藤の屋文具店

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ブルースカイブルー (to A)



            【つれづれ】

           ブルースカイブルー


 二月にはめずらしいほど暖かい日差しを浴びて、透明な青い空を
眺めていた。誰もいない芝生のイスに掛け、遠くの空を見上げてい
るうち、ずっとずっと昔の、僕がまだ僕になる前の、若く幼いあの
日のころを、すうっと思い出していた。

 もう20年以上もまえになる。二十歳を少し過ぎたばかりの僕は、
生きる目的を無くして、ただ、目の前のことだけを見つめ、逃げる
ために何かに没頭したがっていた。アルバイトの仕事を、お金のた
めというより、誰かが僕を必要としてくれている、お金を払う価値
のあるものとして僕を認めていてくれる、まるでそんなことを確認
して安心することが目的のように、一生懸命こなしていた。
 困難な仕事やきつい仕事は、他のことを考えずにいられるので好
きだった。ぎらぎらと照りつける炎天の下で、全身から塩を吹きな
がら静かに働いた。損得など考えもせずに、ただひたすら、寂しさ
や虚しさから逃げるためだけに、目の前のちっぽけな仕事に全てを
集中して、機械のように、黙々と働いた。
 そんな僕を見て、優しく近づいてきたひとがいた。夢も目的も見
失い、何を語ることもせずにもくもくと生きる僕を見て、皮肉にも、
大きな目的をもって生きる男と勘違いして、そんな甘ったれたぼう
やを、何も返してくれるはずもない半端者を、彼女は嬉しそうに包
んでくれた。無邪気な僕は、与えられるものを受け取るだけで、返
せぬことを恥じることも無く、ぬくぬくと、暖かさの中に浸って過
ごしていた。

 この歳になって考えてみれば、30を過ぎた大人の女性が、そん
な甘ったれたぼうやの心など、見透かせないはずもない。振り向き
もせずに自分の事だけを考える幼い僕にかまったのは、彼女もまた、
そういう相手を必要としていたのだろうか。
 ひとは、独りでは生きていけないという言葉の上面とは別に、ひ
とに囲まれていても感じる孤独というものは、多い。様々な違いを
超えて強くつながる心もあれば、同じにしか見えぬ相手とすら断絶
してしまう心もある。理解しあえない人に埋もれて暮らすなら、そ
れは無人島と変わりはない。普通に暮らしているひとりひとりの中
にも、誰にも知られぬ孤独は多い。

 孤独から逃れるためにあがく人を、そう指摘して責めることはた
やすい。分析にアドバイス、前向きに生きようね、反省しようね、
そういった言葉を鮮やかに並べ立て、さあ立ち向かえ頑張れと励ま
すことは、歳をとれば誰にでも簡単にできる。
 だけど、今の僕は、もう、そういうことを、口にすることができ
なくなった。そう、そんなことは誰でも、心の奥のほうではわかっ
ている。わかっていてなおそうするのは、そうすることしかできな
いからだ。知らねば言える正しいだけの言葉は、歳を重ねるごとに
少なくなり、黙って見ていることばかりが増えてきた。
 言葉などなくてもいい。辛いことから逃げようとしてもっと辛い
ことになったら、その時は、どこへも逃げられなくなって暗闇に取
り残されたその時は、独りではどうしようもなくなったその時は、
黙って手を引いてやればいいだけだ。ひとの歩みを止めるのは、絶
望ではなくて諦めだということは、体験した人なら知っている。

 失ったものの形に合わせて何かを押し込んでも、もとのものには
戻らない。次々と重ねる紙のように時は過ぎ、触れただけではわか
らぬ傷が、透かし模様のように心を包む。振り返った心で今を見上
げれば、すべての傷がそこにある。血を流し、ずきずき痛んだ傷口
も、過ぎてしまえばただの模様になる。なつかしい模様も、それを
いま刻んでいる人には、辛く哀しい。通り過ぎて来た者だけがわか
る真実など、現実の痛みの前に、何の意味があるだろうか。

 青い青い空が、一面に広がっていた。

                         2001.2.19



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