本日も『誤解された仏教』(秋月龍みん著、講談社学術文庫刊)から、長くなりますが引用させていただきます。一見遠く思われる道元の「覚の仏法」から、親鸞の「信の仏法」へ、ほんの一歩ではないかという著者は、ここで良寛さんの漢詩を引いて、議論を展開しています。
花は無心にして蝶を招き
蝶は無心にして花を尋ぬ
花開くとき蝶来たり
蝶来るとき花開く
吾もまた人を知らず
人もまた吾を知らず
知らずして帝の則に従う *註:帝の則=自然の法則
~花が開くとき蝶がくる、他力の本願不思議によってはじめて自力が開ける。蝶がくるとき花が開く、自力を尽くしてはじめて真に他力が分かる。小さな自我を投げ出して、己を空じて、一切のはからいを離れるとき、そこにはじめて「天真自然」に通じる道がある。「捨ててこそ」、それはいわゆる他力宗・自力宗を問わず、宗教の極致である。「自我(エゴ)に死んで自己(セルフ)に生きる」のである。禅者のその徹底としての「任運騰騰」から念仏者の「絶対他力の信」へ(たとえば「妙好人」の生きざま)、それはほんの一またぎではないか。「自然法爾」(妙力)こそ、仏教の、いや宗教の真髄である。
長年の疑問がふっと無くなったような気がします。親鸞さんも最晩年には
「<弥陀仏>というのは、<自然>の様を知らせん料なり」と、
言い残されたことは昨日も紹介しました。
これは阿弥陀仏も仏法(ダンマ=真理)の様を知らせるための方便だという意味です。
親鸞さんも法然さんの弟子であると同時にお釈迦様の弟子だったのですね。
当たり前、何を今更って感じですが、修行の足りない拙僧には「自力」と「他力」の間には深い深い断絶の谷、大きな矛盾があるのではないかと、一人釈然としないままに今まで来たのでした。
前述の親鸞上人の言葉に立てば、阿弥陀仏は人に対する神さまではなく、法(ダンマ)そのものである法身仏に代わって一切衆生を救済するという大慈悲の誓願を立てて現れた報身仏であるという、原点に戻ることができると安心しました。そして、この仏がだれの心の中にも住むものであることも、認識を新たにしました。
南無釈迦牟尼仏 南無阿弥陀仏
合掌 観学院称徳
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