ぎょう乃介雑記

ぎょう乃介雑記

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2006年04月15日
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カテゴリ: 古典日記

町内の整備された公園は比較的狭く遊具もたくさんあって、鬼ごっこなど全力で走る遊びには向きません。
郊外の大きな公園がそばにある子供は恵まれています。それは子育ての為の居住環境選択の要点でもあるからです。
保育園、幼稚園の園庭は、もはや走る環境にはありません。

子供が転んで擦り傷を作るのは当たり前だったのに、自分の子供となると、ほっとけなくなるものです。なるべく「転ぶな」「走るな」「飛ぶな」と危険を回避させたくなります。でもこれは子供の成長にとってマイナス作用なのだと頭ではわかっているのですが・・・。

自分に子供が授かって初めて、親の気持ちといのがわかるのだ、と知りました。このことは知識では獲得できないものです。
親であるのとそうでないのは、男か女か、という程違いがありそうです。
どんな非道な人間で世間から疎まれても、その人の親だけは自分の子供がかわいくて仕方が無い。そんなものだと思います。

    思子等歌一首并序(略)



    反歌

803「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」
                         「万葉集」 巻五

これは今から1277年前(諸説はありますが)の山上憶良 69歳の作で、憶良の年齢から「子」が誰であるか論点になるところですが、これは普遍的な「子(孫も含む)」を思う親の心情を歌ったと解釈して良いと思う。子を思う気持ちは昔も今も全く変わらないし、これからも変らないでしょう。


「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
                (「笈日記」  松尾芭蕉 51歳)

芭蕉は最後まで野山をかけまわりたかった。

親として、いつまで子供と一緒にかけまわることができるだろう。





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最終更新日  2006年04月15日 13時10分44秒
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