「いい先生」というのは、昔から
理路整然とした話ができる人と思われていますよね。
理路整然とした講義は、よくわかっていいんですが、
子どもたちにとって、そういう先生は、
一体どうなんだろう?
学校という場で、そういう話しを聞く意味って何だろう?
大人と違って、子ども達にとって、一番大切なことは、
豊かな思考力を作ることです。
豊かに考えると、当然、間違います。
脱線します。
きれいな説や知識を得るためなら、
本やビデオを見ればいいわけです。
先生の話より、よっぽどいい。
授業の一番の本質は
「間違え方を教えること」
「考えの進め方を教えること」
ではないでしょうか?
自分で考えたり、自分で新しいことに取り組んだりすることを
教える。
新しい挑戦をすれば、必ずと言っていいほど間違えるのです。
間違えないのは、新しいことに挑戦しないからです。
全部当たるなんて、最初から知っていたんです。
子ども時代のお宝は、知識じゃないんです。
これを誇りにされたんじゃ、かないません。
自信をもたれても困ります。
そうじゃなくて、いろいろ考えられる力こそが
社会で生き抜く自信なんです。
学生の前で、平気で間違えられる先生というのは、
本当の実力をもった先生です。
学校の先生は、間違えないからダメだとも言えます。
子どもたちに間違える模範を見せていない。
日本で、間違え方を一番知らないのが、教育関係者だと言えるでしょう。
教育者というのは、間違いをしないように、しないようにと努力してるのですから。
今まで、「私が間違ってました」、と正々堂々と認めた教育関係者がいるでしょうか?
真剣に試行錯誤すれば、間違うのです。
間違わないということは、誰も真剣じゃないということです。
これは、最悪のモデルでしょう。
子どもの鏡としても。
ここのところが、根本的にズレています。
だから、寅さんは、学校がキライでした。
(と、今さらながら、理由を考えています)
寅さんは成績は良かったんですが、
マイペースで勉強することに、かろうじて誇りを見いだしていました。
高校の後半は、授業をサボる「努力」を真剣にしてました。
私にとって、本当に役に立たなかったからです。
友達づきあいは、楽しかったですよ。
(脱線はここまで)
ノーベル賞候補だった物理学者の長岡半太郎の授業はすごかったようです。
ザーっと黒板にいろんな計算をしていきます。
最後に・・・・・・
「これは、間違いである。次にやりなおす」
これで1時間終わりなんです。
生徒は 「へぇ~、あのエライ先生でも、間違えるんだ。」
そして、「間違えたっていいんだ。」
「間違えたって、やり直せばいいんだ。」
「こういうふうに、試行錯誤して、正しいことを見つけるんだ。」
っていうことを学んでいったそうです。
こういう授業こそ、真剣なものじゃないでしょうか?
あとから、間違いを指摘しやすいように、研究をしていくこと。
そうすれば、研究が蓄積していくのです。
これが、研究者としての最低限のマナーです。
禅問答のようなきれい事を並べて、どこから突かれても痛くないようにしておく。
これが、教育界のマナーになっています。
これが、体を張って、子どもたちのことを考える大人の姿勢だろうか?
人や社会の批判をしても始まりません。
じゃ、お前はどうするのか?ということですね。
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