歴史一般 0
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明治維新の折、進んで勤王軍に参陣していったという、山村の義勇兵「山国隊」。彼らは、いったい、どのような思いを持って戦線へと出向いていったのか。山国村には、今も、凱旋後の彼らを顕彰した当時の史跡が残されているといい。少しでも、「山国隊」の息吹に触れてみたいという思いから、その史跡の跡を訪ねてみました。山国村を縦断するようにして走っている山国街道(現・国道477号線)。その道沿い、「山国護国神社前」のバス停から歩いて数分のところに、山国隊士の慰霊のために建てられたという、山国護国神社があります。戊辰戦争の激戦を終え、山国隊が村に凱旋してきたのは、明治2年のこと。この時、山国隊の隊士が全員集まり、報告祭が行われたのですが、それと同時に、従軍中に戦死あるいは病死した7名の隊士を弔って、彼らの墓標が建てられました。この招魂の跡が、山国護国神社の前身。その後も、京都府の官費による招魂祭が、毎年、この地で行われ、永らく、ここは、官営の招魂場とされてきた場所でありました。鳥居から続く石段を登っていくと、さほど広くない台地になっていて、そこに、山国隊士の墓碑や、いくつかの顕彰碑が建てられています。戊辰戦争従軍中に戦病死した隊士、7名の墓碑です。山国隊の戦歴の中、宇都宮・安塚の戦いで死亡したもの3名。宇都宮の戦いというのは、幕府軍が、ここを抵抗拠点のひとつとしていたというだけあって、山国隊にとっても最大の激戦となった戦いでありました。敵兵の銃弾を浴びて絶命した高室治兵衛・田中浅太郎。激戦の中、行方知れずとなった新井兼吉。以上の3名。上野・彰義隊との戦いで戦死したもの1名。上野での戦いは市街戦となり、田中伍右衛門は、宿屋の2階から小銃で応戦している中、敵の銃弾が貫通し死亡しました。他に、過酷な戦陣環境の中、病を発し死亡したもの、高室重造、北小路万之輔、仲西市太郎の3名。計7名の墓碑であります。農民義勇兵であった山国隊、政府軍の中においては、鳥取・因幡藩の配下という位置づけでありました。それ故に、山国隊の隊長を務めていたのは、因幡藩の重役であった河田左久馬という人。そうした中、実質上、山国隊の中心となっていたのが、藤野斎という人でありました。藤野は、山国村の名主の家の出身で、山国隊結成時の発起人の一人。漢学の素養があり、医術の心得もあったという、村きっての教養人でありました。山国隊取締という役職で戊辰の遠征に従軍し、隊士の世話役・教育係、因幡藩との交渉から資金のやりくりまで、それらを一手にこなし、隊士からも非常に慕われていた人だったと云います。山国隊を軍としてまとめ上げ、彼らをここまで導いてきたということも、彼の力に負うところが大きかったのだろうと思われます。そんな藤野の墓碑も、大勢の隊士の墓碑の中に、ひっそりと佇んでいました。ちなみに、余談ではありますが、この藤野斎は、日本初の映画監督となり、日本映画の生みの親でもあった牧野省三の父にあたり、牧野は生前、山国隊の映画を一度作ってみたいと、常々語っていたと云います。隊士の墓碑とともに、いくつかの顕彰碑が建てられています。戊辰戦争時の因幡藩主であった池田慶徳。山国隊の隊長・河田左久馬。京都府知事の槇村正直。 等々。これらは、明治期に行われた招魂祭に際して建てられたものなのでしょう。この顕彰碑からは、戊辰戦争後、間もない頃の人々の熱気が伝わってくるような感じがします。山国護国神社を出て、田園の小径を少し歩きました。次に向かうのは、村の人々から五社明神と呼ばれ、古くから、この村の心のよりどころともなっていたという古社・山国神社です。この神社の創建は、奈良時代の末頃。平安京造営の時、用材供出の功によって、和気清麻呂を祭主として本殿が造営されたのだと云います。その後、平安中期には皇室の勅願所とされ、また、足利義満からも奉納を受けるなど、小さいながらも広く信仰を集めてきた神社でありました。山国隊が陣を揃え出陣していったのも、この場所であり、帰郷して、まず、報告に参上したのも、この神社なのでありました。毎年10月に行われている山国神社の秋祭り(還幸祭)。この時には、祭りの御神輿とともに、時代祭の維新勤王隊さながらに、鼓笛隊の行進が行われます。神社に続く橋の欄干に彫られている、山国隊の行進の様子。今でも、年に一度、山国村では、山国隊の勤王マーチが、村いっぱいに響きわたります。このように何げなく、のどかな佇まいを見せている山国村。しかしながら、この村には、独自に背負ってきた、いくつもの歴史がありました。山国街道沿いを再び歩いていると、山国自治会館の建物があり、その前の石碑に、小学校の校歌が刻まれているのを見つけました。この村の小学校、今では京北第二小学校と変わっていますが、以前は山国小学校といっていました。これは、その山国小学校だった頃に歌われていた校歌だということです。 遠き御代より つぎつぎて 雲井の御所に 縁に深く 御杣の民や 主基の御田 又はかしこき 御戦の 御さきとなりて つかえつる 歴史栄えある 我里よこの村が経てきた歴史に対する自覚と誇り。その根源となっているのは、皇室の杣人(きこり)であったということに由来しているのだろうと思います。この校歌には、そうした村人たちの思いが凝縮されているようにも思えます。維新期に、山国隊が見せた無償奉仕の精神というのも、そうした歴史と風土の中から生まれてきたものであると、そんなことが、実感できる山国の旅でありました。
2013年08月11日
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明治維新から、平安京の創設期へ・・・。時代をさかのぼって行列が繰り広げられていく、京都の時代祭。当時の風俗が忠実に再現された、その壮麗な時代行列は、見るものを、往時の歴史時代へと誘ってくれる、華麗な歴史絵巻でもあります。この時代行列の先頭を進んでいくのが、錦の御旗を掲げ、勤王マーチを奏でて行進する、維新勤王隊列。毎年、時代祭のオープニングを飾るのが、この勇ましい鼓笛隊の進軍なのですが、もともと、これは、維新期に活躍した「山国隊」と呼ばれる一隊が、行進を行っていたものでありました。一方、時代行列の最後尾を務めるのは「弓箭組」と呼ばれる一団。こちらも「山国隊」と同様、維新期、戊辰戦争に参陣し、そこで活躍していた人たちが、行進を行っていました。「山国隊」と「弓箭組」どちらも、京都北方の山村にあって、古くから皇室との関係が深く、また、維新の折には、自発的に兵を組織し、費用も自己負担してまで、戦線に参加したという、同じような経緯を持った農民義勇兵団であります。彼らが、それぞれに、時代祭に参加した、その思いとはどのようなものだったのか。今回は、この2隊のうち「山国隊」についての話をまとめてみたいと思います。(山国村について)山国隊のふるさとは、丹波国桑田郡山国郷という、林業を中心として生計を立ててきた山村。現在は京都市に編入され、右京区京北町となっています。平安京造営の際には、御所に用材を献上したといい、その後も、多種の献上品を届けるなど、皇室の御用達係のような役割を果たしてきました。当時から、皇室の信頼も相当に厚く、物資の調達ばかりでなく、御所の警備まで任されていたのだといいます。南北朝争乱の折には、北朝の光厳天皇が、この地に隠棲していたという歴史もあり、現在も、山国の地には、3天皇の陵墓が残されています。室町期まで、皇室の直轄領。この村の名主たちは、朝廷から官位までもらっていました。ところが、江戸時代になると、村は皇室領・幕府領・門跡寺院領の3つに分割されます。このことは、山国村に多くの問題や不便さを生み出すことになり、皇室領として再び統一したいということが、村の念願となっていました。そうした中、山国村は幕末期を迎えていくことになります。(山国隊について)慶応4年(1869年)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。新政府は、これに勝利するや、すぐに各方面に兵を繰り出して、旧幕勢力を鎮圧しようとしました。丹波~山陰方面を担当することになったのが、山陰道鎮撫総督に任命された西園寺公望。「今回の挙兵は王政復古の戦であり、志ある者は馳せ参ずべし。」公望は、そうした檄文を各地に配ります。そして、この檄文に応じたのが、山国村。山国村では、村内から有志を募り、義勇隊を結成するということが決定されます。古来から続いてきた朝廷への親近感と、村を皇室領として統一するためにも・・・。当初、約90名の隊士が、集められたのだといいます。そして、この軍勢は、西園寺軍に合流する西軍と、御所の警備につく東軍の2軍に分けられます。東軍は、仁和寺宮軍のもとへ加わろうということで大坂へ向かい、西軍は、西園寺軍の後を追って、丹波をさまよいますが、結局、官軍に参加することが出来ませんでした。西園寺軍の鎮圧戦は、どうやら終わっているようだ・・・。そうした状況がわかってくる中、しかし、以前から懇意にしていた因幡藩から、新政府の上層部に働きかけてもらえることになりました。この山国村の義勇兵の話を聞ききつけたのが、岩倉具視。岩倉具視は、この隊を「山国隊」と命名し、因幡藩に付属して、東征軍に加わるようにという、指示を出しました。このようにして、山国隊は、晴れて官軍の一員となることになりました。慶応4年、2月。山国隊は、東山道軍として、因幡藩とともに京都を出発します。大垣から甲州勝沼を経て、江戸に出て、宇都宮の戦闘に参加。江戸に戻ってからは彰義隊と戦い、その後、常陸~相馬~仙台へ、山国隊は、約8か月にわたって各地を転戦しました。その間、特に、宇都宮・安塚の戦いと、上野・彰義隊の戦いは壮絶な激戦となり、戦死者4名、病死3名という大きな犠牲を出しました。「魁」と書かれた陣笠をつけ、また、その名の通り、戦いの各所では、そのさきがけとして、常にその先頭に立ち、山国隊の戦いぶりというのは、諸藩の兵よりも勇敢だったといいます。そうした山国隊の活躍は、大いに評価されることになり、その故もあって、途中からは錦旗を守護する役割まで任されるようになりました。明治元年、11月。山国隊が任務を終え、京都に凱旋してきます。錦旗を掲げ、勤王マーチを奏でて行進する山国隊。そうした農民志願兵たちの雄姿は、人々から喝采をもって迎えられることになりました。こうして華々しく凱旋を果たした山国隊。しかし、その栄光の陰で、そのために払った代償というのは、あまりにも大きなものでありました。村を皇室領として統一したいという当初の願いは、維新により、皇室領であるということの意義自体が変わってしまうことになり、また、その自己負担となった戦費は、莫大な借財として村にのしかかってきました。義勇兵の出征により、残されたものは借金のみ・・・。借財返済のため、村は多くの山林を売却することとなり、その後、山国村は、急速に疲弊していくことになります。(時代祭と山国隊)明治28年(1895年)。京都では、「平安遷都1100年祭」のイベントが行われ、華々しく内国勧業博覧会が開催されるとともに、そのパビリオン跡を活用して、平安神宮が創建されました。そして、この記念事業の一つとして行われたのが第一回目の「時代祭」。「時代祭」というのは、平安講社と呼ばれる京都市民の氏子が主体となり、行われるものなのでありますが、この第一回目の実施にあたっては、広く京都府内からの番外参加を呼びかけました。そして、これに応じ、参加を申し込んだのが、旧山国隊と旧弓箭組なのでありました。以来、山国隊は、時代祭の行列の先頭を務めるようになり、それが今も、維新勤王隊列として受け継がれています。自らの損得を省みることなく勇敢に戦いに挑んでいった、この山国隊を顕彰したい。時代祭の維新勤王隊列には、そうした京都市民の思いが込められているようにも思えます。そして、この山国隊の存在というのは、山国の人々にとって、今なお、誇りある歴史の1ページとして語り継がれているのです。
2013年06月23日
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今年のNHK大河ドラマは、幕末の会津が舞台の「八重の桜」。ご覧になっている方、どれくらい、おられるでしょうか。会津籠城戦の折、銃を持って戦ったことから”幕末のジャンヌダルク”と称されたという山本八重が主人公ということで、今回の大河は、かなり異色の題材ですね。敗者の側である会津の話だし、山本八重といっても世間的な知名度はゼロに等しいし、視聴率的にも、盛り上がりに欠けているようではありますが、でも、私は、とても気に入って、毎週、見ています。幕末史、それも幕府側の歴史が好きだからということは、あるのですが、でも、今回の作品は、そのドラマの作りがきっちりしているなということを感じます。最近の大河に多かった、わけのわからん歴史ねつ造も、ほとんどないですし、登場人物が、必要以上に、理想や夢を振りかざすようなところもないですし、ある意味では、淡々と、品良く、きっちりとしたドラマに仕上がっていると思います。その一因としては、山本むつみさんの脚本が良いからということがあるのでしょうね。山本むつみと言えば、「ゲゲゲの女房」の脚本で、一躍、脚光を浴びた方という感じがしていましたが、でも、元々は時代劇が得意な人なのだそうで、彼女のインタビュー記事を読んだりすると、随分、歴史に通じている方であるなぁと感心します。それが、的確な歴史背景の中、しっかりとした作品としてまとまっていることにつながっているのだと思います。「八重の桜」に関連して、何か日記を書いてみたいと思っているのですが、スポットを当てたいところが、いくつもあって、目移りしてしまうほど。それほどまでに、今回の大河は、私にとって興味満載です。男まさりで、型破りな性格ながら、常に進取的なことにチャレンジしていった主人公の山本八重。そうした八重の生涯がどのように描かれるのかというのは、もちろん楽しみなのですが、その一方、八重をとりまく、様々な会津の群像も、とても魅力的です。決して、知名度は高くないですが、この時期の会津は、個性的な人物、近代日本に功績を残した人物を、きら星のように輩出しているのです。その何人かを、ピックアップしてみましょう。(佐川官兵衛)その勇猛な戦いぶりにより、薩長から「鬼の官兵衛」として恐れられたという会津武士。鳥羽伏見の戦いでは、刀折れ、眼を負傷したにも関わらず、平然と指揮をしていたといわれ、また、会津城籠城戦では城外で指揮を取り、少ない兵力で、敵陣を突破するという成果を上げました。人情に厚く、その人柄から、慕われていた人だったといいます。明治後は、多くの会津藩士をひきつれ、警視庁に入庁。その後は、西南戦争に従軍し、阿蘇の山中で戦死しました。(山川大蔵)ロシア訪問なども経験し、世界が見えていたとされる会津藩国家老。会津の籠城戦では総督を務め、「知恵の山川」と称賛された人です。中でも有名なのが、会津戦争における彼岸獅子の逸話。籠城軍に合流しようと会津若松城に向った大蔵ですが、しかし、官軍が城の周囲を包囲しているために入城することが出来ません。そこで、地元の伝統芸能「彼岸獅子」の行列のふりをして、踊りながら入城することに成功したというお話です。(山川健次郎)山川大蔵の弟で、14才の時に白虎隊士として会津戦争を経験。その後、アメリカへの留学が認められ、帰国後、日本初の物理学教授となりました。会津の出身ながら、東京帝国大学(現在の東京大学)の総長を長年務め、東京大学が発展していく過程において、その中心となった人物です。(大山捨松)山川大蔵の妹で、8才の時に会津戦争を体験。11才にして、日本初の女性留学生となり、アメリカへと渡ります。帰国後、西郷隆盛の従弟にして陸軍元帥となった大山巌と結婚。鹿鳴館のトップレディとして、社交界の華となります。愛国婦人会や赤十字看護会を設立するなど、近代における、女子教育、看護婦の養成に先鞭をつけました。(山本覚馬)幼少期から、八重を温かく見守り続けた、八重のお兄ちゃん。八重の人生に多大な影響を与え続けた人物です。江戸に上って、佐久間象山の門下に入り、会津に洋式兵学の導入を提言して、その師範を務めます。卓越した先見性を持っていた人で、鳥羽伏見で薩長軍に捕らえられるも、提出した近代改革の建白書が認められ、釈放後は、京都府の顧問として招へいされます。覚馬は、京都の近代化を推進するとともに、新島襄による同志社大学設立においても、中心的な役割を果たしました。朝敵の汚名をきせられ、しいたげられてきた会津の人たち。しかし、それでも、明治以降、功績を残した人というのは、意外と多いのです。***桜というのは、咲いて散る時が、一番きれい。でも、その散った瞬間から、翌年、咲くための準備を始めるのだと言います。会津の人たちも、激動の中に散るだけではなくて、苦しみを乗り越え、たくましく、そして、しなやかに、再び花を咲かせていきました。「八重の桜」というタイトルは、すべてを失っても、また、次に向けて立ち直っていった、そうした会津の人たちの姿を、桜にたとえているのだといいます。「夢を持って前に進めば、必ず光は見えてくる。」東日本大震災からの復興に向けてのメッセージを込めたという「八重の桜」にこれからも、期待したいと思っています。
2013年03月01日
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今年のゴールデンウィークは、皆さんいかがお過ごしですか。まさに、五月晴れと言えるような天気にも恵まれ、絶好のお出かけ日和が続いていますね。私も、近場ではありますが、気分転換にちょっと出かける予定にしています。ところで、今回は、ちょっと趣向を変えまして、幕末に関連する史跡の写真から、クイズを作ってみました。全部で10問あります。幕末史は、そんなに詳しくないという人でも、あまり、難しくないと思います。正解は、最後に載せています。ぜひ、一度、試してみて下さい。(第1問)尊攘派が会合を開くという情報を入手した新選組が、その集まっているところに踏み込んで、当時、一流の志士と呼ばれていた実力者の多くを斬殺したのが池田屋事件。この襲撃成功には、ある京都の恒例行事が、新選組の行動をカムフラージュするのに役立ったといわれていますが、その京都の恒例行事とは、何でしょう。(第2問)幕末期きっての賢侯といわれ、幕府の政事総裁職もつとめました。坂本龍馬を支援したことでも有名な、この銅像の人物は、誰でしょう。 (第3問)東京・赤坂にある神社です。彼は、この近くで生まれ育ち、この神社の中には、彼により名付けられたという、四合(しあわせ)稲荷という祠があります。幕臣のこの人物は誰でしょう。 (第4問)風呂から着のみ着のままで飛び出し、龍馬に急を知らせたことで、知られる風呂場です。龍馬に急を知らせたこの人物は誰でしょう。 (第5問)時期は全く違うものの、奇しくも、この同じ場所で2人の人物が暗殺されています。京都の、ここは何という通りでしょう。(第6問)亀山社中では、長州との取引で活躍するも、長州から貰った報酬で英国密航を企てたとの隊規違反により、非業の切腹をさせられました。この人の家の家業から、名付けられたその愛称は何でしょう。 (第7問)龍馬・慎太郎が殺害された近江屋に立つ石碑です。この近江屋は、何の家業をしていたでしょう。(第8問)京都・伏見のこの神社の付近も鳥羽伏見の戦いの時、戦場となりました。この神社に本陣を置いていたのは、どこの藩でしょう。 (第9問)上野の山の西郷隆盛像。西郷の妻・いとさんは、この像を見て、ちっとも似ていないと言っていたそうですが、この西郷さんは、犬を連れて何をしようとしているのでしょう。(第10問)桂浜に立つ、ご存知、坂本龍馬像。昭和3年に建立されたものですが、この像に刻まれている、龍馬像の建立者とは。 サービス問題も入れてますので、ちょっと簡単過ぎたでしょうか。正解は、この下です。(それぞれ、写真は)1)池田屋騒動の址2)福井神社内・松平春嶽像3)赤坂・氷川神社4)伏見寺田屋の風呂場5)佐久間象山・大村益次郎遭難の地6)近藤長次郎邸跡7)龍馬・慎太郎遭難の地8)御香宮9)上野・西郷隆盛像10)桂浜・龍馬像(正解は)1)祇園祭2)松平春嶽(慶永)3)勝海舟4)楢崎龍5)木屋町通り6)饅頭屋7)醤油問屋8)薩摩藩9)兎狩りに出かけるところ10)高知県青年一同
2010年05月02日
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幕末から明治にかけて、多くの学者を輩出したことで知られているのが、箕作(みつくり)氏という一族です。箕作家は、その一族ばかりでなく、姻戚にも著名な学者が並び、一時は、まさに学者一族といえるほどに壮観な家系となりました。とは言っても、そういう血統なのかというと、実はそういうわけでもなく、優秀な弟子を婿養子にとったり、娘が有能な学者に嫁いでいったりということから、一族に学者が集まってきたという経緯があったためでもありました。今回は、そうした学者一族・箕作家の歴代小伝のようなお話です。ところで、箕作家。そもそも箕作というのも、かなり変った苗字ですが、そのルーツはというと、近江の佐々木源氏であったといい、また、近江の守護大名・六角氏の流れを汲むのだそうです。近江には、六角氏が築いた箕作城という城がありますが、箕作は、元々近江の地名であったものと思われます。そして、その後、箕作家は現在の岡山県へと移ってきました。さて、学者としての箕作家の祖となったのが箕作阮甫(げんぽ)という人です。たまたま、仕事で岡山県津山市に行った時、JR津山駅前に箕作阮甫の像があるのを見つけたので、写真を撮ってきました。阮甫の父は、津山藩の藩医をしていて、この父が阮甫の幼いときに亡くなったため、阮甫は、若くして、その跡を継ぎました。最初は儒学を学びましたが、やがて、江戸に出て蘭学の修行に打ち込み、その後、めきめきと頭角を現して、一流の蘭学者として認められるようになったようです。そうした中、やがて時代は、幕末期を迎え、黒船が来航し、ペリーが日本に対し開国を迫りました。ペリーは、この時、アメリカ大統領の国書を持ってきていましたが、この大統領国書の翻訳を命じられたのが、箕作阮甫でありました。この頃、阮甫は、幕府の天文方翻訳員という役を務めていて、様々な翻訳にあたっていたのです。阮甫は、さらに、その後、来日したロシア使節との交渉団員にも任じられています。この時期の対外折衝において、阮甫の語学・翻訳の才は、おおいに貴重だったのですね。次いで、幕府は、本格的に洋学の研究を行う必要から、蕃書調所という洋学研究の専門機関を設立しますが、阮甫はここの首席教授にも任じられます。阮甫は、その生涯の中で、100部近くの翻訳書を残したといわれ、その分野は医学・語学のみならず、兵学・宗教学など広範囲にわたったそうです。安政元年に、家督を譲って隠居し、文久3年、65才で死去。日本の開国草創期に、その学才と語学力をおおいに発揮した生涯でありました。ところで、阮甫には娘は4人いたものの、男の子には恵まれませんでした。そのため、三女と四女に養子を迎えて、それぞれに箕作家を継がせることになります。三女の婿養子となったのが、阮甫の弟子で緒方洪庵の適塾にも学んだという秀才、菊池秋坪でありました。秋坪は、阮甫が隠居したのちに、その跡を継いで、箕作秋坪と名乗ります。蕃書調所の教授などをつとめ、ロシア交渉でも活躍。維新後は、東京に三叉学舎という学校を開き、文明開化を推進しました。四女も婿養子をもらいましたが、この夫は夭折します。残された一人息子は、阮甫の手元で育てられることとなり、阮甫は隠居した時に、この子を連れて箕作家を分家しました。こちらの家系を継いだのが箕作麟祥です。麟祥は、長くフランスに留学し、主に法律学を研究しました。特にナポレオン法典の翻訳に力を注ぎ、これを全訳。これは、明治の民法編纂にも大きな影響を与えたといいます。又、官界でも活躍し、元老院議官・貴族院議員等を歴任しました。こうして、2人の婿養子、秋坪・麟祥が阮甫の跡を継いでいきました。そして、この2人の家系に、当時の第一線の学者たちが集まってくることになるのです。その中で、著名な人はというと・・・。菊池大麓 世界に日本の和算を紹介した数学者で、日本に幾何学を導入。東大の総長・文部大臣も務めました。秋坪の次男です。坪井正五郎 日本における人類学の開拓者で、東大教授。秋坪の長女の夫です。菊池正士 電子線の実験に成功して世界的に認められた物理学者。大麓の三男、秋坪の孫です。美濃部達吉 天皇機関説を唱え、軍閥に傾斜する政府と対峙したことで知られる憲法学者。大麓の長女の夫です。 石川千代松 動物学者で、日本における進化論の先駆者。麟祥の長女の夫です。長岡半太郎 世界的にも有名な原子物理学者。第一回の文化勲章を受章。麟祥の三女の夫です。この頃の箕作家は、一族の大半を学者が占めるというとても、特徴的な家系となっていました。でも、その要因はというと、結婚をするのに、似たような家柄のところに、ということもあったでしょうが、その一方では、箕作家自体の家庭環境ということもあったように思います。箕作秋坪は、常々「子供を教育するのは、その親の本分である。」ということを言っていたといい、箕作家では、親や祖父が熱心に子供を教育していたといいます。そう考えると、学者一族・箕作家を築き上げたその要因というのは、決して単なる成り行きなのではなく、しっかりとした家庭での教育の積み重ねが、その基盤にあったからなのではないかと。箕作家の歴史を見ていると、家庭での教育の重要性を改めて感じます。
2010年03月13日
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あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。今年の大河ドラマは「龍馬伝」ですね。第一回の放送が1月3日。予告編を見ていても、映像にリアル感があり、緊迫感のある良いドラマになりそうな感じがしています。福山雅治といえば、長崎のイメージがありますが、高知ばかりでなく、長崎でも、さぞ盛り上がっているのでしょうね。これまでとは違う龍馬像を描く、ということなのだそうで、期待しつつも、見守っていきたいと思っています。ところで、龍馬伝。坂本龍馬の伝記といえば、これまでに色々な書物が発表されてきています。書店に行っても、龍馬関連の本がところ狭しと並べられているほどです。そうした龍馬関連の本の中でも、最も古く、初めて書かれた龍馬伝といえるのが、坂崎紫瀾(しらん)という人が書いた「汗血千里駒」(かんけつせんりのこま)という伝記小説でした。「汗血千里駒」という、このタイトルは、龍馬の波瀾万丈の活躍ぶりを、千里に疾駆する駿馬にたとえたと云い、明治16年に、高知の「土陽新聞」に掲載され大評判になったものだそうです。当時は、生前の龍馬のことを知る人が、まだ存命中で、様々な聞き取り取材を行って、龍馬の生涯を伝記小説としてまとたものでありました。作者の坂崎紫瀾という人は、自由民権運動の活動家としても知られた人で、「高知新聞」の編集長も務めた人でありました。この本が書かれた頃には、龍馬のことは、一般にはあまり知られておらず、紫瀾には、この頃盛り上がっていた自由民権運動に、龍馬の生涯を重ね合わせようとする意図があったと云われています。「汗血千里駒」は、その後書かれた様々な龍馬伝の原典になったとも云われていて、そういう意味で、坂崎紫瀾は、はじめて龍馬を見出した人であったとも云えるのかも知れません。それはさておき、相変らずとりとめのない話を、書き綴っている当ブログではございますが、何卒、本年も、よろしくおつきあい願えればと存じます。今年が、皆様にとって良い年でありますように。
2010年01月01日
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幕末、土佐藩からの建白を受け入れた徳川慶喜が大政奉還を行ない、朝廷に政権を返上したことは良く知られています。この大政奉還は、坂本龍馬が、後藤象二郎に働きかけて、山内容堂が奏上したことにより実現したものでありますが、しかし、大政奉還という考え、それ自体は、以前から、有識者の間では、何度か構想され、議論されてきていたことでもありました。その元々の発案者は、誰かというと、幕臣で、中でも英才といわれていた大久保忠寛(一翁)。大久保一翁といえば、勝海舟の盟友としても知られた人で、ただ、海舟よりも家格が高い分、海舟より先に出世をし、海舟が、幕府の主要ポストにつけるように斡旋した人でもありました。この大久保一翁が、大政奉還を唱えたのは、文久2年頃、慶喜の大政奉還が行われる5年前のことでありました。この頃、幕府は、朝廷から攘夷の実行を迫られていて、しかし、攘夷の実行が不可能であることがわかっていた一翁は、この時、それならば、幕府は朝廷に政権を返上して、駿河・遠江・三河3国の大名に戻り、後を朝廷に任せようという発想から主張されたものでした。朝廷に政権を担当させて、攘夷がどれほど不可能なものか、思い知らせようとするのがその目的。しかし、大久保一翁が、幕臣でありながらも、どういう思想的背景から、この大政奉還を考えついたのか、定かではありません。ただ、当時の武家の一般教養である、儒学思想から思い至ったのではないか、と、想像することができます。一翁の大政奉還につながる考え方の中に、次の言葉があります。「天下は天下の天下にして 徳川の天下にあらず」徳川の政権は、天下から委任されたもので、徳川の恣意により私すべきでない。その政権担当能力がなくなった時には、政権を天下に返すべきである。ここでいう「天下」とは、「公」といっても良いでしょうし、幕末のこの時期においては、「天皇を中心とする朝廷」とも取れるかもしれません。一翁は、この大政奉還の話を、勝海舟や横井小楠、越前候の松平春嶽に語りました。土佐の山内容堂にも語り、容堂もこれを聞き、大いに感服したという話も残っています。しかし、文久2年という段階では、幕府の権力もまだまだ強大であったため、一翁の大政奉還論は、過激な空論として現実には受け入られず、一翁は忌避され、やがて、左遷されてしまいます。時代は少し下がって、慶応元年。第二次征長戦の停戦問題の時にも、大政奉還が議論されました。敗勢となったこの戦いを停戦に持ち込みたい慶喜は、松平春嶽に停戦処理の協力を求めたのですが、この時、春嶽が協力するための条件として持ち出したのが大政奉還論でありました。家茂が死去し、将軍位が空位となっている状況の中で、幕府を廃して、諸侯連合による新たな政体を築くことを春嶽は求めたのです。慶喜は、これを了承。勝海舟が長州への使者となり、停戦合意が成立しました。しかし、結局、この時、慶喜はこの約束を守ることなく、将軍に就任したため、大政奉還は実現しませんでした。その後も、中岡慎太郎が大政奉還案を述べるなど、議論の対象にはなっていきますが、どれも、現実的な動きにはつながっていきません。そこへ、最終的に、タイミングを得て、実現に向けての道筋をつけたのが坂本龍馬でありました。「船中八策」で後藤象二郎に提案したことから、土佐藩が実現に向け動き始めます。大政奉還は、案として議論されていた段階から、龍馬のような構成力を持った調停の天才の手を経て、実現されていくことになるのです。
2009年10月24日
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中岡慎太郎といえば、坂本龍馬の陰にいつも隠れがちで、龍馬が脚光を浴びる分、もう一つ、スポットが当てられることの少ない存在です。しかし、慎太郎の残した功績というのは、決して小さくなく、龍馬とは異なる方向で、日本の方向性を見定め、維新に向けて主導していった人でもありました。中岡慎太郎の事績の主なものとしては、・尊王攘夷派の志士として活躍(土佐勤王党~長州の忠勇隊)・薩長同盟の締結に尽力(龍馬より早かった)・大政奉還の提唱(龍馬より早かった)・薩土の提携・土佐討幕派の育成(乾退助を薩摩に紹介)・岩倉具視と三条実美、討幕派との連携・陸援隊の創設 などそれに加え、「時勢論」という著書を残した革命理論家としての側面もあります。この本を通じて、尊王攘夷運動の意義や目指すものを示し、討幕への方向性を導いた人でもありました。今回は、そうした中岡慎太郎の略歴をたどりながら、その事績と思想にについて、まとめてみたいと思います。中岡慎太郎が生まれたのは、天保9年(1838年)。土佐安芸郡北川郷柏木村に、中岡小伝次の長男として生まれました。父の小伝次は、苗字帯刀も許されていた大庄屋で、郷民からも信頼を集めていたといいます。子供の頃から、父に手習いを受け、又、近郷の医師や学者からも四書や詩経などを学び、14才の時には、代講まで務めるようになるまでに学問を積んでいたそうです。剣術は、武市半平太から教えを受け、高知城下の武市の塾で修行を重ねる中、龍馬と知り合ったと云われています。一方、庄屋としての使命感も強く、郷民のために、藩に掛け合って借金をしたり、食糧をまわしてもらったりと、郷民の救済に力を尽くしました。また、地域振興のため、ゆずの栽培を推進して、特産品の開発にも力を注いでいたともいいます。そうした中、時代は、幕末の動乱期に。やがて、慎太郎は、武市半平太が結成した土佐勤王党に加盟、尊王攘夷運動に、邁進していくことになります。しかし、やがて、山内容堂が土佐勤王党を弾圧。慎太郎にも捕縛令が出されたことを知り、慎太郎は土佐を脱藩、その後、慎太郎は長州へと向かいました。長州では、京から逃れてきていた三条実美ら尊攘派公卿と面会し、長州の志士たちとも交わりました。翌年には、京で起こった蛤御門の変に参戦。乱戦の中で、負傷し、やむなく敗走。その後、長州に戻っって、三条らが潜居する功山寺の護衛を担当していました。そうした中、慎太郎の転機となったのが、西郷隆盛との出会いでありました。幕府の起こした第一次征長戦。幕府方の参謀として、調停交渉を進めていた西郷は、この征長戦を、穏便のうちに終息させたいと考えていました。その撤兵の条件の一つが、三条ら尊攘派公卿の他藩への移転問題。ここで、慎太郎は西郷と協議を重ねることになります。この時、慎太郎は、西郷の真意を知っていたく感動したといい、決意を持って、長州の寛大な処分を行おうとする西郷に同意。慎太郎は、この時に、薩長同盟の可能性に気がついたといいます。それ以降、慎太郎は、薩長同盟締結のために奔走し、その動きに、龍馬も加わり、やがて、薩長同盟が実現していくこととなります。ところで、慎太郎は、この頃から、「時勢論」と呼ばれる論文を書きはじめました。4回に分けて執筆・公表されたもので、この論文は、討幕運動に対し、少なからぬ影響を与えたとも言われています。この論文をたどることで、慎太郎の考え方が進化していった様子もわかります。そこで、ここからは、慎太郎が書き記した「時勢論」を中心に、慎太郎の考え方について見ていくことにします。<慶応元年 「時勢論」>慎太郎が薩長連合に着目して、活動を始めた頃に書かれたものです。「富国強兵と云ふものは、戦の一字にあり。」この言葉から、慎太郎は武闘派であると、イメージされたりもしますが、要は、薩摩、長州とも西欧列強との戦いを経験し、敗れたことで、「民族の独立」を意識するようになり、他藩に比べ「富国強兵」が進行していったということを述べたかったようです。さらに、こうした薩長両藩について。「自今以後、天下を興さん者は必ず薩長両藩なる可し、吾思ふに、天下近日の内に二藩の令に従ふこと鏡にかけて見るが如し、他日本体を立て外夷の軽侮を絶つも、亦此の二藩に基づくなる可し。」これからは、薩長両藩の命に従うことになる、と薩長の天下を予測しているのです。<慶応2年 「窃に知己に示す論」>土佐藩の上士から依頼されて書かれたもので、この中で、慎太郎は大政奉還論を唱えています。「徳川を助けるための策はすでにない、徳川自ら政権を朝廷に返上し、臣としての勤めを果たすことこそ残された道である。」さらに、アメリカのワシントンを例に挙げて、徳川慶喜と対比し、万国に名誉を示すべきであるとも述べています。この慎太郎の大政奉還論は、坂本龍馬、後藤象二郎の大政奉還よりも8ヶ月早く、また大政奉還後、国内において戦いが起こることを予想し、倒幕の戦いの準備を始めることを示唆していることも象徴的です。もう一つの注目は、慎太郎の世界情勢論。慎太郎は、海外の情勢についても感心を持っていて、その知識と分析の深さには、目をみはるものがあります。「今時、恐るべきはロシアである。虎狼のような心を包み隠し、数年この方、大兵を養い、国費を蓄え、石炭を用意し、諸国との交易を心にもかけず、もし彼の政策を以って立たしめるならば、必ずや突如として侵略し、その恐れがあるのは、我が国を以って甚だしいとす」「只、ロシアだけでなく、中国がこれに次ぐ。英国やフランスも危ない。ロシアだけでなく、アメリカも同様に恐るべき所がある」慎太郎の自論は、国を開き、貿易を行いつつ、富国強兵を急ぎ、挑み来る敵国があれば敢然と戦う、ということでありました。慎太郎のいう攘夷とは、「国の独立」「民族の自立」を目指すものであり、アメリカの独立戦争に触れて、これを「攘夷」であると位置づけているのです。<慶応2年 「愚論 窃に知己に示す」>土佐藩の兵制改革、政治改革についてまとめたものです。兵制改革については、洋式銃の整備に重点を置き、精鋭部隊を作ることを強調しています。これを元に、乾(板垣)退助によって、迅衝隊が組織され、戊辰戦争で活躍をすることになります。慎太郎は、なお佐幕傾向が強い土佐藩を、薩長と同じ土台に立たせるべく、政治改革や同志の意識改革を訴えていったのです。<慶応3年 「時勢論」>先に、大政奉還論を唱えていた慎太郎でしたが、この「時勢論」においては、慎太郎の理論が討幕へと進化しています。「西洋各国の国勢を見れば、軍備政教を一新して国体を立ててきた。いまだ周旋と議論とに終始して国を興したことは聞かない。」と述べ、後藤象二郎による大政奉還論を、暗に批判しています。「邑ある者は邑を投げ捨て、家財ある者は家財を投げ捨て、勇ある者は勇を振るい、智謀ある者は智謀を尽し、一技一芸あるものはその技芸を尽し、愚なる者は愚を尽し、公明正大、おのおの一死をもって至誠を尽し、しかるのち政教たつべく、武備充実、国威張るべく、信義は外国におよぶべきなり。」国難に際しては、階級に関係なく、民衆が一体となることにより、藩論を動かすことが出来るのであると主張しているのです。慎太郎は、幕末の攘夷・討幕運動を、民衆をも含めた革命運動であると認識していたのでありました。慶応3年(1867年)11月15日。中岡慎太郎は、京都・近江屋において、龍馬とともに襲撃を受け、その2日後、この世を去ります。彼が目指した明治維新が、成就する目前のことでありました。維新が成ったら何をするか、と、聞かれたとき、龍馬は、世界の海援隊として世界中を飛び回る、と答えたそうですが、慎太郎の場合は、そうした話は残されていないようです。しかし、もし、慎太郎が維新後まで生き残っていたとしたら、きっと、明治政府の中心人物の一人となっていたのではないでしょうか。ひょっとすると、中岡内閣が誕生していたかも知れません。慎太郎は、それくらい、広い視野を持った人物であったのだと思いますね。
2009年10月18日
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NHK大河ドラマの「篤姫」。原作者や主演が発表された時には、何かイマイチで、パッとしない、というのが、正直なところ、最初の印象でした。天璋院篤姫という題材も脇役的で、どうなのかなぁ、とは思いながらも、今のところ、続けて見ております。篤姫は、幕末期に、薩摩から将軍家に輿入れし、13代家定の正室となり、滅亡するまでの幕府にあって、大奥の主宰者として、徳川将軍家の家内を束ねました。政治の表舞台に立ったわけでなく、歴史を動かすのに、大きな影響を与えたわけでもないので、地味な存在ではあります。でも、考えてみたら、彼女の生涯はとてつもないほどに数奇な運命を負わされた生涯なのです。このドラマを見ていて、そう感じ始めました。篤姫の運命の変転をまとめてみると。1)薩摩・島津藩の分家(今泉家)の姫として生まれ、 平凡に自由気ままに生涯を終えたはずだったのが、 島津本家の養女になります。2)さらに、島津本家の姫から、将軍家御台所として、 徳川将軍家に嫁ぐことになりました。3)その結婚相手の将軍・家定は、病弱というよりも精神薄弱に近い 障害を持った人でした。 しかも、嫁いでまもなくして、夫に先立たれてしまいます。4)将軍家の御台所として、史上初めて、皇族(天皇の妹・和宮)を 嫁にもつことになってしまいました。5)その嫁ぎ先の将軍家は、やがて、滅亡してしまい、 滅亡する将軍家の後始末も、しなければなりませんでした。6)しかも、その攻撃してきた相手は、実家の島津藩でした。これだけの、宿命を背負わされた人は、なかなか、いないと思います。急激に変転する幕末期の時代の流れに、翻弄されながらも、自分のおかれた役割を果たしていった。そうした意味でも、しっかりとした、聡明な女性だったのではないかと思います。宮崎あおいの篤姫役も、予想外といえば失礼ですが、意外といいですし、これまでの大河ドラマにない、ユニークな新鮮さがあります。今後の展開に、期待したいと思います。
2008年03月19日
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楽天仲間のFC司馬さんからのお薦めで、先日、「長州ファイブ」という映画のDVDを借りてきました。幕末、長州藩の5人の若者が命がけでイギリスへ密航し、進んだ西洋の近代文明に触れたことから、日本の近代化に情熱を持つに至る様子が、生き生きと描かれている物語です。イギリスへ密航した若者とは、この5名。井上聞多・・・後の馨。外務大臣等の要職を歴任した明治の大物政治家。伊藤俊輔・・・後の博文。ご存知、日本の初代総理大臣。遠藤謹助・・・大阪造幣局長を務め、桜の通り抜けを発案したことでも有名。井上 勝・・・鉄道の敷設・普及に尽力し、日本鉄道の父と呼ばれた人物。山尾庸三・・・工部卿など工学関連の重職を歴任し、日本工学の父と呼ばれた人物。いずれも、帰国後、この留学経験を生かして大変な活躍を見せ、明治日本の近代化に、それぞれ、大きな足跡を残した人たちです。そして、この中で、映画の主人公として取り上げられているのが山尾庸三。派手さもなく、知名度も決して高くありませんが、日本が工業立国となる基盤を作った、ともいわれるほどの功績を残した人物であります。そこで少し、映画「長州ファイブ」を振り返ってみます。まず、映画の冒頭シーンは、イギリス人が薩摩藩士に殺傷された、生麦事件の場面から始まります。尊王攘夷を掲げたテロ活動が、最盛期を迎えていた幕末の文久年間です。山尾庸三を含む、長州の志士たちも英国公使館の焼討ちを行うなど、攘夷活動を行い、暴れまわっていました。しかし、山尾たち5名は、藩から英国留学の機会が与えられることになり、近代技術を学び「生きた機械」となって帰ってくることを決意し、イギリスへ密航することとなります。イギリスでは、蒸気機関車が動くさまを、初めて見て衝撃を受け、また、立ち並ぶビル群を見ては、圧倒され、銀行のしくみを聞いては、驚かされました。どれ一つ、日本にはなく、日本が勝てるものは何一つない、ということを、彼らは痛感しました。そうした中で、彼らは、藩のためではなくて、日本の国のために役に立ちたい、日本の国を何とかしたい、という情熱を、強く持つに至ります。やがて、彼らは、同じ志を持ちながらも、違った方向を選ぶことになりました。井上聞多と伊藤俊輔の2人は、日本の攘夷戦争をやめさせないといけないと思い詰め、急遽日本へと戻っていきます。残った3人も、それぞれが、自分の進むべきテーマを見つけ、それを追求するために、ロンドンで別れ、個々が目指すべき道に進み始めました。そうした中、山尾庸三は、工業に注目します。特に、造船業を学ぼうと考え、造船のさかんなグラスゴーへと向いました。造船所で、実習生として造船術を学ぶ日々を送る毎日。しかし、そんな中、聾唖の婦人エミリーと知り合い、淡い恋心を抱いたりもします。当時の、造船所内は、鋲を打ち込む音のため、常に大音響でありました。そのため、何年も働くと耳が遠くなる人が多く、又、逆に、造船所では、聾唖者でも十分に仕事ができたのです。山尾は、聾唖者も、教育によって健常者以上の能力を持てると考え、このことが、帰国後、彼が聾唖者教育を提唱することにつながっていきます。やがて、山尾が日本へ帰国する日が近づき、エミリーとの別れが・・・。というところで、この映画は終わっています。幕末の頃の日本や、19世紀のイギリスの様子がとても生き生きと映し出されていて、画面から、臨場感が伝わってきますし、イギリスで初めて蒸気機関車を見て、衝撃を受けるシーン等も印象的。若き日の情熱を、日本の将来にかけた彼らの青春群像としても見ごたえがあって、幕末・維新史に興味のある方には、是非お薦めの映画だと思います。ちなみに、映画のその後、帰国してからの山尾庸三について。帰国後の、山尾が残した功績の大きなものは、工業教育と聾唖者教育推進についての明治政府への提言であったと言えるでしょう。明治元年(1868年)に、山尾はイギリスから帰国。 明治4年(1871年)には、工部大学校の設置と聾唖学校設立を明治政府に建白しました。「たとえ今、日本に工業がなくとも、人を育てれば、その人が工業を興す。 近代化とは、技術を学ぶことだけではなく、人間に近代文明を教えることも重要である。」というのが、山尾が英国留学から学んだ考え方でした。そうした、工学教育の基盤の上に立った日本工業発展への展望を彼は描いていたのです。明治6年(1873年)には、そうした山尾の提言が実現し、工部大学校(現在の東京大学工学部)が開校。その後も、工部卿など工学関連の重職を歴任、日本工学会会長も30年以上にわたって勤め、日本の工業振興の第一線に携わり続けました。一方の、聾唖者教育についても、山尾は活動を続けました。こちらも、山尾の働きかけにより、東京に日本で初めての聾唖学校「東京楽善会訓盲院」が明治9年(1876年) に設立されました。聾唖者も、教育によって健常者以上の能力を持てると考えていた、そんな山尾が、グラスゴーの造船所での体験から学んだことを、日本において実現したものと言うことができます。山尾庸三、大正6年(1917年)没。81才でした。日本の未来をはるか遠くまで見据えて、この国の近代化を願い、教育に情熱を燃やした山尾庸三。彼の功績が、現代の先進国日本の大きな土台となっている、といえるのではないでしょうか。彼が「日本工学の父」と称されている由縁も、ここにあると思います。以前に書いた長州藩留学生の関連記事 井上聞多と伊藤俊輔 興味のある方は、こちらも合わせてご覧下さい。
2007年12月15日
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咸臨丸の米国渡航。それは日本にとって、鎖国以来初めての、又、蒸気船を使った初めての、海外渡航でありました。この米国渡航の話が決定したのは、安政6年(1859年)のこと。日米修好通商条約の批准をワシントンで行うために、幕府の使節団が米国へ行くことになりました。米国の方でポーハタン号が用意され、日本の使節はこれに乗って米国に向います。しかし、一方で、長崎海軍伝習所で航海術を学んだ勝海舟たちから外洋での航海を実地に行いたいという要望が出されており、紆余曲折の末、ポーハタン号とは別に、もう一隻日本から船を出すことが認可されました。使節の乗った船に、万が一事故があった場合に備えるという名目です。使用する船は、幕府がオランダから購入した軍艦・咸臨丸。乗船する主な顔ぶれとしては、木村摂津守(芥舟) 勝麟太郎(海舟)小野友五郎 中浜万次郎 福沢諭吉 ブルック他米国海軍軍人 11名 総勢90名あまり。万延元年(1860年)1月に、咸臨丸は品川を出航。サンフランシスコを目指します。しかし、咸臨丸の米国までの航海は、決して平穏ではありませんでした。乗組員たちの間に、色々ないざこざが発生します。一つは、ブルックたち米国人と日本人乗組員との軋轢。この航海は日本人の力だけで、米国人の助けは借りないと主張する日本人乗組員は、操船方法などブルックの助言を拒絶します。言葉の違い、文化の違いによる行き違いもあったのでしょう。しかし、中浜万次郎が仲裁に入り次第に打ち解けはじめます。暴雨風に何度か遭遇した時には、ブルック始め米国人船員の活躍で危機を乗り越えました。もう一つは、勝海舟艦長の不興、不機嫌。元々風邪気味で体調が悪かったようですが、部屋に閉じこもったまま出てこなかったり、暴風雨で激しく揺れる船内で、寝込んでいたりしました。時にかんしゃくを起こし、今から帰るからボートを下ろせと水夫に命じた事もありました。海舟は、決して優秀な航海者ではなかったのです。福沢諭吉も、この時の海舟の状態について、船乗り失格とばかりに冷ややかに書き記しています。ちなみに、勝海舟と福沢はこの航海が初対面でしたが、明治に至るまでこの2人は全く反りが合いませんでした。様々なトラブルはあったものの、43日間の航海で、無事サンフランシスコに到着。一行は、サンフランシスコで市民から熱烈な歓迎を受けます。ここで、彼らが米国・西欧文明を実際に体験して受けた印象。これについては、海舟も福沢も同じところに注目していました。その社会制度の違いについてです。福沢の表現では、「理学上の事に就いては少しも肝を潰すと云う事はなかったが、一方の社会上の事に就いては全く方角が付かなかった。」といい、科学技術面では知っている知識の延長であるので驚くほどではなかったが、社会制度の違いについては、知識としては知っていたものの、その感覚が違う事に衝撃を受けたといいます。"ワシントン大統領の子孫は今どうなっているか"と聞いたが、誰も知らないと言う。その事に、大いに驚いたという福沢の話は有名です。この年、3月に咸臨丸一行は帰国。海洋航海を経験し、又西洋文明を目の当たりにした事で、勝海舟、そして福沢諭吉は、日本の進むべき方向を掴んだ。そんな旅だったのではないかと思います。
2007年02月03日
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幕臣でありながらも、新しい統一国家のビジョンを持ち、最後は、徳川幕府の解体に力を尽くすことになった勝海舟。立場上、歴史の主流にはなれなかったものの、彼は、個人の力によって歴史を動かすことが出来た人物の一人であったと思います。今回は、そうした勝海舟の生い立ちから青年期に至るまでを追いかけて見たいと思います。『勝海舟について』勝海舟は文政6年(1823年)の生まれで、父は旗本の勝小吉。海舟とは号で、佐久間象山よりもらった「海舟書屋」という書からつけたもの。通称は麟太郎といいました。『勝海舟の先祖について』勝の家は、旗本とはいっても、先祖代々の武士ではなく、海舟の曽祖父にあたる人は、放浪の盲人でありました。ところが、この人が利殖の才に優れていて、高利貸などをして大いに財をなし、旗本男谷家の株を買い取って、武士の身分を手に入れました。彼は、自らを男谷検校と名乗り、その子平蔵が男谷家を相続。この、男谷平蔵の三男が小吉です。やがて、小吉は旗本勝家の養子となり、海舟が生まれました。徳川封建制も、江戸時代後期になると、武士の生活が窮乏したために、金さえあれば武家の株を手に入れて、武士になることができました。勝海舟が、幕臣でありながら違う発想を持ちえたのは、こうした、履歴が影響しているようにも思われます。『勝小吉と幼少期の麟太郎』麟太郎が幼少の頃、勝家は貧しく、生活は貧窮を極めていました。父の小吉は小普請組という下級旗本で、禄高400俵あまり。小普請組というのは、要は無役の旗本のことで、役柄がないのでする仕事がなく最低の手当をもらっているだけ、一日ぶらぶらしているしかない生活だったのでしょう。小吉も役に就くために、しきりに運動をしたようですが、結局、生涯役につく事はできませんでした。勝小吉という人は、生来たいへんな暴れ者で、何度も家を飛び出して諸国をさすらい、無頼の徒と交わり、数年間座敷牢に入れられていた事もありました。そうした、身持ちの悪さが、役につく際の障害になっていました。麟太郎が生まれてからは、生計をたてるために、富くじの世話をしたり、刀剣の売買をしたり、加持祈祷のまねごとまでしていたようです。しかし、剣術だけは滅法強く、町道場主の間でも一目置かれていて、又、江戸っ子らしい気っぷの良さから、ちょっとした町の顔役でありました。小吉は、そうした、どうしようもない自分のような生涯を、麟太郎にはさせたくないと願い、麟太郎に期待をかけ、彼を一人前の人間に育て上げようとしました。小吉にとっては麟太郎の成長こそが、唯一の夢であったのです。麟太郎7才の時。江戸城本丸の庭を見物していたところ、その活発な挙措が将軍家斉にの目にとまり、家斉の孫初之丞のお相手として召し出されます。この時ばかりは、小吉も泣いて喜んだといいます。しかし、初之丞はその2年後、幼くして亡くなり、同時に麟太郎の御殿勤めでの出世の道も閉ざされました。この頃、小吉が隠居し、麟太郎が家督を継いでいます。『麟太郎、剣と蘭学に打ち込む』御城勤めから戻った麟太郎は、剣術と蘭学に打ち込む事になります。剣術は本家の男谷精一郎が開いていた道場に入門し、その高弟島田虎之助に就いて、修行に励みました。海舟は後年「若い時に本当に修行したのは、剣術ばかりだ」と述懐し、この剣術の鍛錬が、のちの艱難辛苦に耐えるのに役立ったと語っています。暑さ寒さも関係なく、寝る間もなく打ち込んでいたようです。21才の時、免許皆伝を受けています。一方の蘭学は、蘭学者・永井青崖に就いて学びました。麟太郎の蘭学修行は、貧しい暮らしの中で、工夫しながら精魂を傾けたものでした。いくつかのエピソードが残されています。(その1)日蘭辞書「ズーフハルマ」全58巻を一年がかりで筆写した話。当時、日蘭辞書はこの一種類しか刊行されておらず、それも、時価60両という大金でした。貧乏旗本の麟太郎には、とても手が出る代物ではありません。知り合いにこの辞書を持っている人がおり、麟太郎は年10両の約束で、この辞書を借りました。それからは、昼夜を問わずこの筆写に明け暮れ、全58巻を筆写。しかし、それでは借賃の10両が支払えないので、さらにもう一部を筆写。それを、10両で売り払うことで辞書を返却しました。(その2)新刊の兵書を、半年かけて訪問し続け、筆写した話。麟太郎は町で新刊の兵書を見つけました。その価格は50両。これも又、到底手が届きません。やがて、その本は売れてしまったのですが、麟太郎は欲しくてなりません。本屋から、その本の購入者を聞き出して、その人の元に訪ねて行き、貸して欲しいと頼みますが、聞いてもらえません。結局、深夜・夜10時以降なら構わないという事になって、麟太郎は、それから、一里半離れたその家を夜中に毎日通い、半年かけて、その兵書を書き写しました。麟太郎は、逆にその貸主よりも、その本の内容をよく理解して、貸主からは「私が持っているより、あなたにさしあげましょう」と言われたとか。麟太郎だけでもないですが、この頃の名を成すほどの人の、物事に対して取り組む姿勢、情熱は、並はずれたものを感じます。現代では、とてもそこまでは出来ないといったような・・・麟太郎、28才の時、蘭書と西洋兵学を教える塾を開設。次第に、世間に彼の名が知られるようになり、この頃には生活も安定してきます。そして、麟太郎31才の時、ペリーが来航。彼は、この非常時に際して幕府に意見書を提出し、やがて麟太郎は、幕府内でもその存在が認められ始めます。
2007年01月27日
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最近、うちの2人の息子はプレステ2の「風雲新撰組」というゲームにはまっています。自分の作ったキャラクターが近藤・土方・沖田などといっしょに尊攘派の不逞浪士を討伐していくゲームで浪士には坂本竜馬、桂小五郎、西郷隆盛なども出てきます。斬殺シーンは血しぶきが飛んだりしてグロテススクな場面もあるのでほどほどにして欲しいのですが、本人たち結構のめりこんでやっています。私が買い与えたものなのでしかたがないのですが・・・・・ 新撰組といえば京の町の治安にあたって数多くの尊王攘夷派浪士を倒した剣術武装集団で、やがて倒幕~維新という時勢に逆行し、時代に取り残された集団というイメージがあります。それはそのとおりなのですが、でも実際に彼らの時代認識はどのようなものだったのでしょうか。そこで尊王攘夷というキーワードで新撰組について考えてみました。 幕末史を大きく動かしたのは尊王攘夷という思想(イデオロギー)です。尊王とは文字通り天皇を敬うこと、発展して天皇を中心とする政治体制を志向する考え方です。江戸中期以降、国学等の隆盛により当時の武士層・富農層・豪商などに尊王思想は広がっていました。 しかし、それは限られた知識階級にとっての話で、一般庶民にすれば天皇といっても遠い話でその存在すら知らない人が多かったのではないかと思われます。近藤勇や土方歳三たちは豪農の生まれでした、これら知識階級では尊王思想は流行していた考え方でした。この時代、尊王というのは特別な思想ではなく、一般常識に近い(一般庶民は別ですが)教養であったのです。 もう一つの攘夷とは、夷(外国)を排除し打ち払うべしという考え方です。これは知識階層の一部の人を除く一般庶民を含めた日本人の多くが共有していた、当時日本民族の本能のようなものだったように思います。鎖国は太古以来続いている日本の制度だと一般には思われていたので、外国が武力をかざして迫ってくるとは、恐怖以外の何ものでもなかったでしょう新撰組の面々も攘夷には大賛成するでしょう。 とすると、新撰組も尊王であり、攘夷派であるということになります。では”尊王攘夷派”の浪士たちとどう違うのでしょうか。一つは置かれた立場の違いです。彼らは会津藩預かりで立場的には完全に幕府側であるということ。もうひとつは、”尊王攘夷派”のいう尊王とは天皇を敬うといったレベルではなく、天皇を絶対的なものと考え、さらには狂信的に天皇を崇拝し天皇中心の国家体制を作っていこうとする考え方なのです。近藤勇も天皇を敬うという意味の尊王意識があり、尊王派の伊東甲子太郎を幹部にしたりしましたが、尊王といっても意味合いが違っていたのです。近藤たちはそこまで明確に認識していなっかたのではないかと思います。 明治維新政権は尊王の部分はかなり取り入れましたが、攘夷については、開国を行った幕府を追い詰め、又攘夷熱ともいうべき尊攘派浪士のエネルギーをある意味利用して倒幕・新政権樹立を行っていきました。以上、私観でありますが、新撰組はそうした時代の空気を取り入れながらも、純朴に自分たちの立場を守っていったのだと思います。
2006年03月16日
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