出羽の国、エミシの国 ブログ

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2016年09月10日
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新徳寺 上書連名 を行った日に、八郎は父へ手紙を書いている。
そこには、「4月はじめにまたまた江戸に帰り申すべく候」とある。八郎は、京都に来たばかりの浪士組を1か月あまりで江戸に引き返させるつもりでいた。思いつきなどではない、狙いはなにだったのか。

 徳田氏は、これを「この大集団に朝廷のお墨付きを戴いた上ですぐさま江戸に戻り攘夷行動を執らせよう、という構想が用意されていることをいみじくも示唆する」と言う。攘夷行動とは生麦事件の賠償交渉のために横浜に来たイギリス艦隊を攻撃することを意味する。私は加えて急務三策から浪士組の結成を含めて横浜焼打ち計画(2回目)までの一連を江戸を発つ前からの計画だったと考えている。ただし、イギリス艦隊が横浜港に来たタイミングは偶然ではないだろうか。動きがせわしなくなったのは、イギリス艦隊が横浜に来たことが関係したということが考えられる。当時のタイムズ紙も戦争が起こると考えていたというほど、当時は緊迫した状況にあった。横浜では戦争が勃発する直前の状況だったと想像することができる。

 これまで勝手な行動をする浪士組は松平春嶽が命令して幕府に京都から江戸に呼び戻されたと考える見方が主流だった。八郎の予定が4月なのでそれより2、3週間時期が早まっているのは呼び戻された理由が関係するのかもしれないが、八郎たちが早いうちから横浜の外国人居留地やイギリス艦隊をターゲットにしていたのは間違いないだろう。呼び戻されたという表現があてはまるのかわからないほど、八郎からすればほぼ予定通りの行動とも思える。結果としては、幕府はこれを阻止することになるが、薩英戦争と下関戦争を先んじる攘夷戦争の計画だった。

 これまでは、幕府(春嶽が命令した?)に 勝手な行動をする浪士組を京都から江戸に呼び戻されたと考える見方が主流だった。((2.3週間)予定が早まっているのは、呼び戻された理由が関係しているかもしれないが、早いうちから横浜のイギリス艦隊を狙っていたのは間違いないだろう。)

 八郎の意図は何かを再確認したい。あくまで八郎のそれまでの行動と思想は一貫しているのでその延長線上で考えたい。
 幕府(将軍)が天皇との攘夷の約束を果たすために募集し結成した浪士組だが、実は攘夷を実行するはずもない みせかけ の集団だった。その 浪士組
(幕府に攘夷を促すという範囲を超えて、実際に自分たちの手で攘夷をやろうとしていた。)

 このことは、新徳寺で浪士組全員の前で述べた(説明した)前置きと演説と上書からも伺える。
 引用が長くなってしまうが、上書の内容を「清河八郎伝/徳田氏」よりピックアップする。
「・・・夷狄の来航以降、累年国事に身命を抛(なげう)って来た者共の考えは、全く 征夷大将軍 の御掌握(軍隊)を御発揮なされて、尊攘の道を実行されるべきだ、という 赤心 (せきしん/相手を心から信用して、全く疑うこともない純粋な気持ち)でございますから、右の如く言路を開き、人材を御任用遊ばされれば、 尽忠報国の志 も今後は徹底されるであろうと存じ奉り、そこでその御召しに応じて罷(まか)り出ました(やって参りました)。

 然(しか)る上は大将軍家に於いても、断然攘夷の大命を尊戴なさり(いただき)、朝廷を補佐し奉るはもちろんのことで・・・固(もと)より尽忠報国、身命を抛(なげう)ち勤王行動を致しますので、なにとぞ朝廷に於いてはご同情下さり、どちらへなりとも尊攘の赤心を遂げられますように御差し向け下されますれば、有り難き仕合せ(幸せ)に存じ奉ります。
右に付き、幕府のお召しに応じは致しましたが、禄位等は一向に承け申さず、ひたすら尊攘の大義の実現のみ期しております・・・という一同の決心でございますので・・・」

 将軍が上洛する際に 攘夷の大義を英断して 尽忠報国 の志のものを募集し、自分たちは浪士組に参加した・・・というこれまでの浪士組結成の経緯を述べた後に、将軍が約束した攘夷を実行すると私たちは信じてはいるが、その将軍(幕府)が動かなくても自分たちは攘夷を実行するつもりだという意気込みを誓う。最後は、 お差向け(指示)
幕府の下部組織の浪士組に横浜焼打ち(この時は場所は特定していない)を促す内容になっている。

 翌日、1回目の 上書 を奉呈する。6名の代表が選ばれ、幕府を通さずに直接 学習院 へ持っていった、受け取られなければ、6人は自尽の覚悟だったというから命がけだった。
学習院では6人の熱意が通じ、幸運にも上書は受け取られ自尽は回避された。代表が戻り帰って報告がなされたとき、“一同皆、歓呼した”という。その夜には、 新徳寺 盛大な祝宴 がひらかれた。

 提出から5日後、浪士組は 1回目の勅宣(勅諚) を賜り、 関白からの達文(朝旨) も受け取る。
直接、幕府を通さず、“一介の浪士に向かって、天下の政事に関し意見を建白するのを許されたのは破格の御待遇(柴田錬三郎)”という。

「日本には、西洋列強諸国が押し寄せ、国を保つことが非常に難しく危機を迎えています。・・・天皇(自分)の意向である西欧列強を跳ね返し、忠義と勇気を奮起し、すみやかに効果のある攘夷を行い、醜慮(外国人)を追払う、上は宸襟を安んじ(天子を安心させ)、下は万民を救うまで、覬覦(きゆ/身分不相応なことをうかがい望むこと)の気持ちは、国が荒らされることのないようにということです。」この勅錠は、“幕府の覇束(拘束)を受けず、独立独行して攘夷が出来る”内容だった。八郎の計画が大成功したと言ってよい。

 この後、 上書 は、2回(合計3回)奉呈された。
 京都に来て10日後の、2回目の上書の後に 関白・鷹司輔熙(すけひろ) から 浪士役人(鵜殿・山岡) に東下の命(浪士組を江戸に戻す/朝旨))が下った。
1回で終わらせたい上書を3回も行わなければならなかったのは、次の2回目の関白の命を見ればうかがい知ることができる。より具体的な内容になっているので、その お召だし(直接命令/朝旨) が必要だったからと考えられる。

 「横浜へ来た イギリス軍艦 に関係し起こった生麦事件に関係して、3カ条(事件関係者などを斬首・幕府の50万ポンドの賠償金・島津家の遺族への賠償支払い3万ドル)を申し立ててきたのだが、どれも聞き入れるのが難しく、兵站(へいたん・軍の活動)を開くのも行われない。そのため、その方(鵜殿・山岡(幕府役人))が召し連れている 浪士兵を速やかに東下 し、粉骨砕身、忠誠を励むように。」と、いうものだった。

 この2回目の関白からの 命令(朝旨) は、幕府のクレームにより浪士組宛てから 浪士役人(幕府役人) 宛てに変更された。八郎の誤算だったかもしれない。

 しかし、朝旨により 浪士組 の帰府(江戸へ行くこと)が許可され、浪士組の行動は 横浜(外国人居留地と軍艦)焼打ち という具体的な攘夷実行へと進んでいく。

(敬称略)


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 ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版
 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版





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最終更新日  2022年03月01日 21時14分08秒
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