戦闘が終息した時点で、国連の分割案より40%も上回る地域をイスラエルは占領していた。
その後も戦争は続き、1967年の第三次中東戦争(六日間戦争)では、イスラエルは先制攻撃をしかけ、圧倒的勝利収めた。ヨルダン川西岸・ガザ地区・ゴラン高原・東イェルサレムを占領、一時的にとはいえ、国連決議の実に7倍もの領土を得る事になる。そして、その地にユダヤ人入植を進めるとともにイスラエル化を促進させている。


パレスチナ解放機構(PLO)

国会にあたるPNC(パレスチナ国民議会)と内閣にあたる執行委員会をもち、国を持たない国家のようなもの。
PLOの成立は、第一次中東戦争直後から難民や学生を中心に反イスラエル抵抗運動が始まった事に端を発する。
1964年にカイロで開かれたアラブ首脳会議で、パレスチナ人の多様な抵抗運動を統一する組織としてパレスチナ解放機構(PLO)を結成することが決議され、1969年にはファタハのヤセル=アラファトがPLO議長に就任、自らの手でパレスチナ解放を勝ち取るため各地で武力闘争を展開する。
1974年の国連総会ではパレスチナ問題討議への参加が認められアラファト議長が出席して演説した。この事により、PLOはパレスチナ人を代表する組織として、唯一国際的に認められるものとなった。
この総会は、パレスチナ人が権利として自決権を有すること、パレスチナ問題の当事者であることを明確にした点で画期的であった。
PLOは、イスラエル国がパレスチナ人の意思に反しかつその犠牲の上に建国されたとしてその存在を容認しない立場をとり、目標として全パレスチナを対象とした、人種的・宗教的差別のない民主国家を掲げている。
したがって第三次中東戦争後採択された安保理決議242号は、占領地域からのイスラエルの撤退・交戦状態の終結を求めつつも、すべての国の主権・独立・領土保全の尊重などの内容がパレスチナ全土の解放という目的と相容れないとしてこれを拒否している。


参考:イギリスの3枚舌外交以前からの問題について

そもそもパレスチナとは、国では無かった。
現在はパレスチナ自治政府があるので、国になっているが、元はと言えばイスラエル、ヨルダン、シリア、レバノン等を含む地域の名称であり、厳密に言えばパレスチナ人と言う者も存在しない。
かといって、ユダヤ人がこの地域の本来の民俗かと言うと、それもまた違う。

そもそもユダヤ人と言うのは「ユダヤ教を信仰している人」なので、単一民族ではないし、パレスチナ人だって、ローマ帝国が「この地をパレスチナと呼ぶ事に決める」と宣言された土地に住んでいたアラブ人などの複数民族であるので、厳密にはパレスチナ人ではない。
じゃあ、この地域は誰の土地なのか?
元来ここに住んでいた先住民は、旧約聖書によるとモーセの子孫たちによって殲滅されている。そもそも先住民だって複数民族の集合体だ。
同じく旧約聖書によると、ユダヤ人は神に選ばれ、この土地を神様からもらう。所謂「約束の地」と言うやつだ。
ユダヤ人がこの土地に自分の国を作ると言う大義名分の根拠は大概ここに求められる。

遊牧民であったヘブライ人(ユダヤ人)は紀元前10世紀頃、この地に古代王国を建国する。ダヴィデ王とその子ソロモン王のもとで、イェルサレムを都とするヘブライ王国は最盛期をむかえたが、アッシリアとバビロニアの侵攻により滅ぼされる。
その後ローマ帝国に支配されるが、何度も反乱を起こしたため、ユダヤ人国家はローマにより消滅する。
以降、この土地はユダヤとは違う民族の土地と言う意味を込め、ローマ帝国によって紀元前13世紀頃に地中海方面から東地中海沿岸平原南部に侵入し、同地に定着した海洋民族「ペリシテ(フィリスティア)人(の地)」と言う意味の「パレスチナ」と命名される。
これにより、この地に住むようになったアラブ系の民族を「パレスチナ人」と呼ぶようになった。

世界各地で流浪の民となっていたユダヤ人が、国を持たないことや宗教的な問題による迫害に対するためには、やはり国が必要だと言う風潮になってきたのは19世紀末。
「シオニズム」と呼ばれるこの運動は、ユダヤ人国家建設を目ざす思想で、シオンとは聖都イェルサレムの南東にある丘の名前。
この思想はどんどん広がりを見せ、帝政ロシアのユダヤ教徒迫害(ポグロム)の嵐を受け、シオンの地という宗教的象徴性に「ユダヤ人」国家という現実的領土の概念を重ね合わせるシオニズムが誕生する。

さらに第二次世界大戦にナチスドイツによって行われたユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト(ギリシア語でホロ=「焼く」コースト=「尽くす」に由来し「火による皆殺し」を意味する)」を経て、「ユダヤ人」国家建設の意識は爆発的な広がりを見せる。
「パレスチナ分割決議案」の採択を受け、続々と入植するユダヤ人に対し、パレスチナ人はヨーロッパで発生したアーリア人によるホロコーストの償いを何故中東のアラブ人がしなければならないのかと感じ、ユダヤ人に対する憎悪を深めていく事になる。

このような民族的な問題にあわせて、イェルサレムの問題がある。
イェルサレムはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教と言う3つの異なる宗教の聖地である。
ユダヤ教を信奉するユダヤ人にとってはイスラム教徒であるパレスチナ人から取り戻すべき土地であった。
一方のイスラム教徒にとってもこの地は聖地であり、イェルサレムを巡る問題が両国の対話を遅らせる大きな要因になっている。
イスラエルはイェルサレムを占領後に永遠の首都として定めたが、国連はこれを承認せず、実質的国政中枢のあるテルアビブが首都とされる。
一方パレスチナ人も独立しパレスチナ国家を建国した暁にはイェルサレムをを首都とすることを望んでおり、イェルサレムの帰属が決定しない限りは両国の和平は実現しないと行っても過言ではない。
またイスラム教を国教とする中東諸国にとっても重大な問題となっており、この問題は解決しそうに無い。

以上のような宗教的・民族的問題が複雑に絡んでいるため、それぞれのトップが妥協案で合意しそうになると、「味方に暗殺される」と言う信じられない事態が発生してしまう。
パレスチナ問題の解決にこんなにも時間が掛かるのは、このような問題も含まれているようだ。


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: