つきのわ王国(四畳半分)

つきのわ王国(四畳半分)

モノやコトバ



だいじなのは

違うか 同じか

じゃなくて


違うことに 慣れる



同じに 飽きないか


それだけのこと
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Rose of Sharon


デリケートな美

よりも 共感できるのは

デリートの美


delicate or delete

(槿)
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「きせきのきせき」

*


鬼籍の輝石

あるはずのないたからもの


あるはずがないからたからもの


*


キセキはいつだって

起こったあとに気づく


キセキの軌跡


*


奇蹟は キミ


キミへの 軌跡は

ぼくの

ぼくへの想像を超えてる


*

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日めくりカレンダーは苦手だ

「どうしても 破り捨てられない」

そんな一日に 必ず直面してしまう


月がわりカレンダーは苦手だ

「破り捨てるなんて 勿体無い」

些細な過去にも 情が芽生えてしまう


1年もののカレンダーは苦手だ

「たったこれだけ?」「あるいはまだこんなに?」

スタート地点も ゴールも いつまでも近い


カレンダーは苦手だ

そんな毎日を 別れのときを なるべく

考えないように生きてゆくんだから
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「電話」

仕事中に話なんか しなくてもいい
家に居ないなら 別にいいわ
誰かと居るなら邪魔するだけだし
それにね「突然の驚き」が減ったよ
着信表示の名前を選んでる 嫌な自分をみつけたわ
キミしかでない電話だから 無遠慮に何度もコールするうざい自分も居たし

だけど ケータイ持ってるから気になるし気にされちゃうのよ

キミからの電話 いつまでも健気に待ってる自分がカワイイ
メールのやりとり どちらからも切り上げたくなくて朝まで続けたことも
計ったようなタイミングでくる嬉しいことば
持ち歩いて いつでも読めるだいじなひとたちからの手紙

ケータイなんか いらない ほしい いらない…キリ無い…

****

半角20文字のラブコール
どんな長い手紙よりも
わたしの中に届くときがあるからふしぎ

アイタイ

スキダヨ スキダヨ …ダイスキ!

コエガ キキタイヨ

マイニチ キミノコトバカリ カンガエテル

すてきな言い回しより 漢字とかなの綺麗な文章より
そのツタナイ 記号の連なりが
不器用なキミの リアルのようでどきどきするよ


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ことばは いつもは 記号という固いかたち
あまくて 溶けたりする 固形物
だけど うた それに乗せると
うたは とても温度の高い流動物なので
ことばは溶け 交じり合う
ことばの溶けたうたは いとも簡単にわたしに沁みて
そうして ゆっくりじわりじわりと蒸発して
あとには ことばの 意味だけこころに残る

そういう うたを ききたいの。

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カラオケボックスで ときどき おもう
ああ この声が キミにきこえたらいいのにと
キミが居ると うまくゆかないのに
いまなら 歌えるこのうたを
ああ この声で キミに届けばいいのにと

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花火ってさ
ひゅるるとあがってって どかーんとなるあれ
「ずっと咲いてるものじゃないからきれいなんだ」
って よく言うでしょ
でも そうかな?
ずっと咲いてちゃ きれいくないかな?
ずっと 生まれるまえからある 月や 空や 海
とっても きれいなのに

たぶんね じぶんは生まれてすぐ死ぬから
かならず死ぬから
だから 花火に同情しているんだと思う
自分を慰めたいんだと思う 今のわたしは

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アタマの中にはたくさんの「きもち」が漂っていて、
それを誰かに見せたいときに、言葉という「記号」を使う。
だけど、ちょうどあたまのきもち通りの記号なんてそうないから、
ある記号の組み合わせで表す。
ABCで表すひともいれば、ABDとするひともいる。
CとDそれが接続詞の違いだったり、言語の違いだったり、
地方の違いだったりする。
だけどそれらはおなじ「≒あたまのきもち」になる。
かんぺきに「=」のひとなんていないと思う。だってきもちは記号じゃないから。 
記号を知らなくて言葉にできないことも多々ある。
どんなにすてきな考えを持っていても、たくさん記号を知らなければ、
表には出せないのだ。
表に出すことができなければ、自分でもそれを知ることはできない。

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ミントの飴 ハッカの飴

あの ハッカの飴の かんじ
冷たいとおもうひともいる
辛いとおもうひともいる
でもほんとは 温度はおなじだし 辛くも無い
なんとも「ハッカの」としか言いようのない
かんじなんです

冷たくないよ 痛くもないよ
ただ ハッカなだけなの

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チョコはビターが好き
お酒はカンパリが好き
ゴーヤ好き 渋いお茶好き オレンジの皮好き
甘いものほしくて 美味しいものほしくて
なのに 苦いのや 渋いの そんなのばっか選ぶ
手放しで甘いと 不安になるのかな 馬鹿みたい
自由がいいと叫びながら 檻から出られない鳥みたい

扉は あいてるよ 
いつだってさ

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欲を「欲しているモノ」で満たすっていうのは
できないと思うの。
欲は「感情」だから。
モノはモノで満たせるけど、
キモチはモノじゃ満たせない。種類が違う。
欲をモノで満たしても、違う「不足」が出るだけです。

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計画の時点では「不幸」もおもしろい出来事である。
アタマで考えているだけならば。
不幸は、アタマで考えられる事態でない事態が起こったとき。
不幸を回避する手立てが思いつかなかったとき。
予測もしなかったところから事態が舞い込んだとき
だと思う。

だからというわけではないけれどもワタシは
いつも考えるようにしているのかもしれないなぁ。
自分の不幸を。
自分のシアワセは考えても考えなくても「かんじる」もの
だから、不幸をおおく考える。
自分はどうあったら不幸か。
自分はこの不幸をどうするか。
悲観的と言われることもしばしばあるが、
悲観していることを「不幸」だとは思わない。
不幸について考えるのを不幸だとは思わない。

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死ぬということは、
無くなるとか、天国へ引っ越したとか、
そういうことじゃなくて
そういうことじゃなくて、
ワタシが忘れるということだ。
死ぬということは、
忘れられてしまうということだ。

とても怖い。
とても怖い。
とても怖い。

  だいすきだったよ
  思い出すよ
  やすらかに。
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