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敦子疾走る
敦子疾走る
乾いたアスファルトに光芒が走る。二昔前の無骨なクルマが深夜
の山道をかなりの勢いで駆け抜けていく。乗員はひとり、クルマに
は不釣り合いな艶っぽい女だ。年の頃は30を少し過ぎたといった
ところか。いかにも意志の強そうな眉と、そのくせ一人では生きて
行けそうもない寂しげな瞳が印象的だ。デニムのジーンズに飾り気
のないコットンのシャツ、その上にざっくりしたカーディガンを羽
織り、スニーカーを履いている。助手席の上には大振りのバッグが
無造作に置かれ、よれよれになったタバコのパッケージだのライタ
ーだのが散乱している。
急な登りのタイトコーナーにかかった。細い足首にぴくんと緊張
が走り、華奢な手首が絶妙のタイミングでシフトを踊らす。猛烈な
減速Gを物ともせず、正確なリズムでクルマは向きを変えた。タコ
メーターはメトロノームのように盤面を踊り、ときおりアフターフ
ァイアーの破裂音が山々にこだまする。
敦子は、このクルマが好きだった。レースに勝つ為だけに生まれ
てきた鬼っ子、道具としてのバランスを欠いたゲテモノ。たったひ
とつの目的のために、なりふり構わず突進していく姿勢が、彼女に
ある種の感動を与えた。あるいは、彼女のかって愛した男の面影を
そこに重ねているのかも知れない。
現代のイージィなスポーツセダンと比べれば、性能的には見る物
は何もない。しかし、何の変哲もないOHCストレート6のビート
が、お粗末な13インチのタイヤが、フォーマルセダンにオーバー
トップを付け足しただけのミッションが、敦子の心を熱くさせる。
飼い慣らされた家畜のような、利口なだけの男達。傷つく事を恐
れ、当たり障りのない無害な会話で都会の人混みを泳いでいく、去
勢された男達。そういった、毒にも薬にもならないブリーチアウト
された男が、彼女は嫌いだった。例え間違った事でも良い、なにか
ひとつくらい打ち込める物をもったらどうだ。私を口説くなら、逃
げる準備などせずに正面から口説いたらどうだ?
敦子は、いまさらながら、取り逃がした獲物の大きさを悔やんで
いた。まだ若く、自分の人生にバラ色の夢を描けた頃、敦子は、見
せかけの男らしさに魅かれてスポーツマンと呼ばれる男を選んでし
まった。だが、アクセサリーとしては優秀でも、彼女の激しい気性
を受けとめるだけの器ではなかった。いや、彼女の激しさに応えて
やれる男など、そうはいるものではない。そう、あの男は特別だっ
たのだ。
道は平野部に入り、直線が多くなる。敦子はセイラムを一本とる
とライターで火をつけた。軽く口先だけでふかす。メンソールの涼
しさが、昔の記憶を呼び戻す。・・・これはね、男達が夢を託して
造り上げた、勝つためのクルマなんだよ・・・
「でも、不細工だわ」
・・・ははは、真剣なものはいつだって不細工さ、人目を気にし
てちゃろくなもんはできないよ。こんなもんでポルシェと戦おうと
した、当時のエンジニアの気持ちを考えると、僕は嫉妬さえかんじ
るよ・・・
「馬鹿みたい!」
・・・男は馬鹿だから男なんだよ・・・
「じゃ、あなたは男の中の男だわ」
・・・ははは、光栄だな・・・
重いアクセルをぐいと踏む、ウェーバーの加速ポンプが働いてエ
キゾーストがばおと鳴く、ヘッドライトに飛び込む虫の影が路面を
走る。
コーナーだ、シンクロをいたわりながら踵で回転を合わせる、ワ
ーナータイプのかちりとした手ごたえが心地よい。セカンドまで落
としてすかさずパワーを掛ける、テールが緩やかに流れるのを右足
で抑える。不格好なセダンは、滑るように闇の中を駆ける。
なぜ私は、彼を選ばなかったのだろう? そうだ、わたしは彼が
こわかったのだ。自分の中の何もかもを見透かされるような気がし
て、逃げたのだ。甘えて、信頼して、飛び込んでいけば良かったの
だろうか?
私は、「おんな」であることが嫌だった。美しい女と言われる事
が嫌だった。にんげんとして認めて貰いたかった。女のくせにと言
われたくなかった。そんな私の気負いが、彼を遠ざけてしまったの
かも知れない。結局、わたしは「おんな」を求める男を選んでしま
った。口当たりの良い言葉に魅かれて、気楽に暮らせる相手を選ん
でしまった。
口では褒めたたえ、陰で迷惑がる男達。わたしは、きままな女王
のように君臨し、男と対等に生きているつもりでいた。とんだ道化
だ。
寝静まった街に、穏やかな排気音だけが響く。メルツェデスに範
を求めた国産初の六気筒エンジン、エンジニアの理想を追うが為に、
小賢しい商人との商戦に敗れ、散っていった男達の忘れ形見。あの
男がこのクルマを愛していたのがわかる気がする。勝ち目のない戦
いに、手持ちの技術の全てを駆使して立ち向かっていった男達への
嫉妬。今のわたしには、あなたの心が理解できる。歳を重ねる事で
しか手に入らない物が、この世にはあるのだわ。
信号で止まると、となりに黒いスポーツクーペが並んだ。広告塔
のようにスペックを貼りまわした小綺麗なクルマの中から、女のよ
うに着飾った男がこちらを見ている。男の子は、歳さえとれば男に
なれる訳ではないのだな。おめでたい男は、カタログの数字を鵜呑
みにして挑戦してきた。ふふ、このおばさんは手ごわいわよ。
フライ・オフに改造してあるサイドを引き、5500を保つ。隣
の信号が赤になった瞬間に半クラッチで待機、右足は5500を維
持。フェーシングの焼ける臭いが侵入してくる。・・・大丈夫、こ
いつを信じてやってくれ・・・
青になると同時にサイドをおろし、敦子は弾かれたように飛び出
した。3000までドロップしたあとは、すぐに吹けきる。すぱん
とクラッチを切り、セカンドにシフト、6000を維持したままゆ
っくりと繋ぐ、ぶっきらぼうな彼には不似合いなほどの繊細さが不
思議だったが、今は理解できる。バックミラーに映るのは、昨日ま
でのわたし。お利口な飼い犬の群れ。養殖された野獣たち。そして、
わたしの迷い・・・・・。
解き放たれた野獣のように、敦子をのせた無骨なクルマは闇の中
に消えて行った。
了
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