くまがわざつえい ひろせたんそう
隈川雑詠 (其の一) 広瀬淡窓
きざん えん みず ちゅうおう あ つと こ もうこう こせんじょう
亀山は宛として水の 中央 に在り 伝う是れ 毛侯の古 戦 場
がげき さいせい むな いちむ ろか みだ ひら つきそうそう
画戟 彩旌 空しく一夢 芦花 乱れ発いて月 蒼々
詩文説明
亀山は往時と変わらず、昔の儘の隈川の中央にある。この亀山の地では、昔、毛利侯と島津軍が戦った古戦場があると伝えられている。今日、穏やかな水辺にたたずんでいると、此の処で鉾や鮮やかな旗を立てて戦ったことなど、一場の夢にすぎぬように思われる。ふと見れば、河原には月が青白く、葦の花の咲き乱れた光景を照らしている。
1、此処亀山
(
現在亀山公園
)
は毛利と島津が戦った往時と変わらず隈川の中央に有り、
古戦場があったと伝えられている円内右が毛利元就、円内左が島津義弘
(
合成
)
2、島図軍と毛利軍の戦い図 (合成 )
1、水辺にたたずみ往時を思い浮かべる広瀬淡窓。ふと見上げると月の光が河原の葦の
花を照らしていた
(詩文に合わせて葦の花に光を当てた画に造りました)
2、現在の咸宜園址の室内に当時の咸宜園の東塾と西塾の図が掲げてありました。
作者 広瀬淡窓 ( 1782 ~ 1856 )天明 2 年~安政 3 年。
江戸時代末期の儒者。名は建。字は子基。通称求馬。号は淡窓・苓陽・青渓・遠思楼主人。豊後 ( 大分県 ) 日田、魚町の人。父貞恒は豪商で諸侯の御用達しを務めた。 10 歳で久留米松下筑陰に学び、 16 歳の時筑前 ( 福岡 ) の亀井南溟、昭陽父子に学ぶ。 18 歳冬病にかかり帰郷。 26 歳の時日田裏町に塾 ( 桂林荘 ) を開く。入門者次第に多く、狭くなり、 10 年後堀田村に新築 ( 咸宜園 ) を開いた。入門者 4,000 人余りに達す。門下から高野長英、大村益次郎、中島大華、平野五岳、長三洲、など排出。頼山陽、梁川星厳、田能村竹田、帆足万里、斉藤竹堂なども訪れている。長年の育英の功により苗字帯刀を許された。安政 3 年 11 月病没。著書多数。