藤の屋文具店

礼子疾走る

　　　　　　　　　　　　　礼子疾走る

「くそ、暑いなー！」

　ニュートラルを出しながら礼子はつぶやく。インジケーターのグ
リーンを確認しながら、指３本で握っていたクラッチをすっと放し
た。頭上からは真夏の太陽がじりじりと照らす。風を切って走るバ
イクは、見るぶんには涼しそうだ。爽やかな行為の代名詞のように
見えるのだろう、クーラーの効いたセダンの中から、羨ましそうに
少女が見つめる。

「あまいぜ！」

　左手の人差し指でシールドをすっと上げる、顔に当たる冷気が気
持ちいい。胸元まで開いた革のツナギから、獣の匂いがむっと立ち
昇った。ヘルメットのベンチレーターはただの飾りだ。ファンデー
ションが流れてしまうじゃんかよー！
　やっと動きだした列に続いてゲートを目指す、おらおらおにーち
ゃん、はよいけよー！　チケットをジッパー付きのポケットにねじ
込んで、しずしずとランプウェイを加速する。胸元から入った風が
背中をはらませ、なま暖かい風が身体を洗う。汗がすうっとひいて
いく。
　礼子は、ツナギのジッパーをぐいと引き上げ、腰を少し後ろにず
らした。ステアリングダンパーを少し締め込んであるので直進は楽
だ。手首にだけ力を入れて、肘と肩から力をすっと抜く。腹をタン
クバックに軽く乗せ、ニーグリップはほどほどに。
　走行レーンの中央を１００で流す、つまらない道だ、休日の午後
は流れが遅い。登坂車線のある区域に入った、前走車のペースが落
ちた。一速落としてアクセルをひねる、排気音がぅわんと大きくな
る。負荷のかかった高回転域での叫びは、アルプスにこだまするホ
ルンを連想させる。礼子の意志を感じとったマシンは、わずかにリ
ーンしながら隣のレーンへと泳いだ。視野がぐんと狭まり、周囲の
景色がコマ落としで後ろに流れる。と、前方に遅いクルマが車線を
塞いでいる。
　呪いの言葉を吐きながら、ミラーで後ろを確認してから走行車線
へ戻った。身体が自動的にウィンカーを切り、シフトをなめらかに
叩き込む。勇ましいホルンは、再び退屈な排気音に戻る。楽しい事
は、長くは続かないものなのだ。あと１８０キロ。退屈な道はずっ
と続いている。
　じりじりと照りつける太陽、ハミングするエンジン、平和な真夏
の昼下がり。そして延々と続く単調な走り。いつしか礼子は虚空に
静止していた。アスファルトが、風景が、マシンの下を淡々と流れ
ていく。礼子の時間だけがゆっくりと流れる。
　そうだ、私が生きていくのではない、人生が私の周りを流れてい
くだけなのだ。立ち止まって考える事を許されぬまま、定められた
人生は私を運ぶ。なぜ、わたしをそっとしておいてくれない。

　２ストローク特有のビートが身体を揺すり、フェアリングの内側
を熱気が這い上がる。じっとりと汗を吸った革のツナギは礼子の身
体を暖かく包み、彼に抱かれる時とは違う安心感が、しっぽりと彼
女をくるんだ。
　所詮、私はわ・た・し、この心も身体もわたしひとりのもの。わ
たしは誰のものにもならない、ひとりで生きていくんだ、ひとりで。
　アスファルトの彼方に逃げ水が見える、入道雲が高くそびえてい
る。と、前方に渋滞の列が見えた。後尾の数台がハザードで異常を
知らせている。追突されぬよう、ハザードを点滅させて路側帯に入
り、減速して現場に近づく。
　事故だ、若い男が電話をかけている。顔には血の気がない。停車
している大型の脇にバイクをとめる、サイドスタンドが焼けたアス
ファルトにずぶとめり込む。エンジンを切ると、一瞬、耳がじいん
となった。ヘルメットを脱いでフックに掛ける、爽やかな風が髪を
流す、蝉の声が聞こえる。少しふらつく足どりで、灼熱の路面を歩
く。広がるのはハイコントラストの世界。
　最新型のバイクが転がっていた。前輪がぐにゃりと曲がり、あた
り一面にポリカーボネートの破片が散らばる。割れたクランクケー
スからオイルが滲み、そこらじゅうにバッグの中身がぶちまけられ
ている。歯ブラシと下着に混じって、乳臭い少女の写真が落ちてい
る。陽光にきらめくガラスの破片の中で、少女ははにかんで微笑ん
でいた。１０メートル程先に人だかりがしている。

「あぁ、もうだめだな」

　声が聞こえる。礼子は、何故かどうしても行かねばならない気が
して、列をかき分けた。助からない事は一目でわかった。車輪に巻
き込まれたのだろう、彼の腹部には厚みがなかった。右足は奇妙な
方向に捻れ、膝から下がひくひくとうごめいている。黒ずんだ血液
がアスファルトを覆い、表面には薄い膜が張っている。腹腔からは
雑多な臓物がはみ出し、じりじりと焦がされてひからびかけていた。
むっとする臭気をものともせずに膝をつくと、礼子は彼の頭を抱い
た。

「だいじょうぶだよ、安心しな！」

　額に脂汗を浮かべたまだあどけない少年は、かすかにほほえむと
礼子の胸に顔を埋めた。周りの騒音が、どこか遠いところで聞こえ
る。礼子の胸の鼓動だけがどくんどくんと大きく響く。周囲の風景
はネガのように反転し、時間は凍り付いた。
　何故わたしはこんな事をしているのだろう？頭の中で思考が空
回りを続ける。腕に、少年の重みがずしりとかかる。

　どのくらい経ったのだろう？救急車のサイレンの音に我に帰る
と、少年は静かになっていた。眠るような穏やかな顔に別れを告げ、
礼子はあっけにとられる野次馬を後目に走りだした。パーコレーシ
ョンを起こしてぐずるエンジンにブリッピングをくれ、神妙に加速
する。道は、何事もなかったかのように、退屈に続いている。この
穏やかな道は、今までにいったいいくつの命を吸い取ったのだろう？
多くの人がこの道を通る、昨日も、今日も、そして明日も。
　礼子のマシンは加速を始める。アスファルトの大河に角笛の音が
響きわたり、銀色の馬は少女と駆ける。

　道は、どこまでも続く。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　了

ジャンル別一覧