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カテゴリ: Hiekka aikaa
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Photo By George Manganas
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前回 からの続き)

『日本教について』(文春文庫版)カバーの著者紹介によると、
イザヤ・ベンダサン(Isauah BenDasan)氏は
「1918年生まれ、神戸に生まれる。41年米国へ渡り、移住。
 47年イスラエルへ行き、テル・アヴィヴに住む。
 50年来日。55年離日。現在ロンドン在住。
 著書『日本人とユダヤ人』『にっぽんの商人』」…と記載されている。
ベンダサン氏(=山本七平氏と言ってよいだろう)は同書にて、
本多勝一氏著 『中国の旅』
(『朝日新聞』『朝日ジャーナル』『週刊朝日』にて連載)を批判したがため、
浅見定男氏による批判のための批判本
『にせユダヤ人と日本人』(朝日文庫 1986)にて横から刺されることになった。
これは朝日新聞社挙げての「ベンダサン潰し」であったことは明らかだ。


ところで、自分がユダヤ教に関する本__精確に書けば
マルティン・ブーバー氏著 『我と汝・対話』を読んだのは 1998年 1月であった。
同書を読んで、世界は「因果律」によって支配されているという宿命論を知った。
その一部を抜粋してみよう。

   __世の饒舌家よ、あなたの饒舌はあまりに遅すぎた。
  もう少し前であったら、あなたの饒舌を信じたかもしれないが、
  今はもはや信ずることができない。
  なぜならば、わたしと同様にあなたも、
  国家がもはや充分に支配されていないこと、
  機関士としての指導者たちは石炭をつみこんではいるが、しかし、
  猛烈な勢いで走っている汽車を運転しているように
  見せかけているだけだということがわかったからである。
  あなたがおしゃべりをしているこの刹那、わたし同様あなたも、
  経済の梃子仕掛が異様な音を立てはじめたのを聞くことであろう。
  指導者たちは考えぶかげに、あなたにほほえみかけるが、
  しかし、死が彼らの心に坐っている。
  彼らは機械を環境に適応させたというけれども、
  しかし、実は機械が許すかぎり、
  これからも機械に自己を適応させるのが精一杯なのだということに、
  あなたも気づくにちがいない。
  彼らの代弁者たちは、
  経済が国家に代わって遺産を受け継いだと吹聴するかもしれないが、
  ますます増大する〈それ〉の圧制以外のなにものでもないこと、
  この圧制のもとで〈われ〉はますます無力となりながら、
  支配者をなお夢見ているのだということを、あなたは知るがよい。
  (植田重雄訳『我と汝・対話』岩波文庫 P.61 ~ 62 )


   現代の生物学的思想や歴史主義思想は、彼ら自体いろいろな見方があるにせよ、
  宿命について今までにない過酷な信念をいずれもつくり出している。
  今日では業の力も、星辰の力ももはや
  人間の運命を不可避的に支配するものではなくなった。
  むろん、いろいろな力が支配権を主張してはいる。
  しかし、よく見てみると、多くの現代人は、
  ちょうど帝政末期のローマ人が混合した神々を信じたように、
  いろいろの力の混合を信じているのである。
  このことはそれぞれの力が主張するその要求によって明らかになる。
  生存競争に参加するかそれとも生活を放棄するかという
  優勝劣敗の〈進化の法則〉であろうと、あるいは、
  人間固有の適応の本能から心理的人間を完全に作り上げる〈心理法則〉であろうと、
  あるいは、人間の意志や意識はたんなる付属物にすぎず、
  社会的進歩の過程は個人より優位を占めるという〈社会法則〉であろうと、
  あるいはまた、歴史的諸形体の生成と消滅は、
  いずれも変更しがたく一様の法則性にあると唱える〈文化法則〉であろうと、
  その他なお多数の形体があるにせよ、
  いずれにしても、人間は現象の法則からのがれられず、
  気ちがいにならないかぎりそれに抵抗できないということを、
  つねに主張しているのである。
  密儀の潔めが星辰の宿命から人間を解放し、
  犠牲についてのブラーフマンの正しい教えによって業の強制から自由となった。
  両者の場合には、救いが存在していた。
  しかるに、混合した偶像崇拝は解放への信念を認めないのである。
  自由に想像することすら、愚かしいと考える。
  この場合、自分を納得させて奴隷となるか、
  なんの考えももたずに絶望的な気持で奴隷となるか、
  この二つしか選択の余地はない。
  目的論的発展とか、有機的生成とか、
  すべての法則を、どのようにいいあらわそうとも、
  すべては無制限な因果律を根底に置いているとみなすべき
  必然的過程の狂乱があるだけである。
  事物はしだいに必然的過程をたどるという教えは、
  増大する〈それ〉にたいする人間の屈従を意味する。
  運命の名はこのように考えるひとによって誤って使用される。
  運命とは人間の世界をおおっている鐘ではない。
  自由の行為によらなければ、だれも運命に出合うことはないのである。
  事物が必然的過程をたどるというこの教えは、
  自由の存在する余地をのこさないし、
  また世界の顔をまったく一変させる力をもつ静かな〈転換〉の
  真実の〈啓示〉を受け入れる余地ものこしていない。
  さらにこの教えは、転換によって一切の闘争を克服する人間の存在を認めないし、
  またこの転換によって利用の衝動の網を引きちぎり、
  階級の圧迫から自己を解放し、しかもこの転換によって歴史の構造を沸騰させ、
  若返らせ、変様させてしまう人間のあることを知らない。
  この必然的過程の教えは、将棋のゲームにあたってルールを守ってゆくか、
  それともゲームをやめるか、いずれかをあなたに選択させるだけである。
  これに比べ、転換を行うひとは、将棋盤をひっくり返し、
  駒をめちゃくちゃにしてしまう。
  この必然的過程の教えは生活に必然的な制約を強制しながらも、
  精神にはまだ〈自由がのこっている〉と思わせようとしている。
  しかし転換を行うひとは、このような誤れる自由を、
  もっとも恥ずべき奴隷的なこととして軽蔑する。
   人間にとって宿命となり得る致命的なことは、宿命を信ずることである。
  このために転換の運動を人間は押さえつけてしまう。
   宿命への信仰ははじめからまったく迷信である。
  事物は必然的過程をたどるという考え方はすべて、
  孤立してしまったこの世界の出来事や対象化されてしまったものとか、
  まさに生起してしまったものなどをもさも歴史ででもあるかのように、
  整理分類してみたにすぎない。
  しかるに、〈なんじ〉の現存、〈なんじ〉との結合から生まれる生成は、
  これらとはまったく無関係である。
  宿命への信仰は、精神の実在を知らず、彼らの図式は〈なんじ〉の精神には妥当しない。
  対象的なものにもとづいておこなう予言は、
  〈なんじ〉の現存を知らないひとにのみあてはまる。
  〈それ〉の世界に打ち負かされたひとにとっては、
  変更できないこの必然というドグマこそ
  増大しもつれる現象を真理と思うかもしれない。
  だがこの真理にしたがえば、ますます〈それ〉の世界に隷属してしまうのである。
  しかるに、〈なんじ〉の世界は閉ざされた世界ではない。
  全存在の集中にめざめ、よみがえった関係の力でもって
  〈なんじ〉の世界へと出てゆくひとは、深く自由を悟るであろう。
  自由は存在せずという信仰を放棄することこそ、自由となることを意味する。
  (前掲書 P.71 ~74 )


得てして、人間は
「あの状況では(…あるいはあの時 置かれていた立場では )ああせざる得なかった」
「戦中は軍部や憲兵が取り締まっていて__」
「戦後は GHQ が言論統制を敷いていて__」
「秋葉原の通り魔事件直後はああいわざるを得なかった__」
などと過去を振り返って弁解するものだが、
時勢や権威へ責任転嫁する者は、
彼ら自身を支配する〈それ〉の名の下に、他人の自由を奪うに違いない。
 (つづく)





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Last updated  2015年05月16日 09時45分34秒


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