全79件 (79件中 1-50件目)
先生の授業研究の時間が足らないと、昨日言いましたが、授業研究くらい楽しいものはありません。 なぜなら、良い授業は、必ず楽しくなるからです。それを研究するのが、楽しくないはずがありません。 誤解しないでください。苦い薬に砂糖をまぶすのではありませんよ。 学問の本質にぶちあたれば、必ず楽しくなるはずだ、ということです。 そうして、本格的な学問になればなるほど子どもたちも、力をつけていきます。子どもたちを甘く見てはいけません。 もし、楽しくなければ、どこか違うのです。惹きつけられなければ、どこか違うのです。的外れなのです。 授業研究を、先生にいっぱいさせることは、先生たちに、活力を取り戻させます。
2009.09.18
コメント(0)
全国学力調査の結果が発表なりましたね。これで、またまた、学校では、目先の点数アップのために、先生方が尻を叩かれるんだろうなあ。そして、生徒の宿題が増えるんだろうなあ。 そもそも学力向上と言っても、あの試験で出る点数は、非常に狭い範囲です。もし、教育の目的が、生徒の幸せのためであるなら、教育効果というのは、その後、どんな人生を歩んだかそれにどんな影響を与えたかで、測られるべきでしょう。 そんなの現実的ではない、と言いますが、それこそが、教育を受けることの意味生徒にとっての「現実」ではないでしょうか?その「現実」を、進学率なんかに置いて、お茶を濁すのは、とっても卑怯です。 その子が幸せになったかどうかなんです。たいへん難しい追跡調査ですが、トライしようとさえしないのは、どうかと思います。 よしんば、それは、無理だとしましょう。だったら、今、今の子どもに、今、この教育を受けて「幸せかどうか」を聞いてみたらどうでしょう?もしかして、いや、きっと、こっちの方が将来の幸せよりも、重要で本質的です。 明日の命の保証の無い子のことを考えてみましょう。この授業が最後というとき、その授業を受けることが幸せだったかどうか? 次に、(私は本質的では無いと思うのですが)、社会の役に立つ人間になったかどうか、という効果測定があります。 でも、ですよ。最前線の学者でも、次の社会に必要な資質は、「わからない」というのが、正直なところのはずです。 だったら、人類社会が生き残るための安全装置として、人類の多様性を維持すべきです。生命の多様性は、環境変化を生き残る、大きな武器だったわけです。 いろんなタイプの人間がいる組織の方が、強いのです。ところが、今、教育は「個性の重視」なんてお題目としてさえ、吹き飛んでしまったくらい画一的な方向に進んでいます。これはアホの見本です。先日、森の声さんのブログで「科学の限界」の話がありましたが、権力と結びついた、「科学」っぽい指導には、恐ろしい落とし穴があります。 人間の認識の方法は、とっても偏っていて、多様性でできている全体の、極、一断面しか見れないのです。 国家や、人類の未来を真剣に憂える国の指導者が考えるべき教育のあり方は、ペーパーテストの成績を上げることよりも、教育の多様性をどう確保していくかだと思います。 そのためには、学習指導要領なんて、無い方がよっぽどいい。あってもいいかもしれないけど、それなら、多数の指導要領を用意して選べるようにすべきです。 そして、いろんな育て方を容認すべきです。どんな育ち方をした子が、人類を救うかわからないからです。 一番リスクの大きな教育は、画一化なのです。そのリスクは絶滅です。
2009.08.28
コメント(2)
今日は、学校に復帰しました。もう、運動会の練習一色。みなさん、あの学校の入場行進の練習、経験あるでしょう?どう思います? 一糸乱れぬ美しさというのは、たしかに、あります。何ていうか、団体の新体操みたいな。 学校には、幸か不幸か、団体行動に徹底的に反抗するテロリスト?が、いて、先生達や、生徒会の頭痛の種になっています。 しかし、ふと、オリンピック開会式を思い出してみましょう。各国選手団の入場行進。国旗を先頭に楽しそうに行進して、列をそろえるという意識はないではないですか。あれを、きたない行進だと思います? 日本人は、一糸乱れずの行進に感動する体質があるのでしょうか? でも、それなら、素晴らしいお手本は、将軍様の国の行進こそ、よく手も上がり、足まで上がっていて模範中の模範ですね。ナチスドイツや旧ソ連もそうです。 軍国主義というより、そうです、全体主義です。地域社会も含めて、学校には、真剣にやるという空気には、足並みをそろえるということが、セットになっている。常々疑問に思っているのだけど、消防団の練習のほとんど大半は、行進練習に費やされます。全然意義が無いとは言いません。しかし、精神訓練のため、ああいう形を教えないと自分の街を守れないのだとしたら、何と情けない大人たちだろうと思ってしまいます。 もちろん、行進がすべて悪いとは思いません。しかし、日の丸・君が代では、あれだけ、議論があったのに、「足並みをそろえること」の是非を、何も疑問に思わずに、ちょっとの議論もされずに毎年、どこの学校でも、スルーしていることに、私は、いらだちを感じます。 私は、これらの規律を外面的に守らせることに、違和感を感じる生徒こそ、明日の日本を切り開くリーダーになれると期待をしています。 もちろん、みんなのことを考えて行動することは大切です。しかし、たとえば人を愛することを、形式から教えられてそういう形式で愛を告白されて、あなたは、うれしいでしょうか? ラブレターが、形式通り、一糸乱れぬものだったらそこに、情熱を感じますか? 学校を愛させるのも同じでしょう?校歌を大きな声で歌えば愛してるんでしょうか?(実際、生徒は誰も歌いませんけどね) 今日の議論は、私のお世話になっている中学校を非難しているのではないことはわかってね。日本全体なんだから。 私たちの中に、すり込まれたものがあるということ。それに無意識では危ないということです。学校のALT(外国語指導助手)のアメリカ人に聞きましたら、当然、行進練習は無いそうです。ま、運動会自体が無いそうですが、もし、あるとしたら、オリンピックのようになるでしょう、ということでした。でも、、軍隊に入れば当然訓練するとのことでした。
2009.08.27
コメント(2)
知識を蓄えることは、大切なことです。言葉や概念は、戦いに臨む武器そのものです。 しかし、それにとらわれると、木を見て森を見ずになってしまいます。 アインシュタインは、次のように言っています。Education is what remains after one has forgotten everything he learned in school. The aim must be the training of independently acting and thinking individuals who see in the serviceof the community their highest life problem.「教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう。そして、その力を社会が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、自ら考え行動できる人間をつくること、それが教育の目的といえよう。」 要は、姿勢の問題だと思うのです。 今まで、アンダーグラウンドですすめてきました「はてなランド」(寅さんの個人授業)を来月から、少しオープンにしていこうと思います。 アインシュタインの言葉、もう一つImagination is more important than knowledge,for knowledge is limited while imagination embraces the entire world.イマジネーションが、知識よりも重要だ、と言っていますね。空想力・想像力というのは、小さいときに養っておくべき最重要課題ですね。これに比べれば、目先の点数なんて、どうでもいいようなもんです。しかし、この大切さを気にしていない人、いや、わからない人が教育関係者にいっぱいいます。残念なことです。
2008.11.22
コメント(0)
日本の社会の特徴は、縦社会であると言われています。ということは、横の連帯感が弱いと言えます。 上から指示された、横のつながりはありますが、自分の置かれた立場、相手の置かれた立場に共感しての連帯が弱い。 突然、変な話ですが日本の民主主義をイビツにしている元ではないだろうかって。 日本を自分の国と思っていない。地域を自分の地域と思っていない。上の人の国や地域だと思っている。 自分やその仲間こそが地域であり、自分やその仲間こそが国である。 僕たちが学校そのものである。 上から認められ、引き上げられるために頑張る姿勢からは、民主主義は生まれない。下の者を引き上げてやる、という姿勢からは、民主主義は生まれない。 上から押しつけられた学校は、なくならない。 子どもたちや、その家庭に、深く共感した連帯の中でこそ、本当の学校は生まれてくるはずだ。
2008.11.02
コメント(3)
教育界は、カッコウイイ目標を掲げるのが大好きです。どの学校にも、書いてありますし、どのクラスにもありますね。さらに、文科省にもあります。 ところで、これらの目標、本当にどれくらい達成されたのか、チェックされているのでしょうか?どうも、ほとんどの場合、そうではないようですよね。そもそも「ウソをつかない」「負けるな」なんて目標、チェックのしようがありません。 つまり、目標には、2種類あって、数量的にチェックできるものと努力の方向性だけ、ベクトルとして示しているものがあるわけです。 さらに、数量チェックできる目標にも真剣に、このくらいまでは、ナントしても全員到達させたい、という目標と相対的に、じわっと効果が出てればいい、という目標とがあります。 で、あまりにも、教育界には、もやもやとしているものが多いものですから本当に、これだけは、身につけさせたい、ナントしても、これだけは学校の責任として達成させたいという部分が、とってもあいまいになっていると思います。 本当に必要なことならば、あらゆる手段を講じて、生徒全員が、100点とは言わないまでも、ケアレスミスを考慮して、90点は取らなければいけないはずです。そして、そういう大切な部分が絶対にあるはずです。 その部分は、学力の正規分布なんかと言って、できる子もいれば、できない子もいるんだよなあ、で済まされないはずです。 それは、自然の流れに任せればそうなるのであって、つまり、仕事をしていないことと同じです。 科学教育で言えば、断片的な知識は、いくらでも後から自分で仕入れることができます。それをチェックするのではなくて、自力学習するための、土台の部分、つまり、科学を支える基本的概念の部分を9年間かけて、集団の中で、徹底的にもんでやるべきでしょう。 少なくとも、「卒業したら、金輪際、科学とは手を切るぞ」、と 思わせて送り出すってことは、その学校の大失敗であるわけです。 伸びる子を伸ばすという発想、エリート教育に注目が集まっていますが、これは、教育の敗北宣言に等しいと思うのです。 枝葉末節な、すべてについて、わからせる必要はないし、それらは、全員が熱中しなくたって、構わないことです。 でも、これだけは、その子の可能性をつまないためにも、可能性を残しておいてあげるためにも、ナントしても、身につけさせなければ、というものがあるはずです。それは、一体どの部分なのか、そして、それを全員、及第点を取らせるにはどうしたらいいのか?これができなかったら、切腹ものだという気概で取り組むできだし、また、可能だと思うのです。
2008.07.31
コメント(2)
はっちさんから、韓国の体罰についてのコメントをいただきまして、(私もあの映像を見ました。氷山の一角だと思います。)ついつい、体罰について、考えを言いたくなりました。 日本にも根強く、体罰は、必要だ。ムチを使わない親は、子どもを見捨てるも同然なんだ、という考えがあります。 私は、シツケも大嫌いです。日本のシツケは、調教と同じです。体で覚えさせるのです。どんなに小さな子でも、やる気がなければシツケを身につけられません。そのマナーの必要を心から納得させ、自ら努力するようにし向けるのが、教育で、日本の「シツケ」は、教育放棄です。 聖書にも、体罰を認める記述がありますね。だから、教会学校でも、ビシバシされるところも結構あります。 実は、私は学生時代、クリスチャンでした。いろいろあって、教会を離れているのですが、その決定的な瞬間は、子どもへの指導の仕方が、私には到底受け入れられないものだったからです。 後から調べれば、いろんな教会があり、ヤンキーも気軽に入れる教会も、ずいぶんあるようで、牧師さんの考えひとつってところもあるようですが。 先のコメントの返信にも、書きましたが、私は、体罰そのものをウンヌン、手を出すこと自体をとやかく言いたいんじゃありません。これを、サッカーの、ハンドみたいに、ルールにしちゃっては意味がありません。ボクシングで、キックを使わないように、教師は、手を出さない、なんてルールはナンセンスです。 そうじゃなくて、教育という仕事をどう思っているか、ということです。 大きく言って、教育には、二つの側面があるように思われます。一つは、「私たちひとりひとりの、生きる喜びを拡大する」「人間が人間として、人間らしく生きる喜びを拡大する」仕事という側面です。 もう一つは、「体制に順応する人間を作る」という側面です。 多くの先生は、心では、一番目の「生きる喜び」のために教えているのだと思っていることでしょう。「私は、学力を高めるために教えているのであって、体制に順応させようと、努力しているのではない」とおっしゃるでしょう。 しかし、冷静に見て、国が提供する学校というシステムは、体制維持の方が前提になっていることは、言い逃れしようがないことです。 個人個人の先生にしても、学校やクラスの秩序と、一人の生徒の生きる喜びを天秤にかけたら、どっちを取りますか?その一人の生徒のために、仕事が、煩雑になり、例外をいっぱい作らなくてはならなくなり、ひいては、上からの覚えもめでたくなくなり、自分の立場さえ危ういとき。 先生個人の倫理とは関係なく、組織としては、体制維持を優先してしまいます。 さらに、これは、こうも比較できると思います。「子どもの学ぶ喜び」と 「教えるべき内容」のどっちを優先しますか?という問いです。 子どもの学ぶ喜びを優先させていれば、子どもの半数がわからない、と言っている授業を続けていけるはずがありません。体制が教えることにしていることに、子どもたちを順応させることを優先しているわけです。 ここで、一般の先生の弱みにつけ込んで、悪口を言うつもりはありません。先生も生活をかけた労働者です。体制から与えられた仕事をこなすから、給料をいただいているのです。銃をもつ兵士を非難してもはじまりません。 で、韓国にしても、日本にしても、中国にしても、公教育というものが、体制への順応という優先があるかぎり体罰や、それに匹敵する「シツケ」は、なくならないでしょう。先輩から後輩へのイジメ、体罰も。 暴力を使わない、体罰もいっぱいあります。 これを無くすには、教育は、公的なものだという常識を覆して、教育は私的なものに、戻さなければならない、と思います。 来客です。ここで、一応切ります。
2008.07.24
コメント(10)
学校の主人公は、学校体制なのか?子どもなのか? もし、子どもが主人公ならば、子どもの人権に、もっと敏感になるべきでしょう。 子どもの人権を守るなら、「~~する権利」だけでなく「~~しない権利」もあると考えるのが当然です。 学校教育では、「~~する」のが、当然で、良いことだ、という常識に立っています。しかし、本当にそうか? と躊躇する心遣いが大切だと思います。 発言する権利があると同時に、発言しない権利もあるはずです。犯罪者でさえ、警察で、あの怖い、しばしば人権無視で叩かれる警察でさえ、黙秘権というのがあります。 授業で、「黙秘権」を使たいと思いませんでしたか?私は、学生時代、何度かトライしましたが、ことごとく失敗しました。 指名されて発言しないと、少なくとも、「恥」をかかされます。 また、たとえば、朝礼で、一列に一糸乱れず整列するのは、絶対に善なのだろうか?整列しない権利もあるんじゃないだろうか? 「礼!」というかけ声とともに、アタマの下げ方をチェックされます。しかし、礼をしない権利も、あるんじゃないだろうか?礼の表現方法を統一すべきなんだろうか? そもそも、命令されて、下げられるアタマに、意味があるのだろうか?ありがたみがありますか?命令されて、「ありがとう」とお礼をされて、それでもうれしいですか?権威にあこがれをもっている人には快感なんでしょう。私は、怒りがこみ上げてきます。 せっかく、心からの表現が出かかっているときに上からの強制で、ぶち壊しにされるんですから。 さらに、今の教育を受ける権利がありますが、現在の教育を受けない権利というのも、いや、こっちこそ、大切に守られるべき権利じゃないでしょうか? 「朝礼で、一糸乱れず並ばなくてもいいんじゃないですか?」という生徒の意見に、真正面から応えられる学校の体質こそ教育的なものだと思います。これが、もし、教師が、自分の意見を学校で言えるならもっと面白いものになるはずです。しかし、教師も公務員であり、自分の考えよりも組織の方針の方を優先するとたたき込まれているなら、話は、全然別の次元ですね。 つまり、学校は、生徒が主役でないどころか、教師も主役ではないのです。 さあ、夏休み、梅雨明けですね、すっきりさわやかみんな、みんな強くなあれ!
2008.07.19
コメント(2)
いつものことだが、そして、どこでものことだが、中学校の終業式で歌われる、校歌の声に小さいこと。 これは、生徒が怠慢だからだろうか? 人に気兼ねをするからだろうか? でも、卒業式では、びっくりするほど、大きな声がでます。 「声が小さい!」と叱るのは、前のページにも書きましたが「自発性を持て」と他律的に、脅される授業みたいなもんです。 そもそも、生徒代表の、1学期の反省や、夏休みの決意の発表なんて、そんなの、どんな意味があるんだろう?あれで、主体的な姿勢を表しているとでも思うバカは誰もいない。誰だって、ヤラセとわかっている。 それなのに、いつの間にか、「夏休み前に、お前達は、こう約束したではないか!」と叱られる。 「自発的」「主体的」という言葉は、実は、押しつけをカモフラージュする、免罪符になっているんではないだろうか? 優秀な教師たちが、智恵を絞れば、もっともっと、心からワクワクする終業式ができるはずだ。どっかのライブハウスよりも、熱狂する終業式があってもいいではないか!いや、そのくらい、熱があるべきだ! もし、この学校は、僕たちのことを、本当にわかってくれ、素敵な世界に導いてくれる、素晴らしい学校だ、と本心から、生徒が思ったら、校歌を高らかに歌わないはずがない。 校歌を歌わないのは、教師陣に突きつけられた、生徒からの判定です。そうです。「不合格」なのです。
2008.07.18
コメント(5)
先日、高校の起業家教育の協議会に参加してきました。年々、深まってきているなあ、と感心しています。 ただ、ふと、思うことは、チャレンジ精神や、創造性を育てることが、目的となっているのに、もしかして、それらを、受け身的に、学ぼうとする姿勢が生徒にあるのではないか?ということです。 その高校では、1年生から、準備段階としてその手の講義を聴いたりするのですが、それまで小学校・中学校を通して、受け身の姿勢を徹底的にたたき込まれてくるわけです。 その常識の前には、一つ、二つの授業で、変われるもんだろうか?この時間だけは、自由にのびのびとして良し他は、「マジメ」にしろよ、と区切りが付けられるだろうか? だとすると、学校の風土・空気そのものを変革しなければ、根本的な対策にはならないんだろう、と思いました。 そして、これは、日本の教育の問題点に、真っ向から勝負することになります。すごい!ファイト!
2008.07.18
コメント(0)
私が副理事長を務める四季彩通り商店街振興組合でこの度、裁判員制度の勉強会を開催します。 裁判員の仕事は、私の予想では、科学実験授業と似た要素があるんじゃないか、とにらんでいます。 日本人は、「真理」というものが、先に厳然とあって、それを学んで覚えるということしか、学校で教えられてきません。 しかし、科学もそうですが、真理かどうか決めるのは、人間なのです。だから、科学者がしばしば間違うように、裁判官も当然、間違って当たり前です。 だから、科学も裁判も、討論・批判ということを活発に行わないと、進歩というか、より発展は望めません。 科学に関して言うと、科学につきものの「論理」とは、主に、「他人を説得するための」論理なのです。自分が納得すれば、それでいい、というマニアやオタク向けの論理とは違うのです。 他人の意見を受け入れ、他人の間違ったところを批判し、自分の考えが正しいと思ったら、みんなから孤立しても、自説を守り、他人を説得するだけの論理と証拠・条件をそろえる。 これが、民主的な社会を造る条件ですが、これらは、全く科学発展の条件であり、裁判の基本でもあると(素人ながら)思うのです。 これらが、日本人に培われてきたとは、思えません。学校教育において、重視されてきたとは思えません。 よく思想信条の自由と言うと、思ったり、研究するのは自由だけど、発表は自由ではない、という人がいます。 しかし、自分の考えを自分の中に閉じこめておくのは、それは、科学では、少なくとも、ありません。他人に知らせて、はじめて科学なのです。自分の中だけでは、いかに研究しようと「無」に等しいのです。 自分の考えを他の人に知らせる。そして、堂々と批判を受ける。批判を受けても、なおかつ正しいと思ったら、やりかえす。これは、人間の自然な性質では、養われないものじゃないでしょうか? だからこそ、教育が、それを担わなければならないもので、集団教育の場でこそ、扱える教育テーマであるはずです。ところが、学校は、どちらかと言うと従順な、受け身の生徒を育成することに汲々としていますよね。 卵が先か、の問題でもありますが、裁判員制度が、良い意味で、日本人に刺激を与え討論ができる教育の必要性を訴えるものになるように期待しています。
2008.07.06
コメント(11)
自慢に聞こえるでしょうが、私の授業は、圧倒的に人気があると思います。生徒に喜んでもらってる。 でも、これは、至極当然なのです。なぜなら、喜ばれることしかしないからです。 こういうことを、このように展開すれば、楽しんでもらえると多くの人が実証してきたことだけを取り上げて、やってきているのですから。 ズルイ! ですね。人気投票ベスト10のお取り寄せグルメだけを取り寄せて、ごちそうしているようなものです。 それに対し、「人生は、苦いものも食べなければだめだ」、「無味乾燥の食事に慣れなければ、いや、慣らすのが教育だ」という考えもあります。 それに対し、私は、食事は楽しくなければ、意味がない。食べ物たち、そして、私たちのこの「生命」に対して、申し訳ない、という立場でいるのだと、自覚しています。 これは、先に摂取すべき栄養素があり、それを摂らせることが、教育であり、せいぜい、それを摂りやすいように、味付けしてやるというのが日本の学校の立場だと思うのです。 ここの部分で私は、意見が違うのです。生命の喜びの延長に、食事があるのであって、栄養を摂るために、生きているのではない、と考えます。 私が学校の先生になりたいと思わない理由。もともと、先生になろうとは、ツユほど思ってませんでしたがそれは、学校教育に、人間軽視の空気を感じていたからだと思います。 学校の先生は、れっきとした、職業です。どんな職業かと言えば、国が定めた、栄養素を子どもたちに摂取させるという仕事です。 先に、教える内容と、その手段・スピードが決まっています。そして、子どもそのものよりも、その決まり事の方を優先しなければならない仕事です。 え?子どもを大事にしている?もちろん、先生は、内面では、そう思ってらっしゃるでしょう。それにウソはないと思います。 でも、だったら、本当にそう言うんなら、子どもを優先に考えるんだったら、「子どもの半数がわからない」という授業をするはずがありません。子どもの学ぶ喜び、すなわち生きる喜びを大事にするんだったら、「わからない。おもしろくない。」という教材を使い続けるはずがありません。 日本国が決めた公教育は、つまり、「教えるべき内容が、優先」であって「子どもは捨ててもいい。」「何人かついてくればそれでいい。」という立場なのではないでしょうか? ついてこない子に「お前たちはダメだ。」「できない子だ。」「劣等生だ。」とレッテルを貼って、お上が決めた「公教育を維持するために」子どもを切っちゃうのです。 もし、これが子ども中心の教育だったら、「この教育内容は、子どもに合わないから、内容を切っちゃう」という発想になるはずです。こうなれば、子どもは維持されます。しかし、公教育は維持されませんね。きっと。 もちろん、社会に順応すること期待される人間像に合わせることも生きていく上で大切なことでしょう。 国が予算を出して教育して「あげる」のだから国家の期待する人間になってもらわなくては困るのです。 でも、こと、栄養素だったら、摂らなくちゃ死ぬかもしれませんが、教育内容については、これは、絶対的な栄養素だと言えるものが、どれだけあるでしょうか? 本当に必要だと、検証されているでしょうか?二次方程式や因数分解ができなくてどれくらいの人が困っているでしょうか?オームの法則を知らなくて、どれだけの人が、感電事故を起こしたでしょうか? 基本的栄養素だと思われているものを摂ってこなかったあの「おバカタレント」さんたちは、人間として輝いていないでしょうか? それより、何より、特別支援教室の子どもたち彼らは、「落ちこぼれ」なんでしょうか? 断じて違いますね。そんな発想をもたらすものは、断じて教育なんかじゃない! 教育内容を優先する教育は、どう考えても欠陥があると、私は思います。 子ども中心、子どもの生命の喜びを中心とすれば、日本の学校の原理原則から、ずいぶんはみ出していかなくてはならない。 これが、先生たちが、可哀想だと思うところですし、私は先生になりたくない、と思うところです。 そして、これは、先生方の力量の問題ではなく、その立場が為さしめる宿命だと思うのです。だから、私は、この自由な立場を維持していきたいとつくづく思います。 じゃ、学校に可能性は無いのか?(これは私の立場ですが)公教育というものが、国家の与えるものである限り無理だと思います。公立・私立の違いではないですよ。含めた、公教育です。 ここから、抜け出したところに、未来があると思います。
2008.07.04
コメント(4)
先生たちの善意を信じた上での、話です。また、警察の方を侮辱するつもりもありません。 ただ、子どもを主人公とした教育を良しとするなら、おかしいことがあるのではないか、と思うのです。 たとえ、どんなに良い内容であっても、「押しつけ」は、主人公に対する侮辱です。 たとえば、「発言しない権利」は、子どもに認められているでしょうか?もし、大人同士の、講演会なら、聴衆に対して「~~君、今の私の考えについてどう思いますか?意見を言いなさい。」とか、「~~さん、次の問題の答えがわかりますか?」と問いかけるでしょうか? もし、参加者が、わからなかったら、モジモジしたり、「わかりません。」と、すまなそうに、謝らなければならないのです。 さらに、追い打ちをかけるように「ちゃんと、私の言ったことを聴いてますか?私が、今言ったことを、反復してもう一度言ってごらん。」なあんて、言われたら、どう思います? 何て失礼な。ですよね。 これらは、精神論・技術論的なところがあるかもしれませんが、授業で教わる用語、教科書に出てくる単語も、本当に、児童生徒の立場に立って、使われているだろうか? 分数のかけ算での、言い回しはどうでしょう?分数の割り算での、言い回しはどうでしょう?「面積」とは「広さ」のことです。と説明しながら、どうして、二つの言葉を使うのか、説明がなかったりします。子どもがイメージしやすい、「広さ」を使わせないなら、なぜ、そうなのか、説明してやる必要があるはずです。 子どもの内心では、納得してないはずです。きちんと考える子どもほど、論理のすき間に、敏感です。しかし、その気持ちを捨てて、とにかく、先生の話に合わせる、つまりおもねることを学びます。 ちょっと、話は飛びますが、 実は、今日、地元学について研究している小学校の総合学習のお手伝いに行き、質疑応答してきました。 話ながら、「私は、一体、これらの話で、何を伝えたいのだろう?」と考え込んでしまいました。常識的には、「川をきれいにしよう」「昔は、もっときれいだった」とか、「昔の商店街は、活気があって良かった」「中心商店街に、元気を取り戻そう」という結論になるところでしょう。美しい伝説を伝えて、めでたし、めでたし。 でも、中心商店街の歴史的使命は、もう終わっているという見方もできるわけです。 また、昔の中心商店街でしか、買い物ができない時が、ハッピーだったか?有力な老舗に、ガッチリ押さえ込まれていた経済が本当に、活気があったと言えるのだろうか? 宅急便や、ネットが発達し、いつでも、誰もが、商売ができる現代の方が良くはないか? 川は、本当に昔はきれいだったのか?その川で、洗濯や水遊びができた、というだけで、昔の方が良かったと言えるのか? もし、現代の子が、タイムスリップして、昔の川に立ったとしたら、やはり、水遊びできるだろうか?水を飲んで、下痢をしないだろうか?免疫力は低下していないだろうか? 下水が整備されている現代の方が、良いのではないか? だったら、そこから、何をワクワクする部分として、研究しようというのだろうか? やはり、どうせ、貴重な時間を授業するなら、教える側も「これなら、教えたい、教えられる」と思うものを教えたい。子どもたちが、本当に「これなら教わりたい、わかりたい。」と思うものでありたい。「これを学んだら、楽しいだろうなあ」と予想つくものを、選んで教えたい。 漫然とした、植物の観察、昆虫の観察が意味が無いように、とにかく、地元の歴史を学ぶというものも、私は、かえって、良くないと思うのです。 これは、私の反省ですが、もっと、ワクワク・ドキドキする切り口を提示することができなかった。 考えるに値する、どんでん返しを提供できなかった! ま、そもそも、今日は、質問に答えるというスタンスで来てしまったのが間違いの元だった。やはり、仮説を立てて、児童の問題意識を予想し、新たな地平線を示せるように、してやりたかった。 今日の歴史、本当に、面白かっただろうか?つまんなかったのに、無理矢理、よい子で聴いて、まとめていたんではないだろうか? 地元学なんて、いっぱいネタがあるようですが、本当に学ぶに足る、教材というのは、「無い」という認識から出発するべきだと、私は思います。 こんなもんが、歴史の醍醐味なんかじゃない。地元の先人に対して、失礼じゃないか?!って、思いで、真剣に教材開発をすべきだと思った次第です。 地域の大人が、学校に入って、歴史を語る。それは、それで、美しい絵になる光景ではある。しかし、それは、ある意味、大人の押しつけではないか? それが、つまらなかったら、どうなんだ?それでも、立派に聞き続ける。立派な子どもたちを見て、「チクショー」と思わず、学校を後にしてから、叫んでしまった寅さんでした。
2008.07.01
コメント(8)
昔は、何のためのトレーニングかわからないようなシゴキが運動部にありました。あえて言えば、根性を鍛えるためでしょうか? もう、はやんないですよね。選手が、その練習の目的を納得して主体的に取り組んでいるところには、敵わない。 しかし、学習面では、まだまだ子どもにとっての目的が、血肉化されていないんじゃないでしょうか?「教師にとっての目的」で終わっているんじゃないでしょうか?いくら、子どものため、と言っても、子どもが納得していなければ、目的化されていると言えませんよね。せいぜい、「受験のため」「テストに出るから」です。ナント、情けないことでしょう! 算数や数学の問題なんか、典型的じゃないかと思います。特別な数学マニアは別にして、ふつうの子は、何でこんな問題を解かなくちゃならないのか納得している場合は、とっても少ないんじゃないでしょうか? もちろん、社会や理科だってそうですが、特に数学は、ヒドイ。文章題を見ても、まともに考えて、「こんな設定状況なんてあるの?」 「こんなアホなことするの?」という内容だと思いませんか? 素直な子なら、問題の設定自体に、文句をつけるはずです。私だったら、こんなことをしないで、こうします、って。 ところが、そういう文句を言う元気さえ、子どもから奪っています。つまらないものでも、こなしています。 つまらないものは、つまらない、と言う能力がこれからの社会で、とっても大事だと思います。発言できなくとも、心の中では、認識して、これの面白い切り口を探そうとする力。さらには、誰も気づかなかった、ワクワクする問題をみんなに伝える力。これこそ、21世紀の人間像だと思うのです。 数学は、頭の訓練だと言っても、その考えや方程式が生まれた背景には、切実な必要性があったからです。 あの虚数だって、必要があったから、考えられたんです。 もっと、子どもがやる気になる、問題設定を考えられないもんでしょうか? そして、ああ、なるほど、この考えで、世界が広くなった!という感激を味合わせてやりたいものです。
2008.06.29
コメント(4)
私が本選びの教訓としているのは、「本を読んでよくわからなかったら、自分のアタマが悪いと思うな。その著者のアタマが悪いと思え。」というものです。 これは、私の理解力不足を棚に上げる負け惜しみではありますが、でも、実際こう考えるのが、真っ当な筋道だと思います。 「この先生は、何て、アタマが悪いんだろう。ボクにわからせることもできないんだから!」 という意識は、健全な子どもが持ってしかるべきだと思います。 だって、ある本では、チンプンカンプンなのに、同じテーマで、別の著者は、とってもわかりやすく目からウロコで、書いてくれていることが、ほとんどだからです。 で、どちらが、本質に迫った名著か、と言ったら、当然、わかりやすい方だと思います。と言うことは、科学や学問の真髄は、難しい専門用語を並べた専門書よりも一般人向けや、子ども向けの啓蒙書の方に見いだせる確率が高いということも、言えると思います。 なぜ、専門書はわかりづらく、また、面白くないか?また、専門家の話(二流・三流の)は、わかりづらいか? それは、一定の常識や権威を前提に、話が始まっているからです。 学会の常識となっていることは、知っているのが当たり前、という立場です。 それだけだったら、まだいいのですが、読者や受講生が理解できないと、「わからない?世間では、この考えは、みんな正しいと言っているんだよ!君は、ものわかりが悪いなあ!」という立場で、脅されるからです。 科学というのは、そもそも権威に反抗するために生まれたとも言えると思っています。(寅さんの理解では) その場合、一般の人の常識や学会の常識に反論することが、主な任務ですから、だれでも、納得できるように、目からウロコのように書いたり、話したりできなければなりません。 だから、本当の科学の最前線の人の話は、わかりやすいものです。 ガリレオも、学会の専門用語のラテン語ではなく、民衆の言葉であるイタリア語をつかって、わかりやすく天体の動きを記しました。 ところが、いつの間にか、権威を押しつける側にくると権威をかさにきた態度が、プンプンと臭うようになります。 これは、いつの間にか、科学の本質をはずれてしまった証拠でもあります。 だから、見かけは、最新情報を扱った、立派な本ですが、中身は、昔の本のほうが、よっぽど良いということがいっぱいあります。 そう言えば、権威を基にして、作られている本と言えば、その代表作は、「学習指導要領準拠」と唄った参考書たちでしょう。 これらは、教科書のことを覚えることが当然だ、という立場ですからなぜ、こんなことを学ばなければならないか、なんて問題意識は、ハナからありません。 著者は、自分のアタマで、これこれのことは、子どもたちに、ぜひ覚えて欲しいことだ、との信念で書いていることはまず、ないでしょう。 実際、本当に、何が子どもたちに必要かを自分のアタマで考えたら、別の本ができるでしょうから。 授業もそうです。面白くない授業というのは、学習指導要領という権威に頼った話です。 理科離れを防ごうと指導要領が改訂されますが、本当は、理科好きにさせるのは、とっても簡単なのです。 先生に自由裁量権をもっと与え、教室で、何でも明るく意見が言える雰囲気を作ればいいのです。 先生が本心から、こんな面白いことや、タメになることを「伝えたい!」と思ったことを授業すれば、自然に授業技術も磨かれ、生徒が本来もっている向学心が刺激されるのです。 別の言葉でいえば、常に生徒と同じ目線や立場に立てるかどうか(何の商売でも言えますね)に尽きるんでしょうね。 永遠の課題です。
2008.06.26
コメント(6)
暗記中心の教育の悪い面については、知られています。だから、「暗記」ではなく、「理解」をということで、「理解中心の教育」がすすめられています。 しかし、こちらの方が、もっとヒドイ弊害をもたらすことが多いと思います。どうして? 理解中心の教育では、ていねいに「これこれこうだから、こうです。」と説明されます。 これで、理解できればいいのです。「なあるほど」って。しかし、もし、その説明で、理解できないとき、どうも納得できないとき、そんな時、(実は、そういう場合がとても多いのですが)子どもたちは、自分の判断力に、深く自信を失ってしまうのです。この傷は、相当に深いものです。 そして、十分な納得がなくても、「理解したふり」をすることを覚えます。そうしていかないと、すぐに、落ちこぼれてしまうのです。 科学的な態度や、創造性というものは、どんな権威よりも、何よりも、自分のイメージを大切にして自分の考えを伸ばしていかなければならないものです。 「理解」を押しつけるくらいなら、暗記中心の古い教育の方が、まだましではないでしょうか? 多くの先生にとっても、生徒が慣れで、わかったように思いこんでいることに気づいていない、というか、あえて、要求しているんじゃないでしょうか? 学校で良い成績を上げるには、また、うまく生活していくには、自分の考えを過度に大切にしてはいけない、ということを生徒は学びます。 教えられたことを鵜呑みにする能力権威主義に従う能力が必要なことを学習するのです。 でも、今の学校制度の中で、創造性を高める教育が、本当にできるのだろうか?と思うと、悲観的にならざるを得ません。一教師のできることは、限られています。でも、ほんの少しでも、生徒自らが、自分で創造性を発揮して何かを発見・発明する体験を積み重ねるように指導することができれば、そこを起点に、将来、いろんな困難にもかかわらず能力を伸ばしていける子が生まれるかもしれません。そう信じたいです。 だって、本当に自分が自由に考えるというのは、楽しいことなんです。この楽しかった経験は、一生涯残るものです。 人生の何かの場面で、ふと、「あの時」の感激がよみがえることそれを、信じたいと思います。
2008.06.19
コメント(8)
教育界の常識は、できる人間から、できない人間への序列が決まっていて、できないより、できる方がいいに決まっているというものです。 と同時に、「序列をつける教育はいけない」ということで、当然、序列がつく世界でも、「差別はしないようにしよう。できない子をできるようにすればいいんだ。」って、やっちゃうこともあります。 昨夜の数学の虚数の問題と、つながってきますがごく、狭い世界や、一面的な世界では、序列がつきます。そして、それを意識してしまいます。「序列主義はいかん!」と言えば言うほど、その裏に、みんなの心の中に、ムクムクと本音の部分で、序列が大きく刷り込まれることになります。 学校間の序列なんて、公式には否定されています。しかし、だからこそ、みんな必死になって、序列をつけてしまうのです。 かえって、実力テストの結果や、合格率など(どれも、アホみたいな、狭い世界の数直線ですが)徹底的に、情報公開して、序列をつけてやればいいのです。 そうすると、「こんなにこと細かに、序列をつけるのは、どうもおかしい。」「意味が無いことじゃないか?」って、そのバカさ加減に気づいてくると思います。 数直線上に、生徒を置いて 生徒を評価するってくらい、難しいものはないはずです。今、絶対評価になって、理屈の上では、全員5も、全員1もあり得るのに、まず、そういう評価をする先生はいないでしょう。 もし全員5なら、教育成果が上がった証拠として、教員の鑑と見られるはずですが、実際には、評価が甘いとか、問題が易しすぎると思われるし、 オール1の場合は、実際に、出来の悪い生徒たちばかりだったとしても教師の教え方が悪いと、教師が評価されてしまいます。 だから、結局、無理矢理にでもバランスをとった、序列を付けざるを得ません。 正規分布になっていれば、教師が批判される心配はないからです。 ところが、昨日、書いたように、この世界は、実数の世界ですらなく、虚数の世界です。人間の皮膚感覚だけでも、捉えられない、座標軸がいっぱいあるのです。 その中で、「できる」「できない」というような数直線上で、序列がつくような教育というのは、あきらかに、教育内容自身がおかしいということを暴露しています。 人間が、「できる」「できない」とか、「わかる」「わからない」ということには、ものすごく奥深い個性が、いろいろからみあっていて、序列をつけようったって、つけようがないんです。それが、教師の皮膚感覚のはずです。 ある問題に正解をしたか、どうか、というだけで、その人の思考過程を評価なんて、とてもできません。 例えば、いっぱい考えたからこそ、間違うということがあります。何も考えないから、当たることもしばしばです。教育を受けて、余計な知識をもったから、間違うこともあります。 人間の認識というもの、新しいものを発見する力なんてもともと簡単に序列なんかつくものじゃないですよね。 もし、1本の数直線上で、競争をするんだったら、当然、序列が、細かく出ます。出るに決まっています。ところが、実際の人間の認識構造や、この社会そのものは、横道がいっぱいあるのです。どの道が本道かどうかさえ、わからない。そして、ゴールの目標自体が、あっちこっちに動きます。 そうです。まさに、虚数の世界です。 だから、みんなに、おいてけぼりを食らっていても、道ばたに、お宝の痕跡を発見し、「目標は、こっちかもしれないぞ!」と叫べば、ビリの彼が、今度は、トップになるのです。 たとえ、そういう証拠がなくても、自分だけ、どんどん、脇道へ行っちゃうってのも、すごい能力なんです。たとえ、誰もついて来なくても「俺は俺の道をいくんだ」で、進んでいくとたいてい、予想もしない素晴らしいものを発見するのです。 だいたい、科学の歴史って、こんなものです。 そもそも、「できる子の方が、できない子より無条件にいい」なんて、アタマの固い人の考えです。「できない方がいい」ことも多いものです。 さらには、素晴らしい嗅覚をもった子は、「くだらない学校の勉強なんて、ボクは勉強する気にならない。いや、意地でも勉強しない!」って、決意しているかもしれません。 そういう子にとって、勉強させられちゃうってのは、とっても屈辱的なことです。 私たち大人は、子どもたちを、一次元の数直線の世界に送り出すために教育しているのでしょうか?とんでもない!3次元、4次元、虚数の世界です。 この実世界では、何を成果と考えたらいいのでしょう?誰もが、一言で言い表すことなんか、できっこないのです。でも、あえて、ヒントとして挙げるとすれば、自発的に、楽しく学べているかどうか、だと思います。 自分から、自らの意志で成長をしているのかどうか、じゃないかなあ。 人に成長させられたり、人に変革される教育なんて、私は、教育の名に値しない、マインドコントロールだと私は、思っています。(異論はいっぱいあると思いますよ。) ワインの栓を力ずくで、引っ張ると、とても大変だし、コルクが途中でちぎれちゃうこともあります。 ところが、瓶の中にガスを送り込んで、中からの圧力を高めると、いとも簡単に、コルクはきれいに抜けます。 子どもの心のガス圧が高まればいいのです。発酵して、炭酸ガスが発生すれば、自ら、子どもたちは、自分の殻を破って成長していくのです。 要は、酵母菌を与えることです。発酵自体は、ブドウ液がするのです。 ワインは、本来、発酵によって、炭酸ガスがいっぱい発生するのに熱殺菌によって、酵母を殺してしまうから、発酵がすすまないのです。だから、コルクが抜けないのです。
2008.06.08
コメント(4)
先日の結城登美雄さんの講演が、まだ、アタマを駆けめぐっています。今の寅さんの、アタマの思考状況です。 地産地消とか、食育とか、手作りとか、そんな大切な生き方の対局にあるもの、 それが、工業化社会であり、消費社会でしょう。み~んな、消費者になってしまって、使うことしか考えなくなってしまった。欲しいものは、金を出しさえすれば手に入る。 欲しいものは、今、ゲット。育てる発想は無い。 農業社会から、工業社会への移行期間において、学校は、意味をもっていました。反復式のドリル訓練など、じっと耐える学習が身につけさせる要素として、社会的な合意がありました。 また、高学歴になれば、親を超え、小さな地域を越え、未来が開けると、信じることができました。 また、情報量が少なかったですから、学校からの情報が、相対的に大きな位置を占めていました。 サラリーマンは、就職と言うより、就社ですから、上司の言うとおり、何でも雑用ができる必要があります。それで、特技よりも、満遍なく、一定の知識を覚えていること。忠実なオールラウンダーとして、出身校が大切でした。 どんどん変わる、標準化作業をさせるには、思い入れの高い職人技は、邪魔です。一般化された基礎知識だけの方が、そして、とにかく、忠実であることが、最も大事だったのです。 しかし、これは、人類の歴史の中で、特異な瞬間でしかありません。 現代は、既に、とっくに、大量生産・大量消費を離れています。ポスト工業化社会です。「工業社会型学力」だけを、依然、提供している学校。これの魅力が無いのは、当然で、子どもに対して、権威が落ちたのも、かえって、健全な意識だと思います。 昨日、ある素晴らしい保育園から、保護者向けの講演を依頼されました。 保護者の教育に対する、固いアタマをほぐして欲しいということです。願ったり、と意気込んでいます。 現代の子の学力が低下しているいいます。また、学習意欲が無いと嘆かれています。 それは、実は、そっくり、大人に対して投げかける言葉です。 その時代、その時代の、社会が必要とする学力が子どもに影響を与えるのです。親の会話、教師の常識、マスコミの話題すべてが、子どもを形作ります。 それを棚に上げて、教育メソッドだけに、責任を負わせるのは本末転倒です。 だいたい、学力とは何かも、時代によって変化しています。 今、必要な学力は、日本国民であることを意識づけることよりも、地球市民であること。そして、いろんな文化が多元的に存在していること。それを、それぞれを否定しないで、しかも、人類が問題解決できるか、そのコミュニケーション力。 その中で、日本人という立場を認識すること。 多文化共生ですね。文化です。カルチャーです。耕すんです。シビライゼーションではない。 学校は、本当の文化とは、何か、伝えるべき文化とは何か、という議論を経ないで、安易に、総合学習で、地域の芸能や作業を取り入れている。 これまた、今度、小学校の総合のお手伝いをしますが、どんな刺激剤になるべきか、じっくり、じっくり考えようと思います。 徒然なるままに、でした。 昨日、訪問した保育園の3時のおやつ、素晴らしかった!何の果物かなあ?って思ったら、ダイコン。生のダイコンをスティックにしたもの。 それと煮干し。それも、立派なもの。安全な煮干しを遠くから取り寄せているとのこと。 そして、かぼちゃなどの野菜をつぶして、お焼きにしたもの。 いつも、手作りだそうです。 あそこの子どもの動きを見ているだけで、めちゃくちゃ勉強になります。人の学習って、何だったんだろうって。 あと、緩和ケア・コーディネーターへの講師も依頼いただきました。こんな科学寅さんも、お役に立つんですね。 頑張りますんで、よろしくお願いします。
2008.06.03
コメント(2)
この時期、中学校では、校内合唱コンクールの練習が始まっている頃だと思います。 どちらの音楽の先生も、まず、生徒に声を出させること、いや、歌わせること、いや、授業に参加させることに、大変苦労されてるんじゃないでしょうか? でも、考えてみれば、中学生の時期、先生の指導で、一糸乱れず、声を張り上げるっていうのも、かえって、どこか、異常かもしれませんね。 声を出すのが、道徳的ならば、歌わないのは、確かに、不道徳で、怠慢です。少なくとも、教師の指導に従っていませんから。 しかし、こと、「芸術」を授業していると捉えると、私は、芸術を、「心の表現」、「自分の深いところへの探検」 だと思ってますんで人それぞれ違って当たり前でいいと考えます。 そこには「歌いたくない自分」というのが、厳然と存在しているのですから、その「歌いたくない理由」に、真っ正面から向き合うのもとっても大切な芸術教育だと思うのです。 いや、厳然と存在していないかもしれない。子どもたちは、自分を自分でつかめているはずがないから、絶えず変動しています。自分で自分がわからない。だから、今日、歌えたとしても、明日は、また別な歌えない自分に出会ってしまう。そこに、素直に向き合うことが、芸術であり、生きることじゃないでしょうか。 私たちは、芸術とか表現とかいうものを前向きの、プラス思考の、民主的な、道徳的に正しいことと当然のように、捉えてしまってはいないでしょうか?特に、学校では。 しかし、真に感動的な芸術表現をふり返れば気づくように芸術は、時には、反社会的であり、ネガティブであり、ある時は、背徳的でさえあります。 芸術が、人間存在にかかわるものだとすれば、人間は、無菌培養されているわけではないのですから、多くの矛盾、葛藤の緊張状態の中からこそ、芸術作品が生まれてくるのが、当然なのです。 むしろ、ニヒルな問題生徒や、絶望して、荒れるしかない生徒の中に、芸術へのパワーが秘められているはずです。 一人の子どもがうつむいて、無言でいるとき、その内部に、歌にならない、歌になれない、本当の歌が流れているのではないでしょうか?そういう無言の歌も、「表現」として捉えられる芸術教育って、欲しいなあって思います。 もちろん、どうすれば、より良い合唱になるか、技術指導することは、大切なことです。文科省の指導要領も「自らすすんで表現する工夫」などと、指標を出しています。 しかし、こと、「教育」としてするならば、外に現れた形や結果よりも「なぜ」が大切なんじゃないかな? 絵を描きたいという心、歌いたいという気持ち。 その縦糸、横糸で、授業をしていくと芸術鑑賞も、主体的な表現であり、創造的なものだ気づきその感動も、別の次元のものになると思います。 私は、科学教育をしていますが、科学的な知識や技術の詰め込みによって、科学するマインドを殺してしまうことを、最も恐れています。 同様に、芸術の科目で、高い成果を目指すことによって「芸術する」という生き方に、触れないで終わってしまうんじゃないかって心配をしてしまうのです。 寅さんの「ヒネクレモノ・バンザイ」でした。
2008.05.28
コメント(6)
このメッセージが、あの先生に届くことを想定して書いています。 周囲から、特別キビシイ指導がなされるべき、子どもたちを障害児と呼ぶのではないですよね。周囲から、特別な配慮を必要とする子どもがいるので特別支援教育があるのです。 障害児という特殊な種類の子どもがいるのでは、ありません。子どもであることにおいて、どの子も同じです。しかし、障害をもつために、一般社会では不自由な事が多くとくに繊細な感受性をもつ子どもは誤解されることも多いのです。 言葉を話さない子どもは、特に、心に思うことを言語によってではなく、身体によって表現します。私たち教師は、その身体の言葉を読むことを学ばなければならないのです。同じように見える行為でも、子どもにとっての意味は、一回ごとに異なります。その意味をこちらが発見すると、そこで新たな人間関係がつくられ、それによって、子どもも大人も成長します。 障碍をもつ子どもとかかわると、人間の精神がつくられるのに、基本となる体験は何かをつくづく考えさせられます。 身体の小さな動きに気づくだけで、例えば、手で持つことをしない子どもがモノを持つようになる過程につきあうと、それは、単に運動能力だけのことではなく外界を自分のものにしてゆく自我の成長の過程であることがわかります。 考えてみると、誰も、自分が選んで、障碍をもつようになったのではありません。少なくとも、子どもの責任ではありません。 それでも、自分が選んだのではない運命を受けて明るくそれに取り組んでいる、子どもたちを見て私たちは、何も感じないとすれば、それは、感性が死んでしまってるとしか言いようがないでしょう。子どもたちは、誰よりも、人生の師であります。 発作のある子どもが、発作が起きそうになるとおとなのそばに来て、座り直し、発作に備えます。発作が終わったとたんに何事もなかったかのように遊びはじめます。本人にとっては避けられない出来事を、自分で立派に受け止めている子どもの姿、私たちは畏敬の念をもって、見守るしかないのです。 自分にとって意のままにならない人生をかかえてこの子たちは、立派に生きているのです。しかも、常に周囲には誤解され、軽蔑され、侮辱され、時には、虐待さえされます。それも、最も信頼を置きたい、家族や教師にまで。 彼らの、ひとつひとつの行動は、すべて、「表現」です。たとえ、私たちから見て、とんでもない行動でも、それは、全存在をかけたコミュニケーションなのです。それと、私たちは交わることによって、毎日、毎日、一回ごとに、どんな姿を見せてくれるのか、私たち教師は、楽しみに、明日を待つのです。 もし、先生の方向性が、この記事、および、この前の幼児教育の理念や、さらに前の、自閉症児への教育の注意事項と反対方向のものでしたら、もう一度、一からやり直してみませんか? 人間は、何度でもやり直しがききます。教師が、毎日、毎日、反省を、悔い改め、成長していることこそ、健全な姿なのです。 どんな時でも、教師が悪いのです。自分が悪いのです。教室で起きること、いや、学校で起きることは、全て、私が悪いと自覚した人のみが、成長できるのです。 決して、他の教師やシステムのせいにしてはいけません。ましてや、子ども、保護者のせいにしていけません。 これは、教育だけでなく、ビジネスでも同様です。すべては、「私」のせいなのです。 ぜひ、成長する喜びを、一緒に取り戻しましょう。
2008.05.27
コメント(4)
例の問題の学校では、今日運動会だったようで、ありがたいことに、PTAの副会長さんが、父兄を中心に、事情聴取をしてくれたようです。(それだけでも、アピールになったぞ)それによると、ほとんどの父兄は、その先生は、問題無いと認識していること。かえって、それまで、言うことを聞かなかった子を、「おりこうさん」にした、素晴らしい先生と見ていること。 それから、自閉の子の「保護者」も、100%信頼し、先生にお任せしていること。が、わかってきました。その先生が特別支援教室を担当するようになって、3年目になるのですが全く問題は、見つからず、模範的な先生ではないか、というのです。それから、教頭先生も、 虐待の光景を見るに堪えないと、辞表を出された教員補助の先生に、特別支援教育の特殊性を、丁寧に説明することができなかったのが、残念である、というコメントを出されたそうで結論として、辞められたボランティアのお母さん先生が、「無知で、独りよがり」だった、としています。ハッハッハッ(^o^)こりゃ、「学校の側の無知蒙昧」の典型的パターンですね。経験のある先生なら、すぐに察しがつくでしょう。私が説明するのまでも無いことですが、まず、その子を専門の医療機関に診察させていません。普通は、年に何回も診せて、教育方針が良い方向に向かっているか問題が無いかをチェックしてもらうもんです。それをしている形跡がありません。 自閉症児への対応なんて、特別支援教育の経験を積んだベテランの先生でも独断で対処できないものです。それを、経歴を聞くと、少なくとも、専門家ではいらっしゃらない、担任の「講師」(まだ、教諭ではありません)と、これまた、経験の薄い教頭先生が、「問題無い!正しい!」と断言なさることこそが、墓穴を掘っています。それに、その保護者も、別の情報源から聞くと、少なくとも、教育熱心とは言えないご様子。ただでさえ、難しい、特殊教育の成果判断を教育に不熱心な保護者の「信頼」に、あぐらをかくとは。 そもそも、自閉症の子どもの指導のキモは、コミュニケーションマインド醸成にありますよね。これは、おわかりだと思います。それを、軍隊方式の指導が、良い方向であるはずがありません。 自閉症児は、言語によるコミュニケーションが苦手です。それに対し、最近は、「しゃべれないなら気合いと根性でしゃべらせましょう」という指導はさすがに目にしなくなりましたが、「発声訓練」から行うような指導も絶滅させようとしているところなのです。 重要なのは、コミュニケーションしたいという気持ち(コミュニケーションマインド)を十二分に育ててやることです。 コミュニケーションしたい、という気持ちが起きてからはじめて、何らかの行動を起こすのです。特に、自閉症児は、自分の意欲が重要ですから。 最もNGなのは、「先生の言う通りに言いなさい。ハイ、あめ!。。。。あめって言ってごらん、ほら、あめ!言わないとあめあげないよ!」といったパターンです!! 常に、スキルよりもマインド先行を留意しなければなりません。スキル先行で指導すると、最終的に自発的なコミュニケーションが得られにくくなるからです。大切なのは日本語をしゃべることではなく、コミュニケーションできることでなのですから。 コミュニケーションの成功体験が積み重なって、毎日楽に生きられるようになって、はじめて最も便利な「音声言語」を使いたいと思うのです。 このことを踏まえた上で、一番最初に教えるのは「要求(ちょうだい)」なのです。次に教えるのが「拒否(イヤ)」なのです。 遊びの中でやりとりの経験、伝達成功経験をたっぷり積み、基本的な大人への信頼感を確実にしていかなければなりません。その子は、大人や人間に対して、どんな思いを抱いて大きくなっていくのでしょう。悲しく、恐ろしいことです。それに対し、聞くところの、問題教師の指導は、すべて、反対です。そして、それで良いと思っている。確かに、み~んながシロと言えば、黒猫もシロになります。裁判でもビデオ録画でもなければ、最終的には勝つかもしれません。しかし、それが教育者の取るべき態度かどうか。特別支援教育に携わる教師の資質として、少なくとも、こういうことは言えるでしょう。 肯定的なことばかけを、日常的に行っていること。禁止の指示は肯定形に変換し、成功体験を積めるよう配慮すること。否定形の指示や失敗体験は行動の改善につながらないのです。 いかにこちらから送る刺激(受動的な刺激)を能動的な形で受け取れるようにするかが課題なのです。 子どものペースを大事にし、押しつけに敏感であること。 自己選択、自己決定を重視することで「とりあえず回避」傾向を回避させることに留意します。 教師からの指示ではなく自分が予定表を参照して行動するよう仕向けます。 もちろん、 実は事前に裏で様々な策を、教師は講じているのですが、子どもにとっては、あたかも本人が自分のペースで行動しているように感じさせることに留意します。などなど、いっぱいありますが、何度もご紹介している小児科医の横山ドクターなどにかかると、ベテランの教師も、もうボロクソに指摘されることが多いです。ムカっとくるでしょうが、実際、もっともなことばかりです。ですから、教師も一緒に修行なのです。広く意見を聞く心をもっていなければなりません。オープンマインドです。それに、今回、最も臭いますのが、内と外を使い分けていることです。機敏な先生なら、誰でもできますよね。そして、結構隠せるものです。(でも、最終的には、わかります。少なくとも、子どもにはネ)さらに、教師というものが、民主主義というものを教えることを是とするなら、議論を歓迎するはずです。もし、議論を避ける姿勢があれば、その人が教える民主主義は、全く別物だと判断できます。 ま、どんなに理屈を言っても、普通の主婦の目から見て、耐えられない虐待というのは、虐待なのです。虐待家庭への対処と全く同じです。学校だからという理屈は、全く通じないのです。人間はどこでも人間なのです。ここまで、冷静に書いてきましたが、最後に個人的な思いを書きます。私は卑怯な人間は、大嫌いです。その中でも弱いものイジメは、大大大嫌いです。
2008.05.26
コメント(12)
例の学校のPTA関係者と接触をしてきました。前PTA会長にお話を聞き、そして、現役員さんに、わざわざ来ていただきました。 PTAも、想像通り、風通しが悪いようです。会長は、市の職員で、無理矢理、押し立てられた人。(公務員だから、モノが言えないなんて、アホじゃないでしょうかね。じゃ、公務員になるってことは、見ざる言わざる聞かざるになるってこと?) この学校の問題は、数年前からの流れのようです。町の実力者との関係もあり、典型的なアホな日本人的な問題点がドバーっと出ています。 でもね、7年前、寅さんは、県の学校支援ボランティアアドバイザーとしてその学校を視察に訪れているのです。その時の印象は、全県下に誇れる、モデル校でした。地域にすっかり開かれ、常時、お年寄りの集会所のようにもなっており、日常的に、外部の人が入り込んでいました。 これも、トップである校長先生の力なんですね。 管理職の影響は、本当に大きいと思います。出世の目標として、管理職を目指している人もいると思いますが、ほとんどがそうかと思いますが、もっと、もっと、もっと、責任を肩に感じてもらわなくては困ります。 管理職のノイローゼ率が、まだまだ足りない。もっと、悩むべきです。そうしたら、安易に、無能な人が管理職にならないでしょう。 その学校の評議員とも、複数接触してきました。へっへっへ。もちろん、評議員なんて、名ばかりで、実力は何もありません。でも、わかってるかどうかは、大違いです。 深刻に受け止めていただいたと思います。しかし、当然かもしれませんが、自分から、動く人はいないと見ました。また、扇動するつもりもありません。腹に収めていてください、と申しておきました。 ただ、ここで忘れていけないのは、問題教師の処遇が、ポイントなのではありません。被害を、現在進行形で受けている子どもたちです。そこから、一刻も早く救い出してあげなければ、あとあと、たいへんな二次障害を起こしてしまうと思います。最優先事項を忘れてはいけません。 さあって、地元の教育委員会の実力が、なんぼのものか、見せていただくときが、やってきたようです。複数のルートから迫ってみたいと思います。 場合によっては、私も、この地域の教育関連の仕事と縁を切ります。そして、マスコミを使って、大キャンペーンを繰り広げるつもりです。 ん~、それも楽しいな。ワクワク・ドキドキ。 公から、大していただいていないってことは、とっても良いことだなあ。やっぱり経済的に、独立してないとダメだなあ、ってつくづく思います。 だから、教員も副業自由にすればいいのに。そうしたら、モノが言えるのに。 まあ、行政は、寅さんみたいな、キチガイも居るということのリスクをしっかりアタマに入れておくべきでしょうね。 行動を起こす前に、さらに、数人のアドバイスを聞きにまわります。 最近の面白い話題は、こればかりじゃありません。放課後に書きますね。(たぶん)
2008.05.26
コメント(6)
先生の実力を量るのに、ひとつのリトマス試験紙として、保護者との関わり合いを、「心から」喜ぶかどうかがあると思います。本当に力のある先生なら、常に、子どもの後ろの保護者をイメージして授業しているはずです。ですから、来ていただくのは、目的が、ストレートに達成されて、本当に歓迎なのです。こういう素晴らしい先生も、いっぱいいらっしゃいます。しかし!そうでない先生もいらっしゃるので、あえて言います。先生に、わかってもらいたいのは、子どもだけじゃありません。先生に対し、不満や怒りをもってらっしゃる保護者は多いです。それらには、隠れた次のメッセージが潜んでいると、私は見ています。「先生は、私の願いに耳を傾けてくれない」「先生は、私をわかろうとしてくれていない」「先生は私の味方になってくれない」これは、子どもの願いではありませんよ。保護者の隠れた願い、欲求だと思うのです。つまり、お母さん、お父さんの心情に寄り添って欲しいのです。保護者という名前で呼ばれると、みんな同じになってしまいます。しかし、社会では、それぞれ、いろんな肩書きをもつ、すばらしい立場の人なのです。(何も、差別しようと言うのではありません。みんな違うということなのです。)そして、ひとり一人が抱えている人生が違います。悩み、苦しみ、もがいて、それでも、がんばって子育てをしているそんな苦労や、努力を理解して欲しいと思うのは、当然です。「人間としての保護者」理解なくしては、教育指導がうまくいくはすがありません。ところが、先生という立場は、保護者に心情的に寄り添うことを難しくしています。どうしてでしょう?それは、先生は、普段、子どもといっぱい接しているからです。そのため、子どもの味方には簡単になります。(当然です!!)(でも、子どもの味方にならない先生もいるから、問題なんですが)ところが、それが、保護者と距離を置く原因になるのです。え?っと思うでしょう。たとえば、私はA君の味方になります。味方なればなるほど、お母さんを非難してしまうことがあります。でも、お母さんには、お母さんの抱えている事情があり、彼女自身の育ってきた過去の問題があります。それを考慮しないで、非難を続けたら、もう、とんでもないことになっていまいます。「保護者」ではなく、「人間」としての理解がないまま、子どもに及ぼす影響のみを注目しますと、保護者の真の姿を見失わせます。 先生にとって、ほとんどの親は、改善すべき、問題をかかえた「担当者」としか、映らないのです。「お母さんがもう少し、努力してくれればいいのに」 問題を指摘しないまでも、「アドバイス」をしたくなります。お母さんの事情や、心情に寄り添う前に、言っちゃうんです。「アドバイス」を。ですから、当然、そんな「アドバイス」通りに保護者は動きません。「アドバイスしたのに、保護者は動かなかった」「何という保護者だ!」 となって、泥沼に入っていくのです。 そもそも、先生は教えるのが職業です。ですから、いわば、「教え魔」なのです。保護者にも教えたくなります。一種の職業病です。(私もそうですね。現にこうして)反対に、保護者から教えてもらおうという意識は薄くなります。 もちろん、先生の中にも、すばらしい「できた」方もいます。カウンセリング・マインドをもって保護者にも当たってくれます。 しかし、まだまだ、多くの先生の意識の中には、「私の仕事は、生徒まで」と保護者を包み込むことは仕事として捉えられていません。 実際、もし本当にそうするためには、学校全体のバックアップ体制も必要でしょう。 とにかく、先生への淡い期待は、持たない方がいいと思います。だったら、どうするか?!!∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 結局、自分でPRをするしかないのです。∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴ 結局、お母さんご自身が、自分でPRをするしかないのです。そして、一個の人間として、意識してもらい、子どもと同様に、お母さんの味方になってもらうのです。 PRと言うと、日本では、でしゃばりに見られますが、これは、結局、「子どものため」なのです。決して利己的なことではありません。 先生と保護者がうまくつきあえないと、一番被害を受けるのは子どもたちなのですから。 引っ込み思案なお母さんも、愛する子どものために、ここは一発役者になりましょう。 そして、先生も本当は、それで助かるのです。本心では、お母さんとの人間対人間のおつきあいを望んでいるのです。 実際は、全然難しいことはありません。ほんのちょっとした技術の積み重ねです。∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 学校の先生、保護者を尊敬してますか?∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴ 学校の先生が読んでいらっしゃいましたら、ぜひ考えていただきたいことがあります。 上記の裏返しです。保護者を一個の人間として、深く理解するように努めてください。子どもにどう影響を与えているかという役割論、いわゆる「担当者」として見るのではなくて、まず、その人そのものを理解するようにしてください。 「教える」んじゃなく、いっぱい「教えてもらう」のです。先生は、教えてもらうのがヘタな人が多いです。子どもからも教えてもらっていますか? そのためには、言葉の言い回しより、大事なことがあります。「あの先生には、なぜか教えたくなるんだよね」という雰囲気をもたなくてはいけません。 まず、先生が偉大な「空っぽ」になるのです。子どもたちに好かれている先生なら、できるはずです。 耳を傾けていれば、必ず、わき上がる感情があります。それは保護者を尊敬する気持ちです。たとえ、教育上、問題だらけの親でも必ず、先生の及びもよらない、「すごさ」が隠れています。 逆から言えば、保護者を尊敬できていない時は、まだ、その保護者を理解していないのです。 保護者を「尊敬」して、はじめて、共通の目標が生まれます。敵対関係が、同盟軍に変わるのです。厳しい言葉ですが、これが、社会常識なんですよ。 それでこそ、先生の幅がどんどん広がって地域の人々から、尊敬され親しまれる「先生」になるのです。お客を尊敬できないサービス業は、失敗するのです。これが、一般社会の常識なのです。新入社員のイロハなのです。これまでの先生は、お客や雇い主は、教委だったかもしれません。しかし、これからの先生が生き残るためには、「私の雇い主および、お客は」「お父さん・お母さんなんだ!」ということを、至極当然の、1+1=2と同様になるまで頭と体に染みこまさせなければいけませんよ。たとえ、今の社会情勢がどうであれ、歴史の流れは止められません。これができない先生は、結局、地獄の苦しみを味わいますよ。既に十分ご存じのこと、差し出がましいこと、すみません。
2008.05.24
コメント(2)
昨日、ここに記事を書いたのですが、今回のことは特に重要なので、余計な波風で、事への対処がブレないように、一旦、消します。 皆さまのコメントありがとうございます。 でも、要約すると、namiママ先生がおっしゃってくれた(下記コメント)「子どもとのかかわり」が本当にできない教員は多くいるのです。そしてそういう「向いていない人」は育てれば「どうにかなる」と思ってる現場。(育てていない周りが悪いと...)...はっきり言ってそういう人を子どもと「良好に」かかわる資質にするのは無理です。無理ならやめさせられる?そういうシステムはありません。氷山の一角だと思います。そして、心ある人が現場に見切りをつける...こういうことが繰り返されては絶対ならないと思いますが教員は無力なんです。どうすればいいんでしょう。』 に尽きるように思います。 こういう事にこそ、外の力が働かなければならないと思います。私にとっても、これまでの活動が試される時だと思います。
2008.05.23
コメント(12)
古山明男さんのブログ「変えよう日本の学校システム」の中の子どもたちが威圧されていることに全く同感いたします。いつものsatomutaさんのご紹介です。本当にありがとうございます。以下、引用です。 教育でいちばん大事なことは、子どもが取り繕わなくて済むことだと思う。分からないことは分からないと言い、木登りして落ちても叱られないと感じていることだと思う。 普通の学校にこれが乏しい。先生たちがあたりまえと思っている学校文化は、子どもたちを威圧して成り立っていると思う。 このことの実証的なデータをとりたいが、学級内に入って観察はできないので、私が述べるのは、学校外で子どもたちと接することからの推論である。 とくに重要なのは、学校に入学しての、最初の2週間くらいである。ここが決定的な時期である。この間に、生徒への威圧が起こっていると思う。 あの「生徒一同、起立!」」というような号令体質。 教室で、なんとか座らせておこうとするための、さまざまな精神的罰、はずかしめ。 「生徒になめられないようにしよう」とする、先生たちのさまざまな工夫。一罰百戒をねらった叱責。 これらが、教育機関を成り立たせるための最低線を超えてしまっていて、子どもたちに無用の怯えや緊張をもたらしているのだと思う。 もっとも手こずる子どもたちでもおとなしくなるようにできているのだから、気の弱い子どもたちには、大きなストレスになる。 このストレスは、先生からは見つけにくい。学校では良い子にしていて、家に帰ってきたとき、親に対するぐずりやわがままになるのである。子ども本人も、その理由はわからないままやっている。親も原因がよくわからないまま、手こずるのである。 親戚、知人の子ども達が育つのをずいぶんと見たが、例外なく、小学校に行くようになると、大人の話に素直に耳を傾けなくなった。 揚げ足取りや茶々を入れるのが多くなる。話を逸らせるのが多くなる。強い刺激で振り回してもらうような遊びを好むようになる。おおむね、子どもたちが騒々しくなる。 こういうのは、恐怖があったり、威圧されてしまったときの、二次的な症状だ。荒れ、すさみの症状の一つだと思う。 この状態の中で、単に、子どもを自由にしようとか、のびのびさせようとすると、収拾のつかない状態になりやすい。学級崩壊は、自由主義型の先生のほうが起こりやすいものである。 二次的な症状が出て来たのを、"元気な子どもたち"と捉えることが多いが、それは違う。 子どもがほんとうに元気なときの特徴は、一心不乱さと、天真爛漫さのようなものだ。 安定した子どもは、事物だろうが、大人の話だろうが、注意力のすべてを傾けてその中に入り込んでくるものだ。 そのときに学びがあるし、その学びは人間全体に深く染みこんでいくものである。テストで、期待された答えを出すのとは違う、もっと深い学びである。 天真爛漫さは、いっさいの先入観がないときに現れる。それは、権威、権力による圧力が痕跡を残していないということだ。 小学校に適応できるようにするために、幼児教育が訓練的になる。 中学校に適応できるようにするために、小学校教育が抑圧的になる。 逆だと思う。 適応しなければならないのは、小学校や中学校の学校文化のほうだと思う。その文化は、当たり前の空気になっていて、先生たちが気付いていないと思う。 その背景にはまた、授業遂行が至上命令となっている官僚機構的学校がある。学校は、教育学や子どもの研究をもとにして作られたのではない。官僚機構が、国家や産業の発展のために訓練的な教育機関の法律を作り、施設を建て、人を雇用して運営させているものなのである。 以上です。昨年の「文字」は、「偽」でしたが、この偽という字、良く見ると、人の為にすると書きます。 自分の楽しみのため、自分の本当の意欲ではなく、人に良く見せるため、よく評価されるために頑張るのも偽なのだと思います。ということで、学校は、偽を作っているんだなあって、最近、教会の牧師さんから教えられたところです。 ↓教師の科学観・教育観を問う問題の後半をアップしました。↓好奇心魔法学校を のぞいてみる?
2008.05.21
コメント(3)
昔から、日本の子どもの学力問題として、計算はできるのに応用は弱いということが指摘されてきました。 これは、知的な認識能力の問題ではあり、それまでの学習方法に、欠陥があるからではあるのですが、その底に、もっと大きな問題が、足を引っ張っているように思います。 どんぐり倶楽部の問題を数人の子どもに指導しながら、私は、算数の問題よりも、もっと大きなものを育てようとしているんだ、って感じています。 森の声さんが、常々言っておられることですが、自我や心の育ちの問題です。 課題設定の力や、視野の広さ、多様な視点から考える力などは、自己への深い信頼にもとづく思考の柔軟性を必要としています。 そして、日本の子どもは、自尊感がきわめて低いということは、しばしば、これも指摘されてきたところです。 「自分は他人に劣らず価値のある人間と思うか?」という問いに対し、米国の高校生でYES!と答えたのは、89%中国の高校生でYES!と答えたのは、96%日本の高校生でYES!と答えたのは、38%というデータもあります。 もちろん、外国と日本とでは文化の違いもあるでしょう。しかしそれにしても、日本の子ども達の自己肯定感の低さは突出しています。日本の子どもが外国に比べてダメで、能力がないとは思えません。高校生だけでなく、中学生、小学生の時代から、そうなんです。 もちろん、誤解の無いように。自己肯定感というのは、「うぬぼれ」だとか、「プライドが高い」ということを指すのではありませんね。 弱点も長所もたくさんもった「ありのままの自分」「素顔の自分」をそのまま受容し、肯定できることを言います。 人の評価に過敏に反応し、人から良く見られようと変に気負うということをしないことです。いわば、「すっぴん」を、人前にさらすことができるかどうかということだと思います。 自分という存在のかけがえのなさを深く自分で肯定しているとも言えるでしょう。 これが育っていると、どういう影響があるか、というと自分の心の中で、最初に感じた感情や自分の心の深いところで感じている欲求や感情を大切にするのです。そして、それに誠実であろうとするのです。 逆に、自己肯定感が低いと、他者からよく見られたいとか、社会の期待に合わせた評価が欲しいとか「偽りの自己感情」で行動してしまうのです。 当然、自分の考えを自由に表現して、そのぶつかりあいの中で、真理を探り合うという感覚少なくとも、それに喜びを見いだすということができなくなります。 なぜなら、自分の率直な意見にためらいを持つということは、他者の異なる意見への許容力も育っていないということだからです。 自尊感は、「他人と違う自分」に誇りをもつ感情です。ということは、他人も「自分は自分」と思って良いと認める感覚なのです。 計算に強く、応用に弱いというのは、決め事に従うには、強く、自分の意見を自由に表現し、自分のアタマで試行錯誤する力に弱いことに直結していると思います。 日本の大人の議論下手も、うんざりするばかりです。商工会や町内会の会議でも、空気をよむことだけに終始しています。異論をはさむことは、組織から出ることを意味します。 まず、大人の自我が育っていないのです。 だから、我々大人が、自己に誠実に生きることこれが、学校改革、教育改革に、実は、ストレートに結びついているんだと感じるこの頃です。 ただ、昔から、日本人は、組織の外でひとりで生きていくことは精神的な面だけでなく、経済的な面でも、不可能に近かったんでしょう。だから、組織従属が染み付いてしまった。 だったら、一人でも生きていくことができる力、経済的な土台を作ることが、独立した精神、民主主義に、欠かせないんでしょうね。
2008.05.13
コメント(12)
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは軍国主義と文部省の関係をよく理解していたようです。彼は、教育の中央集権が日本人を狂信的な軍国主義者にしたと考え、そのシステムを完全に廃止しました。マッカーサーは文部省による教科書作成を廃止し、出版社が自由に教科書を出版できるようにした。また、地方の教育参加を強化し、日本の教師や学者が学問の自由を取り戻し、自由な発言と議論ができるように改善しました。しかし、戦後60年あまり、日本の教育はマッカーサーの意図とは全く正反対のものになってしまっています。半世紀以上前にマッカーサーが書いた軍国主義教育の記述は、現代の教育問題を考えるカギとなると思われます。先日ご紹介した服部雄一先生のHPから、歴史的な価値があると思われるマッカーサー回顧録の一部をご紹介します。軍国主義教育について(マッカーサー回顧録より) 日本に着いた時、私は日本の教育システムについて深く憂慮していた。日本の学校は中央集権システムで管理され、地区の教育委員会とか教育責任者などは存在していなかった。東京にある文部省がすべての科目の標準教科書を全国に配布していたが、こうした教科書は軍国主義と反米思想に満ち溢れ、すべて東京が管理していた。実際、占領軍が上陸するまで、学校、新聞社、劇場、ラジオ、映画はすべて政府の宣伝機関であり、本来の役割よりも思想統制のために存在したと言ってもよいくらいだった。 自由な国民とは思想統制が無いときにのみ存在するのである。私は直ぐに教科書が文部省の許可なしに出版できるようにした。日本の出版社は初めて、競争原理に基づき、教科書の作成と出版を自由にできるようになった。どんな文章表現も強制しなかったが、どの教科書も軍国主義と国粋主義思想を宣伝するような文章を載せてはならなかった。占領一年目にして、日本の子供たちは、数世代のうち初めて、純粋に教育を目的とした教科書で学べるようになった。私の記憶では、2億5千万以上の教科書が配布されたと思う。 しかし、検閲教科書がなくても、教師が検閲されていれば、教育は価値のないものとなる。私は日本の教師たちに完全な学問の自由を持ってほしかった。私はこれを文部省に徹底的に指導した。「自由主義思想や軍部に反対したために解雇、職務停止、追放された教師と教育官僚が職務復帰できるように直ちに宣言すること。人種、国籍、信条、政治思想、社会的地位を理由とする、学生、教師、教育官僚に対する差別は一切禁止する。学生、教師、教育官僚は政治、市民、宗教の自由を含め、全く規制のない議論をするように奨励されねばならない」と、私は彼らに直接話した。 新しい教育システムを導入後、しばらくしてから調査したが、結果は非常に満足すべきものであった。日本の子供たちは全く新しい方向に関心をもっていた。数年前まで軍国主義一色に塗りこめられた社会で、今やほとんどの子供たちが専門職や一般の職業に興味を持つようになっていた。数百人の統計のうち、陸軍や海軍の軍人になりたいと希望する子供はたった一人しかいなかった。しかし、その子供はマッカーサー将軍になるのが夢だったので、私は忠実な部下を一人得たことになる。 以上です。マッカーサーの考えは、私たちにとって「押しつけられたもの」でしょうか?
2008.05.10
コメント(4)
satomutaさんから、コメントの中で紹介いただきました下記のHP狭山心理相談室は、satomutaさんが、おっしゃる通り、数多あるサイトの中でも、もっとも、私の体験にも沿った、ストンと落ちるものです。一部、ご紹介します。(お許しを申請中)「PTSDとしての引きこもり」引きこもり患者は過去にひどいイジメや裏切りを体験し、心に深い傷を負っています。引きこもりは症状の一部にすぎず、患者は複雑なPTSD症状をもっています。PTSDの症状: (以下のようなものです。)集中力の低下、どうしても頑張れない 前向きに生きれない、過去の事件に捕らわれる 体の緊張(首、肩のこり、体の痛み、手の汗など)、体が思うように動かない 人間との絆が切れている、人の和に入れない、孤立感、引きこもる等 過去の辛い事件を連想させる人や事柄を避ける 不眠、昼夜逆転 人間不信、対人恐怖、人に注目されるのが恐い ある事件をきっかけに人格が変わる 慢性的な興奮状態が続く、感情の爆発など解離性障害としての引きこもり引きこもりには解離性の症状も見られます。解離性の症状も過度のストレスから発生します。主な症状は記憶が失くなる、怒りなどの感情を感じない、別の自分が形成されるなど。最もひどい解離性障害は複数の人格が生まれる多重人格です。解離性の症状:記憶喪失、過去の辛い事件の記憶がない 自分の感情が分からない、怒りを感じない、生きている実感がない、疲れに気づかない 自分の体から離れる、自分を外から見る 現実感を失う、現実か空想か分からない 別の人格が形成されており、幼児に退行したり、怒りの人格が突然暴れるなど、全く別人のように行動する。 感情の嵐に襲われる 自分の行動を覚えていない 「引きこもりと日本社会」80万人以上と言われる引きこもりは日本特有の現象です。外国でこれほどの人口が引きこもる例は報告されていません。なぜ日本社会で、これほど多くの引きこもりが発生するのでしょうか。心理相談室で語られる引きこもりの背後には、日本社会の特殊性が見え隠れしています。 (以下の特徴が挙げられています。)自由な自己表現を許さない学校や家庭環境が、よい子を演じる子どもを育てる。しかし、この緊張状態が子どもを消耗させて動けなくする。 多くの若者に「本当の自分を見せる」恐怖があり、人間関係に緊張を感じている。 これがやがて人を避ける傾向を生む。 親が学校との対立を避ける。教師とのトラブルが発生すると、子どもにガマンさせる。親に裏切られたと感じる子どもが引きこもりに入る。 学校が治外法権になっており、学外ならば罰せられる障害行為が認められている。 教師が生徒にケガをさせても刑法が適用されない、自殺に追い込むほどの虐待をした 生徒が罰せられない。司法制度の保護があるので学校の体罰とイジメが続く。日本の子どもたちは法の保護を受けていない。この状況に絶望する子どもと親が数多くいます。 教育委員会が体罰教師を保護する。教育制度と司法制度の保護があるので教師の体罰は減らない。 ある運動部には体罰の伝統が残っており、生徒が部活で人を殴る習慣を学ぶ。帝国陸軍の軍隊生活のような恐怖と緊張に疲れる子どもたちがいる。 加害者を守る社会的風土があり、周囲は加害者を援護し、イジメ(子どもによる虐待)や体罰の被害者がすぐに孤立する。この状況で人間への信頼を失う子どもがいる。 学校と社会が被害者を助けないし、関心も払わないケースが多い。教師などはあてにならないとは、引きこもりの人たちがよく口にする言葉です。 「言っても分からなければ叩くしかない」という暴力で服従させる伝統がある。これを背景に戸塚ヨットスクールが出現した。 ケンカ両成敗の伝統があり、加害者と被害者の区別をしない。そのために被害者にも問題があるという考えが生まれやすい。被害者の子どもは社会不信から引きこもる。 引きこもりは日本の社会の病理を象徴しています。これだけ多くの引きこもりは日本だけに発生するからです。私たちは学校と社会をもう一度見なければならないでしょう。学校の体罰とイジメが引きこもりとどのように関係するのか、なぜ学校は治外法権になっているのか、司法制度に何かの欠陥があるのかなど、そのテーマは限りなくあります。引きこもり患者はまるで戦争の避難民のようです。彼らは恐怖、涙、悲しみを心の底に抱えています。そして、誰かに自分の苦しみを理解して欲しいと願っています。 以上、長い、抜粋引用でした。子どもたちは、ベトナム戦争のPTSDと同じ状態なのです。愛する子どもたちに、こんな辛い思いをさせてしまう「教育」とは、一体何でしょうか?(つづく)(とびとびに)
2008.05.09
コメント(6)
ソーシャルニュースサイトで話題になっている、「報道されない長野聖火リレーの裏側 」ご覧になりましたか? いろいろ考えさせられる記事です。まずは、全文コピーから。以下です。長野聖火リレーの裏側を克明に記したミクシー日記を発見。こういう活動を助けられずして、何がブロガーだ、ということで紹介します。興味がある人は、直接下記のリンクから直接どうぞ(動画はそちらで見られます)。世界最低の国 日本 2008年04月27日00:39聖火リレー、行ってきました。まず皆さんにお願い。この日記を転載、リンクして頂いてかまいません。動画3つまでしか載せれないため、動画ありと書かれたものは僕のメインページの動画にあります。4/26日を振り返ります。早朝、善光寺へ向かった。Mちん、Tさん、F君、Yちゃんと5人で。町には何台もの大型バスが乗り入れ、中国人が降りてくる。僕らがそれぞれ旗を作り、プラカードを作り、前日からカラオケボックスで寝ていたのに対し、彼らは中国大使館から支給された巨大な旗と、チャーターバスで堂々登場した。善光寺参拝が終わり、街中へ。とりあえず聖火リレー出発地点へ向かった。ここで日本とは思えない景色を目にした。出発地点に、中国の旗を持った人は入場できるが、チベットの旗を持った人は入れない。警察の言い分。「危険だから」じゃあ、何で中国人はいいんだ?「......ご協力お願いします。」は?それやらせじゃん。中国国旗しかない沿道って、警察が作ってるんじゃん。その時の抗議の様子この後TBSの取材が来た。チベットサポーターの1人が、「日中記者交換協定があるから映せないのか?」とアナウンサーに聞いた。アナウンサーは「は?勝手に叫んでれば?」と吐き捨てて消えた。街中に行くとどこに行ってもFREETIBETと叫んでいる。そこに中国人が押し寄せ、罵声を浴びせてくる。交差点で中国人と僕らが入り乱れた。突然Mちゃんが顔面を殴られた。僕は殴った中国人のババアを捕まえて、目の前の警察に言った。「こいつ殴ったぞ!!」警察は何もしなかった。ババアが俺の手を噛んだ。手から血が出た。警察と目が合った。警察は何もしなかった。ババアが僕の顔面を殴ってきた。周りのチベットサポーターが、「おい、警察、現行犯だろ、捕まえろよ!!!!」と言ったのに、警察は何もしなかった。これが抗議活動中じゃなかったら、普通にブチ切れて乱闘になってる。でも非暴力を貫く為、ひたすら耐えた。Mちゃんが1日かけて一生懸命書いたプラカードを、中国人が叩き落とした。拾おうとするMちゃん。踏みつける中国人。「おい、てめー何やってんだよ!」と制止に入った。2mくらいの距離に警察がいたが、何もしなかった。街中いたるところで抗議合戦。救急車が来たり大騒ぎ。僕らはひたすら抗議活動をした。(動画あり)雨が降ってきた。それでも誰も抗議を辞めなかった。中国人がかたまってる交差点を、Tさんと旗を振りながら渡った。沿道の中国人は蹴りを入れてくる。とても沿道に入れず、車道を歩いていた。警察が来て言った。「早く沿道に入りなさい!!」は?今入ったらボコられるじゃん。なんで日本人の安全を守ってくれないの?「じゃあ、あいつらに蹴りいれるの辞めさせろよ!!」と僕は叫んだ。警察は「ご協力お願いします」と言った。雨の中、聖火リレーのゴール地点へ向かった。何故か中国人とチベットサポーターに分けられた。警察は、「後で聖火の方に誘導するから。」と言った。嘘だった。ゴールの公園の外の何も無いスペースにチベットサポーターは閉じ込められた。聖火なんか、どこにもなかった。目の前には警察が何十人も取り囲んでいた。こんな場所じゃ、声すら届かない。数百人のチベットサポーターは、泣きながら警察に向かって叫ぶだけだった。国境無き記者団もこちら側に来させられていた。代表がマスコミのインタビューに答えていた。(裏から撮影した動画あり)聖火リレーがいつ終わったのかも分からないまま、土砂降りの中僕らは叫び続けた。この声を、伝えることすら出来ないのかと思ったら涙が溢れてきた。MちゃんもF君も泣いていた。こんなのってあんまりだ。せめて伝えて欲しいだけなのに。この叫びを聞いていたのは目の前に並んだ警察だけだった。チベット人の代表が弾圧の現状を訴えた。涙が止まらなかった。内モンゴルの代表が弾圧の現状を訴えた。涙がとまらなかった。伝えたい。ただ伝えたいだけなのに、国家権力によって封殺された。悔しい。悔しい。日本は最低な国だ。平和だ、人権だと騒ぐ割には、中国の圧力に負けて平気でこういう事をする。警察を使って。帰りに携帯でニュースを見た。「聖火リレーは無事終了。沿道は大歓迎ムード。」「聖火リレーで日本人5人逮捕。中国留学生に怪我。」僕は愕然とした。この国のマスコミは終わったと感じた。あの怒号は、僕らが受けた痛みは、彼らの悲痛な叫びは、どこに反映されたのだろう。警察によって意図的に中国人のみの沿道を作り、そこをマスコミは撮影し、中国人の暴力を黙認して、日本人を逮捕する。これが日本のやることか?ここは本当に日本なのか?中国の旗を持たないと歩けない沿道って何なんだ?この国は最低な国です。チベット人は泣きながらありがとうと言っていたけれど、僕は彼らに謝りたかった。初めて日本人であることを恥じた。帰り道、僕らは泣いた。これが真実です。僕は日本政府は中国以下だと思った。弾圧にNOを言えずに、言いなりになって彼らの叫びを封殺したこの国は、もう民主主義国家ではない。4/26日長野。そこには言論の自由はなかった。歩行の自由すらなかった。中国人を除いて。追記:どなた様も、転載の許可必要ありません。報告だけしていただけると、反応が見れて嬉しいのでお願いします。動画が消えたりするるみたいですが、また報告していただけたら何度でも載せなおします。マスコミの嘘つき。大嫌い。FREE TIBET!! 以上です。 まず、すぐに思い浮かぶのは、日本という国のひ弱さでしょう。こういう国家が、学校を舞台に、教師を監督し、そして、子どもを思う方向に作ろうとしていること。 マスコミの裏を読めるようにならなくては、正しい判断はできないこと。などでしょう。 しかし、さらに突っ込んで考えてみると、怒りとは別の疑問が湧いてきます。 まず、警察への疑問です。なぜ、中国人を優先しなければならなかったのでしょうか? 多分、最初から、中国人には手を出さないという方針だったんでしょう。 だとすれば、それはなぜ? まあ、ふつうには、中国政府への気兼ねと考えられますが、もしかすると 中国人の人数があまりにも多く、しかも危険だったから?警察官に危害が及ぶ心配があったから?が実体だったりして。 事実、閉会式会場の公園では、チベット支持者も警察に保護されていると感じたそうです。柵と警官がなかったら、あの集団に袋叩きにされるかも、という恐怖を覚えたそうです。 とりあえず、警察の大規模な警備シフトは、聖火を守り、混乱を最小限に食い止めた点では、評価されてよいと思われます。これまでの国で問題視された中国側から派遣された聖火防衛隊?の動きも封じ、「警備は日本警察が行う」との最低の面目は守りました。 だから、警察サイドでできることは、せいぜいあのくらい、が、現実的だったのかもしれません。これ以上は、政治的なOKがなければ、手が出せなかったのでしょう。 でも、もし、そうだとしても、国民にああいう警備スタイルを取らざるを得なかったことについて、説明する責任があると思います。それができないところに、情けなさがあります。 また、マスコミは、実際に、どのくらい中国を怖がっているのか?という問題です。何をするかわからない中国人と中国政府を怖がって、公正なマスコミの使命が果たせない体質をもっているとすれば、このことを早く、国民が認識しておく必要があります。何か、裏で動いているんでしょうか? さらには、政府の問題です。今度の日中首脳会談への影響は当然、考えているでしょうが、どのくらい深い読みと、先手を打っているのか? 反対に、中国政府こそ、最大の謎です。こんなに中国人を動員して、騒動を起こして、本当に国の利益になると考えているのか? 統計学から言っても、一部の人間のしていることを12億人全員の性格だとは、言えません。 でも、過去の歴史からも、案外、人間は、アホらしい理由から行動を決定しています。今回も、国民が深く考えるのも、情けない理由から世の中は動いているんだったりして。 本当はどうなんでしょうね。それにしても、飼い慣らされてはいけないということをしみじみ教えられます。 職員会議の採決禁止と学校のマインドコントロール 今日の好奇心魔法学校の記事です。よかったら。
2008.05.02
コメント(4)
しまった! 寝てしまった。NHKの不登校の番組を観たかったのに。 想像ですが、番組の内容は、子どもの悩みとともに、先生たちの奮闘記でもあったのだと思います。 「教師受難の時代」だと言われています。確かにそうでしょう。 多くの中学校、高校が荒廃しています。(小学校も、もちろん、問題あるんでしょうが)イジメや、キレル姿は、あまりにも馴染んでしまっています。 こんな状況下で、悩めるマジメな先生は、あるいは神経科にかかり、あるいは、登校拒否を起こし、最悪の場合には、自ら命を絶つということさえ、引き起こしています。寅さんの身近な先生方も、本当に奮闘しています。アタマが本当に下がります。個人的には、感謝しきれない先生がいっぱいいます。 だからこそ、寅さんは考えてしまうのです。 キレたり、問題を起こすのは、その子どもが悪いことは、間違いないでしょう。そして、家庭教育に問題があることも。 暴れるのは、暴れる人間が悪いのです。それは当然です。 しかし、・・・・・・しかし、なのです。この根本原因は何なのか、ということを追求していくのが、大人の責任であり、特に、プロの教育者の使命であると思います。 原因は、ほとんどの場合、現象面にはなく、もっと深いところにあるものです。 それは、学校の在り方、そのものではないでしょうか?そして、そういう在り方を許している(いや、作っている)国なのです。 国は、社会の常識からかけ離れた、「隔離施設」を作っているのです。総合で、地域との交流を奨めているようですが、そういう言葉が出るってこと自体が、現実、交流が無いか、珍しいことの証明です。さらに、それさえも、学力重視のかけ声の中で、再び切り捨てられようとしています。 このオリの中での、マジメな先生方の、良心的な教育活動は、大きな救いではあるのですが、皮肉っぽく言えば、悲劇的な、悪循環ももたらしています。だからこそ、先生の悩みは深いのです。出口が見えないのですから。 もちろん、いい加減で、無感覚で、不勉強で、自己保身にのみ日々を費やしている先生は、コメントするのもバカらしいものです。 プロ意識に欠けた人は、悩みません。責任感の薄い先生も、悩みとは無縁です。 現状を見れば、悩まない教師などいるはずがないのに。これで、悩まない先生は、人間としても、寅さんは認めることができません。 そういう先生は、オイトイテ、 教師も生徒もダメージを受けているのは、日本の教育には、構造的な欠陥があるからです。この本当の敵に向かって、声を大にして、叫ばなくてはなりません。 まず、プロとして、教師が叫ぶべきですし、また、納税者として、子どもをもつすべての親は、権利として、国や文科省に、教育改革を要求すべきです。 その解決方法や、主張はいろいろあるでしょう。真っ向から対立する意見もあるでしょう。でも、それでいいのです。それで、真剣に議論が闘わされ、いろんな教育の在り方が、見えてくれば、必ず環境は変わってきます。 一番、情けないのは、「声をあげない」ことです。親として、納税者として、一個の人間として、恥ずかしいことです。「お上から与えられる教育」は、とっくの昔に終わっているのです。 「子どもがのびのびと育つ教育」「教師ではなく、生徒が主体の教育」を要求するのは、民主主義国家の国民として当然の権利です。 教員補助としての活動が、今日からまた始まります。新入生との新しい出会いも待っています。以上の意味でも、先生方のお手伝いをしていきたいと決意を新たにしているところです。学校の中と外を自由に出入りできる寅さんだから、できる部分もあると思うのです。
2008.04.07
コメント(5)
ハタと思ったのですが、先生は、「先生」になろうと志したとき、学校の現状に、疑問をもってなったんだろうか? 学生時代に、学校という組織や、この教育の現状、この子どもを取り巻く前提に対して、ムカツいた経験がないのではないだろうか? 考えてみれば、寅さんもそうだけど、学校という巧妙なマインドコントロールの組織の重大な犯罪性に気づいて、嫌悪した人は、教師という方向は目指さないのではないだろうか? これは、今、フト気づいたことなので、異論反論、ご意見があれば、ぜひ伺いたいところですが。 学校の様々な常識に疑問をもたないで優等生で過ごした生徒が、「先生」になり、学校を支えているとすれば、根本的な学校改革が進まないのも、当然と言えば当然の話です。 多くの先生が、文科省の批判はしますが、本来、一番発言力のあるはずの現場からの運動、盛り上がりが、どうして生まれないのかいつも疑問でしたが、上には、素直であることを、刷り込まれているんじゃ仕方がないのです。 やはり、教育改革は、学校が大嫌いな人が担わなくてはいけないのかもしれません。 <追伸> 皆さまとのコメントのやりとりで、思いが変わりました。ありがとうございます。
2008.04.06
コメント(9)
科学をはじめ、学問の発祥を考えると、古代ギリシアに思いを巡らざるをえません。 ギリシア人は、恐ろしく理屈好きでした。おそらく、当時の先進国、エジプトやバビロニアの学者が聞いたら、「ギリシアの連中は、何て、バカらしいことをやってるんだろう」ってあきれたことでしょう。 だって、たとでば、図形で、対角線が同じ角度だなんて、見ればわかることなのに、「見たところ、同じらしい」というだけでは、だめで、絶対、確かな証拠が必要だと言うんですから。 でも、このバカらしいほどの理屈好き、議論好きのお陰で、今まで、はっきりわからなかったことも、よくわかるようになり、学問の基礎が打ち立てられてきたのです。 この風土が、どうしてできたか、というのは、いろんな要素があるでしょうが、その大きな原因は、いわゆる古代「民主主義」のせいでしょう。小さな都市国家で、直接民主主義が展開されたのです。そこでは、衆愚政治であろうが、とにかく、みんなによく納得されるような、筋道の通った考え方をそれも、みんなによくわかるように説明されないと意味がありませんでした。 もちろん、民主主義が、すべてバラ色ではありません。当時のギリシア人たちも、 安心で、平和な日々を過ごせたわけではなく、かえって、日常的な緊張感に苛まれていました。さまざまな裏切り、陰謀が増えていたのです。ある意味、戦国時代だとも言えます。国同士ではなく、個人対個人の。 だから、民主主義が太古から、人気がなかったり長続きしなかったのも、もっともだと思います。人間は、ある絶対的な王様に従っていた方が、安心なのかもしれません。何たって、アタマを使わなくてすみますから。 日本では、民主主義は起きませんでしたが、社会が活性化し、経済や技術が大きく進歩した時代があります。そうです。戦国時代です。これは、すべての伝統的価値観が疑われ、才能によって、身分のかかわらず、出世する可能性が開けたときです。 いずれも、キーは、競争であり、切磋琢磨です。ここに身を置いている者は、常に緊張感を強いられますが、社会的に見れば、発展・進歩する原動力です。もちろん、個人の幸せを抜きにした、社会の発展もあり得ませんから、モノゴトは、右か左か、ではありません。バランスの問題なんでしょう。 このバランスが、大きく偏っている組織があります。それは、学校です! これを言いたいために、ここまで引っ張ってきちゃいました。私立学校の内情は、わかりませんが、少なくとも、公立学校の内部は、社会全体の常識からすると異常な無競争社会であることは、間違いありません。ここには、もちろん民主主義もありません。先生がわからないのに、生徒に民主主義を指導できるわけがありません。 無競争なところほど、どうでもいい無意味な価値判断が横行します。本当の敵に立ち向かわず、内部の足の引っ張り合いや人間関係にばかりに関心が集まります。 私は、本来、教育立国でなければならない日本が、この学校という組織のお陰で、潰されるのではないか、と思っています。 特定の個人の先生の資質を言っているのではありません。と言っておきます。 こういった状態を放置している文科省、教委も含めた組織機構全体です。どうして、こんな人事をするんだ、も含めて。 世界の中で、綱渡りをしていかなければならない日本の最重要、戦略組織である教育機構が、全くの腑抜け状態なのです。 こう言うと、すぐ、学力向上、点数アップという議論しか出てこない。これこそ、頭脳の幼稚化現象です。誰もが、自分のアタマで考えていない。その意味で、最高に「人がいい」集団も学校と言えます。日本の「文化遺産」かもしれません。 かれこれ、8年ほど、学校の内部に出入りさせていただいて、先生方から、ご恩を受けて参りましたが、やっぱり結論としては、本当に我が子が大切だったら、学校にやらずに、ホームスクーリングをするべきだ、と思います。学校に行くプラス面よりも、悪影響の方が、圧倒的にコワイです。ただ、そのホームスクーリングの方法が、わからない。 つくづく思い知ったことがありましたんで、まわりくどく書いてしまいました。ま、どの業界にいても「何でうちの業界は、こんなにアホなんだ」って思うのが常ですけどね。 ただ、こと、教育機関は、たとえば酒造業界と同じ次元では困るのです! あっ、酒業界には、本当に素晴らしい経営者がいますよ!
2008.04.04
コメント(10)
世の中には、全く無意味というものは無いのでしょうが、「ボク」にとっては、無意味ということがいっぱいありますね。これは、一人ひとり違うわけです。 そういう意味を持たないものは、関心のあるものに比べて、学習しにくいことは、当然予想がつきます。 どうして、あの子は、スラスラ理解するのに、この子の頭には入っていかないんだろう、って疑問のときには、この子にとって、これは、意味を持たないんじゃないかって、疑ってみた方がいいかもしれません。 でも、教育現場では、十分な関心や意欲を引き出さないままに、覚え込みをはじめていることが、とっても多いですよね。 ここで、無意味材料と有意味材料の学習の違いをまとめてみます。 まず、無意味材料を学習する場合には、学習材料が少なければ少ないほど、学習は容易になります。これは、当たり前のようですが、有意味材料のことを考えれば、当たり前でもないのです。有意味材料は、ある程度の量があった方が、意味の網の目が豊かになり、学習がかえって容易になるからです。 ですから、ゆとり教育の間違いもここにあります。学習を無意味材料と考えたから、教える量を少なくした方がいいと判断したのでしょう!?? 次に、無意味材料でも、何とか、有意味化してやると学習が容易になります。当然ですね。 さらに、有意味材料でも、その有意味を、さらにはっきり際だたせてやると、学習が容易になります。 で、こういうことをやると、学習する量は、その分だけ、多くなります。 しかし、結局は、そうした方が、よく学習できるわけです。 無意味なことは、机の上の学習だけではありません。総合学習の花形、体験学習でも、それが意味づけされてなければ、見れども見えず、聞けども聞こえずになってしまいます。より多く経験させればいい、というものでもないのです。 ※ おっと、中学校の生徒が予定より早く醸室に、遊びに来たようです。 緊急出動!
2008.03.31
コメント(0)
動物の「刷り込み」の発見者で1973年にノーベル生理学・医学賞を受賞したオーストリアのコンラート・ローレンツ博士は、『生命は学習なり』という本の中で、「人間というものは、第1に自分の好きな人、第2に尊敬を抱いている人からのみ、伝統を受け継げるようにプログラミングされている」と言ってます。 ということは、教師の最大の武器は、「好かれること」 「尊敬されること」じゃないでしょうか!!? なんか、マインドコントロールの臭いもしますが、これは、真正面から、マジメに考えるべきものだと思います。 好かれるには、まず、こちらから好きになることこれが基本ですよね。尊敬されるには、尊敬することです。 ところで、その意味でも、福岡県の公立中学校の荒れ方、ネットで報道されてますが、悲惨ですね。人のことは、笑えませんが、教師が生徒を怖くなったら、もうお終いです。人間、一旦、嫌いになったり、情熱を失ったら、それを変えるのは、理性では無理でしょう。総員入れ替えが妥当でしょう。その意味で、校長・教頭が休んじゃったのは、とっても正解だと思います。 地域の人の談話によると、その問題の子たちも、別な場ではとってもいい子ばかりだと。 きっと、先入観をもたない別の教師がつきあえば、きっとコロっと違った顔を見せてくれるものです。 それにしても、ここまで放置した教委の責任も大人の模範として、情けないものです。PTAも含めて、子どもたちが、好きになったり、尊敬したりする次元ではないですね。 教師も人間ですから、クラスに一人や二人は、どうしても、ムシが好かない子ができてしまうことは、あり得ることです。その時は、これを理性で押し込んでしまわないで、職員室や学校へSOSを出すべきだと思います。できれば、クラスを替えたり、せめて、別の先生の指導が入るようにしてやるのが、せめてもの良心だと思います。 それにしても、寅さんも、教師の端くれであり、PTAの役員ですから、人ごとではありません。もし、その立場だったら、どうするだろうって、考えてしまいます。相当の度量と度胸が必要ですね。もう、思い切って「バカ」になるしか手はないでしょう。まず、みんなでやること、大笑いすることかな?
2008.03.27
コメント(4)
受験勉強を経験したほとんどの人が、教育内容のほとんどの部分について「こんなことやって何になるのか」と思いながら、過酷な暗記に耐えるというようなことをやってるんじゃないでしょうか? 教師は、少なくとも、自分がしている仕事の意味を子どもたちに説明する責任があります。 何のために学習するの?と聞かれて、先生が「テストや入試に出るから」だけでは、あまりにも情けない回答ですよね。 「将来必要なことの基礎」という回答もあると思いますがでは、どういうことが、基礎なんでしょう。そこが、わかってるわけではないのです。 「思考訓練」や「忍耐力訓練」という回答もありますがそれを学習しなければ「訓練」できないのでしょうか?他のものでも可能ならば、やはりなぜ、それが選ばれたのか理由づけができなければなりません。 その知識の世の中での実際の使われ方やその知識をもてばどのようなことが可能になるのかを子どもたちに少しでもよいから知らせるということが必要でしょう。 ほとんどの先生は、学校を出て、そのまま学校に入ることが多いので、実際の知識の使われ方を見ていないことが多いし、また、その知識の実際的な有効性や威力を実感していないことが多いようです。 このことを、非難するつもりはありませんが、仕方のない、一般的な弱点は弱点として、教育関係者は、気に掛けておく方がベターだと思います。 「学校知」という言葉がありますが、実際には役に立たない、学校の中だけの閉じた特殊な知識のことですが、これに、もっと神経質になるべきだと思います。 だからと言って、とにかく、知識の実際の使われ方をその知識とセットにして教えれば、それでいい、というわけでもありませんね。 その知識が、子どもに、実際に使いこなして、役にたつくらいフィットしなければ言葉の上で、こんなふうに役に立つと言われても、納得できないでしょう。 そんな説明よりも、「このことを学んだら、こんなことができるようになった!」「こんなこともわかるようになった!」「こんな風に世界が違って見え始めた」と思えるようであれば、あえて、「何のために」と教える必要もないはずです。 でも、知識や学習を、何かへの役立ちや効果だけから、見ていいのでしょうか?確かに、実際的な役に立ち方だけを見て、考えるのは狭いでしょう。「無用の用」もあるでしょう。役に立ちそうもないものが、あとで役にたつってことが、科学の世界でも、いっぱいあります。実際に役にたつかどうかは、トンとわからないけど、思弁的に面白い、ってのはありますね。 でも、単純に面白い、ってのも、面白さという役に立っているとも言えると思います。 プラグマティズムの祖のパースは、このようなことを言っています。 「私たちの認識対象は、それ自体をいくら考えても、その意味を明かにすることはできないもんだ。」 「それが持つ、効果の中でしか捉えられない。」 「それが持つ効果が、そのものについて認識できるすべてである。」 という意味のことを有名な「プラグマティズムの格率」で言っています。これは、知識にも言えて、その知識がどのようなものかを知りたければ、それが持つ効果、役立ち方を検討してみるしかないのではないか、ということです。 プラグマティズムへの批判もあると思いますが、一面の真理には違いないと、寅さんは思います。 単純な面白さでもいいですから、これから、子どもに教えようとしていることが、どの領域で、どのように使われるのかをしっかり想定し、それが有用であると主張する以外には、知識の意義を説明する方法はないのではないでしょうか? そして、これこそが、教材解釈なのではないでしょうか? 何を教えるかだけでは、教材解釈にはなってません。静電気だったら、静電気という言葉だけであるはずはありませんから 電気のどの側面のどのような働き、さらに、どのような認識を新たにすることを 伝えるのか?そして、それで、どのように子どもに感動させるのか?これが、最低限必要な教材研究でしょう。 単純に、テストに出るから、 教える、なあんて口が裂けても言いたくないものです。
2008.03.26
コメント(6)
学習意欲の低下が、教育界の最大のテーマです。もし、これが、アメとムチのせいだったとしたら・・・・・・。どうします?日本の教育の最大の、的外れ、あっち向いてホイ、ですね。 グラックスバーグ(Glucksburg ,1962)は、機能的固着(functional fixedness)という固定観念いわゆる先入観を引き出しやすい問題を使って言い換えれば、頭を柔らかくしないと解けない問題を使って賞罰のある無しの効果を計りました。 そうすると、単純計算などの「やさしい問題」では、動機付けが高い方が、成果があったのですが、頭を使う問題では、逆に成績が悪くなることを見いだしました。 解答に至る時間も長くなるし、正解率も悪くなるのです。これは、大きな賞罰が与えられるほど、そうなります。 また、デシ(Deci,1975)という人は、ソマという組み立てパズルを使って、大学生に実験をしています。ほうびを与えられたグループとそうでないグループの行動の違いを分析したのです。 そうすると、ご褒美を貰わなかったグループの方が、もらったグループよりも、課題に対して、意欲的で、休憩時間までのめり込んでいたのです。 幼児でも同じような結果が報告されています。リッパーたち(Lepper,Green,& Nibett,1973)の実験では、ご褒美を約束して絵を描かせたグループは、一切ご褒美をもらわなかったグループに比べ、自発的に絵を描くことが少なくなるということです。 これは、途中で、予期せずにご褒美をもらっても同様に、急に、意欲が減退することがわかっています。 不思議なものです。でも、考えてみると、たとえば、あなたの大好きな趣味・道楽を思い浮かべてください。たとえば、釣り、料理、盆栽、ゲーム、何でも今まで純粋に楽しんでいたもの、それに、急に大きな意味を与えられたら・・・・・・ 大金が手に入る、就職できるまたは、逆に、入学できない、就職できない、親や先生から評価される、または怒られる、などなど・・・・・・ イヤ~ですよね。急に、楽しみが消されてしまいます。あの楽しさを返してくれ~~! です。 子どもだったら、砂遊びや、オママゴトで、「表彰状」されたら、どうでしょう?泥団子つくりコンテスト全国大会なあんて。幼児がやる気起こすと思います? 同じことを、全国の子どもたちに文科省は行っているわけです。そして、全国の親も、はっぱをかけているわけです。 確かに、簡単な単純作業なら、効果があるようです。私から言わせれば、人間的でない作業については。しかし、創造性や、高度な頭脳を使う問題つまり、面白い問題に取り組むときは、弊害の方が大きくなるようです。 やはり、学習は、学習それ自体を楽しむように指導していくのが一番です。 だって、本当の学習って、楽しいんですよ。ゲームより、よっぽど、のめり込みます。それが学問です。遊び以上の遊びです。 これには、まず、指導者である大人の先入観をぶっ壊さなければなりませんね。先生はじめ、大人は、勉強はつらいもの、忍耐が必要なもの、社会からご褒美や、罰が来る、とっても重要で、深刻なものという風に、思いこんでいるんですから。
2008.03.25
コメント(6)
どうして、多くの学校や塾では、いまだに高速計算ドリルや、書き取りドリルが横行しているんだろう? って、寅さんは、考えてしまいます。その危険性についての知識が無いから?そうでしょう。しかし、わかってても、この繰り返し練習の魔力から離れられないというのも、多いんじゃないかと思います。 じゃ、その根拠となっているのは、何なのか?と想像すると、実は、比較するのも失礼なあの、パブロフの条件反射実験が、土台になってるんじゃないでしょうか? Aという刺激のあとに、Bという結果を与え続けると、A→Bという条件反射ができるというものです。 これを私たちは、無意識に(いや意識的に?)人間の学習にも当てはめているんじゃないでしょうか? 実は、動物と人間という違いを無視しても、動物実験の中でさえ、あの理論の間違いは、とっくの昔にはっきりしてるんです。 どういうことか、と言いますと、どんなに刺激を繰り返しても、その動物の認知構造に合わないものは、回路ができない、ということです。 そりゃそうですよね。たとえば、青色のジュースを飲んだら、具合が悪くなるという刺激を与え続けるとします。でも色盲の人、(ちなみに寅さんは、赤と緑が区別がつきにくいです)には、それは意味の無いことです。 色での学習が起こりはずがありません。色じゃなくて、臭いに頼ろうとするかもしれません。 ここまで、はっきりしたものじゃなくても、その動物や個体にとって、認知構造のクセみたいなのがあります。それに、制限されたり、歪められたりするのです。 ですから、やたらめったら、刺激を与えて条件反射を作ろうというのは、的外れなのです。 じゃ、どうすればいいのか?まず、認知構造を豊かにするのが、本筋なのです。じゃ、それは、どうやって?人間は、世界に問いかけることによって、認識を深めてきました。主体的に問いかけさせるのです。 簡単に言えば、仮説です。ある体験から、赤ちゃんは、仮説を立てます。その仮説に基づき、世界に働きかけてみます。そうすると、違った反応が返ってきます。今度は、それを取り込んだ、より高度な仮説を立てます。 そんな繰り返しが、無意識の中で、繰り広げられています。 だから、体験が大切なのですが、これも、やたらめったら、体験すればいいってもんじゃないわけです。仮説を豊かにしていくのに、ちょうど良いレベルと順序というのがあります。 仮説を立てることのが、有用だという成功体験も必要ですし、適度な失敗体験と、それを克服する体験が、ほどよくアレンジしている必要があります。 もちろん、あまり現状のフィルターから、かけ離れた刺激は、認知さえされないのですから、仮説を立てようがありません。 そして、その仮説ですが、実際は、「物語」・「ストーリー」として、もつものなのです。 人間の記憶は、ストーリーの中で留まっていて、また、ストーリーの中で、活かされるのです。 よく歴史のテストで、時代の流れにそって、並べろというのがありますが、もし、単純、丸暗記しかしてなかったら、学生時代が、遠い過去になった人にとって、思い出すのは、至難の技です。しかし、歴史のストーリーで覚えている人は、それを丹念にたどっていけば、きっと答えられるはずです。 算数だって、公式は、時間の経過で忘れます。しかし、イメージ変換の物語として覚えた人は、あきらめません。自力で解けるのです。 いずれにしろ、単純な繰り返し練習は、効率が低下していきます。物語の無い、意味の無い、暗記や練習は、人間の認知構造にフィットしないのです。それを強制的にすると、恐ろしい結果が待っているのです。 ここで、きっと疑問が出ると思います。だったら、スポーツの場合はどうなんだ?千本ノックは、それなりに有効じゃないか?って。 たしかに、一見、スポーツでは、何も考えずに繰り返すことが有効だと思われるかもしれません。 寅さんは、スポーツの専門家ではありませんが、昔、バスケットをしていました。(シュートコンピューターと言われてました。)シュート練習をいっぱいしましたが、何も考えずにやっていたわけではありませんでした。一本、一本、手の感触を確かめながら、今度は、足と腰の重心に注意を払いながら、仮説を立てて、体の移動を実験していました。 強いチームの練習は、「考える練習」だとよく言われます。もし、監督の言うとおりに、ロボットのような練習ばかりしていたら、千差万別の局面で、状況判断ができるはずがありません。 じゃ、千本ノックは?あれも、推測ですが、無意識のうちに、体の使い方を一本、一本試しているんだと思います。決してストーリーが無いわけではないのです。 仮説を立てながら、人間は成長していくのですから、当然、その過程で、誤った仮説を立てる局面がでてきます。それは、当然のことです。ここで、スポーツにしろ、テストにしろ、見かけの成績は落ちます。学習時間とともに、一本調子に成績は良くなるもんじゃないのです。 低学年の子に、水に木片を浮かべた重さを問うとほとんど、水+木片の重さと答えます。しかし、いろいろ仮説を立てられる高学年になるとかえって、浮力について、考えてしまい、正解率が低くなるのです。 これは、これでいいのです。逆に、こういう紆余曲折を経ないで、つまり、仮説を立てないで、「記憶」してしまったものは、使い道がないのです。 とにかく、物語の無い、主体的な問いかけの無い学習は、人間の脳にフィットしません。そして、フィットしないものを強制的に続けさせていると、とんでもないことを、引き起こしていまいますよ~という、ほんとはコワイ○○学習でした。
2008.03.24
コメント(2)
いろんな教育論がありますが、最高の原則は、何でしょう? 私は、人間の自由を絶対的に尊重することだと思っています。自由を尊重するとは、身体的にも、知情意としても、個人の本来もっている発達プロセスの自由を保証することです。裏返して言えば、個人の発達の自由を妨害しないことです。 え?何か、自由を妨害してるんですか? そうなんです。気づかないうちに、あらゆるところに自然な発達を阻害するものがセットされています。 代表的なものに、早期教育があります。また、小学生へのパターン学習。、タイムを競わせるやり方。あれらは、一つの才能を伸ばそうとして、その周辺の可能性を10も20も、殺してしまいます。しかも、その伸ばそうとする能力も、社会に出てからは、役に立ちそうもないものです。 または、社会の都合、大人の都合に合わせて子どもに基準を押しつけています。 正しく発達させられなかった子は、取り返しのつかない不自由さを抱えることになります。それを教育の名の下に、行ってはいけません。 本当の教育者は、たとえ上司に睨まれても早急に結果を求めずその子の発達過程のリズムを守ります。 学力向上の名のもとに、子どもの健全な発達が阻害されているとしたら。学校の名誉のために子どもの思考回路の発達が阻害されているとしたら。それは、学校とは名ばかりの、家畜小屋でしかありません。 とりたてて、すごく良いことをしなくても、発達の障害だけは、作らないようにしよう、というのが教育者の良心でなければならないでしょう。 人間がもともと持っている、良く発育しようという力への最高の畏敬を、教育はもっていなければなりません。子どもへの畏敬の念を忘れた教育は、どんなにすぐれた実績を残しても邪道です。 そこには、当然、子どもを自由な存在として向き合うことが含まれます。子どもが大きくなったとき、自分が受けた教育をふり返って自分の自由が侵害されたと思うことがないように教育するのが、最高の原則だと思います。 (もちろん、医者が、病人に治療をしたからと言って、自由が侵害されたとは、本人も思いません。同様に、教育においても、健全な発達の状態に「治療」をすることは、自由を侵してはいません。)
2008.03.18
コメント(10)
本当は、みんな、知っているのです。 学校の先生も、教育委員会も、PTAも、親も、政治家も、おじいちゃんも、おばあちゃんも、大学の先生も、・・・・・・P. みんな、みんな、教育について、「なあああんにも、わからない」ことを。ただ、乏しい仮説で手探りでしていることを。 本当は、医者の手術より恐ろしいことを結果の検証もせずに、これなら、訴えられないだろう、という範囲で、つまり、「伝統」を踏襲することで自分の好きな道具を使って不安を押し隠して、毎年、毎年「手術」しているのです。人を変えるという恐ろしい手術をしているのです。 先入観を持たないで目を開けば、この病院の「医師」が不安になるのは、当然でしょう。それは、真っ当な認識です。「こんなんでいいんだろうか?!」ノイローゼにならない方が人間としておかしいと思います。 だって、心臓移植手術用に渡された道具は、ノコギリとトンカチ、そしてペンチ。これしかありません。あとは、医師の能力で、ご自由に、と任されているのです。しかし、患者は目の前に、いっぱいいるのです。子どもたち全員の心臓を文科省で制定した心臓に移植するという義務があるのです。そして、「医師」は「手術」するのが仕事なのです。 疑問に思った医師は、手術の道具の改良に取り組みます。ノコギリを電動ノコにバージョンアップします。しかし、ある医師は、患者の内部構造そのものが、まだ、全然わかっていないことに気づきます。それで、解剖図を書くことを優先しないと、と考えます。 また、ある管理者は、どんなに、トンチンカンな病院でも病院の経営の方が大事だと考えます。また、ある医師は、病院内での出世を第一に考えます。 でも、ある医師は、手術そのものに疑問を持ちます。心臓を入れ替えない方が、よっぽどいいのではないだろうか?今ある心臓を活かした方が、安全じゃないだろうか?それで、手術するフリをして、ごまかします。 しかし、本当のところは、誰にもわかりません。手術するのが良いのか、悪いのか?単なる医師の腕が悪いのか、道具が悪いのか、医学が間違っているのか。 もしかすると、子どもたちは、「患者」ではなかったら、どうなるのだろう?もし、もともと「健康体」だったら。 一つだけ言えること、誰も、子どもの将来に対して責任を持てないこと。「私の手術を受けたのだから、もう大丈夫です」、と言えないこと。(言っている人もいますが、) でもね、患者がおかしくなっても大丈夫。おかしくなる要因は、いっぱいあって、「手術のせいだ」、って医師が責任を問われることは、普通ありえないのだから。逃げ道はいっぱいあるんですから。 そして、患者と保護者たちには、医師を信頼する「常識」を復活させればいいんです。
2008.02.08
コメント(0)
人類は、太古から子どもに教育をしてきました。人間が人間となる基です。 現代も、親は、子どもを学校に「教育」を受けに行かせています。しかし、この「教育」という言葉、同じ発音をしていても、今と昔では、その意味が、ガラっと変わっていることに意識を至らせたいものです。 愛読している村井実さん(慶応大学名誉教授、教育哲学)の論文を読み直して、あらためて思い直しています。 だいたい、どうして子どもを「教育」するのでしょう?自然のままでは悪くなる子どもを矯正するため? ここからして、いろんな考えがあり得ますね。ここで仮説としてでいいですから、村井先生の主張である、もし、「子どもたちはだれも、生まれついて「善く」生きようとしている。」と考えたらどうでしょう。どんなに幼くても、やはりそれなりに「善く」生きようとしているのです。この場合、その生まれついての働きをはたから助けてやれば、子どもたちはいくらでも「善さ」を考え、「善いもの」としての知識や技術を身近な生活の中で学び、また新しく工夫することさえできる、ということになります。 教育は国家の一大事、「国家の百年の大計」など、大げさに叫ぶ人々は、国家が学ぶことを考えてやらなければ、国民はバカだから、必要なことを学ぶことができない、と考えているのではないでしょうか? 子どもたち自身が、「善さ」を自分で決定して生きることができる。もし、この仮説に立つなら、現代の教育は、疑問符だらけですね。 考えてみれば、昔は、「教え」ないでも、親がただ親であるだけで、先生がただ先生であるだけで、子どもは「教育」されるという前提がありました。子ども自身がもともと「善く」生きようとしているのですから、ひとりでに親や先生に習うもの、つまり学ぶものでもあるからです。だから、昔から、親は親らしく、先生は先生らしく、子どもたちの前でりっぱに生きて見せるものだとされてきました。 落語のテレビドラマでもあるように、もともと日本での師匠と弟子との関係は、師匠が「教える」のではなく、弟子が「真似る」もの、生き方の秘訣を「盗む」ものなどとも言われてきました。師匠と弟子との出会いと交わりの中で、おのずと「教育」が生まれることが期待されていたのです。ところが、明治の近代国家ができると、国家は自分が「善い」と思うことを、無理にも国民に教えたがるようになりました。義務教育・強制教育ということがはじまったのです。教育というしごとが、親や大人たちの手からはなれて、国家の手に移ることになったのです。今でも、教育は、何のためにあるのか?という問いに、「国家のため」と堂々と答えるエライ人がいます。でも、ある意味、正しいのです。そして、正直なのです。教育は、親や大人たちの手にあるときは、何よりまず子どもたちのためにあったと言えましょう。ですが、国家の手に移ったのでは、いやでも、まずは国家を「善く」するため、国家の繁栄のためということになったのです。 教育は、国家が定めたことがらを、子どもたちに教えることだと考えられるようになりました。国民には、教えられたことをどれだけうまく学んだかの成績と学歴が、まず関心の的となっていきました。もちろん、親は親らしく、先生は先生らしく生きて見せるなどの必要も、なくなりました。こうなれば、これはもう、ほんとうは「教育」とはいえませんね。 教育問題が紛糾してますが、いまの私たちの前には、言葉は同じでも、まるでちがった二つの「教育」があるのです。私たちの普通のイメージには、親や大人たちが昔からやってきた、親や大人たちのものとしての教育があります。人々はだれも、親であり大人であって、子どもたちを善くしようと思うことでは、昔とちがうわけはないからです。しかし、実際に人々の前にあるのは、同じ教育とは呼んでも、まるでちがうものです。子どもたちを善くしようということは同じですが、そう思う主体は国家であり、そのために学校をつくって教育をしているのも、国家だからです。この二つの教育のちがいは、どう考えればよいのでしょう?それは、子どもたちを善くしようとするときに、何が「善い」かということを、まず親や教師たちが考えるか、あるいはそれよりも以前に、まず国家が考えて、国家の利益を先だてて決めるかというちがいです。 親や教師のイメージと国家の教育のイメージは、同じだと思っていませんか?昔ながらの教育の延長に学校があると。しかし、すべての暗黙の了解を疑ってみると、国家が決めた「善さ」の枠内でしか、子どもたちにとっての「善さ」が考えられなくなっている大人たちに気がつきます。昔の親や大人たちは、子どもたちにとっての「善さ」を自由に考えることができました。また、子どもたちも、自分が何を「善い」とするかを、自分で自由に考え、自由に学び、それで自由に生きることもできました。明治維新のときの活力を思い起こしましょう。それがいまや、すべて国家が決めた「善さ」の大枠の中でしか、考えられない大人や子どもだらけになったのです。 良い悪いの価値判断は別として、同じ言葉で議論していても、全然噛み合わないことがありますね。そう言うときは、その人がその言葉を使っている背景の無数の前提条件が、(仮説が)あなたと違っている場合がほとんどです。 「教育」という言葉くらい、様々な背景をもとに語られる言葉もありません。人の言葉に、意味無く引きずられないように、自分の視点をはっきりもつ意識が、大切です。そうして、初めて、相手の考えの背景の違いを発見することができます。
2008.02.07
コメント(2)
8年前、はてなランドを開いた時、実験の余った時間に、子どもたちに宿題をすることを奨めたことがあります。学校から渡された、漢字ドリルや、計算ドリルが、ランドセルにあったからです。 ところが、ある子どもたちは、さっぱりやろうとしない。なぜ、しないのか?ドリルが嫌いなのか、聞くと「なぜ、わかっていることを、何度もしなくちゃいけないのか?」って、逆に聞くんですね。 私は、練習することの大切さ、スポーツと同じで、素振りを繰り返すことの大切さを話しました。しかし、なかなか納得してもらえません。「電卓を使えばいいじゃないか、」「ワープロを使えばいいじゃないか、」と言うんです。 その時は、嘆いただけだったのですが、今、どんぐり倶楽部さんの考え方などで、私の視野が広まった後から、考えますと彼らは、相当鋭いところを突いていたと思います。 ドリルをやる弊害自体がまずありますが、それを置いといても、子どもたちが、無味乾燥な繰り返しの努力に意義を認めなくなってきたということです。 いや、昔から、心の底では思っていたんだろうけど、「常識」が抑えていた。または、空気が怖くて、口に出せなかった。 しかし、周りの大人たちの生活を見て、連立方程式を解いたり、辞書をマメに引いて、手紙を書いているモデルが見えない。お母さんたちは、すぐ電卓やワープロを使っちゃう。僕たちのやらせられてることは、あまり意義のあることじゃないんじゃないか、って直感するんじゃないでしょうか? 一生懸命に繰り返すことの大切さを強調するだけでは、子どもを引っ張られなくなったのです。 教育の主役は、子どもです。教育内容は、大人が提案するわけですが、それを子どもが納得しなければ、やっぱり成り立たないのです。 当の子どもたちは、深い哲学的な考えはなく言ってるんだろうけど、実は、日本の教育の歴史が変わる象徴だったりして・・・・・・。 これからの教育は、子どもや親が、本音で納得しないものは成り立たなくなっていくんだ。これは、素晴らしいことじゃないでしょうか? 今までは、お上である文科省が、こういう学力が必要で、こういう学習方法をすれば良い、と下々に代わりに考えてくれていたのですが、それに異を唱えだして、自分で考え出した。 これは、すごいことです。 まだまだ、受験のための動機が、圧倒的に幅を利かせていますが、それもずいぶん崩れています。「勉強する気がない」と言えるのも、こりゃ、すごいことです。お仕着せの動機をぬぎすててはじめて、 ボクの、私の、本当の学習動機が見つかるからです。 これからの先生は、きれいごとではなく、ズバリ直球で勝負しなけりゃ、浮いてしまう運命なんでしょう。
2008.02.03
コメント(2)
「いい先生」というのは、昔から理路整然とした話ができる人と思われていますよね。理路整然とした講義は、よくわかっていいんですが、子どもたちにとって、そういう先生は、一体どうなんだろう?学校という場で、そういう話しを聞く意味って何だろう? 大人と違って、子ども達にとって、一番大切なことは、豊かな思考力を作ることです。豊かに考えると、当然、間違います。脱線します。きれいな説や知識を得るためなら、本やビデオを見ればいいわけです。先生の話より、よっぽどいい。 授業の一番の本質は「間違え方を教えること」「考えの進め方を教えること」ではないでしょうか? 自分で考えたり、自分で新しいことに取り組んだりすることを教える。新しい挑戦をすれば、必ずと言っていいほど間違えるのです。間違えないのは、新しいことに挑戦しないからです。全部当たるなんて、最初から知っていたんです。 子ども時代のお宝は、知識じゃないんです。これを誇りにされたんじゃ、かないません。自信をもたれても困ります。そうじゃなくて、いろいろ考えられる力こそが社会で生き抜く自信なんです。 学生の前で、平気で間違えられる先生というのは、本当の実力をもった先生です。学校の先生は、間違えないからダメだとも言えます。子どもたちに間違える模範を見せていない。 日本で、間違え方を一番知らないのが、教育関係者だと言えるでしょう。 教育者というのは、間違いをしないように、しないようにと努力してるのですから。今まで、「私が間違ってました」、と正々堂々と認めた教育関係者がいるでしょうか?真剣に試行錯誤すれば、間違うのです。間違わないということは、誰も真剣じゃないということです。 これは、最悪のモデルでしょう。子どもの鏡としても。 ここのところが、根本的にズレています。だから、寅さんは、学校がキライでした。(と、今さらながら、理由を考えています)寅さんは成績は良かったんですが、マイペースで勉強することに、かろうじて誇りを見いだしていました。高校の後半は、授業をサボる「努力」を真剣にしてました。私にとって、本当に役に立たなかったからです。友達づきあいは、楽しかったですよ。(脱線はここまで) ノーベル賞候補だった物理学者の長岡半太郎の授業はすごかったようです。ザーっと黒板にいろんな計算をしていきます。最後に・・・・・・「これは、間違いである。次にやりなおす」これで1時間終わりなんです。 生徒は 「へぇ~、あのエライ先生でも、間違えるんだ。」そして、「間違えたっていいんだ。」「間違えたって、やり直せばいいんだ。」「こういうふうに、試行錯誤して、正しいことを見つけるんだ。」っていうことを学んでいったそうです。 こういう授業こそ、真剣なものじゃないでしょうか?あとから、間違いを指摘しやすいように、研究をしていくこと。そうすれば、研究が蓄積していくのです。これが、研究者としての最低限のマナーです。禅問答のようなきれい事を並べて、どこから突かれても痛くないようにしておく。これが、教育界のマナーになっています。これが、体を張って、子どもたちのことを考える大人の姿勢だろうか? 人や社会の批判をしても始まりません。じゃ、お前はどうするのか?ということですね。
2008.02.01
コメント(2)
詰め込み教育は、ほとんどの人が、良くないと思っています。大人も子どもも。 なのに、なぜ、この手の教育が今も幅を利かせているのでしょう? それは、詰め込みの方が、大人が楽だからです。プリント学習はもちろんのこと。先生が知っていることを、いっぱい話しているときでさえ、大人の脳みそは、怠慢状態なのです。 なぜ、そう言えるのか?自分の貴重な知識や、経験を話してやることは、とっても素晴らしいことじゃないでしょうか? 実は、このとき、話す方の脳みそは、快楽状態なのです。気持ちいいんです。このブログだって、そうですよね。一方的に書くことは、気持ちいいんです。これで、教育という仕事をした気になってしまう。ここに落とし穴があります。 反対にコミュニケーションを主体にした教育をすると大人の頭は、激しく揺れ動かされます。自分の進みたい方向をねじ曲げられます。苦労が絶えません。常に、洞察力が必要です。サッカーで、いつでもキラーパスが出せるように流れの予測をいつもしていなければなりません。どちらが脳みそを使っているでしょう。 そう、圧倒的に、コミュニケーションによる教育です。コミュニケーションは、まず、大人の脳を活性化するんです。 詰め込みは、大人の土俵で相撲をとらせているのです。しかし、効果的な教育は、子どもの土俵で、相撲をとることです。子ども自身の世界に入り込まなくては。子ども自身が気づいていく、子どもの自己啓発になりません。 人間の脳は、押しつけが大嫌いです。そして、押しつけられることに慣れると、恐ろしいことに、能動的な行動ができなくなります。受け身の人生になってしまうのです。教育とは、何て非人間的なんでしょう。
2008.01.31
コメント(2)
昨日の、「授業の実力論」の補足ですが、技術の向上が、そのまま、うまく当てはまらない子どもたちがいます。教室の中の障碍児、グレーゾーンと呼ばれる子どもたちです。 ADHDやLDと言われる軽度発達障碍の子どもたちを授業に引き込み、指導をするには、別のコツがあり、原理原則があります。 そのポイントを押さえずに、自分の学級経営が悪いんだろうとか、何て、自分は未熟な教師なんだろう、なんて、悩んでも仕方がないことです。つまり、その分野の勉強をすることです。 でも、やっぱり、同じなのは、先生が尊敬と信頼を取り戻さなければならないということです。これが、何と言っても、一番最初にしなければならないことです。そして、これは、生徒が、自然にもっているものではないのです。特に、ハンデをもっている子は、すでに何度も、ちょっとしたことで、すぐ叱られるっていう経験を積んでいます。だから、「先生」というものを、最初から信頼なんかしていません。 どう思っているかというと、「新しい先生は、おれをどう扱うかな?」「今度の先生はどうかな?」って試すんです。先生を。 先生をこんな風に、からかったら、先生はどうするかな?どのくらいやったら怒り出すかな、って試すんです。いわば、疑心暗鬼なんです。そういう子どもの信頼と尊敬を取り戻さなければ、すべてが始まらないのです。 ところで、すごい風雪。お陰で、PTAの会合は延期、ホールの準備作業も延期。これは寅さんにとって、大変ラッキーなことで、明日の実験の準備ができます。何せ、明日は、5つの実験教室をし続けなければいけないんで、これは、さすがに、初めての経験です。神様に感謝です。 それと、河北新報に、気仙沼での記事が載りました。結構大きかった。感謝。学校でプリントされ、子ども達に、ヨイショ、ヨイショされました。これも、すべてご協力いただいたお陰です。ありがとうございます。
2008.01.24
コメント(0)
クラスをまとめられず悩んでいるベテラン教師が増えています。小学校・中学校問わずです。自信を失い辞めたいと思っている人も多いようです。これまでの指導方法が通用しない。専門家は『発達加速化現象』=子供たちの思春期の訪れが低年齢化したことも原因にあげています。社会的なルールを理解する前に自立心が強くなり、自我が一人歩きしてしまうという。 教師に、情熱や使命感が無くなったわけじゃない。金八先生流の情熱だけではダメだ、ということだと思います。もちろん、生徒と仲良くなるだけでもダメ。誤解を恐れず言えば、教師が認めてもらうには、結局「授業で圧倒するしかない!」 のだ。 生徒が一目も二目も置かない、ただの教師という肩書きに きれいごとの話しを聞かされても、今の子どもは、タルいのです。 子どもたちを導きたければ、「実力を見せつけてやるしかない!」説得力と感動のある授業をして、目を開かせるんです。子ども達は、圧倒的に賢いもの、強いものが大好きだから。 どんなに小手先で、楽しいことをしても、一瞬は受けますが授業が下手ならすぐにバカにされます。そんな教師がいくら情熱的に人生論を語ろうと、残念ながら、誰も話しを聴きません。 そうじゃなくて、授業の実績を積み重ねて後なら、きれいな人生論もストンと受け取ってもらえます。だから、教師は授業技術を磨くことこそが何より大切なのだと思う。 そもそも学校は、きれいごとの世界です。しかし、残念ながら、子どもだけでなく、大人の世界もクールです。大学出の保護者から尊敬を集める先生からならともかく、普通の先生が、大義名分や熱意でPTAを動かすのは、相当困難です。 でも、考えてみれば、これは当たり前のことかもしれない。金銭関係もなく、昔のように、「お上」意識が無い場合、人が人を動かすには、尊敬を集めて、信頼感を勝ち取る以外本来、道はないはずだ。 子どもが、愛とか友情とか、根性に無関心なわけではない。マンガやドラマには、心から感動している。 子どもは明らかに変わってきている。しかし、これは、健全な変化かもしれないのだ。 寅さんも、クラスをまとめ切れなくて、悔し涙を流したことは、何度もあります。その都度、過去の栄光を捨てて、もう一度、ゼロから要素を洗い出し、組み立て直すことが必要だと思い知らされました。 とにかく、「生徒指導」だけでは、やっていけないことに学校関係者は目覚めて欲しいと思います。 そして、一人の教師任せにしないことです。一人じゃ無理ですって。複数の目で子どもの情報交換をする。その時間を増やす。そして、何より授業技術を貪欲なまでに高める。1時間でいいから、「必殺授業」を完成させる。 結局、学校管理者の業務の配分や協力体制作りがポイントなのだろう。現場の教師以上に、管理職の力量が問われる時代なのだと思われます。
2008.01.23
コメント(6)
昨日寅さんは、正に、学校の新しい動きの最前線に参加させてもらってました。 一つは、宮城県鹿島台商業高等学校の起業家教育学習成果発表会です。寅さんは、なぜか、同校で創った「大崎起業家マインド育成協議会」の役員になってます。お役に立っているかどうかは、不明ですが、私の役には、とっても立っています。(へへへへ) 私は、もともと、起業家教育が重要な切り口だと思い、東北経済産業局さんにも、アドバイスをいただいておりました。 今回は、宮城県教育庁の「個性かがやく高校づくり推進事業」の一環です。 生徒諸君と先生方の奮闘ぶりが、ヒシヒシ伝わってきました。改善点はいっぱいあるのですが、とても良いスタートラインに立ったというところです。 もう一つは、涌谷町立箟岳小学校の地域とのつながりのプログラムの数々です。もともと県教委のコラボスクールを受けて活動しているのですが、その枠にとらわれず、全くぜいたくに、ありとあらゆる人材をしゃぶっているという感じです。 各学年20人にも満たない田舎の小さな学校です。それが、ちょっと意識を変えると、都会の学校の及びもつかない、豊かな教育環境を作れるという生きた証になっています。 寅さんも、クラブ活動のほかに、今度授業としてお手伝いをすることになりそうです。 この世は、常識は大きな壁です。しかし、その壁が、魔法のように消えてしまうのも、「常識」なのです。 だから、この世は、非常識と魔法に満ちています。 寅さんの世界も、まだまだ、ほんとに小さいです。私の認識の世界なんて、井の中の蛙どころか顕微鏡の中のバクテリアです。日々、壁を破っていこうと思います。 ただ、壁は破るもんじゃないんだよなって、最近思います。壁は、消すんです。意識から消すんですね。意識すればするほど、壁は厚みをましますから。だから大いなるバカ・アホが必要なんだと思います。
2008.01.12
コメント(2)
現状の学校をとりまく環境では、限界があります。でも、未来の学校(近い未来の)は、絶対おもしろくなってると思いませんか? でなけりゃ、日本は沈没してますもん。現実に、様々なところから、改革がはじまっています。世の変化には、作用反作用はつきものです。 明治維新のときにも、時代が逆走していたときが、何度もありました。しかし、日本がこのままでは、立ちゆかなくなるという現実の前には、流れは決していたのです。 教育も流れは決しています。川でも、部分的に逆流したり、渦を巻いているところがあります。しかし、本流の方向を間違わなければ、必ず海へ向かうのです。 学校が、外部の様々な人々支援を受け入れ、教師が、現状の雑務から解放され、授業研究とコーディネーターに専念できることは間違いありません。 そして、学校が、今より、数倍おもしろくなっていることも間違いありません。 子どもたちが、目を輝かせて学校に来ている様子見えてきませんか? それにつながっていると思うと、今の仕事も、とってもやりがいのあるものに、なってきます。
2008.01.11
コメント(2)
2日に、寅さんが卒業した中学校の同期会が開かれました。とっても楽しい1日だったのですが、風邪気味だったのをこじらせてしまって、ブログも珍しくお正月休みをしてしまいました。 寅さんの中学校は、全国でも有数のマンモス校。1学年10クラスあり、400人近くいるんです。今回は、半年前の発起のわりに、120人以上集まりました。2次会も、想像以上の100名を越える参加で、とても、うれしいことでした。担任も、6人の先生に来ていただきました。ありがとうございます。生徒会長だったこともあって、寅さんの名前でみんなに案内状が差し出されたのですが、実際に動いたのは、各クラスの幹事の方々です。彼らのすごい努力に乗っかって、私が挨拶するのは、とても申し訳なかったです。 それにしても、同級会は、社会の縮図です。公立中学だからこそ、いろんな立場の人と会えます。これは、特定の高校・大学の同窓会とは違ったとっても、貴重な学習の場なんだよなあ、ってつくづく思います。今の子どもたちにとっても、いろんなトラブルはあるだろうけど、それもある意味、大切なお宝だといえるでしょう。 顔を合わせて、話をするだけで、彼、彼女の歩んできた道が走馬燈のように、想像しちゃいます。(勝手にですが)へえええ。へえええ。の連続。 学生時代、目立たなかったのに、目を見開くばかりにキレイになってた人。逆に、どうしたんだろう?と心配になる人。(俺が幸せにしなければいけなかったかなあ。と妄想の世界) この歳になると、いくら化粧をしても、外面でなくて、内側の人生を想像してしまうものです。 やはり、あこがれの人には、いつまでも美しくあって欲しいものです。世の同級生のためにも、頑張って、磨きをかけてください! ところで、みんなから、「すっかり生徒会長にもどっている」って言われてしまいました。自分でも笑っちゃうんですが、なぜか、「会長の立場」にすっと戻っているんですねえ。でも、「地域への責任を背負って、選挙に出ろ」という言葉には、うれしいというより、少し、落ち込みました。 寅さんは、一人の子の世界を明るくすることは、全世界を明るくすることと同じ価値をもつと思ってます。 みんなには、今の仕事が、変則的な、道楽に見えるのは、・・・・・・仕方がないんだろうねえ。政治より、遊びの方が大切だなんて、わかりっこないよね。 同じ時間、女房も別の同窓会に出席。モテモテだったそうです。ふうううん。
2008.01.04
コメント(4)
感動するための学校、ワクワクするための学校は、残念ながら、今の常識的な学校の姿ではないですよね。 普通の学校のイメージを例えるなら、毎日のごはんのようです。(ごはんさん、感謝してますよ。)決まり決まった「日課」としての学校です。この世界で考えると、良い学校の基準は、ローコスト安定でしょう。(金銭だけじゃなく、時間や労力や、気配りまでを含みます。)そのうち、わざわざ学校まで足を運ばなくてもよいインターネット学校にとって代わられる運命かも。すでに、学校側としても手間のかかるPTAを廃止する動きも。 次に常識的な学校の姿は、特定の利益を、どのくらいもたらしてくれるか、を競う学校です。進学一辺倒の学校がその典型です。損得が先にあって、その期待値に沿うかどうかで判断されます。スポーツ専門校もそうでしょう。教職員もその基準で評価されます。こちらは、いくらかは、満足感はあるでしょう。入学時には、ワクワクもあるでしょう。 それに対して、感動系の学校は、「そうとは気づかなかった、必要性や願望、そして、楽しみを発見させてくれる驚き」の世界です。 あきらかに基準が違います。発見への期待感だけで、惹きつけるのです。 で、寅さんは、学校経営上の観点からも、感動系の学校を創ることをお奨めします。従来の学校は、厳しい競争の渦に巻き込まれます。(もう、すでに)コスト競争に直面します。(もう、すでに)それに対して、感動系の学校は、確実に「信者」を増やしていけると思います。学校経営者さん、考え直してみませんか?
2007.12.28
コメント(6)
どんぐり倶楽部さんの影響で、学問や勉強するってことについて、ちょっとは深い視点をもてるようになってきたと喜んでいる寅さんです。 特に、特別支援教室で、子どもたちに算数の絵を描かせてみると人間の認識というものについて、考えさせられることが格段に多くなりました。 まさに、研究の宝庫です。学問は、ある意味、モノゴトへのレッテル貼りです。数字に置き換えるにしろ、名前に置き換えるにしろ。でも、それは、「実体」ではないわけです。 どうしても、数字に置き換えられない子がいます。でも、それはそれで、正しいことだと思います。このエンピツと、あのエンピツは、全然違うものなんですから。 逆に、抽象化し、数字に置き換えてしまうことによって、見落としてしまうことの方が、コワイものがあります。 先日書いた、「質量保存の法則」の問題にしたって、砂糖が溶けた水を、原子の粒々でイメージすることだけが、立派なことでは、全然ないわけです。 たしかに、透明になって、見えなくなっています。色の問題もあります。また、砂糖が水に溶けている状態と、塩が水に溶けている状態では、イオンの観点からは、違うものです。 さらに、もっと極微の世界を考えると、また違った世界が開けるわけだし、相対論の世界でも違ったものだ。 だいたい、質量というのも、いろんな説明の仕方や概念がある。さらに、さらに、厳密に言うと、質量欠損も原子核の結合エネルギーにより生じているので、「質量保存の法則」は成立しない。 ともかく、いろんな意味で、モノに質量のレッテルを貼るのは、極々、限られた場面でだけ有効なのです。芸術的な見方の方が、有効な場合が多いのが、人間生活というものです。 リンゴとイチゴを同じ「数」に置き換えてしまっていいのか?それに人間も混ぜていいのか? 私たちの勉強は、「モノゴトを区別したり、レッテルを貼ったり」することです。しかし、お釈迦様の言う「智慧」は違うようです。「無分別智」こそ、仏教で言う「智慧」のようです。 モノゴトは、すべて「空」なのですから、分別できないはずなのに、人間は自分勝手な物差しで差別しているわけです。 もちろん、分別をしないで、私たちは生きていけません。しかし、一つの分別にこだわってしまうのが、浅はかなところです。特定の分別にこだわらず、いろんな尺度をもてること、さらに、自分の内部世界を自分で破っていけること。 これが、学問であり、その楽しみであるのでしょう。いろんな気づき、ありがとうございます。
2007.12.23
コメント(2)
全79件 (79件中 1-50件目)