山口小夜の不思議遊戯

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2006年01月10日
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メロス 綾一郎は激怒した。

 彼は一年生でありながら水泳部の副主将として夏合宿に出ていたので、その知らせは帰宅の後に両親によって伝え聞かねばならなかった。

 ──さわのゆたさんが、守宿に選ばれた折に怪我を負って、それから寝たきりになってるって・・・・。

 はじめ彼は、無感動にその報せを受けいれているようだった。
 家の縁側に彫像のようにじっと座り、手を膝の上で組み合わせ、頭をかすかにうつむけて。
 そして午後になってからもその恰好で座ったまま、ほかの家族たちが家事に立ち働いているあいだ、悲しみがゆっくりと自分の心臓を食いすすんでゆくのにまかせた。

 田中一族の家人たちは、彼を見つめていた。
 この長男とさわ(不二一族の本家の屋号)の五男が幼馴染みの仲良しであることを知っていたこともあるが、なんといっても相手は呪師であり、こういった危機のときに彼らがどういった動き方をするものなのか、誰も知らなかった。だから、呪方以外の村の人々は、気遣いと畏れのいりまじった思いで不二一族の敷地を見つめるばかりだったのだ。


 一粒の涙も流さなかった。ただ、座っていた。そのあいだも、心は危険な速さで駆けめぐっていた。

 守宿に選ばれた者が傷を受けるという話は知っていた。
 綾一郎自身、説方(くどきかた)の一族の嗣子として、守宿の君は崇敬するべき対象である。そして、小角さまも、先代の尾(あしたれ)さまも、守宿の戴冠にあたって、明らかにそれとわかる傷が神から与えられた。

 では、豊が神託によって守宿に選ばれたとするならば──これについても山ほど疑問はあるにせよ、今は問わないことにする──傷はどこに受けたのだろう。
 しかもそれは寝たきり・・・・になるほどのフェータルな傷だというのか。
 彼は自分の失くしたものを思い、豊のことを、それから自分自身のことを思った。

 これまでの短い人生の、豊と共に生きてきた頃の出来事が、断片的だが鮮明な細部をともなって現れた。なかでもくりかえしくりかえし甦ってくる、ひとつのことがあった──彼が声をあげて泣いた、ただ一度きりのことが。

 それはまだ、ふたりが小学生のころ。転校生が去って、まもないある日のことだった。
 それまで喪失感に耐え、知っているかぎりの気を紛らわせることをして、大将としての気概が崩れ落ちようとするのをこらえていた綾一郎の目に、ふいに涙がこみあげてきた。

 下校の途中、彼は豊とつれづれに語らっていたのだが、ふいに膝頭に顔をうずめてしまったのだ。


 それがおさまり、顔を上げたとき、豊が黙って自分のそばに座っているのに気づいた。彼はぼんやりと草をつつきながら、焦点の定まらない目で小川の流れを見ていた。

 ふたりの目が合ったとき、綾一郎は言った。
 ──あの娘(こ)は、行ってしまった。

 はじめ豊は、なにも答えなかった。
 だがその瞳は、綾一郎の魂をまっすぐのぞきこみ、豊のやすらかな表情に、彼のささくれだった心はあらがいようもなく和まされた。それから口元にごくうっすらと笑みがよぎり、豊はあの言葉をつぶやいた。



 そのあとのことも、ありありと思い出せた。
 豊が傍らから立ち上がり、自分の小さなしぐさに「あの子のいるあいだ、おまえはよくやった」と語らせたこと。その手がつと伸ばされて、そっと綾一郎の手を包み込み、優しく立ち上がらせてくれたことを。

 それからごく自然にふたりがかわした会話を、少年らしい機知にとんだ応酬や、思いやりのこもった励ましとは無縁の、無意識のごとく続けられた語らいを憶えていた。
 帰りの道は、なにか目の見えない、天国の霧のような流れに浮かんで、どこまでも宙を漂っていくようだった。それはふたりのいちばん長い語らいだった。沈黙が落ちようとするとまた、どちらからともなく話しかける。

 ──それで、それでさ・・・・、

 ふたりの魂はひとつの塊りと化した。

 太陽が山の端に沈んでも、ふたりは離れずにいた。
 一緒にこの里に生まれ落ちてはじめて、その夕刻、彼らは別々の家に帰るのをためらった。

 ようやく風の寒さがふたりの感覚のもとを同時に訪れてきたとき、綾一郎は大将であることの重荷が突然ふっと軽くなり、自分の悩みがとるにたりないものとなるのを感じた。
 そして、もう里を去っていった少女のことは考えなくてもよいのだということを悟ったのを憶えていた。そのときはじめて、自分自身がこの地上でたったひとりの人間だと、都会と里に引き裂かれていない純粋な一個の存在だと感じられたのだった。

 ふとまばたきをした瞬間、綾一郎はまた、田中家の縁側の現実に引き戻された。
 自分はもう大将ではない。私欲のために動いてもいいのだ。幼馴染みであり、今や高校の同級生でもあるかの者が、親友である自分に断りもなく、しかも自分の意思でもなくおかしな儀礼に出立させられたばかりか、意識をなくして戻ってからすでに数日経つという──このうえなにを、待つことがある?

 綾一郎は立ち上がり、このまま不二屋敷を目指すことを心に決めた。

 そうして拝殿に駆けつけたとき、彼はそこに寝かされている者を見た。
 と同時に人の影が、布団の傍らでゆっくりと動いているのが見えた。一瞬のあと、豊の母のようである人影は灯火の下に足を踏み出し、綾一郎ははっと首をひっこめ、基壇のすぐ下にある暗がりに身をかくした。

 痺れきって爪先が白くなった足でうずくまりながら、耳を皿のように大きくして、まるで全神経がひとつにしぼられたように、綾一郎は物音に神経を集中させた。

 頭がぐるぐると回転していた。
 寝かされているのが豊だとはわかったが、こうまで弱々しい姿を予期していなかった彼は、衝撃のあまり頭にガツンと一発くらったようにめまいがした。

 綾一郎は地面にしゃがみこんだまま、額いっぱいに冷たい汗の玉を浮かべていた。自分の見たものが把握しきれず、もう一度見るのがおそろしかった。
 そのとき交代を告げる豊の兄の声が聞こえ、ありったけの勇気を奮いおこし、彼はそろそろと頭をあげて、拝殿の内懐をのぞき見た。

 死ぬほど見飽きた──けれども、何日か会わなかっただけで、こんなにも懐かしい。

 だが、豊は敷布を掛けられて人形のように眼を閉じたまま、包帯の巻かれた四肢をだらりと伸ばし、顔も無防備に仰のけたままで・・・・。

 傍らには、先刻母と交代した彼の兄のひとりが坐っているのが見えた。人影は背を向けていた。
 呪師が懐刀を手にしたまま、歌をうたうようにして祈言(ねぎごと)を唱えている。
 じっと凝視したままでいると、ふいに人影が動き、軽快にも感じられる仕種で、左のたもとをまくった。ついで、傷ひとつない健康そうな象牙色の内腕に、携えていた小刀の銀色の刃を逆手に握り、ためらいもなく突き立てた。

 裂かれた血管からドクドクとあふれ出る血潮を見守る顔は、やはり楽しげ。
 信じ難い光景を目の当たりにして、苦しげに歪んでいるのは、見つめる綾一郎の顔の方だった。

 前腕からは深紅の血がほとばしり、すでに床にしたたっているというのに、彼はさらに肘を差し向けて、太い血管を探している。持ち直した懐刀を、静脈の透ける肘裏に当てた。ふたたび突こうとして、血で手がすべった。落とした凶器を拾い取って、自分の装束で拭いた。ぬめる手も着物にこすりつけてぬぐった。指先で脈を探っている。切っ先をあてがうその顔は、今度は真剣そのものだった。

 一気に突き刺そうとした。

 それを見た瞬間、綾一郎の金縛りがとけた。
 まったくなにも考えず、だしぬけに立ち上がると、拝殿の縁に這い上がった。そしてどなった。その声は静寂のなかで、銃声のようにとどろいた。

 ──おい、なにをしている!

 ──

 円は文字通り、宙に飛び上がった。

 自分を死ぬほど驚かせたその声のほうに首を向けたとき、弟の喉奥に隠される竜骨に、今まさに自分の生き血を滴らせて精気を分けようとしていたこの呪師の青年は、面妖きわまるものと相対していた。

 ここは不二屋敷の拝殿──呪方(まじないかた)の聖域であるはずなのに、正装をするどころか、こともあろうに西高の水泳部のユニフォームを着た少年が、そこに仁王立ちしていた。

 ずかずかと拝殿を横切って歩いてくる。両の拳をにぎりしめ、顎をぐっとひき、そして肌は目を瞠るばかりの浅黒さだ。

 そうやって、綾一郎は誰に断りを入れることなく、拝殿の中央まで侵入してきた。だが、豊の前に突っ立ち、寝かされた彼の周囲になにやらおかしな文様の描かれたお札やらが取り囲んでいるのを目にした瞬間に、自分のなかから生気が抜け出していくのを感じた。

 豊の身体の至るところに、暴行の痕がある。
 誰にされたのかは知るよしもないが、どんな仕打ちを受けたのか、そのひとつひとつがひと目でわかるような生々しいものだった。とくに身体中に無数につけられた血の鬱血・・・・。
 それを見て、綾一郎はついに確信した。

 ここに寝かされているのは彼の親友ではない。
 彼はこの一族をけっして知り得ない。千里も離れているのと同じことだ。
 自分はこの一族に、いったいなにを期待していたのか。
 彼らが駆け出してきて、彼に事の次第を詳らかに語り、彼にお伺いをたて、許しを得、彼と意見を分かち合うことか。

 親友とばかり思っていた少年は、事前に儀式の出立への挨拶もなかった。否、このような理解不能な儀式の存在すら口にされなかった。
 なんという孤独だ。なんと哀れなのだろう。
 不二一族の者に対する勝手な期待をもてあそび、ふだんから彼の温厚さにすがりついて、自分自身に正直にすらなれなかったとは。
 あらゆるところで自分をだまし、なにものでもない自分を、この稀人の少年の、親友であるかのように思い込んでいたとは。

 そんな怖ろしい考えが頭のなかで炸裂し、脈絡のない火花の嵐のように飛び散った。
 いま彼の立っている場所も、この太古から連なる血脈が守る拝殿の入り口にいることも、もはや問題ではなかった。綾一郎は自らの恐るべき精神の危機に押しつぶされ、翻弄されていた。彼の心、彼の信頼がいちどきに、遠くへ行ってしまったのだ。どこか奥のほうでスイッチが切られ、綾一郎の心の灯りは消えてしまった。

 自分のなかにぽっかりと空洞があいてしまったことしか意識できないまま、綾一郎は爛々と憤った眼をして円が手にしていた小刀をひったくり、瀟洒な神棚へと思うさま投げつけた。

 それから前のめりになり、膝をついて床の上を何歩か進んだ。
 彼の手がすっと豊に伸び、一瞬のうちにその頭が腕の中にあった。それをぐいと持ち上げ、なにか愛おしいものを胸に抱きしめるように、両手で支えて揺り動かした。

 ──ゆた、起きろ・・・・何があったんじゃ!






 両生類の血は赤い色をしているのかな・・・・なんて思う今日この頃。

 明日は●邂逅●です。
 綾一郎にとっては、明日までつらい一晩になってしまうかもしれないな。
 タイムスリップして、兄弟たちと一緒に彼を力づけてあげてください。

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最終更新日  2006年01月10日 07時47分15秒
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