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May 7, 2024
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本当はわの会のイベントではないのだけれども、
概ね活動範囲が重なっているし、
わの会で行くお寺や神社の御先祖的な古墳なのでここに書きます。

せっかくの天気が良い連休にどこも行かないのはもったいないので、
以前、まだ未整備な時に遊びに行った逗子の長柄桜山古墳に行くことにしました。
前回行った際の記事はこちら。

ヤマトタケルゆかりの古墳へ行って来ました。

この当時は本当に未整備で何も無かったんだけれども、
平成14年に国の史跡になって10年して、やっと1号墳だけ整備され、4月20日にオープン!

逗子市は予算が少なく、古墳等の文化的な用途よりも生活関連の支出に力を注がざるをえない。
なので、多少不満が有るのは仕方ないが、将来の楽しみにとっておこう。

現地は比較的交通の便がよく、日帰りが十分に可能で子供でも行ける。
付近の地図とルートを載せる。


前回は5年前で、僕もまだ会社に毎日片道2時間、往復4時間かけて通勤していた時代なので、
上の図の「体力自慢コース」を選んだ。
これは京浜急行の逗子・葉山駅がまだ新逗子駅だった時代で、南口から1時間強歩いた。
と言うか、まぁ高さが120m程度なのでたいしたことは無いけれど「登った」
でも道が悪くて狭いし、防御設備が何もないので滑ったら大事故になるので、
とてもではないがお奨めしない。

今回は年寄りらしく、バスに乗った。

上の地図の「普通の人コース」である。
頂上近くまでバスで行ける。
葉桜バス停から普通の人コースを3叉路まで行くと、ここから急な上り坂になる。
三叉路付近の写真。


普通の人コースならば子供でも大丈夫。



前回来た時にはシートがかけて有って何も無かったが、
今回は植栽も有り円墳部は3段になっている。ちゃんと調査したんだなぁ。
下には過去の経緯を書いた説明板が有る。


この後にも同じような説明板を載せるので、ちょっと繰り返しになるのだけれども、
この説明板が大事なのは過去の経緯を載せているからである。
古墳そのものの説明よりも発見された経緯が面白い。と言うか僕にはうれしい。
そう、地元の東家洋之助さんが「埴輪を発見した」のが発端である。
後から埴輪の説明は載せるが、
要は昔から古墳らしいと言うことは分かっていたんだけれども、
「証拠が無くて」認めてもらえなかった。
それが埴輪と言う物的証拠が見つかって、行政も対応せざるを得なくなったと言うことである。
僕も金沢区内にいくつか「古墳らしき場所」を見つけているのだけれども、
なんせ土地の所有権や立入禁止などの規制が有って確かめることができず、
またそのせいで証拠が見つからないので、認めてもらえない。
行政とはそう言うものである。そして壊されて初めて認められる。

例えば下の写真(等高線図)の左側の山である。
写真1,写真2と書いているあたりは、自然の地形がこんなに整っているはずが無い。
絶対に人工的に加工された地形だと思う。
でも許可なく掘り返すわけにはいかないし、
横浜市の教育委員会に話に行っても、聞いてももらえない。
教育委員会も仕事が多くて対応できないと言うことなのである。ヒマそうに見えるけれど。


なので、アマチュアが発見したこの古墳は元気が出るのである。

1号墳の円墳部の頂上に登ってみた。


ここは整備後は頂上にも登れるようになっている。
写真右手の2人が見ているのが埴輪と埋葬施設の説明板である。


三浦半島の古墳は円墳部頂上に埋葬施設が有る場合が多く、木棺が埋まっている場合が多い。
ここの円墳部には周囲を囲むように円筒埴輪が有ったらしく、
出土した埴輪の内の1つは復元されている。上の写真の奥の左手に有るのがそう。
拡大した写真を載せる。


埴輪の説明文も載せる。


頂上の写真にはこの円筒埴輪を「特殊器台」と書いているのには訳が有る。
僕はこの復元された円筒埴輪は、ちょっと違うのではないかと思っている。
何故なら上の説明板の円筒埴輪の写真を見て欲しい。
朝顔(ラッパ状に開いた部分)が無い。
なのでこれは「特殊器台」だと思うのである。
特殊器台はこの古墳の時代つまり古墳時代初期の古墳から多く出土するもので、
上に土器を載せる為の台である。
実は下の写真の1号墳の説明板にも、
この特殊器台以外に「高杯や孔の開いた壺」も出ていると書いている。
つまりこの特殊器台は単独で使われたのではなく、上に乗せる土器も出ているのである。
だから、こんな風に朝顔状にはなっていなかったのではないかと思う。


近畿地方、特に吉備付近で発生した埴輪は近畿の古墳でも採用されて日本中に広がるが、
その元になった吉備地方の埴輪について上手く説明した写真が有るので載せる。


これを見ると僕の主張が分かってもらえると思う。
弥生時代には装飾器台の上に土器(装飾壺)を乗せていたものが、
古墳時代に入ると器台が大きくなって特殊器台となり、
最終的には特殊器台と壺が融合して埴輪に発展するのである。
しかし、ここで出土した円筒埴輪は上の朝顔部分が無く、土器が同時に出土している。
従って、ここの円筒埴輪は真ん中の時代の物だと分かるのである。
なので、間違っているのだと思うのだけれども、
埴輪を復元したのが学者ではなく行政の方であれば仕方ないと思う。
学者ならば怒られてしかるべきだと思う。

さて1号墳の円墳部頂上から方墳部へ下ってみる。
この古墳は初期の物なので円墳部が方墳部よりもだいぶ高い。
僕が古墳だと思っている富岡八幡宮の裏山の時代には円墳部と方墳部はほぼ同じ高さになる。


綺麗に整備されている。
ただ綺麗になりすぎて、ここが祭祀の場であったと言う可能性が分かりづらくなっている。
そう、円墳部に埋葬施設が有り、その周囲を円筒埴輪が囲んでいるのだから、
葬送の儀式はこの方墳部に至る場所で行われていたはずなのである。
そのせいで古墳は単なる円墳から「前方後円墳」に発展したと考えられている。
後から行く2号墳はちょっと後の時代の古墳なので、1号墳よりも方墳部が大きい。
ちゃんと方墳部も役割が有ったのである。
その辺も説明板に書いて欲しかったなぁ。

<後日追記>
僕は前方後円墳は大和王権の発展(地方への広がり)に伴う、
各地域の首領の世襲の為の「前王の葬送」と「目に見える権威の世襲」の儀式の場だと思う。
それを過去にブログに書いた。
前方後円墳とは何か?
秦の始皇帝が行ったと言う封禅(新しい皇帝がたち、治世が始まることを天に報告する儀式)や
中国の「天円地方(天は北極星を中心に円を描き、地は四神=青龍・白虎・玄武・朱雀が守る)」
と言う思想が具現化したものだと思っている。
しかもそれは古墳時代が終わっても無くなった訳ではなく、形を変えて残ったのだとも思う。
キトラ古墳の中の壁画などが良い例である。
天井には北極星を中心とした「天文図」が描かれ、
四方には方位に従って四神が描かれており、
天井の丸い天文図を前に倒せば、四方の四神と併せて前方後円墳になる。
だから、古墳時代前期には細くて小さかった方墳部が、
「目に見える権威の世襲」を示す場として高く大きくなっていったんだと思う。

1号墳を見終わるとちょっと下り気味に2号墳に向かう。
元気な人コースと書いた蘆花記念公園からのコースはずーと上り坂なので、
バスに乗ってくる普通の人コースで来て良かったなとつくづく思う。

2号墳はまだ未調査で整備はされていない。


この写真だけを見ると小さいなと思うかもしれないが、
1号墳がそうであったように、古墳は何段かの段が重なった構造になっている。
この写真は一番上の段だけなので小さいのである。

1号墳と2号墳の両者が載った説明板が有ったので載せる。


規模的にはほとんど同じか、むしろ2号墳が大きい。
1号墳は円墳部に対して方墳部が細く、古墳時代前期のものだと思う。
説明板では4世紀後半になっている。
これに対して2号墳は右上の図を見ると方墳部がかなり太い(緑色部分横幅が大きい。)
なので数世代後の古墳だと思われる。
ただ、まだ未調査なので結論は出せない。

2号墳下の方の広場からは江の島や伊豆そして富士山が見える。
富士山がうっすらとしか写っていないが、秋なんかだと奇麗に見えると思う。


なんか俳句や和歌が詠めそう。

ここから下って行くのだけれども、途中に面白い所が有った。
これって3号墳では?


まぁでも逗子市は予算が少ないから、僕が「宝くじが当たったら」寄付して調査しよう。
でも今は無理だなぁ。

さらに下って平地に出ると蘆花記念公園が有る。


前回来た時よりもだいぶ綺麗になっている。
5年もたつからなぁ。
蘆花記念公園の説明板ができていましたので載せます。


ここを出ると田越川に出るのだが、なんとボード初心者がたくさん練習していた。
ここの辺は波も無いし、初心者でも安全だから練習場になっているのだろう。


ここから京浜急行の逗子葉山駅に向かう途中に六代御前の墓が有る。
入口に六代御前最後の故址の碑が有る。


墓まで行ってみようかと思ったけれども、山歩きで疲れたので諦めた。
六代御前とは、平高清(1173年-1199年)のことです。父は平維盛。
平清盛の曾孫にあたります。
六代という名は高清の童名であり、平氏繁栄の基盤をつくった平正盛から数えて六代目です。
平家滅亡後の文治元年(1185年)、菖蒲谷に潜んでいたところを北条時政によって捕縛され、
殺害されるところでしたが、
頼朝の強い協力者で平家打倒に暗躍していた僧侶文覚(もんがく)が
頼朝に六代は自分の弟子であるとして助命を嘆願、
赦されて文覚に預けられて出家し妙覚と名乗りました。
その後、将軍頼家に斬首に処せられ、斬首地はこの墓の田越川の対岸にあった池周辺と言われ、
この墓は江戸時代に六代の家臣斎藤氏の末裔を名乗る、
水戸藩士斎田三左衛門尉平典盛によって建てられた供養塚です。

六代御前の墓を過ぎると京浜急行逗子葉山駅に着きます。
その北口付近に、三浦為義遺弧碑が有ります。


説明板にも有りますが、まだ10歳にも満たない子供達を切り殺すなんて北条氏は怖いですね。
この碑は駅のすぐそばなので、行きのバスの待ち時間や帰りの電車の待ち時間の調整によく、
ちょっと見に行くと良いと思います。





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最終更新日  May 10, 2024 03:52:29 PM
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