出羽の国、エミシの国 ブログ

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2019年06月29日
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テーマ: 本日の1冊(3697)
清河八郎が暗殺された後、リーダーを失った「浪士組」のゆくえは?本書はその疑問や興味を補完する資料の1つだろう。

 これまで見てきたように、虎尾の会の画策や八郎の新徳寺の演説により「浪士組」の進む方向は幕府主導の攘夷から天皇主導の攘夷へと変えられた。しかし、リーダー八郎の暗殺により「浪士組」は「新徴組」へと名前を変え、幕府直属から江戸で市中一手取締り役(警察職)をしていた庄内藩の下へ組み入れられた。新徴組は委任された庄内藩の元で庄内藩士として江戸の町(市中)の治安維持・警護でおまわりさんの元語となる活躍をし、戊辰戦争では兵士として活躍して激動の時代を歩んだ。外国との戦い(攘夷)から国内の治安維持活動、(戊辰)戦争へと、本人たちの思想は置き去りにされ剣客たちが傭兵として歩んだ歴史とも言える。
 浪士組が庄内藩に組み入れられた理由は決して八郎の故郷の藩だから、ということもあったのかもかもしれないが、何か偶然と片付けられない不思議な縁を感じる。

 この本は、慶応2(1866)年3月、千葉弥一郎という名の19歳で新徴組に入隊した組士の証言録である。千葉は江戸の出身だが、川越の出身の父の新六郎が浪士組に息子の雄太郎と参加した、という。弥一郎の兄である雄太郎は浪士組解散後も引続き新徴組に入隊(組)していたが、江戸での乱心幕臣斬り・組士切腹事件で切腹して亡なってしまったため、弟の弥一郎が新規に庄内藩士として召し抱えられたという。その後、激動の幕末、戊辰戦争、明治、大正を生き延び、昭和の初め88歳まで生き東京で亡くなった。
 この証言録は、出来事として「浪士組」の編成から、清河八郎が暗殺される場面、薩摩藩邸焼討ち事件、戊辰戦争、「ワッパ事件」まで、人物録としては、幕末の重要人物、300人以上の浪士組隊士の名前や年齢、出身地、判る範囲の経歴、人物評などがおさめられている。

 ただ、注意が必要な点は内容が時代の背景を添えて詳しく書かれていたり屈託のない表現で描かれていて当時の雰囲気が伝わる一方、本人が直接体験したものは「新徴組」に参加してからの慶応2(1866)年以降のもので、それ以前の内容については父や組士など他の人からの「伝聞」による内容と考えられる点だ。特に「浪士組」の記述に対しては実体験ではない記述になる。その都度、取上げられた発言者の主観や時世の勢いなどが入るためなのであろう、その主張は散発的で一貫性がないように感じられるものも見受けらる。

 そのため、この資料を慎重に扱いたいという考えもある。編者の西脇氏は、地元庄内で地域史に詳しく、清河八郎や新徴組の著書を出している小山松勝一郎氏を介して「(小山松氏の)著書の中では、千葉弥一郎の著書を2.3参考文献には挙げているものの、本書後半で紹介した証言録をほとんど引用・参照していない。それはなぜであろうか。同氏がこの証言録の存在を知悉(ちしつ/よく知っていること)していたとするならば、証言録に対してあまり信を置いていなかったと判断される。だからと言って証言録すべてを排除するのもいかがなものかと思われる。・・・」としている。また「(小山松氏が他にもあった)証言録を全部知らなかったのではないか」などわざわざその信憑性について触れて解説している。
 とはいうもの、作者が言うように他の資料との整合性や当時の組士たちの考えの一端を知ることができとても興味深く貴重な資料だと感じた。

 この本には前半で「清河八郎」についての多くのことが割かれている(第1章 清河八郎と新徴組)。また、時代の多くの出来事が背景を添えて詳しく書かれていて興味深い。その中で特に印象深い内容を以下にいくつかピックアップしたい。


「幕府では・・・幕末にあって一定の政策なく、朝令暮改なりしは周知の事実なれども、浪士の募集は拙の拙なるものであった。・・・山岡鉄舟、高橋泥舟の如きも一定見なく、極言すれば清川八郎の傀儡たるに過ぎず。八郎は非凡の豪傑であったが、短所として徳望なく傍若無人・傲慢不遜と誹(そし)られ、長所たる果断は志業の障碍(しょうげ/障害)を招いた結果である」

 もしかしたら、この資料のこの部分が八郎の印象を短所として誤解を与えてきたのかもしれない。この部分は新徳寺の演説の頃を言っていると考えられる。以前にこのブログでイギリス艦隊が横浜に現れ、八郎が攘夷に焦っていたからこのような強硬な態度をとったのではないかと考えていた内容だ。浪士組が大きな組織になりながらも生麦事件が起こったために攘夷を急を要して推し進めなければならなくなったこと、あまりの短期間では浪士組内での意思疎通をとるのはむずかしく、説明をする時間の余裕がなく八郎の役割や理解も浸透させることがむずかしかったことなどを考えた。

 当時、浪士組は寄せ集めの集団で組織がさまざまな人々で構成されていたので、いろんな考え方が混在して当然だった。この見解は八郎や虎尾の会とはあまり関係が深くなかった人々から浪士組幹部たちへ向けられた手厳しい見方の1つだったのではないか、と推測する。

 話を浪士組の募集のところに少し遡ってみるとその状況がわかりやすい。
「また、剣客近藤勇の如きも・・・その他の門弟20余名を連れてきた。家の子・郎党を伴って来た。なかには武州兜山の根岸友山(のちに倒幕へと転じる)、上州の金子龍之進等もあった。募集の名義が報国尽忠の有志というのであるが、実際は貴賤・貧富・老若の差別はもちろん、いわゆる玉石混淆で博学の者もあれば、姓名を記すあたわざるあり。天下の名人と称せられる剣客もあれば、竹刀(しない)の持ちようも知らぬ者あり。温厚篤実にして人格高きものもあれば、田夫野人(でんぷやじん/教養がなく、礼儀を知らない粗野な人)にして卑下(ひげ)すべき族(やから)も少なからず。しかれども、八郎はそれらのことは厭(いと)わなかった。・・・」

 後の藩内の組織としての新徴組とは違う、掻き集めの感のある浪士組の中の人間関係の様子が垣間見られる。山岡鉄太郎が後に"八郎を語ることは自らを語ることになる"と言ったことを考えれば、この山岡や高橋、虎尾の会や尊王派の志士たちは連係プレーで組織だった行動をしていたのだろう。先ほどの手厳しい言葉はその時のリーダー、幹部と一部の組士たちとのギャップにより生じた言葉だったように取れる。強い信念、自信ある堂々とした態度、強いリーダーシップと傍若無人や傲慢と言う言葉は紙一重でもある。そのような誤解は歴史的に八郎や虎尾の会の人々が行った勇気ある行動とそれからの意図を汲み取り、理解すれば容易に溶けるように思える。

 このように八郎への良いコメントだけでなくあまり良くないと思われることも取り上げられている。これは300人以上いる新徴組には様々な意見があったことを意味していて逆にこれらの証言が組士の屈託のない意見を吸い上げていることを示しているだろう。(作者の千葉本人も浪士組には参加をしていないはずなのに自由に述べている。)


 次に、浪士組が攘夷を強く推し進めたことについて、次のような記述があった。
「ちなみにいう。井伊大老が安政の大獄を惹起して以来、尊王攘夷の4字は流行になり、報国尽忠の4字もまた流行となった。・・・いわんや尊王ばかりを唱うることは徳川氏に対しはばかるところがある。それで尊王攘夷と関連せしめて流行せしめているのである。
 そもそも関西の志士は王政復古と討幕が目的であるけれども、討幕の名義は朝敵にあらざれば下されない。無名をもって唱うることはできぬ。それゆえ開国の時運に向かい、攘夷の不可能なるを知りつつ、朝紳(公家、公卿)を動かし、攘夷の令を下さしめ、幕府を苦しめ違勅の種を造って討幕の名を得んと画策したのである。
 八郎の如きはしからず(そうではなかった)、真面目に尊王攘夷を実行せんとしたので、討幕の意思はなかった。彼が3月5日(に提出/3度目)の建白書中「第四、京都の守護は一切会津侯に御委任、他の掣肘(せいちゅう/そばから、あれこれと干渉して自由に行動させないこと)なからしむること(はあってはならない)」「第七、将軍(が)勅を奏ずる上は、速やかに帰府(東京に帰ること)して天下に号令し、征夷の大業(攘夷実行)を逐ぐること」とあるを見ても、彼は何の欲望もなく至誠もって尊王攘夷の決行にありしを知るべし(しるべきだ)。 


 少し、長い引用になったがここで八郎が「真面目に尊王攘夷を実行しようとしていて、討幕の意思はなかった」としていることが興味深い。八郎は「回天唱始」、「革命」を最初に言い始めた人なのだが、「討幕の意思はなかった」という言葉からすれば徳川氏や佐幕派の排斥を考えていなかったことになる。推測にはなるがこの言葉を信じれば、もし仮りに八郎が生きて明治を迎えていたならば、後の大義のない東北戊辰戦争には反対の考えだったと言っていいだろう。


 「長屋玄蔵」という千葉の友人で山岡鉄太郎を師事し清河八郎を崇拝していた人物の話がでてくる。長屋は千葉とは姻戚関係であり入間郡川越村出身の浪人だった。29歳で浪士組に入り、荘内(湯田川寄宿舎)にも移住して戊辰役に出兵し矢島城陥落(秋田県由利本荘市)にも参加した。

 長屋はいつも八郎が詠んで書いた次の書の掛軸を床上に掛け、八郎の死後、朝夕香花を手向けていたという。
 「さくら木を削りしたたむまこころは すめらいくさ(皇戦)の魁の花」

 この歌からは桜木を削った時の何となくほのかないい香り、清々しい香りが伝わってくるように感じる。そして、それは八郎の当時の心境にもなぞらえられる。八郎の行動と実直な人柄が偲ばれる歌でもある。

 詠まれた時期の詳細については不明だがその時期は京都、あるいは江戸に戻ってきてからのものだろうか。それとも暗殺される直前の頃の歌だったのだたろうか。
 歌の内容を理解するには、この歌が歌われた時期が問題になるが、”すめらいくさ”が当時から考えれば横浜異人館焼討ちだろうとすれば、やはり外国との戦争(攘夷)を具体的に考えていたのだろうと思われる。

 淡いピンク色の桜木で削られていたものは何だったのだろう。桜木を削るとは削った後に何か形が完成するというプラスの意味にも感じられるし、身を削るというマイナスの意味にもとれる。
 浪士組の組士たちへの励ましの歌の可能性が高いようにも思えるが、横浜の焼討ちを直前に思いとどまり戦争を回避しようとしていたと言われることと関係があるようにも思えたりもする。
 この当時のこの清々しい歌とその後の八郎の暗殺とのギャップ、とても不思議な歌に思えた。


 この本には300人以上の人の名前が出てきてその人の経歴や人となりが書かれている。その交友関係を丹念につないでいくといろいろな人間関係がみえておもしろい。
 その中で発見したものの1つ、先ほどの長屋玄蔵を恩人とし意気投合の間柄だったという備後出身の山口三郎という浪人の話を紹介したい。この人は蘭学や砲術を学び、井伊直弼を日本の救世主と仰いでいたという。「八郎とは大いに意見を異にする攘夷論者だったが、開国論者だった」という。また、虎尾の会の池田徳太郎とは"お互い信頼した仲"だとして池田徳太郎の話もでてくる。この辺りの内容はハ郎が画一的な鎖国論者だったかなど、少し一方的で内容的に浅い部分があるのでもう少し精査が必要のように思えた。ただ、攘夷と言って一つの集団にいても主義主張は微妙に違っている、今でも組織内でよく見られることでリアルな内容に思えた。

 この本全体を通じて作者の千葉が清河八郎をとても高く評価していたことが伝わってくる。
新徴組の人々は関東の出身者が多かったため厳しい冬の庄内の寒さに慣れることなく、関東に戻り帰った人が多かったと、昔新聞の記事などで読んだことがある。リーダーの清河八郎が亡くなったことにより、歴史にほんろうされたのではないかという少し申し訳なく思う気持ち、戊辰戦争での活躍、庄内を守ってくれたことへの強い感謝の気持ちなど、複雑な想いが交錯する「新徴組」のその構成員の人々の1人1人の歴史が知れる本だった。


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最終更新日  2021年05月16日 13時40分11秒
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