出羽の国、エミシの国 ブログ

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2016年06月01日
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虎尾の会のメンバー(盟友)である 伊牟田尚平 益満休之助 (1841年生)の2人の薩摩藩士を取り上げたい。
 幕末の歴史で、 伊牟田 は薩摩藩を脱藩し、 ヒュースケン を暗殺したことで知られる。八郎の 九州遊説 にも同行し、逃亡の間 八郎と多くの時間を共にしている。地元が九州、薩摩出身である伊牟田なしでは九州遊説は思うようにいかなかったことだろう。八郎にとって信頼のおける人だったに違いない。

 特に薩摩藩は藩内の警戒が厳しく、“薩摩飛脚”と言われた危険な地域であり入ることすらおぼつかなかった。八郎は自身は薩摩領内に入らないで水田(天満宮)や阿蘇(宮)などに居て、伊牟田と平野(国臣)にそれぞれ書簡と上書を島津久光に渡すことを託した。伊牟田も脱藩していたため入ることは危険で途中捕らえられたが熱誠で書簡を渡すことに成功させた、そして平野と大久保(一蔵)と面会し話をする機会をえることにつながった。結果、2人は無事に戻ってくることもできた。

 益満は、大久保と同郷で薩摩藩で幕末維新に活躍した人を多く出した三方限(さんぽうぎり)出身だ。三方限とは、3つの郷の意味なのだそうだ。益満からは生麦事件のことなど薩摩藩の情報も得られていたようだ。益満の活躍は後に紹介したい。ちなみに平野は西郷隆盛と月照が心中事件を起こした時には同じ船に乗っていて西郷を救ったりした尊王攘夷派の福岡藩士で、八郎と幕末の活動で意気投合した。後の歴史から見て尊王派の行動はお互いにネットワークのようにつながっていたことがわかる。


 八郎の死後のことと話は前後するが、1867年(慶応3/10月~)、2人は 西郷隆盛 の密命を帯びて江戸薩摩藩邸を本拠として約500名の浪人を集め指導し 江戸市中撹乱 (強盗・放火等の破壊混乱工作)を行った(浪人を集めるやり方は八郎の浪士組に似ている?)。この時、庄内藩は 江戸取締役(江戸市中の警備/ PKO見たいなもの)を務めていた。推測になるが後の益満の行動からわかるように伊牟田と益満はこの作戦には気が乗らなかったのではないかと思われるところがある。

 1868/1/17(慶応3/12/23)には、挑発、催促するかのように薩摩 佐土原藩 (現宮崎県)が、 庄内藩(駐屯所)への銃撃事件 を起こす。

 これは薩摩藩・西郷の罠だったのだが、1868/1/19(慶応3/12/25) 業を煮やした庄内藩は薩摩藩の起した江戸市中撹乱を収めることと 薩摩藩に対する報復を目的に、幕府軍(庄内藩が主力)として 三田の江戸薩摩藩邸 を襲撃し焼打ちを行った。いわゆる 薩摩藩邸焼打ち事件 で戊辰戦争のきっかけとなる事件になってしまった。戊辰戦争で、庄内藩は 主に薩摩藩と対戦することになった。その戦いは 清川口 での戦争以前すでに 江戸

 “ 虎尾の会 ”にいた伊牟田と益満にとって、 庄内藩 は八郎と 虎尾の会 を苦しめた藩でもあった。八郎から庄内藩について聞かされ、藩についてのある程度の知識を持っていたとしても不思議ではない。西郷にとってこの2人は、対庄内藩、 江戸市中撹乱作戦を任せられるうってつけの人物だったのかもしれない。


 ところでこの話には、続きがある。益満と山岡の話(山岡(鉄太郎)により口述で残された話)へと移る。
 江戸薩摩藩邸焼打ち事件により、 益満 は首謀者として捕えられた。しかし、逮捕され処刑される直前に勝安房(海舟)によって身請けされ、不思議なことに 勝(安房/麟太郎/後の海舟) の自宅にかくまわれたという・・・そして、3ヶ月後のことだ。

 薩長軍(5万人)が関東に迫り、江戸攻めを行おうとする直前、 山岡 (鉄太郎)は上野で謹慎中の 徳川慶喜 の伝令として、駿府にいた官軍の 西郷隆盛 へ会いに行くことを引受けた。それは、慶喜の恭順の意を伝え、江戸を戦火から防ぐための会見・交渉をすることが目的だった。
 山岡は、すぐに勝(安房/麟太郎)に 「西郷へ会いに行く許可」を願い出る。その時、勝が満益を同行させることを依頼し、勝の家で山岡と益満は再会することになるのだった。
(八郎の死後約4年半、虎尾の会メンバーがどんな活動をしていたかは不明だが、メンバー同士の何かしらの交流が続いていたとしても不思議ではない。)

 山岡と益満は2人で生死をかけ 薩長の兵5万人 が東進し 西郷隆盛が駐留していた 駿府 (静岡市)へと向かった。

 西郷に会うには、途中、薩摩藩兵士や長州藩兵が多くいる中を進んでいかなければならない。幕臣の山岡一人ではとても危険だった。そこで薩摩藩士である益満が、「対薩摩長州兵調整役」として活躍する。
官軍先方隊のいた 六郷河 (現東京都と川崎市県境)から 神奈川 駅(現横浜市)までは 山岡が先頭に、長州藩士が多くいた 神奈川 駅からは 益満が先頭となり 「薩摩藩!」と名乗りながら、2人で5万人の敵陣深く 急ぎ進んで行った(後に、薩摩藩の先方隊が 突破された2人を追いかけ切殺ろそうとしていたことが判明するが無事だった)。

 なんとか無事に西郷と会うことができ、 江戸城無欠開城 事前交渉 (1868/4/1(慶応4/3/9))を成功させることができた。(これにより、江戸薩摩藩邸での勝安房と西郷隆盛との会談(1868/4/5.6(慶応4/3/13.14))へと進むことになる。内容は山鉄舟研究会のブログを参考。)

 しかし、生きて帰らなければ交渉自体が成功したことにはならない。
その帰路には、 品用駅 番兵に質問され(近距離から山岡の胸を狙い)発砲されるという事件が起きている。幸い弾は 奇跡的に雷管のみ発して不発に終わったが、益満も驚いてその兵の持っている銃を打落し、発砲した番兵に向って西郷に会って話をしたことを伝えるが納得せず、伍長のような人(山本某)が出てきて諭したことで 発砲した番兵は不服ながらようやく退いた、というほど非常に緊迫した状況だった。

 この話は、 江戸城無血開城の実質的な立役者が山岡であったといわれる 所以のエピソードだ。
  • 武士道 山岡鉄舟.jpg
←  「武士道」/ 山岡 鉄舟 口述
 左の本の「 山岡先生と西郷氏応接筆記 」(明治15/3月)から引用。

  敵陣までの往復の道のりを無事に生きて帰って来ることのむずかしさが伝わる。益満の協力がなければ西郷に会うこと自体むずかしがったのかもしれない。江戸での戦争は紙一重のところで回避された。虎尾の会の人脈が生きた出来事だったとも言える。これは慶喜を助けるため、というだけではなく無駄な戦争をなくしたことに大きな意味があった。山岡の勇気ある行動と薩摩藩出身の益満が立場を超えた旧幕府勢力のために命をかけた行動が賞賛される。ここには“人のため”という虎尾の会の人たちの精神が現れているように思う。
 図にすれば、“ 徳川慶喜(山岡鉄太郎) 西郷隆盛(益満休之助)(三方限出身)” 。山岡と益満の命がけの行動がなければ江戸城無血開城はなかっただろう。

(後の歴史としてみれば江戸での大規模な戦闘が回避された背景には、イギリス公使 パークス 圧力 があったとされる。江戸の混乱に貿易の停滞を危惧したパークスは、江戸総攻撃を企図する新政府に対し強い憤りを示していたので、西郷が勝との会談に臨んだ時には西郷は 非戦の方針 を決めていた、とされる。しかし、戦争中止のタイミングは極めてむずかしい。西郷にとって山岡の話は渡りに舟だったのだろう。)

 薩摩藩の 伊牟田と益満の活躍を “虎尾の会”中心にして見直すともう1つの見方や、意味合いが出てくると思う。

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(敬称略)
 ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
出羽庄内 幕末のジレンマ (1)(清河八郎 編) Kindle版
 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
出羽庄内幕末のジレンマ2(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版






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最終更新日  2023年01月04日 15時50分19秒
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