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少しばかり本ブログをご無沙汰しておりました。実は体調を崩しておりまして・・・・・・情けない話ですが先週始めに腸にウイルスが入り込みました。その結果、起き上がることもままならず火曜日は会社を休んでしまいました。今は9割がた回復しましたが本調子ではありません。皆様もお気をつけ下さい。 さて前回からの続きです。「西郷南洲翁開墾の地跡」から約160m離れた所には「島津斉彬公炭窯跡地」がありました。この炭窯は1850年代に設置されたそうです。工業を充実させるための燃料確保の手段として斉彬公が考案されたのです。製造業を育成するにしても燃料が無ければ一歩も進みません。やはり斉彬公は名君です。西郷先生が開墾の地としてこの土地を選択した理由にこの斉彬公設置の炭窯の存在が影響を与えたのか否かは研究していませんが「ひょっとしたら」と考えながら歩きました。それにしましても160mという短距離ではありますが道が険しく更には多くの蚊に悩まされました。おまけに野生動物が出現しそうな雰囲気でしたし・・・・・・。さすがに酔鳳さんと私の妻は一緒に来てくれませんでした。想像していた以上の時間を要してしまいました。途中、心配された酔鳳さんから私の携帯電話に安否を訊ねる連絡があった程です。何とか見学を終え写真撮影も済ませ西郷南洲開墾の地跡まで戻ってきました。その後は鹿児島市内へ向かいました。その道すがら“糖分補給”を行ったのですがこちらは毎年恒例の両棒餅(ぢゃんぼもち)です。餅に味噌でこしらえたタレをかけたごくごく平凡な鹿児島の和菓子なのですが私の大好物です。餅とタレが絶妙にマッチしているのです。みたらし団子とは異なる味です。2皿注文しましたが多かったかもしれません。(1皿12本入)因みにお店は「中川家」さんです。この周辺には何店か両棒餅のお店があります。こちらでのもう一つの楽しみは眼前にそびえる桜島を眺めることです。目線的には下から見上げますので迫力ありますよ。錦江湾も同時に楽しむことができますし。今回の眺めが1番良かったです。午前の“西郷先生関連探索”はこれで終わりかなと思いましたら酔鳳さんが「篠原国幹さんの生誕地に行ってみる」とのことです。でしたら私も行きたいという願望が沸き起こりましたので一緒に訪問することにしました。しかしその場所がわかりません。こうなったら西郷南洲顕彰館で教えてもらう以外に方法はありません。急いで車を走らせました。(酔鳳さんは車中「運転が荒いなあ」とポツリとおっしゃっていたそうです)西郷南顕彰館では職員の方がコピ-をとってくれました。目をやると住所は下加治屋町周辺でした。私たちは「やはり篠原さんも西郷先生生誕の地周辺で生まれたんだね!」と思わず口にしました。篠原さんも郷中教育の洗礼を受けたのですね。コピ-のおかげでその場所はすぐに判りました。この周辺は場所が場所なだけに他にも多くの鹿児島が輩出した偉人生誕地です。その件につきましては次回にて紹介させていただきます。
2009.10.31
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桐野・別府さん生誕の地を訪れた後はかねてより私が訪問を熱望していた「西郷南洲翁開墾の地跡」に向かいました。この地は読んで字の如く“西郷先生が明治6年の政変に破れ鹿児島に帰郷されてから西南戦争勃発まで心血を注がれた地”なのです。いわゆる「征韓論」にてご自身の死に場所が見つかり、何としてでも成功させようと全力を注入されていた西郷先生でしたが岩倉具視、大久保利通らの陰謀により政治に対する意欲を失くされました。しかし西郷先生は帰郷後、布団を被って寝ておられたわけではございません。明治6年当時より「食料自給」を最重要課題と捉え荒地を農地に変えることに努力をされたのです。ご本人も周囲に「これからはお百姓さんになるのだ!」と語っておられた様ですね。農作物を自らの手で育て収穫することに以後の人生における価値を見出されたのでしょう。ただ私が考えますに西郷先生はこうした純粋な考えだけではなく何か期するところがあったのではないでしょうか?まず第一に中央政府からの警戒心を薄めるという配慮でもあったと私は想像します。当時、明治維新樹立からまだ6年しか経過しておりません。いくら廃刀令が交付されたとはいえ全国には新政府に対して不満を持つ士族が大勢、存在していました。こうした士族の反乱を抑えていたのが西郷先生なのです。多くの士族は新政府に不満を持っていようとも西郷先生に対しては敬愛の念を抱いていましたから。(一部、東北地方の士族は敵視していたでしょうが・・・・・・)その士族のシンボルたる西郷先生が下野することで全国の士族が西郷先生を担ぎ上げ、新政府に反乱を起こすのではないかとの懸念が存在していました。事実、西郷先生とは無関係な地方の反乱は少なからず勃発していました。特に警戒心の強い大久保利通などはスパイを鹿児島に放っていたと私は勝手ながら想像します。西郷先生が開墾に集中されたのは新政府に対し「自分はもう軍人でもなく政治家でもない。一介のお百姓さんだ!」と行動で主張されるためであったのかもしれません。この開墾の地は鹿児島市街から15キロ以上(多分)も離れており今現在でも“田舎道”を通らなくては到達することの出来ない場所に位置します。あえて市街から離れた土地を選択されたのでしょうね。本当に遠かったです。しかも野生動物が出てきても何ら不思議ではない山中でしたし。開墾の地跡は寺山自然公園手前にあります。私たちはまずこの公園内を散策し頂上まで到達しました。ここから桜島、錦江湾を眺めることが出来るのですがその眺めたるやまさに「絶景」です。でもこの日はあまり綺麗な眺めではありませんでした。残念。「西郷南洲翁開墾の地跡」は山道(車道で一応アスファルト)から遊歩道を数分歩いたところにあります。 ほんのわずか前まで天皇陛下に次ぐ実質的な国内最大にして最高の実力者であった西郷先生が生きる喜びを求めたこの地を訪れた私は西郷先生の純粋さと無念の両方を考えていました。議院内閣制か確立し伊藤博文に始まり今に至るまで総理の職を辞した後、西郷先生の様に農業従事者へと転身した人物は存在したでしょうか?私が知る限り皆無では・・・・・・。陶芸家になった方はいますが、残りは単なる老害と化しているのが実態ではないでしょうか?
2009.10.21
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最近は多忙続きでブログの進行が滞っております。 このペ-スが続きますと「中村先生ご来札」が大幅に遅れてしまいますので今回は特別編とさせていただきます。先々週末、中村先生が札幌にいらっしゃいました。こお中村先生とはあらためてご紹介するまでもなく中村稔先生です。中村先生は竹社長他ご一行様と共にいらっしゃったのです。当日は日本全国を震撼させたあの大型台風が北海道にも上陸しており中村先生もその影響を受けられ、着陸まで1時間40分もの間、旋回する飛行機のなかにいらっしゃったそうです。それにしましても先生が札幌にいらっしゃる時は悪天候とご縁がおありのようで一昨年のご来札時は大雪のなかいらっしゃったのでした。しかし前回、今回ともに悪天候をものともせず無事いらっしゃった先生のエネルギ-は賞賛に値します。先生とは某ホテルのバ-にて再会しました。竹社長もいらっしゃって早速「北海道南洲会」発足のお祝いのお言葉を賜りました。先生も本会を絶賛して下さり「私が若い頃にこのような会があったら間違いなく参加していたよ」との温かくも身が震えるお言葉もいただき本当に嬉しかったです。お二人からはお言葉だけではなく身に余るご厚情をも賜り私は「もう後には退けぬ」感情を自然と覚えた次第です。その後ススキノの料理店に場を移しました。私は中村先生と隣の席に座らせていただきましたので昔話(代々木ゼミナ-ル時代)はもちろんのこと現在の政治・経済に至るまで幅広い議論が出来ました。(下のお方が「伝説の名講師」中村稔先生です。いつもス-ツとネクタイでビシッと決めておられます)そのなかで私が「北海道南洲会」での講演を先生に依頼したところ先生は快諾して下さいました。(中村先生が)当時、“受験生に伝えたかったメッセ-ジそして今現在、かつての教え子たちに伝えたい想い”を語っていただきたいと私は強くお願いしました。また勝手を申す事が許されるのでしたら当時の授業を再現していただけたら、この上ない幸せです。(最近、英語の勉強をさぼっていますのであの激しい授業にはついていけないでしょうが英和辞典を迅速にめくることすら不可能でしょう)もしこの「夢」が実現しましたら大事業になることは間違いありません。受験生時、中村先生から英語を学んだ「元教え子」は札幌市にどれくらい存在するか想像だに出来ません。既に受験生を持つ身の方もいらっしゃるでしょうし勤務先で重要な地位に就かれている方も多いでしょう。大して中村先生も「毎日が晴耕雨読の毎日だよ」とおしゃりながらも当時の舌鋒鋭さは一向に衰えていません。今も探究心旺盛で努力家の中村先生から「渇」を入れてもらうのも宜しいかもしれません。私もこれからずっと先生から叱咤激励いただくことを願っています。同時に先生から「偏差値の低かったこの男を教えてよかった」と思われるような生き方を貫きたいです。
2009.10.20
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桐野利秋は鹿児島市内では知名度が低いのか。あるいはこの男性が知らなかっただけなのか。どちらなのかは判りませんでした。まさか「鹿児島市民にもかかわらず何故、桐野さんを知らないのですか?」と尋ねるのもはばかられましたので・・・・・・。しかしそうこうしているうちに発見しました。「桐野利秋生誕の地」を。私たち3名が「やっと見つけた!」と喜んでいる姿をこのご夫婦は笑って見ていました。するとご主人が私に「おたくはどこからきたの?」と質問してきました。その表情から「こんな朝からこの連中は一体何をしとるんだ?」と感じているのではないかと見て取れました。私が「昨日、北海道の札幌から来ました」と返答すると再び「何をしに鹿児島に来たの?」と質問をいただきましたので「お墓参りです」と答えました。私の返答を聞いた男性は「おたくは鹿児島の人間なの」と再度尋ねてきましたので「いいえ違います」と返しました。男性は怪訝そうな表情で「では誰の墓参りなの?」と興味深くおっしゃいました。私が「西郷隆盛先生のですよ。昨日が命日でしたからそれに合わせて来ました」と答えるや急にその男性の表情が変わりました。次の瞬間、被っていた帽子を取り背筋を伸ばしてから「そうでしたか。それは本当に有難いことです。遠い札幌から西郷さんの墓参りにいらしたのですか!」と丁寧な物言いに変わったのです。私は恐縮してしまいましたが鹿児島市民のなかには桐野さんの生誕の地は知らなくても西郷先生に対しては限りない敬意を表している方が存在する事をまざまざと見せ付けられました。桐野さんには少し悪い気がしましたが嬉しかったです。私が桐野さんの生誕の地へ向かうため別れの挨拶をした時にも丁寧にお辞儀をされました。さて「桐野利秋生誕の地」は20段くらいの石段を上った小高い場所に位置しています。周囲を見渡すには眺めが良い場所ではありますが決して広いとはいえない土地でした。続いて桐野さんの従弟にあたる「別府晋介生誕の地」に行くため石段を降りました。事前に用意した資料によると別府さんの生誕地と桐野さん生誕地は目と鼻の先と認識していましたが何せ住所表示がない道に囲まれていたのでなかなか見つけることが出来ません。私は「桐野さんの生誕地を見ることが出来たから別府さんの生誕地を省いても良いかな」と半ば諦めの心境でいると前方からそれ程年配ではない女性3名が歩いてきました。すると酔鳳さんが近づき「別府晋介生誕の地」への道を訊いてくれました。しかしその答えは予想通り「知りません」でした。そこで周辺に架かっている橋の名前を言いましたらそちらは知っておられて何とか苦労せず到着することが出来ました。そういえばその別れ際に、酔鳳さんが「おやっとさあ」と言いましたところ女性達は少し笑いながら「おやっとさあ」と返してくれました。今の鹿児島では死語なのでしょうかね?道路を歩いて行くと桐野さんと別府さんの生誕地までは徒歩5分くらい要しました。もし草むらを掻き分けると数分で到着するのかもしれません。西郷先生の懐刀(桐野さん)と介錯人(別府さん)が親戚同士で近所で生まれ育ったという事実も何か縁を感じました。この後は西郷先生が「明治6年の政変(いわゆる征韓論争)」後、帰郷されてから開墾に熱意を注がれた地を見学する事になっています。私がかねてより訪れてみたかった場所なのです。こちらのご報告は次々回にさせていただきます。(次回は急遽「中村先生ご来札」に変更させていただきます)
2009.10.18
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2日目は6時30分に起床。例年ですと8時過ぎに起床し「さつまの湯」に入りのんびりと桜島を眺めてそれからゆっくりと朝食を味わっていました。しかし今年はこれまで訪ねたことのない場所に行くので時間に余裕を持ちたかったのです。前日は遅くまで行動していましたので睡眠不足ではありますが年に一度のことですので我慢です。とはいえ寝起きなので頭も体も全く働きません。こうなると無理にでも全身を覚醒させるしかありません。気だるい体に鞭打ちもうろうとした状態で「さつまの湯」へ。朝霞に煙る桜島を眺めながら露天風呂のなかにいますと少しずつ目覚めてきました。今年の櫻島は度々発生する小噴火のせいかはっきりとは見えませんでした。(私が訪問した何日か後に大噴火が発生したとニュ-スで知りました)こんな状態です。私にとって起床後にここからゆっくりと桜島を眺める時が至福の時を味わう事ができるのです。何とか体を覚醒させ部屋に戻り着替え朝食会場へ向かいました。このころになると多少、食欲もわいてきて食べ物を欲してきます。過去の拙ブログでも紹介させていただきましたが「城山観光ホテル」の朝食バイキングは私が過去に味わった他のホテルを凌駕する量と質の内容です。鹿児島のホテルゆえ朝からさつまあげを食べることができるのは当然としても下の写真の様に「鯛のお刺身」もいただくことができるのです。その他、朝から薩摩料理を味わう事ができるというのは嬉しいです。朝食会場前の広場には噴水もあり良い雰囲気でもあります。何とか短時間で朝食を終えチェックアウトを済ませ車を駐車場から出し目的地へ出発です。当日のお仲間は私の妻と酔鳳さんです。酔鳳さんは私たちが朝食を食べている頃には既に食べ終えられ出発を「今か今か」と待っておられました。目的地第一号は「桐野利秋生誕の地」です。同時に従弟の「別府晋介生誕の地」もすぐ近くにあるという事ですのでコ-スに入れました。桐野さんの生誕の地は鹿児島中心部から10数kmは離れた「盆地」といっても語弊がない土地(地域)にありました。坂道がやけに多いというのが印象に残っています。今でこそ住宅地に変貌していますが桐野さんが幼かったころは畑作にも適さない険しい土地だったでしょうね。恐らくこの一体は身分が低い武士の集落だったのでしょう。小説を数ヶ月前に読んでいましたので何となくではありますが桐野さんの青少年時代を思い描くことができました。とはいえ現在も周囲にはお店など存在せず車を停めて「桐野利秋生誕の地」を見つけるのには多少、難儀しました。3人で「どこだろう」と暑いなか探していましたらこちらの住民と思われる初老のご夫婦が歩いていました。すると突然、酔鳳さんがご主人に向かって「このへんだよね?」と訊かれました。私は酔鳳さんは私か私の妻に質問されたかと思っていました。恐らくこのご主人もそう思ったのでしょう。しかし酔鳳さんがご主人に向いているものですから「何が?!」と言われその後「私に訊いたんじゃないよね?」と自分に言い聞かせるかの様に酔鳳さんに言いました。しかし酔鳳さんは「いえ地元の方だとご存知かと思い訊きました。桐野利秋さんの生誕の地を探しているのです」とおっしゃいました。私はここまで説明するとこのご主人から「桐野利秋生誕の地」までの行き方を教えていただけるものと思いましたが何と返答は「知りません」でした。年配の鹿児島県人でもそんなものなのですね。(以下次回に続きます)
2009.10.15
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それにしても深夜の墓場に足を踏み入れることなど私の人生において初めての経験です。 ただ不思議と怖さはありませんでした。私が霊感を発揮する体質ではないためか、はたまた敬愛する西郷先生始め薩摩軍兵士のお墓だからか。まあ後者の方でしょうね。細い坂道をゆっくりと登りきったところに駐車場があります。車はこの駐車場に停め酔鳳さんと私は車をおりました。数本の屋外灯が設置されているとはいえ周囲は薄暗いですから足元に注意して歩かなくてはいけません。少し歩くと何台か車が停まっていることに気付きました。その内の一台の中に目を向けますと若い男女と思しきカップルを見てとりました。私は「西郷先生とその弟子のお墓のすぐ側でよもやよからぬことにいそしんでいるのではないだろうな!」と戦闘態勢に突入しました。そんな場面に別府晋介さんがいようものなら問答無用で斬捨てているでしょう。しかし、どうやら会話を楽しんでいる様で私は一喝することなく墓地へ向かったのです。墓地に入るとますます暗くなり顔の判別さえ困難でした。ゆっくりと西郷先生のお墓に近づくと墓前に5名の若者(20歳代後半?)が座り込み会話をしていました。西郷先生の墓前には焼酎(1.8リットル)が置かれていましたので私は「酔っ払った若者が狼藉をはたらいているのでは?」と少し警戒しました。あるいは向こうが戦いを挑んでくるかもしれません。そうなると「私が3名を倒し、酔鳳さんが2名を叩きのめせば万事OK」と私は内心覚悟を決めました。若者達は接近する酔鳳さんと私に怪訝そうな眼差しを向けました。とりあえず無視してお墓に近づくと酔鳳さんが「篠原国幹さんのお墓はどこだっけ?」と私に質問してきましたのです。私が探せないでいると若者のなかの一名が「篠原さんのお墓はこれですよ」と指で教えてくれました。酔鳳さんと私は当然ながらお礼を言い、篠原さんと西郷先生のお墓に手を合わせました。その後、若者と挨拶を交わしましたところ、好青年という感触を受けたのであれこれ話をすることになりました。酔鳳さんなどは彼らに向かい合う形で座り込んで会話をされたのです。彼らも私たちに興味を覚えたらしく酔鳳さんが福岡から、私が札幌から西郷先生の命日に合わせて鹿児島に来た事に驚愕の声を上げていました。彼らはこの近所に住む同級生で「僕たちは小さい頃からここを遊び場にしてきました」とのこと。酔鳳さんが私を指差し「この人は最近、札幌で北海道南洲会を発足させたんだよ」と紹介すると会話は益々ヒ-トアップ。ついには「郷中教育」にまで言及することに。もちろん若者たちは理解しています。「負けるな、嘘をいうな、弱いものをいじめるな」これに酔鳳さんが「若くて綺麗な女性に心を奪われるな」と付け加えたものですから笑いに包まれすっかり雰囲気は和んだのです。彼らとは来年のこの日この時間この場所で再会する事を誓いました。(酔鳳さんの提唱)約束は守らなければいけません。「嘘をいうな」ですから。西郷墓地を後にして車中の私はなぜか嬉しい気持ちになりました。たとえ少人数でもこの様な若者が鹿児島に存在するとは!私のこれまでの来鹿においてこの様なことは初めてでしたし何といっても励みになります。爽やかな気分でホテルに到着し酔鳳さんと別れました。翌日は本日以上にハ-ドスケジュ-ルが待っています。部屋に戻るやいなや「さつまの湯」に直行しゆっくりと疲れた体を癒しました。132年前のこの時間は西郷先生はじめ桐野さん、村田新八さんら薩摩の英雄を失い、鹿児島中が悲しみに暮れていたのでしょうね。
2009.10.13
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「西郷洞窟」を出てやっとホテルにチェックイン。今宵のお宿は「城山観光ホテル」です。このホテルは西南戦争末期に薩摩軍が立て篭もった城山の頂上に位置します。ホテルのバルコニ-からは鹿児島市内を一望することができ、桜島も綺麗に観賞することができます。私が最も好きなホテルなのです。昨年は“篤姫ブ-ム”ゆえ全て満室とのことで宿泊することができませんでした。17時少し前にようやくホテルに着き安心したのが正直な心境です。ホテル内にある「さつまの湯」で旅の疲れを癒したいところなのですが、まだ用事は済んでいません。部屋に荷物を置き汗にまみれた顔を冷たい水で洗いすぐにホテルを出ました。買い物が残っているのです。殆どは札幌の知人へのお土産です。向かう先は「山形屋」さんです。専用駐車場に車を入れて外に出ますと午後5時を過ぎているのにまだ生暖かい風が顔に吹き付けてきます。そういえば「西郷庵」で黒酢ドリンクを飲んでから水分補給をしていません。おまけに身体も火照ったままです。買い物前に水分補給と体の冷却が不可欠と思い喫茶店に入ることにしました。天文館周辺を歩いているとふと私の脳裏にあるお店が浮かんできたのです。水分補給と体の冷却の二条件を満たしてくれるものを提供してくれるお店。しかも糖分補給の可能なところというと。もちろん「むじゃき」さんです。下は「むじゃき」さんの入口前にあるしろくま君です。全国的には「しろくま」という名称で有名でしょう。鹿児島の名物カキ氷です。「しろくま」は氷が雪の様に柔らかくシロップ(練乳)が甘く甘党の私にとって最高の食べ物です。更に量の多さにはいつも驚かされます。何といっても半分食べ終わる頃には満腹感と冷えを同時に感じるのですから。完食後はゆっくりとしてもいられないのですぐに「むじゃき」さんを出ました。さすがに身体は冷えていまして外に出ても暑さを感じませんでした。「山形屋」さんでの買い物は焼酎と郷土食品がメインです。焼酎は“鹿児島県限定販売”の銘柄を購入しました。今年は「南之方」です。この銘柄は札幌在住の先輩が昨年鹿児島へ行った時に「とても美味しかった」と絶賛していました。それゆえ今年購入した銘柄はすべて「南之方」です。鹿児島の酒屋さんにて販売されているお酒は90%が焼酎です。種類も豊富ですから見ているだけで楽しくなります。郷土料理は主に漬物です。私も好物ですが「オクラの漬物」、「ゴ-ヤの漬物」など多めに購入しました。例年、事前に購入品と数量を連絡して取り置きしてもらっています。時間の短縮になるのです。とはいえ、文字通り「嵐の様にやってきて嵐の様に去っていく」のですから店員さんは忙しいそうです。いつも感謝しています。時間があれば店内をゆっくり見てまわり、その後は天文館を散策したいところでしたが今年は断念です。やっとホテルで一休みした後は「さつまの湯」に行き、これまた短時間で出てまいりました。夕食の時間が午後7時30分~と指定されていましたからゆっくり湯に浸かっていられません。それでも湯に浸かり数分、目を閉じると何となく疲れが取れました。日本人の疲労回復は温泉が一番ですね。夕食はバイキングでした。その内容はなぜかアジア料理中心でしたが疲れた身体には刺激があって良かったのかもしれません。昼食を食べ終わったのが午後2時で「しろくま」で満腹感を味わったのが同じく5時30分でしたが札幌市での日常に比べはるかに長時間歩いたので食欲はありました。ここでも満腹になっていよいよ本日の最終目的を果たす時がやってきました。福岡県から酔鳳さんが鹿児島にいらしているので合流するのです。酔鳳さんも西郷先生のお墓参りのため来鹿され、私が夕食を食べ終えた頃は天文館にいらっしゃいました。酔鳳さんとの初対面から約4カ月が経過していますがメ-ルで意見交換をさせていただいておりましたので時間の感覚は短く感じています。酔鳳さんはお楽しみのところ予定を切り上げて城山観光ホテルに戻ってこられました。(酔鳳さん、次回は私も天文館での豪遊にお付き合いさせていただきます)ホテル内のカフェで何故かアイスコ-ヒ-を注文し旧交を温めあいました。時間は既に午後10時を回っております。下はホテルから眺めた鹿児島市内です。そしてこれまた何故か「これから西郷洞窟まで行こう」ということに。幸か不幸か私は体内にアルコ-ルを一滴も入れていなかったので私が運転する車で行くことになりました。「西郷洞窟」に到着したのは何と午後11時少し前。人影は殆ど無く(向いの銭湯から数人出てきた程度)静寂のなか酔鳳さんと私は佇んでいました。酔鳳さんは霊感をお持ちの様で「北洲さんが来てくれて西南戦争で亡くなった薩摩兵士が喜んでいますよ」と私の心を揺り動かす嬉しいことを仰って下さいました。それゆえ私はちょっとしたパフォ-マンスをしました。私がチラッと酔鳳さんの顔に目をやりますと「こいつアホか!」という表情をされていた気がします。とはいえ西郷党2名が西郷先生の命日に本洞窟の前で語り合っている姿は鹿児島県民に対し感動を与えることは間違いありません。(誰もいませんでしたが)
2009.10.10
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「西郷南洲顕彰館」を後にし、次に向かった先は「西郷南洲翁終焉の地」です。 こちらには石碑が建てられております。実際に西郷先生が亡くなった(別府さんの介錯を受けた)場所は石碑が建てられている場所の少し横です。今はマンションが建っています。色々な事情があったのでしょうが実際に亡くなられた場所に石碑があれば良かったのですが。それから車で数分の所にある「西郷洞窟」へ行きました。ここは城山の麓というより城山の中にあると表現した方が正しいかもしれません。西郷先生はじめ薩摩軍兵士が西南戦争末期にたてこもった洞窟です。戦中は多くの洞窟が掘られた様ですが現存する洞窟は私が知る限りここだけです。私がこの洞窟に到着した時間は夕方(16時30分)でしたが何名かの観光客が入れ替わり立ち代り見学に来ていました。その方々の感想は「こんなに小さい洞窟によく人が入ったものだ」でした。私も初めて見た時は狭い穴が2つしかありませんでしたので驚いたものです。この洞窟前は広場になっています。私は毎年感慨に耽るのですが明治10年9月23日の夜は西郷先生を囲み生き残った薩摩兵士が今生の別れをしたところがこの広場なのでしょう。私は2年前の9月23日深夜にこの広場に佇んでおりました。志を何時間か後に控えた薩摩兵士の心境を少しでも理解できるかなと思ったのです。昨年このことを南洲神社の奥様に話しましたら笑われてしまいました。「よくも怖くなかったですねえ。幽霊が出てきませんでした?」と。私はすかさず「薩摩軍兵士の霊が出てきましたら喜んで焼酎を酌み交わしますよ」と返答しましたが。実際に大勢の英霊が登場しましたら驚くでしょうね。今回はお昼だけの見学でしたのでその心配はありませんでした。(が実際はそうはいきませんでした。詳細は後ほど。)一通り洞窟及び周辺を歩いた後は隣で営業するお土産屋さん「せごどん」で買い物をしました。私は毎年必ず立ち寄っていますのでお店の方に顔を覚えられています。それゆえこちらもつい多めに買い物をしてしまいます。今年は西郷先生のポスタ-と貯金箱そして携帯電話のストラップを購入しました。(ポスタ-以外は毎年購入しています)そしてこれも毎年のことなのですがお店の方が必ず「げたんは」を無料でプレゼントしてくれます。この「げたんは」ですが篤姫様も召し上がっていた薩摩の伝統的菓子です。味はかなり甘いです。砂糖を齧っているかの様な甘さを舌に感じる事が出来ます。甘党の私にぴったりのお菓子です。この後は宿泊先の「城山観光ホテル」にチェックイン手続きをしました。城山の頂上に位置するこのホテルからは桜島の眺めが良くホテル内の温泉も広く素晴らしいです。露天風呂に浸かりながら眺める桜島は絶景です。本来ですと入室後すぐに浴衣に着替え入浴するのですが当日はまだ予定が残っています。“下山”して買い物をしなくてはいけません。(お土産購入です)こちらも毎年恒例で鹿児島県を代表する老舗百貨店「山形屋」さんで焼酎、お菓子、漬物を物色します。もうどこの場所に何が販売されているか頭のなかに入っています。(以下次回に続きます)
2009.10.07
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ここ「南洲墓地」はあらためて説明するまでもなく西郷隆盛先生以外にも2千以上のお墓があります。 西南戦争の実質的責任者であった桐野利秋さん、篠原国幹さんのお墓など西郷先生につき従うかの様相を呈しています。私は毎年の墓参の際、西郷先生のみならず他のお墓にも挨拶するようにしています。お墓に記された享年には20歳~20歳代半ばの若者が多く西南戦争以後、中央政府から薩摩の逸材が消滅した事実を物語っていますね。このことは日本において人材が枯渇した悲劇を物語っております。一通りお墓に挨拶した後は隣接する「南洲神社」近くへ。私は今年、喪中ゆえ神社でお参りは出来ませんでしたが少し離れた場所から目礼しました。「南洲神社」の建物奥には俳優の榎木孝明(鹿児島出身)さんから届いたお花が供えられていました。「南洲墓地」に到着後1時間が経過していましたので水分補給をすることにしました。墓地内(神社内)にある「西郷庵」にて休憩。このお店は西郷隆盛先生の曾孫にあたる西郷隆文氏が経営されています。店内には隆文氏が製作された器などが販売されています。床は砂利がひき詰められており地味なお店ですがそれが周辺の雰囲気とマッチしております。この日は西郷先生始め城山で戦死した薩摩軍の幹部の命日ゆえ全国各地からたくさんの花が届けられます。下のお墓は桐野利秋さん。こちらは「幻の宰相」村田新八さん。西郷先生の介錯を担当した別府晋介さん。桐野さんの従弟でもあります。闘将・篠原国幹さん。さて、私が店内で黒酢ドリンクを飲んでいましたら「南洲神社」の奥さんが綺麗な花束を手に抱え入店してきました。「バレリ-ナの森下洋子さんからお花が届いたの!」とのこと。店内にいた私以外の方(殆どが女性)は驚いた声を上げていました。有名な方なのですね。私は恥ずかしながら存じもうしあげませんでしたが。奥さんによりますと「なぜ森下愛子さんがお花を届けてくれたかは判らない」そうです。死して132年が経過してもなお西郷人気は強く継続しているのです。こうして涼んだ後はこれまた隣接する「西郷南洲顕彰館」へ向かいました。こちらには毎年お伺いしてはいますが今年は「北海道南洲会」設立の際に助言をいただいたりとお世話になりましたのでそのお礼も兼ねて訪問しました。「西郷南洲顕彰館」には西郷隆盛先生ゆかりの品はたくさん陳列されていて見ごたえがあります。西郷先生が愛用されたタンスや月照和尚と入水自殺をした時に乗っていた船の残骸などがありまさに「百聞は一見にしかず」です。鹿児島に行かれた西郷党にとっては必見の遺品の宝庫です。ただし今年はリニュ-アル工事中ですので来年完成後に行かれた方が無難かもしれません。「西郷南洲顕彰館」裏の仮事務所を訪問しますと高柳館長が待っていて下さいました。高柳館長が応接室に案内して下さいました。私は「北海道南洲会」設立後の経過報告及びご助言のお礼を申し上げました。その後はもちろん西郷先生に関する話題に。先にマスコミを賑わした札幌で発見された「西郷先生辞世の句」について。高柳館長は「この句は西郷南洲翁の句に間違いない」とする説ですが札幌市在住の研究者は「西郷さんの句ではない」との説を展開しています。この点について高柳館長は「この句の最後に自署されている名前“南洲”ではなく“西郷隆盛”とされていることが本人の句であります」と説明されました。通常、私たちが書籍などで目にする西郷先生の書の最後には南洲と署名されています。しかしあえて"西郷隆盛"と本名を記した点がまさの本人の辞世の句ということなのです。それにしましても高柳館長は自説を坦々と述べることに終始し異説を唱える研究者の批判は一切されませんでした。私は高柳館長のお人柄と西郷研究に関しての自信の表れと判断しました。帰り際、高柳館長に「北海道南洲会が軌道に乗りましたら是非、札幌市で講演していただけないでしょうか?」とお願いしましたら快諾して下さいました。今後の活動に張り合いを持つことの出来る新たな目標がまた一つ増えました。下の方が高柳館長です。わざわざ西郷先生像の前に移動され気持ちよく撮影に応じて下さいました。有難うございました。
2009.10.05
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前代議士・中川昭一氏が亡くなられました。実は本日、中川氏の叔母さんと昼食をする約束をしていたのですが先ほど「急用が出来たので本日はキャンセルして下さい」と電話があったばかりでした。何やら急いでいる様子でしたので私は「ではまた来週末にしましょう」と言い電話を切りました。それから少し経過して私の実家から訃報の電話がありましたので本当に驚いています。この叔母さんとは暫くお目にかかっていませんでした。先週初めに電話をいただいたので「鹿児島からのお土産を届けに参ります」とお話し「ではお昼も一緒に」となったわけです。この叔母さんにしてみれば実兄そして実甥と亡くされていらっしゃるのですからお気の毒です。私は中川昭一氏とは1度だけサシで会ったことがあります。今から11年前くらいですが。あれから時の経過と共に自民党内でも実力をつけ総裁候補と目されるまでになりました。しかし「もうろう会見」、「落選」と不幸が続きました。捲土重来を期して次回は復活されるものと思っていましたから今回の件は残念です。北海道(いえ日本)から保守政治家が1人消えてしまいました。複雑な選挙区事情で初当選から精神的に辛いことが多かったでしょう。今はご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌
2009.10.04
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毎年の行事とはいえ、やはり西郷隆盛先生の墓前に立つと緊張感を覚えてしまいます。 それは昨年の墓参から1年間、自分自身が誇る事の出来る生活をしてこなかったという恥ずかしさのせいであるのです。また緊張感だけではなく不思議と勇気が湧いてもくるのは西郷先生の懐の深さによるものでしょう。見習わなくてはいけません。この日は西郷先生のみならず城山で戦死した大勢の薩摩隼人の命日です。午後になっても人影が途切れる事はありませんでした。今年は女性の姿が目立ちました。最近は歴女(れきじょ)とかいう歴史好きの女性が増えているとか。西郷先生のお墓には写真の様に立派な花が添えられておりました。因みに私は「札幌タイムズスクエア」というお菓子を供えさせていただきました。 この多くのお墓を浄光明寺(南洲墓地)に丁重に葬った方は岩村通俊という人物です。岩村通俊さんは土佐の出身で西南戦争勃発時は県令の任にありました。岩村さんにとって西郷先生は敵将です。しかし岩村さんは軍部の了解を得て西郷先生はじめその弟子たちを手厚く葬ったのです。岩村さんと西郷先生の交流の有無及びその濃淡については調べていません。ですから岩村さんの心境について想像の域を超えることができませんが恐らく西郷先生を尊敬していたのでしょうね。あるいは土佐の英雄・坂本龍馬さんと西郷先生の友情を大切にしたいという熱い魂の持ち主であったのかもしれません。また最後の時まで西郷先生と運命を共にした桐野利秋さん、村田新八さんに対しても敬意を表していたのでしょう。敵味方に分かれようともサムライ同士が知る信念・感情を持ち合わせた方なのですね。岩村さんは。この岩村さんの像が札幌に建っているそうです。円山公園のなかにあるそうですので西郷党の私としましては岩村さんに敬意を表するため近いうちに像に会ってきます。私にとりまして今年の墓参はこれまでとは異なった心境でした。何といっても「北海道南洲会」発足の報告を西郷先生にすることが出来たからです。鹿児島と北海道は深いつながりがあるのですが西郷先生とは直接的にはそれほど関わりがありません。気候も歴史も人間性も鹿児島とは全く異なる北の地で西郷先生を慕いその生き方を手本にしたいとの強い意志を持った人間から構成される会が発足するとは西郷先生は驚いていらっしゃることでしょう。私は西郷先生の墓前に立ち深く礼をし手を合わせました。「西郷先生、やっと念願でありました会が発足しました。先生の意思そして遣り残されたことを少しでも実行し健全な国創りを目指して参ります。どうか叱咤激励をいただけますようお願い致します」私が西郷先生にお願いした内容です。私は敬愛する西郷先生に嘘はつけませんし自分に負けることも良しとしません。西郷先生の墓前での誓いはなんとしてでも成し遂げたいと意を強くしました。下は西郷先生のお墓に手を合わせる私です。日本(北海道)の健全化と皇室の繁栄をも西郷先生にお願い致しました。 西郷先生のお墓の前に立っていますと不思議と暑さを忘れてしまいます。西郷先生に3日接すれば3日離れられず、10日接すると10日離れられず。こうした自分の感情を抑えることが出来ず城山にて西郷先生とともに戦死した若者がいました。本当に魅力ある人物だったのでしょう。接すれば接する程“出来れば顔も見たくない”という人物が多い今の世とは対照的です。今年も私は西郷先生のお墓に手を合わせた後もお墓の前を行ったりきたりとブラブラしていました。「もう私のお墓参りはよいから涼しい場所に移りなさい」と西郷先生が仰っているかの様でした。話は変わりますがこの南洲墓地から眺める桜島は最高の景色です。堂々とした桜島を楽しむことが出来ます。上記の岩村さんはこの景色を西郷先生はじめ西南戦争で亡くなった英霊に楽しんでもらうためにお墓をここに設置したのかもしれません。
2009.10.02
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