科学はイタズラだっちゃ! 受験も科学! 科学実験教室&家庭教師 宮城県大崎市
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私が伝えたい、科学のワクワク感というのは、知識を見せびらかして自慢する類のものじゃありません。まして、学校や先生に褒められて、よい学校に入れて、よい教授について、一流の研究機関に務めて、勲章ももらえて、何より、お金儲けになる、っていうワクワク感とは違います。 こういうことを目的とする人たちに研究は、国家や会社の要請に沿った研究になるわけですね。 ご要望通りの研究をすれば、褒めてもらえるからです。 しかし、昔の科学者、ガリレオだとか、ダーウィンだとか、日本でも明治以前の蘭学者などは、科学者自身が、研究したいこと、研究すべきだと考えることを取り上げて研究したわけです。そして、それは、しばしば、政府の意図に反することもありました。だから、科学者というのは、本来、政府からにらまれ、投獄されたり、殺されることを、ある意味覚悟して研究してきたのです。 なぜ、褒められもしない、科学をやめなかったのでしょう。それは、まさに、自分のやりたいことだったからです。やらなければいけないことだと、信じていたからです。また、周囲の人に、教えてやらなければならない、との使命感をもっていたからです。 そして、何より、楽しかったのです。夢中だったのです。だから、政府(幕府や教会)の抑圧に、簡単には妥協できなかったのです。本来、日本にもそういう伝統がありました。日本だけでなく、世界中がそうです。科学は、エライ人の耳触りの悪いことを言うからです。 しかし、そういう科学の伝統も、19世紀後半から、科学がお金儲けにつながるとわかってくると、俄然、毛色が違ってきます。財閥が、「金を出すから研究しろ」とか、「国家のために、研究せよ」と政府が言いだします。 当然、国家に都合の良い成果を出す人間が出世するのです。 今、原発関連で発言をしている学者の大半が御用学者です。彼らは、明らかに、ガリレオや、ニュートン、ジュールと言った科学者とは似て非なる人たちです。 昔の科学者は、庶民こそを味方にしていたのです。だから、彼らの書いた本は、とってもわかりやすいのです。誰にでもわかってもらえうるような、理屈と実験から成り立っていました。 彼らの書いた本と、今の小中高校の教科書を読み比べてみると、圧倒的に、昔の方がわかりやすいことに驚きます。それは、教科書というのは、国家が育成した学者が言うことを、「お前たちは、教わって覚えておけよ」という意識だからです。つまり、「学習指導要領の内容がわからなければ、お前たちはバカだ」という判定する立場に、自分たちを置いているからです。 しかし、ガリレオにとっては、まわりの人たちを説得できなければ、自分の負けなのです。昔の科学者は、自分たちの考えを伝えるのに、権力的な手段を使えません。これが、大きいのです。 「この人は、エライ人なんだから、この人の話を信じるように」とは言えなかったのです。 ところが、今テレビに出てくる学者たちは、まず、「~~大学の……の権威」とか、「~~の専門家」というタイトルから始まって決まって、「素人の人が、むやみに心配するのは、バカげたことだ」で 終わっています。 それでいて、ていねいに論理を聴きますと、なぜ、大丈夫なのか?、その本体の説明が、ほとんどありません。あっても、それは、どこかの文献に引用なのです。その文献やデータの信頼性や、論争過程が、ほとんどありません。つまり、論理が飛んでいるのです。 一つの事実からは、いろんな解釈ができるのです。人に納得をさせるためには、別の考えも十分に認める必要があります。その上で、なぜ、こう考えるのか、納得がいくように、証明してみせるべきです。 これは、科学者だけの責任ではありません。私たちも、いつの間にか、科学とは、エライ人が考えたことをその通りに覚えることだ、と思いこんでしまっているからです。 本当に科学に強い人というのは、ガリレオを思いだすまでもなく、科学的な権威の言うことを、そのまま受け入れない人のことです。しかし、そういう子どもは、今の学校教育では、落ちこぼれてしまう運命にあります。とすると、「私は科学に弱い」と思っている人こそが、本当は、「科学に一番強い人たち」かもしれません。 今、私は、予想外に、放射線対策で講演を依頼されるようになりましたが、放射線の「専門家」ではない、科学寅が言えることは、つまり、私たち一人一人が、本来の「科学者」になりましょう、ということになると思います。
2011.10.04
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